たまには雑記、時間とか
こんばんわ、冬生真礼です。
ーー過去ログからの抜粋になります。
私、実は時間逆行ものの小説や映画が大の苦手なのです。
何故かと言うと、絶対に物語に決して消せない矛盾が生じてしまうからです。
また、時間逆行の理論的説明として「世界はパラパラ漫画の~」などといった説明がなれていると、もう頭を抱えてしまいます。
この物語の作者は、宇宙のどこかに、過去のある一時が物理的に存在しているとでも思っているのだろうかと悩んでしまいます。
過去のある一時が物理的に宇宙のどこかに存在しているならば、その一時は無限に連続する時間のどの一瞬をどの程度の長さで切り取ってあるのか。
仮に、0.00001secとして、それが時間の最小単位になるのか、それ以下はないのかなどと考えてしまいます。
このような事を考えてしまうので、一般にアインシュタインの相対性理論では時間の逆行が理論上可能であるといった事が言われていると、そもそも現代物理学は時間というものをどう捉えているかと不思議に思っていました。
そういった思索を得て、時間に関する議論は古来からいろいろあると思いますが、私はある結論を得ました。
それは、時間はベクトルで表すような「向き」のあるものではなく、完全な「相対的な変化量」で計測されるものだというモノです。
私が過去に時間についての思索をした時に、まとめた文章をコピペして載せます。
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時間についての考察
「時間がない、時間がない。あ~、いそがしい」
「うわ~、もう2時!? 時間経つの早いよ~」
「失敗したー。 7時前に戻れたらやり直せるのに~」
人間は明らかに時間というものを認識している。
当たり前の様に、時間というモノがある前提で生きている。
しかし。
時間というモノの正体を知っている人間はどれだけいるのだろうか。
時を巻き戻すとか、過去に戻るのは理論的に可能とか、時間は過去から未来に流れるとか。
時間というモノを誤解していなければ出てこない様な言葉のオンパレードである。
そこで、ここでは筆者が時間について考察した結果得られた事を説明したいと思う。
「時間を測る」
まず、一番初めに説明しなければならないのは、時間の測り方である。
通常、私たちが時間を測る時には時計を使う。
秒針が6度傾けば1秒。分針が180度傾けば30分。時針が30度傾けば1時間が経過したと判断するだろう。
デジタル時計ならもっと解りやすいだろう。
だが、ここで問題がある。
時計が使えなかったら、どう測ればいいのだろう。
あるいは、何もない真っ暗な部屋に閉じ込められていたら、時の経過をどう判断すればいいのだろう。
なんの道具もない、なにも見えない状況で何を基準に1分あるいは1時間を測ればいい。
よくよく考えると、このような状況でも、「1、2、3、4・・・」と口で数えれば精確ではないが時間を測れるだろう。
ではもっと突っ込んで考えよう。
もし、口が聞けない様に、さる轡を噛まされていたらどうだろう。
口がきけないなら頭のなかで数えればいいのだろうか。
では、寝ていたらどうだろうか。
思考ができないほどぐっすり寝ている人間が時間を測るにはどうしたら良いだろうか。
ここまで考えたら分かっただろうか。
つまり、時間を測るには何か基準になるモノが必要だということ。
そして、その基準になるものはずっと動いていなければならない。
たとえぐっすり寝ていたとしても、翌朝起きて時計が7時を指していたら大体7時間ぐらい寝ていたと解るように。
だが、もしその時計が自分が知らない間に、いつもより早く動いていたら・・・。
「時間の矛盾」
前章で説明したように、時間の計測には一定速度で動き続ける基準となるモノが必要である。
ここで問題。
「一定速度」というのはどのように定義されるのか。
答え。
そのモノが「ある時間」に「どの程度」動いたかどうか計測して定義する。
ここで、時間を測るための基準を求める時点で、時間が計測可能である必要があるという矛盾が産まれるのだ。
「変化量」
ここで視点を変えてみる。
人間はどうやって時間の経過を認識するかという視点。
単純に、時計や基準となるモノがどれだけ動いたか。
つまり、どれだけの変化があったのかで時間の経過を認識する、
端的に表してしまえば、人間は時間の経過を変化量で認識するのだ。
人間にとっての時間は変化量として表現できる。
さらに、原子時計やこの世のあらゆる時間の測定装置はこの変化量を計測することによって機能しているのだ。
しかし、ここで一つの問題が出てくる。
人間が時間の経過をある対象の変化量で測るというのに、その人間自体も常に変化量が一定ではない事だ。
人間も心拍や呼吸によって意識や身体の状態が変化する。
人間の視点で言うと、時間の経過というのは基準となるモノの変化量とそれを解釈判断するモノの変化量というバランスの上に計測される事になってしまう。
そして、それは時計などの機械も同じである。
シンプルに説明すると、時間の経過は基準となる二つのモノの相対的な変化量でのみ計測される、ということだ。
「時間の正体」
哲学の時間です。
宇宙が産まれる前、時間というものはあったでしょうか。
宇宙が生まれる前は、物質がありません。
さらに言えば、物質が運動することで得られる変化量がありません。
さらにさらに言えば、時間の経過を認識する人間も存在しません。
果たして時間って、存在するのだろうか。
結論から言ってしまえば、筆者は時間と言うものが独立して存在する絶対的なモノとは考えていません。
人間の認識の中にしか存在しないモノだと思っています。
言ってしまえば、現実世界の物理的な情報である物体の変化量を、相対的な尺度で観測した結果産まれるモノ。
それが時間だと考えています。
「補記」
時間の経過とは変化する事なので、過去に逆行するという概念は間違った時間の解釈によって得られた空想です。
たとえば、1時間まえに壊した高級な壺をもとに戻すために時間を巻き戻すという表現が創作物の中でよく見られます。
しかし、元に戻るという現象は、物理的なベクトルが逆方向を向いていますが、変化量が計測できます。
つまり、これは時間の逆行ではなく時間の経過です。
また、時空のトンネルを抜けると20年前の日本に辿りついたという表現がありますが、時間が経過するという現象は、宇宙の物理状態が変遷するということです。
なので、過去のある状態がどこかに保存されているとか、4次元時空の中では世界とはパラパラマンガの様なモノである、とかはありえません。
そして、この変化量という考え方は筆者の思索の中では頻繁に出てくる重要な概念です。
今後、色々なところでこの言葉が登場すると思います。
それでは、さようなら。
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どうでしょうか、1年以上前にかいた文章なので色々と拙いですが私がの思索の過程をご理解いただけたと思います。
私はこのような思索の結果、「過去は記憶」でしかなく、「未来は想像」でしかないと思っています。
宇宙には「今、ここ」しかなく、全ては「一つしかない物理的な宇宙の状態のが変化しているだけ」でしかないという考えに至ったのです。
今回の記事は以上になります。
時間や空間といった哲学的な話は、一見難しそうですが、深く考えだすと延々と考え続けてしまうような面白さがあります。
いずれは、空間などの話もしたいと思っています。
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