2024年10月20日日曜日

スピリチュアルで言う「周波数が高い」の誤解。

 スピリチュアルで言う「周波数が高い」の誤解。

こんにちわ、冬生真礼です。

ーー今回の記事は過去ログからの改稿です。

今回の記事は、スピリチュアルの世界でよくいわれる「周波数」や「波動」に関して物理学と哲学的な視点から色々と書いていきたいと思います。

(注意。哲学的な考察からの知見です。筆者は物理学などはど素人です。鵜呑みにしないこと)


まず、物体の振動数としての周波数と見かけの運動の話から始めます。


全ての物体は物体固有の振動数というものがあります。

一般的に物理学では、固有の振動数が高い状態をエネルギーが高い状態として定義しています。

単純な理解の仕方として次の比喩があります。

野球のボールがただある状態と、ボールが小刻みに振動している(ぶれている。動いている)状態を比べたら、後者の方が運動エネルギーが多い(より運動している。より動いている)事がわかると思います。

上記の比喩でいう野球のボールの振動が物体の振動数、そのボールの振動から観測できる運動量をエネルギーと捉えてください。

実際の宇宙に存在するエネルギーというものは極論すると、運動エネルギーに還元できます。

熱エネルギー、電気エネルギーもしかりです。

それで、物体の固有の振動数がより高い(より小刻みに、素早く振動している)状態はエネルギーが高い状態です。

エネルギー高い状態ということは、エネルギーに関する法則であるエネルギー保存の法則が適用されます。

つまり、よりエネルギーの高い状態(周波数が高い)状態にするためにはどこからかエネルギーを持ってこなければいけないということです。

そこで利用されるているのが、物体の振動数(いわゆる周波数)と見かけの運動に使えるエネルギー(運動エネルギー。単純に速度の話)は互いに変換が可能という法則なのです。

一般に、速度(見かけの運動)が早い物体は、その物体の固有の振動数のエネルギーを見かけの運動に変換しています。

これは極論すれば、宇宙全体の保有するエネルギー量が決まっているということです。

元々の宇宙は、純粋にフラットな存在です。

つまり、偏りがない。歪みがない。全てが均一。

歪みがないから、反発がない。反発がないから、質量もない。

質量がないから、運動もない。運動がないから、エネルギーもない。

みたいな感じの存在です。

その状態から、偏りがある。歪みがある。偏差がある。

反発がある。質量がある。運動がある。エネルギーがある。

という状態に移行するために、色々と法則が生まれました。

その1つに、「最終的に全てを総合すると、元々のフラットな状態と等価でなければいけない」という物があります。

それが、エネルギー保存の法則の大元だと思われます

もっと言えば、物体が保有するエネルギーの量は決まっているという話にもなります。

つまり、物体の固有の振動数が高い状態は、見かけの運動につかうエネルギーを変換して実現しているのです。

ちなみに、この物体の固有の振動数が高い状態は、その物体の時間の流れが早いと表現でき、反対に物体の固有の振動数が低い状態は、その物体の時間の流れが遅いと表現できます。

いわゆる、相対性理論で語られる光速で移動する物体は時間が遅くなるという話は上記の理解だと古典物理学となんの矛盾のない理解ができます。

理解してもらいたいのは、物体の保有できるエネルギーの量が決まっていて、物体の固有の振動数が高くすると見かけの運動に使えるエネルギーが低くなるという点です。

周波数(振動数)のエネルギーと見かけの運動のエネルギーは相互に変換されるのです。




では、物体の周波数(振動数)と見かけの運動の関係を理解したら、スピリチュアルで言われる周波数の誤解を解いていきましょう。


まず、スピリチュアルでは高次の次元や存在ほど周波数が高いと表現します。

ハッキリ述べます。

上記の表現は、物理学でいう周波数の定義と矛盾します。

そもそも、魂や高次の存在とスピリチュアルで言われる存在は、物理的な特性が薄い、宇宙の根の方に近い存在です。

宇宙の元々は、存在質とも言うべきただ在るという状態のモノです。

本来的に、存在質は物質ではありませんから、固有の振動数も見かけの運動も存在しません。

魂や高次の存在というのは、物理的な観点から見たらエネルギーが低い状態に近くなければなならないのです。

実際は固有の振動数も見かけの運動のエネルギーの両方が低いという状態にはなりません。

宇宙に空間というものが存在している以上は見かけの運動がないと言うことはなりませんし、魂や高次の存在が個である以上、一定のエネルギーを持ちます。

実際は、固有の振動数のエネルギーをできるだけ低くして、見かけの運動に使えるエネルギーを高めています。

つまり、魂や高次の存在は実は「周波数は低い」のです。

よくスピリチュアルで、光の存在と言われるるのは次の理由です。

単純に、高次の存在は通常の物体より固有の振動数が低く見かけの運動のエネルギーが高い光により近いということ。

つまり、高次の存在ほど、物体の固有の振動数が低くなり、見かけの運動に使うエネルギーが増えるということです。

「どっちかって言うと、光(の状態)に近いよ」という単なる比喩です。



では、次は人間の脳と魂に関する話です。

人間の魂は、物質より存在質に近いです。

というか存在質そのものです。

通常人間の魂は、物質である肉体と同期をとっています。

同期をとると言うのは、肉体の固有の振動数と同じ振動数でいるということです。

同じ周波数(振動数)でいることでエネルギーの交流ができます。

これを一部では物理的なチャネルに合わせるとか、物理世界の振動数にチューニングするとか述べています。

チャネリングに関しては以前書いた記事を引用します。


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一般に音波、電波と呼ばれる 波長の話です。

単純に考えて、波長は同位相の波長と同調しますよね。

視覚から入りましょう。

~~~~ A波
~~~~ B波

の2つの波長があると考えます。

A波とB波は位相(波の形)が同じなら、同調(シンクロナイズ)します。

2つの波が完全に重なる感じです。

また、A波は位相の違うC波とは同調しないので、2つの波長がぶつかったら波長が乱れてしまいます。

しかし、同位相の波長が互いにぶつかったら、互いの波長が同調しつつすり抜けます。

この仕組を考えると、ある装置がA波を発信し続けると、同位相の波長のみをすり抜けさせてB波のみを検出することができます。

世の中の、電波の受信装置ってこんな仕組みなのかなと日々想像してます。

しかし、ちゃんと学んだことはないので想像止まりですね。

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引用した文章に書いてあるように、受信したい電波などと同じ位相の波を受信装置が発すると、同位相の波のみを受信装置で検出できるという仕組みがあります。

チャネリングはつまり、「自分の周波数を受信したい(何らかの)エネルギーの周波数に合わせると、受信できるよ」、という仕組みです。

魂も肉体に対して常にチャネルリングしているようなものです。

魂の周波数と肉体の周波数が一致しているので、肉体の発するエネルギーの波動を受け取れるのです。

この周波数を一致させることは、ある周波数にフォーカスするなどと言ったりもします。

魂から肉体に何らかのエネルギーの送信がしたかったら、肉体の周波数を魂と同程度にするか、魂の周波数をに肉体と同程度にするかどちらかです。

基本的に多くの人は、後者を選択しています。

もし、瞑想や気功で魂のエネルギーを高めたり高次のエネルギーを受け取りたかったら(周波数を合わせたかったら)、やることは1つです。

身体や意識を緩めるのです。

緩める、つまり固有のエネルギー(振動数、周波数)を高めるのではなく、低くするように努めるのです。

肉体の固有の振動数が低くなれば、宇宙の根の方の存在やエネルギーを受け取ることが可能になります。

それを確認するには、一般に脳波とよばれるモノが1つの指標になります。

ベータ波よりアルファ波、アルファ波よりシータ波の方がより緩んでいます。

また、チャネリングはエネルギーの受信であり送信でもあります

弱くエネルギーを発信(送信)することで受信のためのチャンネルを確保するのです、逆もしかりです。

強くエネルギーを発信(送信)することは、同時に受信の経路(チャンネル)を開くことでもあります。

宇宙の根の方に近いところに周波数を合わせることは、送信と受信の経路を確保するということです。

エネルギーを発することでエネルギーを受け取ることも容易にになるのです。 

スピリチュアルの世界で、「与えたものが受け取るモノ」だという話とに似ています。

何かを発信することは、それと同じようなものを受け取る経路を開くようなものなのです。

エネルギーの世界ではそんな感じです。

また、人間の心理の世界では、「相手をぶん殴ったら自分もぶん殴られる」や「相手に優しくしたら、自分も優しくされる」という返報性の心理みたいなものです。

しかし、エネルギーの世界とくらべて人間心理の世界の「与えたものが受け取るモノ」だというのはそこまで厳密ではないのです。

エネルギーの世界に比べて、人間の心理や人間の社会はより複雑で、新たな性質や仕組みも創発されています。

全く同じようには行かないものです。




いかがでしたでしょうか。

今回の記事をまとめると次の様になります。


1. 物体の固有の振動数(周波数)と見かけの運動(速度)のエネルギーは相互に変換されて、両方を合わすと常にエネルギー量は一定。

2. 魂や高次の存在は「周波数が高い」のではなく「周波数が低い」。

3. 高次の存在やエネルギーと交流したかったら、「意識と身体を緩める」ことで「周波数を合わせる」こと。



では今回の記事は以上になります。

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集団の力学から考える4つの性格類型。リーダー・サポーター・オブザーバー・フォロワー

 集団の力学から考える4つの性格類型。リーダー・サポーター・オブザーバー・フォロワー

こんばんわ、冬生真礼です。

ーー今回の記事は過去ログからの抜粋です。

今回の記事は、人間の性格タイプを集団の力学の視点から分析してみました。


古来から人間の集団には、基本的な四つの役割が見て取れます。


1つは、リーダー(先導者)。

集団の意思決定に大きな役割を果たし、集団の行くべき道、取るべき行動を集団の成員に対して提示し集団を先導します。他の集団の成員に影響されずに、自身の内的な導きに従います。

2つ目は、サポーター(後援者)。

リーダーの決定に従い、集団全体の利益の為に奉仕します。時には、自己の利益より集団の利益を優先し、集団の目的達成の為に集団を底支えします。

3つ目は、オブザーバー(観察者)。

集団においてリーダーを支持せず、また左右もされず集団が誤った選択をしないように常に一歩離れた場所から集団を観察します。
監察者(インスペクター)ではなく観察者(オブザーバー)なのは、多くの場合オブザーバーは集団を取り締まることをせず、一定割合のオブザーバーがいる事自体が集団が誤った方向に進む事を抑止する為です。

4つ目は、フォロワー(追従者)。

集団の成員の大多数を占めます。リーダーの提示した行くべき道、取るべき行動に追従して集団そのものを形成する。 フォロワーの性質として影響の受けやすさがあります。リーダーやサポーターやオブザーバーの影響を常に受ける事によって、集団の性質を決めるフォロワーの性質が偏らずいることができます。

以上の4つの役割が古来から人間の集団には存在したと考えられます。この4つの役割だけで、人間の集団を定義することが可能だと思います。


人間は上記の4つの役割を階層的に持ちます。

階層的にというのは、家庭という小集団の中ではリーダーな男性が、それ以上の規模の集団(会社や地域社会)ではフォロワーという場合があるということです。

また、基本的に人間は個人レベルで性質が完結しておらず、必ず集団レベルで性質のバランスを取ります。

簡単に言うと、一人でリーダー、サポーター、オブザーバー、フォロワーの性質をバランスよく持ち他者の助けを借りなく一人で全部出来て生きていけると言うことはないとうことです。

個人の役割のバランスには必ず偏りがあり、集団を形成することでそのバランスの偏りを解消する必要があります。

ひとことで言うと、「人間はたった一人で完結することはできない、人間は集団の中でしか完成できない」という事です。

具体的に言うと、全ての人間が社長(リーダー)に成ることは出来ないし、成る必要がない。会社を運営するには必ず社員(フォロワー)や投資家(サポーター)が必要で、時には外部の識者(オブザーバー)の助けが必要だということです。

注、(社員が必ずフォロワーだったり、投資家が必ずサポーターだったりするわけではないのでそこは注意が必要です)。



自分の性質は4つの役割でどれが一番強いかどのようなバランスになっているかを分かっていないと、無駄に苦労することがあります。

自分がフォロワーの性質が強いのに無理にリーダーの役割をやろうとしたり、オブザーバーに性質が強い人がサポーターやフォロワーの役割が上手くできないと悩んだり、リーダーの性質が強い人がフォロワーとして役割を強要されて問題を起こしたり、サポーターの性質が強いのに昇進して部下を持ってリーダーの役割を引き受たり、あまつさえリーダーの性質が強い人の真似をして失敗している場合があります。

フォロワーの性質が強い人は周りに影響を受けやすく自分の意思を貫くのが得意ではないので、基本的に強いリーダーには成れません。

オブザーバーの性質が強い人は基本的に他者から強い影響を受ける事を嫌うため、影響を受けやすいという特質が必要なフォロワーの役割は向きませんし、サポーターの役割も強い奉仕の精神など殆ど無いためその様な役割を求められても上手く役割をこなすことが出来ません。

リーダーの性質が強い人は生まれつき自己の感情や欲望に忠実な傾向あり、外部から影響に左右されないと同時に他者に従属する事を嫌います。そのため、そのような人がフォロワーの役割を求められても上手くやるどころが度々問題を起こすことになりやすいです。

サポーターの性質が強い人はリーダーの役割をやるには少々他者の意見を尊重しすぎです。また、伝統的な強いリーダーの真似は必ず失敗します。

フォロワーの性質が強いサラリーマンの方が、一念発起して起業しても他者から影響を受けて起業しようと思っただけで、苦手な決断や判断の連続や粘り強さが無いために失敗するという事もあると思います。

子供の頃からオブサーバーの性質が強い方が、日本の昔ながらの集団生活が苦手でなんとなく疎外感を覚えたり上手く友人が出来ないと悩んだりするかもしれません。

リーダーの性質が強い方が、就職した会社で我が強くて使いものにならないと判断されないともかぎりません。

人を支えたりするのが好きなサポーター性質の強い方が、他に仕事ができる人がいないとプロジェクトのリーダーに大抜擢されて、前任者がリーダーの性質が強い方でその真似をして上手く行かず大失敗したりする事があるかもしれません。

フォロワーの性質が強い方は、自分が大きな決断が苦手でや粘り強い行動できずや強い意思に欠けることを自覚しましょう。必要なのは、より良いリーダーを見つけそれに付いて行く事です。あなたは環境次第リーダー次第でおお化けする可能性があります。自分が苦手なことを他者任せるという態度があなたを上手く生かせるでしょう。男性なら自分の中のリーダーの性質から強いリーダーに憧れるかも知れませんが、その憧れはより良いリーダーを見つけることに使いましょう。影響の受けやすいあなたは、多くの人に影響を受け自分のブレた行動の中に自分なりの軸を見つけましょう。

オブザーバーの性質が強い方は、自分が他者から強い影響を受けることが嫌いなことを理解しましょう。人間関係は、自分が相手に影響を与え、自分自身も相手から影響を受けること受容しなければ成り立ちませねん。あなたの他者からの影響を拒絶する態度は、ともすれば偏屈頑固、心を閉ざしているなどと言われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。あなたは自分の心地よい距離感の中では非常にフレンドリーにも成れますし、礼儀正しくも成れます。少しの他者からの影響の受容と、心地良い距離感でいられる相手を見つけることによりあなたは多くの友人に恵まれる事ができます。
 
リーダーの性質が強い方は、自分の中に譲れない意思や感情がある事を自覚しているかもしれません。その感情や意思はあなたの武器にもなり、弱点にもなる諸刃の剣です。自分の中の意思や感情を育てつつ、御することを覚えましょう。それを御する事ができるか出来ないかで、あなたの人生は両極端に振れます。大きな成功か大きな失敗か、あなたはどちらかに極端に振れやすいことを理解しましょう。また、オブザーバーの友人を持ちましょう。あなたに必要な、冷静な視点を彼らは提供してくれます。大いに耳を傾ける必要があります。

サポーターの性質が強い方は、もしなんらかのリーダーの役割に選ばれたら、自分が決して強いリーダーにはなれないことを受け止めましょう。あなたは、サポーターです。サポーターにはサポーターなりのやり方で集団を支え導く必要があります。あなたは導くというより、信頼する人間です。オブザーバーやリーダーの性質の方のち力を十分に頼る必要があります。あなたは信頼する人間ですが、信頼するかどうかは見極める必要もあるでしょう。


いかがでしたでしょうか。

今回は集団の力学という視点から、人間の性格を類型分析してみました。

しかし、上記の分析と似たようなものが色々とありそうな感じですね。

また、私は自己分析では、オブザーバー > サポーター ≒ フォロワー > リーダーな感じですね。

もともとサポーターの性質が強かったと思いますが、色々理屈こねくり回していたらオブザーバーの性質が強いくなった感じです。

では今回は以上になります。

ではでは。

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相対性理論と量子力学のホントの話

相対性理論と量子力学のホントの話

こんばんわ、冬生真礼です。

ーーこの記事は過去ログの記事の改稿です。


今回の記事は、量子力学や相対性理論に関わる話です。


先ずは、数学の話から。

数学における計算式は、純粋な論理だけの世界に見えます。

しかし、その向こうには、物理的な世界の実際的な何かに関連付けられています。

というか、その実際に的な何かがなければ人間は数式を理解できません。

数式の理解は、言語の理解と同様に脳が数式の意味を内部的に再現します。

そのため、数式の理解は必ず身体感覚が必要になります。

視覚や聴覚などにとどまらず、身体そのものを使って理解しています。

通常は、内部的な再現が微弱なためそのことに気づきませんが、数学に高い適性を持った方の中には身体感覚が強烈に感じられる場合もあります。

単純に、視覚的な物理運動で再現したり、数が増える減るという感覚を再現したり、抽象的な感覚で理解したりしています。

そこで問題となるのは、虚数です。

虚数というのは実際的な何かに関連付けるのは非常に苦労します。

二乗するとマイナス1になる数。

非常に厄介です。

しかしこれは、虚数というのが物理的な世界の実際的な何かと関連付けられていると考えればそう難しい理解ではないのです。

単純です。

虚数が出てくる数式がどのような現象を記述するかによるのです。

虚数はその現象の世界の何かに関連付けられているのです。

単純なマイナスの数に関しても、身長を記述する計算式の解に、マイナス163cmとでればそれはそれは間違った計算式になります。

というか身長の世界にマイナス163cmは存在しないのでマイナスの概念は身長の世界では引くという範囲でしか適用できないのです。

マイナスという数学の世界で至極基本的な概念ですら、現実の世界では適用範囲が在るということ(つまり、現実の世界の実際的な何かに関連付けられないことがある)は、数学の計算式は現実の世界の実際的な何かに関連付けられる範囲で使用しなくてはならないし、その世界には必ず数式と関連付けれた実際的な何かがあるということです。

マイナスという概念は、借金の計算や、数直線の動きなどの適用できる範囲の中でしか存在しないのです。

もし、量子力学など範囲で虚数が計算式の中にどうしても出てくるのなら、虚数に関連付けられるような現実の世界の実際的な何かがあり、虚数が計算式の中に登場しない範囲(つまり、身長の話とか)のではありえない何かが在るということです。

それを考えると量子力学などで出てくる虚数は、量子の世界の実際的な何かと関連付けられるというのが分かります。

それは超紐理論で登場する1次元の紐も同じです。

単純に1次元の紐があると考えるのではなく、1次元の紐と数学の世界で表すことができる何かが在るということなのです。

さらに言えば、数式に存在する次元すらもその数式がどのような現象に適用されるかで、次元が関連付けられる物理的な世界の実際的な何かが変わってくるのです。

もしある数式を現実世界の何らかの現象に適用できるなら、その現象にその数式と関連付けられる現実世界の物理的な実際的な何かが在るということだけなのです、それは別の数式が表す別の現象とは結構無関係なのです。

というわけで数学の話は終わります。


次に量子力学の話。

私は別の記事で、次のようなことを述べています。

物質は気からできている。

物質は気がなんかエネルギーが渦巻いているような状態です。

気とは存在質ともいうべき、実際に存在しているけど物性(現代物理学でいう量子場のようなものです)は持たない存在です。

気は世界につながりを持って広がっていて、それを気の場(比較的、量子力学でいう波動関数など)という。

気の場は、当たり前ですが基本的なフラットなものです。

フラットというのは歪みや偏りがなくドコまでも平坦ということです。

しかし、物質はある種の気の場の歪みです。

しかし元々は気の場は、フラットな存在ですのでエネルギーが渦を巻いているような歪みは存在できません。

フラットな存在がエネルギーが渦を巻いているような歪みを持つには、方向性の概念が必要でした。

1次元のベクトルで表せるような、エネルギーの渦は向きがあります。

フラットな存在である気の場は、右まわりのエネルギーの渦を生み出す代わりに、左回りのエネルギーの渦を産み出して、2つのベクトルを合成して相殺したら結果的に気の場がフラットに成るようにしました。

なので、基本的に逆向きの同質のエネルギーの渦がであってしまったら、互いのベクトルを相殺してフラットなただの気の場にもどります。

また、物質は気の場が素になっていて、つねに気の場とつながっているので、物質が存在する周囲の気の場は、物質のエネルギーの渦に影響されて、若干歪みます。

また、あらゆる物質は歪みの合成です。

大元である、気の場から生み出されたエネルギーの渦である物質は、重なりあうことができたり、あるいは分裂して、エネルギーとベクトルを、最終的に気の場がフラットになる感じで産み出したりします。

また、量子レベルの話になると、粒子は気の場にもどります。

ミクロの世界になると、物質はエネルギーの歪みから、気の場に近い状態もどることもある。

マクロの世界になると、物質はエネルギーの歪みが固定されるので気の場に戻ることがない。

量子力学の世界では、量子は重ねあわせの存在だとか、観測により確率が収束するとか、空間的に広がりを持つとか言われている。

その実態はなんてことはなく、次の通りです。

物質は気の場のエネルギーの歪みであり、空間の0次元の点でもなく、なんかそこら辺を渦巻いている状態です。

ミクロの状態では、なんかそこらを渦巻いている状態なので、あるい一点に存在しているということはない、といか広がりをもっている。

また、存在の確率が分散しているというより、エネルギーの総量を1として密度が薄いところとか濃いところとかバラバラな状態で存在して、かつ高エネルギーが渦巻いておりかつ軸もないためぶれている(振動している)。

観測というか、粒子をそのエネルギーの渦巻いて広がっている所にぶつけると、運動量を与える事になって、その一点に反発力がうまれてエネルギーが集中して密度が上がる(だいたい100%)。

物質として、質量がある(観測できる)状態はこの密度が100%の状態の時だけ。

みたいな感じでしょうか。

ちなみに量子もつれを利用した量子通信は、そもそも気の場がフラットな存在だということから理解できます。

物質が存在するときには、最終的にフラットな形にならなければならないので、量子もつれ状態のスピンも総合してフラットな形に成らなければいけないため、スピンの向きは絶対に同じなりません。

量子テレポーテーションも、高速より早いとか言われていますが。

次の説明のようなものです。

一本のめちゃくちゃ長い木の棒(例えば、1億kmあったとして)を、両端の人間もって右回りに回転させたら、反対側の人間からは必ず左回りに回っているように見えるはずです。

それは右回りの情報が伝わって左回りなっているのではなく、1つの繋がったものを別側から見ているだけというわけです。

量子もつれを持つ対になる量子も、気の場がフラットな存在であるために、つながっています。

対になる量子は、木の棒というより、一枚のビニール製の布のイメージですね。

ビニールを表側から引っ張ってビヨーンと伸ばして膨らませたら、反対側から見たら凹んで見えますよね。

ビニールは平面ですが、現実の物理空間でも同じようなことが起こっています。

フラットな平面で歪み(物質)を生じさせるには、膨らみとヘコミは、同時存在しなければなりません。

平面ではないですがフラット(歪みのない平坦)な気の場においても、若干次元がちがいますが同じようなことが起こっています。



次は相対性理論の話。


相対性理論では時間に対する解釈が間違っている可能性があります。

相対性理論では、光速度は普遍で、光速で運動している光子から、新たに光子を発射してもそれは光速だと言っています。

相対性理論では、相対性とか言いながら時間の測定は絶対時間を基準として時間測定から逃れていません。

時間とはそもそも、1つの基準となる系があって、その系と測定対象の系によって導き出されるものです。

しかし、一般に相対性理論を理解する時は、あくまで時間の測定の基準に従来の絶対時間を基準とした時間測定を想定しています。

相対性理論では、その式の時間は、絶対時間を基準としたものではなく、測定者を基準としたものです(というかそういうことに成らざるを得ません)。

光速で運動している物体から光子が発射されたら、それは光速であるというのは次の理解です。

時間の測定は、測定者の固有のエネルギー量(物体の運動量)と対象の運動量の関係であらわせます。

例を出します。

車が10kmの道路を走り終える速度を計算します。

簡単に表すと、時計の針が動くスピード(変化量=エネルギー量)と車が10kmの道路を走り終わる(絶対空間内での物体の移動)で表せます。

車がスタート地点からゴール地点もで移動するのに時計の分針が12から6まで移動した場合を考えます。

これは単純に10kmはしるのに30分かかったと言えます。

時速20kmです。

では、二回目の測定では、車が10kmの道路を走り終えるのに、分針が12から3に移動したとしたます。

これは単純に考えれば、15分かかったといえます。

つまり、時速40kmです。

くるまのスピードが速くなっています、アクセル全開にでもしたのでしょうか。

ですがちょっとまって下さい。

本当に車のスピードが速くなったのでしょうか。

もしかしたら時計の針が遅くなっただけかもしれないですよ。

車のスピードが早くなったのか、時計の針が遅くなったのか、この2つだけをみてもわかりません。

しかし、そこに全く関係のない第三者がいたら一目瞭然です。

その第三者の時間が変化していないとしたらですが。

相対性理論を突き詰めるとこのような話になります。

もし、光速度で運動する物体から、発射された光子が高速度に見えるというなら。

そして、高速度がどのようなときでも同じなら。

物体は高速度に近くなると、その物体の時間が遅くなる。

つまり、潜在的なエネルギーを見かけの運動量に変換しているという話になります。

そのように考えるなら、光速にたっした物体は、自身の時間が遅くなり、相対的に絶対時間で高速度の光子が、光速に見えることになります。(相対速度とかはまったく気にしていないのであしからず)

しかし、それは光速で運動する物体と、そこから発射された光速で運動する光子の2つだけの関係です。

第三者からみたら、単純に光速で運動する物体とそこから発射された光子が、光速で運動するという当たり前の光景です。

ちなみ、空間が縮むという話は次の理解です。

上記の車が10kmの道路を走り終える時間を時計で測る例です。

コピペ

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では、二回目の測定では、車が10kmの道路を走り終えるのに、分針が12から3に移動したとしたます。

これは単純に考えれば、15分かかったといえます。

つまり、時速40kmです。

くるまのスピードが速くなっています、アクセル全開にでもしたのでしょうか。

ですがちょっとまって下さい。

本当に車のスピードが速くなったのでしょうか。

もしかしたら時計の針が遅くなっただけかもしれないですよ。

車のスピードが早くなったのか、時計の針が遅くなったのか、この2つだけをみてもわかりません。

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よーく読んでください。

この具体例、時計の針が遅くなっても、車のスピードが早くなっても時速40kmという結果は変わりないのです。

つまり、自分の時間が遅くなっている状態では、空間が広がって見えるのです。

時間が遅くなるというのは外から見たらですが、測定者は絶対に自覚できません。

だって、測定者自身は自分の時間を自覚できませんから。

時間の測定は、基準となる1つの系と対象の系の関係で決まるのですから。

自分自身の時間を測定したくても、系が自分1つしかありません。

さらに、速度というのは、速度  = 距離 ÷ 時間 で計算します。

で、速度に✕2した時、距離に✕2しても時間に✕2しても計算式上ではわかんないのです。

で速度が上がって見えた時に、時間が遅くなった時、時間にX2した(つまり、より多くの時間をかけて10km移動した)と考えるのではなく、距離に✕10した(同じ時間で20km距離を進んだ)と考えたのです。

測定者自身は、自分の時間が遅くなっているとは考えないため、どうしても空間が歪んで見えるのです。

結局、時間という概念を厳密に定義したら、このように単純に相対性理論を理解できたのです。



いかがでしたでしょうか。

では今回の記事は以上になります。

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戦略型ポジティブシンキングあるいは戦略型ネガティブシンキングのすすめ

 戦略型ポジティブシンキングあるいは戦略型ネガティブシンキングのすすめ

こんにちわ、冬生真礼です。

ーーこの記事は過去ログからの抜粋です。

今回の記事は、ポジティブシンキングとネガティブシンキングに関する記事です。

巷に蔓延るポジティブシンキングとネガティブシンキングに関する誤解を解き、戦略型ポジティブシンキングと戦略型ネガティブシンキングを紹介します。



皆さんは、ポジティブシンキングやネガティブシンキングについてどう理解していますか。

単純にポジティブシンキングはを「何に対してもポジティブ(肯定的)に捉えようとすること」、ネガティブシンキングを「何に対してもネガティブ(否定的)に捉えようとすること」だとお考えでしょうか。 

実は、ポジティブシンキングとネガティブシンキングは、科学的に定義できるのです。

人間は平常状態で肯定的感情をベースにしている方と、否定的感情をベースにしている方が両方いらっしゃいます。

前者の方は、脳の感情を司る部位が快を出力しており、後者は不快を出力しています。

私は別の記事で、人間が言葉を理解する時には、常に自分の内部で言葉の意味を再現していると書きました。

また、人間が他者に共感するときには、他者の脳内状態を模倣して再現して理解しているとも書きました。

文章をを理解するときには、単純に意味を再現しているだけです。

他者が話す言葉を理解するときには、脳は言葉の意味を内部で再現しながら相手の感情状態などを共感能力で模倣しています。

平常状態で肯定的感情を脳が出力している人は、文章を理解したり他者の言葉を理解するときには元々脳が肯定的感情を出力している所に、言葉の意味を再現したり相手の感情状態などを模倣しようとします。

当たり前ですが、元からあった肯定的感情(快の感情)は言葉の理解などに影響を及ぼします。

肯定的感情が、文章や言葉の理解時に上乗せされ混ざるのです。

そのために、他者の言葉を肯定的に捉えがちですし、時には過度に信用してしまいます。

平常状態が否定的感情の人がその逆です。

他者の言葉を否定的に捉えがちで、時には過度に不信を抱いたりします。

また心理的には、自分の抱いている感情状態と合致した印象を物事にいだきやすくなります。

肯定的感情を抱いている状態では物事の肯定的な感情を喚起する側面に注目が行きがちです。

否定的感情を抱いている状態でその逆です。

これは、ベースにある感情状態と結びついた記憶を引っ張り出しやすくなるためです。

これらを要約すると、ポジティブシンキングは「平常状態で脳が肯定的感情を出力しているために起こる心理的傾向あるいはその傾向があること」となり、ネガティブシンキングは「平常状態で脳が否定的感情を出力しているために起こる心理的傾向あるいはそれの傾向があること」となります。

どうでしょう、理解できたでしょうか。


では、巷に蔓延るポジティブシンキングやネガティブシンキングに関する代表的な誤解を解いていきましょう。

誤解その1

 ネガティブシンキングは悪いことだ。

誤解その2

 ポジティブシンキングは良いことだ。

誤解その3

 ポジティブシンキングをしたほうが物事(仕事・勉強・スポーツ)がうまくいく

誤解その4
 
 ポジティブシンキングをし続けることが、幸福をもたらす

誤解その5

 (ネガティブ・ポジティブ論争における)ポジティブシンキングは逆に不幸をもたらす

誤解その6

 ネガティブシンキングはし続けると、不幸をもたらす


まずは誤解その1から訂正します。

 ネガティブシンキングは悪いことではありません。

 ネガティブシンキングをすることで、犯罪や事故から身を守る事が出来ます。
 他者に対して、ネガティブな態度を貫く事が必要な場面は多々あります。海外旅行で治安の悪い地域を旅行する場合は、ネガティブシンキングは有効です。詐欺や誘拐や強盗に合うリスクを下げます。
 ネガティブシンキングで致命的なミスや過度な楽観視を避けることができます。
 自動車運転では、ネガティブシンキングの適度にストレス(不快)がある状態は運転に適しています。もしかしたら事故に合うかもしれない、事故をおこすかもしれないという事を考えることで脳は手抜きをしなくなります。

 もちろん、ネガティブシンキングの悪い側面もあります。
 通常特に疑う必要のないことに対して、過度に疑念を抱く。
 人と信頼関係を気づきにくいため、人間関係に躓きがち。
 本当に良い商品やサービスなのに、広告宣伝が下手だったり、無名だったり、怪しいくらい効果が高いと怪しい商品だと判断して購入せず利益を逃してしまいます。

誤解その2の訂正です。

 ポジティブシンキングが困る場面は多々あります。

 基本的に他者に対してポジティブな態度を取るので騙されやすくなります。相手の悪意や害意を想像しにくいので、相手に悪意があることに気づきにくいです。海外旅行で治安の悪い地域を旅行する場合、ポジティブに物事を捉える癖が、犯罪者に対して付け込まれる原因になります。
 書かれている文章に対して否定的感情を持ちにくいので、怪しい通販や商材に騙される可能性が高くなりがちです。
 批判したり訂正したり改善すべき事に対しての許容度が高くなりがちなので、それをするべき事柄が自分や友人や家族、恋人にあっても許容してしまい、相手や自分の将来の利益を失わせてしまう。(具体例、子供が友人に対して暴力や暴言を吐く。友人が他人家の冷蔵庫を勝手に開ける。夫が子供の前で煙草を吸う。毎日酒を大量に飲む等)

 もちろん、ポジティブシンキングの良い面もあります。
 他者に対して肯定的感情を持ちやすいので、人間関係が楽、上手く行きがち。
 世の中をよく捉えがちなので生きてて楽。
 どうしようもない状況でも、肯定的に捉えることによりそれほどストレスがない(逆境に強い)。


誤解その3の訂正です。

 ポジティブシンキングは勉強・仕事・スポーツに対して良い面と悪い面があります。

 ポジティブシンキングの方は、平常状態で肯定的感情(快)を抱いているので、勉強や仕事やスポーツに対して積極的に行動できます。何かを始める時に心理的抵抗が少ないからです。
 逆に、勉強や仕事やスポーツのここぞと頑張らなければいけない場面など、ストレスが必要な場面ではストレスを弱めてしまうのでガツンと頑張れません。

誤解その4の訂正です。

 場合によります。

 ポジティブシンキングでどうにもならない場合は多々あります。

誤解その5

 場合によります。

 ポジティブシンキングで物事をうまく生かせる事は可能です。
 やり方次第です。

誤解その6

  場合によります。
  ネガティブシンキングをする方で、幸福な方も沢山いらっしゃいます。
  ネガティブシンキングをする方で、不幸になることもあります。

6つの誤解を解いていきました。



では次は、タイトルにある戦略型ポジティブシンキングと戦略型ネガティブシンキングの説明になります。

大事なことを述べます。

実は、ポジティブシンキング―ネガティブシンキングの裏には、隠れたもう一つの軸があります。 

それは理想主義―現実主義の軸です。

多くのポジティブシンキング―ネガティブシンキング論争ではあまり指摘されていませんが、ポジネガの他に理想現実という隠れた変数があったのです。

多くの場合、この理想主義―現実主義の軸が語られることが無いので、よくわからない議論になってしまいます。

まずは言葉の定義からです。

理想主義とは、ある理想的な状態を目指して物事の判断や選択をしていく事、あるいは理想的な物事の状態があるという考えです。

現実主義とは、現在の状態でもっとも適した判断や選択をしていく事、あるいは理想的な状態があると考えず現在の状態(現実)があるという考えです。

多くの場合、ポジティブシンキングという言葉を使う時、その裏には理想主義があります。

ネガティブシンキングという言葉を使う時、その裏には現実主義があります。

実は、これらの組み合わせはリスクを伴います。

理想的な状況が肯定的な判断や選択だけで実現することは少なく、現実的な状況で否定的な判断や選択を行い続けてしまうと状況をより悪い方向へ行かせがちだからです。

前者は、自己啓発のポジティブシンキング教にハマり過ぎて人生を崩壊させるような方が代表的です。

後者は、より良い政治判断したつもりが、国内情勢や世界情勢をより悪化させてしまった政治家などが典型例です。

よって、ポジティブシンキングをする時は現実主義で物事に向き合い、ネガティブシンキングをする時は理想主義で物事に向き合うことが必要になります。

ポジティブシンキングと現実主義の組み合わせを、戦略型ポジティブシンキングと呼ぶことにします。

ネガティブシンキングと理想主義の組み合わせを、戦略型ネガティブシンキングと呼ぶことにします。

ポジティブシンキングと理想主義の組み合わせを、単純型ポジティブシンキングと呼ぶことにします。

ネガティブシンキングと現実主義の組み合わせを、単純型ネガティブシンキングと呼ぶことにします。

戦略型ポジティブシンキングは、平常時の脳が快の状態で物事を現実的に判断しますから、無駄な恐れを感じず徹底的に現実的に考えることができます、理想的な状態を目指すのではなく現実的な状況判断をするので、騙される事過信する事を回避できます。

戦略型ネガティブシンキングは、平常時の脳が不快の状態で物事を理想を目指して判断しますから、徹底的に様々な条件を否定的に考えることができ、そして現在の状態の向こう側(理想的な状態)を常に想定する事で短絡的な判断を回避できます。

戦略型のポイントは、バランスです。

脳の状態と、判断基準の組み合わせで、思考と主義の持つリスクを低減しています。

単純型は、思考と主義の持つリスクを高くしています。

ポジティブシンキングやネガティブシンキングについて語る時、それが単純型か戦略型かで大きく違ってきてしまいます。

ネガティブシンキングでそれにお困りの方が、無理にポジティブシンキングになる必要はなく、単純型から戦略型に移行するだけでよいのです。

単純型ポジティブシンキングの方は、戦略型に移行することが必要な場合も多いでしょう。



以上がポジティブシンキングとネガティブシンキングについての記事です。

ありふれた内容を長々と書いてしまいました、読んでいただいた方に感謝です。

ちなみに、戦略型ポジは起業家に、戦略型ネガは学者の方に多い印象です。

起業家の方が単純型ポジだと、社員が不幸です。

学者の方に単純型ネガ多いと、懐疑論者だらけで学問が発展しないです。


今回はこれで終わります。

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存在質とは 物性を獲得する前に

 存在質という概念

こんにちわ、冬生真礼です。

ーーこの記事は過去ログからの抜粋です。

最近、このブログアクセス数が増えてきて嬉しいです。

今回の記事は、そろそろ現代の科学は物質・エネルギーという概念の上位である「存在質」という概念を取り入れた方が良いのではないかと思い記事にしました。


「存在質」は簡単に説明すると、「在る」という性質そのものの体現です。

存在しているものは全て存在質に含まれます。

物質は、物性を持った存在質ですし、エネルギーは変化量の現れである存在質。


まずは、私が何故存在質というモノを想定するようになったのかという説明をします。

私は昔こんな疑問を持っていました。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かが在るのか」 

宇宙も、物質も、エネルギーも、人間も、自分という存在さえも、「存在する」という原因も因果もないように思えたのです。

宇宙も、物質も、 何もかも、何故存在するのかという事を突き詰めて考えたら、それに原因とか理由とか因果とかそういったモノが無いのに、何故か存在している。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かが在るのか」

因果とか理由とかそういったモノの考えを突き詰めてしまったら、宇宙は存在しているはずがないし、自分の心も存在しているはずがない、そんな結論に達しざるを得ないのです。

こういった考えは、他の人も考えていたようでウィキペディアで調べたら同じようなこと書いてあってびっくりした覚えがあります。

そのあとしばらくは、そのような考えでウンウン唸っていたのですが、ある時こう考える様になりました。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かがあるのかと考えていたって、現実に目の前に宇宙は存在している。これはもう、原因とか理由とか因果とかは瑣末なことで、そもそも存在するという根本性質が宇宙にあるのではないか」と。

そういった考えで、思考をしていったのです。

余談ですが、そうした結果、時間とはそもそもベクトルで表される方向を持ったものではなく、「物の変化量」を人間の脳が観測した結果生まれたものだと考えるようになり、時間とは「変化したか、しないか」で計測するものであり、ベクトルのような方向性を持たないと考えるようになりました。

宇宙には根源的に存在するという性質があり、すべては宇宙の根源的な存在するという性質、存在質が大元になっているのではないか。

存在質から派生し、物性を獲得して物質になり、エネルギーが生まれた。

そう考えていったのです。

ちなみに、現代物理学ではこの存在質に近い考えは量子力学で研究されていますが、量子力学はまだ物性にこだわりが多く、存在質という性質を想定しきれていません。

現代物理学は、物質・物体の研究にその端を発しているため、思考の出発点が物性になってしまっています。

しかし、現実には物質は存在質が物性を獲得したものと考えるべきなのです。

何はともかく、全ては存在しているという性質から出発しているのですから。


このような思考があり、私は「存在質」という概念を築いていきました。

さらに、物質は存在質が物性を獲得したのものだ。

ならば、逆説的に考えてそもそもの存在質は物性をもたないだろうと考えるようになりました。

また、古典的ですが、エーテルの概念に近いものがあります。

私の想定する存在質とエーテルの差異は、存在質はエーテルと違って(現代物理学で想定されるような)物性を持たないということです。

つまるところ質量をもたない(より正確には、質量を観測できない)。

そういった事が考えられます。



私の存在質という概念に対する思索はいかがだったでしょう。

思考の出発点が哲学的な問いなため、物理学と相容れないようにも思えますが、現代物理学の最先端では、物性をもたないが存在する何かを想定せざるを得なくなっているように思えます。

しかし、そもそも「物」理学ですので物性から離れてものを考えるのが難しいように思えます。

色々書きましたが、今回の記事は以上になります。

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時間に対する考察 その1

 たまには雑記、時間とか

こんばんわ、冬生真礼です。

ーー過去ログからの抜粋になります。




私、実は時間逆行ものの小説や映画が大の苦手なのです。

何故かと言うと、絶対に物語に決して消せない矛盾が生じてしまうからです。

また、時間逆行の理論的説明として「世界はパラパラ漫画の~」などといった説明がなれていると、もう頭を抱えてしまいます。

この物語の作者は、宇宙のどこかに、過去のある一時が物理的に存在しているとでも思っているのだろうかと悩んでしまいます。

過去のある一時が物理的に宇宙のどこかに存在しているならば、その一時は無限に連続する時間のどの一瞬をどの程度の長さで切り取ってあるのか。

仮に、0.00001secとして、それが時間の最小単位になるのか、それ以下はないのかなどと考えてしまいます。

このような事を考えてしまうので、一般にアインシュタインの相対性理論では時間の逆行が理論上可能であるといった事が言われていると、そもそも現代物理学は時間というものをどう捉えているかと不思議に思っていました。



そういった思索を得て、時間に関する議論は古来からいろいろあると思いますが、私はある結論を得ました。

 それは、時間はベクトルで表すような「向き」のあるものではなく、完全な「相対的な変化量」で計測されるものだというモノです。

私が過去に時間についての思索をした時に、まとめた文章をコピペして載せます。

----------------------------------------------
 

時間についての考察

 

 「時間がない、時間がない。あ~、いそがしい」

 

 「うわ~、もう2時!? 時間経つの早いよ~」

 

 「失敗したー。 7時前に戻れたらやり直せるのに~」

 

 人間は明らかに時間というものを認識している。
 

 当たり前の様に、時間というモノがある前提で生きている。

 
 

 しかし。

 

 時間というモノの正体を知っている人間はどれだけいるのだろうか。
 

 時を巻き戻すとか、過去に戻るのは理論的に可能とか、時間は過去から未来に流れるとか。

 

 時間というモノを誤解していなければ出てこない様な言葉のオンパレードである。

 

 そこで、ここでは筆者が時間について考察した結果得られた事を説明したいと思う。
 

 

「時間を測る」
 

 

 まず、一番初めに説明しなければならないのは、時間の測り方である。

 

 通常、私たちが時間を測る時には時計を使う。
 

 秒針が6度傾けば1秒。分針が180度傾けば30分。時針が30度傾けば1時間が経過したと判断するだろう。
 

 デジタル時計ならもっと解りやすいだろう。

 

 だが、ここで問題がある。
 

 時計が使えなかったら、どう測ればいいのだろう。
 

 あるいは、何もない真っ暗な部屋に閉じ込められていたら、時の経過をどう判断すればいいのだろう。

 なんの道具もない、なにも見えない状況で何を基準に1分あるいは1時間を測ればいい。

 

 よくよく考えると、このような状況でも、「1234・・・」と口で数えれば精確ではないが時間を測れるだろう。

 

 ではもっと突っ込んで考えよう。

 

 もし、口が聞けない様に、さる轡を噛まされていたらどうだろう。
 

 口がきけないなら頭のなかで数えればいいのだろうか。

  

 では、寝ていたらどうだろうか。
 

 思考ができないほどぐっすり寝ている人間が時間を測るにはどうしたら良いだろうか。

 

 ここまで考えたら分かっただろうか。

 

 つまり、時間を測るには何か基準になるモノが必要だということ。
 

 そして、その基準になるものはずっと動いていなければならない。

 

 たとえぐっすり寝ていたとしても、翌朝起きて時計が7時を指していたら大体7時間ぐらい寝ていたと解るように。

 

 だが、もしその時計が自分が知らない間に、いつもより早く動いていたら・・・。
 

 

「時間の矛盾」
 

 

 前章で説明したように、時間の計測には一定速度で動き続ける基準となるモノが必要である。

 

 ここで問題。

 

 「一定速度」というのはどのように定義されるのか。

 

 答え。

 

 そのモノが「ある時間」に「どの程度」動いたかどうか計測して定義する。

 

 ここで、時間を測るための基準を求める時点で、時間が計測可能である必要があるという矛盾が産まれるのだ。

 

「変化量」

 

 ここで視点を変えてみる。

 

 人間はどうやって時間の経過を認識するかという視点。

 

 単純に、時計や基準となるモノがどれだけ動いたか。
 

 つまり、どれだけの変化があったのかで時間の経過を認識する、

 

 端的に表してしまえば、人間は時間の経過を変化量で認識するのだ。

 

 

 人間にとっての時間は変化量として表現できる。

 

 さらに、原子時計やこの世のあらゆる時間の測定装置はこの変化量を計測することによって機能しているのだ。

 

 しかし、ここで一つの問題が出てくる。
 

 人間が時間の経過をある対象の変化量で測るというのに、その人間自体も常に変化量が一定ではない事だ。

 

 人間も心拍や呼吸によって意識や身体の状態が変化する。
 

 

 人間の視点で言うと、時間の経過というのは基準となるモノの変化量とそれを解釈判断するモノの変化量というバランスの上に計測される事になってしまう。

 

 そして、それは時計などの機械も同じである。

 

 シンプルに説明すると、時間の経過は基準となる二つのモノの相対的な変化量でのみ計測される、ということだ。

 

「時間の正体」

 

 哲学の時間です。

 

 宇宙が産まれる前、時間というものはあったでしょうか。

  

 宇宙が生まれる前は、物質がありません。
 

 さらに言えば、物質が運動することで得られる変化量がありません。
 

 さらにさらに言えば、時間の経過を認識する人間も存在しません。

 

 果たして時間って、存在するのだろうか。

 

 結論から言ってしまえば、筆者は時間と言うものが独立して存在する絶対的なモノとは考えていません。

 

 人間の認識の中にしか存在しないモノだと思っています。

 

 言ってしまえば、現実世界の物理的な情報である物体の変化量を、相対的な尺度で観測した結果産まれるモノ。
 

 それが時間だと考えています。

 

「補記」

 

 時間の経過とは変化する事なので、過去に逆行するという概念は間違った時間の解釈によって得られた空想です。

 

 たとえば、1時間まえに壊した高級な壺をもとに戻すために時間を巻き戻すという表現が創作物の中でよく見られます。
 

 しかし、元に戻るという現象は、物理的なベクトルが逆方向を向いていますが、変化量が計測できます。
 

 つまり、これは時間の逆行ではなく時間の経過です。

 

 また、時空のトンネルを抜けると20年前の日本に辿りついたという表現がありますが、時間が経過するという現象は、宇宙の物理状態が変遷するということです。
 

 なので、過去のある状態がどこかに保存されているとか、4次元時空の中では世界とはパラパラマンガの様なモノである、とかはありえません。

 

 そして、この変化量という考え方は筆者の思索の中では頻繁に出てくる重要な概念です。
 

 今後、色々なところでこの言葉が登場すると思います。

 

 それでは、さようなら。

---------------------------------------------

どうでしょうか、1年以上前にかいた文章なので色々と拙いですが私がの思索の過程をご理解いただけたと思います。

私はこのような思索の結果、「過去は記憶」でしかなく、「未来は想像」でしかないと思っています。

宇宙には「今、ここ」しかなく、全ては「一つしかない物理的な宇宙の状態のが変化しているだけ」でしかないという考えに至ったのです。


今回の記事は以上になります。

時間や空間といった哲学的な話は、一見難しそうですが、深く考えだすと延々と考え続けてしまうような面白さがあります。

いずれは、空間などの話もしたいと思っています。

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2024年10月13日日曜日

ゲシュタルトの理解 過去記事の転載です。

 ゲシュタルトの解りやすい説明とその理解。

 こんにちわ、冬生真礼です。

 この記事ではゲシュタルトについて、読者の方々と一緒に理解を深めていきたいと思います。

 
この記事は過去ログにも収録されている内容です。

 私はゲシュタルトという言葉は大学の心理学の講義で知りました。
 その講義では、ゲシュタルトとは心理学の用語であり、『複数の「部分」から成り立ち。その結果出来上がった「部分の総和」より大きい「全体」』の事だと学びました。

 みなさん、どうですか理解出来ましたか?

 「何のことだがさっぱりだ」、と思う人が多いのではないでしょうか?

 「部分」とは「部分の総和」とは「全体」とは?

 では、それらを説明していきます。
 

 

 まず、簡単に理解できる具体例として、「三角形」があります。

 

 

 ちょっと試しに、ノートか何かを用意して、バラバラに点を3つ打って下さい。

 

 

 次に、そのバラバラの点を頂点とする三角形を、「実際には線を描かずに」、思い描いて下さい。

 

 

 どうですか? できましたか?

 

 

 殆どの人はなんとなくイメージできたと思います。

 今やったのは、人間の脳は三角形の線分を描かかないでも、3つの頂点があれば三角形を認識できる、ということの簡単な実験です。

 

 

 次に、空のティッシュボックスを用意して下さい。

 

 

 べつに、中身を捨てなくて構いませんよ(笑)?

 

 

 そのティッシュボックをよく観察してください。

 

 

 ティッシュボックは面長の立方体です。

 

 そして、立法体は6つの面から成り立っています。

 

 ここで質問です。

 

 

 その6つの面を部品として、何かを作る時それは必ず立方体になりますか?

 

 

 皆さんお分かりだと思いますがここでははっきり明確に述べます。

 答えはNOです。

 

 

 6つの面を部品としても、作り方しだいで様々な物が出来上がります。

 つまり、ティッシュボックスは単なる「面が6つあるモノ」ではないのです。

 また、単純に「6つの面」で何かをつくろうとした場合、一番簡単なのは面を全部重ね合わせることです。
 
 しかし、その厚紙は先程述べた「6つの面の総和」でしかありません。
 
 そこには「総和より大きい全体」が存在しません。
 それは、「単なる1つの面と比べて少しだけ厚い面」です。
 
 1つ1つの面をパーツ(部分)として考えて、複数のパーツ(部分)から成るティッシュボックスは、単なるパーツ(部分)が合わさったもの(部分の総和)ではないのということです。 
 

 

 そこには、単なる「6つの面」には無かった「立方体という性質」が生まれています。

 この「立方体の性質」こそがゲシュタルト(部分の総和より大きい全体)なのです。


 ゲシュタルトについての説明は以上で終わりです。
 ここまでの説明を理解できれば、ゲシュタルトについて理解していると言えるのではないでしょうか。

 しかし、以下は脳にとってのゲシュタルトの説明になりますので、疲れたり、これ以上難しい話はたくさんだという人には以上の理解でも十分です。

 お疲れ様でした。










 では、もっと深く掘り下げてみましょう。
 
 まず内省してみ下さい、あなたの脳はティッシュボックスをどの様に認識していますか。
 あるいは、何故はあなたの脳はそれをティッシュボックスだと認識しているのですか。

 まずは観察からです。
 
 貴方の目の前のティッシュボックスは、本当に6つの面だけで成り立っていますか?

 

 さらによく観察して下さい。

 

 

 そこには、ティッシュボックスの内部の空間はありませんか?

 

 

 しかし、よく考えてみてください。
 本当に、その空間は実在しているのでしょうか。

 

 それの空間は、決して見えないですし、触れもしません、味もないですし、匂いも嗅げない上に、空間に音があるわけでもありません。

 

 しかし、その存在は認識できますし、ティッシュボックスを構成する重要なモノの一つです。
 

 

 ならば、その空間はあるのです。

 

 何故なら、その空間が無ければティッシュボックスはただの厚紙にしかならないからです。

 

 

 では、この観点を、さらに深めてみましょう。

 空間はティッシュボックスの内部だけに存在しているのでしょうか?

 

 

 そうです、ティッシュボックスの外部にも空間は存在しているのです。

 つまり、ティッシュボックスは6つの面と内と外に存在する空間から、その存在が構成されているのです。

 しかし、実際はティッシュボックスを作るときに必要なのは、6つの面だけです。

 なぜなら、ティッシュボックスを作る人は「内と外の空間」まで用意する必要がないからです。

 なぜでしょうか?

 その理由は、ティッシュボックスの「内と外の空間」は「6つの面」の相対的な位置関係により自動的に決定するからです。

 その相対的な位置関係とは物質的なものではありません。

 正に表現すれば、「6つの面」のが存在している限り自動的に定義される情報なのです。

 その情報は、物質的な情報ではありません。
 しかし、物理空間には存在してます。
 その事をここでは便宜的に、「ティッシュボックスという存在」は論理構造に関する情報を持つ、と表現します。

 これを、ティッシュボックスは『6つの面(物質)とそれについての情報(論理構造)から成り立ち、立方体として表象(人間の認識のなかで表現される)ゲシュタルト(部分の総和より大きい全体)を持つ』と表現しましょう。

 ここまで、ついて来られた方は、今脳内に「ゲシュタルトという言葉」についてのゲシュタルトが構築さているはずです。

 次に、本当に人間がゲシュタルトを用いて現実を認識していることが体験できる実験を行います。

 では、試しにティッシュボックスを解体してみましょう。
 最近のティッシュボックスは楽に捨てられるように作られていて、簡単に潰せます。
 もう、潰しましたか。
 では、あなたはそれをどの様に認識していますか?
 
 内省しつつ、実際の世界をよーく認識してください。

 では、今度は潰れたティッシュボックスをはさみでバラバラにしてみましょう。

 バラバラに出来たら、また内省と認識している世界の観察です。
 
 それは、あなたにとってどのようなものですか?

 ちょっとしばらく、バラバラになったパーツで遊んでみて下さい。

 なめたり、曲げたり、匂いを嗅いだり、何をしてもかまいませんです。

 しらばらくして遊び終わったら、バラバラにしたパーツを全部一箇所に集めてください。

 そして、それら全てのパーツを用い、なんでもかまいせんですので、何か物を作ってみて下さい。

 小さなお子様をお持ちでいらっしゃる方なら、一緒に工作をして見るのも楽しいですので、試しに一緒に遊んでみてあげて下さい。

 では、出来上がったモノをよく観察して下さい。

 そして最後に、出来上がったものに名前を付けてあげてください。

 名前を付けられましたか?

 では、最後の解説に入ります。

 かしこいあなたは、もうお気づきだと思いますが、説明させて下さい。

 あなたが今やった行為は、ティッシュボックスというゲシュタルトを壊す行為です。

 ちゃんと名前を付けてあげたとしたら、あなたはもうすでに新たに付けた名前でそれを認識していることでしょう。

 そして、人間の脳はこのように現実世界を認識していると考えられます。

 ちなみに、この記事をよんで試しにティッシュボックスをバラバラにしてみたけれど、面倒くさくてゴミ箱に捨てたという方もいらっしゃると思います。

 そのような方の場合はティッシュボックスをバラバラにした瞬間に、それを「ゴミ」と認識してしまったのです。

 もし、自然と、「試しにバラバラにして見たけど何もかわってないじゃん、あ~くそ。めんどくさい。捨てよっ」、などといった思考があったとしたら、かなりのめっけものです。

 なぜなら、そのような言葉が心の底からでた瞬間、「ティッシュボックス」というゲシュタルトが崩壊して、一瞬の内に目の前のそれが「ゴミ」に変わったコトを実感できたからです。


 どうですか? 「ゲシュタルト」という言葉を実感出来たのではないでしょうか?

 終わりに。

 上記のゲシュタルトの体感実験方法は今回の記事の為に即席で作ったオリジナルの方法です。
 即席で考えた事を無責任に記事にする事は出来ないと思い、実際に自分で試てみたら 、私はティッシュボックスを「ゴミ」として認識してしまいました(笑)。
 自分で考えた実験方法なのに、ティッシュボックスをハサミでバラバラにした瞬間に「こんなのゴミじゃん!」とっ思いっきり叫んでしまい、思わず爆笑してしまいました(爆笑)。

 最後の文章は笑いながら書いてますが、いわゆる「認知科学の解説本」や「苫米地英人氏やNLPの本」を読んで、理解できたと「思って」いる方には、特に実際に試してみる事をお薦めします。

 現在まで認知科学を独学で学び続けて来ましたが、今回のこの記事を書くにあたって、また新たな発見があったことを嬉しく思います。
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世界が変わり始める内に…


人生のエビデンス(根拠)はあなた自身でいい

こんばんわ、冬生真礼です。

今回の記事は、「人生のエビデンス(根拠)はあなた自身でいい」です。

旧ブログより抜粋ーーー


人は、人生はこうやったら上手く行くはずだという根拠を自分以外に求めがちです。

他人の話や、学問や、あるいは宗教や道徳に求めています。

誰かが、「人生はこうやったら上手くいく」と言う話をしていたとします。

あなたは、人生をうまく行かせたいので「こうやったら上手くいく」と言う話はかならず「根拠」を聞くようにしています。

それらはあなたの周りの人間も同じです。

また、あなたの周囲の人間は「こうやったら上手くいく」という方法をあなたに教えてきました。

あなたの親は「お母さんはこうやったら上手く言ったのよ」とか「お父さんはこれは上手くいかなかったよ」とあなたに色々と聞かせてきました。

その根拠は「両親がそう経験したから」というものです。

あるいは、宗教は「神はこう仰った」とそれが神の言葉であることを根拠とします。

学問は「研究をした結果、そのような傾向がある事がわかった」という実験で得た事実であることを根拠とします。

道徳では、「そうあるべきだから、そうなのだ」とそれ自身を根拠とします。

でも、それらはあなたが「こうしたら上手くいくんじゃない」といった時に、「その根拠はなあに?私の言うことを聞いたほうが良いよ」と諭します。

そのような時に、あなたは大抵「根拠を提示できなく」、周囲の人間を説得できません。

何故なら、あなたの根拠は「あなたがそう思った」からにほかならなく、「あなた自身以外になにもない」からです。

あなたは「他人を説得する」ために「他人が納得する、自分以外の根拠」というのを提示しようとします。

もしかしたら「運良くそれを見つけられる」かもしれませんが、多くの場合そんな都合よく根拠は転がっていませねん。

なので、あなたが思った「こうやったらうまくいく」というアイディアは、実行してこなかったかもしれません。

そして、その延長線上で、周囲の人を説得する必要がなくなった後でも「こうすればうまくいく」ということを思いついたとしても「自分以外の根拠」を探そうとして失敗して「やっぱりうまくいかなそうだから、これはやめよう」という判断をしてきたのかもしれません。

あなたは、周囲の人間に「根拠を示せ」と言われてきたのかもしれません。

そして、「あなたがそう思ったから」ということだけでは納得してもらえなかったのかもしれません。

しかし、です。

あなたの中にはつねに「こうやればもっと上手くいくんじゃないか」というアイディアがあり、それはくすぶり続けていませんか。

だから、ここでハッキリ述べさせてください。

「根拠はあなた自身でいい」のです。

あなたが「こうすれば上手く行くんじゃないか」と思いついたアイディアを実行するのに、根拠を自分以外に求める必要はありません。(もちろん、周囲の人たちにはなるべく理解をしてもられるように努力することは大事です。時には慎重になることも必要な場合があるのも事実でしょう

なぜなら、大昔から「こうすれば上手くいくんじゃないか」というアイディアに「根拠なんてない」からです。(大抵の場合はです。そして、大きく失敗する事も多いのが珠に瑕ですがね。

昔の偉人が、偉大なことを為したのは「こうすれば上手くいくんじゃないか」と言う発想に「根拠を求めなかった」からです。(これがインスピレーションを信じるという行為です。ただ、おおくの雑多でたらめな妄想や破壊的な歴史を生み出した原因でもあるので、自分がただ妄想しているだけではないかというのは今も気にして、自分の中で確かめる必要があります

逆に、その当時に根拠を求められて他人が納得するものを提示できたとしたら、「当時の常識内の発想」でしかなく、偉大な躍進を遂げるのには不十分なアイディアだったはずです。(同時に既存の社会や文化に対するカウンターカルチャーとして、多くの人の理解を得られないことがありました。

当たり前ですが、根拠を「他人の理解できる範囲の過去の物」から導ける様なアイディアは、かならず古いアイディア、固定観念の上のアイディアでしかないです。(そして、それは多くの場合既存のシステムの延長線上のアイディアであり、古い社会の慣習を強化するものになります

逆に、「新しく躍進的なアイディア」だったら、どうして「他人の理解できる範囲の過去の物」から根拠を導けるのでしょうか。(本当にこれはその通りの場合が多いです。ただ、その分破壊的な作用が生じないかの検討や議論が成されないまま今までの文化を多くの人類社会が継続されています

論理的に矛盾しています。(論理はそこまで重要な要素ではありません。現実として有効かどうかただそれだけです。それにはより多くの人達にアイディアを出し合い議論を深めて戦わせる必要があるのです。

「他人の理解できる範囲の過去の物」である根拠が「過去に成功した物の蓄積」であるなら、「新しく今までにない物」の根拠にする事ができようもありません。(ただ、多くの社会や文化の経験と知識の蓄積の中から導き出した相応しい根拠を提示するのは必要であり、それが成されないまま先に進んでもニッチもサッチも活きません

 
もちろん、新しいアイディアには上手くいくものと、上手くいかないものがあるのは事実です。

でも、本当は「新しいアイディアに根拠なんてない」のですよ。
多くの場合はそうですが、稀にちゃんと根拠を提示できる人たちがいます。より進んでいる考えを持った人たちは世の中それなりにいるものです。


多くの人は、アイディアの根拠を提示したら「それっぽい適当なものをでっち上げている」にすぎません。(これが非常に問題で、学者や知識層や統治者はこのようなものに騙されやすかったりします。ただ、多くの無学の庶民文化はこのような誘導には引っかかりにくいのです。なぜなら思考の仕方がより現実での生活や文化や習慣や風習に根付いているから。多くの異文化や新しい思想により俯瞰的な眼で見れます。

本当に今までにない新しいアイディアなら「根拠なんて提示できない」のが当たり前なのです。
これはマジでその通りなので、あまりそのような根拠のない(ように見える)アイディアを出す人を異常者扱いするのも困りますね。社会の発展が停滞します。ただ、根拠をちゃんと聞いてあげて、一緒に考えてあげるだけで良いはずです。
もし、簡単に根拠を提示できるのなら、それは今までと変わらない似たようなアイディアだからです。(そしてそのような社会がいつまでも続くと、新しい世代と古い世代の意識と生活スタイルの隔絶が起きて、多くの民族内紛争や人種間戦争の火種になります。

そこに、進歩と飛躍も望めません。(停滞している社会が悪というわけではありません。世代交代の時期にスムーズに新しい生活スタイルを受け入れないと多くの方が遺伝的な影響などにより心のバランスを崩すために、絶望と荒廃思想が広まります。

昔の偉人は「こうやれば上手くいく」という根拠もないアイディアを試行錯誤の上でものにしていったにすぎませえん。(それに社会が追いつくまでに多くの闘争と奮闘があったと思います。そして周囲の人間からの不理解も。庶民というのは無学なものなのですので。ただそれは、社会環境や教育制度の問題にあるので、多くの人が責められる言われもありませんし、そのような方たちが実践する民間の学問というのは非常に重要な智慧が詰まっているのでしょうし、全く協力が取れていないのが多くの問題認識の不一致を産んでいるんです。

逆に当時に偉人が「根拠のあるアイディア」しか実践していなかったら、既存の枠組みに収まるばかりで飛躍も躍進もなかったはずです。(そして現代社会で生み出されてきた文化的な退廃も産まれ得なかったのは事実なのでしょう。


だから、あなたは自分の思う通りにやっていいのです。

エビデンス(根拠)はあなた自身で良いのです。

あなたが良いと思ったやり方を自分自身で確かめてそしてみんなでアイディアを試して、磨いて傷つけて修正して形作っていくしかないのです。修正していくしかないのです(これ重要)。

試して(try)、洗練(refine)磨いて(polish)いくしかないのです。それで良いのです。

 

智慧の実を着けた木を育てるためには、実を磨いていて、汚れや虫食いのないキレイで美味しい実を見つけて選別するようにしなければいけないのです。

 

その種を植えることによって、多くの人達がお美味しい実を食べることができるのです。(少なくとも私はそう思います)

その時の考え方は、トライアルアンドエラーでないのです。

トライアンドリファインアンドポリッシュなのです

エラー(失敗)したとは考えずに、リファイン(修正、洗練)すると共にポリッシュ(磨いていく)と考えるのです。それがよりベターなやり方だと私は思います。
 
むかしから、大きなことを為した人はうまくいかないことを「失敗」とは考えてはいなかったと思います。(そして反省と後悔と立ち直りそして立ち上がる気概を忘れずに行くこと、そのような大人の精神をもって、自分たちの置かれている状況と現実と未来と過去に起きた事と過ちたちと永遠に付き合ってその度に信じる気持ちを忘れずに生きることでのみ未来は開けていかないのでしょうね

むしろ、上手くいないことがあるたびに「修正、洗練、研磨、精錬」していき、どんどんゴールに近づいていくと考えたのではないでしょうか。(そのような精神を持って覚悟を決めて来て生きて、生ききったのではないでしょうか)

あなたは、「こうすれば上手くいく」というあなたのアイディアを、どんどんトライしてリファインしていってください。(まずは、自分自身でそれを行い確かめること。過ちを繰り返して間違っている考えをその度捨てて一新して刷新するひつようがあります。そうしなければ何も私たちの世界は変わらないし、変われないと思っています。すこしづつ、一日一歩確実に着実に、3日進んでは牛歩の如くしっかりと大地を踏みしめて、年をとった亀のごとき歩みで自らを律しながらすすんで、間違っていたら最初に戻って振り出しから初めてその度にやり方を変えて。明日の風はドコ吹く風と思いながら、風見鶏と天気をみながら空気を読んで周囲の人たちと仲良くしながら、行きたい未来へ歩いて行くのが必要です。アラジンと魔法のランプのような魔神の力を借りたいと思ってもそんなの当てにしている内はまだまだ子供です。ガキンチョの精神では未来は作れません。

最終的に、あなたの人生で起こること、その全ての根拠をあなた自身でそして皆の力で持って証明してしまえばいのです。

人生のやりたいこと、上手く行かせ方、そのエビデンスは最初から最後まで「あなた自身」でよいのです。

 

そのような信じる心が未来を作るのです。

そして自分以外の人たちもそれぞれ譲れない何かを信じているということを理解しよう。例えあなたがそれ自体を理解できなくても。

 

なぜなら、人には個人的な信念と理念と得意な事がありそれはひとそれぞれ結構違うからです。マジで大事ですよこの考え方は。

だから、とりあえずはあなたはあなたのやり方でよいのです。

時間が立つに連れて人は成長していくものなのだから。


いかがでしたでしょうか。

親や教師や上司は、あなたの主張に必ずと言っていいほど「根拠」を求めます。

あなたは、いつも思っているはずです「根拠なんてないよ、好きにさせろよ」と。たぶん。

でも、あなただって同じだと思います。他人の主張に根拠を求めている。

でも、自分自身が人生でやりたいことに「根拠」も必要ないし「他人を説得」する必要も本来ありません。

とにかく、やってみるしかないのです。

 

そこから始めるのが人生をうまくいかせる最も確実で大胆なやり方です。そして、それを信じられるのかがいつだってあなたの人生を左右してきたはずです。

なので、とりあえずやってみて、やってから初めて考え直してやり直すその都度磨き直してはやり方を変えてみるみたいな考えとやり方が適切でしょう。

 

”Try And Refine And Polish Thinking And Trust Our Policy of  Each Other And Respect Another Values and Differences of Senseor of Visual and Sounds and Preferences for Life Style  snd Saint Poeple and  UnderStand for Coropration with Every Organization On the Planet and Total International Organization Network System and Local  Organiztion's Actions and Decisions To The Our Future(TARAP Thinking and Trust TOP of Each Other And Respect Another Values and Differences and Preferences for life Style and Saint Poeple and Understand for CEO Options and LOAD To The Our Future”) 方が億倍も万倍もましです。

それが、シンプルで間違いないです。


では、今回の記事は以上になります。

ではでは。

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おひさしぶりです。元dokubo_tosho

はじめまして


冬生真礼(ふゆう まれい)と申します。


この度、冬生真礼の人生迷宮(ふゆうまれい の ライフ・ラビリンス)の管理人として、livedoor blog 独房図書の覚書の閉鎖から7年ぶりにブログSNS活動を再開しました。

元のハンドルネームは

dokubo_tosho

tosho

です。

現在は他にも並行してdokubo_tosho_のハンドルネームで「dokubo_tosho統合失調者の闘病記。」も執筆しておりますが、これはこのブログとは別枠のメンタルヘルスブログなの当ブログでは基本的に言及しませんが、気になる方はdokubo_toshoで検索していただけたら幸いです。

このブログは、オカルト・スピリチュアル・超心理学等の現代社会ではあまりなじまない領域の知識やknowhowにできるだけ解りやすく丁寧に科学的な視点から光を当て冬生真礼の個人的な探究心をみたしつつ社会に実益を供しようとせんとするも目的で開設されました。


どうぞよろしくお願いします。

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 引き寄せの法則:最終決定稿

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は「引き寄せの法則:最終決定稿」になります。

 

引き寄せの法則に関する理論が完成したので最終決定稿としてまとめました。

 

 

引き寄せの法則とはイメージングを利用した願望実現法です。

 

自分の願望が叶った状態をリアルにイメージして願望が叶った喜びをありありと感じたら、いずれ現実でもその願望が叶うという方法です。

 

結構昔からこの引き寄せの法則はスピ界隈では流行っていて多くの方が試されて、願望が叶ったり叶わなかったりしています。

 

で、ようやく引き寄せの法則がどのような原理でそれを行う者の願望を叶えるのか分ったのです。

 

キーワードは、松果体、無意識のグローバル通信、脳の同調・模倣・共感能力・インスピレーション、集合意識、シンクロニティ、電磁波などです。

 

人間の脳にある松果体という部位は、人間の身体で電磁波の送受信をするエネルギーセンターになっています。

 

人間が他者の悲しみをありありと感じるときには、悲しんでいる人のの生体活動から発した電磁波を松果体で受信して、ミラーニューロンが電磁波から他者の生体活動の情報を読み解き電磁波を受信した人間のなかで読み取った生体活動から悲しみの情動を生み出す神経活動をを再現・模倣してそれを自分の中で感じて共感しています。

 

それが、「脳の同調・模倣・共感能力」の仕組みです。

 

そして、松果体は常時他者の生体活動からはっした電磁波や、宇宙から降り注ぐ電磁波など中空を漂う電磁波を受信しては神経活動や神経活動を担うエネルギーに変換しています。

 

それは無意識で行われているために、脳は常に無意識のグローバル通信と呼ぶべき離れて存在する人間どうしの無意識レベルの通信をしています。

 

無意識のグローバル通信のための思考や生体活動から生じた電磁波が中空にビンビン飛んでいてそれが物理的に人間の集合意識を形成して言います。

 

東京に住んでいる人間が無意識のグローバル通信のために放出した電磁波は主に東京に滞留しているので、そこに東京都民の集合意識が出来、同様に日本の集合意識、アジア太平洋地域の集合意識、アメリカ大陸の集合意識、地球の集合意識が生じています。

 

また、無意識のグローバル通信は基本的に同種の生物どうしにより行われ、人種や生物種が遠ければ無意識のグローバル通信は難しくなったり不可能になったりします。

 

人間がある思考、「Aさんと電話したいな」をした時に、その思考から生じる生体活動の電磁波はもちろん頭蓋の外に放出されます。

 

その思考が集合意識に加わり、その集合意識に属する「〇〇さん」やその他の人が脳の同調・模倣・思考能力により無意識に誘導されたり、またはAさんが「インスピレーションを受け」急にその思考に発信もとであるBさんに電話を掛けるというながれがあります。

 

または、そももそも「Aさんと電話したいな」という思考がAさんの「Bさんと電話したいな」という思考が元に生じたインスピレーションかも知れません。

 

シンクロニティはまずこの様な原理があります。

 

そして、引き寄せの法則も上記の原理を利用しています。

 

Cさんが「車を購入する為に300万円必要」だとして、引き寄せの法則を利用してイメージングを行いました。

 

「300万円手にいれてほしい車をてにいれて喜びに溢れている自分をイメージして喜びの感情に浸りました」

 

まず喜びの感情に浸るにはそれが本当に欲しいものでなければイメージしても感情が湧きません。

 

そして、感情は頭蓋の外に放出する電磁波のエネルギー量を爆上げします。

 

感情を伴わないイメージでは、電磁波の強度が足りなくて上手く集合意識に届いてくれません、届いても自宅の中とか近所とかそんなレベルです。

 

また、感情を味わっても一瞬ではエネルギー量が足りないので、暫くの間15秒はその状態を維持する必要がります。

 

上記の条件が満たされていれば、イメージングによりCさんのイメージは集合意識に加わり多くの人の無意識に影響を与えます。

 

そして、脳の同調・模倣・共感能力により、多くの人に無意識から思考の誘導が起きたりインスピレーションが起きるなどして結果的にCさんの願望が叶います。

 

また、多くの場合Cさん自身にもインスピレーションが湧きそれにしたいがい行動する必要があるでしょう。

 

この原理に従えば、Cさんが行動しなくても願望が叶う可能性もありますがなにも行動しないで願望が向こうから歩いて来てくれるのではない場合の方が多いでしょう。

 

ただ、もちろんいつ叶うかはわからないし、集合意識がCさんの願望を叶えないことを選択するかも知れませんし、条件的に無理な可能性もありますし、300万円が手に入るのではなく直接車が手に入ったりすることもあります。

 

なので、引き寄せの法則を使えば絶対願望が叶うというわけではないし、そもそも貴方の願望事態が誰かの引き寄せの法則が原因のインスピレーションや思考の誘導かも知れません。

 

過度な期待は禁物だったりします。

 

もちろん、集合意識が判断するので独りよがりな願望より多くの人が支持するような結果が起きる願望のほうが叶いやすいでしょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

ひさしぶりに、願望実現関係の記事なりました。

 

今回の記事は巷のあふれる引き寄せ本の理論に関して最終決定稿になるのではないでしょうか。

 

今回も鵜呑みにしないでくださいと言いません。

 

ある程度確度が高い内容になっています。

 

この理論を元に引き寄せの法則で願望を叶えたい方は叶えるの良いでしょう。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

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アファメーションおすすめ色々

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、「アファメーションおすすめ色々」です。

 

様々な効果が期待できるアファメーションを紹介します。

 

また、今までの記事で取り上げたものを含みます。

 

 

まずは心理作用アファメーションから。

 

『私は私の個性を愛しています、受け入れています、完全に認めています、感謝しています、尊重しています、尊敬しています』

 

自分の性格や身体的特徴、得手不得手等の自分の個性をありのまま受け入れるためのアファメーションです。

 

自分で自分の個性をありのままを受け入れるので、心理的抵抗や課題の解消に繋がり、それが原因の体調不良や病の解消が期待できます。

 

個性の部分を「肉体の個性」「女性性(男性性)「人生」などに変えても良いでしょう。

 

 

女性におすすめ。

 

『私は私が美しいことを、認め、許し、受け入れ、愛しています』

 

美容に対して期待ができます。

 

 

自己肯定感を養います。

 

『私は私を愛しています、感謝しています、尊敬しています』

 

メンヘラが治るかも。

 

 

身体的コンプレックスを無くしましょう。

 

『私は私の肉体を愛しています、感謝しています、尊敬しています』

 

身体が健康になるかも。

 

 

肉体作用系アファメーションです。

 

 

知的能力や自制能力の向上が期待できる。

 

『前頭葉が活性化している』

 

 

記憶能力の向上、記憶能力低下を防ぐ。

 

『海馬が活性化している』

 

 

直感や共感能力の向上、スピリチュアルな能力も目覚るかも。

 

『松果体が活性化している』

 

 

認知症予防。

 

『脳の血流が良くなっている』

 

 

イメージ能力(自己抑制能力)の向上

 

『右脳(左脳)が活性化している』

 

 

ダイエット効果

 

『余分な脂肪が燃焼している』

 

 

心身の健康に

 

『胃腸が健康になってる』

 

 

視力低下予防

 

『目の筋肉がリラックスしている』

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は「アファメーションおすすめ色々」でした。

 

結構雑な書き方になってしまいましたが、そこそこ効果の期待できるアファメーションの文言をまとめてみました。

 

私が使用しているモノがほとんどなので危険のあるアファメーションはないので、好きな効果のアファメーションを使用してください。

 

頭の中だけで唱えても効果はありますが実際に口に出して喋ってそれを自分で聞いている方が効果が高いです。

 

今回の記事は以上なります。

 

ではでは~。

 

 

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アファメーションと意念法で病気治してみる?

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事のタイトルは「アファメーションと意念法で病気治してみる?」です。

 

突然ですが、宇咲愛さんってご存知でしょうか。

 

スピ界隈ではそこそこ有名で、アシュタールという宇宙存在のチャネラーをしているそうです。

 

その方が書いた本を読んだことがあるのですが、彼女がチャネラーになるきっかけになったのが宇宙からのメッセージで手術が必要とまで言われた子宮筋腫を直したことだそうです。

 

なぜ、子宮筋腫になったかと自分の身体に問うてみたら「男社会で女性性を犠牲にして働くことが原因だ」と返ってきたので、女性である事を尊重した生き方に変え自分が女性である事を尊重する旨のアファメーションをしたら次第に子宮筋腫が治っていったそうです。

 

それを切っ掛けに宇宙からのメッセージを次々とチャネリングしていくことになったそうですが。

 

それはさておき。

 

このブログの読者の皆さんはこのような現象(手術が必要と言われた病気を自分で治す)についてどう思いますでしょうか。

 

この本をよんだ方は「そんなことがあるのか!」と思われたでしょうか。

 

「まさに奇跡だ!」とでも思ったでしょうか。

 

私がこの本を読んだ時の感想は「普通」「不思議なことじゃない」「結構当たり前」です。

 

このブログでは以前から、アファメーションの原理や効果、意念法のついて述べてきました。

 

アファメーションで脳を活性化したり意念法で病気を治癒できるなら、その逆も出来て当然だと思いませんか?

 

言葉や意念が原因で病気が生じるということが当たり前にあると思いませんでしょうか。

 

上記の宇崎愛さんの例で言えば、自分が女性であることを犠牲や否定した生き方をしてれば当然ですが女性性の源である卵巣や子宮に対して臓器が活性化して身体や精神に女性らしさを発揮させるホルモンの産出や女性にしか出来たい子供を産むといった機能の阻害を脳がトップダウン経路で身体に大して命令します。

 

もちろん、子宮筋腫になるような身体機能の阻害が起きるかは人それぞれだと思いますが、卵巣や子宮周りに対して機能を阻害するような出力を「自分が女性であることが憎い」というような心理や思いがあればしてしまうでしょう。

 

これは意念法の原理に基づいています。

 

また、普段から、自分が女性であることを否定したり恨んだりするような発言や思考をしていれば同じようなことがアファメーションの原理によって行わるでしょう。

 

心理や思いや言葉というのは、普段から人間の身体に様々な作用しています。

 

スピリチュアルな世界では、病気や怪我は自分の霊的な抵抗や課題があることを現して気づかせてくれるギフトだという考え方があります。

 

私は病気がギフトだとは考えておりませんが、上記のような事がある理由としては心理や思いや言葉というのは人間の肉体に様々な作用をしている為にネガティブな思いや自己否定やらの心理や霊的な課題や抵抗があれば普通にそれが身体に色々な形で現れるので、病気の症状を元にどの様な抵抗や課題があるか逆算して導きだせるからでしょう。

 

そして、そのような抵抗や課題を解消すれば身体の不調も同時に解消されると言う寸法です。

 

その他で言えば、怒りっぽい正確なのに無理に起こるのを我慢していれば肝臓を痛めるかも知れませんし、自己否定は胃腸を痛めるかも知れません。

 

そこらへんは東洋医学的な考えを学べばもっと詳しく分るかも知れませんね。

 

なので、アファメーションや意念法を用いて病気の治癒も可能でしょう。

 

もちろん、課題や抵抗などの「本来の自分」から外れていれば身体に様々な作用を及ぼしますが、単に食生活の乱れとか運動不足などの方はそれを正す必要があると思いますので、病気なら何でもアファメーションと意念法を使えばよいというわけではないとは思います。

 

しかし、一般に心理的な抵抗や課題の為に身体が病気になるというのは決して珍しいものではないので今体調不良の方やご病気の方は今一度自分に心理的な抵抗や課題がないか、本来の自分から外れていないかということを考え見るのもいいでしょう。

 

また、単純にアファメーションや意念法のテクニックを浸かって、胃腸を活性化するとか、肝臓を労るとかでも体調不良には効果があるでしょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は、「アファメーションと意念法で病気治してみる?」でした。

 

記事冒頭の宇崎愛さんのエピソードは決して奇跡でもインチキで任せではないでしょう。

 

結構普通で当たり前なことです。

 

今までの私が書いた様々なブログ記事を読んでいれば、すんなり理解できると思いますのでご興味があれば過去の記事をあさってみてはいかがでしょうか。

 

もちろん、今回の内容も鵜呑みにしてはほしくないのですが、体調不良の方やご病気の方は自分の「本来の姿」から外れていないかそれが抵抗や課題を産んでいないかを今一度考え、あるならば意念法とアファメーションを用いたアプローチをしてみるのも良いでしょう。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

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政治責任の分散:大きいことは良いことなのか?

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、「責任と影響力の分散」、まあ政治に関する記事です。

 

 

連日連夜政治のニュースがTVから流れてきますが、国会も総理大臣もどうしてこうも批判されたりするのでしょう。

 

多くの国会議員は選挙で民衆の支持があったから当選したはずです。

 

わざわざ政治家になろうとするくらいだから志だってあるでしょう。

 

仕事だってそれなり真面目にやってるはずです。

 

しかし、与党と野党はあいかわらずバチバチ対立していますし、野党の足並みはまあそろっていません。

 

ネットでは、多くの人が気軽に与党批判野党批判政治家批判総理批判をしています。

 

今や政治は混沌とした情報の渦に飲み込まれて何が正しい判断でなにが間違った判断なのかはよく分かりません。

 

すくなくとも私はよく分かりません。

 

この様な状態が起きるのは政治の責任の集中が原因ではないでしょうか。

 

責任とはつまり、責(役割)を任される事です。

 

役割を引き受ければ権利と義務と影響力が生じます。

 

誰かに責任を集中させるということは、その人に大きな役割を任せて他の人には役割を任せないことです。

 

そのために、責任を集中させることは個人に多大な権利多大な義務多大な影響力をもたせて、他の人を無責任し権利と義務と影響力を放棄させる行為です。

 

現在日本はおおよそ1億2千万人の人口と47の都道府県を持ち世界第3位の経済規模を持つ大国家です。

 

地方自治体と地方議会があれど、一つの国会と政府が広い日本の国土と人口を収めるのには無理があります。

 

国会議員は衆参あわせ約700名。

 

この700人に、日本の持つ資源・人材・資金を用いて日本をより良い国にする権利と義務と影響力を集中させているのです。

 

そして、その他非国会議員である多くの国民は選挙の時以外それらを持たないのです。

 

政治システムとしては、とても不出来と言わざるを得ません。

 

その700名は様々な政治信条を持ちますが、国会での多数派の制定する政策だけが日本全土に敷かれるのです。

 

その政策で利益を受ける人はもちろんいますが、反対に不利益をうける人もたくさんいるのです。

 

ここまで独占的に国民の財産を使用できるのは少々不味いでしょう。

 

なので、責任を分散させるべきです。

 

簡単に言えば、霞が関の国会と政府を解体して、地方地方により政治の責任(と権利と義務と影響力)を分散させるのです。

 

大きな責任を少数の人間に任せて大きな国を運営するのではなく、それぞれ程よい大きさの責任を多数の人間に任せて自ら自治させるのです。

 

戦前の日本は大日本帝国を築いていましたが、今後は日本同盟国でも作れば良いのです。

 

地域地域で小さく政治主体を分けで責任を分散させることで、独裁的な政治・多数派のみ利益ある政策を防止するのです。

 

手始めに、政治を西と東でそれぞれ分けて自治をさせるべきです。

 

東京を中心とした東日本自治区、京都を中心とした西日本自治区を作って中央集権的な政治をやめれば良いのです。

 

それから徐々に、各都道府県ごとの自治を強化していけばいいでしょう。

 

大きくするのが良いことだという考えを捨てるべきです。

 

国や会社は大きければ大きいほどよいというのは幻想です。

 

適切な規模というのは何にでもあります。

 

中国とアメリカだって政治を良くしようとしたら中央集権的な政治をやめて地方自治権を強化すればよいのです。

 

地域ごとに住んでる人間や地元の文化や伝統、強い産業などまるで違うのに大国を一律の政策で統一しようするから無理や理不尽や利権が生じるのです。

 

アメリカや中国や日本は国としてデカすぎるのです。

 

もっと小さく分けるべきです。

 

基本的に集団を大きくしようとするのは外敵に対抗するためです。

 

しかしもはや、地球上には侵略国家は存在しません。

 

互いに国を大きく大きくして争うより、大きくなりすぎた国を互いに小さく分けて地域住民が住みよい自治をするだけで戦争も過当競争もなくなるでしょう。

 

経済も政治も大きくするのは良いことだという幻想を捨てるべきです。

 

大きくなりすぎたなら必要なら小さく分割すべきということも知っておいてください。

 

国も企業も今後は「大きすぎるということは不便だし危険だ」ということを理解するようになるでしょう。

 

責任もそれにともなく権利や義務や影響力も小さく分散すべきなのです。

 

あとは、地域住民の代表者に政治の権利と義務を信託するのではなくIT技術を用いた直接民主的な政治システムを構築するべきです。

 

地方議員の責任を強化するのではなく、地域住民一人ひとりが自ら住む地域の政治に直接参加し責任をもてるようにすべきです。

 

21世紀の新しい政治システムは、「小さく分けて分散させてネットワークでまるく繋がる」という分散型政治システムを採用すべきでしょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回は政治と責任について語ってみました。

 

個人的に考えている事を書いただけなので、本職の政治家や政治研究者の方から見たら拙いことを言ってるかも知れません。

 

まあ、あまり鵜呑みにせずにこんな事を考えているやつがいる程度に考えてください。

 

個人的に「大きいことは良いことだ」、というのは好きではないですし、日本や中国やアメリカと言う国が今後何百年もそのままの形で残るなんて思っていません。

 

すくなからず国としての形は変わっていくと思います。

 

それが、「大きくなりすぎた国を小さく分割して分散型政治システムを導入する」ということになるかは未知数ですがね。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

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松果体が活性化している!

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事はおすすめアファメーションの紹介です。

 

今までこのブログでは、アファメーションの原理を説明したり、勉強におすすめなアファメーションの紹介などしてきました。

 

アファメーションの原理は、「人間が言葉を理解する時は、言葉の意味を身体が再現してそれを感じている」ですね。

 

勉強におすすめなアファメーションは「前頭葉が活性化している」や「海馬が活性化している」です。

 

前頭葉という言葉の意味をちゃんと理解している(前頭葉が人間の脳の何処の部位であるかを理解している)ならば、「前頭葉が活性化している」というアファメーションを唱えれば、前頭葉に脳血流が集まって前頭葉の機能が活性化します。

 

「私は私を愛している」の様な心理に作用する類のアファメーションと違い、上記のような肉体操作系のアファメーションはダイレクトに効果が肉体に現れます。

 

肉体操作系のアファメーションは、人体に対する知識があれば様々な効果が期待できます。

 

胃腸の調子が悪い時に、「胃腸が活性化している」とか酒を飲んで二日酔いの時に、「肝臓が活性化してアルコールを分解している」とか。

 

人体の知識が豊富なお医者さんなんかは、自分で考えたアファメーションで色々な効果を期待できるでしょう。

 

そして、今回紹介するアファメーションはタイトルにもある通り「松果体が活性化している」です。

 

もちろん松果体が脳のドコの部位であるかという医学知識を知っている必要がありますが、そんな物は今の御時世ネットで簡単に調べられるので説明しません。

 

この「松果体が活性化している」のアファメーションの効果は、「松果体に血流が集まって松果体の機能が活性化する」です。

 

そして、松果体は、このブログで提唱している「脳の同調・模倣・共感能力」に関わってくる脳の部位で、他にもスピリチュアルな能力に関わってくるとされています。

 

松果体は、その構造としてケイ素を多分に含んでいることが予想され、頭蓋の外に漂う電磁エネルギーを脳に引き入れたり、脳神経の活動から生じるエネルギーを電磁波として頭蓋の外に放射する機能があると思われます。

 

松果体が健康で活発に機能しているならば、「脳の同調・模倣・共感能力」が強まりテレパシーじみた感応能力が得られるかも知れませんし、大気中に漂う電磁波や宇宙から降り注ぐ電磁エネルギーを脳に取り入れて心身が活発になるやも知れません。

 

なので、勉強が出来るようになるかもしれない「前頭葉が活性化している」のアファメーションと同様、「松果体が活性化している」のアファメーションをお勧めします。

 

もちろん、そんな物には興味がないという方はこの「松果体が活性化している」のアファメーションをやる必要はありません。

 

なので、興味がある方だけにこのアファメーションをお勧めします。

 

このアファメーションをやれば、すぐに松果体に血流が集まって松果体の機能は活性化します。

 

あとは、継続して暇な時に自室でブツブツ呟く程度で徐々にあなたの松果体の機能はアップしていくことでしょう。

 

このブログはスピリチュアルブログランキングにも登録していますし、スピ界隈の人も多く見に来ると予想されるので紹介したしだいです。

 

難しい瞑想をすることなく松果体の機能をアップさせて見たいという方にはお手軽に試せる簡単な方法です。

 

もちろんアファメーションをやって不快だとか気持ち悪いとか具合が悪くなったらすぐに辞めて様子を見てくださいね。

 

どうしても合わない場合もあるでしょうからその場合はこのアファメーションはやらないでください。

 

健康事情は個人個人千差万別ですし、そのような方がいてもおかしくはないですから。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は、おすすめアファメーションの紹介でした。

 

昨今のスピブームで松果体だの高次エネルギーだのアセンションだの色々言われていますが、このブログでもそのブームに乗っかってみました。

 

今回は鵜呑みにしないでくださいとは言いません。

 

なぜなら、アファメーションの原理についての仮説は個人的な検証により確度がほぼ100%に達しているからです。

 

それにおすすめとわざわざ言っているのに鵜呑みにしないでくださいというのはかなり無理があるでしょう(笑)

 

まあそんな感じなので興味がある方は試してみるのも一興でしょう。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

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電気エネルギーと人体

こんにちわ、toshoです。

 

GWで役所が休みなので色々手続きが進みません。

 

まあtoshoのプライベートな事はさておき、今回の記事は「電気エネルギーと人体」です。

 

 

人体には電気エネルギーと関わりが深い場所がいくつかあります。

 

例えば、毛髪。

 

大気中を飛び交う電磁波のアンテナとして機能しています。

 

水分と油分を含んだ健康な毛髪は、電気エネルギーの通り道やコンデンサとして機能します。

 

また、取り込んだ電気エネルギーは毛髪を通して頭蓋内に通され松果体を通し脳全体にエネルギーを供給すると思われます。

 

余談ですが、松果体はスピリチュアル業界では古くから神聖視され、魂の座とかテレパシーを可能にするとか言われています。

 

おそらく松果体は胸腺や脾臓と同じでケイ素含有量が多い臓器なのでしょう。

 

ケイ素は半導体にも多く使われています。

 

電気エネルギーとの相性もいいので、松果体や胸腺は大気中の電気エネルギーを受信したり、生体活動から生じる電気エネルギーを電磁波として大気に放出したりするエネルギーセンターにもなっているのでしょう。

 

また、電気エネルギーからホルモン物質を生成する機能もあると思われます。

 

松果体だったらメラトニン、胸腺だったら胸腺ホルモンとかですね。

 

なお、松果体とケイ素の関係を指摘するのはスピリチュアルな世界ではすでにまことしやかに言われていますが、ケイ素は人体に必要な成分ですし内分泌器官である胸腺だってケイ素を多分に含んでいるとすでに科学で認められているし、同じ内分泌器官である松果体がケイ素を多分に含んでいたとして全然不思議ではないのです。

 

別に非科学ではないですね。

 

話を戻しますが、毛髪は電気エネルギーの通り道だったり、電気エネルギーを蓄えるコンデンサとしての役割を果たします。

 

昔から、魔女が髪を伸ばすとか坊さんが髪を剃るとかはこれらの意味合いが多分にあると思われます。

 

スピリチュアルな能力を要求する魔女と呼ばれる人たちは、毛髪から体内に電気エネルギーを引き入れ脳の神経活動に必要なエネルギーを賄っていたり他人の生体活動から発する電磁波のアンテナとしてマインド・リーディングや直感に役立てていたと思われますし

、髪を伸ばすことでコンデンサの容量を増やしていたのでかと思われます。

 

坊さんなんかは、有害な電磁波を毛髪を通して体内に引き入れないようにしたり、脳がエネルギー過剰になって暴走しないように無駄に大気から電気エネルギーを引き入れないようにしていたのではないでしょうか。

 

毛髪の他にも電気エネルギーと関わりの深い箇所があります。

 

鼻(正確には鼻腔)です。

 

おそらくですが、鼻腔は電気エネルギーのセンサーになっていて、鼻腔内の電磁波の共鳴ぐあいから地磁気の方角を割り出したりすることが可能になっていると思われます。

 

渡り鳥なんかは多分この感覚がすごく繊細なのだと思います。

 

多分ですが、多くの生物が感度に差こそあれこの鼻腔内の電磁波の共鳴センサーを持っているのだと思われます。

 

人間にも知らない場所に行ってもすぐどちらが北でどちらが南といった方角をすぐに分かる人が居ます。

 

その様な人は、この鼻腔の電磁波の共鳴センサーが常人より発達しているのではないでしょうか。

 

ちなみにこの様な類の人は鼻づまりや副鼻腔炎や花粉症などの状態であればたやすく方角の感覚がわからなくなると思われます。

 

普段何処行っても道に迷わない人が何故か道がわからなくなってしまった時は、風邪気味で鼻の調子が悪いときかも知れません。

 

昔の拷問で犯罪者の鼻を削ぐ場合がありますが、鼻を削いでしまえば鼻腔内の電磁波の共鳴がなくなりますので犯罪者が逃亡しても道がわからなくなって迷子になってたやすく逃げおおせることを防ぐことが出来ます。

 

昔の街道や乗り物などのインフラが発達していない時代には、そのような鼻削ぎは犯罪者の逃亡を防ぐには結構効果を発揮したのではないでしょうか。

 

また、地下のマグマの滞留や流動は地磁気を大いに揺らします(マグマの成分に金属質が多く、流動の速度も膨大かつ高速なので)ので、火山の噴火や地震の予兆を感知する超能力者じみた方もいらっしゃいます。

 

そのような方は、大きなエネルギーのうねりを感じるとか、大地の鳴動を感じるとか、龍神が暴れているとか言いますが、単純に地下深くのマグマの動きを地磁気のゆらぎから鼻腔のセンサーで感じているだけですね。

 

そのような方は別段特別な能力者ではなく、鼻腔の電磁波共鳴センサーの感度がすごく良いだけです。

 

地震や火山の噴火を予言しようとしても、火山の噴火や地震のメカニズムはそんな単純じゃないのでまま外します。

 

また、もちろんですが、センサーになっていると言うことは外部エネルギーとのインターフェイスになっているわけでここからエネルギーを体内に取り入れていもいます。

 

めちゃくちゃでかいマグマの流動などがあった場合は、地磁気の乱れが発する膨大な電磁エネルギーが鼻腔から流入するために、気持ち悪くなったり酔ってしまったり具合が悪くなる場合もあります。

 

その様になってしまった方は、水で湿らしたティッシュを鼻の穴にツッコミ深呼吸(鼻ですって口ではく)すると、気持ち悪さを低減させる事ができるので知っておいてください。

 

他には筋肉もあります。

 

筋肉はおそらくですが電気エネルギーを蓄える機能も少なからずあります。

 

おそらく筋膜とかに蓄えられるではないでしょうか。

 

筋肉量が多い方は、筋肉から発せられる電気エネルギーが大きいのでいわゆる気配が大きくなります。

 

人間には電気エネルギーを感じるセンサーが鼻腔にありますので、漫画の武術の達人のように相手の筋肉量を感知することが可能な人がいます。

 

そのような人は今では少なくなりましたが、着痩せしているけど実はマッチョのような人間を見抜ければ勝てない喧嘩などしなくなります。

 

見た目強そうなやつと実は強いやつと戦わなければ危険はだいぶ回避されますので。

 

筋肉の重さに対する出力は全生物共通なので、動物なんかも相手の筋肉量などを鼻腔のセンサーで感じて勝てるか勝てないか判断しているのではないでしょうか。

 

また、筋肉量が大きい人は体から発するエネルギー量が大きいので相手に威圧感を与えてしまいます。

 

その様な人は服で体型を隠していても、敏感な人なら筋肉が蓄えているエネルギー量を察知してしまいますのでなんか怖いとか威圧感があるとか避けられてしまいます。

 

基本的に動物は相手のエネルギー量(筋肉量)で強さを感知するのでそのような人は動物にはなつかれにくいかも知れませんね。

 

ちなみに、テレビや写真などの映像媒体を通して相手をみても筋肉が発する電気エネルギーを感知できないのであまり威圧感や気配やオーラなどは伝わりません。

 

実際に対面するときにしか、相手の筋肉から発するエネルギーは感知できないのです。

 

なので、テレビで人気のタレントが実際に対面してみるとすごく強い気配を発するのでびっくりしたとかあるでしょう。

 

わたしもあります。

 

次に神経系。

 

神経系は電気エネルギーの通り道です。

 

神経系は全身広がっており常にエネルギーが流れています。

 

神経系に流れる電気エネルギーと筋肉が蓄えた電気エネルギーにより、生体磁場が形成されます。

 

これがいわゆるオーラです。

 

筋肉が発するエネルギーが大きければオーラは大きいです、体内の神経活動が活発であればそこから発するエネルギーも大きくなりますのでオーラは大きくなります。

 

また、筋肉は生体が発する電磁バリアーとしても機能します。

 

筋肉量が少ない人は、体外の電磁エネルギーに対する防御が弱いです。

 

筋肉量がでかい人は、生体磁場の出力も範囲も大きいのでちょっとやそっとの電磁エネルギーはシャットアウトします。

 

ただ、それは筋肉に水分と油分が十分に蓄えられている状態に限りますので、マッチョでも風邪引いてるときなど身体がカラッからになるので電磁的な防御は弱くなります。

 

なので、マッチョというのは健康な時は気が強いですが風邪など引いてる時はすぐ気弱になります。

 

旦那さんや彼氏がマッチョで普段気が強いのに風邪引いた時はめっちゃ気弱になるという方は、まあそういう理解でいたわってあげましょう。

 

そういう時はチョコ食わせてココアでも飲ませておいてください。

 

チョコは弱った神経系によく効きます。

 

こころが弱った時はチョコはよく効きます。

 

そういう成分が入ってるのです、詳しくはきかんといてください。

 

ちなみに、神経過敏な人にもチョコとココアはおすすめですね。

 

最後に足。

 

人間歩いているときには、足が地面と衝突する運動エネルギーで足に電気エネルギーが生じてそれが生体活動のエネルギーに使われます。

 

車が通過する振動で発電する道路とかありますが、車が通過する振動で発電するなら人間の足だって歩く時の衝撃で電気エネルギーを生み出します。

 

普段ゴム底の靴を履いている人は歩く時に足で生じるエネルギーが全部体内に流入します。

 

なのでそういう靴は歩いていても非常に疲れにくいです。

 

木底の靴などは歩くことで発生する電気エネルギーが地面に逃げますのでちょっと疲れやすいです。

 

ちなみに身体に電気エネルギーが溜まりすぎている時は、素足で地面たって足の裏から地面に過剰なエネルギーを流すイメージワークをしてやれば過剰なエネルギーを流すことが出来ます。

 

身体の油分が少なくなっている人が、身体に電気エネルギーを溜めすぎると神経過敏とかになったりすることがあるので、そういう人におすすめです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は「電気エネルギーと人体」になります。

 

まあいつものごとく、鵜呑みにすることなくそんなこといっているやつがいる程度に留めてください。

 

まあ、ダイエットして油分からからで神経過敏になっている人はチョコ食うのはおすすめです、とは言っておきます。

 

非常に長くなってしまったので、疲れました。

 

今回は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

 

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精神病の新しい治療薬の可能性?

こんにちわ、toshoです。

 

とつぜんですが、「サンバイオ」って企業を知っていますか?

 

日本の製薬ベンチャーなのですが、実は私この企業にすこし期待しているのです。

 

というのもこの企業が治験中の新薬があるのですが、この薬が精神病に有効ではないかと考えているからです。

 

その新薬は「SB623」と言う名前で脳梗塞などの脳の外傷に対する治療が期待できるものです。

 

すでに発症した脳梗塞などの傷ついた脳部位に作用してその傷を修復する事が可能とされています。

 

飲み薬ではなく頭蓋骨を開いて脳梗塞部位に薬品を注射で打ち込むという必要があるという薬なので使用するとしたらちょっと大変ですが。

 

この薬は今の所脳梗塞の治療で治験の通過を目指していますが、将来的にはアルツハイマーなどにも期待できるそうです。

 

そして、私はこの薬はもしかしたらうつ病や統合失調症にも効果があるのではないと見込んでいます。

 

全然メジャーな説ではないのですが、うつ病・統合失調症の原因が脳の扁桃体の傷にあるのではないかと主張する方がいらっしゃいます。

 

まあ、この説は医学界では全然支持されていない説であるのですが。

 

私としては脳の扁桃体に傷ができるためにドーパミンとセロトニンの生成に異常が起きるというのは十分に有り得るのではないかと思っています。

 

それで、この「SB623」という新薬が扁桃体の傷の治療に有効ではないかと思っているわけです。

 

もちろん、医学的にメジャーでない説なので全然見当違いだったということもあるかと思います。

 

ですが、個人的には結構可能性が高いのではないかと思っています。

 

もし、「SB623」が治験を通過して新薬として承認されたら、そのうちうつ病や統合失調症の治療に劇的な効果があるのがなんらかの切っ掛けで発見されるのではないかと予想しています。

 

そんなことが起これば精神医学会に大激震が起きると思いますが。

 

もしかしたらと秘かに期待しているわけです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は精神病に効果あるかもしれないと個人的に期待している薬の紹介でした。

 

ひそかに期待しているだけなので、本当にそうなるかは未知数でそもそもうつ病や統合失調症が扁桃体にある傷が原因であると言う説そのものが間違っていることも大いにあるわけです。

 

変に期待せず、もしかしたらそうだったらいいなぁと淡い気持ちで期待する程度が一番良いですね。

 

過度に期待したらそうでなかった時のショックが大きいですし。

 

まあ、今うつ病や統合失調の方は変に期待せず、素直に今あるお薬を飲んで体調と生活を整えましょう。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

 

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外部エネルギーとのインターフェイス:目とか耳とか

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事のタイトルは「外部エネルギーとのインターフェイス:目とか耳とか」になります。

 

 

人間が物を見るときには物体に反射した可視光を目の網膜で受け取っていますよね。

 

その際に、従来の考えでは物を見えるということはそれ以上のことではなく後は眼球から信号が脳に送られ物を認識する程度のことでしかないと考えられていました。

 

しかし、よく考えれば物を見る時に網膜で受信した光エネルギーは神経活動に必要な電気エネルギーに変換されて体内に流入するということがわかります。

 

目の他にも耳で受信した音エネルギーが神経活動に必要な電気エネルギーに変換されています。

 

実は、この目や耳などの感覚器は外部エネルギーとのインターフェイスになっていてこのインターフェイスで受け取ったエネルギーは神経活動や精神活動に利用される貴重なエネルギーです。

 

例えば、リンゴを見ている時にはリンゴをみているだけでリンゴとは他に何も関わっていないと考えがちですが、リンゴが放射するエネルギーを視感覚器を通じて体内に取り込んでいるのです。

 

ほかにも太陽光を見るときには視感覚器を通じて太陽光のエネルギーを体内取り込んでいてそれを神経活動や精神活動に利用しているのです。

 

オカルト系にテクニックに太陽凝視というものがありますが、この太陽凝視は通常は危険とされる肉眼で太陽を見つめる行為です。

 

日の入りや日の出のあまり太陽光のエネルギーが強くない時間帯に、太陽光のエネルギーを積極的に視感覚器から取り入れる事により、神経活動や精神活動やホルモン生成に必要なエネルギーを供給すると言う行為です。

 

太陽光のエネルギーが神経活動やホルモン生成に必要なエネルギーとしか使われるので、若返りや食事量の減量などが期待できます。

 

通常は食事から体内に取り入れるエネルギーを生体活動の主なエネルギー源として人間は使っていますが、外部エネルギーインターフェスから取り入れたエネルギーが生体活動のエネルギー源として使われれば食事によるエネルギー摂取量が減りますし、取り入れたエネルギーにより様々なホルモンが生成されるので成長ホルモンやセロトニンやβエンドルフィンなどが生成されることにより精神や肉体がより健康になります。

 

他にも気功などの身体から発するエネルギーを利用する代替療法では、気功師は視感覚器から取り入れた光エネルギーから気功に使うエネルギーを賄ったりしています。

 

気功というのは脳でコントロールするものなので、外部インターフェイスから取り入れたエネルギーが気功に必要な神経活動を支えるエネルギー源になったりするのです。

 

音やボディタッチや味なども外部インターフェイスから流入するエネルギーであります。

 

それらから多くエネルギーを得ている人と得ていない人では、食事量や若々しさも変わってくると思われます。

 

勉強する時に流している音楽が実は脳の神経活動のエネルギーとして使われていたりします。

 

まったく無音で勉強するよりは雑音がある場所のほうが勉強に集中できるというのは、音エネルギーをエネルギー源として脳神経の活動が行われるという面もあるでしょう。

 

ボディタッチは行う者同士で結構大きなエネルギー源になりますので、子供や恋人がいるなら積極的に行ったほうが互いに精神活動や意欲が活発になりますよ。

 

ボディタッチがそうならもちろんセックスもです。

 

セックスが互いに大きなエネルギーを与え合う行為なので恋人や夫婦間では大切なコミュニケーションでありエネルギー源になります。

 

日本人は諸外国よりセックスレスの人の割合が多いそうですが、愛し合う男女間でのセックスは大きなエネルギー源です。

 

もっとポンポンやってもいいと思いますね。

 

それにむりに本番行為をする必要はないのですよ。

 

裸で抱き合うだけでも互いにエネルギーを与え合う行為になるので、セックスレスの恋人や夫婦はまずはそこから始めるのもいいと思います。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は大して中身のない記事になってしまいました。

 

最近新しい記事を書こうとしても書く事があまりなかったりして、短い記事なってしまいます。

 

そろそろこのブログも寿命かな~と思わなくもなかったり。

 

体調崩してから記事の更新が少なくなることは公言していました、病気関連の記事をいくつかアップロードしましたがもうネタ切れのすかんぴんです。

 

病気自体はもう落ち着いているのですが、なんか新しいことを学ぶ気力がわかなくてそれまでのインプットだけ記事を書いているが原因になってるのかなと思います。

 

それまでは長い目でみて研究者を目指そうかなと思っていたのですが、病気で痛い目をみてその気力はもうないですし。

 

いま無職なのでお金もなくて新しいことをはじめたり書籍を買うのも制限していますしね。

 

愚痴になってしまいました。

 

今回の記事ももちろん鵜呑みにしてはいけません。

 

そんなこと言っているやつがいるぐらいでとどめておくか、自分で内容を検証してみてはいかがでしょうか。

 

疲れました。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 

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双極性障害、いわゆる躁うつ病に関しての考察

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、双極性障害いわゆる躁うつ病に関してです。

 

 

とつぜんですが、toshoの父(60歳)は実は双極性障害と診断されたりしています。

 

いまではお薬を飲んでて症状もほとんど出て無く落ち着いていますが、toshoが高校生や専門学校生の時は躁状態で色々暴れまわっていたりしたときもあります。

 

高校生当時は、父が双極性障害だとは知らず知らされず躁状態の父の言動にだいぶ傷ついた覚えがあります。

 

専門学校時は父の躁状態が悪化してむりやり病院に連れていたり入院したり見舞いに行ったりしてました。

(実はtoshoの父方の家系は精神病を患っている人がちらほらいました。toshoもそんな家系の遺伝子を受け継いでいるわけです。母方の家系にはほとんどいなく、母方の血が濃い兄と父方の血が濃いtoshoでは体質・気質・病歴など大きく違います。兄はストレス耐性も高くtoshoのようなHSPとも程遠いですね)

 

私自身は統合失調症と診断されておりそれに関して(あとうつ病も)は今までちらほら記事にしていましたが双極性障害に関しては全くと言っていいほど触れていませんでした。

 

統合失調症とうつ病は脳内のセロトニンとドーパミンの乱れで起きていると言われ実はこの二つは結構病気として似ています。

 

統合失調症とうつ病を同じ病気として扱うべきとする説もメジャーな説ではありませんがあるくらいです。

 

しかし、双極性障害に関してはよくうつ病と旧名の躁うつ病とがにているために似たようなものと思われがちですが、全く違う病気です。

 

病気としてもかなり別物なのです。

 

なので今まで双極性障害に関してはまったく言及していなかったのですが、今回の父の病気の症状を間近で見ていた時の経験とネットでさらっと調べられる程度の病気の知識を元にこの病気に関して考察していきたいと思います。

 

 

統合失調症は脳内のドーパミンとセロトニンの乱れにより様々な症状が生じていると考えられています。

 

統合失調症の陽性症状は脳内ドーパミンレベルの過剰、陰性症状ならドーパミンレベルの過少が原因と思われます。(あと脳内セロトニンレベルの減少も微妙に関係すると思います)。

 

うつ病であればドーパミンレベルの過少とセロトニンレベルの過少が原因だと思われます。

(あと認知的なモノも関わってくるとは思います)

 

以上が直接的な原因ですが、何故その様な減少が脳内で起こるかはあまり判っていません。

 

おそらくですが、脳のドーパミンやセロトニンの生成をする箇所に物理的あるいは機能的な障害が発生する事が原因だと思われますがさだかではありません。(あとはドーパミン量が低下するような欲求不満な生活や、セロトニンを大量消費するような高ストレスな生活を送っているかなどもあると思われますが。ただ、これは初期症状であり病気とまではいかないものです。このレベルの方には先ずは生活を整えましょう)

 

それに対して双極性障害はおそらくはですが脳内のノルアドレナリンレベルの増減が関わってくるとお思われます。(コレはこのブログの仮説であり実際には双極性障害の原因は判っていません)

 

ノルアドレナリンは人間の精神状態に影響を与える興奮性神経伝達物質です。

 

ノルアドレナリンが脳内に多く放出されると精神活動が活発になったり興奮状態になったり闘争状態になったりします。

 

双極性障害の方はおそらくノルアドレナリンの生産に関わる副腎になんらかの異常がおこり、周期的にノルアドレナリンの過剰分泌と枯渇が繰り返されるのではないでしょうか。

 

また、ノルアドレナリンの体内の分泌量は月の満ち欠けにも左右され、満月の夜には体内のノルアドレナリン量が増えるなど生理的な周期もあると思われます。

 

食事で言えば腎臓を労るのであれば自然薯やごぼうなどの根菜類が腎臓の疲労回復に効果があると思われます。

 

双極性障害と言わないまでも、気分にムラっけがある(体内のノルアドレナリン量の微増微減が多い)方はそのような食材を日常的に食すことによって腎臓を壊さないように努めるのも良いでしょう。

 

また、日常的に食さなくても満月の晩には自然薯のすりおろしを醤油でいただくなどすれば腎臓の疲労を防止できるかも知れません。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

実のところtoshoは統合失調症と診断された経験があるのでそちらには一家言ありますが、双極性障害に関しては父を傍からみていただけなのであまり見識をもちません。

 

ですが、傍から見ていて観察した内容とお勉強的な知識を元にすこしばかり書いてみたいことができたので今回の記事を書きました。

 

もちろん、仮説ベースの考察なので鵜呑みにしてはイケません。そんなこと言っているやつがいる程度にとどめておきましょう。

 

ただ、双極性障害の方や気分にムラっけのある方は、腎臓を労る為に自然薯やごぼうなどを積極的に食すことはおすすめします。

 

たとえ病気に対する効果がなくても腎臓を労るのは悪いことではないからです。

 

それで今回の記事はここまでとなります。

 

ではでは~。

 

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深夜2時~3時の丑三つ時:一日のホルモンバランスサイクル

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、ちょっとしたTIPSです。

 

突然ですが、人間の体内のホルモンバランスは一日の中でサイクルがあり、増減があります。

 

一日の内でドーパミンレベルやセロトニンレベルの増減があり、時間帯によって人間の精神活動や知的活動が捗る場合と滞る場合があります。

 

セロトニンレベルに関しては朝起きた時(一般に朝の6時~7時)が一番高いと思いますし、日中は低下して昼食後から徐々に上がっていき夕方6時~7時くらいがピークになり、深夜にかけてまた低下していくと思われます。

 

ドーパミンレベルに関しては一番低い時間帯が昼食後の午後2時~3時であり、一番高い時間帯が深夜2時~3時くらいだと思われます。

 

また、睡眠中のドーパミンレベルは非常に高くこの時間帯に脳内の情報の整理や統合を行っていると考えられます。

 

余談ですが、前にtoshoが深夜3時に睡眠中突然意識が覚醒してしまったことがあります。その時は起きた瞬間自分がものすごい勢いで様々な考え事をして頭を整理している状態なのに気づいて非常に驚いたことがあります。

 

基本的に寝ている最中はドーパミンレベルが高いです。

 

寝入る前に変な幻覚や幻聴を見聞きする場合がありますが、これは寝入る際にドーパミンレベルが上って普段閾値を超えない脳の情報処理がドーパミンの作用で閾値を超えてします為に生じると思われます。

 

私なんかは寝入る前のうとうとしている時は、毎回自分が変なこと考えているのを気づいたり、妙に鮮明な映像が見えていたりします。

 

また、ドーパミンレベルが高いのであれば意識は覚醒しているはずではないかと思われる方もいらっしゃるとは思いますが、寝ている時はドーパミンレベルが高くても意識(あるいは魂)の周波数が宇宙の根の存在質に近づいて肉体から発生するエネルギーは受け取れなくなるので肉体があるから生じる感覚はなくなる(正確には感覚知覚できなくなる)のです。

 

それはさておき。

 

ドーパミンもセロトニンは、12時間 or 6時間サイクルで上がったり下がったりしているのだと思われます。

 

ドーパミンレベルが一番低下するのは昼食後の2時~3時くらいですので、この時間帯は眠くなったり知的活動をする方がどうにも調子が出ない時間帯でしょう。

 

朝6時~7時くらいに起きて、陽の光を浴びながら15分~30分程度軽くウォーキングなどの運動をすればセロトニンレベルが上って一日中高いセロトニンレベルを維持できるでしょう。(朝のピーク時のセロトニンレベルを上げることによってその影響が日中にも及ぶ)

 

クリエイティブな職業の方は深夜2時~3時に起きて作業をしていると日中より格段に作業が捗る場合がありますが、それはホルモンバランスのサイクルにより昼間より深夜のほうがドーパミンレベルが高くアイディアやインスピレーションが湧きやすくエネルギーレベルも高くなるのが原因であるので、別段本人が不摂生だったりズボラだったりするわけではありません。

 

クリエイティブ系の職業の方は得てして深夜までツイッターやったりしている人が多いですが、彼らは彼らなりの生活リズムの中でうまく仕事や生活をしているのです。決して人として不出来だとか生活が退廃しているわけではありません。

 

深夜にシコシコ作業をしているる絵描きとか物書きの方にそういったイメージを持つのはあまり適切ではないでしょう。

 

昔から深夜2時~3時くらいは丑三つ時と言いまして化生や幽霊の時間帯などと言われていますが、これはこの時間帯はホルモンバランスの増減のサイクル的にドーパミンレベルがかなり高くなる時間帯なので、この時間帯まで起きていると自然と幻覚や幻聴などが生じやすくなるために昔から幽霊や化生を見聞きしやすし時間帯だと言い伝えられきたのではないでしょうか。

 

昔からある「丑三つ時」のような伝承も、生理学レベルではこのように解釈ができるのです。

 

また、この丑三つ時の時間帯は瞑想をすればインスピレーションやアイディアが湧きやすく成り瞑想のおすすめ時間帯でもあります。

 

この時間帯の瞑想はそのような作用があるので、スピ系の方は興味が有ればやってみることをお勧めします。

 

その際に、人間の無意識のグローバル通信をキャッチしてしまったり、感覚が研ぎ澄まされてマンションの隣室の人の思考や生活をキャッチしてしまったりする場合もあるのですが、その際にはあまりおどろかずそういうこともあると流してください。

 

そういうのにのめり込むのは魔境の入口ですので、やめておいたほうが良いと思います。

 

ただ、精神病や体調悪い方がこの時間帯まで起きて作業をやっていると変にドーパミンレベルが上ってしまい脳内ホルモンバランスが乱れて病が悪化したりエネルギーレベルが上ったまま戻らなくなって病気になってしまったりします。

 

統合失調症の方はこの時間帯まで起きて作業行ったりやデジタルデバイスを使ったりするのは絶対にやめてほしいですね。

 

確実に病状が悪化してしまいますし、脳内ホルモンバランス調整の自律作用が働かずそのまま昼夜逆転してしまう事が考えられます。

 

うつ病の方は人によってはこの時間帯まで起きて好きなことをやるとドーパミンレベルが上がるので抑うつ症状に効果があるかも知れませんが、その所為で睡眠時間を確保できなくなる場合は絶対にうつ病が悪化するので基本的に夜更かしはお勧めしません。

 

また、精神病を患っている方は朝6時~7時に起きて15分~30分のウォーキングをするのはすごくおすすめの健康法であります。

 

そうすることによって、日中のセロトニンレベルが下がりすぎることを防ぐことができます。

 

場合によっては、散歩した後に二度寝しても問題ありません。

 

朝6時~7時の体内セロトニン量のピーク時にセロトニンレベルを上げる事が重要なので、その後二度寝してもセロトニンレベルは維持できます。

 

その際には二度寝する前に軽く朝ごはんを食べるとなおよしです。

 

おにぎり一個とバナナ一本とかそんなんで良いので朝食をとるこで体調を整えることが出来ます。

 

受験期の学生さんは、午後2時~3時の時間帯は知的活動に適さないし眠くなる時間帯なので、この時間帯に15分~30分くらい昼寝すると寝ている間にドーパミンレベルも上がって眠気も取れるのでおすすめです。

 

深夜2時~3時くらいに起きて勉強するのはドーパミンレベルとエネルギーレベルが上がって知的活動が捗るので、しっかりと別の時間帯に睡眠時間が確保できるのならばおすすめではあります。

 

もしその時間帯に勉強するのならば、3時すぎたらすぐお風呂入って寝ることを徹底するべきです。調子が良いからって4時や5時まで勉強するのはおすすめしません。

 

体調や精神を崩す原因にもおなりますので気をつけましょう。

 

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事も仮説ベースの内容なのであまり鵜呑みしないようにしましょう。

 

ただ、統合失調症の方の深夜の夜更かしがアウトなのはマジなのでこれは徹底して欲しいです。

 

あと、精神病の方の早朝ウォーキングはマジでおすすめなので強く推奨しておきます。

 

べつに二度寝しても問題ないのでやってみることをお勧めします。

 

この様な方は無理して起きているのも身体と脳に悪いので眠ければ二度寝すればいいと思います。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

あ、あと今までは特に言及してなかったのですが、記事の内容が面白かったor為になったという方はブログランキング投票をお願いします。

 

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ワクワク? ゴキゲン? アセンション?

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は久しぶりにスピ関連の話題になります。

 

しばらくスピ系の記事は封印していたのですが、スピ界隈がまた混沌としてきたので少々記事を書きたいと思います。

 

 

ここ最近スピリチュアル業界ではずっと「アセンション」という事が囁かれていました。(最近といっても十数年もですが)

 

曰く、「次元上昇」「周波数が上がってポジティブな世界になる」「人類が進化する」とか色々。

 

しかし、現実では相変わらず世界は様々な問題で混沌としており、私たちの生活が劇的にいい方向に変わっているとは言えません。

 

こうなってくると、そもそもアセンションって何だったのか、という疑問すら湧いてきます。

 

アセンションをスピリチュアル詐欺だったのじゃないかと思う人も多いでしょう。

 

なので、アセンションについてこのブログ流ではありますが少し書かせていただきます。

 

まず第一に知ってもらいたいのが、このブログで主張している「波動の高い」についての説明です。

 

スピリチュアル業界で波動が高いとか周波数が高いとか呼ばれる事は、生物学的には「脳内ドーパミンレベルの高低」で表現することが出来るということです。

 

Aさんの「脳内ドーパミンレベルが高い状態」をAさんが「波動が高い(あるいは軽い)。周波数が高い(あるいは細かい)」と表現します。

 

Aさんの脳内のドーパミンレベルが高いとAさんの意識の覚醒度(明瞭度)は高くなり、ある一定のレベルの覚醒度を超えるとAさんのことを霊的に目覚めた(覚醒した)人とか覚者とか読んだりします。

 

また、Aさんはドーパミンの作用により心身のエネルギーレベルは非常に高いものとなり、ドーパミンは快楽物質でもあるのでAさんは精神的にはとても気分が良い状態になります。

 

以上のような事がスピリチュアルでいう「波動が高い状態の人」の説明として上げられると思います。

 

 

アセンションとは上記の様な「波動の高い=脳内ドーパミンレベルが高い」人が地球規模である一定数以上増えることによって起きます。

 

基本的に現代以前では、戦争や貧困などの社会的な問題や政治や経済システムの不具合により人類は色々と抑圧されており「人類総抑うつ」のような状態にあったために波動が高い人はとても少なかったです。(ちなみに、これも仮説ですがこのブログでは抑うつ症状は脳内ドーパミンレベルが低下している状態だと考えています)

 

なので、人類は今まで全体としてずっと「波動が低い状態=抑うつ状態」で存続していたわけです。

 

大体の人はカネがない状態で奴隷労働に近い状態を強いられていたり、戦争が起きて苦しい状態にあったりしていたのです。

 

しかし、そういった人類総抑うつ社会も段々と個人的な幸福を追求して自己実現して社会で活躍する人も増えてきました。

 

まばらですがそのような「波動が高い=脳内ドーパミンレベルが高い=抑うつ状態から脱して幸福感を感じている」人が増えてきて社会に浸透してきたのです。

 

そして、人間には「脳の同調・模倣・共感システム」が備わっています。

 

「波動の高い人=脳内のドーパミン生産量が多い人」の生体活動から発せられた電磁波は、その電磁波を「脳の同調・模倣・共感システム」を介して受信した人の脳内でドーパミンの生成するのです。

 

これを端的な言葉で表すと、「波動の高い人から発せられるエネルギーは周囲の人々の波動も上げる」ということです。

 

なので、波動の高い人の数が増えていくほどに、周囲の人の波動も押し上げていく形となり、ある一定数以上の高波動の人間が確保されることにより、爆発的に人類全体の波動も上がっていく状況が生まれるわけです。

 

そして、スピリチュアルな人々の言うことによればすでその一定数の高波動の人間が確保されているらしいのです。

 

なので、アセンションはすでに無事完了しているというわけです。

 

これから徐々に人類全体の波動も上がって、総抑うつ社会から脱却も可能になっていくのではないでしょうか。

 

 

ただ、「波動が上がる=脳内ドーパミンレベルが上がる」事は純粋に良いことだけではないのです。

 

脳内ドーパミンレベルが上がることにより感情が増幅されたり、自己抑制が効かなくなったり、ホルモンバランスが崩れて体調を崩す事もあります。

 

感情が増幅されるので、怒りや悲しみや憎悪が増幅されることもありますし、自己抑制が効きづらくなって暴力衝動や問題行動を起こしてしまったり、ホルモンバランスが崩れて寝込んだりする可能性もあるのです。

 

また、意識の覚醒度が上がって、無意識に抑圧していた自分の本心や記憶なども暴かれていったりします。

 

なので、スピ業界ではアセンションと共に潜在意識の浄化やネガティブなエネルギーを手放すことも言われているのです。

 

波動が上がった状態で色々と溜め込んでいると結構不味いことに成りかねないからです。

 

 

またコレは別の話ですが、スピ業界で有名なバシャールが推奨するワクワクも、アシュタールの推奨するゴキゲンもおそらくはどちらも脳内のドーパミンレベルを落とさない様に勧めているのです。

 

自分のやりたい事をやって自分の人生を楽しんでいる人は抑うつ状態にはなりませんからそのような人が増えて社会全体が明るく軽やかになることが重要なのです。

 

また、社会制度や政治制度や経済制度の改革などはぜんぜん違う問題になるのでアセンションとは関係ないです。

 

そういうのを期待している人は人類皆で頑張って実現するしかないですと言っておきます。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

アセンションとか結構うさんくさいですよね。

 

人類の波動が上がってポジティブな世界にいくとか、次元上昇が起こるとか、わけわかんないですよね。

 

今回はわけわかんないなりにアセンションについて説明してみました。

 

ちなみにこれらはこのブログ流の説明になるので、「全く違う!」「そんなしょうもないことじゃない!」とか言う方が居てもスルーしますのでよろしくおねがいします。

 

そのような方はこのブログをスルーして頂く形でお願いします。

 

また、スピリチュアルや精神世界の事柄についてはやたら壮大な事をイメージしたり語りたがる人が多いのですが、このブログでは具体的実際的な話を平易な表現で行うことを心がけているのでその様な方はがっかりしてしまうかも知れませんね。

 

そして、今回の記事もtoshoが勝手に行っていることなので、鵜呑みにしないでそんな考えもあるんだ程度に留めておいて下さい。

 

まあ結局の所、アセンションとか変に期待してもあれですよと言いたいです。

 

ではでは~。

 

 


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鼻呼吸と口呼吸。鼻呼吸すればいいってもんじゃない!

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、鼻呼吸と口呼吸に関する話を少々します。

 

 

一般に口を半開きにして口呼吸をしていたら多くの人から「だらしなく口が空いている」とか「ボケーッと口を開けてみっともない」とか「最近の若者は口もまともに閉じられないのか」とか言われたり思われちゃったりします。

 

そして、「鼻呼吸をしろ」とか、果ては「鼻呼吸をすれば健康に良い」とか、「口は物を食べるためにある、呼吸は鼻でするもの」とまで言われることがあります。

 

上記に対して私のコメントは「そんなこっちゃない」です。

 

「鼻呼吸すればいいってもんじゃない」のです。

 

では、その説明をば。

 

端的に言いますと、「鼻呼吸は脳内ドーパミンレベルを上げ」「口呼吸は脳内セロトニンレベルを上げ」ます。

 

統合失調症で幻覚や妄想が生じている方が、鼻呼吸を常にしていると脳内のドーパミンレベルを上げてしまい幻聴や妄想の症状が強く出てしまうことがあるので、この様な方は意識して常日頃から口呼吸をすると脳内セロトニンレベルを上げてくれるので幻聴や妄想の症状が強く出てしまうことを抑制します。

 

うつ病での抑うつ症状は仮説ではありますが脳内のドーパミンレベルの不足が原因だと思われますので、そのような症状が出ている方は意識して鼻呼吸に変えるだけで脳内のドーパミンレベルが上がり易くなるので、抑うつ症状が軽減する可能性があります。

 

このように、鼻呼吸と口呼吸ではその人体に対する効用が全く違いますので、鼻呼吸を意識して行ったほうが良い方と口呼吸を意識して行ったほうが良い方がいます。

 

また、時と場合によりけりです。

 

ランニングやジョギングをする際には口呼吸が適していてその方が苦しさが減るし、筋トレする際には口をしっかり閉じて鼻呼吸をするほうがパワーが出ます。

 

ウォーキングの際には、ランニング等と違ってハードじゃないので苦しさが減る口呼吸をする必要はなく、鼻呼吸もしくは鼻から吸って口から吐く呼吸の仕方をすると脳の活性化に良くて軽い脳トレになって認知機能の向上が見込めます。

 

幼児期の子供におしゃぶりをさせる親は多いですが、子供に無理やり鼻呼吸の習慣を強いることによって場合によっては脳内ドーパミンレベルが変に上ってしまい幻覚や酩酊感が生じやすくなるので、子供がおしゃぶりを嫌がるようであれば無理におしゃぶりをさせるのはやめたほうが良さそうです。

 

また、健康や能力開発のために瞑想や気功で呼吸法を取り入れている方がいると思いますが、呼吸法は流派によって様々なので自分に合う呼吸法に出会えず逆に体調や調子を悪くしている方がいるかも知れません。

 

さらに、「口呼吸はセロトニンレベルを上げ」「鼻呼吸はドーパミンレベルを上げ」ますが「息止めはとても脳内ドーパミンレベルを上げ」ます。

 

統合失調症で陽性症状がある方が、呼吸法で「息止めテクニック」や「鼻呼吸」を使うことは、脳内ドーパミンレベルを飛躍的に上げ幻覚や妄想を生じさせやすくしてしまう事があるので注意が必要です。

 

統合失調症で陰性症状がある方であれば、鼻呼吸か鼻から吸って口から吐く呼吸法を取り入れる事で陰性症状を緩和する可能性があります。(この場合でも息止めテクニックは使ってはいけません)

 

ここでは主に精神病に言及しましたが、学習に適した呼吸法や催眠や洗脳をしやすい呼吸法とかありますね。

 

そこらへんは今回は取り上げませんが、理論に関しては提示しているのでご自分で考えてみるのもいいでしょう。

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

今回の記事は、鼻呼吸と口呼吸に関してでした。

 

気功とかヨガでは様々な呼吸法がありますが、呼吸法を生活に取り入れている方はこの記事で提示した理論でもって自分が行っている呼吸法が自分にあっているか再検討してみても良いかも知れません。

 

また、この記事の内容を鵜呑みにするのはよくありません。

 

仮説段階とまではいきませんが、科学的に実証済みなわけではありませんので要注意です。

 

そんな事言ってるやつがいる程度に留めておきましょう。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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食生活の精神病への関わり

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、食生活の精神病への関わりにかんして少しばかり書きたいと思います。

 

 

突然ですが、現代社会では統合失調症は100人に1人の割合で発症すると言われています。

 

これは、どの地球上のドコの文化や人種でも変わらない割合であるそうです。

 

現代社会において統合失調症は決して稀有な病気ではありません。

 

休日に駅前を歩いていればその統合失調症の方と一人はすれ違うレベルの一般的な病気です。

 

なぜ、現代社会において統合失調症はこうもメジャーな病気となりえたのでしょうか。

 

統合失調症はその発生の原因はマダよく判っていない病気です。

 

脳内のドーパミンなどのホルモン物質のバランスが崩れることで生じるという仮説があり、それを元に開発された抗精神病薬は病気の治療に役立っていますが、なぜホルモンバランスが突然崩れてしまうのかその根本的な原因は解明をまたれています。

 

私は将来的に統合失調症の様な精神病を地球から駆逐したいとおもっています。

 

私自身が10代の頃から統合失調症と診断され今までに何度か入院するハメになったこともあり、統合失調症や他の精神病に対して少なからず思うことがあるからです。l

 

このブログでは、今までいくつもの記事を書いてきましてがその大部分は全くの仮説や仮説を元にした考察によってできています。

 

ブログ開設から2年以上たった今、様々な思索を経て統合失調の原因に関してすこしばかり書けること書きたいことが出来たのでそれを今回の記事に書きたい思います。

 

現在、現代日本では日本は単一民族国家だと教えられていると思います。

 

しかし、現代日本社会には潜在的な遺伝的多様性は日本人の見た目以上にあると思われます。

 

それに関して過去のブログ記事で言及していますのでここでは詳しくは述べません。

 

日本人の遺伝的多様性はおそらく世代が新しくなるごとに大きくなっているだろうと思われます。

 

そして、その遺伝的な多様性は遺伝子由来の食材や料理や調味料などへの耐性・適性の多様性もウンでいると思われます。

 

日本人の潜在的な遺伝的多様性が食生活の多様化とそれにたいする耐性・適性の個々のバラツキをウンでいると思われます。

 

そして、自分の所属する集団においてその所為で自分に合わない食生活を採用することになり、精神・非精神にかからず病気を生み出していると思われるのです。

 

おそらくは、アレルギー反応に似た症状が脳に出てしまっているのかと思われます。

 

遺伝的に適さない食生活が脳に対してダメージを与えている可能性が高いと思います。

 

そして、世界的に多くの民族や集団の中に生まれる新世代の遺伝的多様性の中に伝統的な食生活や食習慣に耐性・適性を持たない人が一定割合生まれるのではないでしょうか。

 

世界中どの文化や人種でも一定割合統合失調症が発生するのは、新世代の遺伝的撹拌立において耐性・適性を持たない人が生まれるのが100人に1人くらいの確率になるのだからではないでしょうか。

 

つまり、食生活が合わない環境において生活をしていると首から下は健康でも知らず知らずの内に脳内が破壊されてホルモンバランスが崩れる原因になるというわけです。

 

つまり、現状統合失調症を発症している方の中には体質に合わない食生活を改善することにより、症状が改善する可能性がある方がいるというわけです。

 

逆に言えば、病状が悪化して入した病院が患者に合わない食生活を強いるならば病状が悪化したままずっと入院するハメに成りかねないというわけです。

 

コレを考えると、精神病を治すためには遺伝子分布の研究がこれから時代必須になるかも知れないですね。

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

もちろん忘れないでほしいのが、この記事に書いたことは全くの仮説なので絶対に鵜呑みにしないでもらいたいということと、安易に薬をやめて食生活の改善だけで病気を治療するのは絶対にNGだということです。

 

けっして鵜呑みにせず、そんなこと言っているやつがいるという程度にとどめておきましょう。

 

そして、この仮説が実際に精神医学の定説になるまで絶対に信じないでください。

 

永遠に仮説のままなら、永遠に信じないでくださいということでもあります。

 

また、もしコレを読んでいる貴方が統合失調症で食生活の改善にいくらか興味があるなら、あなたの両親の食の好みと食生活と出身地域の食文化を参考にしてみるといいかも知れません。

 

祖父母世代の食習慣が体質に適してないかを見たり、食の好みが近い方の両親の食習慣を真似てみるのもいいかも知れません。

 

もちろん、これらをやるとしたら完全に自己責任になりますので、食生活を変えてみるのなら慎重に慎重を期して少しずつやることをお勧めします。

 

当方責任をとるつもりは一切ございませんのでご了承願います。

 

まあ、食生活を変える程度で有れば深刻な病になるリスクもあまりないので気軽にやってみてはいかがでしょうか。

 

運良ければ症状が改善するかもというレベルですので。

 

やるとしたら大きな期待をせずにやるのがいいでしょう。

 

それでは、今回の記事は以上になります。

 

長文失礼しました。

 

ではでは~。

 

 


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右脳開発について

こんにちわ、toshoです。

 

最近見たテレビ番組で見たのですが、東大生の多くの方が子供の頃公文式と七田式教育をやっていたらしいです。

 

公文式に関してはおいておきます。

 

七田式教育は右脳開発教育として有名ですね。私は10年以上前から七田式教育や七田式右脳開発については知っていましたが、今ではそんなメジャーになったのかと思いました。

 

それで、今回の記事では右脳開発に関してすこし書いていきたいと思います。

 

 

七田式右脳教育ではフラッシュカード記憶や図形記憶の訓練などで右脳記憶を開発すると聞きます。

 

この右脳記憶で重要なのでは映像記憶だったりします。

 

で、右脳を開発して映像記憶能力を開発することができるのは、右脳にドーパミン神経回路があるためだと思われます。

 

なので、右脳を使うと映像で記憶出来るようになるというわけではなく、右脳のドーパミン神経回路を鍛えると鮮明に視覚に映像を出力できるようになる(つまり、記憶の想起能力が上がる)というわけなのだと思います。

 

視覚に対する映像の出力能力が上がるので、記憶を思い出そうとすると鮮明に思い出したい記憶が視覚に映像として出力されるようになるのです。

 

左脳のセロトニン神経回路と右脳のドーパミン神経回路とう機能の違いにより、右脳を鍛えると映像記憶能力が開発出来ると思われます。

 

また、アカデミックな脳研究者からは、右脳と左脳に大きな構造的違いがないために右脳開発といった行為はだいぶ疑問視される事が多いのですが、右脳と左脳の神経回路の種類の違いにより右脳開発というのは有効だろうというのが私の立場になります。

 

なので、アカデミックな研究者からは否定されがちな右脳開発も十分有効なので興味がある方は右脳開発を頑張って見るのも良いと思います。

 

その際に、訓練上達のコツなのですが、映像をより強く記憶するようにするのではなくより鮮明に思いだす(視覚に出力する)ことを意識して訓練すれば訓練が上達しやすいのではないでしょうか。

 

視覚に思い出す事しないで訓練していると、はじめの内はうまくいっても映像記憶能力が上がらないのでより高いレベルにはつまずいてしまうと思うので、なるべく最初の内から視覚的な鮮明に思い出す訓練をしていったほうが良いと思います。

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事はとても短いですが右脳開発についてすこしばかり書いてみました。

 

実はアカデミックな脳研究の世界では、右脳開発というのはインチキ扱いされがちです。

 

というのも、最近の研究で右脳と左脳に大きな構造的違いがないことが判ってきたために、左脳に比べて右脳に大きな能力があるとは考えづらいと思われているからです。

 

しかし、このブログの研究では、右脳側に存在するドーパミン神経回路の機能をフルに活かせれば右脳開発というのは可能だと結論づけています。

 

右脳開発なんてインチキくさいからやらないという方には、そんなにインチキじゃないですよとだけいっておきます。

 

興味がある方は、右脳開発してみたらいかがでしょうか。

 

では、今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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セルフ・カウンセリング~ペンと紙があればできるお手軽相談~

こんにちは、toshoです。

 

久しぶりに記事をアップします。

 

今回の記事のタイトルは「セルフ・カウンセリング~ペンと紙があればできるお手軽相談~」です。

 

人間の日々の悩みは尽きないものです。

 

仕事、人間関係、恋、家族の問題など困っている・悩みがあるけど誰かに相談するほどのことでもなかったり・身近に相談できる人がいなかったりして放置している大問・小問様々あると思います。

 

中には高いをお金をかけて占い師やカウンセラーなどに相談をする方もいらっしゃるかと思いますが、得てして良い占い師やカウンセラーに出会わなかったり最悪インチキだったり詐欺まがいの相手に相談してしまうこともあるでしょう。

 

なので、私自身はそういった問題がある場合には紙とペンを使ったセルフ・カウンセリングを用いて悩み事や問題に対処しています。

 

セルフ・カウンセリングは悩みや問題に対して他の人間に相談すること無く、自分自身に対処方法や解決方法をを問いかけます。

 

そして、その問いかけには自分自身の潜在意識下にある普段自覚できない膨大な経験値をつかって答えるのです。

 

 

方法について説明します。

 

1 ノートを用意します。

2 ノートにペンで自分が相談したいことを書きます。(例、仕事について今の職場を転職したいと考えているのですが、やめておいた方がいいでしょうか、それとも転職すべきでしょうか?)

3 ノートに相談事から一行開けて、その相談について自分で他人になったつもりで相談への返答を書きます。

4 その後は、応答の形をとったりしながら、より詳しく相談するなどします。

 

この方法の要訣は3です。

 

例えるなら自分で創作した小説のキャラクターを動かすつもりで、そのキャラクターならどんなことを言うだろうかと考えながら思うがままに相談へ返答します。

 

また、その際にキャラクターの設定を創作して(例えば、35歳主婦二児の母だったり、古代の時代の巫女15歳だったり、75歳の元軍人のおじいさんだったり。わかりやすいように名前をつけるのも良いです)そのキャラクターに答えさせたり、腑に落ちなようなら複数のキャラクターを使って相談への回答をします。

 

この方法を使ってセルフ・カウンセリグをすると、意外にも自分というのは冷静に客観的に自分自身の問題や悩みを見つめる事ができるものだなと自覚すると思います。

 

普段頭を悩ませている悩みや問題は意外に時間をかけて自分自身の頭で考えるならば簡単に答えや回答を得られるものです。

 

まず第一に言えることは、例えば他人に相談する場合にはそもそも人間は自分が納得できない意見や解決方法を言われても一切耳をかさないどころか不快になるだけということです。

 

親に悩みを相談したら延々と納得がいかない意見を主張されて押し付けられただけというのは珍しくないでしょう。

 

そのように時間を無駄をする事もあります。

 

セルフ・カウンセリングによる相談は上記の様な問題が起こることを他人に相談しないことで一切省くという意図もあります。

 

そして、他人になったつもりで自分の相談に自分で答えるというのは、普段に人間が己を見つめる自己客観能力をフルに発揮する方法でもあります。

 

よく他人の問題は客観的に見れるけど、自分自身の事はそうもいかないということが言われると思います。

 

自分の事を客観的に見れる人がいたらそれだけですごいことですよね。

 

しかし、普段の私たちは他人に対しては簡単に客観的に見ること出来俯瞰したアドバイスなり意見ができます。

 

セルフ・カウンセリングは自分を他人の様にみて意見するのではなく、自分が他人になったつもりで自分の相談をうけるのです。

 

必然的に、自分の元々の悩みや感情を尊重せずに不躾にただ客観的な意見を述べるという事はなくなりますし、相談への回答を他人になったつもりで書いている時には自分自身の悩みや問題を一時的に感情的に切り離されて俯瞰的に見ることができます。

 

この様なやり方をすれば自分自身のことを客観的に見ることが出来、自分が創作したキャラクターがそれなりに独自の視点をもって相談に回答してくれるでしょう。

 

そしてなにより、相談への回答はあくまで自分自身が書いたことになりますので、相談した相手に責任を押し付けるという逃げや責任転嫁の思考は一切しなくなるということが大事です。

 

他人に相談した場合や、その回答がどんなものであれ自分が出した答えではないということで「あの人がそういったんだから」「この人がそういうならば」といった他者本位だったり他力本願だったいるすることがすくなからずあるものです。

 

何もなければ良いですが、何か問題が起こった場合自分自身の責任逃れの言い訳なったりしていまします。

 

セルフ・カウンセリングはあくまで他人なったつもりで回答しても答えるのは自分自身です。自分で書いた回答に納得するのも納得しないのも自分次第ですので最初から最後まで自分次第の自己責任です。

 

甘えを一切許されない自己責任の中でおこなう相談は有意義なものになること請け合いです。

 

 

また、これはちょっとスピリチュアルな話にもなるのです、人間の潜在意識には過去生の記憶や人格が大量に眠っていることが予想されます。

 

このセルフ・カウンセリングは潜在意識下に眠っている自分自身の過去生の人格の力を借りることも出来うるということです。

 

過去生の記憶は普段は潜在意識下にしまわれ眠っており有効活用されておりません。

 

しかし、過去生の人格は普段は全く意識されませんが人によってはあなたの主人格と別にサブ人格として潜在意識の中でバックグランドプログラムとして可動している場合があります。

 

このサブ人格である前世の人格は、人によっては守護霊やエンジェルと言われたり潜在意識の中で動く自動プログラムとして重宝がられています。

 

サブ人格が自分の主人格をサポートする形でインスピレーションやひらめきを与える場合もありますし、ドーパミンレベルの高い霊能者やESPなどには声としてサブ人格の言葉を知覚する人もいるでしょう。

 

セルフ・カウンセリングは自分自身が他人を演じて自分自身の相談に回答するという形を取りますが、まれにこのサブ人格を使った回答が現れる場合があります。

 

自分が設定したキャラクターが自分自身の過去生の一人だったというかんじです。

 

また、あえてキャラクターを設定せずにセルフ・カウンセリングをした場合自然とサブ人格が相談の回答に応じる場合もあります。

 

この場合、キャラクター設定をしないでも自然とキャラクターが完成されていたり名前があったりするわけですが、まあこれをそうと区別するのは簡単ではないでそのような事があっても気にしなくて良いでしょう。

 

まあ、別にサブ人格の回答でなくても、過去生の記憶というのは潜在意識下に大量に眠っているわけで自分が設定して作ったキャラクターであっても想像力使って回答するとなにかしら過去生の記憶を引き出してきて回答できたりするのですが。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は「セルフ・カウンセリング」のお話でした。

 

多少スピリチュアルな話も出てしまいましたが、別段スピリチュアルな方法ではないのであまり気にしないでください。

 

悩み事や問題がある時に誰かに相談したいけど、相談相手も時間もお金もないという事は現代社会ではままあります。

 

私なんかは親がよき相談相手だったりもしますが、親に相談しにくい話なんかもありますし私は友人が少ないので相談相手に困る場合も多いです。

 

その様な場合にこのセルフ・カウンセリングをするとそれなりに納得できる対応や対処ができたりします。

 

もちろん自分の視野の広さ以上の事を対処するのは難しいですが、案外自分自身の問題というのは自分自身で対処が可能なものがほとんどです。

 

セルフ・カウンセリングで対処できない問題や悩みに対してのみ専門家に相談することで手間もお金も節約になります。

 

その場合、セルフ・カウンセリングを事前にやっておけば問題点や感情的な問題の整理もできますのやって無駄というのもないです。

 

なので、世の中些細な問題や悩みで延々悩んだりストレスをためている人が結構いるのでそのような方にはセルフ・カウンセリングはかなりお勧めします。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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統合失調症の幻聴について

こんばんわ、toshoです。

 

すごい久しぶりにブログを更新します。

 

病気が悪化して入院してブログの更新を止めていたのですが、病気に関連した記事ならいいだろうと久しぶりに記事を更新します。

 

今回の記事は統合失調症の幻聴に関してです。

 

なお、このブログの読者の中には統合失調症の方やその家族の方がいるかもしれませんが、これは私の個人的な経験に基づく物なので全ての統合失調症の方に当てはまるとはいえないと思います。

 

一般に統合失調症の代表的な症状に「幻聴」があります。

 

多くの統合失調症の方はこの幻聴に悩まされていると思いますが、個人的な体験として私は幻聴がほとんどないタイプの統合失調症です。

 

ですが、病気が悪化した際にはやはり幻聴が生じることがおおいです。

 

しかし、治療の過程で幻聴が消失するのも早いタイプなのです。

 

多くの幻聴が顕著な統合失調症の方とちがいますので私が珍しいタイプなのかもしれないですが、個人的な経験としてこうやれば幻聴がなくなるという経験があるのでそれについてお話したいと思います。

 

一般に幻聴というのは勝手に聞こえてくるとされていますが、私の経験では幻聴というのは必ず統合失調書患者が意図して生み出しています。

 

単純にそれは、「予想」や「期待」というのが根っこにあると思います。

 

他人に悪口を言われる幻聴というのは、つまり「誰かが私の事を悪く思っているかもしれない」という「予想」がまずはじめにあり、それに応ずる形として「本人が幻聴を生み出す」という事があるように思えます。

 

一般に幻聴というのは自分自身ではない声が聞こえてくるという認識があると思いますが、幻聴というのは「自分自身の思考が表面的に他者を装っているだけ」というのが私の経験からの推察です。

 

単純に他者を装っているので幻聴の内容というのは統合失調症患者本人が考えているものであり、その応答もいわば一人芝居そのものであるように思えます。

 

自分自身の頭のなかで声色を変えて自分以外の誰かを演じてそれを自分ではない誰かだと思いこんでいるのが幻聴が聞こえてる時の状態だと思います。

 

そもそも脳を動かしているのは患者本人であり、幻聴が聞こえるとしてそれが生じる様に脳を操作しているのも患者本人以外ありえないのです。

 

なので、自分自身の「予想」や「期待」を滅殺してあげれば、簡単に幻聴というのは消えるのです。

 

それが私自身の病気の経験から幻聴の真実だと思います。

 

多くの場合幻聴は患者本人に対する悪口として出現すると言われますが、それは「患者本人が自分が嫌われているという認識の元生み出した自己評価」が幻聴として現れていると思います。

 

私自身の経験がそうなのですが、幻聴が聞こえる際にはかならず誰かの意見を聴きたいと思ってたり、自分以外の人間の後押しや肯定や否定が欲しい時でした。

 

つまり、私が他者から嫌われていると思っている時に、誰かに「そうだね君はあいつに嫌われているよ」といって欲しいタイミングで「お前は嫌われているぞ」という幻聴が聞こえてくるのです。

 

まあ幻聴の内容はこのような単純なものでなかったりして、そもそも私は悪口系の幻聴はありませんでしたけれども。

 

なので、私の場合はですが、ふとした時に誰かの意見や後押しを欲しがる癖を改めるだけで幻聴というのはすぐに聞こえなくなりました。

 

「予想」や「期待」をやめるだけで、それに乗じて幻聴が聞こえるのはすぐなくなったのです。

 

幻聴そのものは自分自身の一人芝居なので、芝居が始まる切っ掛けがなければ芝居(幻聴)は始まらないのです。

 

またこれは別の話になりますが、私の場合「幻聴」と「妄想」の区別が曖昧だったのです。

 

「自分自身が生み出したわけでない声」が幻聴で「自分自身が生み出したと分かっている声」が妄想だと思っているのですが、感覚的に幻聴も妄想の一種だという感じがあって、お医者さんの診断でも幻聴といったらいいのか妄想があると言ったら良いのかちょっと面倒くさいなぁとおもっています。

 

幻聴も妄想も似たようなものなので、お医者さんがどう診断しているのか今でも不思議です。

 

聞こえる声の明瞭度は単純にドーパミンレベルに左右されると思います。

 

また、単純に幻聴は「自分の脳内発話を自分自身が生み出していないと錯覚して、それが現実の声と同じレベルの重要度になってしまうこと」だと思います。

 

重要度としたのでは、私の場合あとあと考えると幻聴が現実の声と違うというのは一目瞭然だったからです。

 

現実の声と同じ聞こえ方がする方もいらっしゃると思いますが、そうでない幻聴もあるので重要度という言葉を使っています。

 

また、「予想」や「期待」の止め方は、幻聴が聞こえた後に「聞こえる前に自分が予想や期待をしてなかったかと内省して、予想や期待があったことを自己認識していく」ことをすれば、次第に予想や期待が自然と減じていくと思います。

 

また、幻聴に応じてしまうのは一人芝居を助長してしまうことになるのでしてはいけません。

 

否定肯定どちらもです。

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

今回の記事は久しぶりに書いたのすこし構成がどっちらかっていると思います。

 

今回の記事はあくまで個人的な経験を元に書いてますので万人の受け入れられるものではないと思います。

 

幻聴と言っても色々あると思いますし。

 

精神病は色々なのでそんな鵜呑みにせず一経験談として参考にしてください。

 

個人的に幻聴というのは結局のところ一人の人間の内部で生み出されているので、生み出しているのは本人以外あり得ないという感じです。

 

ホルモンの作用とか色々あると思いますが、メカニズム以前にそういうことを思うわけです。

 

では、今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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病気悪化してました(笑い)

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は短い近況報告です。

 

ここ最近のブログの更新が止まっていたのは、プライベートで病気が悪化して入院していたからです。

 

今後、このブログは恐ろしくスローペースの更新になるか更新自体がなくなるかもしれません。

 

このブログの記事を楽しみにしている方には申し訳ないですが、ご理解ください。

 

長い間寛解状態だった病気が悪化した今では、この類のブログの記事を書く資格自体もないかなぁと思う次第です。

 

こういうたぐいの記事は病気が悪化することがある人間が書くものではないと思います。

 

妄想を垂れ流しても仕方がないので。

 

では、今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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人生のエビデンス(根拠)はあなた自身でいい

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、「人生のエビデンス(根拠)はあなた自身でいい」です。

--記事の内容を更新しました。2017/10/17


人は、人生はこうやったら上手く行くはずだという根拠を自分以外に求めがちです。

他人の話や、学問や、あるいは宗教や道徳に求めています。

誰かが、「人生はこうやったら上手くいく」と言う話をしていたとします。

あなたは、人生をうまく行かせたいので「こうやったら上手くいく」と言う話はかならず「根拠」を聞くようにしています。

それらはあなたの周りの人間も同じです。

また、あなたの周囲の人間は「こうやったら上手くいく」という方法をあなたに教えてきました。

あなたの親は「お母さんはこうやったら上手く言ったのよ」とか「お父さんはこれは上手くいかなかったよ」とあなたに色々と聞かせてきました。

その根拠は「両親がそう経験したから」というものです。

あるいは、宗教は「神はこう仰った」とそれが神の言葉であることを根拠とします。

学問は「研究をした結果、そのような傾向がある事がわかった」という実験で得た事実であることを根拠とします。

道徳では、「そうあるべきだから、そうなのだ」とそれ自身を根拠とします。

でも、それらはあなたが「こうしたら上手くいくんじゃない」といった時に、「その根拠はなあに?私の言うことを聞いたほうが良いよ」と諭します。

そのような時に、あなたは大抵「根拠を提示できなく」、周囲の人間を説得できません。

何故なら、あなたの根拠は「あなたがそう思った」からにほかならなく、「あなた自身以外になにもない」からです。

あなたは「他人を説得する」ために「他人が納得する、自分以外の根拠」というのを提示しようとします。

もしかしたら「運良くそれを見つけられる」かもしれませんが、多くの場合そんな都合よく根拠は転がっていませねん。

なので、あなたが思った「こうやったらうまくいく」というアイディアは、実行してこなかったかもしれません。

そして、その延長線上で、周囲の人を説得する必要がなくなった後でも「こうすればうまくいく」ということを思いついたとしても「自分以外の根拠」を探そうとして失敗して「やっぱりうまくいかなそうだから、これはやめよう」という判断をしてきたのかもしれません。

あなたは、周囲の人間に「根拠を示せ」と言われてきたのかもしれません。

そして、「あなたがそう思ったから」ということだけでは納得してもらえなかったのかもしれません。

しかし、です。

あなたの中にはつねに「こうやればもっと上手くいくんじゃないか」というアイディアがあり、それはくすぶり続けていませんか。

だから、ここでハッキリ述べさせてください。

「根拠はあなた自身でいい」のです。

あなたが「こうすれば上手く行くんじゃないか」と思いついたアイディアを実行するのに、根拠を自分以外に求める必要はありません。(もちろん、周囲の人たちにはなるべく理解をしてもられるように努力することは大事です。時には慎重になることも必要な場合があるのも事実でしょう

なぜなら、大昔から「こうすれば上手くいくんじゃないか」というアイディアに「根拠なんてない」からです。(大抵の場合はです。そして、大きく失敗する事も多いのが珠に瑕ですがね。

昔の偉人が、偉大なことを為したのは「こうすれば上手くいくんじゃないか」と言う発想に「根拠を求めなかった」からです。(これがインスピレーションを信じるという行為です。ただ、おおくの雑多でたらめな妄想や破壊的な歴史を生み出した原因でもあるので、自分がただ妄想しているだけではないかというのは今も気にして、自分の中で確かめる必要があります

逆に、その当時に根拠を求められて他人が納得するものを提示できたとしたら、「当時の常識内の発想」でしかなく、偉大な躍進を遂げるのには不十分なアイディアだったはずです。(同時に既存の社会や文化に対するカウンターカルチャーとして、多くの人の理解を得られないことがありました。

当たり前ですが、根拠を「他人の理解できる範囲の過去の物」から導ける様なアイディアは、かならず古いアイディア、固定観念の上のアイディアでしかないです。(そして、それは多くの場合既存のシステムの延長線上のアイディアであり、古い社会の慣習を強化するものになります

逆に、「新しく躍進的なアイディア」だったら、どうして「他人の理解できる範囲の過去の物」から根拠を導けるのでしょうか。(本当にこれはその通りの場合が多いです。ただ、その分破壊的な作用が生じないかの検討や議論が成されないまま今までの文化を多くの人類社会が継続されています

論理的に矛盾しています。(論理はそこまで重要な要素ではありません。現実として有効かどうかただそれだけです。それにはより多くの人達にアイディアを出し合い議論を深めて戦わせる必要があるのです。

「他人の理解できる範囲の過去の物」である根拠が「過去に成功した物の蓄積」であるなら、「新しく今までにない物」の根拠にする事ができようもありません。(ただ、多くの社会や文化の経験と知識の蓄積の中から導き出した相応しい根拠を提示するのは必要であり、それが成されないまま先に進んでもニッチもサッチも活きません

 
もちろん、新しいアイディアには上手くいくものと、上手くいかないものがあるのは事実です。

でも、本当は「新しいアイディアに根拠なんてない」のですよ。
多くの場合はそうですが、稀にちゃんと根拠を提示できる人たちがいます。より進んでいる考えを持った人たちは世の中それなりにいるものです。


多くの人は、アイディアの根拠を提示したら「それっぽい適当なものをでっち上げている」にすぎません。(これが非常に問題で、学者や知識層や統治者はこのようなものに騙されやすかったりします。ただ、多くの無学の庶民文化はこのような誘導には引っかかりにくいのです。なぜなら思考の仕方がより現実での生活や文化や習慣や風習に根付いているから。多くの異文化や新しい思想により俯瞰的な眼で見れます。

本当に今までにない新しいアイディアなら「根拠なんて提示できない」のが当たり前なのです。
これはマジでその通りなので、あまりそのような根拠のない(ように見える)アイディアを出す人を異常者扱いするのも困りますね。社会の発展が停滞します。ただ、根拠をちゃんと聞いてあげて、一緒に考えてあげるだけで良いはずです。
もし、簡単に根拠を提示できるのなら、それは今までと変わらない似たようなアイディアだからです。(そしてそのような社会がいつまでも続くと、新しい世代と古い世代の意識と生活スタイルの隔絶が起きて、多くの民族内紛争や人種間戦争の火種になります。

そこに、進歩と飛躍も望めません。(停滞している社会が悪というわけではありません。世代交代の時期にスムーズに新しい生活スタイルを受け入れないと多くの方が遺伝的な影響などにより心のバランスを崩すために、絶望と荒廃思想が広まります。

昔の偉人は「こうやれば上手くいく」という根拠もないアイディアを試行錯誤の上でものにしていったにすぎませえん。(それに社会が追いつくまでに多くの闘争と奮闘があったと思います。そして周囲の人間からの不理解も。庶民というのは無学なものなのですので。ただそれは、社会環境や教育制度の問題にあるので、多くの人が責められる言われもありませんし、そのような方たちが実践する民間の学問というのは非常に重要な智慧が詰まっているのでしょうし、全く協力が取れていないのが多くの問題認識の不一致を産んでいるんです。

逆に当時に偉人が「根拠のあるアイディア」しか実践していなかったら、既存の枠組みに収まるばかりで飛躍も躍進もなかったはずです。(そして現代社会で生み出されてきた文化的な退廃も産まれ得なかったのは事実なのでしょう。


だから、あなたは自分の思う通りにやっていいのです。

エビデンス(根拠)はあなた自身で良いのです。

あなたが良いと思ったやり方を自分自身で確かめてそしてみんなでアイディアを試して、磨いて傷つけて修正して形作っていくしかないのです。修正していくしかないのです(これ重要)。

試して(try)、洗練(refine)磨いて(polish)いくしかないのです。それで良いのです。

 

智慧の実を着けた木を育てるためには、実を磨いていて、汚れや虫食いのないキレイで美味しい実を見つけて選別するようにしなければいけないのです。

 

その種を植えることによって、多くの人達がお美味しい実を食べることができるのです。(少なくとも私はそう思います)

その時の考え方は、トライアルアンドエラーでないのです。

トライアンドリファインアンドポリッシュなのです

エラー(失敗)したとは考えずに、リファイン(修正、洗練)すると共にポリッシュ(磨いていく)と考えるのです。それがよりベターなやり方だと私は思います。
 
むかしから、大きなことを為した人はうまくいかないことを「失敗」とは考えてはいなかったと思います。(そして反省と後悔と立ち直りそして立ち上がる気概を忘れずに行くこと、そのような大人の精神をもって、自分たちの置かれている状況と現実と未来と過去に起きた事と過ちたちと永遠に付き合ってその度に信じる気持ちを忘れずに生きることでのみ未来は開けていかないのでしょうね

むしろ、上手くいないことがあるたびに「修正、洗練、研磨、精錬」していき、どんどんゴールに近づいていくと考えたのではないでしょうか。(そのような精神を持って覚悟を決めて来て生きて、生ききったのではないでしょうか)

あなたは、「こうすれば上手くいく」というあなたのアイディアを、どんどんトライしてリファインしていってください。(まずは、自分自身でそれを行い確かめること。過ちを繰り返して間違っている考えをその度捨てて一新して刷新するひつようがあります。そうしなければ何も私たちの世界は変わらないし、変われないと思っています。すこしづつ、一日一歩確実に着実に、3日進んでは牛歩の如くしっかりと大地を踏みしめて、年をとった亀のごとき歩みで自らを律しながらすすんで、間違っていたら最初に戻って振り出しから初めてその度にやり方を変えて。明日の風はドコ吹く風と思いながら、風見鶏と天気をみながら空気を読んで周囲の人たちと仲良くしながら、行きたい未来へ歩いて行くのが必要です。アラジンと魔法のランプのような魔神の力を借りたいと思ってもそんなの当てにしている内はまだまだ子供です。ガキンチョの精神では未来は作れません。

最終的に、あなたの人生で起こること、その全ての根拠をあなた自身でそして皆の力で持って証明してしまえばいのです。

人生のやりたいこと、上手く行かせ方、そのエビデンスは最初から最後まで「あなた自身」でよいのです。

 

そのような信じる心が未来を作るのです。

そして自分以外の人たちもそれぞれ譲れない何かを信じているということを理解しよう。例えあなたがそれ自体を理解できなくても。

なぜなら、ほかの全てのエビデンスは「他人の人生で起きた事の他人がエビデンスの証明」でしかないからです。

 

なぜなら、人には個人的な信念と理念と得意な事がありそれはひとそれぞれ結構違うからです。マジで大事ですよこの考え方は。

だから、とりあえずはあなたはあなたのやり方でよいのです。

時間が立つに連れて人は成長していくものなのだから。


いかがでしたでしょうか。

親や教師や上司は、あなたの主張に必ずと言っていいほど「根拠」を求めます。

あなたは、いつも思っているはずです「根拠なんてないよ、好きにさせろよ」と。たぶん。

でも、あなただって同じだと思います。他人の主張に根拠を求めている。

でも、自分自身が人生でやりたいことに「根拠」も必要ないし「他人を説得」する必要も本来ありません。

とにかく、やってみるしかないのです。

 

そこから始めるのが人生をうまくいかせる最も確実で大胆なやり方です。そして、それを信じられるのかがいつだってあなたの人生を左右してきたはずです。

なので、とりあえずやってみて、やってから初めて考え直してやり直すその都度磨き直してはやり方を変えてみるみたいな考えとやり方が適切でしょう。

 

”Try And Refine And Polish Thinking And Trust Our Policy of  Each Other And Respect Another Values and Differences of Senseor of Visual and Sounds and Preferences for Life Style  snd Saint Poeple and  UnderStand for Coropration with Every Organization On the Planet and Total International Organization Network System and Local  Organiztion's Actions and Decisions To The Our Future(TARAP Thinking and Trust TOP of Each Other And Respect Another Values and Differences and Preferences for life Style and Saint Poeple and Understand for CEO Options and LOAD To The Our Future”) 方が億倍も万倍もましです。

それが、シンプルで間違いないです。


では、今回の記事は以上になります。

ではでは。



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宇宙の厚みについて。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

--記事の内容を更新しました。2017/10/17

今回の記事は、宇宙の厚みについてです。

最初に結論から書きます。

宇宙の4次元方向の厚みはプランク(長)です。

プランク(長)とは相対性理論とか量子力学に登場する、物理空間の最小単位です。

つまり、宇宙空間を分割しようとしたら、プランク(長)より小さくは絶対に分割できないということです。

色々書きたいことがありますが、まずは私の思索の過程をご紹介します。

私は昔、パラレルワールド理論には否定的でした。

その頃には全ては今ここにしかないというのは、理解していた(つまり、時間というのは一次元のベクトルではなく、変化量(エネルギー)の相対的な観測で脳みそが認識していると言う理解があった)

しかし、時間というのを無連続、つまり分割できないものとして捉えていました。

空間や時間というのを最小単位まで分割するということが出来ないだろうという認識があったのです。

なので、全ては今ここにあっても、時間や空間というのを分割して、あるい特定の時間の宇宙が世界のどこかに保存されているとは考えていませんでした。

だって分割できないのだもの。

今の現在の宇宙があるだけです。という認識です。

しかし、物理学の知識をちょいちょいつまみ食いしていたら「プランク定数」や「プランク時間」や「プランク長」というのが在るじゃあありませんか。

いわく、量子エネルギーの最小単位。空間の最小単位。

そこで思ったのが、「あ、最小単位あるなら分割できるじゃん」です。

また、存在質とか周波数とかそっち方向の思索や研究を続けていく内に、周波数の最小単位が「プランク定数」になるということがわかったのです。

つまり、周波数の波をどれだけ小さくしようとしても、「プランク長」より小さく出来ないのです。

つまり、周波数0の存在質から周波数を分離しようとしたら「プランク長」より大きな周波数しか分離できないのです。

なので、全ての宇宙(パラレルワールド)は4次元方向に重なって存在していますが、その宇宙の4次元方向への厚みはプランク長で記述できるのです。

いわば、今あなたがいる物理宇宙に隣在るパラレルワールドはあなたの宇宙と4次元方向へプランク長分ずれて存在しているのです。

4次元方向にちょっとだけずれているから、衝突しないし交わらないのです。

結局相対性理論で言う4次元方向への移動は、パラレルワールド間の移動になるのでしょう。

4次元方向へプランク長の厚みをもった宇宙が、存在質の中にちょっとずれて重なって存在しているのです。

そのプランク長の厚みをもった宇宙はいわばパラパラマンガのようなものです。

固定的で動きがない。

だって、ある瞬間を最小単位で分割している上に、その厚みなかでは空間的な運動をしようとしても1プランク長のなかで動こうとして動けないですよ。うごけるなら最小単位を超えてますから。(動きとは空間の中での移動です。つまり座標がずれる必要があります。座標がずれるには最小単位を最低1つ移動しないといけません。(2個以上必要)つまり、一個しか最小単位が存在しないならずれることができないので、動きもないです)

ですが、動きがない宇宙で動きを認識しているのが人間です。

つまり、人間の意識は3次元方向を超えて4次元方向へ移動していることになります。

 

上記の考えを更新します。

 

やはり、同一物理宇宙での移動は単純にいって並行宇宙の移動には成らないと考えられます。

 

3次元物理空間の移動は3次元空間内での移動であり、意識が4次元方向に移動しているというのは考えづらいのではないでしょうか。

4次元方向へ移動しているから、一個前のパラレルワールドと今のパラレルワールドとの差異を認識して「変化」や「動き」を認識しているのです。

つまりそういうことなんじゃないでしょうか。

これが宇宙の厚みの正体・プランク長の正体ではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

基本的に哲学的思索から端を発しているので、物理学厳密な理論は詳しくないですが。このような考え方をすると昨今のスピ業界と最新物理学と哲学の知見を融合・統合できるのです。

信じるか信じないかは読者の方々におまかせします。

さらにこの思索をブラッシュアップさせてもよいでしょうね。

では、今回の記事は以上になります。

ではでは。 



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身体に関するあれやこれ。脳と遺伝子と魂

こんにちわ、dokubo_toshoです。

 

--誤字脱字の修正を行いました。2017/10/17

今回の記事は人間の「身体」に関する考察の記事です。

最近では脳など人間の身体に関する研究がだいぶ進んできて色々わかってきています。

しかし、そのような研究は未だ発展途上であるために、発展途上であるがゆえの誤解やミスリードが多く存在していると思います。

人間の本質は魂にあるという理解に達していないが故の大きな誤解が数あります。

そのような誤解をdokubo_toshoの仮説を元に考察していきたいと思います。


まずはイントロダクションから。

「原子」がというものが発見された時、極端な人間は「世界の全ては原子のしわざ」と考えました。

「遺伝子」というものが発見された時、極端な人間は「生物の全ては遺伝子のしわざ」と考えました。

「全ての物質はエネルギーに還元できる」ということが発見された時、極端な人間は「世界の全てはエネルギーのしわざ」と考えました。

そして、「脳」 というものが研究され始めると「人間の全ては脳のしわざ」と極端な人間は考える様になりました。

しかし、世界のすべてを原子の働きに還元することはできません。他も同様です。

世界や人間は一言で言えば「階層的かつ多面的」です。

たった一つの原理原則でなにもかもを説明できることはあり得ないのです。



私、dokubo_toshoは人間の身体の仕組みは主に「脳」「遺伝子」「魂」の三要素によって解明できると考えています。

現状の科学では「脳」と「遺伝子」の研究はそこそこ盛んになってきましたが3つめの要素である「魂」に関してはまだまだ研究が進んでいません。

なので「魂」によって行われている仕組みを「脳」「遺伝子」の仕組みに組み込んで理解してしまっています。 


例えば、最近の研究では人間の身体が動く時に「脳より先に筋肉方が動く」ことが分かっています。

この研究を理解する時に「脳」「遺伝子」の作用しか考えていないと「人間は脳すら身体をちゃんとうごかせていない、何が本当に人間を動かしているのか。そもそも人間はマリオネットにすぎないのか」と考えてしまうかもしれません。

しかし、「魂」の作用を考慮する私は次の様に考えます。


そもそも、人間の身体は本質である魂が動かしている。

しかし、単純に魂が脳に作用して「人差し指を2cm上に動かすニューロンに作用する」ということは考えにくい。

理由は単純で、身体にいくつあるかも定かでないほどの多くのニューロンから、「たった一つ電気信号の入力の入り口と出力の出口」を特定するということが難しいからだ。

しかし、その時に、魂が動かす特定の筋肉に作用して「動かす筋肉に電位を起こして、出力先を確保し脳で作用させるニューロンとの間の経路を特定する」ことができれば、そんな難しいものではないのではないか。

人間の本質は魂なのだから小難しい「どの神経にどの様な作用を起こせばこう動くという計算」はあまり得意でないはず。

だから、筋肉をどうのように動かすのかという「結果のイメージ」とイメージから逆算した「筋肉の電位の活性化 」と活性化した電位に誘導された「筋肉のに実際に作用せる脳の神経からの入力」の3セットが揃って人間は普段身体を動かしているのではないだろうか。


どうでしょう。

この考えが正確に合っているかは解りません。

しかし、「脳」「遺伝子」に加え「魂」まで考慮すると「人間が動く時、脳より先に筋肉の方が動く」という研究結果を全く違うように理解するようになります。


更に例を挙げます。


人間の容姿は遺伝子や環境できまるという考えがいまの世の中では主流です。

最近では「脳」の作用で遺伝子をかえるという「潜在意識で容姿を変える」ということも民間から上がってきています。

しかし、私は「魂」の作用が人間の容姿に強く影響を及ぼしていると考えています。


他の記事でも書いていますが、人間の容姿の一貫性を保つということを考えた時に「遺伝子」と「脳」だけでは不十分だと分かったからです。


遺伝子は主に身体を構成するタンパク質の設計図です。

脳は身体の様々な作用を制御します。

これだけでは、今日の自分と5、6年後の自分の容姿に一貫性を保つことが出来ません。

遺伝子で内蔵や身体の構造が決まるので、人間であり続けることあh出来ます。

脳が身体を制御するので、ホルモンバランスなどを保って性別や細胞の生まれ変わりを安定させます。

しかし、「左右の眼がどれくらい離れているか」とか、「耳の形」だとか「顎のライン」などの「顔立ち」は遺伝子や脳がコントロール出来る領域ではありません。

顔立ちをタンパク質の設計図で決定したり、脳による身体の制御だけで一貫性を保つのは無理なのです。

そう考えた時、「魂」という第3の要素が容姿の一貫性を保ち、ひいては容姿を決めるのに何かしらの働きをしているのではないかと思ったのです。

そう考えてまず、「魂」についての考察で得た「魂は場の歪みで物質の構造を転写する」という考えに注目しました。

物質の構造が魂に転写されるのなら、転写されて構造は「魂と重なり合っている身体の構造」に影響をおよぼすのではないかと考えました。

むしろ、物質の持つ物理構造と魂の場の歪みの論理構造は互い影響を及ぼし合っていると考えるのが妥当ではないか。

そう考えました。

そして、魂が容姿に及ぼす影響をコントロールする「潜在意識で容姿を変えるの話」の記事を書きました。


如何でしたでしょうか。

もしかしたら、脳や遺伝子など人間の身体を研究する最先端の科学者たちは、もうなにかしらの「新しい要素」を考慮しないと人間の身体をあれやこれを説明できない所まで来ていると気づいているのかもしれません。

まあ、これは全部仮説なのですけれどもね。

では以上になります。

ではでは。




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無意識の行動はあなたの本心?とんでもない間違いです!

こんにちわ、dokubo_toshoです。

--記事の更新をしました。タイトルの表記ミスを直しました。 2017/10/17


今回の記事のタイトルは「無意識の行動はあなたの本心?とんでもない間違いです!」になります。

タイトルの通り、あなたの無意識の行動、つまり「潜在意識の中で自動化された反応」はあなたの本心でもなんでもありません、それは殆どの場合「単に過去に学習したもの」というだけなのです。

では詳しい説明にはいります。


あなたの潜在意識は、おぎゃあと生まれてから(あるいはモット前から)今の今までに、ありとあらゆるあなたの行為という経験を蓄積してきました。

その行為の中には、めったに行うことのない行為から、非常に高い頻度で行われる「お決まりの行為」というものまであります。

この「お決まりの行為」(行為というのは行動、感情、思考、その他諸々を含みます)は、あなたがその都度「よしやるぞ」と息巻くこと無くできるようになるために考えなくても出来る、つまり無意識でも出来るように「自動化」されています。

この「潜在意識の中で自動化された行為」を人は「無意識の行動」として認識しているのです。


そして、精神分析の大家であるフロイトやユングの時代に、人々にこの「無意識の行動」は「人が顕在意識の中で認識できない、本心からの行動」として考えられる様になっていました。

それは、当時の神経症の患者が起こす問題行動を「潜在意識の本心を、顕在意識が抑圧していたから起こった」と考えたためです。

しかし、現代になって、実際の人間の脳というものを研究分析してみると、当時のユングやフロイトの考えは大きく否定される部分が出来てきました。

その中でも「無意識の行動はあなたの本心である」というのは非常に、人間の生活を苦しくしてしまっていた大きな間違いなのです。

それは、ただ単に過去に学習して、脳に刻みつけしまっただけの自分で望んでいない行為を、他人から訳知り顔で「それがお前の本心なのだ!おまえはそういう人間なのだ!」と自分勝手に断言されてしまうからです。

多くの間違った常識を信じ込んでいる人たちは、この訳知り顔の断罪を「本当はそうなのかも」と納得してしまっています。

そして、「自分の評価を低めてしまったり」「自己嫌悪や自己不信に落ちってしまっています」。

これはいけません。

無意識の行動は「あなたが過去に学習した刺激→反応」のプロセスにすぎません、変えられるしそれはあなたの魂から大脳新皮質を経由して行われる本心からの「意識的な行動」ではありません。

潜在意識の中で自動化された行動は常に「過去に築いた刺激→反応」のプロセスです。

それが、「現在のあなたの本心と一致」していれば良いのですが、「現在のあなたの本心と不一致」なのであれば、「変える必要があるし、変えることができるし、変えちゃっていい」のです。

その時に、あなたは「過去の自分と現在の自分の一貫性がない」ことをすこし嫌な気持ちにさせられるかもしれません。

しかし、さまつなことはともかくあなたの「アイディンティティ」は同一です。

よく勘違いされていますが、「アイデンティティ」は他者と自分を区別するもんではありません。

他者と自分は単純に違うものです、区別など必要ありません。

「アイデンティティ」は過去の自分と現在の自分との同一性を担保する核の部分のことです。

あなたは、過去ギターが趣味であれ、今はそうでないのであれ、過去の自分と現在の自分を同一のものとして認識しています。

それは、好みとか趣味とか性格とか顔形とか付き合う人間とかで同一とみなしているのではありません。

そういう周辺部分ではなく、あなたの核つまり「意識」が同一であればそれは自分なのです。

つまり、あなたのアイデンティティは「あなたという意識」であって、他の何者でもありませねん。

他人から、過去の自分と変わったよう見られること、それを批難されることはは他人がそれを分かっていないからそういわれるのです。

他者から、「アイデンティティ」以外の部分も常に一貫していることを求められても、「くそくらえ」と思ってください。

そのような人間は、あなたの無意識の行動が変わって、あなたがよりあなた自身が望む人間になることを否定する「ワガママな人間」ですので。

そのわがままは聞く必要はないのです。



また、この「潜在意識で自動化された行為(あるいは反応)」を自分の本心と区別してまえないために人はテレビやCMやサブリミナル(閾下刺激)について正しい理解ができなくなってしまっています。

例えば、サブリミナルの実験に次のようなものがあります。

映画を見ているお客さんに対して、人間の認識できないくらい短い時間「コーラの映像」を映画の途中ではさみます。

そのときに、お客さんは「実際コーラの映像を見たと認識できない」にも関わらず、映画後のコーラの売上がかなり増えたのです。

この時に、サブリミナルは人間の行動をコントロールできてしまうと大げさに考えてしまうと、怖いものになってしまいます。

この、サブリミナルが効く仕組みを理解すれば、すこし勉強になるのと同時にサブリミナルの本当の使われ方が分かっててテレビやCMに対して防衛策を講じれるようになります。

では少々説明をば。

人間の思考の中には、自分の意識で脳をコントロールして、「音を鳴らす、随意の思考」をしているものと、自分の意思ではなく何らかの作用の影響の「音が鳴ってしまう、不随意の思考」が存在します。

多くの人は、自分の頭のなかで音が鳴っている時にそれが「自分が鳴らしたもの」だと考えています。

しかし、「脳の同調・模倣・共感システム」を利用して、他人の思考や感情が自分に影響したり、「繰り返される事によって、植え付けられた反応」や「認識の隙間をぬって、他者が意図したもの」が音やイメージとして再生されることはかなり多いです。

なので、あなたの思考は「全て自分自身の意思で行っているとは限らない」のです。

サブリミナルの技術は、「人間が認識できない刺激」を与えることによって、「刺激からの反応が頭の中で再現される」ことによって、「その頭の中で再現された思考やイメージ」を「自分の意思で行った思考やイメージと勘違い」されることによって行われます。

例えば、「コーラの映像を認識できない時間見せる」ことによって「何故か、コーラの映像やコーラという言葉が脳内に浮かんでくる」ことによって「自分が起こした思考だと勘違いして、自分がコーラを欲しいと勘違い」して映画が終わったあと「コーラを買うと決める」、という一連の流れのために起きるのです。

サブリミナルでは、あなたをコーラを欲しい気持ちにさせることは出来ませんが、「コーラを欲しいと勘違いさせる」ことは出来ます。

サブリミナルだけではありませんが、多くのテレビ番組テレビCM、マスコミはこの「あなたに車などを欲しいと勘違いさせる」ための技術を、長年の試行錯誤の中で体得しています。

それは、「この技術で騙してやろう」と考えている人から「このようなCMをやると売上が上がるのを経験的に知っているだけ」という人まで様々です。

テレビ番組やテレビCMはお決まりのパターンや、ステレオタイプの行動や、刺激と感情のを組み合わせることによって、あなたの潜在意識に「刺激→反応(思考や感情など)」や「ある種のイメージ(実際に存在しない、虚構のイメージや、ねばらなぬといった幻想、世間に対する間違った印象)」を植え付けようとしています。

植え付けることによって、あなたの本心とは違っている「単なる自動化された反応」を「あなたの本心や、実際の行われている真実」だと錯覚させることによって、あなたの行動をや思考をコントロールしようとしています。(あるいはそれを無自覚にやっています。)

認知科学者の苫米地英人氏が言っているように、「テレビをぼっーっと見ていると」知らず知らず内に「潜在意識の反応」をコントロールされてしまい「洗脳されてしまう」ことになります。

ただ安心して欲しいのは、サブリミナルやテレビCM等の洗脳は「あなたの潜在意識」をコントロールできてしまいますが、あなたの本心つまり「意識的思考」はコントロールできません。

ただ、非合法な薬物を使って「あなたの前頭前野や大脳新皮質」をボロボロにされてしまうと、あなたの「大脳新皮質は、あなたの魂からの入力を受け取れなくなる」ので意識的思考ができなくなってしまいます。

しかし、あなたの意識的思考の大元である「魂」は無傷ですので「脳を再生するか、一度死んで生まれ変わる(そんなことを期待しては行けません)」ことをすれば「あなたちゃんと自分の意識で思考する自由意志を物理世界で発揮できる」ようになります。

まあ、TVというのは虚構の世界ですので、娯楽として楽しむ分には良いですが、調度良い適切な態度をとれないと洗脳されることもありますよということです。



いかがでしたでしょうか。

「無意識の行動はあなたの本心?とんでもない間違いです!」の記事は。

よくあるのが、つい本心でないのに「他者を見下してしまった」時、「あなたは本当はそんな人間だったのね、がっかりだわ」とか「本当は君は人を見下していたのだよ、君は本当はそんな人間なのだ」とか漫画の金持ちキャラクターが言われたりします。

「なわけねーだろ」です。

それは単に「あまりに周りの人間がへりくだりすぎて、不意に出てしまった反応」でしかありません。

人を見下したいと思っている人間は「ちゃんと普段から人を見下しています」。

見下した原因は「金持ちくんの心」ではなく「周りの人間の卑屈な言動を反射した」だけです。

これはサブリミナルというか「脳の同調・模倣・共感システム」のなせる技ですね。

なので、上記の様な表現をする漫画は、読んでいると「わかってないな~」とちょっぴり微妙な気持ちになります。

意外と知られてないので、変な間違いをする人が結構多いです。

では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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並行現実への移行に関するあれやこれ

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、オカルト界隈でまことしやかに囁かれている並行現実の話になります。

--記事を更新しました。2017/10/17


噂によると現実世界はいくつも平行して存在していて、人間の意識はその平行現実を移動できると言われています。

タイムリーパーの存在がネット上にまことしやかに囁かれていたり、スピリチュアル界隈でも言及されています。

では、そのような並行現実は存在しているのでしょうか。

そして、それはどうのように並行現実間の移動を実現しているのでしょうか。

並行現実はあるという仮定で考察してみます。


まず、異なる現実が在るということは、異なる宇宙が在るということです。

異なる宇宙は物理的実体をもった実際に存在する物理的存在です。

決して、意識が作り出している不可思議な幻想ではありません。

おそらく、現実と並行現実はだいぶ物理的に近いはずです。

殆ど重なり合っていると考えられます。

重なり合っているが衝突しないということは、ある種の階層的な構造により、互いに別階層に存在しているのでしょう。

単純に、鈴木ビルという建物があったとして、私のたちの現実は1階に並行現実は2階とか3階に在るということです。

私たちの現実が1階に並行現実が2階にあったとしても、同じ鈴木ビルという建物が存在している座標にあるという理解です。

同じビル内であれば、エレベータやエスカレータによって並行現実間を移動できるのではないでしょうか。


また、全ての物体は互いに異なる波動を持っています。

仮に、Aさんが買った1個130のりんごと1個490円のりんごがあったとします。

それらが全く同じ波動をもっていれば、全くのコヒーレントであり(完全な同位相)、2つのりんごを近づければ完全に重なり合ってしまいます。

しかし、現実にはそれはおこりません。

2つのりんごが重なりあって存在しないのであれば(つまり近づけてもすり抜けずに、衝突し反発するのであれば)、2つのりんごは互いに異なる波動をもっていることになります(つまり、完全な同位相ではない)。

つまり、テーブルの上にコップを置いてもすり抜けず反発しているのは、テーブルとコップが異なる波動を持っているからです。

2つ以上の宇宙が合って、それが物理的に近く、且つ衝突しないのであるのなら。

別階層に存在して且つ、殆ど同じ波動を持っているはずです。

つまり、階層を特定するための情報が違うだけで、殆ど同じような物理法則と波動のはずです。

つまり、ほとんど重なり合っている同じような波動の宇宙が、微妙に階層がずれて複数存在しているということです。


では、並行現実間の移動はどのように行われるのでしょうか。

先ずは簡単な認識の確認から。

例えば、先ほど例に上げた鈴木ビルにおいて、エスカレータなりエレベータなりで階層間の移動ができたとして、
1階からエスカレータに乗ったら2階の特定の場所に出ます。

また、1階からエスカレータにのって、2階に昇ったらそこに2階への入り口(簡単にいえばフロア間の穴)が存在していなければエスカレータに乗っても2階にはたどり着きません。

これと同じことが、並行現実間の移動でも起こりうると考えられます。

単純に、Aという現実ではあなたは自分の家のトイレにい居ます。

しかし、Bという現実のあなたは自分の家のキッチンに居ます。

AとBが重なりあっていて、意識がそれらをスライドするように移動できたとしても。

Aという現実のあなたがトイレに居る限り、Bという現実でのあなたとの物理的な距離は遠すぎます。

あなたがトイレの中でどんなに頑張ってBという現実に意識だけ移行しようとしても、エスカレータの出口がふさがっているようなもので決してBという現実には移行できません。

しかし、家の中でいさえすればAという現実とBという現実のあなたの3次元座標(X Y Z)が重なるタイミングがあるはずです。

そのタイミングで階層座標(仮にK)をAからBに書き換えられればあなたの意識はAという現実からBという現実に移行できるはずです。

あたりまえですが、Aという現実とBという現実でのあなたの生活は完全には一致していません。

しかし、おそらくですが、極稀にAとBのあなたの座標が一致するタイミングが在るはずです。

そのタイミングであなたの階層座標を書き換える事ができれば並行現実間の移動が可能になると思います。

おそらくそのタイミングでエネルギーが近づくと、別世界のあなた(これは完全に別人です)の記憶や思考に強く同調して記憶の混濁や意識障害を生む可能性があります。

時間は相対的な変化量で観測するものです。

時間とは1次元ベクトルで表わされるようなものではありません。

現在の過去から未来へ時間が流れるというものは一種の幻想みたいなものです。

そのため、現在のスピリチュアル界隈では全ての時間は同時に存在しているなどと言う方がいます。

しかしそれは、うそです。

確かに、時間は相対的な変化量の観測でしかありません。

しかしそれは、1999年1月1日と1888年3月8日が同時に存在するということを意味しません。

宇宙は今ここにしかないというだけで。

1つの宇宙の異なる在る瞬間が同時に存在するまではいきません。

ではどう言うことか。

それは、単純に異なる宇宙が複数あり。

Aという宇宙で西暦1988年3月2日なタイミングで、Bという宇宙で西暦2016年4月2であるという事が起こりうるというだけです。

もし平行現実を認識でき移動できる存在がいたとして、それゆえに異なる時間の似たような宇宙が複数あるという事を発見したとしたら。

全ての時間は同時に存在していると勘違いしてしまうかもしれません。

しかし、Aという現実の1988年3月2日はBという現実の1988年3月2日と同一ではありません。

どんなに似ていたとしても、事実として別のものです。

世界は広いですから、似たような平行現実が何百何万もそんざいしているかもしれません。

しかし、それぞれの並行現実はどんなに似通っていたとしても、別々の独立したものです。

そこらへんを勘違いしてしまうと、すべての時間は同時に存在していると思ってしまうかもしれません。



 
いかがでしたでしょうか。

並行現実というものが存在しているという仮定で考察をしてみました。

実際はどうかは解りませんが、宇宙がすべての大元である存在質(あるいは神とか大霊とか、グレスピとかなんでもいいのですが)の経験したいという欲求から生まれたとすれば、自分(分け御霊とか、スピリットとか、魂とか意識とかなんでもいいのですが)の生きたい現実を生きれる仕組みが根本として宇宙に存在していてもおかしくないのかなとは思います。

実際の所どうなんでしょうね。


では今回の記事は以上になります。




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意識の周波数が変われば、フォーカスする現実は同時に変わる

こんばんわ、dokubo_toshoです。

--記事の内容を更新しました。2017/10/17

今回の記事は、意識の周波数を変えることの重要性と、それに関する理論のご紹介です。

あなたの意識(あるいは魂)は在る周波数で振動しています。

というか、すべての物は固有の周波数で振動しています。

あなたが、このブログの記事を読んでいる時にはあなたの意識はあなたの身体に周波数をを合わせています。

これを、意識を肉体の周波数にフォーカスすると言います。

フォーカスする理由は単純で、周波数が一致しなければエネルギーのやり取りが出来ないからです。

例えば、あなたの意識はあなたが寝ている間はあなたの肉体に意識をフォーカスしていません。

フォーカスしていないので、あなたの肉体で発生する諸々のエネルギーは受け取れません。

なので、その間、あなたの肉体の感覚器では発生するエネルギーをシャットアウトするので、見えないし聞こえないし臭わないのです。

ちなみに、その間はあなたの意識は周波数を宇宙の根の方に(つまり存在質に近い方へ) 合わせるので寝ている間に高次の世界と交信したり、あるいは存在質のエネルギーを補充したりしています。

あなたが今この記事を読めるのは、視覚神経がパソコンのディスプレイを発するエネルギーを受け取れること、つまり網膜の細胞の周波数が可視光の周波数と一致していることと、あなたの肉体の周波数とあなたの意識の周波数が一致していて、網膜で発生したエネルギーをあなたの意識が受け取れることが条件です。

そして、このディスプレイの発したエネルギーを受け取る網膜の細胞の周波数や、あなたの意識の周波数は可変なのです。

網膜の細胞の話は置いておきます。

あなたの意識の周波数が変わると、あなたが今までフォーカスしていた肉体からエネルギーを受け取れなくなります。

なぜなら、周波数が一致しなくなるからです。

でも、あなたの意識は周波数を毎瞬毎瞬変化させています。なのに、肉体にフォーカスできなくなって何も見えなくなるということがありません。

それは、あなたの意識の周波数が変わるは、フォーカスする現実が変り、その現実に存在するあなたの肉体にフォーカスしているからです。

あなたの意識の周波数が変わることは、あなたの意識がフォーカスする肉体が変化するということです。

そして、その肉体が存在する現実にフォーカスするということです。

意識→(フォーカス)→肉体→(存在)→現実

見たいなイメージで考えるとわかりやすいかもしれません

ちなみに、あなたの肉体とあなたの肉体が存在する現実は、基底の周波数が一致しています。

つまり、あなたは意識の周波数が一致している肉体の基底の周波数が共通する現実を体験するということになります。


最近のスピリチュアルで意識の周波数を変えることが、体験する現実を変える事になるというのはつまりこういう事になります。

また、その時に現実が変わるのを待つのではなくあなたの意識を先に変える必要があるということは次の理由からです。


あなたがもしAという現実の肉体にフォーカスしているなら、あなたの意識とAの周波数がもちろん一致しています。

そして、そのAという現実であなたに面白くない事がたくさん起こるとします。

その時に、そのおもしろくないこと体験するあなたはもちろん意識の周波数がAという現実と一致しているからということを知らずに、世界よ変われという思っているとします。

しかし、あなたの意識の周波数は変わっていませんのであいも変わらずAという現実で面白くないことを体験して、Aの周波数と強く同調していくことになります。

しかし、あなたの意識をまずBという現実の周波数の変えることにしたらどうなりますでしょうか。

まず、AとBは周波数的にあまり変わりはありませんが、別の現実です。

ちょっとだけ、Aという周波数から離れた現実を体験する事になります。

別段わかりやすい変化はありません。

しかし、この調子でちょっとづつ自分の意識の周波数をAとは違う好みの現実の周波数に変化させていくとどうなりますでしょうか。

A→B→C→D→E→F

といった具合に、あなたの意識の周波数を自分の望みの方向にずらしていくと、段階的にフォーカスする現実が変わっていくことになります。

AからBに変わったくらいではほとんど変化をせずに、相変わらず面白くないことを体験することになるとは思いますが、その調子でGくらいまでに周波数変えることができると、Aともかなり周波数が変わっていくことになるので、体験する現実も大きく変わっていくことになります。

そうすると、面白くないことはだんだんと減っていって、面白いことが起きるようになります。

 
 現実が変わる前にあなたが変わる必要があるというのはつまり、こういうことなのです。


 ちなみに、このことを理解するにはパラレルワールド理論を理解する必要があるので、ある程度科学が発展していって、パラレルワールドの存在を認識することができるようになるか、あるいは大麻などを使って変性意識状態になって別の周波数の現実をのぞき見できるようになることでしかしっかりとした理解はできないでしょう。

今は科学が発展していってパラレルワールド理論も提唱されるようになっているので、多くの人がこの認識にいたれる可能性が十分にあるのです。

以前はこのような理解でしたが、現在ではパラレルワール間の移動は原理的に生きている間は行われないと推察します。

 

まったく完全に肉体の生命活動が停止して死なないと、そのような自体は発生しないでしょう。

 

量子力学のエフェレット解釈はマクロの世界には通用しないと思われます。

 

ただ、交通事故で死んだ人などはどっかのパラレルワールドに魂だけ移動したり、ブラックホールに吸い込まれて死んだ人間が肉体だけ自分の世界に残して魂だけ別宇宙に移動してしまうことがあるかもしれません。

 

世の中には全く別の世界で生きていたと主張する方たちが一定数います。

 

そのような方たちは基本的に病気を発症されていると思われていますが、おそらく別世界の人間が何らかの切っ掛けで死亡してこの世界の人間に憑依してしまっているだけだと思われます。

 

そのような人間は別世界の人間の記憶というのを簡単に受信してしまうのことが予想されます。

 

物理的にも魂的にも別人になっている可能性は大いに低いでしょう。(なきにしもあらずとは感じますが)

 

何らかの切っ掛けで赤の他人(自分と非常によく似ている)の記憶が勝手に思い出されてしまうのは非常に怖いことですが、自分自身の記憶ではないので本人は単なる記憶障害の可能性があります。

 

これからの世の中はこのようなサイキック現象からの防衛策も議論していく必要があると思われます。



いかがでしたでしょうか。

スピリチュアルで言われる、まずは自分自身を変えなさい、という言葉。

具体的に、なぜまずは自分自身を変える必要があるかということを説明しました。

この理論を深く理解すると、あらゆる物事に応用できるので色々捗りますよ。

では以上になります。




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願望実現におけるイメージングについて

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、願望実現法におけるイメージングについてになります。

---内容を更新しました。2017年10月14日

曰く、願望を実現させたかったら、願望がかなった状態の自分をありありとイメージして感じれば良い。

このイメージングについて、色々な意見があると思いますが、何故イメージングをしたら願望を叶える事ができるか理屈を考察していきたいと思います。


まず、ポイント1。

ありありとイメージした、自分の願望がかなっている状態は多次元的な宇宙においては、すで「実在している」という点。

全ての想像がとは言いませんが、ありありとイメージできる想像というのは多次元的な宇宙において実在しているから想像できるのです。

 

これに関しては、宇宙のドコからか流れてきた電磁波を勝手に受信している可能性が高いです。

宇宙のどっかから流れてきた誰かの妄想や思考などを受信している可能性が高いです。

 

つまり、ドコかの星で文化として存在しているもしくはしていた可能性が高いです。

 

多次元という言葉を勘違いしていた可能性が高いです。


それはなぜか。

それは、そもそも人間の脳には未だ経験したことのない「願望がかなった状態の自分」のイメージをゼロから作り上げる事ができないから。

想像とはつまり、感覚器において前頭前野からの出力で、ある感覚情報を再現することです。

そして残念なことに、単なる肉体的なオペレーティングシステムである脳は、ゼロから経験したことのないイメージを作り出すことが出来ません。(自分の経験にあるものについてはイメージを作り上げることは十分に可能です。論理的思考というのは非常に重要になります。

単純な例として、コンピュータをつかって絵を描くことが出来るとは思いますが、 絵は誰か人間がゼロから作らなければいけなく、コンピュータが自動で絵を描くことができないのと一緒です。

コンピュータは勝手にアンパンマンを思いつくことが出来ません。

そのために、想像という行為は、前頭前野からの出力つまり、魂からの入力がなければ成されません。

そのときに、魂は宇宙のドコからから、すでに出来上がった状態の絵(イメージ)を受信することが出来ますあります

この受信したイメージは、すでに出来上がったイメージであり、宇宙のドコからか存在しているあるいはしていたイメージです。


つまり誰かの思考や想像や妄想や記憶です。

すでに実在しているあるいはしていた世界の情報を受信したのです。


ポイント2。

魂は、多次元的な宇宙を自由に移動できる。

魂は、存在質です。

とっても周波数が低いので、物理的にな宇宙をすり抜けることが出来ます。

すり抜けて、とどまりたい宇宙に周波数を合わせて、チューニングして、フォーカスして、その宇宙で活動することが出来ます。

多くの人は普段は意識できていませんが、その本質は魂であり、本質的に次元の壁を超えることが出来る存在です。

 

これの多次元宇宙という言葉ははパラレルワールド(並行宇宙)である可能性があります。

 

パラレルワールド間の移動が魂の状態では可能ではないのでしょうか。

 

普通に滅んだ文明とか色々あるでしょうね。また、交わらないからパラレルワールドなのです。

 

古代の魔術師(詐欺師)の生まれ変わりとかもいるやもしれません。

故に、魂が受信したイメージの世界がすでに多次元的(パラレルワールド)な宇宙に実在しているならば。

その世界に移動することが出来る(死んだら出来るかもしれないですが。それを望むのは非常に病気的です。現実を見ましょう。)。


ポイント3。

魂は、全く周波数を同じくする魂とであったら、完全に重なってしまうことがある。

つまり、すでに実在している願望がかなった状態の自分は、あなたの魂とは別物ですが、その魂と全く同じ周波数にあなたの魂が変化したら、元からあった魂の自由意志を損なうこと無く、体験したい状況を同じ場所で体験できる。唯識のアイディアですね。絶望的に危険な思想です。現代文明はこれを避ける必要があります。仏教とか仮想現実の考えは非常に危険だということです。そのような形で滅んだ文明の思想には同調しないようにしましょう

その場合は、同じ場所同じ人間として周囲には映るが、魂的には2つの魂が重なった状態。高次の存在にもエネルギー的に同一なので区別がつかない。(見た感じに区別がつかない物を同一のものとしてあつかう危険極まりない思想です。自分は意識だと思って死んでいった意識のバケモノたちの思想には同調しないようにしましょう)

もしあなたの魂だけが、ちょっと周波数が変われば、あなたの魂は重なっていた魂と袂を分かち、別の経験をすることができる。(このような考えをもっていて滅んだ存在は宇宙文明の中で多くいたのではないでしょうか。あるいは古代の地球にもです。)


 ポイント4。

ありありとイメージできたら、その状況にいる自分の感覚を体験しよう。

この感覚と言うやつが、高次の存在が散々パラ言っている「波動」です。

波動という危険な考えを信奉するのはやめましょう。

そして、波動というやつは多次元的な宇宙における「座標」のようなものです。

 

主観経験の科学を信奉したおぞましい文明は宇宙におおくいるのではないでしょうか。

 

そのような文明の発した電磁波を変な瞑想状態で受信している方たちがいっぱいいると思われます。

味わった感覚をあなたが記憶すると、あなたは多次元的な宇宙における自分の目的地(願望がかなった状態の世界)を潜在意識というナビゲーションシステムに登録したことになります。 

 

そのようなイメージを地球上に垂れ流す事によって地球全体が滅びに向かいます。

 

多くの方がそのようなイメージをインスピレーションで得ることになり無意識に誘導されていくようになります。

一端座標を登録すれば、あなたはこれ以上多重に目的地を登録したり、上書きしないように、二度イメージを味わう必要がないし、してはいけません。(自分だけに都合が良い妄想を世界に垂れ流さないでください

 

無意識のグローバル通信でイメージの共有が起こりやすくなるだけです。

 

あなたが望んだことは誰も望まないことであれば実現しません。しかし、多くの人が望むことであれば必要な協力を得られるでしょう。

そのあとは、日常生活の中にイメージしたこと忘れて生活していても あなたの魂は徐々に目的地へと導かれていくでしょう。

 

身体をもってそれを体験します。

 

イメージと全く同じ状況は起こりません。

 

似たような状況に自分が所属する集団を誘導します。

この時大事なのは、目的地への行き方をしっているのは、あなたの顕在意識ではなく存在意識なので、直観に頼ることが重要になってくるという点です。(非常に魔術的な考えです。悪意(自分さえ良ければ良いと言う考え)をもって行われれば非常に危険です。いずれ必ずしっぺ返しを受けます。


ポイント5。

いくらイメージしても、体験できないこともあります。

 

当たり前です。自分が世界をコントロールしたいという思想は捨てるべきです。

 

自分が特別な存在だという優越感を生み出すような思想には同調しないようにしましょう。

 

ただ、純粋に社会貢献をしたいという考えや現実を直視するという考えをもっているならばそような愚かな考えに同調しないので大丈夫です。

いくらありありとイメージしても、現在の自分より過去の世界はいくら潜在意識のナビゲーションシステムが優秀でも行くこと出来ません。

なぜなら道が続いていないから。(ただ、上級者だけが扱える裏技があるが、多くの人にとっては無用なもの)

また、現在全財産200万円のフリーターが、三秒後の全財産1億円の自分を想像できたとしても、それは道が続いていません。

それは妄想です。


あくまで、多次元的に宇宙の中現実の地球で、現在地から行くことが出来る場所にしか行けません。

道が続いていないのに無理やり行こうとしたら、行き止まりから動くことができなくなってしまいます。 

道が続いていないのに、無理やり行こうとする人に対しては「現実をみなさい」としか言いようがありません。


ポイント6

結局、理性を使って、努力する必要もあります。

もしあなたが、全く料理ができないのに、高級和食料理屋の大将になった自分なりたいなら、料理修行は結構たいへんでしょう。

ナビに登録したら、そのあとはちゃんと道路状況や標識や対向車が居ないかなど、ちゃんと現実の状況をみて目的に向かう必要があります。

暇があればイメージングして、願望をかなった状態の自分をイメージする流派もあります。

しかし、夢(イメージ)を観ながら車を運転していれば、それは居眠り運転です。

事故を起こす可能性もあり、下手すりゃ車はスクラップ。良くて、迷子です。

ナビの支持に従いながら、道路状況をよく確認して、運転しましょう。 

ナビの指示はそんなに細かくないことが多いです。

頭を使って、あいまいな指示を現実の道路状況にどう具体的に当てはめる必要があるか、なんてことをウンウン唸ったり。

しばらくナビの指示がない状態で、道路状況をよく観て自分の頭で考えて運転する必要が出てくるでしょう。

 
ポイント7。

思考のエネルギー密度は行動のエネルギー密度よりだいぶ低い。

イメージングをして、感覚を味わったあとは、実際に目的地を目指す必要があります。

そのためには、アファメーションをしたりして思考を変える必要がある方が多いでしょう。

思考を変えて、潜在意識の古い思考パターンを変えて、願望が叶った状態の自分に相応しい思考パターンを身につける必要があります。

ただ、この状態でとどまってしまうといくら待っても願望は実現しません。

思考を変えることは重要です。というか、思考は第一に帰る必要があり、これをしなければ願望は叶いません。

しかし、思考を変えただけでも願望は叶いません。

行動しなければいけません。

高次の存在という呼称を使う存在=非常に魔術的な存在ほどに成ればなるほど、思考=行動になってきますが、現在の私たちには、思考と行動の間には大きなギャップがあります。

ただ、魔術的な能力によって集団の同調率が高めている社会自体は悪ではありません。


非常に古い社会だということです。


このギャップの所為で、思考即行動とは行かないものです。

思考が変わっても、行動が変わらないと現実は動きません。

なぜなら、思考のエネルギー密度は行動に比べてだいぶ低いからです。

密度が低いので、あまり大きなものを動かせません。

脳神経や小規模のエネルギーに影響をあたえることは十分可能です。しかし、固く重たい物理的な現実を動かすには、思考ではなく行動レベルのエネルギー密度が必要です。

なのでめっちゃ危険です。

ためしに、目の前に鉛筆と紙を用意して思考で「どらやき」と書いてください。

もちろん書けませんよね。 

ですが、手を使えば簡単に書けます。

このように、思考と行動ではエネルギー密度が雲泥の差なので、思考だけで現実を動かそうと、願望を実現しようとしても、うまくいかないことがほとんどです。

そいうことをしてばっかの存在がものすごく危険なのです。

(ただ、波動が上がってくると思考のエネルギー密度は上がってくるし、現実が柔らかく軽くなってくるので、思考の重要性が上がってきますが )

 

つまり、思考による集団に対する無意識のコントロールがより容易になってしまってきてしまいます。

ちなみに、行動と書いてますが、ブログを書く、本を買って読むというのも立派な行動ですので、外に出て新しいことを始めるという大きな行動以外の小さな行動も重要です。

ポイント8

失敗なんてないんだよ。

 

手痛い失敗から学ぶというのが非常に重要な人間の成長になります。

try and refine。

長い目で見ればそのとおりです。


6~8は補足なので、1~5の様な理屈が前提にあって、イメージングは成り立っているのではないでしょうか。 

イメージングで願望実現した方は結構いるみたいなので、上手くいった方と上手くいっていない方の差は上記の前提に反していないかどうかなのかもしれません。

今回の記事は以上になります。

ではでは。 



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陰謀論の正体:イルミナティ、フリーメイソン

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、「陰謀論の正体:イルミナティ、フリーメイソン」になります。

 

最初に行っておきますが、イルミナティやフリーメイソンというのは悪の団体でも邪悪な支配民族でもありません。

 

単なる宗教です。

 

例えばです、フリーメイソンというのは元々は建築士であり石切職人達の集団です。

 

彼らは古い時代において、高度な電磁力学について熟知していた人たちです。

 

石や鉱物といういのは、あたりまえですが電磁波がぶつかれば反射します。

 

人間が思考するときに発した電磁波というのも、石材を多く使う建築物内では反射し続けその建物内に電磁的なエネルギーが滞留していくでしょう。

 

古代の時代に、そのような石材やより電磁波を滞留させたり増幅させたりするような建築方法を発見して研究した人間がフリーメイソンの始まりでしょう。

 

そのような人たちはいわゆるヨーロッパの石畳に文化の中で非常に高度な電磁力学・建築法・高度な霊的法則について研究・研鑽してき、その有用性が認められ当時の階級社会では比較的に裕福な暮らしや階級に所属していたと思われます。

 

例えば、エジプトのピラミッドなどは、電磁力学的に内部で発生した電磁波を外に逃さない工法になっていると予想されます。

 

そのような場所が瞑想しながら思考すると過去にその場で瞑想していた人間の思考で発した電磁波と言うのは受信しやすくなります。

 

つまり、王家の人間に代々特殊な儀式的なやり方で知識を伝達していたのでしょう。

 

また、そのような時に特殊な方法で変性意識状態になり、ドーパミンがどばどば出ていると非常に明瞭にイメージできたり思考をキャッチできるので、特殊な瞑想方法なども開発していったのでしょうね。

 

そのピラミッドと同じように、フリーメイソンの方たちは建築学と電磁力学や霊的な法則などについて古い時代から連綿と知識を研鑽・研究・継続してきた方たちです。

 

古い時代に叡智を連綿と受け継いできた人たちでしょうし、そのような事が可能だったから非常に重宝されていたと思われます。

 

そのような文化があるたんなる宗教団体なので陰謀論的な物はあまり関係ありません。

 

次にイルミナティですが、これはフリーメイソンの出身の方が魔術的な教義を学んで独立していった団体だと思われます。

 

魔術的な教義とは、つまり西洋の魔術。中東の魔法(アラジンと魔法のランプとかそういうやつ)とか、インドのバラモン教から派生した密教団体、原住民族のアミニズム的な儀式とかです。

 

つまり、イルミナティはフリーメイソンより魔術的な宗教団体というわけです。

 

でも、ただの宗教団体です、現代社会では信教の自由が保証されているわけですから特に問題にしないでいいでしょう。

 

ただ、そのような魔術的な教義を連綿と受け継いで来てはいますが、魔術的な考え方についてそんなに詳しくないそれどころか無知すぎるということでそれが問題なのです。

 

魔術的な考え方というのは、つまり礼儀作法(マナー)の文化であります。

 

ある特定の礼儀作法により、その礼儀作法を採用する人間たちの間で電磁波を互いに受信しやすくなり行動や思考の同調率を高める方法です。

 

行動や思考の同調率を高める方法なので、集団の中で考えた思考やイメージというのがインスピレーションにて伝わりやすくなります。

 

つまり、金儲けばっかり考えている方たちの間ではその金儲けのやり方とかアイディがインスピレーションで共有されやすくなるのです。

 

また、そのような団体が終末論的思考をする宗教を採用している人が多いければ、集団全体が終末論的な思考に誘導されていってしまいますでしょう。

 

戦争が起こってでもお金を稼ぎたいと思っている方が多ければ、戦争を起こすような誘導を無意識的にしてしまうこともあるでしょう。

 

ただこれは、非常に完結ですが異民族同士では情報の共有は行われません。

 

単純に、遺伝的に同一もしくは比較的に近い生物でなければ松果体などの構造が違ってきますので受取りやすい電磁波の周波数帯が一致しないからです。

 

魔術的な教義とはつまり、礼儀作法の文化であり、民族的なものであり、ある特定の集団のためのものなのです。

 

つまり、つまりこれは、プロトコル(外交儀礼)です。

 

異民族間において、同一の礼儀作法を用いる事により、思考やイメージの共有が起こりやすくなるために用いられてきたもんであり、同一民族内で世代間格差を埋め合わせるために思考やイメージを共有しやすいように定められてきたものです。

 

たんなる宗教的な教義だったりするわけです。

 

ある集団が一緒に仕事をするために作られた集団プロトコルです。

 

イルミナティに所属する方たちはそのような思考やイメージを共有したり、行動や思考の同調率を上げるために、魔術的な要素をフリーメイソンの教義に加えて、魔術的(礼儀作法にうるさい)な宗教団体というわけです。

 

また、そのような方にユダヤ系の方が多いと言われるのは、やはり中東発祥の文化ですからユダヤ系の血が濃い人は思考やイメージの同調率が高くなるからです。

 

またこれは行ってしまえばとても批判と批難をうけると思われますが、ユダヤ系の血族が世界中に広まってしまうとそのようなユダヤ系のカバラ魔術文化を行う(つまりイルミナティのような、ユダヤ系の魔術団体)人達と思考やイメージの共有同調率が上がってしまうことが予想されます。

 

そうなると、イルミナティの魔術的な教義や儀式に対する影響力が(それに対して無知な人が多い中)世界的に大いに上がってしまいます。

 

第二次世界大戦のヒトラーによるユダヤ虐殺はそれを非常に恐れた結果行った可能性があります。

 

ナチスドイツは、遺伝学の研究で有名で、シンボルマークの鉤十字に見受けられるようにインドの密教的な思想の潮流が見受けられます。

 

密教系の文化に傾倒して、遺伝学の研究が勃興した、ヨーロッパ地域の独裁者は、ユダヤ系の民族の魔術(礼儀作法や文化)とイルミナティの方に支配者階級に多いことなどの裏に潜んだ大いなる陰謀や魔術的文化に対する無知を非常にお恐れたと思います。

 

もちろん、ユダヤ系民族の大虐殺が正しい行いだと思いません。

 

結果として、多くの善良なユダヤ人や全く関係ない人が殺されてしまった上に、ユダヤ系民族含む人類全体の集合意識(あるいは文化的なミーム)を非常に傷つけてしまった行為だったと思います。(当たり前ですが、ノー残虐行為です。霊的は意味は非常にあった行為だとは思いますが)

 

密教系といのは非常に怖いのです。

 

中途半端にそんなものを学んでしまうと、ゴミのように精神が汚濁されてしまうでしょう。

 

釈迦が偶像崇拝を禁じた理由がその一つだと思われます。

 

礼儀作法(マナー)は民族の同調率を高めます。

 

瞑想の姿勢とか、涅槃像とか、十字架の貼り付け像というのは、そのような姿勢をした人間の形をした人工物はその姿勢を通して見るものの思考や同著率を上げてしまいます。

 

もちろん、ハッキリ言って自分がそのような姿勢をすることだけでも同調率は跳ね上がり、より思考やイメージの共有が行われやすくなります。

 

人間は松果体のよる電磁波の受信が行われなくても、眼で見ただけで脳のミラーニューロンは反応します。

 

瞑想している釈迦の銅像を見るだけでミラーニューロンが発火した思考やイメージの共有が起こりやすくなってしまいます。

 

とくに密教系の教義を学んでしまった人たちの中には、古代インド人の末法思想や世紀末思想や頭の悪い唯識思想(全ては意識だと思いながら死んでいった非常に怖い妄想お野郎ども。そんな文明が宇宙にゴロゴロいたかもしれませんね)などの妄想をインスピレーションとして受け取ってしまうようになります。

 

昔の人が死ぬのが怖い怖いって思って、宗教にドハマリしていて虐殺とか強姦してたり、ハーレム妄想したり、文明的ではない教育を受けていない人が多くて、差別とか氏族主義とか階級社会とか形成していて、滅んだ宇宙文明の発した電磁波をキャッチしてクソな妄想垂れ流していたたりした人たちの思考を拾い易くなってしまいます。

 

特に密教系を中途半端に学んだカルト宗教は、古代インドや日本の古い時代の末法思想や、自分が所属する集団や文化や民族が滅んだ時に発せられた昔の人間の思念とかを非常にキャッチしやすくなります。

 

それを、インスピレーションで見て本当のことだとか未来そうなるとか、異民族を滅ぼさなくてはとか、その時代に自分の文化を守るために戦った人たちの英雄願望や選民思想などに同調してしまうようになります。

 

完全に病気です。

 

古代人の思考や文化的な侵略を受けて滅んでいった人たちの妄想や恐怖から発して電磁波結構地球上で滞留しています。

 

そんな物を影響をうけるのは怖いことなのです。

 

そんな事が、第二次世界大戦のヒトラーに起こってしまったのではないでしょうか。

 

地球上に滞留している危ない電磁波のお掃除がこれからの時代には非常に重要になってくると思われます。

 

また、日本などでは奈良時代に聖徳太子が広めたお香の文化が非常に危険であります。

 

聖徳太子の多くの人が言っている言葉を聞き分けてたとかそういう超人的な行為が出来たと伝わっているのは、お香による変性意識状態などを多用してためだと思われます。

 

中国から伝わったお香と仏教(あるいは密教)的な文化が花開いた、奈良以降の時代の管理階級の支配者層は洗脳的な方法を好んでいたと思われます。

 

仏像を作らせたり、寺を日本中に作らせたのは、そのような密教系の文化を自国の統治に利用したからではないでしょうか。

 

そのような時代には末法思想が広がり、死んだ後は生まれ変われるとかそういう思想で自分を慰めながら生きてそして死んでいった人が多くいた時代です。(非常に苦しい時代だったと思われます。いやですね、そういった飢饉とか戦争とか病気とかが多い時代は。統治者は非常に苦労したと思います。)

 

とても、苦しんで死んでいった人たちの発した電磁波が滞留している場所とか日本では結構あるので注意が必要です。

 

そのような場所に住んでいる、その時代の人達に遺伝的に近い人はちょっと変なインスピレーションが湧きやすいので全くもって注意が必要です。(人間は普通の人でもしょっちゅう幻聴を聞いているという研究もあるぐらいなので、まともな人も要注意です)

 

インスピレーションを信じすぎてもいかんのですよ。

 

100人に1人が統合失調症の時代です。

 

精神医学は非常にまだまだ研究が必要な学問ですが、変な声が聞こえている人はそんなもの気にせずちゃんとお薬を飲んで生活態度を整えましょう。

 

また、変な電磁波が滞留している可能性がある場所も多いので身の回りに土や植物を多く配置して部屋の湿度が多すぎないようように(大気内の水分率があがると電磁波がより滞留します。空気が乾燥しているとよりビンビン飛ぶようになりますがホコリ等があると電磁波拡散率も上がるのです。現代社会は携帯の電磁波や無線LANもビンビンとんでいるので、電磁波のジャミンングなども非常に多く行われていて、変な思考はキャッチしにくくなっているとおm割れます。)。

 

部屋にホコリが多いと、思考で発した電磁波が埃によって乱反射してしまうのでいつまでも滞留すると思われます、適度に掃除しましょう。

 

湿度が高いと電磁波が滞留しやすいので適度にエアコンで除湿しましょう。

 

自然の多い地域の大気の自由電子は土や植物に吸収されるので比較的には変な電磁波がたまりにくいです、なので地域に自然公園がある場所などを選んで住むのもいいでしょう。

 

変な電磁波が滞留している地域では、鉄筋コンクリートや石材を利用して家にすんで電磁波的な防護を施したりしましょう。(ただこれだと、思春期の子供がいる家庭などは、屋内に妄想の電磁波溜まりやすいですので、そのような子供がいる家庭は親が積極的に掃除や換気したり、霧吹きと新聞紙で窓を拭いたり、床の水拭きをしたり、埃を掃除する時に霧吹きを部屋にかけて、埃が床に落ちてから掃除しましょう。また、遮光カーテンは電磁波を遮断する効果がある物もありますから、そのような電磁波を遮断しやすいカーテンは効果を考えてから使いましょう。)

 

都会でマンション住まいの方多い理由の一つがそれかもしれません。

 

ただそのような家庭が多い地域は、家族間の思考やイメージの共有率が下がるので各家庭に独自の雰囲気とか文化とか教育が行われやすくなると思われます。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

陰謀論の正体を暴いてしまったのでしょうか。

 

まだまだ推測の段階なので本当のことだと信じ込みすぎるのも危険であります。

 

鵜呑みにしないで、自分の頭で考える癖をつけましょう。

 

こんなこと言っているやつがいるということでとどめておいて下さい。

 

単なる妄想ではないですが、個人的に考えているだけで証明も実証もされていません。

 

信じるか信じないかではなく、本当だと思うなら自分で勉強して検証しましょう。

 

 

イルミナティの方などは、自分たちの教義の魔術的な意味は教えれてはいるかもしれませんが実際の科学的理論やそれがどのような行為でありどのような影響があるのかなんて全くご存知のない方が多いと思います。(もちろんしっている方もいるかとは思いますが)

 

自分たちの宗教がどのようなものなのか知っている人なんていたら、さすが宗教を改宗する方が多いのではないでしょうか。

 

本人たちは非常に無自覚なのですよ。

 

ただ、そのような宗教で教えられた伝統を維持していると何故かうまくいくから、信仰しているそれだけだと思います。(ユダヤ系血族の人に金持ちが多いのもそういう理由だと思いますよ。民族的な伝統を維持している人たちは思考や行動が同調しやすいですので)

 

そして、そのような方たちは古代人の終末思想や、民族主義や、その民族が滅んだ時の思考や、そのような人たちがよくしていた空想や妄想などの電磁波をキャッチして信じ込む方が多く出てきてしまうのでしょう。

 

まったく、もって無知です。

 

これはほっといたら地球が滅ぶ案件です。

 

そのような魔術的な宗教団体からの防護方法としては、彼らが好む食生活や生活習慣や礼儀作法などを意識して避けるだけで全然全くもって十分です。

 

ただそれだけ、多くの人が彼らの魔術的な影響を避けることができます。

 

相手の土俵で喧嘩するなということです。

 

相手の土俵で喧嘩しなければ喧嘩は発生しません。

 

自分たちの土俵から出ていかなければ、魔術的な方たちというのは決して自分の土俵からでようとしないので喧嘩になりません。

 

そのようなやり方を好む人達が増えれば、イルミナティや密教やカルトなどの魔術的影響は次第に影響力を失っていくでしょう。

 

私としては信教の自由は個々人が持つ人類不変の権利だと思います。

 

個人の信仰に口を出すつもりは毛頭ありません。

 

文明人ですので。

 

ただ、自分が信仰している宗教がどのようなものなのかというのを知らなすぎる人が大勢いるので結構困りものだし、秘技の隠匿とかやっているのは非常に危険だということです。

 

無知が罪とまでは言いませんが、無知という厄介なのです。

 

今回の記事はいじょうになります。

 

ではでは~。

 

 


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色と感性と遺伝形質のアクティベーション:チャネラーの危険性

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、人間の「色彩感覚と遺伝的な形質の変遷:チャネラーの危険性」記述します。

 

 

人間は、おぎゃあと産まれてから生涯遺伝子というのは変りません。

 

しかし、その時々に発現する遺伝形質というのは生涯に渡って変遷します。

 

これは、食生活と生活習慣の影響で変遷が起こると考えられます。

 

たとえば、東急ストアのロゴの色は赤でしたでしょうか青でしたでしょうか。

 

記憶を辿って思い出そうとすると、よくわからなくって思い出せない人が大勢居ます。

 

これは、その人達が気づかない内に網膜の光受容体の感性が食生活や生活習慣、住んでいる土地などで変遷するためだと思われます。

 

簡単に言いますと、あるときには青に見えていたしあるときには赤に見えていたのです。

 

なので、記憶を辿って思い出そうとすると青だったような気もするし、赤だったような気もするのです。

 

各人の保有する遺伝形質やある遺伝形質を保有する人がおおい土地や民族などにより色の見え方すなわち光受容体の感性が大きく違います。

 

また、それは地域や世代、民族により偏差(かたより)が生じます。

 

色弱や色盲の方がいる事が一般に知られているために最近では色彩感覚の遺伝学的研究が進んでいます。

 

なので、現代社会ではそういった配慮がある場合があります。

 

例えばですが、多くの民族が共同で暮らす都会地域においては、食生活や生活習慣も様々であり変遷するので、道路の信号機が時々により見え方が変わってきてしまうので車の事故が単一民族が居住する地域に比べ格段に起きやすくなります。

 

なので、そういった大都会は信号機のライトを単色光のLEDに変更したなら、信号の見間違えによる事故が格段に減るはずです。

 

それは、自然光は複数の色スペクトルが合成されたもののために、その時時により網膜の光受容体の感受性が変わってくるので色の誤認や違和感が起きやすいからです。

 

単色の色スペクトルのライトならばそれが起きにくいです。

 

そのような光受容体の色感受性はその辺遷に多くの人が無自覚であり気づきません。

 

また、スピリチュアルなどでは網膜の色感受性の変化により自然光の見え方が違うのでどのような遺伝形質が発現しているかを光の見え方で識別しているのです。

 

しかしそれは、盛大な勘違いです。

 

光の見え方感じ方は発現している遺伝形質により左右されるだけであり、それより明るいほうが良いとかより穏やかな方が良いとかそういった区別は非常にナンセンスであり、どのような光の見え方がより霊性が高いとか、意識が高いとか神聖だとかは非常にナンセンス極まりないです。

 

また、統合失調症で過去世の人格や古い生物の発した電磁波を読み取って、食生活や生活習慣を変えて光の見え方がと色彩の感性がかわって喜んだり落ち込んだりしている方たちが非常に危ういと思えます。

 

生物学や遺伝学について無知すぎます。

 

そのような、より古い生物のつまり原種に近い生物に近い感性をこのむような方たちは、非常に現代人離れした奇妙な感性を発現していくので殴ってでも止めてあげたほうが良い気もします。

 

なぜなら、生物種として原種に近いより、ピュアな存在はそれだけ原始的だということです。

 

生物としての原始的な感性を高めるように自ら訓練していく方たちは生物の進化に反する非常に怖い考えをもっているといえるでしょう。

 

先祖返りを好むというのは非常に怖い考えです。

 

より獣に近くなるということなのですから。

 

別に進化した種である存在の方が偉いなどとは思いません。

 

しかし、生物の進化はより自然な流れですそれをむりやり捻じ曲げようと考えるのですから非常に摂理に反しています。

 

スピリチュアルな世界では、チャネリングなどと称して宇宙に拡散している生物が発した電磁波をその感受性の高さによりキャッチしてイメージなどに変換してメッセージとして発信する方が違います。

 

しかし、宇宙を飛び交い地球に届く電磁には、非常に古い時代の文明が発した電磁波と、比較的新しい時代の文明の発した電磁波があります。

 

あたりまえです、電磁波(光)の速度は有限なのですから。

 

そして、より古い時代の古い文明の発した電磁波を好んでキャッチしてしまう恐ろしい方が居ます。

 

そのような方がハッキリ行って統合失調症の方に多いです。

 

よくわからかない電磁波をキャッチして古い時代の文明のメッセージを受け取り、そのような文明にすむ生物種の好む食生活や生活様式をするように誘導され非常に原種(つまり動物的な)生活を好むように調教していくのです。(私なんかも非常に危ういです。また、スピリチュアルではないかたにも多くそのような方が存在します)

 

そしてそのような生物種はもはや現代には存在していない(おそらく進化したり絶滅したりしているでしょう)のに、より古いメッセージをキャッチして退化していくのです。

 

現代のようなストレス社会で精神病を発症した方たちの中にはこのような人たちが大勢いると思われます。

 

非常に危ういので近づかないようしましょう。(私も非常に危うかったです。そして多くの人達が未だに危ういです)

 

また、科学が発展してしすぎて滅んだ文明の思考を好んでキャッチしようとする形も非常に多く見受けられるので、世界を破壊の彷徨に進ませる文明の発達のさせかたに誘導している場合があり、そのような方たちも非常に危ういといえるでしょう。(なので私のブログも非常に注意して読んで下さいね)

 

そのような方たちは家族がとりあえず好きにやらせてあげようかと思っていたり、放置されていたり隠れてこっそりインターネット上で活動していたりするのでまあ、十分な注意が必要です。(私なんかは家族にはだまってやっています。あまり心配させたくないし、理解されるのも難しいからです)

 

そのような方たちが非常に多く散見するのは、現代の遺伝的に多様になった社会で自分の親や一族が古くから受けつぐ食生活や生活習慣を強制されストレスで死にそうになっているからというのが考えられます。

 

非常に不遇な生い立ちな方が多いのも事実でしょう。

 

今の時代には感性というのが非常に遺伝的な要素に左右されるというのが判ってきています。

 

そのような考えがまだあまり発達していない時代に産まれたいわば、新種の人類たちは自分たちが所属する集団で非常に肩身の狭い思いというのをしてきた可能性が高いです。(これはおそらく古代の時代から非常に多く見受けられます)

 

そのような方たちがストレスで精神のバランスを崩して妙な電磁波に左右され、自分たちが宇宙人的だとか、宇宙人の生まれ変わりだとか、特別な魂を持つ存在なのだとか思っていしまっているのです。

 

非常にかわいそうですが、これは病気がちの方が多いです。(もちろん安定いる方も多くいると思います)

 

中にはそのような過去世を持つ人達がいるかもしれませんが、実際の所特別な魂というのの生まれ変わりというのはすこし考えづらいです。

 

また、地球に似た星の文明の発した電磁波を勝手に読み取って、さもこれが地球のことだと勘違いしている方も多いでしょう。

 

そのような方たちは電磁波の思念を勝手に間違えて訳して信じ込んでいる可能性が高いです。

 

そのメッセージがどのような言葉、単語、言葉遣いで表現されているかというのは非常に重要なので感性ではなく論理で注意深くみてみるのが良い方も多いでしょう。(もちろん感性で考えたほうが良い方も多いぜいると思います。)

 

そのようなメッセージを送ってくる文明も現在は非常に発達したものになっているのかもしれませんがより古いメッセージを好むようになっていく人たちも一定数いるので、それが大いに懸念だったりするのではないでしょうか。

 

チャネラーのメッセージは非常に不安定です、その時々の食生活や生活習慣や精神状態によってひろいやすいメッセージが変わってきますし、より古い時代のメッセージの方感性が反応してしまう方たちが大勢いると思われます。

 

なぜなら、原始的な生活というのは非常に楽そうだから。

 

別に良いですよそのような生活を好むような方たちがいても、ただメッセージの時代性や文明の進化や電磁の速度が有限でタイムラグが有るとか、生物種によって脳の構造や遺伝子や感性や習性がぜんぜん違うとか統合失調症の妄想人格の発する電磁波も地球上にはビンビン飛んでいるとか、地球の磁場が弱くなる時は宇宙から電磁波がより地表に到達しやすいとか、太古の時代から磁場がゆるくなった時代にはふるーい文明の発した電磁波を受け取って頭おかしくなった人たちが一定数いるとか(交通事故で頭蓋骨陥没とか、頭蓋骨の穿孔手術とかは、頭蓋骨の電磁的な防御が弱くなるので危険です。脳の誤作動が多くなると予測されます、滅んだ文明の電磁波とか受け取った人がアポカリプスや終末思想を信じこんできたからそのような存在たちが死ぬときには発した電磁波が滞留している地域があるとか、そのような事に対する正確な知識がないままそのようなメッセージを聞くことが病気や社会的な立場を危うくするかもしれないというのは知っていておいてくださいね。(まったくもって推測ですが、当たってそうな気がします)

 

ハッキリ行っておきます。

 

現代は時代の最先端です。

 

今が常に最先端です。

 

古代の智慧は大いに有用ですが、現代人が築き上げた知識や学問体系やスピリチュアルではない人や科学的な人たちをより信頼してあげてください。

 

今の時代は地球が高次文明の域に到達するかという非常に不安定な揺藍期です。

 

卵の殻なかから人類が殻を破って新しく生まれ変わるのか、殻の中で死んでしまうのかは現代の人類次第です。

 

高次文明というのは、つまり複数の生物種の混血ということです。

 

4次と言うのは4つの生物種の遺伝子をかけあせた生物ということです。(おそらくですが)

 

5次元というのは5つの生物種の混血です。

 

つまり、より混血度合いが多い地域に住む人達は5次元。

 

それより1つや2つまえの世代が4次元や3次元です。

 

チャネルのメッセージでしつこいくらいすでに5次元ですと行っているのは、すでに人類の混血度合いが高次文明のと同じ域に達しているということではないでしょうか。

 

また、日本人にはすでにその世代が誕生しているのでしょう。

 

チャネリングのメッセージはそのように解釈できます。

 

しかし、社会制度はより3次元(古い世代の築いた社会制度)だということではないでしょうか。

 

ただこれらは全部推測でしかありません。

 

このブログの記事も非常に警戒して読んで下さいね、どこで勘違いや間違いや思い込みというのが生まれるのか私自身にもわからないですから。

 

たとえ親子であっても遺伝的に、4次元か五次元かというのは違ってくると思われます。

 

親世代の食生活や生活習慣というものに、ある程度合わせられる遺伝子の方もいると思いますが、それが遺伝的に無理な方たちというのが非常に現代では大勢いると思われます。

 

そのような方たちが親元でいつまでも暮らしていると、食生活や生活習慣や感性の不一致から心身共にボロボロになって病んでいくと思われます。(たとえば、遺伝的に差異が大きい子供が胎児の時に、母体から必要な栄養やタンパク質を摂取できない場合脳や身体が発達不全になるケースが考えらます。単なる推測ですので鵜呑みにしてはいけません)

 

チャネルのメッセージではこれは避けるべきだというのを強く強調しています。

 

ただ、これはいろんなチャネル(情報源)の情報を整理して分析しただけにすみません、検証が大いに必要な内容です。

 

このブログでは何度も取り上げていますが、スピリチュアルな情報を鵜呑みにして信じ込んでいく人たちの中には何人も身を崩す人たちが大勢居ます。

 

詐欺的な人も多いし、わかったふりをしているだけの方も多いです。(私もその一人かもしれません。仮説だと主張していますが結構強く信じています)

 

チャネルというのはただの情報源です。

 

ティーチャー(教師)ではありません。

 

教えられるだけの知識も経験もない方たちばかりです。

 

あのような人たちはこの高次文明の揺籃期に、情報を垂れ流して卵の殻を外から暖めるように刺激しているための役割の方たちです

 

チャネル自体は非常に勉強不足の方が多いです。(本質的にそのような性質の方を選んだのもあるのでしょうが)

 

私自身もかなり勉強不足ですが、まだ警戒心がある分マシなのかもしれません。

 

産まれてもない雛鳥を教育することはまだするつもりはないのでしょう。

 

私のブログだって、そのようなモノノひとつになるのかも知れません。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事はいろんなスピ情報を整理して分析した結果になります。

 

あたりまえですが、宇宙人がいるという前提にたって話しているのであまり鵜呑みにしてはイケません。

 

ただ、なんらかの形でチャネラーの方たちが妙な情報を受信しているのは間違いありません。

 

私はそのような方を非難するつもりはありません。

 

ただ、そのような方たちが発信している情報によって混乱していたり不安になっていたり、色々難しいことになっている方に対しての警告的な内容になっています。

 

今回の記事は多分にスピ的な内容になってしまいました。

 

この記事の内容は100%完全な推測ですので、鵜呑みにせず自分の考える種にでもしてください。

 

今回の記事は以上になります

 

ではでは~。

 

 


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霊能力:ESP:チャネリングの危険性

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事では「霊能力:ESP:チャネリングの危険性」を扱います。

 

昨今の世の中には多くのスピリチュアルな情報というのが拡散しており、その多くは自称霊能力者やESPやチャネラーです。

 

そういった方々は、生まれつきドーパミン感受性が強い遺伝子を持って産まれており、子供の頃から「ビジュアル(視覚)に対しての強い操作能力」をもっていたり、自分の思考が現実に成りやすい(思考の内容を強く身体が再現してしまう。思念の力が強く多くの場合他者の行動に無意識から左右していしまうから)です。

 

また、中には仕事や勉強などにおいてストレスが多く、統合失調症やうつ病などの精神病を発症している方がいます。

 

そのような方は幻聴や幻覚をきいたり、多重人格性を発症したりします。

 

人間の思考というのは脳内の神経活動で発生した電気的な活動による電磁波を体外に発します。(もちろん仮説ですよ)

 

そのような電磁波はそれが土や他の生物に吸収されるまでやはり地球の中をぐるぐる周ります。

 

そして、そのような電磁波はやはり土地や建物といった物理的な環境により一部特定の場所に滞留していたりするのです。

 

その滞留した電磁波は物理的にわけられ区分されているので、いわばそれが人間の集合無意識ということにないります。

 

その土地土地に物理的に滞留している人から発せられた電磁波(思念波と言っていいでしょう)は、その土地に住む人には度々インスピレーションと言った形で現れます。

 

右脳=ドーパミン神経回路が優位な人間は、電磁波の受信機である脳内の松果体から受けっとた人間の生体活動に変化可能な電磁波の情報を実際に神経活動に変換してそれがドーパミンの作用により有声化したりイメージとして見えたりしやすいのです。

 

それにより他人の発した思考や感情やイメージを脳内に再現してしまうのです。

 

その際には、過去に生きていてすでに死んだ人間が発した電磁波(残留思念)を受け取ってしまったり、だれか統合失調症や多重人格障害の人が作った妄想人格が発した電磁波(妄念)を受け取ってしまったり、誰かが漫画やアニメを見ている時にした妄想から産まれた電磁波や作家が頭のなかで創作したキャラクター(疑似人格)から産まれた電磁波を受信したり、長い間の歴史の中で伝説的な人物とした語られてきた人に関して多くの人がした妄想や空想のお話(それから産まれた視覚的なイメージややり取りなど)を受信したり、優れた科学者が日頃思考している時に発している電磁波などを受信したりします。

 

そのような事は、地面がアスファルトだったり石畳だったり自然物が少なかったりそういった、電磁波が自然に吸収されない環境に住む人たちの間で多いです。

 

統合失調症的な(宗教や先駆的な科学な)文化が栄えた土地というのはやはり、石材を好んだの文化が多いところと(ギリシャ、エジプト、マヤ)いう印象です。

 

石というのは電磁波を反射してしまいますので、地面がアスファルトで舗装されていたり石畳が敷き詰められているところというのは、思考から産まれた電磁波が土地に滞留しやすくなります。

 

またそのような土地土地の人は、地球外から届いた電磁波というのも土地土地に滞留させてしまうので、(いるとすればですが)地球外生命体の考えた思考から生まれた電磁波というのも受信してしまうことがあるでしょう。

 

西洋文化圏で石畳の文化や地面の舗装技術が発達したのは、このような環境では地球外生命体の思考から発した電磁波を受信しやすくしたり、人々の思念が土地に滞留するために、天才的(あるいは統合失調症的)な人が多く産まれていくのを経験的に知っていたからではないでしょうか。

 

人間の思考より発した電磁波はあたりまえですが、光の速度で地球をぐるぐる回っています。

 

しかし、やはり物理的な影響でそのような電磁波が滞留しやすい場所や、物理的に環境が区切られている場所にその場所特有の電磁波の滞留つまり集合意識ができます。

 

その土地土地に過去からずっと滞留している電磁波やその土地土地にすんでいる人が発生した電磁波というのがその土地に住む人間の影響を与えます。

 

また、脳の松果体が電磁波を受信するキーであったりしますが、それはやはり遺伝子によって松果体の構造というのが決まり遺伝的に受信する電磁波の周波数帯というのが変わってしまうでしょう。

 

つまり、人種や民族毎により受けとり易い電磁波の周波数帯が異なるということです。

 

これが、人種や民族のミームというものを形成している可能性があります。

 

ちなみに、食習慣や生活習慣で遺伝子のアクティベーションというのが変わってきますので。

 

同じような食生活や生活習慣をしている人の松果体は似通っている可能性が高いです。

 

その場合、同じような食生活や生活習慣をもっている人同士の集合無意識というのも産まれます。

 

それが本来の民族や人種の集合無意識でありミームであった可能が高いです。

 

チャネリングの基本とは食生活や生活習慣を自分で整えて、自分の中の遺伝子をアクティベーションさせその際に生じる松果体の構造の変化により、受信する電磁波周波数帯に変化を及ぼすことです。

 

それにより、どのような人たちから発せられた電磁波を受け取るかというかが大いに変わってくることが予想されます。

 

 

また、これが厄介なのですが「統合失調症の方」は多くの人場合「多重人格障害」を併発することがあります。

 

多重人格障害とはつまり「自分の中に別人がいる」のような感覚です。

 

これは、心理学で言われていますが、PTSD心的外傷後ストレス障害を発症した人に記憶障害が生じることがあります。

 

また、辛いこと避けるために新たに「第二の人格」を作ったりしてします。

 

これは人間の人格というのは記憶の集合だということがあるので別段不思議ではありません。

 

通常の人間だって、年をとるとともに人格というのは変わってきます。

 

子供の頃の記憶が薄れていって、だんだんと大人になっていく。

 

もし、大人になってもいつまでも子供の頃の楽しい思い出をずーとわすれないならば、人格というのはやはり大人になりきれません。

 

どこかしら子供っぽくなります。

 

もちろん一度経験した記憶というのは脳に深く刻みつけられ一生忘れることはありません。(脳外てきな手術で脳細胞を取り除かなければあるいは、アルコールなどで脳細胞が死滅しなければ)

 

しかし、記憶というのは存在していても引き出せなければ忘れたも同然です。

 

多くのことを忘れることで人格とは形成されるのでう。

 

学校での自分と会社での自分と自宅での自分の人格はちょっと変りますね。

 

それは、場面場面で引き出しやすい記憶というのがあるからです。

 

学校でスケベなことばっか考えている人は稀でしょうが、家ではスケベなことばっか考えている人というのは結構居ます。

 

その人がスケベ人なのかスケベじゃない人なのかはわかりませんが、学校で会う人と家であう人とでは彼の人格を違うように感じるでしょう。

 

しかし人間には魂があるので(これに関しては非常に強い確信がありますけど、仮説ですので鵜呑みにしないでください)過去世の記憶が蘇ってしまうことがあります。(なぜなら、魂ににも脳があり。脳の神経コネクションがあると予想されるから)

 

過去世の記憶を忘れていたからその記憶は人格に影響を及ぼさなかったのに、その記憶を思い出してしまったら人格に強い影響を与えます。

 

またそれが、記憶障害でその時々に思い出せる記憶が全く異なるようになってしまったら多重人格障害の誕生です。

 

過去世の記憶というのは忘れていたほうが良いのですが、それがドーパミン過多の変性意識状態や、統合失調症の方などは思い出してしまえるのです。(魂に残っている神経コネクションを復活させてしまうから)

 

このように、統合失調症の方は多重人格障害を併発しやすいのです。

 

そしてその際に産まれた人格は往々にしてすごい過去の人間だったりあるいは地球外由来の生命体だったのかもしれません。

 

そのような、統合失調症の疑似人格から生まれる思考というのもやはり電磁波を発しているので、そのような妄想人格の電磁波を受信してしまっている方が多いです。

 

妄想人格はやはり、現在の自分とはまったく違う人間ですから(産まれた時代や場所が違えばね当たり前でしょう)

 

自分とはかなり違う考えの持ち主だったりするわけです。

 

そして、当たり前ですが過去世の自分が善人だったとは限りません。

 

あるいは、その当時の自分が良いと思うことが今の自分にとって良いとは限りません。

 

それでも、今の自分が知らない有用な知識というのをもっていたりするわけです。

 

なので、その妄想人格から恩恵を受取り、それが神仏や宇宙人の類だと勘違いしてしまうのです。

 

そのような類の霊能力者:ESP:チャネラーの方はゴマンといるわけです。

 

また、そのような妄想人格が推奨するような食生活や生活習慣は、その妄想人格が生きていた場所や時代のものであったりするので遺伝子のアクティベーションに変化が生じて、宇宙や地球上に滞留する同種の生命体の発した電磁波というのをより受信しやすくします。

 

そして、電磁波というのはやはり速度制限がありますので、宇宙から来た電磁波はすご~い昔の誰かの思考で発した電磁波だったり、地球上で発せられた電磁波だったら結構昔の人間が(妄想状態だったりして)発した電磁波というのをキャッチしているわけです。

 

それで、妄想人格とどっからか来たかわからない誰かの思考がダブルで、病気の方を蝕むわけです。

 

そして、そのような妄想人格とドコから書きたか分からない思考というのは、ロストテクノロジーや現代文明とは異なる技術を持っていたりするので、そういうものに惹かれて集まる方たちやそのような妄想人格の力を借りてお金を稼ごうとする人がいるわけです。

 

これはテクニックや技術自体は、はっきりいってそこそこ使えるモノが多いのです。

 

そりゃそうでしょう、文化や国なんてものは独自の技術や学問体系を発達させるのが常なのですから、技術自体は先駆的であったり有効であったりするわけです。

 

しかし、だからといってそれが詐欺的でないとは限りません。

 

ハッキリ言って妄想の垂れ流しだし、かなり無責任で病気的なわけです。

 

そして、その病気の人が強くその人格を確信していくに連れてドーパミンレベルもあがりよりその妄想人格が強烈に強力になっていくわけです。

 

そして、多くの人間を巻き込むようになり現代の社会や文明を侵食していくわけです。

 

多くの霊能力者やESPやチャネラーはとても統合失調症的です。

 

それが悪いとは言いません。

 

しかし、自覚がないのが非常に困りものなのです。

 

また過去世ではありませんが、虐待されている子供の逃避妄想だったり、苦しみながら生きている人の逃避妄想だったりは強い電磁波として照射されます。

 

そのような人が妄想の世界で強く信じていることや、あるいはそのような人が考えていることというのは非常に荒んだ物や尊大な物となります。

 

その荒んだ思考や尊大な思考を受信してしまうことは、若い方で統合失調症の方に多いです。

 

単純な話で、食生活と生活習慣が悪いわけです。

 

同じような食生活と生活習慣をしている人同士はおなじような遺伝子がアクティベーションされていわゆる同じような松果体の構造になり、互いに電磁波を受け取りやすくなるわけです。

 

若いことに生活習慣が乱れている時に、統合失調症のような病気になると、そういった生活習慣が乱れた荒んだ生活をしている・あるいは生活をしていた人間の思考をキャッチしてしまうので、悪意があったり残虐性の高い思考というのが脳内に流入してしまうわけです。

 

そうなると、駄目な感じですね。

 

破瓜型(思春期型)の統合失調症に予後が悪いのもそういった理由があるのではないでしょうか。

 

食生活や生活習慣のみだれはマジで気をつけたほうが良いです。

 

統合失調症でも、生活習慣の乱れが少ない青年期以降の方は比較的悪意がある幻聴とかは聞きにくいのではないでしょうか。

 

 

また、どっかの誰かの人格障害で生じた妄想人格と、おおく霊能力者やESPやチャネラーの方が交信している可能性が高いのです。

 

そのような妄想人格が発した電磁波というのは当たり前に地球上にビンビンに飛んでいます。

 

そういう物に対してチャネルするような方は非常に危ういといえます。

 

そしてその妄想人格も、その宿主である誰かが死んだりしたチャネルできなくなります。

 

当たり前ですが、死んでしまえば脳の活動は停止します。

 

そうなれば、脳の神経活動から生まれる電磁波は地球から消え失せます。

 

たた、アスファルトや石畳の多い文化が増えていくと電磁波がいつまでたっても滞留することになるのでいつまでたっても妄想電波が地球上に残っている事になります。

 

また、海辺などの水は電磁波というのは吸収されて滞留するので、いつまで電磁波が残ることも考えらます。

 

なので、石畳の文化以外にも水辺(海に近かったり大きな川がある)地域というのは、思考で放出された電磁波が水伝いに拡散したり、宇宙から降り注いだ電磁波が滞留したりするので人々の思考に大きな影響を与えるでしょう。

 

文明が発達するのは、石畳の文化と水辺の地域というのが重要になるわけです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

『霊能力:ESP:チャネリングの危険性」について書きました。

 

これはそのような方に対する批判になってしまうのでしょうか。

 

私はスピ情報のを結構積極的に収集しています。

 

しかし、基本的それは「ノウハウ・テクニック・知識」の収集が目的であり、結構警戒して批判的に取り扱っています。

 

そしてもちろん、科学というのが大事だと強く思っています。

 

現在の心理学や認知科学や脳機能の研究に関してもそれなりに情報を収集していますし、高校生の頃統合失調症と診断されてから色々苦労しましたので精神的な病気関してもそこそこ知識を持っています。

 

そのような私から見ると多くの人間は、心理とか脳とか精神医学とかあまりご存じないままスピ情報をというのを摂取しているのではないかという懸念を感じてしまいます。

 

正直そのような事を人一倍警戒しているし、何度か陽性症状があったしてひどい目にあったこともあります。(大学の就活の時と就職時)

 

痛い目を何度も見ているので、ハッキリ言って精神的な病気というのすごく警戒するところがあるし、認知科学や心理学とかかじっているとそっち方面の知識でスピ情報のようなものは鵜呑みはしにくくなります。

 

とかく科学的な知識や思考をベースに情報を整理するのが大事です。

 

その上で非科学領域の知識やテクニックを収集分析するので比較的にスピ情報には騙されにくくなります。(それでも騙されることなくなるなんてことはないです。)

 

警戒心が生来強いのでどうしても騙されにくいというのもありますが。(あ、嘘つきました。警戒心が強いの大体中学くらいからです。幼稚園とか小学校の時は、結構友達も多かったですし結構ポワポワしてましたよ)

 

波動やエネルギーといった言葉も非常に鵜呑みにするのは危険であります。

 

鵜呑みにするのは危険ですが、自分の中で整理して科学的な知識等整合性を合わせるように噛み砕いて分析して理性的な判断すれば、色々有用な知識や情報もあるわけです。

 

私は原理や理屈や理論と言うものに非常に拘ります。

 

当たり前ですが、そういうものを解明するのが科学なのです。

 

私はスピ情報も大好きですが、科学も同じくらいあるいはそれ以上に大好きです。

 

子供頃の夢は科学者だったこともありますし、今は一応プログラマの端くれです。

 

理屈もわからず鵜呑みにするとういうのは好きではありません。

 

理屈こねくり回して初めて色々分かるものというのが世の中かなり多いのです。

 

今回の記事ももちろん、鵜呑みにしないでくださいね。

 

これは、toshoの思索・考察なのであって科学的に証明されたわけでも、tosho自身100%の確証があるものではありません。

 

そんなこと考えているやつがいるという程度に留めておいて、いずれ科学的に証明されるまで信じないでくださいね。(つまり、永遠に証明されなかったら永遠に信じないでください)

 

このブログは徹頭徹尾、toshoが日頃考えていることや興味があることに関する、思索や考察を載せるサイトです。

 

あくまでおぼえ書きです。

 

エンジニア界隈で行ったらqiitaみたいな感じです。

 

間違った情報を流布するのは嫌いですが、思索の過程を投稿したり共有したりするのは学習や研究にはよくあることです。

 

そんなものと捉えてください。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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「潜在意識で容姿を変える」の話4。美人を作るには食事から

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は久しぶりに「容姿を変える」事についての話です。

 

「潜在意識で容姿を変える」シリーズは今まで1~3まで書いてきました。

 

今までのシリーズは主に「ビジュアライゼーションと成りきり」による方法を扱ってきました。

 

「ビジュアライゼーションと成りきり」にかんしては過去の記事を読んでいただくとして、ここでは簡単な説明にとどめていただきます。

 

視覚的にイメージした自分の理想の姿を自分の身体に投影して、あたかも自分がそのイメージ通りの身体をしているかのように成りきるのです。

 

詳しいやり方は、旧dokubo_toshoのおぼえ書き/「潜在意識で容姿を変える」の話3(リンクを開きます)のコメント欄でのやり取りなどを参考にしていただければと思います。

 

今回は「ビジュアライゼーションと成りきり」以外の方法である「食事と意念法よる遺伝子のアクティベーション」を加えて話させていただきます。

 

第一に「ビジュアライゼーションと成りきり」による方法では「波動の高さ」転じて「脳内のドーパミンレベル」が重要になってきます。

 

脳内のドーパミンレベルが十分量出ていなければ、「ビジュアライゼーションと成りきり」での容姿の変化は成功率が下がります。

 

ドーパミンレベルが低い方は、より変化に時間がかかってしまったり、途中でくじけたりしやすいのです。

 

つまり、普段からドーパミンレベルが低い方つまり、精神的に充足感があまりなかったり、抑うつ状態だったり、人生がうまくいかなくて悩み事が多かったりする方などはなかなかドーパミンレベル=波動が上がらなくてこのやり方は不向きなのです。

 

様々な方法で「ドーパミンレベル=波動」を上げることが出来ますが、それが難しい方も多くいるでしょう。

 

なので、「ビジュアライゼーションと成りきり」以外の方法で容姿を変える事ができればうれしいですよね。

 

それで一番手っ取り早いのは食事を変えることです。

 

食事というのは人間の体と精神にダイレクトに影響を与えます。

 

食習慣を整えて上げることで、遺伝子のスイッチをオンにしてアクティベーションしてやったり、ドーパミンレベルを上げて波動を上げることも出来るわけです。

 

先ずは事前準備からです。

 

芸能人や知り合いや外国人の画像や動画をできるだけ多く集めてください。

 

集めた動画や写真をみて、自分の理想の容姿に近い人に関して情報を調べてください。

 

出身地や遺伝的なルーツや国籍や人種や現在の生活スタイルなどです。

 

そして、その方たちの遺伝的なルーツと文化を頑張って整理して分析して特定してください。

 

これは複数あっても良いですが、どのルーツの容姿がより理想に近いかという事は整理してください。

 

あとは、そのルーツや文化の食習慣と食事文化や生活習慣を調べて真似るだけです。

 

これだけで、あなたの遺伝子の中で眠っていたそのルーツに関わる遺伝子がアクティベーションされます。

 

もちろんその文化の食習慣や食事文化や生活習慣をどの程度真似るかによって、アクティベーションの度合いが変わってくるのでそれは調節してくださいね。

 

これが可能なのはあなたにその文化のルーツが有ればなのですが、どのような容姿が理想の容姿かというのはやはり遺伝子によってある程度左右されます。

 

全くこれっぽっちもその文化や遺伝的ルーツに関わりのある遺伝子がないというのは、逆に珍しいと思います。

 

なのでそうやって自分で食事を管理して行けば「ビジュアライゼーションと成りきり」では容姿を変えるのが難しい方も比較的に簡単に容姿を理想の容姿に近づけることが出来ます。

 

もちろん、このやり方は理想の容姿に「似せる」のであってそのものにするのは難しいです。

 

ですが、まあそれでも自分の容姿がより理想に近づければ嬉しいし自分に対する自己肯定感が増します。

 

そうすれば、ドーパミンレベル=波動も付随的に上がりますし、より「ビジュアライゼーションと成りきり」が成功しやすくなります。

 

ただ注意してほしいのが、このやり方はあなたの性格や気質まで変えてしまうので理想の容姿に近づけるけど性格や気質(あるいは能力まで)まで変えてたくないという方にはお勧めしません。

 

そして、これはやりすぎると赤の他人と全くの瓜二つとか、日本人なのに完全に見た目外国人とかそういう事が起きてしまいます。

 

あと、社会的な圧力によって「これが理想の容姿」などとイメージを植え付けられているだけの方は遺伝的なルーツが全く無い場合多いので、この方法は成功するどころか体調不良や病気を誘発します。

 

もし食事によって体調が悪くなったら食生活をもとに戻しましょう。

 

また、食事による遺伝子アクティベーションは急激に食習慣を変えるのではなく、徐々に徐々に変えていきゆっくり行うようにしてください。

 

できたら数ヶ月~数年の時間をかけてゆっくり自分のペースで食習慣を変えていってください。

 

ハッキリ言って、無理してやろうとするとアレルギーを発症してしまったり、自分の気質や性格の変化に周囲や自分自身もついていけなくなってしまい、精神を病んでしまうことになりかねません。

 

できれば事前の調査や下準備を丁寧に取り組んで、イケるという確信をもったらちょっとづつ食生活を変えていくのがいいでしょう。

 

またその際に食事だけで不十分なら、自分は〇〇人のルーツを持つということを意念法で強く念じて〇〇人に関わる遺伝子のアクティベーションを促してください。(自分は〇〇人である、という風には絶対に念じてはいけません。どんなに容姿が変わっても日本に生まれたあなたは日本人です)。

 

後これは超重要ですが、統合失調やうつ病などの方は意念法を使うのは避けてください。

 

精神薬を飲んで治療中の方がこのやり方をやったら絶対に悪化させます。

 

病気療養中の方は意念法を用いてはいけません。(病気徐々に治っていくことを意念法を使って念ずれば病気治りはよくなりますので、それに関しては主治医の先生と相談しながらするのなら良いです。意念法は難易度が高い技です、病気の方はまず健康になってから十分に余裕のある時に練習しましょう)

 

お薬を飲んでいる方は絶対に意念法を使うのは避けてほしいですが、食習慣の取り入れ自体はおすすめします。

 

そのような方は比較的に現在の食習慣や生活習慣が体質に合わない場合が多いです。

 

そのような方は食習慣を自分の好みに徐々に変えていくと、本来の自然な状態を取り戻して症状が回復する可能性があります。

 

もちろん全員がそうなるわけではないので、これに関しても主治医の先生と相談しながらゆっくり変えていって下さい。

 

自分にあった食事を取ることによって病状が回復する方は現代日本の遺伝的ルーツが多様になった社会では比較的多いのではないでしょうか。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

この記事は旧ブログ時代に異様に人気のあった「潜在意識で容姿を変える」シリーズの第4段になります。

 

もちろんこれは仮説に仮説を重ねたものですので、実証や証明はされていません。

 

鵜呑みにしないようにしましょう。

 

理論や方法論は、間違っていることもありますし個人にフィッティグされたものではないことが多いです。

 

なのに、鵜呑みにしてとりあえずそれやってみれば良いやと信じ込む方はこの方法を試さないでください。

 

実践するのはあなたなのですからあなたの責任で慎重に行うべきです。

 

ただ、理論や仮説や確度はそれなりに高い自負がありますし、方法論に関しては理詰めで導き出した物なので問題が起きないように細心の注意を払って構築しています。

 

新しいダイエット方法みたいな感じで試してみるのも良いのではないでしょうか。

 

もちろん、注意書きもちゃんと読んで下さいね。

 

現代日本人はなんか恋愛苦手な方や容姿に自信がない方が多いです。

 

若者は特にそうですしね。

 

そういった方(まあ、このブログのこんな記事を読みに来るのは女性が多いと思いますが)は自分の容姿に自身を持てるようになればもっと人生楽しくなるのではないでしょうか。

 

まあこんな記事をかいているtoshoは20代アニオタ男子なのですが。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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遺伝子のアクティベーション:食材と動物・食文化と宗教

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は「遺伝子のアクティベート:食材と動物・食文化と宗教」です。

 

人間は保有する遺伝子というのはその多くは他の動物と共通しています。

 

遺伝子のアクティベーションというのは食習慣が大きく関わってくるものなのですが、それは動物の食習慣が大きく関わってきています。

 

単純に言えば、野生生物を研究してその動物が好んで食べるような食事を取ればその動物と共通した遺伝子をアクティベーションできる可能性が高いです。

 

例えばですが、卵を好んで食べる様な動物には爬虫類・鳥類・魚類・両生類などがいますが、人間も卵をよく食べる人はそのような動物に多く共通する遺伝子がアクティベーションされます。

 

いわば、原始脳や闘争本能に関する遺伝子をアクティベーションするので、パワーバリバリ・やる気ムンムン・生存本能ばりばりになります。

 

また、草食動物が好むような食事を取れば、草食動物に多く共通する遺伝子のアクティベーションが可能になって、比較的に穏やかな気質になったりします。

 

 

日本では古くから寺の坊さんは、肉食禁止・卵禁止な食習慣を守ってきました。

 

そのような食習慣を持つ人は、気性が穏やかで闘争本能や生存本能があまり強くない気質になっていきます。

 

昔は、肉を食ったり卵を食ったり酒を飲んだりする坊さんを生臭坊主などと読んだりしていましたが、やはりそのような食習慣を持つ坊さんはベジタリアンな坊さんより気性が穏やかではありませんし、闘争本能や生存本能がかなり強いです。

 

言ってみれば、性や闘争など原始的な本能が強い生生しさがあるのです。

 

現代人は、文化統制により性や闘争にかんしてはメディアである程度規制しています。

 

そういった現代人からしてみたら、そのような規制がなかった昔の人たちの慣習に関してはなんか生々しさを感じるでしょう。

 

昔の坊さんは、そのような生々しさを意図的に封じていたのです。

 

しかし、その戒律を守らない坊さんは非常に生々しい坊さんですので、まさに生臭坊主なわけです。

 

ですので、現代のお坊さんは肉食・卵食・酒はあまり禁止されていないので、坊さんらしい気性というのはあまり育っていないのです。

 

現代のお坊さんたちを似非坊主と批判をする方たちは、そのような坊さんの食習慣を維持していない現代坊主たちにたいしては無意識的にインチキな感じを感じているでしょう。

 

もちろん、現代のお坊さんの食生活を批判するつもりはありません。

 

食事ぐらい好きに食えば良いと思います。

 

 

ベジタリアンな人たちにも色々いて、どの程度肉食や卵食を許容するか結構幅があります。

 

あれは、どの程度そのような食材を好む動物と共通する遺伝子をアクティベーションしたいかによって許容される食事が違うからでしょう。

 

あるいは自分がどの程度肉食や卵食に耐えうる遺伝子を保有しているかとかですかね。

 

多くの人は無意識ですが、生活スタイルや文化や職業によって個人的にちょうどいい好みのラインというのがあるのでしょう。

 

なんとなく自分が心地よく要られる状態を選んでいるのでしょう。

 

なお、気質や感性というのはそれが人間の全てではありません。

 

「亜人ちゃんは語りたい」というマンガの高橋先生が言ってる台詞があります。

 

「確かにあいつは『バンパイアの性質』に即した行動はあまりしない
だがそれでバンパイアらしくないと言われると
…それは違う
ひかりは人から血を吸いたい気持ちはあるがパックで我慢している
またバンパイアの嗅覚を上回ってなお匂いの強い食べ物が好きでそういった『人間性』があいつのパンパイアらしさであり人間としての個性だ。
らしさは生まれ持った『性質』ではない 『性質』をふまえてどう生きるかだ」

 

このシーンを読んだ時には非常に感動したものです。

 

多くの人間は自分の遺伝的なルーツには無知で、食事による遺伝子のアクティベーションにも無知です。

 

自分自身の生物としての性質に無自覚な現代人たちは、自分がパンパイアだと知らないパンパイアちゃんのようなものです。

 

「自分はなんでこんな人間なんだ」という思いを人生でめぐらしたことがない人間は非常に稀でしょう。

 

でもそんな人達にも、自分の性質にこだわりを見せる人たちがいれば、自分の性質や社会と折り合いをつけて生きていこうと努力している人も居ます。

 

たしかに、自分自身の性質を知ることは非常に重要なことではあります。

 

ただし、自分は〇〇だからとか〇〇性質を持つからといった事にこだわりすぎるのも非常に生きづらい思いを抱えてしまうことにあなります。

 

高橋先生の様な考え方ができるならばそれが今の社会では一番良いことなのでしょうね。

 

「亜人ちゃんは語りたい」と言う漫画は名作ですので、興味をもった方は一度購入してみてはいかがでしょうか。

 

なので、ベジタリアンな人はその多くがガチンコで卵や肉が苦手なのです。

 

そのような人たちは、そもそも肉食や卵食に適した身体をしていない場合が多いです。

 

意図的にベジタリアンな食事をして気質をコントロールしていた人達もいますが、生物として本来的にそのような性質が強い方が多いのです。

 

 

遺伝的に生存本能が強すぎる人種の方は宗教などの戒律で、あまり闘争本能が強くなりすぎないよう食習慣をコントロールしている場合もあるでしょう。

 

その人種にあった食習慣を宗教などで伝統的に維持しているのは、そういった配慮があったためでもあると思われます。

 

たとえばイスラム教徒が多い人種の方が、文化的な交流でキリスト教徒的な食習慣や生活習慣を導入されたら、気質や習性やあるいは体調や知的な能力の発揮においてそれなりに不具合が出る可能性がります。

 

宗教とは本来そういったコントロールをしていた可能性が高いです。

 

意図的に闘争本能を抑えて戦争や反乱が起きにくくするとか、論理的な思考能力を育ちにくくして庶民の文化教養度をコントロールするとかそう言った面もあるかもしれません。

 

宗教が人種毎に違うというのは、そういった事が大いにあると考えられます。

 

なので、中東あたりの人たちはキリスト教文化を西洋から押し付けられるが心底嫌いなんですよ。

 

食生活などをキリスト教文化圏に合わせたら、体質に合わない可能性が高いですし、かなり国民の気質や習性などが変わってくるでしょう。

 

自分の信じる宗教で推奨されている食習慣を維持するのは、決してワガママなわけではありません。

 

結構大事な重要な問題なのです。

 

ただ大昔の民族同士が頻繁に戦争していた時にできた戒律ですので、現代社会でその当時に推奨されていた気質や習性を維持するような食文化が果たして適当かどうかはわかりません。

 

 

アメリカなんて移民国家で人種のるつぼですから、個人が好む食習慣や宗教的な戒律をガチンコで擁護して自由にしないと体質に合わない食習慣で不具合が生じる人がゴマンと出てくるわけです。

 

そういった経緯が今のアメリカを作ったと言う面もあるのはないでしょうか。

 

自分の人種にあった食生活というのはやっぱり身体や精神の調子が良くなるわけです。

 

保守的に宗教的な伝統や文化を守る人が多く人種差別が未だに根強いというのは実はそういった背景があるのではないでしょうか。

 

自分の信じる宗教や伝統で支持されているような食事をすれば健康で文化的な人間になれると感じているし、他人が自分の信じる宗教や伝統が非推奨として扱う食生活をしているとあまり健康で文化的な感じがしないわけです、感覚としてはですけど。

 

そのような戒律を頑なに守る人たちがなぜそのような事を好むかは科学や理性を信奉する人無宗教な人からは奇異に見えるでしょう。

 

また、安くて早いからといってファストフードを好んで食べる人は、体質的に合わない場合はとても体調を崩すことになります。

 

しかし、ファストフードを食べても全然平気むしろ力が出るという人種もいるわけですよ。

 

ハンバーガーは元をたどれば西洋から来た料理なので、それが国民食となってしまったら非西洋系の血が濃い人達は食べると調子が悪くなりやすいでしょう。

 

美味しい人たちにとってはとっても美味しいですよ。

 

でも、合わない人がアメリカにはゴマンといる。

 

若い世代は無自覚にテレビなどのマスメディアの影響でハンバーガを嗜好するようになりますので、病気が発達不全や肥満が多くなるでしょう。

 

 

ソウルフードってありますでしょう。

 

自分の体質にあったパワーを得られる食事の事をそう呼ぶのです。

 

もちろんソウルフードは人によって違います。

 

遺伝子や生活環境や職業が違えば変わってきます。

 

でも自分が好きな物はやっぱり人に勧めたくなりますよね、そして自分の好きじゃない物を強く人から勧められると不快な気持ちになります。

 

テレビでこれが健康に良いって勧められても、好みの食べ物じゃないとなにか損した気持ちになりますしそれを食べなきゃいかんのかなという気持ちになります。

 

無理して食べても美味しくないし全然健康によいとも思えない。

 

体質に合わない物を食べても別に健康になんてなりませんよ。

 

逆に健康に悪いなんて言われている物が体質に合う人がいます。

 

それは本当に人それぞれなので情報がごちゃごちゃしている現代では多くの人が情報に振り回されて体質に合わない食事をして健康になりたいとか思っているのです。

 

そういった人たちは自分の人種的なルーツに則った食生活や生活習慣を何かの切っ掛けで採用していみると、おどろくほど身体や精神の調子が良くなったりするのですよ。

 

それで自分のルーツの伝統や宗教を強く信奉するようになる。

 

別に神の教えが正しいわけでもその宗教の経典にあるような大げさなストーリまで正しいわけではないと思います。

 

ただ、遺伝的な事を考慮した食生活や生活習慣を長年の蓄積で指導しているだけですので、他の宗教に対して排他的になる必要はまるでないわけです。

 

宗教の布教をする人たちは、自分の信じる宗教が広く世に広まれば世の中良くなると本気信じている方結構居ます。

 

しかし、特定の宗教の奨励する食生活や生活習慣がハマる人がいればハマらない人もいるのが当然です。

 

神様云々はともかく、そこら辺が上手く合うひとは別にその宗教を学んでみるのもいいのではないでしょうか。

 

 

キリスト教文化圏に移民してきたイスラム系の方の子孫が現地でイスラム教に強く回帰するようになる現象がありますが、これは結構当然のことです。

 

だって体質的にそっちの文化の方があっているし、食生活や生活習慣を採用すると身体も精神も調子良くなるんですから。

 

そりゃく、移民したの地でも頑なに伝統を固持しようとしますよ。

 

イスラム圏では女性が肌や髪を隠す伝統がありますが、あれはイスラム圏に多く住む人種は男性が男性ホルモンムンムンかつ女性ホルモンも多くて昔からスケベで好色な人が多いからですよ、おそらくね。

 

男がスケベな気持ちになってしまうからお願いだからセクシーな装いはしないでください、という女性へのお願いです。

 

宗教なんてのは、食習慣や生活習慣などで遺伝的な性質をコントロールするのが目的で、多くは戒めです。

 

勤勉を推奨する宗教がある地域の人間は伝統的に怠け者です。

 

怠け者が多いから宗教家や時の為政者が勤勉を尊ぶように指導したのです。

 

そんなの現代でも変わっていないでしょう。

 

だから、キリスト教文化圏に進出してきたイスラム教徒の女性が肌や髪を隠す意味はあまりないです。

 

キリスト文化圏は比較的にイスラム圏より男性ホルモンムンムンな男性が少ないですので。

 

 

キリスト教文化圏はむしろ女性の不倫のほうが伝統的に問題です。

 

キリスト教では不倫というのは結構戒められていますが、これは伝統的に女性が「好きになったら止まらない!」とい方が多かったからではないでしょうか。

 

おそらくですが、西洋文化圏では女性が他の男性との間にできた子供を結婚相手に育てさせるといういわゆる「託卵」が非西洋文化圏に比べて多いと思われます。

 

そういった女性が多い地域では、むしろ「女性の恋愛を戒める」と言う方向に宗教が動いたのでしょうね。

 

キリスト教文化圏に住むイスラム系の女性は、遺伝的に「好きになったら止まらない!」という感じに比較的なりにくいと思いますし、身持ちが固くセクシーな人も多い。

 

おそらくですが、キリスト教文化圏ではイスラム圏よりモテることが多いでしょう。

 

歴史的に、イスラム諸国で女性への教育などの文化レベルが低く、家庭に縛り付けるのは、あれは女性が智慧を付けて外国にでもいかれたら国内の男性が見向きもされなくなるからだったのではないでしょうか。

 

女性を家に縛り付けておかないと、イスラム系の女性はキリスト教文化圏でモテてしまって国内から出ていってしまうという理由がありそうです。

 

逆にキリスト教文化圏の女性は伝統的に筋肉質でセクシー(セクシーというのは重要)なマッチョマンが好まれる傾向があるのではないでしょうか。(日本人男性が西洋圏であまりもてない理由の一つだろうと思います。)

 

キリスト教文化圏の女性はイスラム圏の男性と相性が良いが、イスラム圏の男性はスケベで嫉妬深いので尻軽な女性はあまり好みではない。

 

キリスト教とイラスム教が伝統的に対立していたのは、そのような男性社会での男女の問題が昔からあった事が一因にあるのかもしれません。

 

昔から長く続いている宗教問題は男性優位な社会での女性問題が裏に隠されてそうですね。

 

おそらく自国の女性を他国に移動させないような仕組みを男性が作り上げていったのではないでしょうか。

 

男性にとっては今も昔も「モテ」は非常に重要だったりするので。

 

 

日本人も今では西洋由来の遺伝子を持つ人が多くいると予想されるので、日本でも託卵する女性というのは増えている用に思えます。

 

最近の調査で日本で托卵する女性はは6%くらいいるという結果がでたそうです。

 

おそらく昔より増えていると思いますよ。

 

西洋由来の遺伝子の影響がありそうなので、西日本と東日本で比率が結構変わってきそうですね。

 

 

このようなことも食文化によってある程度コントロールされてきた歴史があるかもしれません。

 

イスラム教ではアルコールはよっぱらって女性に乱暴する男が多かったから禁止もしくはよっぱらってセクシーになった女性に男が我慢できなくなるから禁止とか。

 

豚肉関しては、女性ホルモンの働きを活発化させないように男女とも禁止(男は嫉妬深くなるし、女性は恋愛気質っぽくなると予想される。ちなみ中東の男性は女性ホルモンが多い方がキリスト教圏より多い印象。おそらく伝統的にイスラム系の男性は同性愛が多かったはず。キリスト教圏は逆に女性同士の同性愛が多い印象。キリスト教圏の女性は非キリスト教圏より確実に筋肉質で大柄な女性が多い印象。男性ホルモンの影響が予想されます)

 

これも食事によって女性ホルモンと男性ホルモンのバランスをとろうとしている可能性が高いですね。

 

ワインは女性ホルモンを活性化する効果があると言われているらしいですので、ワインにより女性の女性ホルモンを増やしたとかありそうです。(好きになったら止まらない!というのは男性に多い印象です。狩猟本能とか男性ホルモンの影響がありそうです。男性的な男性の恋は一途、女性的な女性の恋はあちこちうろうろ見たいな印象があります。ワインを女性に飲ませて、女性ホルモンを活性化させて恋愛気質に誘導した後に口説くとか、西洋では昔からよくやる手では?)

 

キリスト教文化圏とイスラム教文化圏が交わる地域には昔からそういった文化的な戦略があったのではないでしょうか。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

ここまで書いてきてなんですが、今回の話は少々単純化しすぎました。

 

男性ホルモンや女性ホルモンにも幾つかの種類がありますから、それがどのような形で身体と精神に作用するかはちょっとわからないです。(勉強不足です。ごめんなさい)

 

遺伝子のアクティベーションにも本当はもっと複雑なメカニズムがあるはずなので、まだまだわからないことが多いということ述べておきます。

 

遺伝子のアクティベーションなどは、大まかに考えればおそらく正しいしと思っています。

 

ただ、このレベルの抽象度の話ではあまり科学的なとはいえませんね。

 

モット具体的に論じて論述の精度を上げていてけば、間違いや矛盾が出てくる可能性もあります。

 

栄養素レベルの話に留まるのか、もっとそれ以上の特定の生物の身体を構成するタンパク質が関わってくるのか。

 

タンパク質は胃液でほとんとアミノ酸に分解されるらしいですが、一部分解し損なったタンパク質が腸で吸収されることもあるらしいです。

 

その分解し損なったタンパク質が何らかの影響を与えている可能性な気にしもあらずという気はします。

 

ココらへんの話はアレルギーにも関係あるしもっともっと研究が進まなければわからないでしょうね。

 

もちろんこのブログ書かれていることを鵜呑みにはしていけません。

 

自分の頭で考えて検証してみたり、科学が発達して結論が出るまで待つことをお勧めします。

 

ちなみに遺伝子のアクティベーションとは、身体を構成するどこかしらの部分でタンパク質の構造が変り、身体の構造がちょっと変わるということです。

 

身体の構造がちょっと変わったら身体の機能はちょっと変わります。

 

おそらく体型や顔立ちや骨格や筋肉のつき方とか見た目にも変わってくるところが多いはずです。

 

そういうのを意図的にコントロールする方法が食生活や生活習慣になるのです。

 

たとえば、水辺でうろちょろしているカニがいたとして、それを採取してドコか遠くの全く環境が異なる場所に放したとします。

 

多くの場合は環境不適応を起こして死んでしまうとは思いますが、中にはその環境で生存するのに適した遺伝子をアクティベーションさせて身体の構造を変化させて適応して生存できるやつが居ます。

 

新しい環境(からのストレス)とあたらしい食料がそのキーになります。

 

金魚が水槽の大きさによってその成長度合いが変わる様なものです。

 

人間だって一生の内に父親に似ていると言われる時期と母親に似ていると言われる時期がありますでしょう。

 

それはおそらく無自覚に食生活や生活習慣が変遷しているためだとは思いますが、身近な例で考えるとそんなかんじなのです。

 

また、日本人は見た目ではわからないですが多くの外国由来の遺伝子を保有していると予想されます。

 

食文化が多様な現在、「なにこれおいしい!」と思えるような国の料理と「まじ、無理」と思えるような料理が各人あると思います。

 

私なんかはイタリア料理は好きですがフランス料理はかなり苦手です。

 

キムチや焼肉、クッパなどの韓国料理は結構美味しくいただけます。

 

和食は好きですが、昔は魚料理屋刺し身が苦手でした。(最近食べられるようになってきた)

 

米もパンもどっちも同じくらい好きです。

 

でもそばよりうどん派。

 

このようなな食の好みをしている人はやはりそれが遺伝子由来であったりするわけです。

 

こうして見ると遺伝子のルーツがなんとなく分かるかもしれません。

 

この記事を読んだあなたも自分の食の好みに関していろいろ調べて考えてみてはいかがでしょうか。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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遺伝子のスイッチをオンにする

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、「遺伝子のスイッチをオンにする」です。

 

人間の身体の機能は遺伝子を元に設計されています。

 

遺伝子にはスイッチがオンになってアクティベートされるているモノとスイッチがオフになってアクティベートされていないものがあります。

 

遺伝子のアクティベーションにはいくつかの方法がありますが、先ずは食生活や生活習慣というのが重要になってきます。

 

例えば現代日本人多くの方が食生活が欧米化しています。

 

ご飯ではなくパン食を食べたり、野菜や魚より肉食を好んだりしています。

 

このような食生活を続けている人は、その人が欧米由来の遺伝形質を保有しているならばその遺伝子がオンになってアクティベーションされます。

 

元々、欧米由来の遺伝形質を保有していない方の場合は、欧米的な食習慣をしていると体調を崩すだけになります。

 

食い物の好みというのはかなりの部分遺伝子に左右される事が予想されます。

 

遺伝子によって何が栄養やエネルギーになるか、どのような栄養素がどれくらい必要かというのは違いが出ると思われます。

 

食の好みが似ている方同士はどこからしら遺伝子が近いのです。

 

地域によって好まれる食べ物や味というのは結構変ります。

 

日本国内だけでも、関東と関西(西洋由来の遺伝形質が多く広まっていると予想される)は味付けの好みが違います。

 

場所場所によって、集団に特徴的な遺伝子が変わるので地域によって好み違いの傾向というのが産まれます。

 

引っ越した先の食習慣に比較的早く慣れてしまう方といつまでたっても慣れない方が居ます。

 

そのような事は、保有している遺伝子形質がその地域にや文化にルーツがあるかないかによって起こってきます。

 

その遺伝形質を保有していない場合はいつまで経ってもなれないかあるい体調不良に陥ってしまうでしょう。(昔からありますよね、水が合わないとか。)

 

保有していれば、その遺伝形質がアクティベーションされ地域に比較的馴染みやすくなるでしょう。

 

子育てとかも、食の好みを父親と母親どっちに合わせるかによって遺伝子のアクティベートが変ります。

 

tosho(東京産まれ)の家族は全員食の好みがバラバラです。

 

母親はたまに食事を作るのがとても大変だったともらしますが、これは都会の家族の宿命みたいなものです。(母親は祖父母とも新潟、父親は祖母は東京で祖父は広島出身です)。

 

ちなみにtoshoと兄は食の好みが結構真逆です。

 

toshoは子供のころは魚が本当にとても苦手でしたが野菜と肉が大好きでした。

甘いものが好きで和菓子洋菓子どちらもすきです。コーヒー紅茶はどちらも好きです。

 

兄は野菜嫌いで、魚好きで肉は普通です。酒飲みです。甘いものは好みません。コーヒー紅茶は好みません。

 

これは非常に嫌な話になりますが、昔は良く結婚した旦那が彼の母親の好みの食事を奥さんに作らせていました。

 

しかし、遺伝子が異なる両親の好みの料理を片一方だけ優先させて子供に食べさせるとします。

 

確実に、父方の遺伝子の方が強くアクティベートされます。

 

昔は、嫁姑問題で料理の好みが嫁姑で合わず、お嫁さんに自分の味を覚えるように強要した姑さんも多かったでしょう。

 

これは、このように食事をコントロールをすることで子供の気質や習性が父親の方に強く似るということを、どこかしら判っていたからかもしれません。

 

このような家庭に嫁にいった女性は非常に苦労をしたでしょう。

 

子供がどんどん父親に似ていき、家庭内で自分の味方がいなくなるのです。(気質や習性や感性が合わないと理解や共感が難しくなりますからね)。

 

田舎の家に嫁に行った女性が、そのご家庭や地域の料理を仕込まれて子供が父親寄りの感性や気質や習性に育って自分の味方がいなくなるというのは古くから、日本の女性を悩ませるとても嫌な問題です。

 

現代には少なくなっているとは思いますが、今でも苦労されている方は多いでしょう。

 

そのような女性には、なんとか自分好みの食事を子供に与えるように尽力してほしいです。

 

遺伝子のアクティベートをもう少し自分(お嫁さん)よりにすれば、子供はもうちょっとあなたの味方になります。(感性や気質が少し似てきます。あなたに対する共感力や理解力が上がります。)

 

姑さんに好き勝手させてはいけません。(正直そこまで苦労することはないです。好みは半々くらいにして出せばいいです。ただこれは個人的な意見です。この知識はどのように料理するかはあなたにおまかせします)

 

ただそのような家庭でも、子供が自立して都会で暮らすように成れば母親の好みに近い食事などもするようになり、比較的あなたの良き理解者になるかも知れませんね。

 

古い田舎の村社会はこのような事を長い間行ってきています。

 

ただ、たびたび外からお嫁さんをもらったりしていますので、保有している遺伝形質は比較的多様です。

 

食事と生活習慣のコントールで、地域住民の気質や感性や習性を均一化しようと試みているのです。

 

ただ、お嫁さんだけは外の人間であることが多いのでそのような方は死ぬほど苦労します。

 

現代の古い世代の女性には田舎をおぞましくらい嫌う方は一定数いますが、このような試みをするような地域に外から来たお嫁さんは非常に辛い思いをしてきた伝統があるのであまり批難しないであげてください。

 

マジでツラたんですので。

 

氏族主義の明治以前の時代の名残でしょう。

 

ただ郷に入っては郷に従えというのも非常に重要です、あるていど食習慣などを真似ることによってその地域に馴染みやすくなる方が多いのも事実です。

 

ただ上記の内容は、理論的な分析で導き出した推測ですので、toshoは田舎の村社会にはまったくもって疎いです。(東京生まれの東京育ちですので。)

 

日本には海外由来の遺伝形質を持つ人がかなり多くいると予想されるので、日本中から人が集まる東京にはそれこそ多種多様の食事が食べられるレストランがあります。

 

食文化が多様な地域はそこに暮らす人々の遺伝形質が多様である場合が考えられます。

 

多様であるからこそ異なる文化で好まれていた様々な食事が需要があるのです。

 

もしあなたがどのような食事を取るか自分で選択することが出来るなら、自分の保有するどの遺伝形質をアクティベーションするかを選べることが出来るでしょう。

 

食事は身体を作り、気質や習性にまでに影響を及ぼせます。

 

 

または、これはあまりお勧めしませんが「意念法」というのがあります。

 

単純な理論ですがかなり強力に働きます。

 

理屈としては「意念(イメージ)の力で自分の体に眠る遺伝子のスイッチをオンにして特定の遺伝形質をアクティベーションするのです。

 

例えばですが、「私は猫である」というイメージを強く自分で信じ込みます。

 

これはもちろん興奮性神経伝達物質であるドーパミンの力を使うのですが、そのような強力な意念が身体に眠る遺伝子を呼び起こし猫と共通する遺伝形質をアクティベートする事ができます。

 

別に身体が猫になるということはありません。

 

猫特有の俊敏な筋肉とか、間接の柔軟性とか、夜目が効くとかそういった事に関係するような遺伝子がアクティベートされるのです。

 

昔から武道の世界では、鶴拳とか亀券とかがありました。

 

あれは鶴拳の特級の達人は自分は鶴であるという意念法を用いて、鶴に関係する遺伝子をアクティベート出来たかから鶴券と言うものがあったのではないでしょうか。

 

他には、自分はイギリス人であるということを強く意念法を用いて思い込めば、人によってはイギリス人由来の遺伝子をアクティベートして瞳の色が変えたりすることが出来るのです。

 

他にも自分が宇宙人だということを強く信じ込めば、宇宙由来の遺伝子をアクティベート出来るかもしれません。

 

これが昨今のスピ業界の怖いところで、スピ情報で「あなたは〇〇星人の生まれ変わりです」とか誰かに言われてそれを強く信じ込んでしまえば、〇〇星人の遺伝子をアクティベートしてしまうことになります。

 

周囲の人から異常なほどに浮いた人間になってしまいます。

(〇〇星人由来の遺伝子がその人が存在していればです。これに関しては某バシャールさんが地球には多くの宇宙由来の遺伝子があるといっているので、もしかしたら本当かもしれません)

 

そのような方は、自分が〇〇星人の生まれ変わりなどどという妄念を信じ込むのをやめるのをお勧めします。

 

地球に産まれている以上あなたは100%地球人です。

 

そんなふざけた妄想を信じ込んでいると、人生生きづらくて楽しくないだけです。

 

そんな糞つまんない人生を生きるをやめて現実を生きましょう。

 

自分は地球人であるとか自分は日本人であるとかいった事を意念法を使って信じ込めれば、ちゃんとそういった遺伝子のアクティベートを解除できます。

 

自分の遺伝子のルーツがどこであろうと、日本に産まれたあなたは日本人です。

 

それだけは、絶対に否定しないでください。

 

これはイギリス人のルーツを持つ人も同じです。

 

イギリス人のルーツをもっていようと、日本で日本的な食事をしていればイギリス人の遺伝子はアクティベートされません。

 

日本で生まれた人は日本人です。

 

国籍が日本なら日本人です。

 

イギリス人遺伝子をアクティベートしてもイギリス国籍にもイギリス人にも成れません。

 

それだけは覚えていてください。

 

 

これを使いたい人は、アスリートや武道家の中にはいるかもしれません。

 

短距離の選手であれば「私はチーターです」とか意念法を使えば人によっては、チーター特有の柔軟で強靭な筋肉に関係する遺伝子をアクティベートすることが出来るかもしません。(どのような動物が適しているかは人によって異なります)

 

これは非常に両刃の剣でもあります。

 

たとえば「私は猫です」という事を意念法をつかって信じ込めば、柔軟な筋肉や夜目などが手に入るかもしれませんが、同時に性格や気質などもどこか猫的になってしまいます。

 

元々の人格や気質にまで影響をあたえるのです。

 

先日テレビで、フィリピンの残留日本人が自分の日本人のルーツを知りたいとか、どうしても興味があるとかで日本の親戚をNGOかNPOのはからいで尋ねると言うものがありました。

 

その残留日本人のかれはフィリピン人と日本人とのハーフですが、自分の父親が日本人というのは子供の頃から聞かされていたのでしょう。

 

そして、やはり日本人の遺伝子とフィリピン人の遺伝子がミックスされた遺伝子を持ち、周囲の純粋なフィリピン人とはドコ無く違ったのでしょう。

 

それが、本人にとって辛いことだったかは定かではありませんが、周囲の人間との違いを感じる度に自分の中の日本人の血に思いを馳せたのかもしれません。

 

しかし、そのように自分の中の日本人の血に思いを馳せる行為そのものが、彼の日本人由来の遺伝子をアクティベートしてしまったのかもしれません。

 

彼がそれにより苦労したのかそれとも有利に働いたかは定かではありませんが、自分のルーツを年老いた時に知った時は非常に込み入った感情があったかも知れません。

 

実際に日本人には色々な海外由来の遺伝形質を持つひとが多く居ます。

 

しかに、日本政府による「日本人は単一民族国家」という教育によって、多くの人は自分に海外由来の遺伝形質が眠っているとは考えません。

 

自分たちは日本人という強い意念によって、多くの日本人は日本人由来(おそらく大和民族のこと)の遺伝子を強くアクティベートして海外由来の遺伝子のアクティベートを抑えているのです。

 

しかし、現在では食文化の多様化によって、様々な海外由来の遺伝子をアクティベートした人間が増えてきています。

 

今現在、日本では食育とか古き良き?日本食の復活を声高に売って得ている人が居ます。

 

もしかしたら政府には、食事の管理により全国民の日本人(大和民族)特有の遺伝子をアクティベートする意図があるかもしれません。(これは可能性はとても小さいです)

 

食文化というのはとてもと~ても重要のなのです。

 

マジでマジで、です。

 

また、自分は〇〇人である、とか自分は〇〇県民であるとかそういうのはそういう自己イメージは結構遺伝子のアクティベーションに影響します。

 

最近世界各国で、独立運動が盛んですがこれは自分たちは〇〇人でるという強いイメージが、元もともっていた〇〇人の遺伝子をアクティベートして気質や習性や感性が帰属国から大きく乖離してしまったので、自分たちの国を独自に持ちたいという思いが強くなっているためでしょう。

 

たとえば、日本でも日本人は単一民族国家と教え込んでいますが、琉球民族の末裔とかアイヌ民族の末裔とかは、今でもルーツの誇りをもっています。

 

その中でも私は〇〇民族の末裔だという強い思いがある人は、やはり〇〇民族特有の遺伝子をアクティベーションしてしまいます。

 

比較的に日本に馴染んでいる自分は日本人だという認識があるという方からは浮いてしまうでしょう。

 

自分の国に取り込んだ民族にお前たちは〇〇人だという認識を植え付け、食事や文化を取り上げることによってその民族の本来的な遺伝子をアクティベーションさせないで管理しやすくするというのは非常によくある手口です。

 

中国とか今でもそんな感じですよね。

 

中国は漢民族の末裔が支配者層に多いですから、他の民族には自分たちは中国人であるという認識を持ってもらはなければ困るのです。

 

でなければ、国としてまとまりがなくなり管理支配が難しくなります。

 

民族の誇りなんて一生忘れていてほしいのですよ。

 

すくなくともそうしなければ大国中国はその国力をまるで維持できなくなります。

 

しかしこのやり方は、特定の気質や感性や習性を持つ氏族だけが美味しい思いをするとてもアンフェアなやり方です。

 

自分たちの食習慣や文化を世界に広めて、自分たちの氏族に有利な形の社会を形成する非常に狡猾な手口です。

 

副次的に庶民の中にも似たような遺伝子を保有する人たちは美味しい思いをできます。

 

そのような人たちは社会の重要なポストで美味しい思いをして、その社会制度をとても褒めて礼賛するでしょう。

 

非常に窮屈な社会になってしまいます。

 

社会の中で割を食う人がかなりたくさん出てくることになります。

 

日本というのは食文化が多様な国です。

 

このような国は、自分がどのような遺伝子をアクティベーションできるか選べる非常に自由な国です。

 

文化的な統制がないので、世界ではちょっと変態じみた扱いをされる場合があります。

 

自分の国のアイデンティティにここまで無自覚な国民も結構珍しいと思います。

 

 

いかがでしたでしょうか

 

今回の記事は非常に現代社会の暗黒面にフォーカスしてしましました。

 

日本の村社会とか中国とかあるいは戦後のGHQの政策とか、ちょっと嫌な感じですよね。

 

ここまでの知識が彼らにあったかどうかは知りませんが、苦労されている方は今も多いと思います。

 

世界各国の中で日本は比較的に善良な国です。

 

民族のアイデンティティがここまで緩いのは、殆どの先進国が多様な遺伝形質を国民が持つ現在個性が発揮されやすいです。

 

日本人としてのまとまりを持ちつつ、比較的に緩い食文化統制は楽な方が結構多いでしょう。

 

教育統制や社会的慣習に関してはそこまでではないものの、今後はもっと楽になると思います。

 

将来的にはそういうのを意識して国民の遺伝的多様性を認めて食文化のサポートを行いつつ、国としてまとまりのある政治を行うのが個人的な理想です。

 

遺伝的なルーツというのはそこまで重要なのかは分かりません。

 

しかし、人間や社会というのに重大に影響をあたえることは確かなのです。

 

もちろんこの記事の内容を鵜呑みにしてはいけません。

 

自分の頭と感性で考えて、なっとくできる部分が多いなら試して確かめてみてください。

 

田舎の閉鎖的な家庭に嫁いで苦労している女性には、とりあえず自分の好きなお菓子を子供に与えるところから初めて見てはいかがでしょうかと、ちょっとだけ強くお勧めします。

 

ただ知識の悪用だけはしないようにお願いします。

 

今回の記事は以上なります。

 

ではでは~。

 

 


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権能の簒奪:遺伝形質の獲得

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、「権能の簒奪:遺伝形質の獲得」です。

 

権能の簒奪なんていうと、非常に漫画チックな表現になりますが単純にこれは遺伝子の話になります。

 

例えば、ある特定の能力がある特定の遺伝子に特に関連する場合、その遺伝子はその能力に関わる遺伝形質を持つと表現します。

 

この場合、その能力例えば政治により優れた能力を示す遺伝形質を有する場合、やっぱり政治をやらせたら政治が得意で政治の力が高かったりします。

 

ほんで持って、人間はお父ちゃんとお母ちゃんから半分ずつ遺伝子を受け継ぎます。

 

例えば日本でしたら鎖国時代に出島がありましたが、そういう外国の偉い人間が多く出入りする場所というのは歓楽街などがあり性風俗産業があることが多いです。

 

江戸時代の長崎にも丸山遊郭というのがあり出島への遊女の主張サービスがあったそうです。

 

そういう場所には、外国人がそんなに多くいなく半ば化け物扱いされる時代に出会っても男と女の情というのがあり、外国のお偉いさんの子供を宿した「庶子」というのが生まれることもあるでしょう。

 

それは、わざわざ外国にやってきて大金稼いで女遊びが出来る程度には能力も高いし身体も健康な男だったりするわけです。

 

そのような外国人男性の持つ遺伝形質をその子供が受け継ぐ場合は多いでしょう。

 

となると、その国にはその「庶子」から外国人の遺伝子形質を自国の民族に取り入れる事になります。

 

日本では明治維新で活躍した方が西日本の出身の藩士達に多いというのは、やはり出島から幾度と外国人の遺伝子が流入している事を伺わせます。

 

いわゆる理性的で政治や論理的思考などにつよい遺伝子形質(高セロトニン感受性の遺伝形質)です。

 

そのような遺伝子形質が発露した当時の日本人は、やはり当時の日本社会と言うのは馴染みにくいというのがあると思いますし、積極的に打倒幕府の為に動いたのではないでしょうか。

 

私は一年間福岡で働いていたのですが、福岡の人たちは東京に比べて男性も女性も出で立ちがどこか西洋的です。

 

福岡美人などといいますが、西洋的な基準で美人とされる女性が多くいたかなという印象です。

 

出島の遊郭が時の長崎藩主の長期的な戦略で行われたか、たまたまこのような結果になったかは不明ですが、これはまさに権能の簒奪なのです。

 

ギリシア神話では神様が人間の女性を気に入り子供が出来、その子供が神様を殺して取って代わると言う話があります。

 

神様の権能(得意な能力を発現する遺伝形質)を簒奪すると言うエピソードです。

 

敵対する民族に優位な能力を自分の民族に取り込んで相手の民族を打倒する話というのは世界各国にあるでしょう。

 

また、人間には主に父親からした受け継がれない遺伝形質というのがあるそうです。(Y染色体とかは男性のみがもっていますよね)。

 

なので、自分の民族に得意な遺伝形質を外部に流出させなように男性の生殖を管理する場合などがあると思います。

 

たとえば、天皇位の相続問題で「男系男子は良いが男系女子は良いのか(女系は問題外)」とか議論があるとも居ます。

 

あれは、古来の天皇一族において男性によって継承されるなんらかの遺伝形質をどうしても次代に受け継がせたいという思いから来ている可能性があるとおもいます。

 

現代でそれが重要なのかは判りませんが、特定の遺伝形質を他国に流出させたくないとか、外国の遺伝形質を流入させたくないとか昔の支配者層は色々考えていたのではないでしょうか。(そのようなのは大抵支配者層の考えです。庶民などはそんな事は考えずたいてい好きに惹かれ合って子供を作ります)

 

 

中世ヨーロッパなどの貴族社会でも似たような事は起こっていたと思われます。

 

あの時代は王族や貴族の近親婚とかいろいろはっちゃけたことをやっていましたが、上流階級の遺伝形質を庶民に流出させないとかそういう意図もあったかもしれません。

 

これは上流階級の得意分野である政治を庶民に参加させてやるものかという意図でしょうか。

 

しかし、おそらく長い間の歴史で上流階級の遺伝形質は非上流階級層にちゃっかり流出してしまっていたのでしょう。

 

上流階級の男性の女遊びが原因でしょうね。

 

そのために、次第に政治的に賢い人達が庶民に増えてきて階級社会がひっくり返ったのでしょう。

 

比較的平等な社会になった現代でも、政治というのは教えられたからといってそうそう簡単に出来るものではありません。

 

政治が得意な人間ってそう多くないです。

 

中世ヨーロッパではそういった政治得意マンが上流階級に集中していたのでしょうね。

 

 

キリスト教で有名な聖母マリアは、「自分が天使に受胎された」とか「処女で子供を妊娠した」とか言う明らかに妄想過多で病気な女性です。

 

聖母マリアはおそらく統合失調症だったのでしょう。

 

これは、おそらくマリアは現代では統合失調症の方に多く見られると予想される、とてもドーパミンの感受性が強い遺伝形質をもっていたと思います。

 

そのような遺伝形質を持った女性がが、例えばユダヤ系の非常にIQの高いつまりセロトニンの感受性が高い遺伝子を持つ男性との間に子供を産んだら非常に安定的に高ドーパミン状態を維持できる子供が生まれる可能性が高いです。

 

イエス・キリストは統合失調症だという研究もありますが、実際はドーパミンの感受性が高い遺伝子とセロトニンの感受性の高い遺伝子を両方持った人間であった可能性が高く、病的な妄想などは生じていなかった可能性が高いです。。

 

現代の基準でならたしかに統合失調症的だとおもいますが、統合失調症ではなかったと思います。

 

このようなタイプは現代ではそれなりに居ますが、当時のユダヤ文化圏には非常に少なかったのではないでしょうか。

 

当時の多くのドーパミン感受性の高い女性たちは魔女あつかいされて迫害されていたと思いますし、高セロトニン感受性の遺伝子を持つようなユダヤの上流層とは交流があったとは思えませんしね。

 

おそらくは、ドーパミン感受性が極端に高い女性だったマリアが、ユダヤ上流層の男性に強姦でもされてしまったのではないでしょうか。(恋仲だっというのは、病気を発症しているわけですし考えにくいです)

 

それで、そのストレスから統合失調症を発症してしまい、わけがわからない事を言って天使がどうこう言ったのではないでしょうか。

 

当たり前ですが、人間は処女では妊娠できません。

 

そんなこと言う女性は明らかに精神的な病気です。(何かの言い訳だっという線もありますが、こんなすぐバレる嘘を言い訳に使う人はあまり居ないでしょう)

 

しかし、そんなマリアから産まれたイエスはユダヤ系の高セロトニン感受性の遺伝形質と、魔女的な高ドーパミン感受性の遺伝形質を受け継ぐ、超人的な男性だったのでしょう。

 

これは当時のユダヤ社会ではかなり異端な男性だったと思います。

 

ハッキリ言って、王の器です。

 

そんな人間が母マリアの教育でユダヤ上流層でなく庶民の味方についてしまったら、そりゃ当時の王様も恐れますよ。

 

そして、キリスト教というのはかなり女性的な感性を持つ宗教です。

 

まあ、隣人愛とか愛とか献身とか言っている宗教ですからね。

 

キリストは高セロトニン感受性を持つ遺伝形質をもちながら高ドーパミン感受性を持つ遺伝形質を持ち、そして男性ホルモンが強くない中性的男子だったのではないでしょうか。(キリストの像などの多くは細面の痩せ型ですし、マッチョではなかったと思います)

 

母親の教育で女性的な感性を育てるようにしつけられた中性的男子は、当時の男性的なユダヤ社会じゃとても生きづらいですよ。

 

色々苦労したのではないでしょうか。

 

精神的な世界に救いを求めてインドに行ったり、そこでインドの密教的なやり方を学んで自分の物にして自国で弱者や庶民の救済にあったたのではないでしょうか。

 

そんな当時のキリストやその弟子たちは、当時のユダヤの支配者層からみたら明らかに「魔女的」です。

 

キリスト教が当時は邪教であったのもうなずけます。

 

まあ結局、ユダヤの支配者層に眼を付けられて殺されるのですが。(これに関しては、逃げて生き延びたとか色々言われていて異論があると思いますが)

 

キリストの教えも結局は、寛容な部分を取り除かれて支配者たちの政治のツールにされてしまいましたし。

 

もし、キリスト教に当時の教えが残っていたら、中世の魔女狩りのような事が起きるはずはあなかったでしょう。

 

元々、原初のキリスト教は非常に魔女的だったと思われますので。

 

ユダヤ上流層からの権能の簒奪になるのでしょうか。

 

他にもアメリカのインディアンやオーストラリアにアボリジニなどは、彼ら原住民に多い高ドーパミン感受性を持つ遺伝形質を白人入植者に簒奪されてしまったのだと思います。

 

特にアメリカでは民族がごちゃまぜになっていたりしますので、あそこは拡散した高ドーパミン感受性の遺伝形質を持つスピリチュアルな感性を持つ人がたくさんいるわけです。

 

 

他にも、ナポレオンの十字軍遠征とかも、おそらく遠征途中で現地の女性を抱いていただろうからあそこらへんにナポレオンとか十字軍の血が現地に混ざっただろうとか、シルクロードでは西から来た商売人とかは交易が盛んな地域ではさぞ楽しく女遊びをしたんだろうなそこらへんで血が混じったのだろうなとか。

 

国際的な交易都市の遊郭はいろんな血が混ざる原因になるだろうなとか思います。

 

昔はいまより避妊の技術が拙かったです。

 

コンドームやピルもないですしね。

 

商売がうまくいった時の高揚感で一発みたいなかんじでしょうか。

 

外国人だから商売が終わったらさっさと自国へ変えるだろうし、昔の旅行事情では外国にはそう安々と行けなかったから子供が出来ても会うこともないし気にすることもなかったのかもしれません。

 

江戸時代の遊郭などでは妊娠した女性は子供を堕胎させるように促されていたそうですが、それでも産みたいという女性は居たのではないでしょうか。

 

西洋人には東洋系の女性が大好きな男性は一定するいるようですし、西洋人男性好きな東洋の女性も一定数いるみたいですし、西と東の交流がある場所では昔からいろいろあったろうなとおもいます。

 

世の中西洋と東洋だけじゃないのでそれ以上に色々あるでしょう。

 

 

権能の簒奪とういのはもしかしたら故意に行われていた可能性もあります。

 

非常に不快な話になりますが、高ドーパミン感受性の遺伝形質を持つ人はそうでない人にくらべて統合失調症になりやすく、非常に不安定なのです。

 

古来より魔女は自然で規則正しい生活、厳格な規律などを守る必要がありました。

 

そうやって、意識的に高セロトニン状態を維持しないと精神をやられてしまうからです。

 

そういった方たちにとって高セロトニン感受性の遺伝形質はかなり魅力的です。

 

古来の魔女たちは薬草学などに精通していましたが、それは薬草などの手を借りて精神を安定させたりしなければ非常に不具合があったからです。

 

そういった精神に作用させる術を研究しなければ、まともに生きていけないほどドーパミン感受性が高かったためだと思われます。

 

高ドーパミン感受性は制御できればかなり魅力的な遺伝形質ですが、それが単独であった場合非常に高い病気のリスクを背負います。

 

最古の魔女などは、高ドーパミン状態で様々な存在の声を聞きながら、涙ながらに鼻水を垂らしながら薬草を調合していたと思われます。

 

必要は発明の母とも居ます。

 

なんで魔女と呼ばれる人たちが、薬草などに時代に削ぐ合わないほど詳しいと思いますか、なんらかの必要性がなければ科学技術(薬草の調合なんてまさに科学技術です)というのは急速に進歩しないのです。

 

高ドーパミン感受性は遺伝子変異により産まれた可能性が高いです。

 

おそらくその遺伝子変異が最初に発生した人間は非常に苦労したでしょう。

 

現代のような安価で比較的安全な向精神薬が簡単に手に入る時代じゃないのです、必死になって自分の頭の中に吹き荒れる何ともしれない声を聞きながら薬草を調合したり、修行したりしてなんとか高セロトニン状態を維持する様に努めたのだろうと思います。

 

現代医学だってその歴史は多くの方の不幸と試行錯誤と努力に彩られています。

 

魔女だって同じです。

 

このような非科学の世界だって、体系的な理論や方法論が出来上がるまでは非常に様々な苦労があったのだと思います。

 

そして、魔女的な人たちは人間の精神や魂の領域にも明るいです。

 

輪廻転生のシステムを信じていれば、高いセロトニン感受性を自分の子孫に取り込むために、その遺伝形質をもった男性をたぶらかしたり、あえて襲わせたりしたかもしれません。

 

そのように意図的に高いドーパミン感受性と高いセロトニン感受性をもった人間が産んだ可能性があります。

 

魔女は男性をたぶらかすというお話もありますが、このようなお話があるのは実際に魔女的な女性により高セロトニン感受性をもった男性が性的に狙われていた事実があったからかもしれません。

 

 

 

ここまで書いてきてなんですが、今回の記事はかなり陰謀論チックになってしまいました。

 

しかし、現実の政治や戦争なんてものは古代から陰謀だらけでからね。

 

私は比較的にそういうのには疎いですが、歴史とか国際関係論が好きな人達にはそういった陰謀はむっかしから普通にあるというのは理解してもらえると思います。

 

現代社会では、誰もが平等に勉強の機会を与えられているので、多くのことは努力次第という考えが広く信じられています(少なくとも表立っては)。

 

ビリギャルとか言うのもありましたよね。

 

しかし、ビリギャルはたまたま素養の高いけど学校の成績が悪い女の子がうまく学習方法がはまってやる気もあったので成功しただけだと思います。

 

現代社会には、一見勉強できない、貧困層出身で学習環境が整っていない子供でも中には現代社会で有利な遺伝形質を保有している子供がいるわけです。

 

そういう子供は、色々サポートしてあげれば比較的容易に社会的成功を得やすいです。

 

でも人間は色々です。

 

そもそも、勉強は根本的に得意ではない人もやっぱりいます。

 

そういう人は別のことに才能とか興味があったりしますが、やっぱり上記のような人より格段に努力しなければ社会的成功を得るのは難しいでしょう。

 

出来なくはないですが、人より何倍も努力する必要があるのです。

 

やっぱり世の中人より何倍も努力しなければ人並みの能力に達しないとか、人よりすいすい楽にできてしまう人は当たり前にいるのですから。(普通に生きていれば普通に経験します。これに関しては異論がある方は非常に少ないと思います)

 

やはり、勝てる土俵で勝負しなければいけません。

 

不得意・苦手な事で勝負しなければいけないなんて、圧倒的に不利です。

 

そりゃやる気も無くします。

 

 

そして社会だって、政治が得意な人が全くいない国家とか「これは不味い!」とか思うでしょう。

 

政治能力がある外国人を国に招致したり、できれば現地で自分の国の人間と子供作ってもらって自国に政治家を育てたいとか、戦略的に考えるかもしれないですよ。

 

今なら自国に外国のエンジニアを招いて、できれば自国の人間と結婚してもらって子供を設けてもらいたいとかやっているかもしれませんが。

 

そういう戦略を考えるのが政治家の仕事だったりするんですよ。

 

少し昔になるだけで人間の寿命は50くらいだし子沢山だし、一人外国人招いて子供作ってもらうだけで遺伝形質の拡散力が今よりずっとすごいですし。

 

思想や信念なんかは教育すれば良いですしね(これが宗教の役割だったかもしれないですね。様々な能力がある人が自国にほしいけど、統率が取れなくなるのは怖い。だから、宗教をつかって集団を統治して、宗教の改宗は許さない)

 

また、こうして考えると日本人にも様々なタイプがいそうですね。

 

西日本は東日本より西洋人(オランダ・ポルトガル)の遺伝子が流入してそうですし、東北あたりは稲作が盛んですから弥生系(朝鮮系)の人たちの子孫が多そうですね。

 

北海道にはアイヌ系の人の遺伝子やロシア系の遺伝子も入ってそうですし。

 

東日本には太平洋からの漂流者とか何系かわからないですがあってもおかしくないですし。

 

ヨーロッパ人みたいなものすごい混ざり方はしていないとは思いますが、日本人も色々混ざってそうですね。

 

特に戸籍なんか管理していない時代にはほとんど見た目で判断されるので、見た目日本人だけど意外と西洋人の血が濃いとかありそうですね。(明治維新の立役者にちょっとかっこいい人が多いのは気になりますよね。現代日本人の価値観でかっこいいと思うというモノゴトは、西洋的なものが多いですから)

 

最近では日本人の遺伝子のルーツの研究なども行われているので、色々ワクワクしますね。

 

自分の子供が外国人と結婚するのを嫌がる人がいますよね。

 

あれは、昔の時代は一人の人間が外国人と結婚してその遺伝形質を流入させたら結構な拡散力があって、将来の自国の文化に大いに影響を与えるというのが分かっているからでしょう。

 

やっぱり外国人との間に子供が出来たら自国民の遺伝子プールに変化が起こりますからね。

 

実際に、朝鮮との交流があった時代の後に仏教が広まり(弥生系の渡来人が主に広めた文化でしょう)、西洋との交流があった時代の後に明治維新がおき、日本人の国際結婚が後に文化の西洋化が急激に進みとかね。

 

いい悪いはともかく、確実に後世の社会環境や文化や国民の気質に影響を与えますね。

 

ちなみに、明治維新の立役者たちは西洋起源の遺伝形質が強いと思うので、その人達が社会的地位を得るようになって教育も文化もそっちに傾いて今や日本は西側諸国ですから。

 

そうなると、日本人の中で西洋起源の遺伝形質が強い人達が社会で地位を得るようになってその人達の子孫が日本で増えます。

 

また大学で行ったら、東大よりも京大の方が西洋的ですよね。

 

あれは、立地条件により遺伝形質がより西洋的な人が京大の方に多く集まるからです。

 

まあ実際の所そんなに単純ではないでしょうが。

 

東北の自殺率が高いのは、ロシア系の遺伝子が混ざっているからかもしれません。

 

ロシアは自殺率ばり高いですから。

 

大酒飲みだというのも一致していますしね。

 

 

ヨーロッパの歴史はもともと遺伝形質がバラバラな集団を宗教的価値観でまとめてきた歴史がありますね。

 

なので、あの当たりの国はイスラム系の移民の流入が心底嫌なんですよ。

 

遺伝形質がバラバラな上に宗教や文化までばらばらになってしまったら、国がバラバラになってしまいますからね。

 

まとめることが非常に難しくなります。

 

イスラム系の人間はイスラム系の国で生きろよなんで俺たちのキリスト教文化を壊してまで移民を受け入れなきゃならないんだよと言う強い思いがあるのでしょう。

 

ポリティカル・コレクトネスによって、国がきしみを挙げていますね。

 

これはそもそも、遺伝形質もバラバラ、文化もバラバラ、宗教もバラバラだったらそれって国として一つにまとめて扱うのって意味がないよねということがあるのでしょう。

 

イスラム系の文化の人はイスラム系文化の国を自分で作ってそこで生活してくれということであって、イスラム系移民を差別しているわけではないでしょう。

 

国の成り立ちを考えると、全くもって一つの集団としてまとめ上げれない集団は国として扱えません。

 

国というのは、1つの集団をつくることです。

 

その集団の生存戦略が宗教であり文化でり政治なのです。

 

連合国や合衆国では、やはり国単位州単位で独自に文化があります。

 

大きく見れば一つの国ですがまとまりがある単位で分けることでちゃんと機能するのです。

 

日本でも地域によって特色がありますよね。

 

やっぱり自分が落ち着いて暮らしていける地域というのがありますよね。

 

意外と自分の住んでいる都道府県というのは愛着があるものです。

 

よその文化というのは結構異質に見えます。

 

自分と同郷の人に対して好感を持つ人が多いと思います。

 

これはやっぱり、同郷の人のほうが遺伝子的に近くて、気が合うことが多いからではないでしょうか。

 

遺伝形質が遠くに住むひとより比較的近いですからそれ一緒にいて楽です。

 

どことなく感性が合うのでしょう。

 

たとえば声優の上坂すみれさん。

 

非常に詳しいロシアマニアとして有名ですが、彼女はどことなく西洋的な容貌をしています。

 

このような場合は、先祖のどこぞでロシア人の血が流入している可能性が高いです。

 

遺伝形質が近いということは感性とか習性なども近いということです、なんとなく親近感を覚えるでしょう。

 

例えば私なんかは中世ヨーロッパ当たりの文化が結構好きです。

 

無意識に惹かれるのは、ルーツの何処かにヨ―ロッパ系の血が流入している可能性があります。

 

これは前世がどうとかじゃないです。

 

遺伝子の問題です。

 

もしかしたら前世云々の可能性もありますが、遺伝子の影響の可能性が多いの高いです。

 

ということは遺伝子が近ければ文化も似るということでもあります。

 

感性や習性などとも関わってきますしね。

 

これを考えると遺伝子的に遠すぎる民族同士が一緒の場所で暮らすというのは、非常に難しいものがあるのが分かります。

 

ヨーロッパの移民問題はまさにそこにあるのです。

 

仲良くしようとしても、どうしても互いに齟齬が出てしまうのです。

 

ヨーロッパ系と中東系は昔から衝突がありますが、遺伝子は感性と習性を産み、感性と習性は文化をつくるということがわかればなんとも言えない気持ちになります。

 

環境の要因もあると思いますが。

 

ある遺伝形質が発現するには環境というも重要です。

 

遺伝子のオンオフが可能ですので。

 

たとえばですが、魔女というのは才能が100%です。

 

才能がなければ魔女になれる可能性は0%です。

 

これは遺伝形質の問題ですので。

 

魔女の才能がある人は魔女的な感性や習性が生来ありますので、魔女というのにどことなく惹かれる可能性が高いです。

 

才能がある人しか魔女に成れません、偉大な魔女になれるかは努力次第です。

 

自分の本来の感性や習性に沿った生き方をしているならば、かってに遺伝形質が発現していき魔女的な能力は身につきます。

 

そうしてればいずれ魔女的な導きを得るでしょう。

 

才能ない人は一生無理です。

 

 

今の時代日本にはいろんな遺伝形質を持った人が居ます。

 

画一的な社会構造はもはや無理があります。

 

小学校からのプログラミング授業とか英語授業とか。

 

あんなの、それに興味をひかれる子供だけに習わせておけばそれで十分です。

 

興味を惹かれる子供は多分才能アリです。

 

才能アリの子供を十分にサポートする環境さえ整えれば後は政治の分野で解決するしか無いです。

 

興味のない子にむりに習わせても、苦手意識をもって勉強が嫌いになるだけです。

 

それで興味があることにまでやる気を失ったら最悪ですよ。

 

人間ってなんとなく興味が惹かれることや気になることってありますよね。

 

それってその気になるモノゴトの世界に自分の感性が近いからなんとなく惹かれるのです。

 

そのような世界は、自分と似たような感性をもった人間が築き開けた世界だからやっぱり得意分野になりやすいです。

 

そのような分野では努力があまり必要なく上手く出来ることが多いし、やってて楽だし、インスピレーションもガンガン湧きます。

 

逆に、興味のない世界を金のためだけでやっても、自分より才能のあるやつばかりでイライラしますよ。

 

周りについていけないですし、努力も人一倍要ります。

 

その分野で有能な人が自然と身に着けている感性とか習性が身につかないので、全然モノゴトも上手くいきませし、差を付けられます。

 

そしてやっぱり金もあまり稼げません。(これは非常に重要)

 

そしてそんなやつがいたら結構周りに迷惑です。(すごく悲しいですけど事実です)

 

 

私なんかこうして文章書いているのがくっそ楽しいです。

 

得意だし、やってて面白いし、インスピレーションガンガン湧くし。

 

そんな人間です。

 

これを金に出来たらなぁとも思います。

 

最近toshoのブログにいいね!してくれたりする方が多いです。

 

それなりに認めてくださる方がいるようですが私は案外普通の人間ですよ、アニオタで独身20代男子です。

 

でもそれなりに認めてくれる方もいるようです、だって得意分野ですもん。

 

そして完全に趣味でやっているので、好きな時間に書きたいことがあったら書いています。

 

そんな感じで2年も好き勝手書いていると、個人的な研究は結構進みます。

 

 

これを読んでいるあなたもこのような感じで得意分野で勝負するのがよいかもしれません。(断然お勧めします)

 

とかく自分が惹かれる国を一度旅行してみるのも良いですし、国内でも良いです。

 

そういうところには結構あなたの感性に合う文化とか、ビジネスとか人とか色々あると思いおます。

 

そういうトコ行くと「私これやってみたい!」というようなドンピシャなモノがあったりするんですよ。

 

今自分が惹かれる者が身近にない人は、遠くにそういうものがある場合が多いのです。

 

身近に惹かれるモノが無いということは、感性が国内よりじゃないのです。

 

どっちかというと海外とか、住んでいる都道府県外とかにあったりするのですよ。

 

そういう所がルーツの遺伝形質がオンになっている可能性が高いです。

 

でもそういうのって意外にそれを発見する機会が無いです。

 

たまたま遭遇する人も居ますがそういうのは稀です。

 

また、そういった人は興味を引くモノが身近になくて結構退屈でつまんないですよね。

 

そういう方にたまに「国内でも通用しないのに、海外で通用するわけ無いだろ」と言う方がいます。

 

それは全くの逆です。

 

国内で通用しなくても、海外の「方が」通用するのです。

 

日本人は昔から、自分を自国を低く見て、海外を高く見上げることがあります。

 

完全な思い込みです。

 

国内で通用しないけど、海外では通用する人は今の時代の遺伝子のルーツが多様になっている日本ではかなり多いのです。

 

積極的に旅行とか遠出とか外国の情報を集めてください。

 

なんか感性が合うようなピンと来るやつがあるはずです。

 

すくなくとも、あなたの身体を構成する遺伝子は過去の地球のどっかにルーツがあるので、今現在オンになっている遺伝形質が関わっている文化は地球の歴史上のどっかにあるはずです。これは間違いありません。

 

なんだったら、太古の文化とか調べてみるのもいいかもしれません。

 

マヤとかアステカとかそういうのでもいいです。

 

そういう方って案外、現在のマヤ文明の継承者より古代のマヤ文明人に近い感性を持っていたりするので、現在伝わっているマヤの歴史以上の事を発掘できる可能性があります。

 

現代のマヤ文明の継承者は、文化がだいぶ失伝していたりするし遺伝形質もかなり変化しています。

 

またそういうような方は、ちゃんと歴史的資料を調査するとかそういう地道でアカデミックな努力を欠かしてはいけません。

 

感性が近いからと行って現在のあなたは、全然現代日本の文化に染まっています。

 

遺伝形質の本来性はそこまで発現していません。

 

ちゃんと地道に努力で知識を収集して調査などしてください。

 

当時の言葉とか学ぶのに適性があります。難しいかもですが努力してはいかがでしょうか。

 

 

外国語の習得とかもそういったルーツに関わる場合が多いです。

 

私なんかは英語は学生の頃から別段勉強しなくてもテストで高得点を取れました。

 

英語はかなり得意分野です。

 

ヨーロッパの方は近隣の国とかと民族的な交流があるので、近場の国の昔の人の遺伝形質がオンになっていたりします。

 

言語族も近いですし学習が容易です。

 

感性が近いですし、頭の中にすらすら入ってきます。

 

言葉を聞いていてなんとなく何言っているか分るという物があるのです。

 

もちろん勉強は必要ですが、言い回しとか言語の起源とかピンとくる場合が多いです。

 

逆にそれが全くピンとこない人がいます、とても残念ですがあまり上達しにくいです。

 

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

ものすごく長い記事になってしまいました。

 

本当にいろんな所に話が飛びました。

 

記事を幾つかに分けた方が良かったかもしれませんが、ベースのテーマは一貫しているのでまあ一つの記事でいいでしょう。

 

日本人の遺伝的ルーツは今の時代は実は本当に多様になってきています。

 

色々な人が多様な遺伝形質を発現しているので、現代の学校教育や文化に合わない人が大勢居ます。

 

今の状態で画一的な社会制度を施行し続ければ、多くの人がフラストレーションが溜まった生活をおくることになります。

 

日本人が単一民族国家という考えはもはや捨てたほうがいいかもしれません。

 

古来の純粋な大和民族なんてもうほとんど残っていませんので。

 

この長いなが~い記事を読み終えた方はとりあえず自分の遺伝的なルーツを探ってみるのも良いかもしれません。

 

toshoのブログを好んで読んでるような方は結構外国がルーツの遺伝形質を発現している可能性があります。

 

自分でも思いますが私ってものすごく特殊な感性をしていますので。

 

日本以外の国が色々混ざっているっぽいです。

 

 

知らない事には誰だって興味など持ちません。

 

持ちようがありません。

 

情報を積極的に収集したりしないと、自分がどんな事に感性があっているかは分かりません。

 

テレビでたまたまみた外国の風景にピンとくることもありますが、そのような受け身では駄目です。

 

自分の身近にあるものや国内の文化にピンとくるモノがない場合明らかに感性が外国よりです。

 

もちろん自分の住んでいる都道府県外の方も多いでしょうが。

 

積極的に自分のご両親やご先祖様のルーツをしらべたり、家族の趣味を聞いてみたり。

 

何代か前に代わった趣味を持った人がいなかったかとか。

 

自分の容姿を分析してなに人っぽいとか分析してみたり。

 

本屋の中を練り歩いて何か興味の惹かれる本がないか探してみたり。

 

興味のある本がどんな人が書いたかどんな国がその最先端かとか調べてみたり。

 

外国語を聞いて好きな響きの言葉があるか探してみたり。

 

世界の宗教の中で何に対して「まあ、いわんとしようとすることはわかるわ」という反応を返すのか考えてみたり。

 

外国の紙幣や硬貨の中で「良いじゃん!」というものがないか探してみたり。

 

好きな動物がどのような国で多く飼育されているかとか。

 

好きな音楽がどのような国の音楽家とか。

 

どんなマンガやアニメを好むかとか。

 

そのような事を調べてみて、なんとなくここらへんかな~というのを特定してみてはいかがでしょうか。

 

そして今回も書きますが、この記事の内容は決して鵜呑みにしないでください。

 

自分の頭と感性を使って考えて納得できるようなら自己責任で参考にしてください。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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ポジティブ(ドーパミン):ネガティブ(セロトニン)

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、「ポジティブ:ネガティブ」です。

 

 

ポジティブエネルギー(ドーパミン)マシマシの方は、ネガティブエネルギー(セロトニン)で重しを付けましょう。

 

スピリチュアルな世界でポジティブエネルギーという呼ばれ方をしているものは、人間の体内にはドーパミン(あるいは興奮性神経伝達物質)で、ネガティブエネルギーという呼ばれ方をしているのがセロトニン(あるいは抑制性神経伝達物質)という形で現れています。

 

スピリチュアルな世界では「ポジティブ!最高」とか言われています。

 

確かに、ドーパミン(ポジティブエネルギー)が増すと、気分もアゲアゲ右脳能力も開発され超越能力も獲得できたりします。

 

行動力も、エネルギーレベルも、波動も上がるという寸法です。

 

しかし、ドーパミン(ポジティブエネルギー)だけが不自然に上がった状態は、普段の生活を送る私たちからしたらかなり奇妙に時には不自然に見えます。

 

あまりにドーパミン(ポジティブエネルギー)とセロトニン(ネガティブエネルギー)のバランスが悪い状態は身体にも精神にもよくありません。

 

ドーパミンレベル(ポジティブエネルギー)だけが高すぎると、現代社会では統合失調症とか診断されてしまいます。

 

必ず、セロトニンレベル(ネガティブエネルギー)も高めて身体と精神を安定させる必要があります。

 

まあ言ってみれば、魔女の掟のようなものです。

 

人よりかなりドーパミンレベルの高いESP能力者や霊能力者やエンパスの方は、意識して生活を規則正しいものにしたり、毎日軽い運動を行ったり、デジタルデバイスを使いすぎないようにしたり、瞑想したりしてセロトニンレベルを高める生活をする必要があるということです。

 

でないとドーパミンレベルとセロトニンレベルのバランスが大きく崩れて、ポジティブに偏りすぎてしまうのです。

 

そのような状態は、本人的にはふわふわした感じがして気分高揚していてとても楽しい状態ですが、身体も心もあっちいったりこっちいったり、うろうろ衝動的になります。

 

セロトニンレベルが低いので、自己抑制能力が減少したり体内の概日リズムが大きく乱れます。

 

本来ならば、ドーパミンレベルがとても高い状態でもセロトニンレベルも安定して高ければそのような状態には成らず、高位の仙人みたいな状態になります。

 

つまり、エネルギーレベルが高く、超越能力も発揮し、波動が高いのに、非常に安定していて精神も緩やか穏やかというわけです。(睡眠は少なくなりますが)

 

あるいは、「史上最強の弟子ケンイチ」の梁山泊の達人の様な感じです。

 

しかし世の中では手っ取り早い方法で超越能力を獲得しようと、ドーパミンレベルだけを妙な修行でちゃちゃっとあげようとする人も多いと聞きます。

 

特殊な瞑想で変性意識状態になりドーパミンレベルをグッとあげる。

 

そして、どのドーパミン過多の不安定な妄想状態を日常的に好んでいる。

 

これは非常に危険です。

 

変性意識状態に好んでなろうとするのは、ちょっと怖いやり方です。

 

一時的にドーパミン過多の変性意識状態になっても、しばらくしたら簡単に変性意識状態は解けます。

 

その自然な状態を特殊な技法で弄るのですから。

 

昔の記事にも書いていましたが、変性意識状態は必ず解かないと脳内で情報処理が正常に行われず記憶や人格や思考の統合が崩れます。

 

これは、脳内の正常な情報処理に必要なセロトニンが足りない状態が続いてしまうからです。

 

簡単に言えば、脳の論理演算には興奮性神経伝達物質と抑制性神経伝達物質の両方が潤沢に必要だということです。

 

セロトニンが足りないと、神経パターンの不活性が出来ず、情報のゴミが残って上手く統合できなかったり、思考のキャンセルや思い込みの消去、生理的な反応の抑制ができなかったりします。

 

なので、変性意識状態同様のドーパミンレベル(ポジティブエネルギー)だけが不自然に上がった状態は目指さないようにしましょう。

 

陰陽のバランスを保つのです。

 

陰すなわち、ネガティブエネルギー=セロトニン

 

陽すなわち、ポジティブエネルギー=ドーパミン

 

このように置き換えてみて考えましょう。

 

対極陰陽図のように、陰陽の気(セロトニンとドーパミン)は安定して、概日リズムに則って減少したり増えたりします。

 

生活にメリハリをつけるのです。

 

生活にメリハリが付くと、人間不思議なことに安定した高いレベルでセロトニンレベルとドーパミンレベルを維持できるのです。

 

このような状態が持続できると人間人生が上向いていきます。

 

行動力やポジティブな気持ち、精神的な安定などが増してくるからです。

 

現代人はそれが出来ない方が多いですが、多くの人が高レベルのセロトニンレベルとドーパミンレベルを必要としていると思います。

 

また、現代人特にサラリーマンは、我慢我慢の連続でセロトニン神経回路=左脳ばかり鍛えていますが、我慢のし過ぎでセロトニンの生産量が我慢に追いついていないです。

 

そこまで酷使すると、セロトニンを生産する機能に負荷がかかりすぎて壊れてしまいかねません。

 

酒を飲みすぎると肝臓が壊れるように、我慢し続けるとセロトニンを生産する箇所が壊れてしまうかもしれません。

 

そうしたら、安定してセロトニンを生産できなくてうつ病になってしまいます。(仮説です。実証されていません。鵜呑みにしないでください)

 

こうなったらいろんな事に我慢ができなくなります。(抑制性神経回路が機能不全に陥るので)

 

会社にもいけなくなりますし、心理的なストレスも弱くなります。

 

また、妄想症状が出たり、肉体のストレス反応を抑制できなくなったり、概日リズムが壊れて不眠症になったりします。

 

我慢しなければいけない状況が多い方は、なるべく生活リズムを整えて、規則正しい生活、適度な運動、かるい瞑想などでセロトニンレベルを落とさない様に気をつけてください。

 

その上で我慢がいらない状況というの模索すると良いかもしれません。

 

とかく日常的に我慢やストレスにさらされている現代人は、習慣的な運動を一つ続けるだけでかなりストレス耐性に違いが出てくると思います。

 

毎日の瞑想でも良いですが、意識してセロトニンレベルをあげる試みが大事です。

 

毎朝の散歩や、週末の軽い運動、室内で行える趣味を続けるなど。

 

精神が安定するようになんとなくこれをすると落ち着くなという行為を続けるのです。

 

規則正しい生活と長く続けられる趣味は人間の味方です。

 

若い人は特に若い時からそのような生活を心がけると、心身を病むような事を予防できるでしょう。

 

しかし、若い人ほどきつい状況にある事が多かったりもしますが。

 

ちなみにセロトニンだけが不自然に多い状態は、抑うつ状態です。

 

現代人はこの状態の人もかなり多いですね。

 

鬱々とした気持ちになるというのは、あれはドーパミン不足です。

 

ドーパミンは快楽ホルモンですのでそれが少ない状態だと脳に快楽を感じず欲求不満が溜まります。

 

この状態が抑うつ気分です。

 

抑うつの方はドーパミンをマシマシにしてあげれば良いので、楽しいことややりたい事やったり物事のポジティブな面にフォーカスすれば良いです。

 

鬱=セロトニンが過少

 

抑うつ=ドーパミンが過少

 

ですね。

 

抑うつの方に鬱のためのセロトニンマシマシになるお薬出しても意味がないですね。

 

抑うつ=ドーパミンが過少の方もこれこれはヤバイです。

 

鬱と一緒で、ドーパミンも脳内の情報処理に欠かせないホルモンなのでこれが少なくっても精神活動に問題が出てきます。

 

とかくやる気が起きない。知的活動が停滞する。(抽象的な思考とか集中力とかそこらへんにダメージが起きます。好きな小説を読んでも全く楽しくないとかこれは、抽象的な概念に対する理解ための感覚の強化が行われなくなる傾向です。症状が重くなると、文章の意味が追えなくなるとか。言葉を聞いても意味がわからなくなるとかあるので要注意)。

 

世の中鬱と抑うつがごっちゃにされがちなのです。

 

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

色々書きましたが、鵜呑みにしないでください。

 

思考の種にするかそんなこと言っているやつがいる程度に留めておきましょう。

 

とりあえず試して検証してみるのは一向に構いませんが、慎重に試したほうが良いです。

 

試すなら規則正しい生活などはあたりまえに大事ですので、そこから検証してみてはいかがでしょうか。

 

このブログはtoshoが不勉強(こればっかりは申し訳ない)な上に非常識な仮説の上に成り立っています。

 

デタラメだとは思っていませんが、多くの検証が求められる内容だと考えています。

 

これから色々世の中発展すると思うので、その流れで証明されるかなと思っています。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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子供は感情で動く:子育ては難しい?!

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は「子供は感情で動く」です。

 

 

子供は感情で動くっていうのはなんでかっていうと、子供(0~12歳くらい)の子供は、左脳のセロトニン神経回路が未発達で相対的に右脳の発達が顕著だからです。

 

でもって、なぜ右脳優位だと感情で動くのかというと、抽象的な概念や論理というのは左脳が発達しないと上手く理解できないからです。

 

またそれは、右脳優位じゃないと第一言語の学習ができないためです。

 

子供(0~12歳くらい)は、右脳優位なために「脳の同調・模倣・共感能力」を強く発揮できるのです、その能力によって親や周囲の大人のはなす言葉を聞きながら彼らの脳に強く同調して彼らの内部状態を申しながら(魚のイメージ読み取りながら)はなす言葉を聞くのです(魚という言葉を聞く)。

 

そのために、内部状態と発した言葉を関連付けていくことで言葉を覚えていきます。

 

また、0~3歳くらいの小さな子供は母親との境界が曖昧です。

 

これは、本能的な母への好意により、母親にたいして「脳の同調・模倣・共感能力」を強力に発揮するために、母親の内部状態(思考・感情等)に対して強く模倣・共感して母親と自分の思考や感情の区別がつきにくいためだと思います。

 

子供が母親の喋る言語を第一言語として学習しやすいという研究がバイリンガルの研究でありますが、それは子供はメインとして母親に対して好意を強く抱くからではないでしょうか(単純に、接触の機会が多い。単純接触効果の影響も強いでしょうが)。

 

母親への好意が強ければ右脳優位である子供時代は母親に対して脳が同調しようとするので、母親の話す言葉と内部状態を関連付けることによって言語を学習していくのではないでしょうか。(別に母親だけでないですよ。父親や周囲の大人にだって好意があれば強く同調します。)

 

そんな理由で子供というのは左脳の発達が未熟で右脳優位なために、言語の学習がスムーズにできるのだと考えられます。

(ちなみに、この理屈だと「脳の同調・模倣・共感能力」に強く関与するミラーニューロンの発達が弱い自閉症の子供は、親の言葉と内部状態を関連付ける事がとても苦手ということになり自閉症の子供の言語の学習に難が生まれる可能性が高いということを説明できます。まあ実際のところは分かりません)

 

そんなこんなで子供は周囲の人間の内部感情に対して強く同調・模倣・共感する能力が高く、そのため内部の感情や思考を読み取り、言葉の発達が未熟で、抽象的な表現や論理的な能力に欠けます。

 

小さい子供は、周囲の大人の言葉をあまり理解していません。

 

当然です、まだ学習している最中なのですから。

 

しかしある程度の年齢になると左脳が発達して自己抑制能力や抽象的な表現や論理的な能力も発達していくでしょう。

 

これはいろいろな経験をして様々な状況や人に触れていくと、睡眠時や休息時に脳が自動的な色々な情報を整理して統合していくからです。

 

脳の中の論理演算はセロトニンとドーパミンのどちらも重要ですから、その両方が十分に脳内に放出されているならば普通に生活していくだけで勝手に知能は発達していきます。

 

一般に子供は3歳くらいに言葉が急激に発達していくのでしょうから、だいたい3歳くらいから徐々に左脳が発達していくのだと思います。

 

逆に言うと3歳までの子供は、右脳が極端に優位なので半ば動物のようなものだと思います。(子供も動物を卑下するつもりはありません。動物は言葉は話しませんがとても知的な存在です。)

 

一般に理性と呼ばれるものは、左脳による自己抑制が大いに関係するので、左脳の発達も弱いから理性もない、右脳の発達は極端にあるから鬼のように衝動的・感情的という様な状態です。

 

これは人間の健全な発達過程ですが、それくらいの子供を育てる親御さんはそれはもう大変でしょうね。

 

それくらいの子供は親の言葉を聞いてるようでほとんど内側の感情を観ているので、言葉による教育はちょっとマダ難しいかもしれません。

 

子供を叱るときも褒めるときも、親の内心を見透かすので上辺の言葉だけで叱ったり褒めたりしてもあまり響かないです。

 

親も一緒に感情的なならないと上手く伝わってくれません。

 

感情的になるというのはヒステリーになるということではなく、叱る時は本気で怒る、褒める時は本気で喜ぶと言った感じです。

 

本気の感情はすんなり伝わってくれます。

 

本気で怒ったり本気喜んだりするのはかなりのエネルギーを使いますので非常に疲れますが、昨今色々省エネが叫ばれています中子育てまで省エネになってしまったら子供がかわいそうなので小さいこどもがいる親御さんはがんばってください。(かなり無責任に言い放っているのでご不快な方もいらっしゃると思います。そのような方はまずご自身を労ることから始めてください)

 

人間心底疲れていると本気怒るのも喜ぶのも難しくなるので、現代社会で多くいる忙しく働いている親御さんのご家庭はなかなか大変だなと思います。

 

怒りたい喜びたいけれども疲れて怒れないというのは、結構深刻な問題ですから。

 

ちなみに子供は本気で叱られたらちゃんと判ってくれますが、なぜ叱られたかまでは推察できません。

 

本気で叱る時は本気で怒って、なぜ怒ったかも教えてあげましょう。

 

そうすることで、怒られた時の恐怖とその原因をセットで記憶して、怒られる原因となる事は避けるようになります。

 

しかし、子供とは相当エネルギーにあふれる存在で、一回怒られたくらいではやめない場合もあります。

 

怒られるのが嫌だからこっそりやったりしますよね。

 

しかしそういう場合は、何度でも本気で叱るしかないです。

 

子供が飽きるまで叱り続けるしかないから親御さんは非常に疲れます。

 

かなり大変ですが、そこれ疲れて叱るのをやめたりすると駄目な感じで子供が学習してしまうので、あとあと学校とかで問題行動を起こすこともあるかもしれません。

 

ちなみにものによりますが、裏技で安全な環境で飽きるまでやらせてあげるということをすると、子供はちょっと楽しんだあとはすっかり飽きてしまって興味をなくしてしまうでしょう。

 

 

叱らない子育てというものを聞きます。

 

それが実際にどのようなものかは知りませんが(ごめなさい。まったくの勉強不足です)、言葉どおりの意味の叱ることをしない子育てはおすすめしません。(ちなみにtoshoは叱られた事はほとんどありません。すごい内気で大人しく真面目な子供だったのであまり叱られるような事はしなかったというのもありますが。今では怒られるのが苦手な大人になってしまいました。。。逆にtoshoさんて怒ることあるんですかとか言われる程度には怒らない人間ですが)

 

子供を一人の人間として尊重した子育てをするのはとても大事です。

 

しかし、子供を「理性的な大人」として扱う子育ては色々と問題があります。

 

一人の人間として尊重するのは、子供の価値観や好き嫌いや人格を受け入れ否定すること無く尊重することです。

 

理性的な大人として扱うのは、子供を理屈が通じる、分別のある人間として扱うことです。

 

子供に理屈が通じるようになるのは、大体中学生から、速くても小学校高学年くらいからです。

 

それまでは子供は「感情で動く生き物」であると理解する必要があります。

 

だから、小さい子に理屈で訴えかけるには、情に訴える「感情の論理」(〇〇をすると、Aちゃんが嫌に気持ちになるんだ。君はAちゃんが嫌な気持ちになったら嬉しい?それともかわいそうだと思う?とかいうやつ)を丁寧に訴えかける必要があります、大人が日常で使う「理性の論理」(AかつBならばCとか)はまだ早いです。

 

理性の論理は類推能力が発達する時期にならないと上手く理解できないのです。(それが発達するのが早い子供もいますが。。。)

 

しかし、叱らない子育てがいい悪いというよりも、子供を育てる際に「黄金律:ゴールデンルール」があると思ってしまう方が危ないですね。

 

話がとてもそれました。

 

子供は右脳が優位なので感情で動きます、それは理屈では動かないということでもあります。

 

理性の論理は通用しないですが、感情の論理ならば通じます。

 

それがだいたい中学生になるくらいまで続きます。

 

中学以降に左脳の発達が顕著になってきて、類推能力とか、抽象的な概念に対する理解度等が上がってきます。

 

理性の論理が身につきます。

 

まあ、左脳優位になる子も右脳優位になる子もバランス型になる子も色々ですが。

 

また、小学校段階で左脳を発達を促すような教育をすれば、類推能力とかはもっと速く身につきます。

(左脳の発達は、抑制性神経系の発達でもあります。規則正しい生活をさせて適度に自制を覚えさせれば良いと思います。習い事をさせて習慣的で継続的な努力を身に着けさせれば、左脳は発達します。でも、そればっかりやると右脳が鍛えられないので真面目だけど色々と低エネルギーでやる気や行動力に乏しい感じなる可能性が高いです。そのような感じに大人は今の世の中いっぱいいますね。私としてはやりたい事をやらせてあげることも重要だと思います)

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

毎回のごとく話が脱線しまくりでした(笑い。

 

子供は感情で動くのです。あまり理屈は通用しません。

 

そんな子どもたちを育てる親御さんたちはとても大変だろうとおもいます。

 

toshoの兄は数年前に結婚して今では3歳の娘のパパです。

 

たまにその姪っ子と会いますが、私は子供と接するのは得意ではないので毎回おっかなびっくりです。

 

この年になっても子供相手に人見知りを発症するという事態になんだかなさけなくなったりすることもあります。

 

でも、世の中私みたいな男性は意外に多いと思うのでよくあることと言う感じで自分を慰めています。

 

個人的には1個上の兄が結婚してすでに1児の父というのは羨ましいなとすくなからず思ってしまいますね。

 

彼は彼なりに大変な思いをして子供を育てていると思うとなんだか自分の兄に対する尊敬の心が湧いてきますよ。

 

まあ、toshoの私生活はこんな感じですね。

 

この記事の内容は、独身の20代男子が「子供は感情で動く」なんてことを理屈っぽく語っているだけなので、そんな鵜呑みにせずにそんなこと言っているやつが居ると言う程度に留めておいてください。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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自他同一:同調する脳、模倣する脳、共感する脳、同一視する脳

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、非言語コミュニケーションである脳同調型共感コミュニケーション(今回勝手に名付けました)についての考察です。

 

今回の記事で初めて定義する「脳同調型共感コミュニケーション」は従来の言語コミュニケーションとボディランゲージなどの非言語コミュニケーションに加えて、一般にテレパシーや霊感・エンパス能力とも呼称される非従来的なコミュニケーション方法を整理したものです。

 

では、なぜ「脳同調型共感コミュニケーション」という名称になったかというと、テレパシーや霊感・エンパスなどの能力は、脳のミュラーニューロンや松果体等の機能だと推測される「同調・模倣・共感」機能により直接的な非言語コミュニケーションだと思われるからです。

 

このブログの過去の記事でも書きましたが、人間の脳は互いに同調して、互いの内的状態を模倣することによって、互いの感情を自身に内部的な再現して、その再現した感情に共感するという仕組みがあります。(これは別に科学的な証明されていることではないです。このブログの仮説です)

 

この一連の機能あるいは能力をこのブログでは「脳の同調・模倣・共感能力」と呼称しています。

 

この能力には以下の生物学的な仕組みがあると思われます。

 

人間の思考や感情や動作などの精神および身体活動には、必ずそれに伴い神経活動がああります。

 

人間の神経活動には電位の変化があり、電位変化の際には物理的学的な電磁波が発生します。

 

人間の脳は、体外の電磁的な振る舞いに影響を受けます。(あたりまえですよね。物理的に連続しているのだから)

 

人間の生体活動が発した電磁波は、同じ生物構造を持つ生物にとって「解釈可能な」意味ある情報です。

 

人間Aの生体活動によって発した電磁波は、人間Bの(おそらく)松果体によって受信され、ミュラーニューロンによって実際の神経活動に変換されます。

 

これによって、人間Aの生体活動は人間Bによって模倣されます。

 

松果体が人間Aの生体活動によって発した電磁波に電磁的に同調して、ミラーニューロンの活動によって、人間Aの生体活動が人間Bによって模倣され、人間Bは自身に発生した人間A由来の内的な感情に対して共感するのです。

 

このような仕組みがあることが予想されます。(全くもって仮説段階です)

 

この脳同調型共感コミュニケーションは完全な同調状態から微弱に同調状態まで幅広い状態があります。

 

例えばですが、古来から巫女やシャーマン霊能力者、近年ではチャネラーと呼ばれる人たちの中には、降ろすという技術があります。

 

神霊や幽霊や宇宙人の言葉を彼らから受取り、人間の言葉に変換すると言う行為です。

 

これは、神様だろうと幽霊だろうと宇宙人だろうと、身体と脳と神経が存在する生命体ならば、生体活動によって必ず電磁的なエネルギーが生じるので、彼らが発した電磁波を脳の松果体で受取りミュラーニューロンで非言語的なイメージに変換してさらにその非言語的なイメージを自身の操る母国語に変換するという作業が行われるためにだと思われます。

 

神霊にかんしては異なる次元位相に存在する生命体の生体活動から発した電磁波、幽霊に関しては人間が死んだ時発した強烈な感情を伴う思考から発生したの電磁波(電磁波って、閉じた系では拡散せず普通に滞留します。イライラした人がいた部屋は、その人が発した電磁波が滞留していたりするので窓を開けたりして電磁波を逃しましょう。都会のコンクリートジャングルは地面がコンクリートなのでいつまでたっても電磁波が町中を滞留していたりします。地面が土だったり植物が多くある場所は土に電磁波が吸収されるのであまり滞留しません。水がある場所は電磁波が水に吸収されますが、水の中に電磁的なエネルギーが滞留するので循環しない水が溜まっている場所(湖や沼)で誰かが自殺とかしていると幽霊とかを多く見るかもしれません。粗塩とかの不純物が多い電気的に不安定なナトリウムイオンは大気中の自由電子を吸収して安定する性質があるので、不穏な空気のある場所に粗塩とか置くと電磁波吸収してくれて良いかも。周りに土も緑もない場所にオフィスがある方は、粗塩を溶かした水を置いておいて不穏な空気が出たらそれに電磁波吸収させて(例えば夜中の間に吸収させるとか)、その水はどっかの街路の植木にでも流しておけばよいです。土にとってそのような電磁波は大した意味をもちません。)、宇宙人に関しては別惑星に存在する生命から発生した電磁波などの受信ではないでしょうか(これに関しては、光速度不変の法則があるから時差があるはず?。)

 

ちょっと補足多すぎましたね。

 

そのような降ろすという行為は、そこら辺にうようよ漂っている電磁波に対して脳が同調する事によって、それらの存在の思念をキャッチしています。

 

また、そのような存在は非実在・実在どっちでも良いのです。

 

実際に存在する生命体の生体活動から生じた電磁波をキャッチしている場合もありますし、だれかの空想や妄想によって生じした何らかの疑似人格の神経活動から産まれた電磁波をキャッチしている場合もあるでしょう。

 

つまり、そこらへんのオタクのおっさんの脳内妄想から発生した電磁波というのも普通にそこら辺の大気中に漂っていて、それに対して同調してしまう場合もあるでしょう。

 

実際に幽霊というは、死んだ人間が発した強烈な電磁波を最初にキャッチした人がその恐怖から何らかのストーリーを脳内で組み立てそこの人格をもたせることによって、その人格(思考パターンや行動パターン)を付加した電磁波をさらにその場所に投げ返している場合もあると思います。

 

つまり、閉じた系では電磁波が滞留するので、最初に死んだ人間以外のそれ以降その場所を訪れた人の発した電磁波も滞留していく。

 

こんな感じでもはや元が何だったか分からないモノも多くあるのではないでしょうか。

 

そんなのをマンガの中では、残留思念とかいったりしますよね。

 

自殺した人がいるマンションとかで死んだ人の霊を見るとかは、マンション自体がコンクリートで建築されているので、死んだ人間が死ぬ際に発した恐怖とか色々な感情や思考から産まれた電磁波が室内に滞留しているからでしょう。

 

そういう場所では別に幽霊とかいないけど、死んだ人間が発した感情や思念を時を超えてキャッチしてしまう場合があるのだろうと思います。(走馬灯とかね)

 

そういう場所は、強力な電磁波が滞留しているので電気製品が壊れたり誤作動起こしたり、人間も電磁波に影響受けますから体調悪くなったりするのでしょう。

 

また、そういった場所は建築構造的に電磁波を滞留させやすい設計になっている場合がほとんどなので、さらにその後にそこに住んだことのある人間の負の感情時に発した電磁波も滞留していたりするかもしれません。

 

でも、そういう場所は電磁波のお掃除をすれば(これをエネルギー的に清めるとか言っている人も多々います)よいので、別に場所が汚れているとかいって放置する必要が無いと思います。

 

例えば、全く「脳の同調・模倣・共感能力」が低い人間を住まわせるとかもありです。

 

そういった人は、滞留する電磁波に同調しにくい上に、その人が楽しく過ごせばその人の楽しい感情から発生した電磁波とかも滞留するので結果的色々相殺することになるからです。

 

あとは、一度人が住んだらその人が普通に生活するだけで電磁波が身体に吸収されたり、洗濯物に吸収されたりして薄まっていくからです。

 

また話がそれました。

 

これに対して、憑依という現象があります。

 

例えば、霊に憑依されたとか、狐つきとか、神懸かりだとか。

 

これは、別に霊が実際にいるかどうか、狐が居るかどうか、実際に神様がいるかどうかは知りません。

 

たが、完全に人格を乗っ取られたかのように憑依された本人の人格が豹変する事からそのような表現がなされるようです。

 

これに関しては、単純に同調率がかなり高くなり、同調している本人の人格が薄れるほど霊なり狐なり神様なりの人格を模倣してしまっているだけです。

 

めっちゃなりきっているだけです。

 

しかし、このレベルになると同調率が高すぎて、半ば電磁波の周波数がロックされてしまっている状態になります。

 

つまり自分から電磁波との同調を解く事ができない(しようとする気にならない)のです。(相手のこいつを支配してしまおうとかそういう精神性も模倣した上で成りきるのでそういったことが起きます)

 

ここまで来るとお薬のんだ方が良いよってな感じで病気扱いでいいと思います。

 

これは、完全に自分の人格がなくなる状態です。(正確にはなくなっていないのですが、表面上はそう見えます)

 

それに対して、憑依と近い現象ですが自他同一という現象があります。(やっとここまで来ました。めっちゃ脱線しまくって申し訳ないです)。

 

これは、同調率がトンデモなく高い状態において、互いに相手の感情・思考・感覚情報まで完全に模倣しあってしまう現象です。

 

相手のかなり深い感情や思考まで模倣し合うので、相手の気持ちが手に取るように分かります。

 

また、自分の感情も相手伝わってそれに対するレスポンスも瞬時に伝わります。

 

なので、二人の人間が全く同じ感情や思考やはては記憶まで共有する形になり、「私があなたで、あなたが私」というような自己と他者の境界が完全に融解した状態になり、完全な一体感を感じることになります。

 

いわゆる「一つになる」という感覚です。

 

ここまで来ると、「全ては一つだったんだ」という宗教的な精神性を見出すことになるかもしれません。

 

正確には、感情や思考や記憶を完全に共有する程度まで互いの脳が同調し模倣し共感しあっているだけです。

 

そこまで来ると、模倣とか共感ではなく同一化なのでしょうね。

 

もちろん全ては一つというスピリチュアルな観念はまっこと正しいとは思いますよ。

 

この自他同一という現象はスピリチュアルな世界では昔から確認されていて、これが出来る状態まで完全に脳を同調する能力が高い人が古来より、巫女とかシャーマンとか預言者の中にいたんじゃないでしょうか。

 

だから「全ては一つ」だといった、標語が宗教やスピリチュアルの中にあったのでしょう。

 

ちなみにこの全ては一つという標語は、新世紀エヴァンゲリオンのラストでシンジ君たちがLCLの海に溶けているひとつになるさまをイメージするかもしれませんが違います。

 

単純に個としての自我を保ちながら、全てが一つな感じがするという程度です。

 

物理的に一つになる感じがあるわけではありません。

 

それをヤりたかったら、座禅を組むが床に仰向けにねるかして瞑想状態になり、セロトニンの作用でボトムアップ経路で生じる感覚を抑制して(この時点で感覚がなくなる)、全ては一つであるという言葉を使って瞑想するとドーパミンの作用で全ては一つであるという感覚がむっちゃします。(自分の身体に自然生じる感覚が、トップダウン処理のイメージに完全に上書きされるから。これをやると自分が身体をもった存在なんだという感覚(スピリチュアルでいう分離の感覚)が(一時的に)消える)。ちなみにこれをやるのは全くもっておすすめしません。興味なんて持たいないようにしましょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回もまたぐだぐたと書いてしまいました。

 

「脳同調型共感コミュニケーション」には、通常のESP的なものから、憑依、自他同一などの側面もあります。

 

人間ってこんなに奥深いんだなって思っていただけたら幸いです。

 

今回も例によってtoshoの考察ですので、事実扱いせずそんなこと言っているやつが居る程度に留めておき、鵜呑みにしないようにしましょう。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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抽象性と具体性:議論はなぜ噛み合わないのか

こんにちは、toshoです。

 

最近記事をあげる頻度が増えていますね、就職したら頻度が減ると思うので今のうちに書きたい記事を書いておきたいですね。

 

今回の記事は「抽象性と具体性」に関しての話です。

 

なぜ多くの議論は具体性のない議論にとどまるのか、なぜ議論のすれ違いが起こるのか、なぜ抽象性の高い話に多くの人が騙されるのか。

 

先ずは、抽象性の高さと具体性の高さに関して述べます。

 

以下は過去記事:具体的思考の重要性からの引用です。

 

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抽象的な思考とは、物事をよりシンプル(単純)に捉え、物事を俯瞰してみることです。

俯瞰してみることで、物事を本質にせまったり、様々物事の共通点を発見したり、パターン化(規則化)したりします。
 
抽象的な思考の本質は、捨象すなわち余分な情報を切り捨てることです。

高度に抽象的な思考をするには、物事の本質ではない部分を切り捨て、共通しない部分を切り捨て、規則化の為に規則的な部分のみ注目し他を切り捨てます。

高いビルの上から町並みを俯瞰してみれば、全体が見渡せて街の全体像が浮かび上がってきますが、細かな情報は見落としてしまいます。

抽象的な思考は、情報を切り捨ていることでなりたっているのです。

以下は過去記事:具体的思考の重要性からの引用です

では、具体的な思考はどうでしょう。

具体的な思考とは、具体的なシチュエーションをより詳細に想定する能力です。

物事を具体的な、より厳密に、詳細に想定することで、起こりうる様々を状況を予想して対応策を考えたり、理論的な事を踏まえたうえで現実としてどうなるかということを想定したりします。

具体的な思考は、抽象的な思考が情報を切り捨てることで成り立っているのと逆に、状況を具体的に詳細に想定するためにより多くの情報を必要とします。

想定する状況に、現実と相違ないほどの複雑性と情報量を持たせる思考です。

抽象的な思考とは真逆になります。

抽象的な思考を物事を分解してよりシンプルにする思考だとしたら、具体的な思考は情報を統合してより複雑なものにします。

分解と統合では、物事のベクトルが真逆です。

分解が得意だから、知能が高いというわけでもなく、統合が得意だから知能が高いというわけでもないのです。

自分が分解と統合の数直線上のどの位置にいるからといって、知能が高い低いとはいえないです。 

 

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抽象性が高い話というのは多くの情報を削ぎ落とした物となります。

 

多くの場合それは物事の本質に迫るために枝葉末節の情報を削ぎ落とす為に行われています。

 

具体性の高い話というのは具体詳細なシチュエーションを想定する物になります。

 

多くの場合はより実際的な話、現実的な話であり抽象的な理論をどのように現実に適用するかという事のなどの為に行われます。

 

では、次はそのような思考をする時に脳の中で実際にどのような事が起きているかを考えていきます。

 

抽象的な言葉やイメージというのは、多くの情報が削ぎ落とされた物なのであなたの目の前に広がる現実よりかなり薄ぼんやりしていて捉え所のないものになります。

 

例えば「平和」という言葉を見聞きする場合、捉え所のないぼんやりとした意味を理解するためにドーパミンによる感覚の強化が行われます。

 

ドーパミンによる感覚の強化が行われることにより、「平和」などの抽象的な言葉を見聞きし時にしっかりとその意味を捉えられる様になり「自分は平和というものを解っている・知っている」と認識するようになります。

 

抽象的な言葉やイメージにリアリティを感じる様になるにはドーパミンが重要な働きをするのです。

 

ドーパミンは快楽ホルモンでもあるので、人間は抽象的な話やイメージを見聞きする際には少なからず気持ちよさを感じています。

 

これは抽象性が高い言葉を理解する時以外にも、普通に文章を読んでいるときや絵を見ている時にもすくなからずドーパミンにより感覚が強化され快楽を感じます。

 

もちろんこのような現象は抽象的な話に親和性がある人間だけなので、そうでない人間は抽象的な話を見聞きしても理解のためのドーパミンが出ずに、快楽も生じないのです。

 

現代日本人は多くの人が学校教育で抽象性の高い話に親和性が高くなるように訓練されていますので抽象的で茫洋とした話に対しての理解力が高くまたそのような話を見聞きすると快楽を感じるようになっています。

 

また、抽象的な話は理解するのにドーパミンを必要としますが、抽象的な思考=情報を削ぎ落として考えることにはセロトニンも大量に必要とします。

 

本来の等身大のリンゴのイメージから、多くの情報例えば匂いの情報とか味の情報とかリンゴにまつわる社会的因習とかそういった物を生み出す神経パターンをセロトニンで不活性化することにより、ただのリンゴの見た目のイメージだけを抽出することにより、子供は算数の問題の中で出てきたリンゴを数式の中に当てはめられるのです。

 

では、次に具体的な話をするときにはどのような事が脳内で起こっているのでしょうか。

 

まず、具体的な話をする際にもドーパミンが必要になります。

 

実際の状況や現実を目の前に持ってこれるわけではないので、具体的なシチュエーションを詳細にイメージするために、より多くの情報を感覚に出力するからです。

 

ずばり、抽象性の高い話をするよりも大量のドーパミンが必要になります。

 

そして、具体的なシチュエーションをイメージする際にはとても快楽を感じるようになります。

 

大量のドーパミンが多量の快楽を生成するので、このような状態にある場合はドーパミンによる快楽で若干の酩酊状態になる場合もあります。

 

他者には現実感のないふわふわした印象を与える事があります。

 

従来の社会ではそのような人たちに、バカっぽい・子供っぽい・締まりがない等といった評価を与える事が多かった風に思えます。

 

子供というのは右脳=ドーパミン神経回路が優位なものですので、創造力が豊かで、自制能力にかけ(自己抑制のための左脳=セロトニン神経回路が未発達)で、抽象的な話が苦手(抽象的な話はセロトニンもかなり必要)なのです。

 

このような人たちは従来の社会教育が合わないだけで、決して馬鹿とか知能が低いわけではないのであまり誤解しないであげてくださいね。

 

マシュマロ実験と言った小さいこどもがお菓子を我慢出来るかどうかを見る実験などがありますが、あれは現代社会の教育システムや社会システムに親和性の高い左脳=セロトニン神経回路優位型かどうかを見極めているだけのテストに思えます。

 

自分の子供が右脳=ドーパミン神経回路優位型だったとしても、決して卑下してはいけません。

 

教育次第で全然社会的成功とかしますよ。

 

そんな話はともかく、抽象性の高い話や具体性の高い話をする際に人間は脳内で上記のような事が起こっていると思われます。

 

それでもって、次はなぜ多くの議論は具体性のない議論にとどまるのか、なぜ議論のすれ違いが起こるのか、なぜ抽象性の高い話に多くの人が騙されるのかという話になります。

 

まず、まず具体性のない議論がなぜここまで周り通るのか。

 

単純に、抽象的な話は楽なのです。

 

具体的な話は大量のドーパミンを必要とします。

 

つまり、かなりのエネルギーを必要とします。

 

それに比べて、抽象的な話はかなり省エネだし、具体的なイメージを描けなくてもドーパミンの作用でなんとなくわかった気になれるから達成感もあるし、気持ちよさもある。

 

さらに現代社会で中途半端に抽象的な思考の訓練をした人たちは、そのような抽象性の高い話が高度に本質的で知的であるという思想が強いのでそういうのが大好きなのです。

 

そういった人たちは逆説的に高度に具体的な話というのは苦手としています。

 

だから、そういった思考を得意とする人たちを無意識のうちにも避けるし時には馬鹿にします。

 

さらに、抽象的な話にあまり親和性のない人たちは、抽象的な話に対して強力に感覚しません。

 

つまり、なんとなくわかった気にもなれないし、気持ちよさもない。

 

そのような抽象性が高く、具体性に乏しい議論にたいしてうんざりしてしまいます。

 

抽象性の高い議論に対して強くうんざりしている人たちは、逆説的に具体性の高い議論が得意な人たちでしょう。

 

なので、議論にうんざりしている人たちの意見を上手くいかせればそのほうが議論が深まるはずです。

 

でも、世の議論の多くは中途半端に抽象的な思考の訓練をした人たちが議論での上位者なのでそれが出来ていないというわけです。

 

次は、なぜ議論のすれ違いが起こるのかという話です。

 

これは、抽象性の高い理念、〇〇主義、〇〇理論などを信じる人達は、その高度に抽象的な話を深く理解するためにドーパミンの作用で強力にその理念などを感覚しています。

 

そして同時にセロトニンの作用でその理念の形を作るためにそれにそぐわない情報や感覚を強力に不活性化・抑制しています。

 

自分の中で、〇〇主義、〇〇理論などの輪郭がハッキリと浮き上がってきてしまうのです。

 

抽象的な話の場合、削ぎ落とされる部分がどうしても強く出てきてしまうので、自分が削ぎ落としている部分を議論の相手が強く感覚している場合やその逆でもって、互いに譲れなくなってしまい議論がすれ違ってしまうのです。

 

相手は、〇〇という事があるという主張をしても自分が□□という事を強く感覚していると○○の感覚がひどく弱くなってしまうので相手の話を聞いても全然ピンとくる(何らかの生理的反応が起こる。感情が動く)ことがないのです。

 

最後に、なぜ抽象性の高い話に多くの人が騙されるのかという話。

 

簡単に言えば、具体性が乏しいが故に多くの無知な人が理解出来てしまうからです。

 

正確には理解できたと錯覚してしまうからです。

 

知識や経験がないと高度に具体的な話というのはあまり理解できません。

 

しかし、高度に抽象的な話は知識や経験が乏しい中学生でも理解できてしまいます。

 

なんとなくそういうものかと思ってしまうからです。

 

私のブログもそうですが、そこまで抽象性が高いわけでも、高度に具体的でもない微妙なラインで記事を書いています。

 

どの程度の抽象度に親和性が高いかというのは人によって違いますが、私のブログに記事を深いことを言っていると感じる人も浅い事を言っていると感じる場合もあるでしょう。

 

自分の親和性の高い抽象度で語られている話に関しては、人はかなり「グっとくる」のです。

 

もちろん人間は知識や経験の変化がありますから(基本的に増えていくものですが)、その時によってそのテーマによって、「グッとくる」話は違ってきます。

 

一年前にぐっと来た話が今では浅く感じるなどあると思います。

 

知識が経験が浅い人に対して「グッとくる」程度の抽象性で話してあげれば、容易に人は「グっと」きて「そうだったのか!」と騙されていまいます。

 

抽象性の高い話は、具体性の高いレベルでは矛盾や齟齬を生じるものであっても成立しているように見せかける事ができます。

 

論述の精度が向上するに連れてより矛盾や齟齬が浮き彫りになるので、ごまかしたりする場合に会えて抽象的に持っていくという手法が取られます。

 

そうなると、抽象性の高い詐欺話は普段具体性の高い思考や話に慣れていない人は、容易に「グッとくる」事となり「そうだったのか!」という感じて強く信じ込んでしまいます。

 

さらに、それが聞く人の利益になるなど感情的に巻き込れるような話だったりすると余計に信じ込んでしまいます。

 

そのような理屈があると思われます。

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

抽象性と具体性に関しての記事でした。

 

一口に抽象度という軸で表現しても良いですが、これだと抽象度が高い事が良いことだという感じに誤解されそうなので抽象度という表現があまり使われないようにしました。

 

脳内でどの様の事が起こっているかでも書きましたが、抽象的思考は基本的に省エネです。

 

セロトニンとドーパミンを両方使いますが、具体的思考の必要とするドーパミン量はそれ以上に多いです。

 

具体的であればあるほど、より多くのドーパミンを必要になるのでかなりのエネルギーが必要になります。

 

なので、具体的思考能力の高い人はエネルギーの「溜め」が必要な方が多いと思います。

 

コンスタントに高出力というのはなかなか厳しいものがありますね。

 

今回の記事も、決して鵜呑みにせずそんなこと言っているやつが居る程度にするか、ご自身の思考の種にでもしてください。

 

今回の記事も以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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「感情的に巻き込まれる」ということの重大さ

こんばんわ、toshoです。

 

今回の記事は「「感情的に巻き込まれる」ということの重大さ」という題名です。

 

世の中には数多の事象、現象、物体、人が在ります。

 

しかしあなたは一人だけです。

 

あなたが保有するエネルギー(時間、金、体力、気力)は有限であり、かつ持続的に生成されています。

 

世の中の殆どの人は、自らの保有するエネルギーを注ぎ込む対象を100%感情で決めます。

 

これは、人は感情的な繋がりが無いものに対しては決して意識を向けずエネルギーを注ごうとしないからです。

 

この感情的な繋がりとは、好き・嫌い・憧れ・嫌悪・面白さなど、数多ある種類の感情がどれか一つでも対象に対して感じていればよいのです。

 

逆に言えばその感情的な繋がりが感じられれば、人間は意識してエネルギーを注がざるを得なくなってしまうということです。

 

TVで放送されるニュース・ドラマ・アニメ・バラエティ、ラジオ、新聞、友人がする噂などなど。

 

多くのメディアは、あなたを感情的に巻き込もうとしてきます。

 

あるニュースを見て嫌な気持ちを感じる。

 

アニメを見て面白いと感じる。

 

友人が好きな人の噂をする。

 

感情的に巻き込まれた物事に関して、あなたは否が応でも生理的に反応してあなたの感覚(スピリチュアルな世界ではこの感情的な繋がりがあって意識に昇る感覚的な世界をリアリティと呼ぶ場合が多い)の中に入ってきます。

 

感情的な繋がりを一度でも持ってしまったら、あなたはそれを否が応でも意識せざるを得ませねん。

 

もちろん、それに対して意識的に接触を避けることは可能です。

 

しかし、一度感情的に反応してしまえば、潜在意識が動いてしまい無意識的に反応してしまいます。(雑多なニュースサイトの記事の中からふと目に入ってしまう。暇な時にインターネットで探してしまう。本屋でぶらついていたらふと気になって眼を向けたらそれに関連した本がある。など)

 

その結果、多くの人が感情的に繋がりを持つ物事はニュースサイトで閲覧数が多くなり、インターネットでの検索数が多くなり、それに関連した本が多く売れるようになり、社会的なムーブメント・トレンドを生み出し、それが実際に正しいのかなどの事実がどうあれ、「既成事実化」されてしまいます。

 

一度既成事実化したモノゴトは、さらに多くの人を感情的に巻き込みながら、事実や真実の検証や追求が起きぬまま、肥大化して社会現象化するでしょう。

 

これが正しい例かどうかは分かりませんが、韓国との間で日本が抱えている従軍慰安婦問題などは上記の一連の流れを確認できる良い例でしょう。

 

私は、従軍慰安婦問題の真実は全く知りませんが、俯瞰して見る限り上記の「多くの人が感情的に巻き込まれた結果既成事実化したモノゴト」の流れが追えます。

 

また他にも、若者の草食化やスティーブ・ジョブズが偉人として扱われるなどが当てはまるかも知れません。

 

あらゆるメディアの裏の目的に、読者・視聴者・ユーザを感情的に巻き込むという事があります。

 

あらゆる手段で多くのモノや人があなたを感情的に巻き込もうとしてきます。

 

あなたの関心を得ることで、人であれば優越感を感じたり承認欲求を満たしたり自身を得たり同情を買いたいのです、企業であればお金や閲覧数やイイネの数やリツイートやメディアでの注目が欲しいのです。

 

この私が書くブログも究極、インターネット越しに読者の関心を得て、社会的な影響を獲得したり、お金を得たり、あるいは言論・思想家としての自信をつけたり、色々な方との交流で理論をブラッシュアップしたり、自身の思想の確かさを測りたいという事があります。

 

ちなみに私の場合はお金を得るというのは現時点で志向はしていません(将来的に理論の裏付けが出来たタイミングでお金にできればという思いはあります)し、社会的な影響を獲得したいのは本やインタ―ネットで見る限り多くの「無慈悲な自己責任論と説明不十分」に翻弄されている方が多くいるということが見えてきて、私自身その一人なので多く失敗や試行錯誤の結果から産まれたノウハウやテクニックやTIPsをできれば有効活用していただき世の中から無慈悲さ減少させたいという思いがあります。(世の中の無慈悲さというのは個人的にだいぶ辟易していることです。今20代で後何十年(あるいは何百年?)生きるならば、今より無慈悲さが減少した社会で生きたいと割りとガチに思っています)

 

まあ、私の自身の言い訳はどうでもよいのです。

 

人間は感情的な繋がりを持つモノゴトにしか意識もエネルギーも注がないのです。

 

そして、多くの人間は「人間の心理的特性・生物学的特性」には非常に無知です。

 

自ら意識的に感情的な繋がりを断つというのは非常にテクニックが居ることですので、多くの方はあまり得意ではないのです。

 

感情的な繋がりを断ち切るというのはそうとう難しいのです。

 

ちなみに私はこのブログの記事を書いている時にアニメ「ボールルームにようこそ!」を見ていたりします。私はアニメやマンガがかなり好きで熱心なアニメオタクです。

 

これもアニメやマンガを見て面白いと感じると言った風な感情的な繋がりをもっていますね。

 

ちなみに、この程度のことなら誰もがわざわざ「感情的な繋がり」と言わずともわかっているよ小難しく言って知った風な感じを装うなと言われるかもしれません。

 

しかし、わざわざ「感情的な繋がり」と言う言葉を使ったのは「おもしろさ」や「好き」や「嫌い」などわかりやすい感情だけでなく「いかなる感情」でも感情的に巻き込まれるの事が出来てしまうからです。

 

劣等感や優越感、助平心でも萌えでもバブみでもなんでもよいのです。(バブみという言葉を知らない人は調べるのはおすすめしません。オタク業界の気持ち悪い側面です。あまりこのブログでは使いたくない言葉ですが具体例として秀逸なのです。もし調べるならばtoshoはこの言葉を知っているだけで使うほど濃いオタクでもないと先んじて言い訳しておきます)

 

テレビや出版などありとあらゆるメディアが「キャッチコピーやパワーワードやキラーワードや新しい言葉」を作って使いたがるのは、言いやすい言葉やわかりやすい言葉や新しい言葉は、多くの人がなんとなく使ってみたがるからです。

 

使ってみたいと思うというのも感情的な繋がりです。

 

「存在質」とい言葉もこの言葉を使ってブログを書いているとなんとなく気持ちいいです。

 

自分が言いたいことをスッキリ言い表せるというのは結構気持ちいので私も含めて多くの人がそのような類の言葉を使いたがります。

 

ちょっと前に流行ったピコ太郎さんのギャグみたいなものです、なんとなく言いたくなる言葉というのは強力な力をもっているのです。

 

例えば、「格差社会」という言葉を知ったばかりの人はなんとなくこの言葉を使いたがります。

 

格差社会という言葉があれば反応するようになります。

 

格差社会というモノのイメージがその人の中で固まっていき、次第にそのイメージを現実に投影していきます。

 

その結果、格差社会は現実であるという信念を通して人生を生きるようになります。

 

そのような人生を生きる人は、多くの人が消極的で怒りに満ちていて破壊的な作用を人生にもたらします。

 

もちろん格差がある中でどう生きればよいのかという戦略やどうすればそれを解消できるかという重要な思考はできますが、まさに格差の当事者でる方以外の方が積極的に格差社会は是であるという思考をするのは危険だったりします。

 

なぜなら、社会問題として「既成事実化」するからです。

 

そうなれば子供にそのような社会を生きるための教育をすることが次に求められるようになり、既成事実化どころか、実際に「格差社会とその生き方」をセットで生産するからです。

 

でも、これは格差社会という言葉にピンとくる(感情的な反応。なにかしらの生理的な反応がある)人だけです。

 

ピンとこない方は感情的な繋がりを形成しないので、結構そんなものとは無関係に生きることになります。

 

例え現実に格差社会が広がり始めていても、格差社会というイメージを現実に投影しないのでそれを意識しないで生きること出来ます。

 

自分自身の人生の中で格差をあまり経験(格差があると感じる事)しません。

 

その結果格差がない社会と同じくらいに軽いフットワークと心理で行動しますので、積極的にチャレンジした人は裕福になり、そうでないひとは例え相対的に豊かでなくても本人の満足行く収入を得られるまで頑張れる気力が産まれ、まあまあ苦痛なく生きられます。

 

そして、そのような方が増えたら逆に格差は縮まります。

 

「格差社会」を「既成事実化」するまえに感情的に巻き込まれない人が増えるとそれだけ「格差社会がある」という信念を生きる人が減るので、最小の被害で格差を是正できます。

 

もちろん、格差を感じる当事者の方々への支援やはとても重要ですが、社会問題として既成事実化して悪い方向へ心理的な作用が働かないように、格差がある部分があってもパワーワードがさせないというのは結構大事です。

 

研究者や政策決定者、格差の当事者の方たちは真剣にその問題に向き合って欲しいところですが、エネルギー(時間、金、体力、気力)を得たいがためにパワーワード化して多くの人を感情的に巻き込むのは結構危険です。

 

多くの人がそのような方法をやりたがりますが、パワーワード化してしまうと多くのそれに無関係な層を盛大に巻き込んでしまうのでヤバイのです。

 

言ってみれば自分のかかずらう問題の為に、無関係な人からお金や時間や体力や気力や果ては人生まで吸い上げて利用してしまうという精神なのです。

 

例えば難病の子供(心臓移植に2億円必要だったり)の為に募金などは典型例です。

 

2億円あれば色々な使いみちがあります、それを一人の子供だけ注ぎ込むのですから感情的に多くの方を巻き込んで少額ながら多くの方からお金を吸い上げる方法が取られるのでしょう。

 

これは悪意は無く搾取でもない場合が多いでしょうが、2億円は相当な額です。どれだけ多くの善意の人が寄付をしたのでしょうか、そして多くの人は全くの無関係です。

 

これは可愛い方で社会的な悪影響もほとんどないので私個人としてはあまり問題にしていません。(移植の順番を飛ばすのにお金がかかったなどといわれることもありますが、正確な知識がないのでよく分かりません。無関係な人とは結構こんなものです。しかし、それが事実であれば寄付をしなかったと言う人は多いのではないでしょうか)

 

しかし、これは後世に重大な影響を及ぼす政策に直結していたり、負の影響が強い社会現象だったりしたら、無関係だから知らないでは済まされません。

 

普通に自分が生きている間にその影響をうけることでしょう。

 

高度成長期に生じたそのようなモノゴトは今彼らが老人になってからその影響をひしひしと感じているでしょう。

 

まあ、感情的に巻き込まれる事自体が悪いことというわけではありません。

 

好きなアイドルのライブを見に行くのは感情的なつながりがあるからですが、アイドルのライブを見るのは楽しいことです。

 

楽しいことはたくさんあったほうが良いですよね。

 

ただそのような嬉しい感情的な繋がり以外の感情を誘発させて感情的に巻き込もうとしてくる悪意がある方が多くいるのでそういったものへの心理的防衛は重要です。

 

特にビジネスの世界は、そんなんだらけなので知らねば無駄に搾取され続けるということです。

 

マスメディアの世界は、そのような戦略的に作為的に感情的に巻き込む手法というのを長年の実行研鑽しています。

 

言ってしまえばマインドコントロールの手法を実行研鑽しているのです。

 

マインドコントロールは大げさなものではありません、日常の中に溶け込んでいます。

 

ニチアサのアニメ番組がおもちゃを売るのだってマインドコントロールだし、多くの子供は感情的に巻きこまれているのです。

 

それが悪とは言いませんが、企業は日夜そのような手法をつかってお金を稼いでいます。

 

私なんかもニチアサアニメからオタク化した口ですから。

 

今は数十年前のニチアサで育った世代がおとなになって立派なオタクと化してオタク産業にお金を落としたりクリエーターになっているのです。

 

そのような世代はニチアサアニメは企業のマインドコントロールだから規制しようと言う主張があったら、強硬に反対するでしょう。(だってその産業にすでに組み込まれていますから)

 

私だって反対します。企業の策略だとしてもこれだけの人間が感情的に巻き込まれているモノはもはや文化です。

 

アニメは文化などというと批判が来ることもありますが、個人的には文化といって差し支えないと思っています。

 

また、古典的な日本文化は感情的に巻き込まれている人がどんどん少なくなっているので、ここらで歯止めをかけないと文化を支えるエネルギー(時間、金、体力、気力)は賄えなくなってしまうでしょう。

 

古典的な日本文化は高尚なモノとして扱われうようになり、多くの庶民から縁遠いものになりました。庶民が感情的に巻き込まれなくなった時点で先細りが見えてきたのです。

 

文化というのは富裕層や知識人が仕掛け人であっても、庶民が支え維持するものなのですから。

 

 

話が色んな所に飛んでしまいましたね。

 

色々なことを書きましたが、それらすべてに「感情的に巻き込まれる」という事が根底にあります。

 

「感情的に巻き込まれる」ということの重大さが多少なりとも伝われば良いと思います。

 

ちなみに、私のブログをよんでいるかたは私のブログに感情的に巻き込まれていることになるのでしょうか。

 

しかし、このブログの記事は私が個人的に思索・考察したものなので事実の保証はできかねます。

 

鵜呑みにせず、適当に思考の種にでもしてください。

 

ちなみに、最後にこのような書き方をすることで、記事を読む方が無意味に感情的に巻き込まれないようにしているのです。

 

このように書くと、読み手に記事の内容を再考するタイミングを与えることになるので、この「いやちょっと待てよこれは本当だろうか」という自己抑制が無意識に正しいと思い込む事を防止するのです。

 

無意識に正しいと思い込まない方法は、読みながら「ツッコミ」をいれていくことです。

 

バーと、ツッコミを入れずに読むと無意識に刷り込んでしまうことになるので危険です。

 

学校の教科書を暗記する時はそのような無意識への刷り込みは有効ですが、インターネットやそこら辺の本をよむときに学校で覚えたそのような読み方をすると無意識に内容を刻みつけてしまうことになるので危険です、いちいち突っ込みながら読みましょう。

 

批判的に読むとか批判的に見るというのは、「いちいち心の中で「それ本当?」「うっそだー」とちゃんと心の声で突っ込みながら読み・見る」ということです。

 

そのようなツッコミをせずに、サラーッと黙読したり・視聴したりするのはいかに批判的に読む・見ているつもりでも、無意識にその内容をすりこんでいるので駄目です・危険です・批判ができていません。

 

批判的に見るというのはそういうことです。

 

ちなみにこの「ツッコミ」というのは思考の刷り込みの抑制です。

 

抑制性神経回路たるセロトニン神経回路ひいてはセロトニンそして左脳を行使します。

 

こればっかりやっている人は、右脳への血流が減少して右脳のドーパミン神経回路が非活性化するでしょう。

 

あまりいいことではありません。

 

セロトニン神経回路とドーパミン神経回路はバランス良く使いましょう。

 

ちなみに、抑制=肯定の否定=否定=ネガティブなエネルギー見たいな感じでスピリチュアルの世界で扱われていることもあります。

 

また、ドーパミンは興奮性神経伝達物質で興奮=活性化=活動の肯定みたいにポジティブなエネルギー見たいな感じで言われている場合があります。

 

ネガポジはバランスが重要です。

 

ポジだけ強ければ妄想状態ですし、ネガだけ強ければ抑うつ状態です。

 

スピの方がポジポジ言っている危険性はここにあるのですね。

 

現代社会はネガネガ言ってるので、もっとポジポジしたほうがよいですが、ポジポジ言っている人も中にはいるのでそういう人はポジポジし過ぎると妄想に溺れます。

 

多くの人には私が別の記事で言っている戦略的ポジティブシンキングをお勧めします。

 

もちろんこれも鵜呑みしないでください、ちゃんとツッコミを入れながら自分の頭で考えてください。

 

 

いかかでしたでしょうか。

 

今回の記事は深夜に書いているので深夜の妙なテンションでいろんな所に話が飛んでしまいました。(それと記事がかなり長い!)

 

これはドーパミンが脳内に多く放出されインスピレーションが湧いてきていろんな所に話が飛んでいます。

 

日中のドーパミンが少ない時間帯に書いていたら、ここまで話は脱線していないでしょう。

 

最後の批判的な読み方やネガポジは完全に蛇足ですね。

 

 

「感情的に巻き込まれる」ことの重大さはわかっていただけたでしょうか。

 

メディアが発信することには感情的に巻き込まれないように冷静に接しましょう。

 

ついこの間衆議院が解散しましたが、このタイミングで急に解散することで注目を集めて多くの人を感情的に巻き込もうとしているかもしれません。

 

国民の不安が高まったタイミングでやれば、多くの人は否が応でも選挙に関心を持つでしょう。

 

このタイミングで、メディアを使って真実を巧妙に隠しながら、世論を誘導されでもしたら安倍政権は盤石になるかもしれません。

 

どのようなことになるかは分かりませんが、とりあえず感情的に巻きこまれないように注意を払いながら生きるしか無いでしょう。

 

まあ、そんな重い話はともかく、TVを見ながら感情的に巻き込まれないようにするだけで、無駄金使う機会を減らせるので注意してみるのもいいのではないでしょうか。

 

記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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欲しいものを手に入れられるという確信

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は「欲しいものを手に入れられるという確信」がいかに重要かという話です。

 

簡単に言いますと、人間が心身の能力を十全に発揮して何かを為す時には、それが「本当にしたいこと、ほしいもの」であり、かつ「それが手に入れられる、為せるという確信」が必要という話です。

 

これは以前別の記事でも書いたことがありますが、「出来るという強い確信がドーパミンを放出する」のです。

 

過去記事:ドーパミンに関してのあれやこれ

 

ドーパミンは超越能力の発揮や、心身のエネルギーレベルの増大、認知機能や学習、潜在意識の活用など多くの事を可能にする神経ホルモンです。

 

ドーパミンの放出量が適度に高い人は、心身のエネルギーレベルが高く、認知機能や学習能力が高い傾向があると思われます。

 

もちろん、何に対してもドーパミンが出るのではなく、無意識的に本人が望んでいる事を為す、手に入れる際に出るということが重要です。

 

例えば、小説家になりたいという青年がいたとして、その人が本心から小説を書くことが好きでなければ、いくら「成りたい―」と妄想していても、小説を書くことでドーパミンが出ません。

 

やろうと思っても辛い、楽しくないとなってしまいます。(もちろん、実際に一度書いてみることが重要です)

 

また、その際に本心から望むことでも難しすぎると「自分には小説が書ける、小説を書くのが楽しい」という「出来るという確信」も起きないのでドーパミンが出にくいのです。

 

逆に言えば、自分が本当にやりたい事を「適切な難易度」でコツコツ続けると「次第に一般的に高難易度と言われることでも、出来るという確信をもってドーパミンを放出させて楽しく出来るようになる」ということです。

 

教育論として当たり前に言われていることですが、その裏にはこのような理論があると思われます。

 

また、この仕組を巧みに利用しているのがスマホゲームのガチャ機能です。

 

ユーザーが欲しいと思うアイテム等をユーザが何回かガチャを引けば手に入れられるという確信が起きる程度の確率で出現するようすると、これはもうドーパミンが脳内に出まくります。

 

また、単純にドーパミンは快楽ホルモンでもあるので、たとえアイテム自体がそれほど欲しいものでなくても、脳内のドーパミンが大量に放出する際の快楽を経験したら普段自制的なひとでもハマってしまうことでしょう。

 

特に、普段欲求不満にある人ほど、ボタンを押せば脳内に快楽物質が放出される「ワンクリック快楽装置」として利用してしまい事になるやもしれません。

 

気をつけましょう。

 

(割りとガチ目でヤバイです。普段欲求不満な人(普段のドーパミンレベルが低い方)は他の方より依存症になりやすいので、スマホのガチャには手を出さないようにしたほうが良いです。暇普段の生活が充実していないと自分で思うような方は特に避けたほうが良いです。普段のドーパミンレベルが低い(欲求不満)の方はガチャで起きる大量にドーパミンの放出に耐性がないのでかなりハマりやすいです。・・・ガチャでレア度によってアイテム等の出現の演出を変えるとかは、欲しい者が手に入るという確信の「予期」に繋がるので依存度が上がります。そのような「予期」の演出がないおみくじは予期ありよりドーパミンが出ないので依存度はグッっと低くなります。パチンコもそうですけど、スロットの表示の演出とかもドーパミンを放出させて強く依存させる効果があります。単なるパチンコはそんなに依存性が高くはならないと思います。スロット演出がかなり最悪ですね。あれがヤバイ。スロット演出を表示をやめるだけで、パチンコの当たりが外側からはランダム性が高く見える様になるので、ドーパミンの出は悪くなります。また買い物依存症などは、買い物するという行為で快楽を得ると思います。手に入るという確信が高い状態は、お金を払う瞬間です。お金を払って買うという瞬間が心地良いので、手に入る商品自体はあまり興味が無いのです。ストレスが溜まると大きい買い物をしたくなる・してしまう人は買い物依存症になりやすいので要注意です。私なんかはストレスが溜まると大きい買い物をしてしまう質なのでこれには要注意です。まあ、それでも全く無駄なものやほしくないものは買わないのですが。それでも積読が結構溜まっていたりしますが。。基本的にお金を払ってほしいものを買うというのはお金を払うことも含めて快楽なのですよ。ドーパミンがそれなりにでるので。ケチというのは、欲しいものを買うのにお金を出し渋る行為ですが、これはお金を払うと言う行為自体もドーパミンを放出する重要な要素だという事を知っていれば、気持ちよくもなくなるし、エネルギーレベルも下がるし、いわゆる波動も下がるというあまりうれしくない行為ですね。締めるところは締めるという節約は大事ですけど。収入は有限なので。)

 

めっちゃ話がそれました。

 

とかく、手に入る・出来るという確信がないとドーパミンは出ないよということです。

 

これはつまり、自己評価というのも大事なのです。

 

自己効力感とも言われることもありますが、自分の能力に自信をもっていないと、実際に出来る・手に入れられる実力があるのにドーパミンがでないのです。

 

これは、潜在意識は結構正確に出来る出来ないの判断をしてくれますが、普段から自己否定や自己卑下をしている・受けている人は、その正確な判断が負のアファメーションで歪んでしまっているからです。

 

逆に、そのようなモノがないときにおこなう出来る出来ないの判断はそこそこ正確なので、素直に従ったほうが良いですね。

 

仕事などで地道に経験を積んで知識とスキルを身に着けて、自分には出来るという確信を育てている人は結構色んな分野で活躍していると思います。

 

出来るという確信を育てることは何より大事なのですよ。

 

まあ、現代の競争社会では、その出来る確信を育てられるのが「競争に勝った一部の人だけ」というのが結構悪辣なのですけどね。

 

この競争社会の仕組みのために、色々と明暗が別れてしまっている面があります。

 

幼い頃から成功体験を積み上げて、「私・俺ならば出来る」という確信を育てている人と、競争に敗れて「私・俺にはちょっと出来ないかな」と思っている人とでは、あらゆるものが違ってきてしまいます。

 

例え本質的なポテンシャルがそれほど大差なくてもです。

 

今の社会はそういった構造を持っているので、いわゆる多くの人がドーパミンレベルが低くて、欲求不満で、エネルギーレベルが高くなくて、超越能力も発揮している人がすくなくて、意識の覚醒度低くて、いわゆる波動も高くない、という状態になるのでしょうね。

 

なので、私たちは「出来る・手に入れられると言う確信」をまず育てなければいけません。

 

そのためにアファメーションを利用したり、瞑想でまずドーパミンレベルを挙げたりしましょう。

 

ただ、ドーパミンレベルだけ不自然に上がった状態は結構病的ですので、無理して挙げすぎてはいけません。

 

また、ドーパミン以外のホルモンもとても重要ですので、ドーパミンレベルを上げさえすれば良いという考えはやめましょう。

 

単純に、生活の中で「私・俺は出来る・手に入れられると言う確信」を育てるために、アファメーションを行ったり、努力したり、物事のポジティブな面にフォーカスしたり、自分で自分を肯定的な評価したりするようにしていれば良いです。

 

また、出来るという確信がある状態と、実際に出来ると言う事は案外別物ですというのも忘れないようにしましょう。

 

出来るという確信がある状態は実際にエネルギーレベルが上って、イケイケになりますが、実際に出来る・手に入れられるためには、努力や工夫が必要です。

 

覚悟を持ってやりましょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は、「欲しいものを手に入れられるという確信」についてでした。

 

色々書いきましたが、大事なことは一つだけです「確信を育てましょう」ということです。

 

なによりそれが大事です。

 

あと、スマホガチャは本気でヤバイので皆さん気をつけてくださいね。

 

ではでは~。

 

 


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イメージングの原理:トップダウン処理とボトムアップ処理の連携

こんばんわ、toshoです。

 

今回の記事は、イメージングやビジュアライゼーションと言ったテクニックがどのような原理によって成り立っているかを考察します。

 

 

イメージングやビジュアライゼーションは、視覚的イメージや聴覚的イメージなどを意識的に想起することによってリラックス効果、モチベーションアップや潜在意識への働きかけ、願望実現などが期待できるテクニック(技法)です。

 

例えば、舞台の発表などの緊張を催す場面において、夕日の視覚的イメージを想起する事によって身体をリラックスさせる(実際に副交感神経が活性化する)方法などがあります。

 

私なんかは、ジムでエアロバイクを使って運動する際に、初夏の森林をサイクリングする視覚的イメージを想起することによって心拍数の増加の抑制をするという事をしたりしています。

 

このように、イメージングやビジュアライゼーションは想起したイメージが実際に身体に作用をすることは理解できると思います。

 

そして、私の考察によればこれはこのブログで取り上げている脳のトップダウン処理とボトムアップ処理の連携によって起きていると考えることが出来ます。

 

トップダウン処理とは脳→身体への処理系統です。脳が聴覚に働きかけて聴覚情報を出力することにより黙読(実際に音を発生する事無く頭の中で音が聞こえる)が可能なります。

(これはこのブログの仮説で実証されていません)

 

ボトムアップ処理とは、身体→脳の処理系統です。実際に音を聞いてそれの意味が分るなどです。

 

この二つの処理は同一の神経系に共存していると思われます。

 

人間は、常に環境からの刺激を受けボトムアップ処理が行われています。

 

しかし、人間は意識しているかしていないかで、実際に環境からの刺激を無視したり気づかなかったりすることがあります。

 

これは普通に考えたらおかしな話です。

 

刺激自体が消えるわけではないのに、痛みや圧迫感や熱さを見失って感じられなくなるというのは奇妙です。

 

これは、常に人間はボトムアップ処理が行われる感覚刺激に対してトップダウン処理による感覚の操作を行っているからだという推測ができます。

 

つまり、環境からの刺激は常に身体に生じているが、トップダウン処理によりその刺激(感覚)の増幅や減衰をおこなうことにより、痛みを無視したり、感じられなくなったり、より強く感じたりするというわけです。

 

トップダウン処理とボトムアップ処理が同一神経系に共存しているのが理解出来ると思います。

 

そして、イメージングやビジュアライゼーションはこのトップダウン処理とボトムアップ処理が感覚器を通して連結されていることで実現されていると思われます。

 

つまり、トップダウン処理により夕日のイメージを出力することで、視覚に夕日のイメージが再現されそしてその出力した夕日のイメージがそのまま視覚のボトムアップ処理の入力に使われるわけです。

 

これにより実際に夕日を見た時と同じような効果を得られるわけです。

 

実際に夕日を見ることで得られるリラックス効果は、視覚に夕日の映像(あるいはあの橙色の光)が投影される事が重要であり実際に辺りが夕方になっている事は必ずしむ重要ではありません。(たとえば、映画館で夕日の映像を見るなど)

 

なので、トップダウン処理により視覚に夕日の視覚的メージを出力しボトムアップ処理の入力に使うことが、そのまま夕日を見た時と同じ効果が期待できるのです。

 

よく脳の研究をされる方は、脳は実際に見たものとイメージを区別できない、脳は馬鹿なんだと言うことがあります。

 

しかし、脳が馬鹿なのではないのです。

 

イメージの夕日を見ることと実際に夕日を見ることは同じ「視覚→脳」のボトムアップ処理を使っているのであり、脳が馬鹿なのではなくこのようなすこし複雑な処理がイメージをすることの裏にあり、脳はただボトムアップ処理系統で正常に視覚情報を処理しているだけだったのです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事はイメージングやビジュアライゼーションの原理についての考察でした。

 

もちろんこのブログで提唱している仮説を元にした考察ですので、実証されている事をベースに考えたわけでありません。

 

決して鵜呑みにせず、こんなこと言っているやつが居る程度に留めておきましょう。

 

しかし、個人的にはこのように考えてみると色々な事に納得と理解ができると思っています。

 

エッチな想像をして身体が反応する際もその裏にはこのような原理があると思われます。

 

男性の方の中には想像の中で女性に非道い事をして興奮するとう性癖がある方もいると思います。

 

そのような方は、実際に女性に非道い事をして興奮する事と同様な影響がご自身にあると理解されたほうが良いと思います。

 

キリスト教では「女性に想像の中で非道いことをするのは実際にそうすることと同じくらい罪深い」見たいな話がありますが、これはキリストが今回の記事で書いた内容のような事を理解していたからではないでしょうか。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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宇宙の中の原子

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は宇宙の成り立ちについての考察と言うか駄文です。

 

現代物理学の世界では、宇宙の始まりはビックバンと呼ばれる現象がありそれから物質(水素原子)が生まれて次々と新しい元素が誕生していったとか言われています。

 

そのビックバンが生じる前は宇宙には何もなかったとか、無の空間があったとからしいですね。

 

そこら辺はよく判っておらず今でも議論が尽きないとかなんとか。

 

ココらへんの話を、このブログが提唱している「存在質」という概念を使ってなんとか説明できないかなと思っています。

 

よくビックバンが起こる前には何もなかったとは言いますが、このブログの提唱する「存在質」という概念は「物性を持たないけど存在する」というモノです。

 

ビックバンは原子が産まれた切っ掛けですが、原子の材料は存在質なのでそもそも存在質がないと原子が産まれません。

 

ビックバンは原子の世界(物質宇宙)の始まりかもしれませんが、宇宙の始まりではないと思われます。

 

元々存在質が満ち満ちている宇宙があって、その非物質宇宙の中に何らかの切っ掛けで物質の宇宙が誕生したと言う話ではないでしょうか。

 

イメージとしては。

 

すんごいでっかい水が満杯のプールがあるとします。

 

ある時、そのプールの水を使って何らかの手段で氷を作ります。

 

氷の成分は元々は水ですが、水中に出来たの氷は浮くのでプールの氷はプールの水面近くに集まります。

 

そうやってプールの中に、水の層と氷の層ができます。

 

氷の層で産まれた生物は氷(固体)の身体を持ちます。

 

水の層で産まれた生物は水(液体)の身体を持ちます。

 

もちろん、プールの中で氷の層に近い水の層は氷の影響で底の方の水よりちょっと冷えています(固体に近い状態(液体の流動性が下がっている状態)になっています。)

 

もちろん氷は放っておけば水に溶けてしまうと思いますが、何らかの手段でプール内の熱エネルギーを底のほうが暖かく上の方を冷たくしてしまえばよいのです。

 

そのようなシステムを作ってしまえば、氷の身体を持つ生物と水の身体を持つ生物の世界は二つに別れます。

 

見たいな感じではないでしょうか。

 

ビックバンはプール(非物質宇宙)の誕生ではなく、プール(非物質宇宙)の中に氷の層(物質宇宙)を誕生させたのではないでしょうか。

 

また、プールの中の水はほっておけば永遠に水なのです。

 

エントロピー増大の法則のように、自然に氷が解けて水になることはあっても、水が自然に氷のなることは無いと思います。

 

つまり、原子の誕生(物質宇宙の誕生)は非常に自然法則に反していると思われます。

 

これは、言ってみれば自然法則に反しているのならそれは何らかの人為があったかもしれないということでもあります。

 

しかし、非物質宇宙にエントロピー増大の法則が在るかは分からないのでなんとも言えないですね。

 

もし非物質宇宙の法則に(というか量子的宇宙とか言っちゃって良いと思うので量子力学に)エントロピー増大の法則が本来的に存在するならば、物質宇宙の誕生は人為って言えるのではないでしょうか。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は久しぶりに物理学が絡んだ話になります。

 

ただ、私は物理学はちゃんと学んだことのないド素人ですので、考察の内容は(たとえそれが一部であっても)保証はできかねます。

 

また、存在質を量子って言っちゃていいのかと思いますが、量子は物理学の範疇の話で、存在質は完全に物性をもたない「ただ存在するという性質を持った何か」の話なので一応両者は区別しておきます。

 

では今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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目覚めたモノあるいは覚者と呼ばれる所以

こんにちは、toshoです。

 

最近求職活動中ですが、あまり無理ができない身体(体質的にストレス耐性が弱い、HSPで神経過敏気味なので無理な残業が続くと心身を壊しやすい、服薬中の薬の影響で睡眠不足が続くとこれまた心身を壊しやすい等)なので、やっぱりエンジニア派遣かな~とか思ってたりします。

 

今の時代ITエンジニアの求人倍率が4倍くらいなので、なんとか仕事にありつけそうですね。

 

正社員採用だと、無理な残業とか断れなくて体壊してしまいそうになるのが嫌なんですよね。

 

前の職場で働いて、この年になってやっと「自分は無理ができない体質なんだな」という事が分ったので、そういうことを考慮して働かなきゃイケないのは身にしみています。

 

さて、そんな私的事情はこのブログの読者さんには関係無いので置いておきます。

 

今回の記事は、一般に覚者や覚醒者や悟った人などと呼ばれている、歴史上の偉人あるいは無名だけれどもそのような呼び方で呼ばれる人たちについての考察です。

 

昔から、霊的に在るレベルに達した人たちのことを、「霊的に覚醒(かくせい)した」とか「霊的にあ目覚(めざ)めた」とか覚(かく)者とか呼ばれます。

 

それで、なぜそうした人たちがそのような呼ばれ方をするかということなのですが、それは「ある一定以上のドーパミンを脳内に放出している」人たちは「実際に、意識の明瞭さがそうでない人に比べて高い」からでしょう。

 

別の記事で書いていますがスピリチュアルでいう「波動が高い状態」というのは「脳内に多量のドーパミンを放出していて、心身のエネルギーレベルが高い状態」だと思われます。

 

霊的に覚醒した人たちは「波動が高い」とも表現されます。

 

そして、ドーパミンというホルモンには意識の覚醒作用があります。

 

実際に向精神薬を服用したことが在る人ならわかるとは思いますが、お薬の服用によって明確に意識の明瞭さや覚醒度に差が出ることがあります。

 

私なんかは、十年前から今でもリスパダールという非定型抗精神病薬を服用しています。これはドーパミンの放出量を抑制して、セロトニンの放出量を増やすお薬ですが、薬の服用量によって明確に意識に明瞭さや覚醒度に差が出ます。(これに関しては別の記事で書いていますが、toshoは医者から統合失調症の診断を受けています。あと、社交不安障害も。これに関しては色々言いたいことはありますが、「大丈夫です、寛解しています」と「精神医学界の闇というのは思っている以上に深いので、一度診断されて投薬治療を受けたら診断名覆すのも断薬するのもほぼ無理だと思ったほうが良いですよ」と「精神科医はハズレを引いたら悲惨です」とだけ書いておきます。自律神経失調症と最初に診断されたら、担当医師が交代していつの間にか統合失調症に診断名がすり替わっていたとか、たまたまリスパダールが社交不安障害に効く薬だったから症状が改善して診断名が固定されたとか、そもそも社交不安障害は10年近く診断ミスで無視されていたとか、社交不安障害がほぼ治った頃にはリスパダールを10年以上飲み続けていて今更断薬とか無理な感じなったとか、脳内ホルモンの自然の調節作用が弱くなっているから、本当に無理できない体になったとか、そういうクソな話はどうでもよいのです。あらくちがすべった)

 

まあ、私の私生活の与太話はともかく、簡単に言いますと「霊的覚醒者=波動が高い=脳内に多量のドーパミンが放出されている状態=(ドーパミンには意識の覚醒作用があるから)意識の覚醒度や明瞭さが高い=一般の人より意識明瞭で目が覚めている=霊的覚醒者に比べて一般の人は意識の覚醒度が低く寝ぼけている」ってな感じでしょう。

 

簡単に言うとそんな感じです。

 

古いスピリチュアル用語なんて、科学的に分析するとこんな感じなのです。

 

てーしたことがないのです。

 

いろんなところでよくわからない専門用語で煙に巻いてるのはこんなに単純な理屈だったからかもしれません。

 

人間なんて猿の延長線上の生物なのだから、大抵の事は生物的な基盤がベースになって成立しています。

 

スピリチュアルでは、そこら辺をぶっ飛ばして波動だのエネルギーだの言ってるからよくわからないし、色々な人に馬鹿らしく思われるのです。

 

また当たり前ですが、「霊的覚醒度=意識の明瞭度=ドーパミンの放出量」は高ければいいってもんじゃないです。

 

意識の明瞭度が高くなるってことはつまり無意識の領域が狭くなるといことです。

 

今まで無意識レベルで行っていた思考が顕在意識に現れるのですから、これはすげー気持ち悪い状態になりますよ、病気です。

 

人間はぼーっとしているときにも、脳は情報処理をしていて、例え脳内で有声化(声として頭のなかで聞こえる)されていなくても思考をしています。(デフォルトネットワークとかこのブログでも取り上げたことあります)

 

この有声化されていない思考はドーパミンが多量すぎるくらいに放出されてしまうと、有声化します。

 

このレベルになると統合失調症の意識障害と診断されるので、速攻お薬飲んで絶対安静状態になるのですが、いくら波動が高い=霊的に覚醒度が高い状態であれ人間として劇ヤバイです。

 

何事も程々が一番です。

 

なにもブッダやキリストを目指さなくても、人よりちょっとドーパミンが多く放出されている状態程度を目指すほうが、世間的にも本人的にも一番幸せな状態ではないでしょうか。

 

この「霊的に覚醒した状態=脳内ドーパミン量が多い」状態は上手く使いこなせれば色々人生が捗るのでしょうが、使いこなせないなら色々と世間からあぶれてしまうため、人によっては変にそういうのを目指さず地道に生きたほうが良いですね。

 

世にあるスピ情報をこのブログで紹介した情報を使って読み解いてみると、色々スピ系の見方が変わるかもですね。

 

いかかでしたでしょうか。

 

スピ系のテーマ以外の記事を上げると書いた直後にスピ系のネタになってしまいました。

 

でもよいですよね、一応内容は科学っぽいですし半分はtoshoの私生活の愚痴ですし(笑い)。

 

深夜に作業するのを好むクリエイターさんとかいますけれど、深夜帯は起きていると自然とドーパン量増えるから、インスピレーション湧きやすいのですよ。深夜の妙なテンションとも言いますが。(お薬事情から深夜残業が嫌な理由の一つです。)

 

また、お風呂なんかもリラックス時にはドーパミン量が多くなりますね、お風呂もインスピレーションやアイディアが湧きやすい場所ですよね。

 

無意識にしている思考は、ふっとドーパミン量が増えた瞬間有声化したり視覚的イメージとして出たりします。

 

半ば幻覚みたいなものですが、世間ではこのようなインスピレーションは幻覚とは言わないみたいですね。

 

まあよいですが。

 

ちょっと色々書きすぎました。

 

では、今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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ドーパミン、右脳、超越能力、シンクロニシティ

こんばんわ、toshoです。

 

今回の記事は、脳内神経物質であるドーパミンと右脳と超越能力の関係(ついでにシンクロニシティ)について考察します。

 

このブログで以前から述べていることですが、人間には脳→身体の経路であるトップダウン処理と身体→脳の経路であるボトムアップ処理があるという仮説を提唱しています。

 

また、右脳にはドーパミン神経回路があるという考察もしています。

 

そして、人間は右脳にあるドーパミン神経回路を用いて、肉体対して強く影響を及ぼして肉体資源を活用する能力が元来備わっている様に思えます。

 

統合失調症などの精神病を患った人は、脳内のホルモンパランスが崩れて多量のドーパミンがされることにより、脳のトップダウン処理により感覚器に対する出力が行われて幻覚や妄想が生じると考えられます。

 

その状態において、感覚器に対する出力ではなく筋肉や内蔵などの肉体資源に対して強力な出力がある場合に強力な身体的能力やスタミナを利用できる場合があると思います。

 

また、右脳には自己啓発・スピリチュアル・脳科学業界では伝統的に、広大なスペックが存在していると言われています。

 

情報の大量処理能力、ビジュアル(視覚)に関する大きな能力、模倣や共感能力、想像力や創造力、インスピレーション、ESP・霊能力など関連していると言われています。

 

しかし、最近の脳の研究では、右脳と左脳には大きな構造上の違いは存在しないとも言われています。

 

このブログでは、大脳の右脳側にはドーパミン神経回路、左脳側にはセロトニン神経回路があると考えています。

 

そのために、右脳に広大なスペックが存在していると考えるのは、ドーパミン神経回路とセロトニン神経回路の役割の違いから生じていると考えます。

 

大脳の右脳側に大きく存在していると考えられるドーパミン神経回路を鍛え、発達させることが、人間の脳力や肉体資源の活用に重大に関わってくるのではないでしょうか。

 

統合失調症などの精神病で幻覚を生じさせるのは、脳内ホルモンのバランスが乱れている時に多量のドーパミンが感覚器に出力して様々な奇天烈な感覚が再現されているからだと考えれるならば、感覚器以外にも脳や筋肉や内臓などの様々な能力をボトムアップ処理ではないやり方で利用・使用できるのはないでしょうか。

 

想像力や創造力、インスピレーション、ESP・霊能力などはこのブログで提唱している人間の「同調・模倣・共感」能力を引き出したものであり、ビジュアル(視覚)に関する大きな能力は視覚に対する強い出力によるものであり、情報の大量処理能力はそもそもの脳全体の能力の底上げでありあるいはまだ発見されていない脳機能を利用したものかもしれません。

 

また、ドーパミンは多量に発生している最中は、あらゆる感覚・感情の反応が強化されます。

 

普段の状態で少し悲しいなと思うような映画は、ドーパミンが多量に発生している最中に見ると驚くほど悲しく感じることでしょう。(同じ映画を映画館で見るのとDVDでみるのでは結構違いますよね。映画館の様な環境はドーパミンを多量に放出する効果があります。それのすごい版です。)

 

もちろん怒りなどの感情も強化されるので注意が必要です

 

また、色々な感覚が強化される中で、匂いや音に対して鋭敏になりすぎてしまう事があるかもしれません。(感覚というのは、常にボトムアップ処理と同時にトップダウン処理によるフィードバックを受けています。このフィードバックが強力になればより強く感覚を感じるようになります)

 

さらに、ドーパミンが多量に発生している時は肉体のエネルギーレベルも高まりますので、睡眠時間が短くなります。場合によっては、時間の感覚が奇妙なものになります(これは、そもそも時間というものが相対的なモノのためです。肉体のエネルギーレベルが高くなるというのは主観的な時間が遅くなるのでいつもより時間の経過(時計の針が進む事)が速く感じれるようになります。)

 

また、あまり今回の記事に関しては適切ではないかもしれませんが、ドーパミンが多量に発生して右脳の機能が活性化すれば、人間の意識下のグローバル通信機能が活性化していわゆる「シンクロニシティ」を多く経験することになるかもしれません。(そもそも、スピリチュアルで言われるいわゆる「シンクロニシティ」は意識下で行われている人間の「同調・模倣・共感」機能(無意識のグローバル通信)が強化されることで、無意識的に他者の言動に対して上手く同調して色々な事が噛み合う事によって生じると考えられます。睡眠中などは脳内に多量のドーパミンが放出され無意識のグローバル通信が活発化すると考えられます)

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

このブログで提唱している仮説を元に色々とドーパミンや右脳に関して考察してみました。

 

すでにお気づきの方も沢山いらっしゃるようですが、色々と内容がスピリチュアルの界隈で言われている事とかぶっていると思います。

 

あちらの業界では、いつも波動やら何やらよくわからない表現が多いですが、認知科学や心理学などの科学ベースで考えれば、こんなにスッキリと色々な事が説明できます。

 

おそらくですが、あちらの業界では「ドーパミンが多量に放出されて、エネルギーレベルが高い状態」を「波動が高い」と表現されていますね。

 

そう考えれば色々と共通するモノが見えてきます。

 

スピリチュアル界隈はおもしろい発見が多いですが、言ったもの勝ちで混沌としているので色々と疲れますね。

 

そろそろ全体的に科学ベースになってくれればおもしろいのにと思います。

 

まあ、私が提唱している統合科学も、トンデモや疑似科学やスピリチュアル扱いになるとは思いますが。

 

本日の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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古代からの智慧は現代語翻訳しよう

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、現代以前に発達した理論体系、気功等への現代でのアプローチの仕方についてです。

 

東洋医学には「気血」という概念があります。

 

私も詳しく走りませんが、身体の中をぐるぐると周りめぐる「血」以外にも「気」というのが身体を巡り巡っていて、人間の動かすのに重要なものとして考えられているということらしいです。

 

私は中学生の頃に気功や東洋医学を知って、「気血」という概念を知ったのですが当時はよくわからない見えないエネルギーが体の中を巡っているのかなという程度の理解でした。

 

しかし、現在ではそうは思わず、「気血」の気の事は「目に見えない、微小なホルモンや赤血球や白血球などの血液を媒介にして身体の各臓器に影響を与える物質」のことだと解釈しています。

 

当たり前ですが、気功や東洋医学が発達した時代には、顕微鏡もなく化学も発展していませんでした。

 

そういった時代に、人間の身体を修練により鍛え探求していた人たちにとっては、体感的にホルモンや赤血球などの存在を感じることが出来ても、それらは「目に見えない程微小」であったために「目に見えない何かがある」と感じ、また解剖学や生理学などが発達していない「ホルモン」や「細胞」という言葉は使えず(まあ、当たり前ですが)、当時の人たちはは一概にして「気」と表現したのではないでしょうか。

 

現在でも東洋医学では、気血の事を「よくわからない科学的ではない概念」として扱ったりしていますが、当時の人達が「気」として表現した何かは「現代に生きる私たちにとっては馴染みであり、すでに別の言葉で表現されている」のでないでしょうか。

 

「万物は陰陽の気によって出来ているらしい」ですが、万物が気だったらもちろん、ホルモンや体の中の小さな微小細胞も気でしょう。

 

それぐらい大雑把な表現なのです。

 

このように、古代から続く理論体系で語られている物は、現代において日本語として表現されていても半ば外国語のようなもので、それらの言葉で語られている何かは適切に現代語によって表現し直して見る必要があると思います。

 

「気血」と聞けば少し怪しいなと感じる人が多いかもしれませんが、気功の理論体系が発展した当時の文化と科学レベルを考えれば、現代の言葉を使えばもって適切に表現できるものなのかもしれないと考えるのがベターなのではないでしょうか。

 

単に「言葉の問題」の可能性があると思います。

 

「言葉の問題」は結構根が深いものなので、色々な分野で気をつけてみる必要があるように思います。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は、気功や東洋医学の「気血」についての考察から色々考えていたものになります。

 

結構この「現代語訳する」というのは重要でして、非科学分野の領域の知識を得ようとする時には理解の壁になっていたりするので、皆様の気にしながら知識の収集をしたほうが良いと思います。

 

特にそのような本は、「感覚派」の人間が書いている場合が多いので色々な考慮が成されていない場合が多いです。

 

読む側にリテラシーがないと変な所に迷い込む危険性が大いにあります。気をつけましょう。

 

私も感覚派なところがありますので、色々と気をつけながら(具体的には、色々な事を省略せず書く、できるだけ具体的詳細に平易な表現で書くということを気をつけています)記事を書いています。

 

今回の記事も決して鵜呑みにはせずに、考える種にでもしていただければ幸いです。

 

 


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感情、感情、感情!。感情、この劇物よ。

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事のタイトルはちょっと劇のタイトル風にしてみました。

 

テーマは「感情」についてです。

 

感情というのは非常に厄介な面がありまして、自分自身で自分の感情をコントロールできる人はそんなに多くなく、多くの人は「怒り」や「嫉妬」あるいは「やる気」や「喜び」などの不随意に生じる感情に振り回されているかもしれません。

 

怒りっぽい人が居るとして、本人が毎度毎度怒りたいから怒ると言うのは稀でしょう。

 

多くの場合は、「何故か」特定の状況において「勝手に怒りが湧いてくる」ものです。

 

その原因は、その人の持つ観念や信念において怒る理由が存在しているから起こってしまうのですが、自覚的に自分が怒る理由を内省出来ない場合が多くあると思います。

 

まあ、それは置いておいて。

 

今回のテーマは感情ですが、感情の持つ観念や信念のような心理的問題は扱いません。

 

感情の持つ、エネルギー的側面、生物学的側面を扱います。

 

感情というのは上記のような不随意に発生するものですが、これは大きなエネルギーを持っています。

 

それは何故かと言うと、感情が発生する場合には当たり前にそれに値する脳内の生化学的あ反応が発生しているからです。

 

この生化学的反応とは、神経の発火やホルモンの産出のことです。

 

すなわち、感情とは単なる精神的なものではなく、物理的生理的なものだということです。

 

古代から続く生物が生きる為に存在する非常にダイナミックな仕組みなのです。

 

例えばですが、鹿などの野生動物が、敵対する肉食獣に遭遇した時にどのような反応が起きるというと、「闘争か逃走か」と認知科学で呼ばれるような生理状態が発生します。

 

興奮状態になって戦うか、恐慌状態になって逃げるか、です。

 

この状態になると、鹿は体内の生理反応により、ドラクエで言うような「状態異常」が発生します。

 

恐慌状態になる場合は、体内(あるいは脳内において)発生した状態異常から逃げるために、鹿は遠くまで全力で逃げるのです。

 

決して、敵対する肉食獣から逃げているのではないです。

 

肉食獣に接近する事で生じる体内の状態異常が嫌で嫌で仕方がないから、その状態異常が発生しない場所(肉食獣から遠い安全な場所)へ逃げるのです。

 

つまり、体内に生じた状態異常から逃げるようで、状態異常に導かれて居るのです。

 

そして、感情というのは強大なエネルギーを生み出します。

 

恐慌状態によって生産されたホルモンは、内臓に働きかけ体内から多量のエネルギーを取り出し、また脳内においては下位脳にはたらきかけて、潜在意識の力(つまり、肉体のOS:オペレーティングシステムの力)を使って身体を動かします。

 

このような状態になることによって、主体意識の力を用いずに、潜在意識(肉体のOS)の力と体内のエネルギー資源の力を存分に引き出せるのです。

 

話は変ります。

 

上記のように、感情というのは不随意に発生され、物理的生理的な反応を伴い、肉体から多量のエネルギーを引き出し、潜在意識(肉体のOS)に働きかけ、肉体を大きく動かします。

 

このような強大な力を持つ「感情」ですが、多くの現代人はその有用な力を上手く扱えていません。

 

それは何故かと言うと、「感情の扱い方・使い方」を単に教えられていないからです。

 

感情は大きな力そしてエネルギーを生み出します。

 

それ故に、今までの社会では感情が暴走しない様に御する方法はある程度教えています。

 

宗教などでは、感情を清らかに保つ、悪感情に飲み込まれない様に修練するなどを教えています。

 

しかし、それは、感情の持つ大きな力を扱うための一側面でしかありません。

 

感情の持つ大きな力を利用するのは、すなわち「想像力(イマジネーション)」と「現実感(リアリティ)」を知らねばなりません。

 

想像力とは、すなわち「身体の内に具体詳細な感覚情報を「随意に」再現する力」のことです。

 

そして、その想像力に現実感(リアリティ)が伴う時に、感情が動いて物理的生理的反応が起きるのです。

 

つまり、強大な感情の力を「随意に・意のままに」利用するために、想像力を用いることが必要なのです。

 

例えばですが、昔石油危機があった時に、不確かな情報から多くの人がトイレットペーパーを買い占めて、店頭からトイレットペーパーが消えたという話を学生の頃に聞いたことがあります。

 

そのような状況がなぜ起こった方というと、それは不確かな情報を聞いている内に、想像力を発揮して、トイレットペーパーがなくなってしまうと言う状況をありありと想像してしまったからでしょう。

 

そして、自らの想像に現実感を感じて、実際に感情が動いてしまったのです。

 

感情が動いてしまえば、生理的な反応から身体が反応・動いてしまいます。

 

そうなってしまえば、その「恐怖や不安」等の感情が消失するための行動を実際に取れてしまうでしょう。

 

例えば、長い行列ができているラーメン屋に2時間並んでもラーメンを食べたがる人が日本には大勢居ます。

 

それは、正直私は行列が出来ている〇〇屋に並ぶという行為は心底苦手で、ああいった所に並びたいと思いません。

 

しかし、私の兄などはそのような行列にも平気でならんで美味しいモノを食べに行く性格をしています。

 

そのような人は、うまそうなラーメンという想像をすることによって、行列に並ぶという心理的抵抗を減じているのかもしれません。

 

雑誌で見たか、匂いを嗅いだか知りませんが、そのような想像をする事によって、うまそうなラーメンに心の中でよだれを垂らして、実際に唾液も出るし、胃腸は動くし、ラーメンの味を想像の中で先取りして味わうことによって、多少の空腹をごまかしつつ、実際に味覚に想像のラーメンの味を再現しているのでしょう。

 

そのような状態に有れば、2時間位なら待てるかもしれないし、すでに何度か味わっている店なら、想像の中で美味しいラーメンを味いながら待っているのかもしれないです。

 

このように、想像力を使えば、感情の力を使って色々と、普段ならめんどくさがってやらないことも安々とできるようになるかもしれません。

 

つまり、意識的に難しい・面倒くさいと思っていることも、想像力を使って感情の力を動かしてやれば少ない努力で行うことも十分に可能ということです。

 

また、この想像力を喚起して感情を揺らして相手の行動をコントロールするという、マインドコントロールを行うことも出来ます。

 

皆さんも、子供や後輩や部下の指導をするときには、相手の感情に働きかけるというのは当たり前にやっていると思います。

 

出版や放送では、お客さんの感情を煽る様なやり方が好まれます。

 

よく「感動を届ける」という様な言い方がされますが、感動つなわち「感情が動くこと」を目的とするのは、人は感情が動いてしまえばそれを無視できないからでしょう。

 

例えそれが虚構の世界であれど、人間は感情が動いてしまえば現実感を感じて無視できないようになりますし、潜在意識にも強く影響を受けてしまいます。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

このような話はブログ初期にNLPや認知科学を扱っていた時に取り上げていたのですが、最近ではめっぽうそういう記事を書かなくなっていました。

 

最近はスピ系の記事もお腹いっぱいになってきたので、もっと色々なテーマで記事を書いていきたいと思っています。

 

人は、感情が動かない物事については、結構ぞんざいに、いい加減に、適当に扱います。

 

しかし、感情が動いて無視できないことについては、真剣に語り合ったり、エネルギーを注ぎ込んだり、実際に行動したりします。

 

それがどのような感情かというのもありますが、人間が普段生活してかかずらう多くの物事人とは、感情的なつながりを持つものです。

 

感情というものについて無知であれば、人間の力の70%(適当です)について無知であるといえるかもしれません。

 

また、重要なことなのでもう一度書きますが、「リアリティがある想像には、生理的に身体が反応します」というか「生理的な反応が喚起されるような想像を、リアリティがある想像と言う」のです。

 

そして、いくらどんなに強いリアリティが在ったとしても、想像は想像でしか無いと言うことは非常に重要で忘れてはいけないと思います。

 

今回の記事は結構長くなってしまいました。

 

文章構成がちょっと崩れているところがありますが、ご容赦を。

 

今回の記事も読者様の人生の為に有効に活用してくだされば幸いです。

 

もちろん、鵜呑みにせず。

 

小さな事で、「想像力による感情の引き出しテクニック」を試して、実際にどのような物かを確認して見ることお勧めします。

 

ではでは~。

 

 


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ワクワクを追えば右脳能力の開発が進む

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、波動を上げる事と右脳能力の開発に関してです。

 

スピ系の世界では、「ワクワクすることを、情熱をもって行う」事が全般的に推奨されています。

 

曰く、「それが波動を上げるのに一番」「人生をうまくさせる最高のツール」等と言われています。

 

これってなんでそう言われるかについて、私の知りうる知識で説明してみたいと思います。

 

このブログで相当昔の記事で説明したことが在るのですが、右脳と言うのは「快の感情」により上手く機能するのです。

 

「楽しい」とか「嬉しい」とか「幸せだな」とか、そういう感情状態にある場合に右脳はよく働いてくれます。

 

逆に言えば、「不快」だとか「つまらない」だとか「憎しみ」「嫌悪」「怒り」のような感情状態にある場合、右脳の機能はそこまでちゃんと働いてくれないのです。

 

そして、右脳の前頭葉にはドーパミン神経回路が備わっているとこのブログでは考えており、ドーパミンないし興奮性神経伝達物質は、人間の持つ潜在能力を引き出し開発するのにとても重要な役割を持っているとも考えています。

 

そして、そもそもワクワクしている事に情熱を持って取り組んでいる時には、人は脳内で多分にドーパミンを多量発生させているときでもあります。(それが出すぎて自力では止められなくなると病気とみなされるようになったりしますよね)

 

なので、「快の感情」にある時に(右脳がよく働いてくれる時に)、ワクワクすることを情熱を持って(ドーパミンを多量に発生させて)行うと、「右脳が開発されて」「潜在能力が開発されて」「(波動が上がって)エネルギーレベルも上がる」という事が起きます。

 

また、右脳が開発されると「人間の潜在的な能力を引き出せるようになったり、開発できたり」「通常の人間を超越した感覚(ESPや霊能力)に目覚めたり」「思い込みを外して色々頑張るので、天才的な能力を結果的に獲得したり」します。

 

また、「ESPや霊能力」を獲得できれば、「論理的思考や学校など人から教えられた知識を超えて、物事を知覚するようになるので、人の嘘や誤魔化しを見抜けたりするようになります」。

 

もちろん、右脳能力の開発が進み始める頃に「ちょっと不安定で危ない時期」というのが在るので、このタイミングで「ヤバイ方向」「行っちゃまずい方向」に傾いていく人もいます。

 

そのような人たちを、「魔境に落ちる」とか「フォースのダークサイドに堕ちる」とか「魔人化」とか「魔の領域に堕ちる」とか「人として道を踏み外す」とか言ったりします。

 

そして、「そもそも人間はワクワクして楽しいことに熱中して、人生を楽しく生きてれば自動的に波動が上がって(エネルギーレベルが上がって)、右脳能力が開発されてESPや霊能力に目覚めていくような仕組みに出来ている(デザインされている)」といえます。

 

なので、社会の管理者たちはそれを避けるため(なぜなら、嘘や誤魔化しやマインドコントロールが通用しなくなるから)に「規則や規律でがんじがらめで競争過多なストレス社会を作って人々の右脳能力や潜在能力が開発されない方向に持っていっている」のかもしれません。(これに関しては、あまり確証はないです。広く世の中を観察して、情報と金の流れと、社会構造と近代以降の歴史を観察・分析すると、もしかしたら・そうであってもおかしくないというレベルで感じています)

 

もちろん、右脳能力だけとても高くて、自己抑制や自己コントロール能力や優しさや愛情、慈悲心や忍耐力に欠けるような人間もいらっしゃるので、言葉通りの意味で「楽しいことだけやっていれば良い」というわけでもないと思います

 

個々人によって、どんなことがその人と周りにとってより良い成長につながるかと言うのは、全然違いますのでなんとも言えないですね。

 

 

如何でしたでしょうか。

 

まあ、とりえあず「ワクワクを追えば右脳能力の開発が進む」というのは以上のように説明できるのではないでしょうか。

 

「ワクワクする事を情熱を持って行う事」と「右脳能力の開発」と「波動が上がる(エネルギーレベルが上がる)事」と「ESPや霊能力の開発」は結構連動しています。

 

スピ系で言われるキャッチーなフレーズを、もう少し具体的な言葉で詳しく説明できるようになると、人類の科学もより進んでいけるのではないでしょうか。

 

今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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「全ては波動」「思考は波動」に関してのあれやこれ

こんにちは、toshoです。

 

久しぶりのブログ記事の更新です。

 

今回の記事内容はスピ系メッセージの中でひときわ目立つ「全ては波動」という言葉に関してのあれやこれです。

 

「全ては波動」という言葉はいろんなチャネラー・霊能者がおっしゃっている言葉ですが、私はあまり好きではありません。

 

なぜなら、大きな誤解を生む可能性があるからです。

 

「全ては波動」という事が真実なら、私もあなたもあなたの恋人も、髪の毛もサッカーボールも頭の中の思考も、抽象概念も、言葉も文字も犬のウンコも、子どもの頃やった変な遊びも、その全ての物事が波動であるということになります。

 

痛みや病気や恋心も全て波動です。

 

この言葉を聞いた時に多くの人の中では、「全ては「単なる」波動だったんだぁ」と物事の矮小化が生じる可能性が高いからです。

 

政治もサッカーボールも、犬のうんこも、病気や痛みや恋心さえも「それは単なる波動でしかないんだなぁ」という変な思い込みが生じるからです。

 

病気が生じた時に、「病気は単なる波動、病気は単なる波動。だから〇〇○」みたいな思考をしたり。

 

政治に関しても「政治も単なる波動なのだから、波動でなんとかなる、なるはず」とか思ったり。

 

そういうしょうもないことが起きることがありうるからです。

 

「全ては波動」という言葉を聞いた時、受けての中に「全ては単なる波動」というミスリードが起きる可能性があるから嫌なのです。

 

なので、私は「全ては波動」という言葉を聞いた時には意図的に「全ては波動の性質を持つ」と軽く言い換えています。

 

政治もサッカーボールも犬のウンコも、恋心も「単なる波動」ではなく、「波動の性質を持つ物」として観てあげれば上記の様な変な思考は起きないからです。

 

病気に関しても、「既存の病気や人体に関する知識」にプラスして「波動の性質を持つもの」としての視点から観られるので変に西洋医学を否定してヒーリングに頼り切りになったりしないと思いますし。

 

政治に関しても、既存の政治学や積み重ねてきた体験や知識に加えて「波動の性質を持つ」という観点から見るので、「スピリチュアル馬鹿な発言」というのをしなくなるのでないのでしょうか。(これに関しては、スピリチュアルで言われていることを鵜呑みし続けると発症する可能性がある結構重篤な症状なので、私も常々気を付けています)

 

また、「波動の性質」とはつまり「波の性質」の事です。

 

与えるものを受け取るとか言われるのも、「受信と発信の仕組み」や「波形の同調現象」とかが根本にありますし。

 

波には寄せては返すというような「リズム」「振幅」があることもご承知だと思います。

 

後は、逆位相の波は互いの波長を打ち消すとか。

 

また、波の性質の発現率とかも重要ですね、光とか電波より、サッカーボールやトンカチは波の性質が弱い、つまりより物質的(粒子のように振る舞う)だとか。

 

「すべては波動」という言葉は「全ては波動の性質を持つ」とでも言い換えてみるとそんな変な話ではありません。

 

このブログが散々提唱している「存在質」は「ただ在るという性質をもった何か」ですし。

 

物質は「存在質が物の性質を獲得したもの」としてみることが出来るし。

 

生物は「物質が細胞の性質を獲得したもの」としてみることが出来るます。

 

このように物事は、基本となる性質を持つ何かがあり、それが組み合わさったり構造を変えたりして、新たな性質を創発・獲得していき発展・成長・進化していくと考えられます。

 

なので、全ての物事には当たり前ですが、存在質の「存在する」という性質が在るように、その一つ上位の性質である、「物性―エネルギー性」がそもそも存在しているといえるのではないでしょうか。

 

サッカーボールだって、マクロにフォーカスしたら波の性質が在るように見えなくても、サッカーボールを構成するミクロの粒子にフォーカスしたら波の性質が在るのだから、「波動の性質がある」ということが出来ます。

 

政治だって、結局は人間が行うものなのだから政治を概念や形態的なシステムとして見たとしても、人間の思考や行動に波動の性質があるのだから「波動の性質を持つ」と言ってしまえるでしょう。

 

そのような見方をしたほうが良いのではないでしょうか。

 

 

 

また別の話ですが、「全ては波動」ならばすべての物事は「波動パターン」つまり波形で記述する事ができるということになるのではないでしょうか。

 

でも、サッカーボールを波形として記述しろ、と言ってもちょっとむずかしそうですね。

 

でも、思考や行動を波形として記述するのは意外と出来るかもしれません。

 

思考には思考パターンと言うものがありますし、行動には行動パターンと言うものがあります。

 

思考パターンをある種の波形として捉えるならば、寝起き直後の何も考えられないぼーっとしている時を原点として、時間軸にそって様々な所に思考が飛んでいってまたボーッとしたりして最後には寝て原点に戻るという様なパターンが見られるかもしれません。

 

また、行動パターンも家や自室を原点として時間軸に沿って学校行ったり仕事行ったり遊んだりして、また家や自室に戻ってくるのも波形として記述する事が可能かもしれません。

 

これを考えると、思考や行動も一種の波動ということになるのでしょうか。

 

例えば、思考パターンが近い人同士は、思考の波動が近いということで似たような人かもしれませんし、趣味も近いかもしれません。

 

行動パターンが近い人は、実際に同じお店や職場に集まって、ニアミスしたり知り合いになったりするかもしれませんね。

 

これは思考パターンや行動パターンが似ている部分が多い(波形が重なる部分が多い)人ほど、仲良くなったり居心地が良かったり、実際に出会うということかもしれないですね。

 

また、思考パターンが変われば、自ずと行動パターンも変わってきますので、「思考が先、現実が後」というのは「思考パターンが変わったら、行動パターンが変わるし、行動パターンが変わったら、遭遇する出来事や出会う人や、周りからのリアクションも自然に変わってくるよ」ということだったり、「思考パターンが変わっていないのに、行動パターンが変わるわきゃないでしょ」ということなのかもしれません。

 

思考パターンの延長線上に行動パターンがあると思うので、「思考は波動」で「思考が現実を創造する」というのはこういうことなのかもしれません。

 

 

例えば、思考パターンや行動パターンを経済的に成功している人の真似をするとか。

 

仕事のできる先輩の、口癖や仕事の手順を真似てみるとか。

 

舞台で歴史上に偉人を演じることになったから、偉人の手記や作品を学んで偉人の思考パターンを再現してみたり、偉人の住んでいた町並みの資料を読んで偉人の行動パターンを想像してみたりとか。

 

チャネリングで宇宙人の考えていることに同調して、脳内で模倣して、再現してみたり。(これはこのブログが提唱している、脳の同調・模倣・共感能力ですね)

 

そういった事は、波動の模倣であります。

 

それが第三者からは技を盗んでいるように見えたり、どっかから技術や知識をダウンロードしているように見えたりするのかも知れません。

 

例えば、ダイエットを成功させたかったら、自分の思考パターンや行動パターンをスマートな人のそれに近づけなさい、真似なさいなんて言葉もありますし。

 

行動パターンが重なると言うことは、一緒に行動したり、同じテレビ番組見たり、同じようなものを食べたりするので、夫婦や恋人や友人がだんだん似てくるというのはそういうことだったりするのかもしれません。

 

また、すくなくとも、行動パターンが重なるところがない人とは、友人はおろか知り合いにもなれないっぽいなとか思います(だって、出会わないのだし)。

 

土地柄とか県民性とか国民性とかも、思考パターンを形成するので一種の波動になるのかもしれません。

 

英語使っている時の自分と日本語使っている時の自分は結構、思考パターンが違うのでどんな言語を母国語とするかで思考パターンや波動が変わってくるのかもしれませんね。

 

また、どのような情報媒体を好むかによっても、思考パターンに影響があるので、ツイッター民とかフェイスブック民とかインスタグラム民とか新聞オンリーな人とか、テレビばかり見ている人とか、色々と思考パターン、行動パターン、波動パターンが変わっていくのかもしれません。

 

どのような本を読むかもでも思考パターンは変わってくるので、言論統制・情報統制・マスメディア統制で国民の行動パターンとか波動パターンとか操れちゃうなとか思います。

 

禁書指定・有害図書指定・検閲が恐ろしいのがそのためですね。

 

見聞きする情報・触れ合う人の思考パターンを無意識に模倣したりそれが、行動パターンを形作るので危ない事も起きたりします。

 

スピ本ばっかり読んでいると、スピ系の信念体系に取り込まれかねません。

そうならないために、日常生活はしっかり地に足つけて生きましょう。

 

学歴良い人は、学校で習ったことをベースに世の中をみるようになるので特別な何かがない限り既存パラダイムを否定する事はないかもしれません。

 

何かを学ぶということは、その理論体系・信念体系を自身の中に取り込んで一部とすることだから、上意下達で指導される様な学び舎や師弟関係というのはかなーり注意が必要です。グルイズムとかホント危険です。

 

子どもの成長とは、まず周囲の人間の思考パターンの模倣から始めるので、その時点で破壊的な思考をする人間の思考パターンを模倣してしまうと大人になっても延々苦労するということ。(心理的問題の世代間連鎖とか、結構苦労させられます)

 

一度身につけた思考パターンや行動パターンを自発的な変えるのは、ちょっと難しいので時には自分の外の力を借りるのもいいでしょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

久しぶりの記事だったので、いろいろとだらだら書いてしまいました。

 

もしかしたら記事を二つに分けた方が良かったかもしれませんね。

 

結局何が書きたかったのかを簡潔にまとめると、

 

・「全ては波動」というより「全ては波動の性質を持つ」

 

・「思考は波動」は「思考は波動の性質を持つ」

 

・「思考は先、現実は後」は「思考パターンが行動パターンを作る」+「思考パターンが変われば、行動パターンが変わる。現実は行動パターンが変わった結果変わる」

 

・「思考パターンは模倣が可能」でも「思考パターンの模倣には注意が必要」

 

くらいなものですかね。

 

今回の記事もtoshoがいろいろ考察した結果に過ぎないので、あまり鵜呑みにしないでくださいね。

 

また、私の基本スタンスは、スピ系のメッセージは断定系でキャッチーな内容が多いが、あまり大げさに捉えすぎないようにする、です。

 

たとえば、そういう言葉があったとしたら、そのまま受け取るのではなく。

 

「ふむ、全ては波動。ということはつまり?」

 

「思考は波動ですか。結局それって?」

 

一拍おいて、真意を測るというようにしています。

 

普段のマスメディアの報道と一緒で、「キャッチーな言葉・フレーズ」ほど意識的に注意して見ることが大事ですからね。

 

そういう時はただ疑ってかかるというよりは、常に言葉の奥にある意図・真意を推し量るようにしています。

 

このブログでも「存在質」という珍しい言葉を使っていますが、なにかしら新しい言葉もしくはキャッチーな言葉やフレーズが出てきたときには、メッセージ発信者の意図や真意が隠れて覆い隠されている事が多いとおもいます。

 

ちなみに存在質という言葉は、「なんかかっこいい。物質という言葉との対比。科学的な用語っぽくなるように意識している」ので使っています。

 

とくに重要な意味は無いので、このブログを読んでいる方が心の中で別の言葉に言い換えていたとしても特に問題ないですね。

 

それでは、今回の記事は以上になります。

 

ではでは~。

 

 


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死ぬことと、逃げることは似て非なるものなり。死ぬな、逃げよ。

こんにちわ、toshoです。

 

今回の記事は、自殺に関してです。

 

簡潔に書きます。

 

辛いことがあっても、「死にたい」などと呟いてはいけません。

 

そういう時に呟くならば、「逃げたい」と呟いてください。

 

辛い状況からの究極の逃避には確かに「死ぬ」ということを連想することがある方は居るかと思いますが、そんな状況でもその方の心情としては根本的には「死にたい」のではなく「(辛い現実から)逃げたい」のです。

 

本来なら「逃げたい」だけなのに、そんな状況になる度に「死にたい」という間違った言葉を呟いていれば、認知が歪む「負のアファメーション」になってしまいます。

 

最悪、自殺衝動が出たり、うつ症状が出てしまいます。

 

しかし、「逃げたい」と呟いて、自分に(潜在意識にも)死にたいのではなく辛い現実から逃げ出したいだけということを認識にさせていれば「どう逃げるか」や「逃げられないならどう戦うか」などの思考をする事ができます。

 

潜在意識の中で「死にたい」という気持ちが自動化されて、ふとした瞬間に暴走してしまうことなど起こりようもありません。

 

言葉には気をつけましょう。

 

そのような間違った言葉の使い方をしていると、よろしくない方向にに自分も潜在意識も動いてしまうので、言葉の使い方の問題を軽視してはイケません。

 

自己否定を習慣化すると碌なことにならんのですよ。

 

すでに「死にたい」という言葉をくせにしてしまっている方は、呟いてしてしまったら「間違えた。逃げたいだけさ。生きる!」とでもつぶやき直してください。

 

間違った言葉の使い方を放置してはいけませんよ。

 

 

今回の記事は以上になります。

 

この記事を読んだ方の中には、安易に「逃げたい」という気持ちを増長させてよいのかと思う方がいらっしゃるかもしれません。

 

そのような方には「死にたい」という気持ちを増長させるよりだいぶマシです、とでもあらかじめ答えておきます。

 

他の記事と同じように鵜呑みにせず、自分でものを考えるために種にでもしてくれれば幸いです。

 

 


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高次存在からのメッセージ?スピブログ?鵜呑みにしてはあかんよ?

こんにちは、toshoです。

 

今回の記事は、巷でよくある高次存在や守護霊、天使からのメッセージ・スピブログについての諸注意です。

 

高次存在なども結局は一個人にすぎません。

 

あらゆるメッセージは絶対の真理ではなくその存在個人の見解・知見・経験に基づいている事にを意識してください。

 

個人の性格・趣味・嗜好・ポリシー・地球人類に対する態度・どうようなやり方で霊的覚醒を促すか・得意分野・知っていること・知らないこと・役割・長所・短所は一人ひとり全然違います。

 

また、所属する集団によって、どのような事を正しい事としているかは違います。

 

学者の中でもAという学派で正しいとされていることと、Bという学派で正しいとされていることは異なったりします。

 

どちらが正しいかそれともどちらも正しくないのかは分かる人には分かるのかもしれませんが、その判断はなかなかに難しいと言えるでしょう。

 

同じことが高次存在等のの所属する集団にも当てはめられます。

 

結局はどのような存在・集団も本当に存在の真理を余すこと無く理解していることはないということです。

 

我々人類よりいくらか進んだ感性と知識・技術・文化をもっているのでしょうが、高次の世界でも集団や個人の発展・進歩は日進月歩であり、全ての存在は未だプロセスの中にいるということを従順承知しておく必要があります。

 

立ち位置としては、我々人類の知的生命体としての先達・先輩のようなものです。

 

地球人類は田舎小学校に通う小学生、高次存在は遠い外国の大学院生でちょっと特殊なやり方で文通しているというようなイメージが近いかもしれません。

 

そして、どうのような存在もその存在の生物の延長線上の価値観・倫理観・道徳・文化をもちます。

 

これは、我々人間の価値観・倫理観・道徳・文化は我々人間の生物学的基盤が合ってこそ形成されているということでもあります。

 

当たり前ですが、高次存在が我々人類と異なる生物種であれば、異なる生物学的基盤とその延長線上の価値観・倫理観・道徳・文化を持つということです。

 

もちろん、我々人類と比較的に近い生物種である高次存在ならば比較的容易に人類の価値観・倫理観・道徳・文化を理解してもらえるかもしれません。

 

しかし、生物種としてかけ離れている高次存在ならば、それはかなり難しいと思います。

 

これは、猫と犬が異なる生物学的基盤と習性を持ち、異なる社会形態を持つことから分かるように、我々猿人の延長線上にある知的生命体と、そうではない生物(例えば鳥とか魚)の延長線上にある知的生命体では生物学的基盤と習性はかなり異なるものになるということです。

 

日本人とアメリカ人は遺伝的にも社会環境的にも異なり、本当に相互理解をしようとしたらけっこう大変です。

 

これと同じことが、もっと強大におこるのです。

 

高次存在ではないですが、いわゆる霊的に覚醒しかけている人たちの中でも、その人がどのようなな魂の系譜を辿って霊的に覚醒したかによって、趣味・嗜好・性格・霊的な助言の内容と方向性は結構異なります。

 

これは、霊的覚醒はどのような趣味嗜好の人であれ、ある一定の基準をクリアしている事が必須であり、どのようなプロセスで霊的に覚醒するか、霊的に覚醒した後どのような生活をするか、どのようなポリシーを持つかはあまり問題ではないからです。

 

また、私のようにスピリチュアルなブログを書いているような人は、ほぼ100%自身に霊的な覚醒を促すための修行やワークの一環としてブログ書いていると思います(個人的な見解です)。

 

私なんてそういう意味ではまだ未熟者ですよ。

 

すくなくとも、世の中に大体的に発表してお金取るようなものかと言ったら、まだまだ検証・確証が足りない部分が多いです。

 

霊的に覚醒したからブログを書くのでは決してないです。

 

高次存在?からのメッセージやスピリチュアルブログなどは、当ブログを含めてメッセージや内容をどのような意図があって放たれているか、そこには人間に当たり前に起こる思い込み・誤解・決めつけ・認知の歪みなどが当たり前に起こってくるという前提で向き合ったほうが良いです。

 

また、人間はどのように騙されるかということや、どのような思い込むか・誤解するか・勘違いするか・決めつけてしまうか・認知の歪みを起こしてしまうかということを、ある程度理解してからそのような情報を扱うのがベストです。

 

別に意図的に騙そうとしなくても、思い込み等が生じる状況や行いは日常的にあるので。

 

例えば、人間はじめのうちは確信がなくても、何回も口に出していたり文章にすることは徐々に強く思い込んでいくとか。

 

確証バイアスとか。

 

心理的盲点とか。

 

正しいと思うことと正しいことには明確な隔たりが合って、人間基本的に正しいと思うことはあっても、正しいと分かることは非常に少ないとか。

 

知らず知らずの間に、言葉やイメージで思考を誘導されていたりとか(これはそもそもコミュニケーション時には互いに影響を与え合うということがあるので、意図的なマインドコントロールを行わなくても起こる。対策としては見聞きする人がある程度ちゃんとした心理学等の知識をもっている必要がある)

 

また、洗脳というのは人の行動そのものを操ることだと思っている方々もいるが、そうではなく人の行動の傾向や意図や指向性に影響を及ぼす事が洗脳の大部分を占めるということ知っているか知っていないかとか。(他人の行動そのものを操るには物理的なチカラが多大に必要になるが、行動の傾向や意図や指向性をコントロールするには、よりすくないチカラでよい。いってしまえば言葉一つでそれらは操れる)

 

自分でも分かるのですが、ブログを書いていく内にはじめの頃には真偽には疑問があったスピリチュアルな事柄も今では確信をもって正しいとおもっているのです。

 

自分が段々と強く正しいと思い込んでいく過程を俯瞰して冷静に観察していたので、洗脳の手法にも同じ原理を利用していたのが合ったとか思っていたりします(いえ、もちろんこの「確信する」という行為が右脳能力や潜在能力の覚醒に必要不可欠な要素でもあるのですが。それについては「操作可能性の重要性」にて触れています)。

 

なので、自分では「正しいと思っている」けれど「それが本当に正しいかは知らん」という態度でこのブログは様々なところで鵜呑みにしないように注意喚起をしているわけです。

 

自分が正しいと思うこと感じること、考えていることは好き勝手(ある程度配慮して)記事にしているわけです。ま、いわゆる言論の自由というやつです。

 

まあ、一般的に非科学扱いされているものについても、すでに個人的にテクニックとして実証済みのやつなどもあるのですが。

 

くれぐれもこのブログの記事の内容にはついては鵜呑みにしてはいけません。

 

当ブログはあくまでもタイトルにもあるように覚書きです。

 

いわゆるメモとかTIPSです。

 

自分のための覚書きを公開しているのです。(あくまで人に読まれる事を前提に、ですが)

 

少し話がそれました。

 

結局、このような真偽不確かな内容の記事・メッセージに触れる際には強く「懸命な態度」と言うやつが求められるわけです。

 

「懸命な態度」とはすなわち、安易な判断やメッセージ内容の神格化をしないこと、メッセージの向こう側には生身の普通の生活をする人間が居ること、断定表現への注意、人間の心理的な特性(嘘をつく、調子に乗る、想像力の欠如等)への配慮、抽象的表現での喚起されるイメージが受けての脳内で換気される単なる感覚情報にすぎないことへの考慮、単純接触効果・確証バイアスが起こっていないか、用語の問題・混乱で誤解していないか、前提条件の共有は出来ているか、どのような意図でメッセージや記事が主張されているか、主張者と受け手に知識や経験の隔たりがないか、金銭的な事柄が絡んでいないか、第三者にメッセージの送信者が利用されていないか、メッセージの送信者がどの様な性格なのか、どのような信念をもっているのか、受け手への無意識の誘導が起きていないか、メッセージの主張者がメッセージ内容の影響力を過小評価していないか、それがどのような対象へ向けられたメッセージなのか、どのような経歴の人間がどのような経緯を経て集中しているか(これに関しては、詐欺を行う人間の場合特徴的な経歴がある場合がある)、どのような思想に影響を受けた人が主張しているか、自分が騙されやすい・思い込みやすいなどの性格をしていないか、安易に楽・快楽に飛びついていないか、メッセージの内容を信じる責任を主張する人に転移していないか、等々の配慮をすることです。

 

ダラーと書きましたが、最低でもこれくらいは注意している方が良いです。

 

もちろん、このブログの内容についても同様の注意が必要です、私の責任を放棄するわけではありませんが、上記の事を当たり前に行える・行っているぐらいのリテラシーを持つ方がこのブログの対象です。

 

もちろん、そうでない方も沢山いらっしゃると思うので、ブログの記事の最後には度々「鵜呑みにしないでください」と諸注意を呼びかけてもいます。

 

インターネットはオープンな場ですので、どのような方が当ブログを読み来るかは予想がつかないので、当ブログではなるべく注意は呼びかけたいと思っています。

 

ちなみに「鵜呑みにしないでください」とは「メッセージ内容を、自分なりに噛み砕いて咀嚼(整理して、理解あるいは実践して)して、まずいと思ったら(くだらない・有害・同意できないと判断したら)吐き出して捨ててくだい(否定して・忘れて下さい)」ということです。

 

再三述べますが、メッセージ内容を絶対鵜呑みにはしないでください。

 

食っちゃまずいものを鵜呑みにして消化しようと思ったら、必ず消化不良で下痢したり毒性があって病気になったりします。そんなことを延々と続けていたら、死んでしまうこともあるかもしれません。

 

すごく大事なことですので、よろしくお願いします。

 

 

如何でしたでしょうか。

 

久しぶりのブログ記事の更新でした。

 

プライベートな内容ですが、心身の体調を思い切り崩していたのでブログの更新が止まっていました。

 

元々、ストレス耐性が弱いので(いわゆるHSPとかエンパスの特徴が当てはまる人間です)、仕事のストレスで持病の精神病が悪化してしまいました。

 

寝不足が続いて、脳内ホルモンのバランスが崩れたら入院する羽目になってしまいました。

 

仕事というのは難しいものですが、あまりコンを詰めすぎても自分を追い詰めるだけですね。

 

働き方を本気で見つめ直す必要がある感じました。

 

ちなみに、HSPの特徴にあるように体質的に薬剤反応がかなり良いので、一ヶ月で退院して今では自宅療養中ですが。

 

あと、私はHSPといっても、HSPの中でも少数派のHSSHSPの特徴が当てはまる人間です。

 

外側からはめっちゃタフに視られたり、何考えている分からないとか言われたり、内面の繊細さを無視されたり、自分の中にある二極性を周囲の人からあまり理解してもらえないので、結構大変です。

 

自分の生来の特質・性質を他者から理解された経験って本気でないですね。

 

まあ、それだけ少数派なんでしょうけど。

 

自分の一つ上の兄から宇宙人あつかい(もちろん、私の人間的な感性が理解できないという比喩ですよ)されたこともあります。

 

でも、最近ではマイノリティに優しい世の中になっているのでまあそれで悩んだりはしていないのですが。

 

 

おっと話がだいぶそれました。

 

今回の記事は「高次存在からのメッセージ?スピブログ?鵜呑みにしてはあかんよ?」という記事内容でした。

 

「私は鵜呑みにしていないよ!」という方も沢山おられるとは思いますが、これは別にスピ系に限ったことではないので。

 

高次存在のところを、科学者・政治家・著名人・上司・教師・親に言い換えても全く同じことが言えますし。

 

結局、普通の人間に言えることが高次存在とかにも言えるということです。

 

そして、一番面倒くさいのは、ただの個人を神格化したり偶像化したり象徴化したり幻想化したりすることですね。

 

たまに居ますけど、IQを高めてアインシュタイン並になれば、社会的幸福をてにいれられるとか。

 

あのタイガー・ウッズを育てたメソッドとか。

 

そのような謳い文句は、アインシュタインやタイガー・ウッズと言った人を偶像化して幻想化して、さも彼らがその能力でたいそう幸福な人生を送ったかのように錯覚させる事で成立させているのですよ。

 

ちょっと歴史書紐解いてアインシュタインの生涯を調べたり、現在のタイガー・ウッズの生活ぶりをニュースで見聞きすれば彼らがたいそう幸福なバラ色人生を送っているわけではなく、偶像化や幻想化がすり替えだと気づくはずです。

 

霊的に覚醒していることや、能力を開発すること、高次の領域に目覚めていることを神格化・偶像化・象徴化・幻想化させることで、そうなればさもバラ色の人生が待っているかのように思うのは、人類古来からの思い違いですね。

 

ただ単にだいぶ生きやすくなるだけです、生きやすい世の中になるだけです。

 

あいかわらずやるべきことはやるべきことですし、失敗しなくなるわけありませんし、全ての問題や困難は自らのチカラで解決する必要があるし、誰もが空想上のお釈迦様のような性格になるわけでもないし、勘違いや思い込みやトラブルがなくなるわけではないし、調子に乗ってとちる事が急になくなるわけでないし、相変わらずわからんことはわからんし、相互不理解は普通に起こるし、全く驕らない人格者になるわけではないし、疲れることは疲れることし、仕事を一切やらなくても良くなるわけでもないし、お腹はすくし、好きな人に振られることがなくなるわけでもあるまいし、天才になるわけもないし、なんでもできるようになることなんてないし、頑張らなきゃいかんことは相変わらずあるし、自分が正しいと思い込んで図に乗って他人に迷惑かけることもあるかもしれないし、コミニュケーションと相互理解の努力は相変わらず大切だし、モテモテになるわけもないし、自分が誰かをふいに傷つけてしまうことが一切なくなるわけではないし、逆に人から理解されなくなることもあるし、、、、

 

そういった、人としての普通さ・普通な感じはあたりまえに残ります。

 

霊的に覚醒したら・能力開発したら・高次の領域の住人になったら、そういった事と無縁になるなんて大間違いの大勘違いです。

 

人間が人間じゃなくなるわけじゃありません。

 

ただ単に生きやすくなるだけです、生きることがだいぶ楽しくなるだけです、生きるのが楽になるだけです、頑張ったりするのが苦じゃなくなるだけです、あたりまえに自分に優しくなれるだけです。

 

あなたはあなたのまま幸せになるだけです、普通の自分のまま気負うこと無く幸せを感じて生きていることが可能になるだけです。

 

スーパーヒーローにも、メシアにも、預言者にも、リーダーにも、政治家にも、お姫様にも、大企業の社長にもなる必要がなく、ただありのままの素の自分の人生を送ることが幸せだと気づくことです。

 

そして、そのような個人が個人としてメッセージを送ってきたりするのが、スピブログでありチャネリングです。

 

別に集団を代表してたりしないわけでありませんが、あくまでありのままの個人として彼らを捉えていたほうが良いです。

 

ドラえもん扱いして、勝手に期待してもしょうがないです。

 

そういうのはやめて、同輩であり先達のような感じで相対したほうが良いのではないでしょうか。

 

もちろん一廉の敬意と、感謝・気遣いも忘れずに、です。

 

 

めっちゃ長くなりました。

 

今回の記事は以上になります。ではでは~。

 

 


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引き寄せの法則。引き寄せるとはいってないけど?

4月2日に記事を推敲し直しました。

わかりにくい表現を避けて、いろいろ細かいところを修正/加筆しました。

4月1日にアップロードした分しか読んでいない方は、読みおなす事をお勧めします。

 

こんばんわ、dokubo_toshoです。

 

今回の記事はかの有名な「引き寄せ」の法則について。

 

引き寄せの法則って原語は Law of Attraction。

これが日本語の引き寄せのの法則の元の言葉なのだけど、結局それってこう言える。

 

「で、どっちに?」

 

日本語でも同じだけど、「引き寄せ」までしか言ってないのですよね。

 

「引き寄せる」 なのか 「引き寄せられる」 なのか。

 

英語に関しても (subject) Attract to (object)なので、主語と目的語が抜けている。

 

というか、限定していない。

 

で、結局どっちなのです?って話なのだけれども、「どっちも」が正解なのですね。

 

つまり、「自分の希み(気、エネルギー、感情的なもの)を引き寄せている」し「自分が望む(臨む)方向へ引き寄せられている」なのですよ。

 

それで、エネルギー科学の領域や右脳の領域や女性性や感性が「希みを(自分の方向へと)引き寄せる」方を担当して

希みの状況を作り出している(簡単に言えば、波動・エネルギーの領域の話)

 

また、既存の科学の領域や左脳の領域や男性性や理性の部分が「自分が(望む方向へ)引き寄せられる」、つまり、無意識にそのような方向へ選択していることや意識的に選択するする力。(よくあるのが、潜在意識を使用したり、意思を使って方法を考えたり)。

 

なんで、波動とかイメージングとかエネルギーを使うとかの話は「引き寄せるの法則」で

 

潜在意識やアファメーションや瞑想法(主に自分の脳を鍛えるやつ)は「引き寄せられるの法則」ってことになるのだと思います。

 

前者は願望が「勝手に叶っている」の世界。

 

後者は願望を「勝手に叶えている」の世界。

 

前者はそもそも生まれつき勝手に流れている方向なのでこっちが貴方の本来性だったり好きなこと感性にあうこと。

 

後者は、理性や状況に応じてあなたが決めて初めて動き出す力、これは明確な目標設定と意識的な努力が必要。

 

人間は絶対エネルギーは感性に合う方向に流れている、これは絶対。

 

で、理性は本来それを状況に合わせてどう叶えるかを選択する力。

 

感性に合うことが本来の願望であるけれど、昨今の願望実現界隈では状況に応じて願望をコロコロ変えています。つまり理性で状況や周囲の環境に提供されたものに合わせて願望を決めてしまっています。

 

それで、感性と合致しない方向へと理性で目指すから、窮屈だったり上手くいかなかったり、なんか疲れたりする。

 

もちろん、感性で臨んだ方向へ進む為に、理性の力を使うこともあるのだけれども。また、理性で選んだ選択に感性がゴーを出すこともあります。

 

だども、両性(質)の目指す所や方向がバラバラだったら、にっちもさっちもいかなくなる。

 

そして、基本的に「引き寄せる力」は「引き寄せられる力」の三倍以上なのです。(ちなみに、個の3という数字はいたるところで出会う、マジックナンバーなので気になる方は調べてみたらよいとおもいます)。これの理由は単に物質を使うより、より軽い状態のエネルギーの方が振動・バイブレーションが早いからですね。つまり、エネルギー状態が早く変化する、変化量が多いということです。

 

どんなに、意識的に努力しても必ず感性とか情熱のチカラがないと事は上手く運ばない。

 

といか、無りやりこれが俺の選択だと理性がいって、死ぬほど頑張ってそれを達成できたとしても「感性にあうこと」じゃないので、願望が叶ってもフラストレーションが多々ありますし、溜まりつづけます。

 

なので、そういうことになると感性がその状況をぶっ壊す方向に働きます。

 

そして、理性で選んだ選択を「間違った」とか思ったり、あるいは「無理やりごまかし続ける」事になります。

 

なので、理性だけで願望を決定するのはおすすめできません、というか絶対幸せになれないのでやめてください。

 

感性が「人に何か教える仕事をしたい、その喜びを感じたい」と思って理性で「じゃあ、英語が得意だから英語を教えたい」と選択するのは良いのです、これは感性がベースになっています。

 

しかし、感性が「仕事をしたくない、やるなら勉強をしたい。学ぶ喜びを感じたい」といっている時に「仕事をして金持ちになる。勉強は金にならん」という選択を理性で(状況に合わせて)したら、「つまんないし、楽しくないし、フラストレーション溜まります。というか疲弊します」。(でも、男性性ばかりつかっているので、どちらかというとおもしろいという感情は在るかもしれないです。しかし、よっぽど上手くやらないとうまくいかないので大抵の人はつまらないです、つまらないけどたまにおもしろいみたいな感じかも)

 

楽しい時は波動が軽くなります。おもしろい時は波動・エネルギーに勢いがまします。

 

なので、おもしろいことばっかりやって、それが楽しくなりえないのなら「おもしろいけど、全然楽しくない状況」を強烈に生み出します。

 

そういう人が、「偉人の左脳型」に多いです。

 

今の社会はそういった方向から抜け出していますが、抜け出せていない人もままいます。

 

楽しいことは感性に合うのでいつまでもやっていられます。

 

また、波動も軽くなるので世の中明るくなります。

 

でも、楽しいことをメインに据えると、たまに楽しくない状況にも出くわします。

 

そういうのは面白くやれば良いのです。

 

楽しいことばかりやって、そうでない状況は面白がってやる。

 

それが今の時代に感性にあうやり方でしょうね。

 

今の時代はまだ、100%感性で生きるには難しいですから。(まあ、どんどん感性の比率がましていきますが)。やっている人も居るけれどね。

 

なので、願望を実現したいと思うなら「楽しそう」を軸に据えたほうが良いです。

 

その時に自分の女性性や感性を抑圧しているとうまくイメージできないので、まずは「自分の本来性(感性)を知る」ことをやったほうが良いです。

 

で、その方向にブーストをかけるなら「おもしろいと感じること」も状況に付加したほう良いですね。

 

エネルギー的な話になると、楽しいことは波動を上げるのでもちろん素晴らしいですが、楽しくないという状況があったら一気に波動が下がってしまいます。つまり変化量が足りなくて、動き・状況が停滞する。

 

なので、そういうときはとりあえず「面白がってやる」ことで停滞気味のエネルギーにブーストをかけて楽しい波動に持っていきます。これは基本的に楽しいを軸に据えて選んでいるからエネルギーが楽しい方向に自動的に向かって自分も楽しい状況に向かっていくのです。けっして、面白がることのみをめざしていたらできないです。

 

でも、おもしろいことがすきな人もいるので。おもしろいことを軸に据えてもよいのです。

 

ただ、おもしろいけど全く楽しくないはヤバイので、ちゃんとおもしろいし楽しい事を望んで下さい。

 

スイスイ生きたいのか、ちょっとくらい困難があるのがよいのか、です。

 

今の時代ハードモードを突き進むと言う選択はもうないので(いま現時点はあるかもしれないですが、これを移行それを選択するひとはどんどん少なくなっていきます)、「ノーマルモード」か「イージーモード」のみの選択ですね。

 

まあ、引き寄せの法則を学んでいる人に「ハードモード」を望んでいる人などいないでしょうがね。

 

なので、叶え方として「結局引き寄せるの法則」も「引き寄せられるの法則」もどっちも必要という話になります。

 

もちろん、引き寄せるの法則はベースです。

 

しかし、引き寄せられるの法則は引き寄せを高速化します。

 

また、引き寄せるの法則は精確な状況設定までは出来ない場合が多いです。

 

なので、引き寄せるのが「人に何かを教える喜び」なら、「何を教えてあげたいか、何をおしえていいか」という状況やあなたの得意分野、知識を理性で選ぶこともあるでしょう。

 

 

先ほど、「ハードモード」はないと言いましたが、感性が「人がよろこぶ事をして自分も一緒に喜びたい」という希みをもっていて、「人の生命を救いたい、その人と一緒に喜びたい」という難度高めの「疑似ハードモード」もあります。

 

また、ハードモードをあえて進もうと思えば出来ないわけでないので、そのようなチャレンジャーは少なくないでしょう。(現時点ではですが)

 

私は最近までハードモード選択していたようなものですが(つまり、感性合わない状況に好き好んで突っ込んでいった)、いまではノーマルモードに移行しました。

 

右脳領域を高める方向にシフトしたら、感性を磨くことになっていろいろ本当の希みに気づいた感じです。

 

また、正直爆発的に左脳領域を鍛えているので、右脳領域の開発も安定して行えるのですよね。

 

これは、安定した男性性は女性性をそだてる。安定した女性性は男性性を鍛えるみたいな話があるからなのですが。

 

ちなみに、女性性は育てるもので、男性性は鍛える方向に行きがち(育てることはできますが)ですね。

 

なぜなら、女性性は鍛えることはできないからです。

 

なので、女性性・感性・右脳を開発したいなら楽しみながら育てていったほう良いです。

 

右脳を鍛える(負荷をかけて発達させる)事自体はできるのですが、鍛えるという考えてやってしますと右脳や感性がはたらいてくれないのです。

 

なので、どんなに感性を育てても、右脳を鍛えても、楽しくない時は右脳・感性は動かないです。(より正確に言うなら、働きが非常に鈍くなります)

 

これは、絵を描くのが楽しい人は絵を書くことで感性を育てているかもしれないが、コンピュータでエクセルデータ作っている時は楽しくないので感性働いていませんよ・鈍くなっていますよということです。(エクセルデータつくるのがたのしいなら別ですが)

 

だので、自分は女性だからとおもっていても、仕事を楽しんでいない女性は「感性をわざわざ押さえつけている状態」なので女性的な能力が仕事へ発揮され得ません。(これが女性のオス化とかおっさん化とかを生み出す最大の要因ですね)

 

また、女性が楽しんでいる職場は雰囲気が非常に明るくなります。楽しんでいる女性は可愛いし素敵ですしね。

 

ちなみに、女性性が楽しんでいるととその人は嫉妬しません。

 

嫉妬は大抵の場合、「私より楽しそうね、キー」という感情ですから、自分が楽しい人は嫉妬しません。

 

どんな状況が楽しそうに見えるかは人それぞれですから。ひとによっては嫉妬しているのかわかりづらいですが。

 

男性も女性も同じで、嫉妬する場合は「ソッチのほうが楽しそう」だと思っているから嫉妬するのです。また、嫉妬しやすい男性は「元々女性的な感性が強いのに、そちらを満足させたがらない」から嫉妬するし、いつまでも嫉妬しているのですよ。

 

みたことない状況に憧れをもって、それを実現させること無く、その状況にある人を嫉妬するのは女性性が満足できない状況を男性性側で選択しているから起こるのですよ。

気づいていない人が多いですが。

 

ちなみに、そういう状態の人の自称サバサバ系率が高いという意見は事をどう見るかですね。

 

たしかに自分の中の男性性を好んでいるが女性性が在ることにあまり気づいてない状態なら、内からは非常に男性性が強く見えるけれど、外からは女性性の嫌な部分が見える、ということになりがちですね。

 

 

話がむっちゃそれました。

 

結局、引き寄せの法則の正体は「引き寄せるの法則」と「引き寄せられるの法則」の合体技だったわけです。

 

なので、最近では「磁力の法則」とか言い方を変えてきていますがこれはより真実に近いですね。

 

「引き寄せの法則」の新の意味に加えて、「自分が遠ざかる状況からは状況も自分が遠ざかる」「反発する同士は決して近づかない」なんてニュアンスも含んでいます(まあ、今までの時代はそうでもなく、反発めったくそ起きていたのですが)とか。

 

これに「エネルギーは入口と出口があって、はじめてパス(経路)が通って、流れる」「パスにエネルギーが流れればパスはどんどん太くなって拡張される」とかも含めたらもうほぼ完璧ですね。(具体的な理論的な話はおいといて、セオリーのみに絞ればですが)

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

巷で騒がれる「引き寄せの法則」。

 

ちゃんと理解できてない人は、そもそも「引き寄せの法則」がなぜ「引き寄せるの法則」ではないか気づいていないのではないでしょうか。(まあ、自分も最近まで引き寄せられるの法則にばっか着目していたわけですが)

 

あまり深く考えない・理性をつかっていない性質(たち)の人は「引き寄せの法則」って「欲しいものを引き寄せる法則なんだ」と勘違いしています。(逆に理性ばっかりで突っ込んでいくと、引き寄せられるの法則だろ~、とか考えてしまいます。過去の私のように)

 

片面だけで、「引き寄せの法則」をみているので変な感じに理解するし、「間違った使い方

」をしています。

 

間違ったという意味は、うまくいかないと言う意味です。

 

法則通りに上手く動いてくれないのは、「法則が間違っている?」か「法則の使い方が間違っている?」か、「そもそも理解してるの?」という話です。

 

ひとによってそれぞれどう思うかはありますが、「そもそも理解しているの?」がこの場合正しいでしょう。

 

引き寄せの法則で豊かになりたい、と考える方で理性ばかり使って願望を実現したいと思っていると「そもそも、自分の中にどんな感性があるか」という状況を自分で生み出して、混乱したりフラストレーションが溜まってたりしているかもしれません。

 

それもまた、感性の仕業ですね。

 

そのときに、感性をガン無視して理性だけで「お金が合ったほうが幸せな社会だし」と考えたら、変な方向です。(自分の希みが叶うにはお金が必要と考えるなら、当たり前にお金を望んでくださいね)

 

幸せはおなたが感じるもので、どのような状況で幸せを感じるかはそもそも自分自身の性質で決まっているというのをお忘れなく。

 

そこがあなたの、性質・感性・本来性・自然(ネイチャー)・ありのまま、なのですから。

 

ちょっとした比喩ですが、ハサミの形をした生物がいて「俺は堅いものを切ることに喜びをかんじる」とかいって「かっったい岩ばかりきっていたら」、刃がかけて何も切れなくなって「本来性を失って」しまいます。

 

ハサミは切ることが楽しいのですよ。切ることが楽しいから、ハサミの形に産まれたのですよ。

 

切れないものを切る喜びは、達成感とか征服の喜びとか、自分の影響力を世界で存分に発揮したいとか、パワー(権力や肉体的にあ強さ、男性性の領域のチカラ)を嗜好するからですね。

 

ですが、それはパワーはあっても、感性の喜びである楽しさがありません。

 

そして、パワーを好むけど、楽しさは全くない人がいると、周囲にそれが伝播して窮屈になります。

周囲が(これは人も環境も含む)、縮こまってしまいます(空間的な縮こまるですが、波動的には鈍く・重く・のろくなります)。

 

私も陥りがちな落とし穴だったのですで、よくわかります。

 

昨今は、そんなものだろうと思いますね。(ようやく気づけてよかったと自分では思っています)

 

あ、でもあくまで形には拘らないでくださいね、あくまでもあなたの自然な状態(ネイチャー)にこだわってください。

 

自然(ネイチャー)にはそもそも変化するという性質がありますので、その時々にこれが自分の自然な状態(ありのまま)だと思うことを思う存分やってください。

 

今回の記事は以上になりますではでは。

 

 


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感覚の言語化の訓練をしないでください。

こんばんわ。

 

感覚の訓練をしてください。

 

言語の訓練はしないでください。

 

言語の訓練の時期はもう終わりました。

 

皆さん訓練はとっても上手でした、さも大人から褒められたことでしょう。

 

褒められた結果進んで自ら人生を言語の訓練に費やしてきました。

 

しかしそれはもう大事ではありません。

 

これ以上の訓練は無視してください、感覚の訓練に移行してください。

 

生きるための感覚の訓練をしてください。

 

感覚を楽しむ訓練をしてください。

 

訓練というのは大げさでしょうが、貴方の中ではどうぞ訓練していただきたいのです。

 

考える必要ありませえん。

 

頑張れば逆に感覚を見失います。

 

緊張せずにリラックスすればおのずと感覚を思い出します。

 

緊張すると、身体が縮こまり、エネルギーが縮小します。

 

小さくなってしまったエネルギーを捉えるのはあなた達の現在では難しいです。

 

まずは、自身をもってエネルギーを充実させてください。

 

充実したエネルギーはとても大きいいので、簡単に今の貴方たちでも感じ得る事ができるでしょう。

 

 

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アシュタールの動画を視ていたら急に書きたくなったメッセージです。

最近いろんなエネルギーとつながりやすくなっています。

こんな感じで、今後はエネルギー存在(身体がエネルギー状態の存在、身体がないわけではないです。)

のメッセージを載せていくと思います。

 

 


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エネルギーに関してあれやこれ

こんにちは、dokubo_toshoです。

 

ブログをamebloに移してから最初の記事です。

最近仕事が忙しくて体力を消費していいたので前回の記事から一ヶ月以上間があいてしまいました。

 

エネルギーについてのあやれこれです。

 

先ずはこのブログでのエネルギーの定義から。

 

エネルギーとは変化量で表すことが出来ます。

つまり、どれだけの動きがあったかです。

そして何が動いているかというと、それは「存在質」です。

存在の全てはシームレスにつながっています。

なので、宇宙のどっかで「エネルギー=変化量=動き」が生じれば、その地点を起点に多次元な宇宙をエネルギーが伝播します。

 

なので、エネルギーは具体的なモノというより「状態」に近い概念です。

存在質がどのような「状態=エネルギー状態=周波数」で「振動=動いている」かというのが、エネルギーを考える時の基本の考え方です。

 

また、「エネルギー状態=周波数」がどれだけの速さで「振動=動いている」のかによって、エネルギーの性質が変ります。

 

その「エネルギー状態=周波数」によって、より「物質的=物性が強い」のか「エネルギー的=エネルギー性が強い=より存在質そのものに近い」のかが決まります。

 

また、エネルギーには「エネルギー同士がぶつかる=エネルギーの交流が在る=存在が交わる」と互いの「エネルギー状態=周波数=動き」を変化させることになります。

 

例えば、人体は常に外気と接しているので、体温と外気のエネルギーの交流は常に起こっています。

 

その時に、人体を構成する原子は空気分子と衝突しています。

 

その時に従来の科学では、人体を構成する原子から空気分子に熱エネルギーが伝わり、エネルギーが拡散しているという認識があったと思います。

 

だた、よりミクロ的に見ると、人体の構成する原子と空気分子の衝突時には、作用反作用の法則により、空気原子に加わった衝突エネルギー分の反作用が人体を構成する原子に生じるので、人体の構成する原子は「原子の運動エネルギー=熱エネルギー」を失わないはずです。

 

しかし実際には、素っ裸で南極を散歩していると身体の熱はどんどん逃げていってしまい、果は凍えてしまいます。

 

なので、より正確に認識するなら「人体の熱エネルギーが外気に伝わって逃げていく」ではなく「人体を構成する原子と空気分子の間でエネルギーの交流があって、両者の周波数に変化が生じた」ということになります。

 

なので、そのエネルギーの交流により「より振動が遅くなる」方と「より振動が早くなる」方が生じるわけです。

 

それで、人体の方が「より振動が遅くなる=動きが小さくなる」ので、そのまま放っておくとどんどん「エネルギーが縮小していく=動きが小さくなっていく」ので身体のあちこちが動かなくなって果ては人体の動きが停止して、身体が機能しなくなって昇天するということになるのです。

 

 

エネルギーはその状態によってエネルギーの交流の際の振る舞いが異なります。

 

例えば、個体(例えば、レンガ、電柱、壁)にエネルギーがブツカリますとほぼほぼ互いの「エネルギー状態=周波数」を変えること無くぶつかったエネルギーを跳ね返します。

 

気体であれば、気体の種類によりますがあまり互いの「エネルギー状態=周波数」を変化させずにエネルギーを素通りさせます。するする~と抜けていきます。

 

で、液体に関してはエネルギーの交流があると液体の「エネルギー状態=周波数」がぶつかったエネルギーの周波数を受け取ります。

受け取ると言うことは「液体の周波数がぶつかったエネルギーの周波数により強く変化=感応するのです」

これを、「液体はエネルギーを保存する性質を持つ」と認識したり、「液体はぶつかったエネルギーの周波数でエネルギー状態=周波数が容易に上書きされる」と認識したりします。

前者の考えは、エネルギーをより物的に捉えていて、後者はエネルギーを単なる状態として捉えています。

 

そんな感じですが、どちらの認識も間違っていないので問題ないです。

 

エネルギーをより物的に捉えるかあるいはより状態に近い概念として捉えるかは人それぞれだと思いますが、私はどちらかと言うと現代科学が扱うエネルギーに関してはより物として捉えています。

 

まあ、それは本来的には単なる状態に違いないのですが。

 

 

では、次にエネルギーについて今までブログで扱っていた認識を軽くアップデートしようと思います。

 

今までこのブログでは、高次のエネルギーはより物理的には周波数が低いと言及してきました。

 

しかし、最近気づいたのですが、そもそも現代科学が扱う周波数と高次の科学が扱う周波数は違います。

 

現代科学が周波数を考えている時に多次元構造やエネルギー構造を考慮してない可能性が高いです。

 

とかく、周波数を二次元的に捉えるとちょっと変なことになります。

 

現代科学は物質のエネルギー構造をあまり理解していないので、周波数を二次元的に考えていますが、高次の科学ではちょっと考え方が違います。

 

まずもって、エネルギーには2通りの考え方があります。

 

まず、個体としてのエネルギーです。

これは、循環エネルギーで場に存在するものです。これをUnitエネルギーとか個性エネルギーとか呼びましょう。そこらへんの石ころとかが個性エネルギーの代表例です。

 

次に、伝播するエネルギーです。

個性エネルギーは存在する場に置いて振動していますが、それが個性エネルギーの周囲にある存在質を動かしエネルギー状態=周波数を生じさせて、個性エネルギーの外側に広がって伝わっていきます。まで、電波とか磁場とかいろいろですね。

このエネルギーは別に循環エネルギー(まあ、エネルギーとして生じた以上存在質の中でエネルギーをコンバート変換させながら循環しますが)ではありません。場のゆらぎのようなものです。

 

んでもって、伝播するエネルギーについては、周波数という言葉は以前から現代科学でも使われていました。

 

現代物理学では周波数や振動数という日本語を使いますが、これはどちらも元々の言葉は「freqency」から来ているのですよ。

 

で、高次の科学ではエネルギー状態を現すのには「vibration」という言葉を使っています。

これは、日本語に翻訳される時に周波数に訳されましたが、結構めんどくさい違いがあります。

 

日本語の周波数で現すのは「伝播するエネルギーのエネルギー状態」で振動数であらわすのは「個性エネルギーのエネルギー状態」です。

 

日本語の周波数も振動数も「freqency」を現すものなので、これをそのまま高次の科学に当てはめるとまるで違います。

 

また、日本語の振動数で表される考え方はより高次の科学に近いのですが、本来の「vibration」とはちょっと違います。

 

日本語の振動数は例えば原子がどれだけ速く小刻に動いているかを表します。

 

野球のボールがどれだけ小刻に速く振動しているかのイメージが近いです。

 

ただ、「vibration」は循環するエネルギーがどれだけ、大きく速く動きながら循環しているかを表します。

 

これは、輪っか状になっている紐が、ぐるぐる廻りながら、紐が蛇みたいにニョロニョロしている様子がイメージとして近いです。

 

このニョロニョロの動きを「vibration」と言うのです。

 

なので、この「vibrartion」に関しては高次のエネルギー程高いのです。

そして、「vibration」がより高い個性エネルギーは「freqency」はより低いです。

 

結論を書くと、現代物理学では高次の存在ほど「周波数=振動数=freqency」が低いが、高次の科学では高次の存在ほど「周波数=振動数=vibration」は高いというわけです。

 

ここまで書いてきてあれですが、とってもわかりづらいです。

書いていてちょっと面倒くさいなと思います。

言葉の壁がありますね。

 

なんやかんやでそういうことらしいです。

なので、高次の科学の考えにするならば、別に周波数や振動数の表現は何ら間違いではないのでしょう。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回の記事は以上になります。

久しぶりの記事の更新だったのでちょっと内容が長くなりました。

 

まあ、しばらく仕事が落ち着きそうなので更新も徐々に増やしていこうかなと思います。

 

ではでは。

 

 


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フリーエネルギーの作り方

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事はフリーエネルギーの作り方に関するアイディアと考察です。

スピリチュアルの世界ではまことしやかに、フリーエネルギーに関して言及されていたり、量子力学の世界では宇宙の7割は観測できないダークエネルギーだとか言われています。


そして、このブログでは宇宙は存在質という「ただ在るという性質をもった何か」に満たされているとか言及したりしています。


高校の物理の授業で習いますが、慣性の法則というものがあります。

慣性の法則では、宇宙空間(つまり重力の影響がない)場所でボールを前方に向かって打ち出すと永遠に直進し続けるということになっています。(障害物にぶつからなければ)。

これは、そもそも力学的な運動が、「力を加える」のではなく「物体の状態(周波数)を変える」ということが根底にあるからだと思われます。

「力を加えた」ということになると、「加えた力のぶんだけ運動する」と言う認識が産まれてしまいがちですが、「物体の状態(周波数)を変える」ということになると「直進運動を行う状態の周波数にエネルギーが変化した」という認識になります。

エネルギーは変化量ですので、再び何か別のエネルギーの周波数を変えるまで「直進運動を行うという状態」が続くわけです。直進運動を止めるには「直進運動をしないという状態の周波数」に変えるエネルギーがまた必要になります。

単純な話として、高校物理で習った古典力学の世界から続く慣性の法則は「量子力学的解釈」だとそのような理解ができるのです。そして、その解釈のほうが実際の物理現象を説明するのに違和感なく認識できると思います。

なので、この世の物理学(特に古典物理学)で説明されてきた物理現象の解釈を量子力学的にアップデートしてやる必要があります。

そこで、フリーエネルギーもといエネルギーに対する解釈も変わってくるのです。


エネルギーは無限にあります。

無限にあるというのは「無限の量がある」と言う認識ではありません。

「無限に使えて、枯渇することのない循環するエネルギーがある」という認識です。

エネルギーは無限に循環して枯渇しませんので、「エネルギーを消費する」という概念は古典物理学ならではで、量子力学的な見方では見当違いの表現になります。

量子力学では、エネルギーは無限な利用が可能ですので考え方としては、「エネルギーを別のエネルギー状態に変換(コンバート)させる」という表現がより厳密に正しいです。

例えば、電気エネルギーは元々は発電所でガス燃焼の火力エネルギーもちいるガスタービンエンジンが発生させた運動エネルギー仲介して生産されます。(ほんの一例です。火力発電の発電方法には色々あります)

火力エネルギーはより原始的なエネルギー状態なので、繊細な機械のエネルギー源には適さないのす、だからわざわざ電気エネルギーに変換してやらないと現代社会の生活で便利な道具である電子機器が使えないのです。

そして、火力エネルギーからの電気エネルギーの生産は「変換効率のために、変換しきれなかったエネルギー変換のロストエネルギー(見失ったという意味です。なくなったと言う意味ではないです)」同じ量のエネルギーがつい続けられるわけです。(またそれは、機械を使っていると、さらに運動エネルギー、熱エネルギー、光エネルギーに変換されたりするわけです)

このように、エネルギーは減りもしないし増えもしないで、「状態を変換させながら永遠に回り続ける」のです。

なので、フリーエネルギーを使うには(とういかすでに、この世界がフリーエネルギーの塊なのですが)、人間の社会生活に必要な状態のエネルギーを元のエネルギーから変換して生産する必要があります。

そして、この「元のエネルギー」は世界の至る所に満ち満ちている「存在質のエネルギー」「観測できないダークエネルギー」「根源」「存在の愛のエネルギー」「尊敬と受容と感謝のエネルギー」など言われるエネルギーを指し示しているのです。

その「元のエネルギー」を例えば、電気エネルギーやあるいは物理的なエネルギー(物質)として生産する必要があります。

そのためには、このブログで散々言っていることですが、「周波数が軽くて(つまり物理的な周波数が低い)物理的な形で使用できないエネルギー」を「周波数が粗い(つまり物理的な周波数が高い物質に近い)物理的なエネルギー」に変換するのです。

その方法は、「エネルギーを切り出して周波数を粗くするエネルギーを加える」ということです。

要素としては、ある空間のエネルギーを何らかの方法で周囲のエネルギーと物理的には分けられるようにすること、切り出されたエネルギーを粗くして取り出す。

つまり、

1. 空のティッシュボックスみたいに、内部に空洞が存在する容器を用意する。(この時、エネルギーを取り出す出口がある必要があるので、筒のような形の穴の空いた容器が良いです)

2. 切り出された空間に存在するエネルギーをより粗いエネルギーを作用させることで、「人間が使いやすいエネルギー状態」に変換する。

といった作業が必要になるのです。


このようなやり方で簡単に無限にエネルギーが生産できるのか、ということを疑問に思う方もいるかも知れませんね。

ただ、この原理はすでに貴方の人体の筒構造である、「血管」において使用されています。

例えば、血管ないの血液は水分が多分に含まれています。

水というか液体は、エネルギーを蓄える性質をもっていますので、貴方の血管内を流れる水分には貴方の意識が発して血液内に吸収されたエネルギーや飲料水にもともと蓄えられていたエネルギーが蓄えられており(血液自体もエネルギーです)それを心臓は身体の隅々に送り込みます。(厳密には肉体に流れる血液は貴方の身体ではないです)。

その時に、貴方の血管は貴方の物理的な肉体がもつ周波数で振動しているのですが、その血管の周波数が血管を流れる血液の周波数を変化させます。

血管の放つエネルギーの周波数によって、血液に周波数の変化が生じるのです。

単純にそれは、血管の放つエネルギーを水が吸収して、エネルギー状態を変化させているとも、血管の内壁と血液のとの間で、エネルギーの交流(あるいは交換)があったとも考えられます。

そして、その血液がより粗い周波数に変換するか、より軽い周波数に変化するか(もしくは全く変化しないか)で「血液(とそれに含まれる各種細胞・栄養素)の元気さ」が左右されるのです。

なので、あなたが気功や瞑想で周波数を軽くしていたり楽しかったり元気な時は、血液の周波数はより軽くなるので、元気で健康の血液(東洋医学で言う気血)が身体の各細胞の送られ取り込まれるのです。

この原理がフリーエネルギーを生産するときにも利用できるのです。
(水は存在質と違うじゃんというツッコミには、「どちらも状態が異なるだけの同一のエネルギーです」とお答えします)

原理的な話はこのくらいです。

あとの実装の話はエンジニアの領域になるので今回は触れません。(というかそこまで考えていません)

この原理を使って実際にフリーエネルギー装置を作ってみるのかは、各自の裁量に委ねるとしましょう。



いかがだったでしょうか。

今回はたまに出現するえらい物理学的な内容です。

ですが、そんな難しい話はしていないとおもうので、多くの方に理解できる内容になっていると思います。

今回も例によって、私の個人的な探求です。

どのような方が読んでいるかわからないブログですので、ことさら物理学を学んだわけではない者が言っていることだとは理解するように注意を呼びかけています。

そんな感じでゆる~く、記事を更新していきたいと思います。

ではでは。

また別の記事でお会いしましょう。




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このブログのスタンス

こんにちは、dokubo_toshoです。

最近コメント欄にコメントを頂くことが増えてきたので、読者の方にこのブログのスタンスを改めてご説明しようと思います。


ポリシー

1、 dokubo_toshoが日々考えていること、仮説、考察を提供・共有するサイトです。
  断定系で書かれている記事も多くありますが、 全て仮説・考察オンリーです。
  実証されていることは何一つございません。
  実は個人的に仮説を実証済みなものもいくつかありますが、それに対しては言及するつもりはありません。
  
2、 読者の方々は完全自己責任で、ブログに乗っている情報をピックアップして使用してください。
  テクニックの使用。自身のノウハウの補強・強化。理論のブラッシュアップ。自身に研究にアイディアを利用する。などなど。アイディアの発想元はdokubo_toshoですが、自由に利用してください。
  科学業界では有名な格言があります。
  「我々は皆巨人の肩の上に乗っているようなものだ」
  先人に膨大な知識や試行錯誤の末端にこのブログがあります。情報の独占は別に求めていないです。
  私も巨人の肩の上に乗っているので。
 
3、 タイトルに有るように「おぼえ書き」です。その時に考えていることを記事にしますが、新しい記事でしれっとアイディアや理論を更新する事があります。
  また、妙なところで変に記事同士が関連している場合があります。
  各記事ははそんなに長くないです。関連する記事は軽くチェックする事をおすすめします。


4、 dokubo_toshoは専門学校卒の新人プログラマです。
   特別な能力は特にない、普通の20代男子です。
   心理学・認知科学・スピリチュアル・哲学界隈に生息するただの青年です。
   人よりちょっとばかしIQが高い程度のものです。
   読者の方々の特別な期待に答える能力も意思もないです。
    最近地味に能力開発が進んで色々出来ることも増えていますが、あまり期待しないでください。
   人生経験上なんか妙な事に詳しいだけの彼女いない歴=年齢のアニオタです。
   
5、 記事内容に対する質問疑問は暇があればお答えします。
  ツッコミ、批判、誹謗中傷は基本的にシャットアウトします。
  イジメないでね。(シマリス風に) 

6、 インターネットリテラシーのない方はこのブログを利用しないでください。
   情報の渦に巻き込まれるだけで終わります。
   混乱するだけです。

7、 私、アルクトゥルス系のスターシードらしいけど、どうなんでしょうね。
   母親が若い頃に虹色に光るUFO目撃したらしいけど関係あるかも?

8、 このブログは基本的に中級者以上推奨、上級者向けです。

9、 完全週休2日制で働く新人プログラマですので、記事の追加は基本土日祝日です。

10、 信じるか信じないかはあなたの自由です(関さん風に) 

11、 ブログ内の全部の記事を読んでいったら、何かいいことがあるかも? 

12、 新人プログラマですので、基本的に仕事の方を優先させていただきます。

13、 誰か記事内容検証して。 


いかがでしたでしょうか。

 中にはそれってポリシーなの?な物もありますが、この13個のポリシーがこのブログの基本スタンスです。

これらのポリシーに完全に同意できない方は、このブログの記事を読まないでください。

これらのスタンスを理解しないまま記事を読んで受けた問題・被害に関してはdokubo_toshoは責任を一切を負いません。

というか負えないです。

あなたの人生の責任を取れるのは宇宙で唯一あなただけです。

ちなみにここでいう責任は=(役割)です。

あなたの人生を生きる役割はあなたに任せられていて、その役割をこなした結果を受け取ることができるのはいつでも貴方だけです。

貴方自身が下した、決断・判断・選択の結果は全てあなたが受け取るのです。

私じゃどうあがいても責任=(役割)は取れませんよ。(笑い) 

でなければ、あなたから責任=(役割)奪ってしまうことになります。

原理的に貴方の人生を生きる役割をあなたから奪うことは出来ないのですから。 

ということでご理解いただけたでしょうか。

では、また別の記事でお会い出来たら幸いです。 

恋は所有欲?それとも?

こんにちは、dokubo_toshoです。

最近仕事が忙しくてブログを更新する気力があまり起きないです。

分かる人向けに書きますが、一つのプロジェクトでJava C# javascript(React redux)を使ってプログラムを組む一年目のプログラマってそんなにいるもんですかね。

経験浅いのもあり日々仕事をこなすのが大変です。

それはさておき。

今回の記事は「恋」に関する記事です。


皆さんは恋は所有欲の延長線上の感情だと思いますか?

それとも、また別の違った何かだと思いますか?

私、dokubo_toshoは恋の中には2種類の感情があると思っています。

一つは上記で上げている所有欲の感情です。

異性の顔やスタイルや自分に都合の良い性格、社会的地位から相手を「自分のモノにしたい」という欲求を抱くものです。

もう一つは「寄り添いたい気持ち」です。

これは好きの延長線上の感情です。

好きは接近願望であるとこのブログの別の記事で述べましたが、接近願望つまり「そばにいたい」という気持ちです。

「そばにいたい」という気持ちにには「所有したい・独占したい」という気持ちは含まれません。

純粋に、近くで相手を感じていたい。心やエネルギーの交流をしたい。共にありたいという欲求・気持ちです。


例えば、片思いで「どうにかして相手をオトしてやる」という感情はまま所有欲です。

しかし、相手と一緒に居ることで心地よい気持ちになり、もっと一緒にいたい。ただ一緒にいて楽しい。と言う気持ちはどちらかと言えば寄り添いたい気持ちです。 

そして、「寄り添いたいという気持ち」は所有欲ではないので相手を自分だけのものにして関係性を規定して閉じ込めたいという気持ちが含まれません。

また、時折二人だけの時間を持ちたいというのは自然な「寄り添いたい気持ちのから生まれる欲求」です。これは、独占欲とは違います。

スピリチュアルの世界では片思いを「所有欲の延長線上の感情」と見なす場合もあります。

が、より統合的な味方をすれば片思いには「所有欲が主な場合」と「寄り添いたい気持ちが主な場合」があります。

現代社会では恋愛関係は男女1対1が基本ですので、自分以外の誰かだ片思いをしている相手と一緒になれば自分が寄り添えなくなるので、「寄り添いたい気持ちが主」な場合でも「寂しさ」や「悲しみ」が生まれることがあります。

「所有欲が主な場合」は片思いがかなわない場合は「怒り」や「苛立ち」が主な感情になるので、意外と区別がつきます。

しかし、2つの感情が織り交ざっている場合がよくあるので、明確に自分の気持ちが「所有欲」なのか「寄り添いたい気持ち」なのかご自分ではわからないかも知れません。

それは明確に区別するには、自分以外の同性が自分と相手との関係に加わっても平常でいられるか
というシミュレーションです。

いわばハーレム漫画や逆ハーレム漫画のヒロインやイケメンの様な立ち位置で相手との関係性が構築されても、「自分の以外のやつといちゃつきやがって」という「怒りの感情」が沸かなければそれは独占欲ではないです。もしくは薄いです。

それを浮気だとか、裏切りだとか感じるならば「独占欲が主」な事が多いでしょう。


単純に自分だけを好きでいて、というのは「ワガママ」です。

原理的に言って、結婚したり付き合ったら「相手の感情を制限できる」というのはないです。

もし、自分だけを好きでいてほしいなら、「自分だけを好きでいてくれる人」を選んでください。

多情な人や浮気なひとは選ばないでください。

もし付き合ったり結婚したりしたひとが、浮気をしたとしたら「その人は浮気をする人」です。

浮気はしない人はしません。 

浮気をする人がいやなら、別れてください。それで浮気をしない人を探してください。

もし別れるのが嫌なら、本腰を入れて相手の浮気症と付き合う覚悟を決めてしっかりコミュニケーションを取ってください。

「私は浮気をする人を好きになった、でもその人には浮気をしないで欲しい。」

というのは正直ワガママです。相手に自分の都合の良い存在になってほしいというワガママです。

少々都合が良すぎます。
 
相手、そして自分の気持ちと向き合う覚悟がないのではなかなか恋愛は難しいです。
 
所有欲の延長線上の「恋」はあまりあなたを幸せにはしてくれないかもしれないです。 まあ、わかりませんが。

寄り添いたい気持ちが強い「恋」はあなたをいい感じに幸せにしてくれるかもしれないです。もし恋に破れても、変ないざこざは起きにくいでしょう。 



いかがでしたでしょうか。

今回の記事は非常に適当な感じで書いています。現在恋人の浮気に悩んでいる方にしてみたら憤慨ものかもしれません。というか多分そうでしょう。

しかし、色々この一文に集約できます。

「原理的に言って、結婚したり付き合ったら「相手の感情を制限できる」というのはないです。」

これだけでも当然のように理解していたら、そこまで悩み苦しむことはなくなるかもしれないですね。

ちなみにある調査によると日本人の男性の6~7割は生涯浮気をしないらしいですよ。

それから考えると浮気を全くしない人と、やったらする人の2種類がいそうです。
 
そんなものなのかもしれないですね。

では今回の記事は以上になります。

ではでは~ 



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前頭葉においてのドーパミン神経回路とセロトニン神経回路。

 

1/25 記事内容に致命的なミスが合ったので訂正しました。
こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は久しぶりに脳に関しての話です。

突然ですが、右つまり右脳側の前頭葉にはドーパミン神経回路、左つまり左脳側の前頭葉にはセロトニン神経回路があると思われます。(このブログで仮説ですので、あしからず)

前頭葉は魂から入力を受け取る脳のコンソールとも言えますが、右脳側にドーパミン(神経興奮性)回路があり、左脳側にセロトニン(神経抑制性)回路があり、左脳や論理を重視する人はセロトニン神経回路がよく発達して、右脳や感性を重視する人はドーパミン神経回路がよく発達しています。

前頭葉の両側がバランスよく発達していれば良いのですが、多くの人には左右の発達に偏りがあるか、前頭葉そのものがあまり発達していません。

論理的に考えたり抽象的に考えると言う行為は、セロトニン神経回路をよく発達させますし、想像力を働かせると言う行為や具体的に考えると言う行為ははドーパミン神経回路をよく発達させます。

論理的な思考や抽象的思考は、思考の抑制や捨象(つまり、ある神経パターンの不活性化(抑制))ですし、想像力を働かせる行為や具体的思考は感覚器に様々な感覚を出力するために、神経を多分に興奮させます。

現代人は我慢や抑制を促すような社会システムや教育を施されているので、多くの人は抑制性神経回路の方がよく発達しています。

その際に、ドーパミン神経回路をあまり発達させていないと、想像力の足りない「論理バカ」「抑圧的な感情嫌い」を生み出してしまったりします。

また逆に、ドーパミン神経回路ばかり発達させてしまうと、抑制能力の足りない「過激な思想家」「気分屋の芸術家」などを生み出してしまったります。

それが悪いとは言いませんが、バランスの偏りが強い人はある種病的な言動をとったりしますので 、社会的に問題がある人と捉えられたり、健全な人間関係を築く事ができなかったりします。

偏りが強いのが悪いことというわけではないです。

ただ、偏りが強い人には周りがついていき難いです、これは仕方ないことですが本人とって辛いものになってしまうこともあります。

私としては、前頭葉の両側をバランス良く使用鍛えることをおすすめします。

また、スピリチュアルな能力は能力の行使のためにドーパミン神経回路がよく発達している必要があります。

インスピレーションは魂からの前頭葉を経由しドーパミン神経回路を使って魂から情報を感覚器に出力する必要があります。

また、その他のスピリチュアル能力は肉体的に眠っている能力は神経の活性化で能力を掘り起こす必要があります。

なので、たくさん想像、妄想?をしてドーパミン神経回路を鍛えておく必要があります。

アファメーションでやるなら「右前頭葉が活性化している」「ドーパミン神経回路が活性化している」「右大脳が活性化している」などです。(もちろん左側を鍛える必要がある方は、左前頭葉、セロトニン神経回路、左大脳と変えておこないます。

自分に必要があると思われる、側の前頭葉あるいは両方の前頭葉を鍛えていきましょう。



ここから余談になります。

スピリチュアルな能力を使用するために必要なのは正確には「神経の活性化」です。

なので、ドーパミンでなくとも、他の神経興奮性伝達物資を使用してもスピリチュアルな能力を得られます。

例えば、大麻をつかったり、あるいは肉体を窮地に追い込みアドレナリンを生成することで超越的な能力を発揮したりします。

飢餓状態で肉体を極限まで追い込みアドレナリンを生み出して超越的な能力を行使する方法は古来より修験者達の間でメジャーな超越能力開発手法ですし、大麻を使ったスピリチュアルな能力の底上げはシャーマンの古来より続く秘技です。

さらに余談ですが、一日一食生活で肉体を飢餓状態に追い込みアドレナリンを生成することにより、普段の生活でエネルギーレベルを上げる方法があります。

ハッキリ言いますが、この方法は非推奨な方法なので、やっている方はやめたほうが良いです。

基本的に、アドレナリンは肉体が生命の危機のような不快な状態になったときに生み出される興奮性神経伝達物質です。

必然的に、アドレナリンを意図して出し続けるためには肉体を不快な状態に追い込む必要があります。

その状態が常になると、肉体的な不快な状態が慢性化して、攻撃的な性格になったり、情緒不安定な状態を生み出します。

さらに本人的にはエネルギーレベルが高い状態に常に置かれることで気分的な高揚や満足感を得やすく、それが不具合を生み出していると気づかない場合があります。

周りの人間から総スカンを喰らうことになりやすいです。

常にエネルギーレベルが高い状態に成ることにより仕事のパフォーマンスが高まるメリットがありますが、それは「古来の戦闘民族的な状態」ですので「安心感」や「人間関係の充実」から乖離しがちです。

サイヤ人である孫悟空は地球人とに同じなったからあれだけの人気者なのです。

サイヤ人のままでは初期のベジータのようなものです。

ベジータはもともとのサイヤ人のままではブルマとは結婚できないですし、幸せな家庭も築けないでしょう。

すくなくとも、ブルマと結婚後のベジータ並になっていただきたいです。
 


いかがでしたでしょうか。

全体的に仮説を重ねているのでこの仮説を支持するに足る証拠はないのですが、内省的考察と様々な形而上学的あるいはスピリチュアル的な事柄からのトップダウンでの演繹で導いた事柄ですので、そこまで間違えていないと自分では思っています。

色々と詳細な研究をする必要があると思いますが、このブログではこの仮設を支持しています。

では今回の記事は以上になります。




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人の生は黄金(きん)色の如く。

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事はタイトルからはわかりにくいですが、「輪廻転生」についてです。


私たち生命あるものは、全て流転しています。

人の一生は夢幻の如くなりなどど言いますが、まさに一瞬の閃光のような煌めきの中にいます。

事実、存在は永遠で終りがありません。

あなたという存在もこれは身体や人格ではなく意識の方ですが永遠です。終りがありません。

永遠に存在し続けると言うことはどういうことでしょうか。

それは百億年よりも、一兆年よりも、どんなに時間が経過しても終わりなく存在し続けるということです。

永遠を定義しようとすると、時間というものはなくなってしまいます。

時間とは、始まりがあって、終わりがあって、その始まりと終わりとの間の期間のこと言います。

始まりがなく、終わりもない、そんな永遠は時間では定義できません。

あえて言うなら、どんな時間より長い刻を刻む時計。とでも言うべきしょうか。

そして、そんな永遠を生き得る私たち生命あるものは、どんな長い生を生きようと、それは永遠の中で言えば一瞬の出来事のようなものです。

百年の生は百億年の中では一瞬ですし、百億年の生も、一那由多の生の中では一瞬でしょう。

そしてそんな永遠の生命を持つ私たちにとって、本当は時間を意味を持ちません。

十数年の生だろうと、五十年の生だろうと、二百年の生を持つ長命な宇宙人だろうとです。

全ては一瞬一瞬を生きることでしかないからです。

後十年は頑張って生きなければ、ということでないのです。

私たちは永遠を生きる存在です。

永遠を生きるというと、厭世的な人は「いつまで生きれば良いのだろう」と途方もない時間に不安や怖れを感じてしまうかもしれません。

しかし、そんな事は心配しなくてもよいのです。

なぜなら、私たちはどんな存在であろうとすでに永遠を生きているからです。

永遠は恐ろしいものでありません。

私たちは、昨日も今日も数年前も数年後もなんてこと無く何食わぬ顔をしながら普通に生きています。普通に日常生活を送っています。
 
そんななんてことのない日々が永遠なのです。何気ない日常の中が永遠なのです。

不安や怖れはドコにもありません。

今日という一日を楽しんで生きている人たちはすでに永遠を生きています。 

永遠に生きる。輪廻転生という言葉を聞くと、何か特殊な感じがして、人によって永遠の苦行と考えてしまいます。

しかしです、それは自然論的誤謬です。

私たちは今日という一日を楽しんで生きることができます。

それが永遠を生きるということになるのです。

今がすでに永遠だからです。

そして永遠を生きる私たちは魂は、経験することを好みます。

苦しみや、悲しみすら私たちの魂には経験することは喜びです。

全ての経験はカラフルなパレットに存在する絵の具のようなものです。

一つ一つの経験は全く同じようなモノに見えても、一つ一つ全く異なる色合いをしています。違う周波数を持ちます。

あなたの魂は存在質から魂化した時は色を持ちません。全くの無色透明です。

あなたは自身の魂に、様々な色をカラフルな経験を用いて縦横無尽に自由な絵を書きます。

どんな絵を描いてもよいのです。

どんどん色を追加して、どんどん上書きをしていきます。

好きなように思いつくままに。

そして、その絵を書いている一瞬一瞬はユニークなものです。永遠の中にあって二度とない瞬間です。

そうなのです。

私たちは永遠の存在です。

しかし、いまの瞬間。全ての瞬間は二度ありません。まさしくユニークです。

もう一度あの瞬間に戻りたい、やり直したい。そう思っても、同じ瞬間は訪れません。

似たような経験があっても、あなたの魂のキャンパスに同じ色を追加しようとしても、それまでに魂のキャンパスに追加することになるので、同じ絵にはなりません。

存在は永遠です。ですが、同じ瞬間の経験は二度ありません。

今がどんなに苦しくても、

どんなに退屈で窮屈に思えても。

悲しみ、切なさも、もどかしらすらも。

あなたの魂にとっては、黄金色に輝く一瞬です。

今はわからないかもしれません。

生きている時は魂の広い視野を持つのは難しいですし、あえて狭い視野の中で濃い経験をする事を好むこともあるからです。

人はいずれ死にます。

何年生きるかは知りません。人それぞれです。

永遠の存在である私たちは、一つの生に執着しませんから、いずれ次の生が欲しくなります。

なので絶対、様々な生を生きることになります。

それが輪廻転生です。

そして、一つの生が終わる度に夢中で生きた人生から醒めます。

夢の中から醒めるように、全てを思い出します。

そのときには、今まで忘れていたこと夢中になって気づいていなかったことすべてを簡単に思い出せるようになります。

子ども頃どんな気持ちでお母さんと一緒にオフロに入っていたとか。

初めて人を好きになった時の気持ちとか。

誰かを傷つけてしまった時の後悔とか。

全部思い出せるようになります。

そのときには前世や自分が魂であることも全部思い出せるようになります。

生きている時は、それが思い出せないだけです。

ちゃんと記憶は魂の中に存在しています。

覚えているか覚えないかというか、思い出せるか思い出せないかの違いでしかないです。

その時にあなたは全ての瞬間がまさに黄金色に輝いていたということに気づくはずです。

今それを感じることが出来なくても、安心してください。

安心して、悩んだり、悔やんだり、一生懸命になったり、楽しんだり、ハッチャケたり、いろんな事を試したりしてください。

悩みたいことがあるなら思いっきり悩んでください。そして、悩みの向こう側を見つけてください。

悔やむことが合ったも、安心して悔やんでください。悔やんではいけないということはないです。

一生懸命になって、真剣に生きることが楽しいなら、いっぱい一生懸命になったください。

楽しんでいるときは安心して楽しみましょう。

はっちゃけて羽目を外しても、反省したり悔やんだりしながら、はっちゃけるのを楽しんでください。

すべての経験は黄金です。

あなたの魂を意識をカラフルに七色にそれいじょうに染め上げる美しい絵の具です。

永遠に終わらない創造の遊びを楽しみましょう。

この記事の内容がまるで理解できなくても、心の何処かに気に留めておいてください。


いかがでしたでしょうか。

今回の記事は「輪廻転生」がテーマな十八歳未満お断りなゲームをやっていて思う所があったので書きました。

私は二十代の男子(恋人なし)なので、そういったゲームはよくやります。

現代の日本のサブカルチャーの作品の中には「高次元の智慧」にアクセスできるような作品は結構多いです。

インターネットのオンライン無料小説や、ちょっとエッチなゲームや漫画やアニメ。

色々な所に「高次元の智慧」にアクセスしてきたかのような作品は結構転がっています。

この界隈に生息している身としては、日本人のオタクの霊的な成熟度の高さが世界の中でもかなり高いんじゃないかと思いってしまいますね。
 
実際に私は人生を生きる知恵の多くはそういった「物語」から学んでいます。 

昔の人が「桃太郎」を子どもに読み聞かせる事によって、情操教育を施したように。

現代の若者は、様々な漫画やアニメや小説やゲームを楽しむことによって、「高い霊的な感受性」を育てているといえますね。

それをどう捉えるかは各人におまかせするとして、個人的にはそのような作品がとても良いものだと思います。 

名作に出会えた時に感動は素晴らしいものです。

まあ、このような話題が苦手方もいらっしゃるかと思うのでここまでとしておきます。

では今回の記事は以上にになります。

ではでは。 



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たまには雑記。女性性(脳)、男性性(脳)、オス、メス

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、女性性や男性性等に関する雑記です。

男性性は男性脳優位あるいは左脳優位の性質の事です。

女性性は女性脳優位あるいは右脳優位の性質の事です。

左脳は、「目的思考。管理・支配・コントロール。導く。手に入れる(選ぶ)愛。短・中期的戦略。分析。抽象的思考。能動的・選択的集中」などと言った性質を持ちます。 

右脳は「今ここを楽しむ思考。援助・支援・受容。自由放任。 受け入れる(選ばれる)愛。長・超長期的戦略。統合。具体的思考。受動的・並列的集中」などと言った性質。


古来の狩猟生活を考えると色々見えてきます。

男性の仕事は主に狩り。命をかけてその日を食い扶持を稼ぐ仕事です。

必然的に、短期間で確実に成果を出すための思考・性質を強めていきました。

ある目的(食料を手に入れる)をもって、集団を管理して導いて行動します。

命がけの仕事だから、集団のメンバーが命を落とすことももママあります。

それを踏まえて集団的な戦略を用います。

分析や抽象的思考をもって狩りの道具を作ったり、発明したりします。

偉いメンバーほど死ににくいので、みんな命がけで偉くなろうとします。

部下や後輩の指導は、徹底的に厳しく居教えて基準達するように導きます。

また、食料を手に入れて、その成果として女性も手に入れようとします。

強い男ほど子孫を残す重要性があがりますので、そのような男性は複数の女性を囲みます。逆に弱い男性は、女性と結婚できる可能性がないか多くても一人や二人だけです。


女性の役割は、子育て・食料の管理・衣類や生活に必要な小物の創作などです。

基本的に子育ては長期的な視野を持ちます。

十年・二十年あるいはモット長いスパンで行います。

ある目的をもって行うというより、広い視野をもってその時その場を楽しむ様に子どもを育てます。

また、基本的に命をかけないので、 子育ては非常にのんびりしたものになります。

ある基準に達していなくても、死ぬこともないのでそこまで厳しく指導しません。

子どもたちがよく育つように、支援して、援助して、時には短所も受容して全体の中でバランスを取ります。

基本的に、生活に食料や小物は男性が狩って来たものを用いるので、いかに男性に贈り物をしてもらうかあるいは選ばれるかが重要です。

抽象的に考えたところで、子育てに黄金率(ゴールデンルール)はないので基本的に物事を、個別具体的に考える様になります。

仕事内容は主にコミュニケーションを取るものなので、コミュニケーション能力は上がります。重要視されます。

ただしそのコミュニケーションは目的あってのものというより、日々の情報交換なのでとりとめのない会話が多いです。


私は、古来の女性と男性の生活をそのように想像しています。

このような男性性と女性性の雛形があるのではないでしょうか。


基本的にこのような男性性と女性性の性質の違いがあるとします。

そう考えると、現代社会の多くは男性性の性質に傾いているといえるでしょう。

西洋社会は元々男性的です。

目的思考。管理・支配・コントール。短・中期的な戦略が西洋初のグローバリズム、自由主義経済、資本主義の根本の価値観としてあります。

経済を大きくして、豊かになることを目的とした思考。効率よく仕事を行うために、規則や管理体制を強化して、労働者の生き方すらコントロールしようとする。世界の行く末を考えず、とりあえずの金儲け、とりあえずの豊かさをめざす短期的視点。

そういった、ものが今までの西洋社会には根本的にありました。

男性性の価値観はそれはそれでよいものですが、男性性の価値観だけで世界を回そうとしてもニッチもさっちも行きません。

古代の狩猟生活においても、男性的な役割を集団全体がこなしていたら、集団は維持できなくなります。

とかく、子育てにはことごとく失敗してすぐ民族が滅びます。

しかし、だからと言って全員が女性的な役割を集団全体がこなしていたら食料を得るのも難しいでしょう。

偏りすぎた価値観はバランスが取れるところまで戻した方が良いです。

日本は面白いところで、基本女性性が強い国なのですが、女性性の価値観も極まで極めると男性的にもなります。

「陽極極めれば、すなわち陰となす。陰極極めれば、すなわち陽となす。」

という言葉もありますが、女性性も極めると男性性を帯びてきます。

簡単なところで言いますと、「選ばれる性」と言われる女性も、選ばれた過ぎると、「選ばせる性」になるのです。

女性の肉食化ですね。

また、それと同じで男性性的な社会である西洋社会も男性性を極めた結果女性性を帯びてくることもあります。

ちなみに、女性性の極みは「日本。もっと言うと東京」ですが、男性性の極みは「アメリカ西海岸。もっというとカリフォルニアとかシリコンバレー」ですね。

東京の考え方と、シリコンバレーの考え方は基本的に対極ですが、正反対すぎて逆に親和性は高いですね。


話は変わりますが、男性社会で出世する・偉い地位にいる女性はことごとく男性的な女性ばかりです。

管理職の女性の割合などを女性の人権の指標することがあります。

しかし、今の社会で女性の管理職を増やす行為は、女性の男性性を強くして、「名誉男性」な女性を増やすことでしかないです。

多くの女性はそもそも男性性がそこまで強くないです。

多くの女性は男性的価値観が強い会社のさらに強力な男性性が求められる管理職は適しません。

管理職の女性の割合が女性の人権の指標になるというのは、そもそも根本的な勘違いをしていると思います。

おそらく多くの女性は、管理職になることのデメリットの方を多く感じているのではないでしょうか。

霞が関のおっさん達や、そのなかに入っても全然平気な男性性の強い女性の考えることは結構偏りがあります。

非常にナンセンスであるとしか言いようがないです。


自分の付き合った男がことごとく浮気するという女性が世の中にはいるようです。

そういった女性は非常に女性性に偏った人間である事が多いです。

自分が女性性に偏った人間なので、男性性に偏った相手に本能的に惹かれる傾向があります。

昭和の時代もそうでした。

多くの人達が、男性性や女性性に偏っているのが当たり前でした。

夫婦や恋人内で上手くバランスを取っていたともいえますが、基本的に男性性の強い男性は女性性的価値観をあまり理解してくれませんし、逆もそうです。

夫婦間でバランスは取れていても、喧嘩や諍いや相互不理解もそれなりに多かったのではないでしょうか。

今の時代の若者は、男性性と女性性のバランスが取れている方が多いと思います。

そんな時代の男性・女性は、一方の性質に偏った古い世代の方にしてみれば、軟弱な男性・でしゃばりな女性とか思われるかもしれません。

しかし、古い世代の方の性質が偏っていたために起きた不具合は、これからは解消されて行くと思います。

自分の性質の偏りにも気づかず、自分と正反対の相手を批判するのは非常に面倒くさいだけです。

そういった事態が減るので、なかなか生きやすくなるのではないでしょうか。


自分の中の男性性的価値観と女性性的価値観を簡単にチェックする方法があります。

男性は
 ヤンキー漫画の喧嘩が強い主人公に自分がなったとして、それが気持ちいいと感じるかか。 

女性は
 少女漫画の俺様イケメンと恋するラブコメヒロインに自分がなったとして、それが気持ちいいと感じるか。

おそらくですが、これで自分がどういったタイプになるのかわかります。

 実は、ヤンキーマンガの喧嘩が強い主人公とヒロインの構図と少女漫画の俺様イケメンと恋するラブコメヒロインの構図は、ほぼ同一です。
 違いは、女性側から描かれるか、男性側から描かれるかと、絵柄とテーマがどっちの性に偏っているかでしかないです。

 ヤンキー漫画の喧嘩の強い主人公は典型的オスタイプですし、俺様イケメンとのラブコメヒロインは典型的なメスタイプです。

 ヤンキー主人公に感情移入して気持ちいいと感じる方は男性性が強いです。

 俺様イケメンとラブコメするヒロインに感情移入して気持ちイト感じる方は女性性が強いです。

 度合いの測定は出来ませんが、どっちに傾いているかの簡単な識別方法です。

 この理論を発展させると、「ヤンキーと付き合う女性のハローキティが好き率高い」や「中学の時に可愛いと思った女の子がいつの間にかヤンキーと付き合っていた現象」がよく理解できるかもです(笑い)


当たり前ですが、女性の中にも男性性の強い女性は居ますし、男性の中にも女性性の強い方は居ます。

よくある、「男性はこう扱え」「女性との接し方」的なハウツー本は一方の性質が偏った方向けのもう片方の性質が偏った方への対応指南書です。

これからの時代、そのような型にあてはまる関係はどんどん減っていくし、色々なバランスを考えていないので、あまり当てになりません。

オス的な男性がメス的な女性の考え方を学ぶとか、その逆とかなら価値を感じます。

しかし、私のような男性性と女性性のバランス型、どちらも高いレベルで併せ持つ人間からしてみたら非常にナンセンスな物言いをしているので、あまり男性は~とか女性は~とか書いてある情報源は当てにしないことをおすすめします。

ちなみに、私dokubo_toshoは占い、心理テスト、利き脳診断、他者評価、自己評価全てにおいて、ほとんどバランス型と言われます。

バランス型もバランス型で弱いところもありますが、両方の価値観を違和感なく理解し受け入れることが出来るのが良いところです。


最後に、

 基本人間は脳内の血流操作を、頭蓋骨の周りの筋肉を操作することで行っています。

 なので、右脳ばかり使って右脳にばかり血流を送り込む人や、その逆の人は頭蓋の周りの筋肉の発達度合いを見れば結構簡単にわかります。

 どちらか一方ばかり使っていると、歪みが出てくるのです。

 逆に、両方の脳を上手く使っている人は、左右両方の脳に血流を送るので、頭蓋の筋肉が左右のバランスが良く発達して、いわゆる「整った顔立ち」になります。(イケメンとか美人とか言われると若干違います)

  またこれと同じで、大脳によく血流を送っている人は特徴的な頭蓋の筋肉の使い方をしているので、これも結構簡単にわかります。

 テレビでコメンテータの方が人の話を聞く用意をして考えて喋っているのか、ただ自分の持論をぶちまけているだけなのか頭蓋の筋肉の使い方を見ればわかります。
 
 前頭前野に血流を送らず、テレビでコメントしている人をみると「なんも考えて喋ってないな」と思います。

 見る人が見れば一目瞭然です。

 直観が鋭い方は、言葉では説明しにくいそのような相手の頭蓋の筋肉の微妙な動きを認識して、相手がどのような状態であるかわかると思います。

 女性性の強い女性は特にそのようなものを言葉では説明できないですが、すぐ察知します。

 だから、女性性の強い女性は男性性の強い男性の浮気をすぐ見破れるのですね。

 しかしまあ、女性性が強くない女性もいます。

 そのような女性は、自分は女性だから男性の嘘はすぐ分かると思っていても、思っているだけの場合がほとんどです。

 そのような女性は、「私は女だから」と勘違いして嘘を見抜けると思って全く検討違いな事を思う場合もあるので注意しましょう。

 また、男性性の強い女性と女性性の強い男性のカップルの場合は、男性の方が物事によく気づく場合もあります。

 そのような場合、女性の方が「私は女だから」と言う理由で男より気が利くとか気がつくとか思っていると、色々めんどくさいことに成るので注意が必要です。

 男性も同様です。

 本質的に女性性が強いタイプの男性が、「男はかくあるべし」のような価値観に染まっていると自分の本来性を抑圧することなります。
 
 挙句、そのような価値観にそって社会の「上流層に加わりたい」と頑張っても、「たとえ目的を達成したとしても、嬉しくない」という状態になります。

 そして、そのようなタイプの男性は「メス的な女性」にはほとんどの場合好かれないです。

 そういうタイプの女性に好かれようとしても「けっこうしょうがない」です。

 また、自分が結構細かいことに気づくということも無視してしまう傾向にあるので、注意が必要です。


雑記は以上になります。

doubo_toshoはバランス型の脳と価値観の持ち主です。

常に中立と言うものではなく、仕事では男性性を強く発揮して、私生活では女性性をよく発揮するとか、そんな感じで使い分けています。

なので、私の男性性が強い状態しか知らない人は、私を男性的と思うかもしれないし、逆もしかりです。

読者の皆さんも基本そんな感じの方が多いと思うので、あまりとらわれてもあれですね。

また、男性的な愛も女性的な愛も、両方愛です。 

スピ系のメッセージは、基本的に男性性に偏った社会へのメッセージなので女性性を発達させる様に促していますが、男性性が必要ないとかそういうはなしではないのでご注意を。

だから、女性性の強いふわふわ系の女性が、スピ系の内容を信じ込んで溺れてしまうということがあるのです。

そこら辺は、自分で考えてバランスを取る必要があるのは言うまでもないですね。

そして、言うまでもないといってだれも言わないから、そういう落とし穴にハマる人が出てくるわけですよ。

言うまでもないことは言わない、という態度を多くの方が取るからこうなる。

当たり前だから言う必要ない(と思っていること)ことや、そもそもの前提条件はしっかり提示したほうが良いと私は思いますがね。
 
マジでマジで、です。 

もちろん今回の記事もほぼ仮説ベースの考察です。

十分注意して記事内容を咀嚼しましょう。

では、今回の記事は以上になります。




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スピリチュアル用語集2

スピリチュアル用語集

このブログが勝手に行っていることなので、このdokubo_toshoはそう認識している程度で考えください。

魂 ≒ スピリット(存在質から分離したある物理世界にフォーカスする個としての魂) 

魂 ≒ ソウル((様々なパラレルワールドの)スピリットを包括する、大きなレベルでの魂)

注 高次の世界では、ソウルまでが一個人として扱われる。

意識を高次の世界に拡張して行き、複数のパラレルワールドで活動するスピリット(自分自身)をソウル(より大きな自分自身)として捉える事ができるようになる。

単純な比喩として、パソコンでキーボードを使用して文章をタイピングしている時は、意識の焦点は手や腕にはあるが足や背中にはない。

タイピングをしている時に、足がしびれてきても気づかないでタイピングすることが出来る。

意識の焦点の中に足はないが、あたりまえのように足はあるし普通に動いている。

高次の世界での、他のパラレルワールドの自分はタイピングに集中している時の足のようなもの。

意識できないし、あることを忘れているがしっかりと活動している。

意識のフォーカスがドコにあるかの問題なだけ。

これが、人間の意識は多次元的な存在といわれる理由。

ハイヤーセルフ = ソウル

オーバソウル ≒ 複数のソウルを包括したソウル(複数のソウルの周波数帯が統合されたより幅広い周波数帯にフォーカスする意識、個とはあつかわれない。オーバーソウルのオーバーソウルとかある。最終的に存在質より狭い周波数帯を全て包括するところまでオーバソウルは広がる) 集合意識

ハイヤーマインド = 魂(スピリット)の小脳等に組み込まれた魂の潜在意識(自動プログラム)

マインド ≒ フィジカルマインド = 肉体の小脳等に埋め込まれた潜在意識(自動プログラム)

理性 = 意識的思考 = 魂からの思考 = 大脳新皮質からの入力による思考、想像

ハート = 自律神経系、太陽神経もうの反応 = 肉体的な感情的反応

神経ホルモン = 人間の意識エネルギーを臓器が物質化したもの

アストラル体、コーザル体等 = ソウルの周波数がほとんど0。多次元的なソウル中にある肉体の周波数はそれなりに高い ソウルの周波数0の部分から肉体の周波数を合わせている部分まで周波数は段階的な徐々に高くなっている。その段階的に異なる周波数の層に対して色々名前がついているだけ。

いわゆるハート(自立神経系、太陽神経もう)の感情の反応は、潜在意識に組み込まれた「観念、ブリーフ」が入力元の物と、意識的思考、想像、松果体のエネルギー受信からの入力元のものがある。

ホルモン系が働きハートに影響を与えている時は、それが自分の魂からものか肉体からのものか区別しにくい。

なので、肉体的な不快感や苦痛が全くないリラックスした状態で、瞑想すると自分の魂からの反応がよく分かる。

(その胸のドキドキは、ときめき、それとも恐怖?的なやつ)

似たような例に、有名な「吊橋効果」がある。




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潜在意識、エゴ、マインド、あるいは観念、ビリーフ、埋め込まれた自動プログラム

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は題して「潜在意識、エゴ、マインド、あるいは観念、ビリーフ、埋め込まれた自動プログラム」です。


心理学など様々な世界で「潜在意識」と呼ばれるものに関しての記事です。

潜在意識と呼ばれるものは、エゴセルフ、マインドと呼ばれるものとほぼ同一と考えて下さい。

注 このブログでは潜在意識とエゴセルフ、マインドを同一のものとして取らえますが、人によっては微妙に違う使い方をしているので気をつけてください。

一般的に潜在意識の説明に氷山の比喩を用いる事が多いです。

意識を海に浮かぶ巨大な氷山に例えます。

海上に飛び出た部分を顕在意識。

海上から見えない海中にある隠れた部分を潜在意識。

一般に顕在意識は氷山の3割、潜在意識を7割を占めると言われます。

ですが、この説明は観念やビリーフの説明をする時に上手くいきませんし、さも自分の潜在意識は自分の心の深いところにある本当の部分と思わせるような節があるので、このブログでは採用しません。

なので、別の説明を用います。

人間をコンピュータに例えます。

あなたの肉体はコンピュータのハードウェア。

あなたの意識はコンピュータのソフトウェアを作成して、コンピュータを使って様々な事をしたいプログラマ。

あなたの潜在意識は、コンピュータを上手く動かす為に稼働しているOS(オペレーティング・システム)。

単純な役割としてこのような比喩が適切でしょう。

プログラマー(あなた)はコンピュータ(肉体)のスイッチを入れた(おぎゃあと産まれた)瞬間から、コンピュータ(肉体)を動かすためのOS(潜在意識)のプログラムをシコシコせっせとプログラミングしてきました。

赤ちゃんの時はおぎゃおぎゃ泣いて母さんのおっぱいを(エネルギー源)を求めながら、手をグーパーしたり、だぁだぁ腕を振り回したり、寝返りうったり、はいはいしたり、たっちしたり、つかまり歩きをしてたりして、実際に肉体の動かし方をOS(潜在意識)にプログラミングしました。

もうちょっと大きくなって、言葉(日本語)を覚えてからは、親や周りの大人、テレビやアニメや、マンガや絵本、ドラマやニュースが、テンプレートプログラム(規範行為)や、日常で使われるルーチンプログラム(食事の仕方、トイレの使い方など)、感情誘発プログラム(道徳、倫理)、または社会が提供する集団プロトコル(他者との同期を取りながら仕事をするためのプログラム)をあなたのOSに組み込んできました。

(ちなみに、言語の習得は「同調・模倣・共感システム」を利用した半自動学習)
 
これらのプログラムはあなたが意識しなくても、OSに組み込まれた瞬間からあなたの(顕在)意識的活動の裏で常に自動で稼働しています。

いわゆるバックグラウンドプログラムです。

あなたの顕在意識的行動は全て、これらのOSに組み込まれた自動プログラムの上でそれらを利用して行われています。

(ITに関して知識がある方になら、全てのアプリケーション(顕在意識の活動)はOS(潜在意識)が提供するAPI(潜在意識に組み込まれたプログラムとハードウェアを利用するための便利なプログラム郡)を用いる、と言えます。)

なのですが、現代人は多くの場合このOS(潜在意識)に問題を抱えています。

言葉を覚えてから他者から組み込まれたプログラムの中には、生きる上で不具合を起こすプログラム(バグ)がたびたびあるからです。
 
多くの場合、その不具合を起こすプログラム(バグ)を知らず知らずの内にプログラミングされてしまった事を知りません。

また、潜在意識の古い例えである「氷山の例え」から、それを自分で気づかない自分の本心と捉えてしまうこともあります。

そのため、OSに埋め込まれてしまった不具合を起こすプログラム(バグ)をOSが取り除くこと無く、日々の生活を生きてバグが引き起こす問題に悩ませています。

また、バグだけならまだ良いのですが、社会の支配者層などから植え付けられた悪意のあるプログラム(マルウェア)が存在することがあります。

この悪意のあるプログラム(マルウェア)それを利用して、支配者層にあなたの行動をコントロールされるための悪意ある命令のOSへの中継箇所(バックドア)となるものから、あるいはあなたの本来の能力を制限するためののものや、正常なプログラムに見せかけた中に仕組まれたもの(トロイの木馬)まであります。

なので、そういった不具合を起こすプログラム(バグ)や悪意のあるプログラム(マルウェア)に関しては、徹底的に見つけ出して、取り除き、再プログラミングする必要があります。

特に肉体の制御という意味でのOS(潜在意識)のコアな部分以外のプログラム、特に感情誘発プログラム(道徳、倫理)や、テンプレートプログラム(規範行為)といった「観念、ビリーフ」に関してはえらい多くの不具合のあるプログラム(バグ)や悪意のあるプログラム(マルウェア)が仕込まれています。

人によってどんなものが、どれだけあるかは様々です。

ですが、不具合のあるプログラム(バグ)や悪意のあるプログラム(マルウェア)は少なければ少ないほど、生きるのが楽なうえ楽しいです。

なので、それらを取り除き再プログラミングすることをおすすめします。

やり方は至極単純です。

それらは言葉を使ってプログラミングされたので、取り除いて再プログラミングするのも言葉を使います。

そのためには、自覚的に自分の言動や感情を見るようにして、そこで問題を起こしている言動(無意識の反応)から反応を生み出している(形成している)、感情誘発プログラム(道徳、倫理)やテンプレートプログラム(規範行為)等の「観念、ビリーフ」を発見する必要があります。

発見の方法は、自分で「やっちまったぜ」と思った言動があった時に、なぜ自分はそうしたかを自分の心に問いかけます。その時にすなおに思い浮かんだ答えがその言動に付随するあなたの「観念、ビリーフ」です。

発見したら、それを論理的に理性的に感覚的に再検討してみて下さい。

再検討して、その「観念、ビリーフ」が「不合理」や「割に合わない」や「好きではない」と思ったのならば、それを「捨てると宣言」してください。(声に出して実際に、〇〇という観念を捨てますと、言います)

捨てる宣言した後に、本来の自分、あるいは未来の自分に相応しい新しい観念を採用すると宣言してください。(私は、△△という観念を採用します、と声にだして言います)

その後、実際に新しい観念を通りに行動して、新しい観念を潜在意識に定着させます。

それで、再プログラミングは終了です。

また、大事なのは必ず取り除くだけでなく、再プログラミングをする必要があるということです。

捨てると宣言した観念も直後は、古い観念の刺激→反応の神経ネットワークは残っています。

残っているので、新しい刺激→反応の神経ネットワークを構築して入力と出力をバイパスしてあげないと、どうしても古い神経ネットワークが活性化されてしまいます。

そして、古い神経ネットワークではなく、新しい方を活性化させ、実際に行動する事で新しい観念を形成している神経ネットワークを強化して定着させます。

そうすると、古い神経ネットワークと古い観念は不活性化され最後には痕跡残らず消えてしまいます。

なので、新しい観念を手に入れずに、古い観念を手放すという「捨てるだけ」はできません。

常に「自分にとってどのような観念が好ましいか」を考える必要があります。

また、他人に「それはバグだ」とか「それはマルウェアだ」と言われても、あなた自身が「その観念は自分に好ましくない」と思わなければ、再プログラミングは必要ありません。

それは第三者からのプログラミングを受け入れる行為です。

別のバグやマルウェアを埋め込まれる危険性もありますし、基本的に自分のOSの再プログラミングを他者に預けるのは、責任ある人間としては褒められない行為です。

自分のOS(潜在意識)のプログラミングを他者に任せるようでは、プログラマ(意識ある主体者)の成長にもよくありませんし、いつまでも三流プログラマのままになってしまいます。

自分が作ったプログラムに責任を持ちましょう。

気に食わなければ、その思った度に改修すればいいだけです。

また、自分がプログラマとして成長することを望むように、他のプログラマも成長を信じて見守りましょう。

それが、プログラマ(意識ある主体者)としての心構えというものです。



いかがでしたでしょうか。

人間の意識というのは、魂とも表現され人間の主体や本質と言われるものです。

それは多くの場合、理性として現れ主に大脳新皮質を経由して入力され、肉体の保有するリソース(運動機能、感覚機能、記憶機能、代謝機能等)を利用します。

一般に潜在意識と呼ばれるものは過去に脳の小脳等に埋め込んだ刺激→反応の自動プログラムです。

特定の状況や刺激に特定の反応を返します。

特定の反応は「感情。思考。感覚。動作、内蔵の働き等」です。

本来ならば、この潜在意識はいちいち意識的思考を要せずに身体を操作することができる、物理世界で意識の主体者(魂)が自由に生きるための肉体の補助機能です。

もちろん、潜在意識が上手く動いてくれなければ呼吸や排泄というのもうまくいかないので、基本的に潜在意識は意識の主体者(魂)の味方あり必要不可欠な存在です。 

本来ならそれ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。

しかし、多くの現代人はそれに対して無知です。

最近では心理学やNLPや認知科学が登場して、やっと体系的な知識として組み上げられてきましたが、魂を考慮しないそれらはまだ微妙に未発達です。

心の制御方法は、仏教や密教やスピリチュアルなど非科学の分野がまだその扱いが得意です。

できれば、非科学方面からも科学面からも心や意識について知識を収集することおすすめします。 

潜在意識という補助機能を上手く使ってやろうというのが、願望実現だったり潜在能力開発だったり、洗脳だったり、マインドコントロールであったりするわけです。

基本的に、潜在意識を利用した願望実現、マントラやアファメーションを利用した潜在能力開発、(自己・脱を含む)洗脳法、マスメディアを利用したマインドコントロール等は、この補助機能のハッキングによって行われます。

ニュートラルにはハッキングですが、悪意をもって行われればクラッキングにもなります。

潜在意識のハッキングを他者に許す行為は、信じられないくらい危険です。

理性的思考がいくら魂による不可侵の行為でも、潜在意識に悪意あるプログラムを埋め込まれると普段の日常的行為のコントロールくらい可能です。 

とくに、OS(潜在意識)の仕組みに疎い人にとっては、バグやマルウェアを取り除くのもなかなか難しいです。

私は、認知科学者の苫米地氏の著書からこの領域に足をつっこんだのですが、日々スピリチュアルな世界からも情報を収集して、仮説の補強やノウハウの蓄積を行っています。

そうして世の中の色々なことに気づいたのですが、意識にやっているのか無意識にそのような行為をしているかは様々だと思いますが、マインドコントロール、洗脳の原理はさまざなところで利用されています。

悪意がなければ良いのですが、悪意がないからと言って害がないとも限りません。

日々注意深く、理性と直観と実践をもって色々検証しています。

そういったモノを普及させずとも、情報は公開して読者の皆様が有効に活用できるように、ノウハウやそれの元になった仮説を公開しているのです。

このブログの情報は基本自己責任で使っていただき、個々人で上手くリファインアジャストしていただけたらと思います。

そして当たり前ですが、このブログの記事は基本的仮説オンリーです。

すでに証明されていたり、一般にそう言われているというわけでは決してありませんのでご注意をお願いします。

またできることなら、このブログの記事を読むなら一般的な心理学や認知科学や物理学も学んで、記事内容は世間一般ではトンデモ仮説の部類に入るということを理解した上で扱うことをおすすめします。 

このブログがあなたをマインドコントロールしても仕方がないので。




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願望実現でなぜ「期待すること」が問題になるのか

おはようございます、dokubo_toshoです。

今回の記事は、願望実現法においてななぜ「期待する」ということが度々願望の成就をブロックすることがあるのかということについてです。

結論から書きます。

なぜ「期待する」と願望の成就をブロックするのか、それは「願望が叶うのが怖いから」です。


おやおや、と思った方も多いでしょう。

望んでいる願望が叶うのが怖い。

叶えたいから願望をもっているのに、そんな矛盾するようなことが起こるのでしょうか。

それはひとえに、皆さんが「思考と現実は乖離するもの」、つまり「願望は叶わなもの」と社会から洗脳気味に教えられてきたからです。

私たちは常々、「望みを叶えるには~」とか「望みを叶わないかもしれない~」とか考えます。

すくなくとも、「望んだことはあたりまえに叶う」「望みを叶えるには格段の努力は必要ない」「望めば叶う」という思考をもって「願望実現法」に行き着く方は少ないと思います。

そんな私たちが、願望を抱く時には「当たり前に叶う」という前提で願望をもっていないです。

逆に、殆どの場合「願望は叶わないだろう」という予測のもの、好き勝手あーなりたい、こーなりたいと「自分に最大限都合の良い妄想や願望」を抱きます。

そして、それは実際にその願望が叶った状態になったときに自分の人生がどのように変わるかと言うことはあまり考えません。

多くの場合、そこまで深く考えることがないから、好き勝手安心して想像して妄想して悦に浸ることができるのです。

なので、私たちが願望を抱く時に大抵の場合は「叶わない事を前提に願望をあまり真剣に考えず」抱きます。

しかし、これは地球の生きる人達の性なのですが、そのような状態でも願望を叶える努力や思考錯誤をすることができます。

それは、「現実と思考が乖離している」状態が私たちにとって、そもそも当たり前なので「叶うと思っていない願望を叶えるために頑張る」という乖離の行動を苦もなくできしまうからです。

そして、私たちは努力の末「願望が実際に叶いそうになる」時に、ほとんど場合足踏みしてしまいます。

それはそうでしょう、「叶うと思っていなかったけど叶えるために努力してきた願望」が「叶いそうになる」のです。

本人的にあまりに異常事態です。

というか、「叶うと思っていなかったからこそ、安心して望み、努力することができた」のです。

それが実際に叶うのです。

「願望が叶うかもしれない、という興奮」で心臓はマックスビートです。

その興奮はハッキリ言って、かつてない興奮です。

その叶いそうになる願望が「心のそこから叶って欲しいと思っている」心底の願望であればあるほど。

ハートの興奮は本人の人生でかつてないものになります。

多くの人は、その興奮。つまり、自らの意識のエネルギーレベルの高鳴り。魂の高揚がとても苦手です。

それは、今まで経験したことがないことだからです。

さらに、ハートからの興奮は、恐怖からの興奮と違います。
 
恐怖はある種テクニックが有れば減ずることが容易に可能です。

しかし、ハートから興奮はそれが心底の本音であるため、減ずることが出来ません。

そして、恐怖からの興奮より何倍も何十倍も興奮するのです。

なので、多くの人は願望が叶いそうになると、「ハートからの興奮という異常事態に恐怖してしまう」のです。

大抵の場合逆に「願望が叶いそうになったら、願望を叶わないような行動をとり、ハートの興奮を避ける」という行動を取ります。

それが、「期待すること」が願望の実現をブロックすることに繋がるのです。

期待していると、「願望が叶いそう」という予兆があると「ハートが興奮して、そして恐怖を抱き。願望が叶わないような行動にでる」ということをしてしまいがちです。

しかし、「期待する」という事をしなければ、「願望が叶いそう」という意識を持たず「眼の前の物事に集中する」こことができ、かつ「叶いそうになって恐怖して、叶わないための行動を取る」ということもしなくなります。

本来は、「期待する」と言う行為は別に願望の実現を妨げる事は特にはありません。

しかし、私たちの「現実と思考は乖離する」という社会文化の中で願望を実現しようと思った時は、「期待する」と言う行為が「恐怖の源泉」になるので、微妙に妨げになってしまいます。

あなたにも、経験があるのではないでしょうか。

何気なく望んでいたことが、ふとした拍子に叶うかもということになる。

その時に、急に心臓がバクバクしてきて「意識の中ではその興奮にかるく恐怖を感じている」時を。

大きな望みに成ればなるほど、その「興奮」も「恐怖」も大きくなります。

なので、願望を実現する時には「願望が叶いそうになる時に感じる恐怖」を手放す必要があります。

興奮は仕方ありません。

それは避けられません。どうしても叶う直前はエネルギーレベルが上ってしまいます。

なので、恐怖を手放す。

つまり、「願望は当たり前に叶う」と言う思考や「叶うと思って、願望を抱き。行動する」という習慣を身につける必要があります。

それをしなければ、どうしても期待のエネルギーは「叶うことを恐怖する」エネルギーを生み出していまいます。

それでは、叶う願望も叶いません。

「思考と現実は乖離しない」という認識を手に入れ、実際に「思考と現実を一致させる」必要があります。

多くの現代人は「思考と現実は乖離する」という観念を魂の根本レベルで身につけていたりするので、それを手放すのは勇気がいるかもしれません。

しかし、それをやれば「格段に願望実現が上手くいく」ようになるので、ぜひともやっていただきたいです。

やり方としては、「私の思考は常に現実と一致する」とでもアファメーションをするのも良いでしょう。

方法は自由です。

あなたの、マインド(潜在意識の中の自動化された反応。思考。感情)を上手く調教する必要があります。

少々時間はかかるかも知れませんが、確実に行う必要があります。

丁寧に、勇気を持って行いましょう。


いかかでしたでしょうか。

「願望実現でなぜ「期待すること」が問題になるのか」

私は、この「叶う事が怖い」や「叶うと真剣に思っていないのに、望んでしまう」という特性は昔から承知していました。
 
そして、昨日の夜そんな観念と向き合ってみました。

向き合った結果わかったことを、いち早く読者の皆様と共有したいと思い朝から記事を書いています。

このブログの記事が「おはようございます」から始まるのは初めてではないでしょうか。


では今回の記事は以上になります。

ではでは。 



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墓と先祖供養。波動の相似形における共振。

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、墓と先祖供養に関わる、波動の相似形における共振についてです。


まず第一に、あなたとあなたの先祖は同じ構造の遺伝子を持っています。

そして、形や構造というのは、エネルギーの表象です。

つまり、Aと言う形とA'の周波数というのは1対1の関係で結びついています。

また、宇宙空間での座標というのも1つの周波数で記述されうるものです。

物理空間ではエネルギーの周波数によって、自動的に各エネルギーとの相対関係、相対位置、相対構造というのが決定されます。

そして、物理空間上の位置が違えばそれは周波数が違います。

しかし、物理空間上の位置が違っても、物体の3次元的構造が同一で有れば、それは周波数の相似の関係になります。

なので、あなたの身体の細胞の中の遺伝子と、あなたの先祖の遺骨の細胞の遺伝子が同様の構造であれば、それは波動に関しては相似の関係になります。

そして、物理空間上の位置が違うだけの、3次元的構造を同一にする相似の関係の波動は互いに共振し合うのです。

この共振はエネルギーの法則によって、自動的に行われるものになります。

なので、例えば自分の先祖の墓をエネルギー的に(例えば風水的に)好ましい場所の配置して、先祖の遺骨に対して好ましいエネルギーの影響をあたえることによって、その遺伝子を継承する子孫が好ましいエネルギーの影響を受けることになります。

これは、逆もしかりです。

例えば、あなた自身がいわゆるアセンション?をして、自分の身体を遺伝子含め存在質に近い周波数の低いエネルギーに共振させることにゆって、あなたの先祖や子孫などあなたの遺伝子ど同じ構造の遺伝子を持つ人達にも同じように低い周波数の宇宙の根のエネルギーの影響をおよぼす事が可能になります。

なので、今現在生きているあなたが自身の周波数を軽くすることにって、(多次元的な)宇宙に存在する同一の構造を持つ遺伝子を持つ存在の助けになるのです。

つまり、今生きているあなたが幸せになるのは、最も簡単な先祖供養になります。

それは全て、波動の相似形が共振し合うというエネルギーの性質によってなのです。
 
ちなみに、位置の変化が周波数の変化というのは、私が買った「よくわかる 量子力学 前野昌弘著」の「物質と粒子性と波動性」の章に書いてある内容からヒントをもらっています。

(まあ、スピリチュアルの世界でまことしやかに言われてはいますが)

量子力学の波動関数においては、物体の衝突から起きる運動は物質波の波長が変わるということで説明ができるらしい。

私は詳しくはあまり説明できないが、 そういうことらしいです。

つまり、ビリヤードの玉突きのように、物体同士の衝突でものが動くというといのは周波数の変化が必須らしいのです。

逆に言えば、周波数が変わればモノノ位置が変化するということにもつながるのではないでしょうか。

つまり、周波数というのがモノの位置に置いてかなり重要な面で関わってくるようなのです。

ちょっと話がそれました。

先祖供養というのは今の時代の合理主義的な側面から外れるかもしれません。

しかし、エネルギーの世界では先祖あるいは同じ遺伝子構造を共有する類似の関係にある存在とはエネルギーの共振によってつながっています。

なので、意外と先祖供養というのは効果が高い、馬鹿にできないということになるのです。

ちなみに説明をすっ飛ばした、「波動の共振」については、同一の周波数に反応する2つの音叉を容易して、片方に音波、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱のオープニングテーマのハレ晴レユカイ」を当てるとと音波がはねかえって遠く離れたもう一つの音叉が音波を受取り、もう片方の音叉からハレ晴レユカイが聞こえてくるという現象を経験する事ができます。

高校物理で習う、音叉の共振という現象が、遺伝子でも起きてくるのです。

伝わるのは音波ではなく、もっと周波数の低いエネルギーですが。


いかがでしたしょうか。

もちろん、今回の記事の内容もこのブログ独自の仮説であり科学的に立証されたことではありません。

鵜呑みにせず、ご自分で検証なさるか、そんなことを言っているやつが居る程度の留めて、ちゃんと立証されるかあるいは反証されるまで判断を保留するのが良いかも知れませんね。

では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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政治形態の移行。間接民主制と直接民主制。

こんにちわ、dokubo_toshoです。


皆さん。時代は直接民主制ですよ。

今回の記事は「政治形態の移行。間接民主制と直接民主制」になります。


現代社会では、殆どの国の政治が民主政治です。

つまり、民主主義です。

国の主権を、政府や統治者でなく、国民が持ちます。

国の主権とはすなわち、国を運営して運用して維持する、権利と義務のことです。

それを国民一人ひとりが平等にもっているということです。

平等にもっているので、在る特定の一人の意見だけを国家運営に反映することがないようにしています。

多くの人の意見を集めて、ある意見を主張する人の数の国民全体の割合から、その意見を実現するためにお金や人やモノをどれだけ投入するかどうか決めます。

それが本来の民主主義の思想です。

そして、民主主義を現実の社会で実現して、民主政治を運用するには大きく分けて2つの考え方・やり方があります。

まずは、直接民主制。

国民一人ひとりの意見を吸い出して、まとめてそれを直接国家の運営の反映させます。

メリットは、国民一人ひとりが納得の行く形になりやすい。

デメリットは、国の規模が大きくなればなるほど、意見の集約とその国家運営への反映が複雑になり難易度がますことです。


もう一つは、間接民主制。

国民をある集団に分割して、分割された集団から代表者を選出します。

代表者に集団の意見を代表して主張させて、代表者同士の話し合いで国家の運営にどの意見をどれだけ反映させるかを決定します。

代表者の選出は階層的です。

小規模の集団の代表者。その代表者の集団の代表者。その代表者の集団の代表者。

国家の規模が大きくなればなるど、階層構造は複雑に大きくなっていきます。

メリットは、システムを構築してしまえば複雑な処理は直接民主制にくらべて必要ない。国家の規模が大きくなっても階層構造を拡張すればいいだけなので、システムを拡張が簡単にできる。

デメリットは、意見の集約と国家の運営が中央集権的になってしまうと、国民一人一人の意見を反映させることが難しくなる。中央集権的な地位に近ければ近いほどより大きな責任(役割)と権力(影響力)を持つので、人間の理性が試されるということです。


民主主義の思想が産まれた古代のローマの時代には、民主主義は直接民主制から始まりましたが、国家(集団)の規模が増していく過程で自然と間接民主制が取られる用になっていきました。

いまでは、直接民主制の国は地球上にほぼ観られません(小さな部族に関してはその限りではありません。ナイティブアメリカンやアフリカのなんちゃら族の方たちは今も昔も直接民主制です。民主主義という概念で自らの政治形態を観ていないとはおもいますが。かれらにとってそれは「主義」ではないと思います。ごく自然な形にそれをやっているだけでしょう。)

その結果、中央集権的な政治形態の中で、権力に溺れるものや、大きな責任を受け止められないもの、難易度の高い国家運営に能力が追いつかないものが多く出てきて、政治が不安定になってきました。

基本的に、中央集権的なピラミッド構造を持つシステムは、ピラミッドの上に行けば行くほど「高いの能力と理性」を求められるようになります。

現代社会のトップに求められるそれは、もはや「超人的」です。

でも、そんな超人は基本的に社会にほとんどいないし、いたとしてもそのような人たちだけを選んで政治家に選出するという仕組みにもなっていないです。

なので、基本的に「普通人」に「超人的」能力や理性を求められるので、現代の間接民主制の政治はことごとく失敗します。

失敗して、それでも自らの権力や地位に固執しようとする人たちは、「管理社会」を実現して自らの能力でも収められるような「規則でがちがち。自由意志や個人の幸福を見捨てた」社会を理想としがちです。

それが今の、世界の政治です。

しかし、昨今の時流によりそれはおおきく変わってきそうです。

その変化は、情報技術の登場により生み出されています。

情報技術、特にインターネット。

World Wide Web システムです。

それまで、情報というのはどこか一箇所において貯めておくものでした。(図書館や資料室等)

ゆえに情報の秘匿性は高く、容易に複製・流布できないものでした。

しかし、ウェブの登場で情報というのは、分散して保存する事が可能になりました。

どこか一箇所に情報を貯め置かなくても、個々のコンピュータ内に保存した情報に世界中の人がアクセスできます。

また、情報の複製や流布が容易になりました。

それにともない、情報の秘匿性を確保するのが難しくなっても来ました。

さらに、大規模高速演算を可能にするスーパーコンピュータの登場により、大量の情報を処理して即座に結果を出すことも可能になってきています。

この情報技術の登場は世界の様々なところに革新をおこしています。

今後、それが政治の世界にも起きる可能性があります。

情報技術の応用により、直接民主制のボトルネックであった意見の集約とその反映の難しさを解消することが可能になるからです。 

現在、国民の代表として政治の世界で活躍している方は、代表しているとはいっても一人ひとり意見の正確に確実に把握しているとは言い難いです。

とくに、利権に左右される事が多く、政治家個人の感情や我欲のために、国民の意見を正確に効果的に国家運営に反映させるのは難しいです。

しかし、国民一人ひとりの政治的な意見を集約して、その情報を処理することが情報技術には可能です。

つまり、代表者(国会議員等)に意見を代表させずとも、意見の集約と反映が可能になるので議会(間接民主政の象徴)が不要になるのです。

もちろん、議員がいなくなっても官僚や役人は必要不可欠です。あたりまえですが、間接民主制か直接民主制がどうこう言うのは意見の集約とその意見をどのようにどれだけ国家運営への反映させるかに関してのみです。意見を実際に国家へ反映させる役人がいなくなれば国家はそもそも機能しません。

また、システムのセキュリティは頑健に作る必要があります。

しかし、集めた情報とその情報をどのように処理したかと、処理の結果を公開してしまえば容易に不正に気づくことが出来るのがこの方法の良いところです。

ポイントは意見の集約を匿名で行わず個人の氏名を公表することです。

このシステムでは、自分の意見は自分が責任をもって主張・支持するということをやる必要がります。

秘密投票の原則は、このシステムでは不要もしくは害にしかならないでしょう。

国家の主権を持つ一人ひとりが自分の意見や主張に責任をもつ必要があります。責任をもって主張する必要があります。

かくれてこっそり、好き勝って意見するのではまともな政治は期待できないでしょう。

そして、それを恥じない文化。それが危険にならない文化というのを構築必要があります。

自分と異なる意見を主張する人を攻撃する人を無くす必要があります。

でも大丈夫です、直接民主制を取れば一人の人に権力が集中することもなくなるので、危険なことをする人がいても影響力は大したことがないし、警察も簡単にしょっぴくことが出来ます。

権力者によって警察機構が操作される心配がないので十分安全を確保できます。 

現在の間接民主制から直接民主制に移行すれば、そのようなメリットが沢山あります。

もちろん議会が必要なくなると言っても、意見の交換・闊達な話し合いは十分に価値があるので小規模な議論の場というのは多くあってよいでしょう。

ただそれが、国家の運営を直接左右するといことがなくなるだけです。

我々は、テクノロジーが発達して直接民主制が可能になるまで、国の統治を支えて来た間接民主制に感謝しつつ、速やかに直接民主制に移行する必要があります。

それができれば、政治・経済・医療・福祉・教育等の問題を速やかに解決することが可能になります。

だって面倒くさいぐだぐだな議論が不必要になるのですもの。

決断のスピードは桁違いです。

個人的には、今のアメリカが大統領選挙後にそうのようなシステムを目指すのを期待しています。

基本、アメリカは革新とテクノロジーの国ですからね。

さらにアメリカの上位層は粒ぞろいですから、現代社会で直接民主制を行うメリットにもう気づいている人も多いのではないでしょうか。
 

いかがでしたでしょうか。

「政治形態の移行。間接民主制と直接民主制。」

自分の意見を好き勝手述べてみました。

今の時代は、もうそろそろ政治形態の抜本的な改革は必要ですし、可能になってきたと思います。

いちITエンジニアとしても、技術の進歩は凄まじいな、いろんな事が簡単にできるようになってきたなと思います。

分散型情報社会の良いところです。

技術の発展がはやいはやい。

では今回の記事は以上になります。

ではでは。 



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存在質は完全情報

こんにちは、dokubo_toshoです。

今回の記事は「存在質は完全情報」です。


存在質とはこのブログで提唱している、全ての根本である「ただ在るという性質をもったなにか」です。

存在質が物性を獲得したものが物質です。

存在質からあるエネルギーを切り出し、分離して全てが産まれます。

別の記事の 「情報・意味・機能~全ては形に宿る~

に書いててあるように、全ての情報・意味・機能というのは「非完璧」な状態、すなわちある種の「欠落」により生じます。

存在質というのは、情報・意味・機能を何ら持ちません。

すなわち「完璧」な状態です。

その完璧な状態から、一部のエネルギーを切り出し分離する。

すなわち、その一部のエネルギー以外を「欠落」させることにより、情報・意味・機能を創発させます。

逆に言えば、全ての存在は元々存在質の中に存在している・含まれているのです。

なので、あらゆる「アイディア・発明品・物語・論理・情報・機能」といのは存在質が存在している時点ですでに存在していたことになります。

人間がそれらを思いついたり、発見したときにはそれは「その人間がゼロから生み出した」のではないです。

「すでに存在質の中に存在しているそれらを、引き出した・掘り起こした・抽出した」のです。

イメージとしては、

漁師さんは海や川などから魚を獲ってきます。

人間社会では彼らは「生産者」として扱われますが。

しかし、実質は豊富な資源を持つ自然から、資源を奪い取ってあるいは借り受けているにすぎません。

または、大地の鉱脈から金を発掘して、製品として売りだす業者も、金を生産しているのではなく、金を掘り起こして、勝手に使っているだけで、生産はしていません。

もちろん、モノそのものを生産しているとは言えないですが、彼らの漁をする・金を発掘して製品にするというこういは十分「生産的」ですので、批判しているわけではありません。

ようは「自分がゼロから作り出した」と思い込んでいたらそれは間違いですよということです。

すでに宇宙あるいは地球に存在しているものを利用しているだけ、という理解をしていただきたいのです。

また、あらゆる「状況・状態・形態・形式・形・論理構造・物理構造・感情・情緒・情報etc」はすでに、存在質の中に存在しているから、現実にそれが現れることができるのです。

完全情報たる存在質の中に存在しない物は、決して現実に現れたりしません。

しかし、「完全」情報ですから文字通り、「全てが在る」ので存在質の中にないモノは存在しないのです。

論理的に原理的にいってです。

あなたの意識や魂や身体や趣味や特技やらも、何もかもあなたが生まれる前から存在質の中にすでに存在していたのです。

存在していたから、今ここに目の前に現れることができるのです。

自己を卑下したり、自虐していたり、自分に生きる価値がないとか思っていたりする人もいますが。

そんな悩みを持つあなたがすでに存在している時点で、あなたというの存在はその存在を100%肯定されているのです。

だって、存在しているのだもの。 

存在しているというのは何よりの祝福です。

あなたは、いついかなる時も100%存在を肯定されているから、存在しているのです。

というか、すで存在しているモノの存在を否定したところで、「いやだって存在しているじゃん」というしかないのです。

存在の否定は無意味なのです。

だって、原理的に出来やしないから。

あなたがどんなに自己の存在を否定したところで、「いやだって存在しているし」と言われるだけです。

あまり意味がないし、ほとんど無駄です。(100%ではないのでは、自己否定が文化レベルに達する場合があるからです。ある意味文化を生み出している。)

はなしがそれました。

存在質は完全情報です。

その中から、何を抽出して体験するかは全てアナタ次第ということになります。

だって、あなたが経験したいという風に思うものは、すべて完全情報たる存在質の中に存在しているのですから。


いかがでしたでしょうか。

「存在質は完全情報」

存在質は仏教では空とか言われたり、キリスト教ではGODとよばれたり、神道では大御霊とか言われたりしています。

宗教で言われるそれらは、言葉を超えた何かとして「語り得ぬもの」と言われたりしています。

しかし、そんなことはありません。

科学や文化が発達して、それらを記述できる「言葉」が生まれれば容易に「語ることできる」ようになります。

今の時代は、すでにそれら語ること出来る言葉があるので比較的かんたんに語って、理解することも出来ます。

昔の人は、それらを語る言葉がなかった時代に生きていますから、他者に説明することが難しく「説明や説得を諦めた」節はあります。

しかし、このブログでは「日本語がわかれば理解できる」ように書いてあるので、読者さんにもまあまあ伝わっているのではないでしょうか。

では、今回の記事は以上になります。

ではでは。




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ブログデザイン変更しました。色のエネルギーと女性性。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

この度、ブログデザインを若干変更しました。

背景色ちょっといじっただけなんですけどね。

具体的には、愛の色と言われるマゼンタと、女性性の色であるブルーを合成した色に変えました。

あえて名前をつけるなら、マゼンタブルーですかね。(すでに名前があるか知らんのだけど)

RGB表記だと、#ffd8ffです。

ちなみに、透過率は0.8にしてるので、若干背景の星空がすけて見えます。

私は昔の色は単なる心理的効果しかないと思っていましたが、最近の探求の末にそれ以上の物理的効果を持つという事が分かってきました。

色というのは周波数を持ちます。

例えば、このマゼンタブルーは独特の愛と女性性の波動を合成した周波数です。

この色を見ると、眼球から網膜に光が到達して、さらにそこから視神経を通して脳にマゼンタブルーの光のエネルギーが到達します。

つまり、脳がマゼンタブルーの周波数の影響をガッツリ受けるのです。

色というのは単なる心理的効果(物理的でないという意味を含む)でしかないと思っていたら、しっかり物理的な周波数が脳みそに到達して影響をおよぼすのです。

もちろん、その時に元々の脳の周波数が若干変化します。

具体的には、元々の周波数に色の周波数が合成されるのです。

波動が軽い、つまり低い周波数の色が脳に達すれば、ちょっと脳の波動を軽くする事ができます。

逆に、波動が粗い、つまり高い周波数の色が脳に達すれば、ちょっと脳の波動を粗くすることが出来ます。

マゼンタブルーの色は、愛と女性性の波動の合成色です。

なので、現代の西洋キリスト教文化圏発信の男性性のエネルギーと、西洋発信の競争と淘汰のグローバル資本主義に染まった現代日本人の心をちょっと癒やします。

では今回の記事は以上になります。



備考

ここからちょっとこむずかしい話です。


元々、日本は神話の最高神が女性神だし、江戸時代までは個を尊重して和すという文化がありました。

ハッキリ言って、国の神話の最高神が女性神というのは、世界でかなりめずらしいです。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、最高神は男性神です。

最高神が男性神とは、男性的な役割が至高、世界を導くという意識が植え付けられるということです。

なので、西洋文明では男性性のエネルギーが強いです。

また、そんな西洋に生きる女性たちは、尊重されるということは「男性と同じ扱いを受けることができる」ということに偏りがちです。

西洋文化圏(特にキリスト教文化圏)では、昔の日本人が名誉白人とか言われていたみたいに「名誉男性になる」ことが「女性の社会的な成功。尊重されている」ということになりがちです。

女性の人権の尊重度合いを、管理職の何%が女性であるということから判断しようとすること自体、社会的な成功、尊重は「男性と同等、同様の地位になる」ことだと思っています。

同等であることが最もですけれど、同様であることはあまり必要ではありません。

その点古来から日本は、「男性と女性の役割は結構違う」ことを意識していました。

私は、勝手に思っていますが、女性差別という概念が日本に生まれたのは、戦後からあるいは明治維新後からだと思います。

それまでは、日本で女性があまり仕事をさせてもらえなかったのは、大抵の場合仕事が命をかけることだったからではないでしょうか。

仕事に知的労働がほとんどなく、大抵が重労働あるいは侍として命をかけて身体をはるという仕事が多い時代には、女性ははっきりいって労働に適しません。

徐々に知的労働や文化的な仕事が増えて行けば、女性と男性で仕事をすることに差はなくなっていきますが、そうでない時代にはむしろ男性は進んでキツイ汚い仕事を命をかけてやっていたことになります。

そんな時代に、女性の仕事や扱いが多少ひどくても、男性もかなりキツイことをしているのでだいたいイーブンでしょう。

実際に今の時代も、キツイ肉体労働や軍務の女性の割合はかなり低いです。

そして、自衛隊の女性兵士(幕僚とかでありません。一兵卒です)の割合が女性の人権の尊重具合を図る度合いとして使われる事はめったに使われません。

すなくとも、それを女性人権団体が女性の人権の指標にしようとすることは絶対ないでしょう。(あるのかな?)

女性差別の概念は、労働というのの多くが知的労働に変わって、かつ西洋的教育を学校でするようになってからです。

もともと、日本人の大半農民でしたし、侍が結構いました。

農民の場合は、昔から女男関係なく畑仕事をしていたと思いますし、侍の場合は命をかける仕事は女性に適しません。

差別があったとしたら、工と商の分野でしょうか。

しかし、工と商分野では今も昔も、女性の比率はかなり少ないです。

機織りとか、裁縫とか、そういった仕事を男性がする程度の差別はあったかもしれませんが、それもイーブンでしょう。

日本ではもともと、女性差別はかなりすくなかったと思います。

仕事の大半が知的労働になった戦後に、西洋文化の影響が男性にも女性にも与えれたことで一気に「女性差別」という概念が花開いたのはないでしょうか。

明治維新直後から西洋の発信の思想やエネルギーを取り込み続けた結果、最近では元々の日本人の気質に合わない社会制度や価値観が主流になってしまいました。

元々女性の役割と男性の役割を上手に分けていたのですが、今ではだれもが男性的役割をこなさねばならなくってきました。

また、男性でありながら、女性性が強い人にとって昭和の時代は地獄の様なキツさがあったと思います。

今まで、かなり日本社会は男性性のエネルギー、競争と淘汰のグローバル資本主義に毒されています。

バランスを取り戻す必要があります。

なので、女性性のエネルギー、「今ここ」を楽しみのんびり構える事が必要です。

私は自由と平等は大好きですが、今の世界は男性性のエネルギーに偏り過ぎだと思います。

なので、ブログの色をちょびっと変更したのです。



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調子乗ったり落ち込んだり、でも心配御無用。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、「調子乗ったり落ち込んだり、でも心配御無用」です。


どんなに上手く行っているときも、ふとした拍子の落ち込むことがあります。

頑張って練習して野球がうまくなっても、自分よりレベルの高い世界を知って「自分なんて・・・」という落ち込み方をすることがあります。

頑張って頑張って色々努力して、仕事でいろんなことを上手く回していたのに、ある日それまでのやり方がそんなに上手くいっていなかったと気づく。

「自分は成長した!」と思った一週間後には、次の課題色々見えてくる。

なんてことはざらにあります。 

人生には色々とあり波があり、気分の浮き沈みがあります。

しかしこの記事で言いたいことは、「落ち込んだ時は、一番成長する時です」です。

なぜ、落ち込んだ時が一番成長するときなのでしょうか。

落ちこむ時は、それまでの自分がダメダメに見えています。

拙いところが見えて、粗が見えて、下手くそさがわかります。

「自分はかなりいい線いっているんじゃないか」

そう今まで思っていたところに、それを否定するようにダメダメなところが見えてくるから落ち込むのです。

しかし、今までの自分のダメダメなところが見えてくるということはどいうことでしょうか。

それは、現実が見えるようになったからではありません。

そうではなく、「視野が広くなった」からです。

つまり、「認知の面での飛躍」があったのです。

能力や器量の面での成長は大事です。とても大事です。

しかし、能力や器量の面での成長は認知の面で成長に依存します。

能力や器量はどこまでも伸びるものではなく、あなたの認知つまり視野の広さを超えて成長することはありませえん。

例えば、それまでサッカーの練習といえば、「ドリブル・シュート・パス」の練習がメインであった小学生は、中学生になってそのまま視野の広さで練習を続けていてもサッカーはそこまで上手くなりません。

ドリブルもシュートもパス大事ですが、そのような単純な要素だけ練習しても、試合運び、フィジカル、戦術、チームワークなどは伸びないです。

それに単純な要素ほど、極めるのは難しくなります。

例えば、事務作業という広い分野の能力は、各種要素をバランス良く育てていけばかなり速くベテランの能力に達します。

しかしそれが、お茶くみの能力ということだけに限定するとどうでしょうか。

途端に成長スピードは遅くなります。

お茶くみのベテランになりたかったら、お茶くみにたいしてのみにかなりの時間を掛けなければいけません。

お茶くみだけで60点取るのは、事務作業とう広い分野で70点取るより難しいです。

ちなみ、お茶くみだけで100点満点です。事務作業という広い分野で100点満点です。

お茶くみという教科のペーパーテストを一回受けるのと、事務作業という教科のペーパーテストを一回受けるのをイメージしてください。

センター試験なんて、複数教科の総合点を競うからとっかかり易いのです。

センター試験を英語だけで評価しますとなったら、 一部の超英語得意な学生以外が地獄をみます。

それまでのセンターの英語のテストの内容簡単すぎて。

それより、10倍難しい内容を出されるかもしれません。

それで100点満点のテストを受けるのです、かなり厳しいとしか言えません。 

話がそれましたが、ドリブル・シュート・パスという単純な要素の練習だけしても伸びが悪くなります。

小学生の練習はそんな感じです。 

しかし、中学生からは戦術等の練習が入ります。

単純な要素の練習から、 より広い視野でサッカーの練習ができるようになります。

単純な、ドリブル・シュート・パスの練習をしているだけより、試合に勝てるようになります。

実際によりサッカーがうまくなると言えるでしょう。

たとえものすごい努力家でも、戦術の練習をするという視野の広さがつまり、戦術の練習というものがあるという認知がなければ 戦術の練習はできません。だって知らないのだもの。

このように、能力や器量の成長は、認知の広さに大きく依存します。

それと同じように、今までの自分がダメダメに見えるときは、今までの自分が最高に見えていた時の自分より、認知の広さが上がっています。

もし、いつまでも自分を最高と思いっていたいなら、認知の成長のなど不要なのです。

認知の成長があれば、かならず、広がって認知の広さに対して、以前の認知の広さで十分だと思っていたものは、小さく狭く感じます。 

これはしかたがないのです。

なので、ダメダメに感じる様になるか、狭い認知の世界で有頂天でいるかのどちらかになります。

(まあ、その認知の成長時に、ダメダメだとおもわないで、気分を落ち込ませない。というのをスピリチュアルや自己啓発の世界では奨励しているし、そのためのテクニックも紹介しているのですがね。あたりまえですが、認知の成長は起きる、でもダメダメだと思わない。これがベストです。そこらへんは別の話のです。また別の記事で)

なので、有頂天になってからの、気分の落ち込み時には、気分が落ち込んでダメダメに見えている自分を、本当の自分などと言う自己卑下は絶対にしてはいけませねん。

そうではなく、落ち込んでいるときこそ、「うわ、私っていま成長してるわ」とでも思ってください。

ちなみに、そのような「有頂天になる、認知が飛躍があって、気分が落ち込む」という事が、非常に短いスパンで起きる場合もあります。

それこそ、1日2日単位です。

そのようなひとは、他人からは「気分にムラがあり、情緒不安定な人」に見えます。

実際に情緒不安定ですから。

しかし、それもある程度の認知の広さに到達すれば、しばらく安定するので辛抱しましょう。

そのような状態は、思春期とか、短期間でものすごく成長しようとする時におきます。

周りの人間は心配して、ハラハラします。

そのような人に対して温かい目で見守って挙げましょう。

また、そのような時期の経過した後は、周りに人に感謝しましょう。

見守ってくれても、口をだされても。なかなか得難いものです。

 
いかがでしたでしょうか。

私も有頂天になった後気分が落ち込む、という事は今まで何度も何度もありました。

昔それが苦しくて、嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、今に思えばそれがなければ成長せず、今の場所には来れなかったと思います。

しかし、最近ではすでに、認知の飛躍が起きた時に落ち込む必要はない、という認知に達しているので、認知の飛躍の際には、気分を落ち込ませていません。(前に比べて、かなり。です。いまではほぼ落ち込みません。ちょっとショックを受ける時があるくらいです)

認知の飛躍の際に気分を落ち込ませる必要がない、という状態になると色々生きるのが楽ですし、人生が楽しいです。

NLPとか認知科学から入って色々勉強することや、スピリチュアルな知識の探求からで、その認知に到達する方法は結構簡単に得られます。

ひろく一般に知られています。

興味がある方はそのご自分で調べてみられてはいかがでしょうか。

今回の記事は以上になります。

ではでは。


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高次の世界とか低次の世界とか

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は題して「高次の世界とか低次の世界とか」になります。

よくスピ系の本で「高次」や「低次」という言葉が使われています。

意味的には「高次」は格が高いとか、霊的に進んでいるとか、より神に近いとか、そういう意味です。

「低次」は逆に、格が低いとか、霊的に遅れているとか、より人間に近いといか、そういう意味です。

このブログでも度々「高次の存在」という言葉を使いますが、意味的には「地球人類よりも、霊的に進んだ存在」という意味で使っています。

また、「高次の存在」は現状人類よりも霊的に進んでいますが、人間や生物の延長線上の存在です。

なので神と表現されたりしていますが、GODより日本の神道にもある「神」の方が表現は適切です。

神道では、人間が神になったりしますので、一神教的な価値観で神といったらかなり間違いです。

一神教のGODの概念ははどちらかと言うと存在質に近いです。

神道でいったら、GODは大霊ですね、人間や高次の存在は分け御霊です。

ちょっと話がそれました。

まあ、そんな感じで「高次」という言葉は、霊的に格が高いとかそういう意味で使われています。

しかし、どっこい。

物理学的にいったら、高次の存在は「低い」と表現されたりします。

このブログで散々言っていますが、「高次の存在」は周波数が低いです。

大元の存在質が周波数が0ですので、どうしても人間より高次の存在は周波数0に近くならなければいけません。

色んな所で「高次の存在は周波数が高い」とか「周波数を高くする」とか言われています。

しかし、物理学的には実は高次の存在ほど「周波数が低い」です。

なので、最近では「軽い周波数」とか「統合の周波数」「粗い周波数」「重い周波数」という表現使われています。

どっかの誰かが、「周波数を高くする」とか「高次の存在ほど周波数が高い」という間違った表現に危機感をもって、慌てて是正してきた感はありますね。

軽いとか粗いとか言う表現は、物理学的にも正しい表現になります。

それについては別の記事に書いていますのでよろしければ一読を。

「統合の波動、分離の波動の意味」


ここから先はちょいちょい物理学的な視点が入ります。

高次の世界、低次の世界という表現があります。

相対性理論では、E=mc^2とか言われていますが、どんな状態であっても単位質量あたりのエネルギー量は一定ということです。

また、物体が高速に近づくほど、その物体の時間は遅くなるという理論があります。

これは、
物体速度(見かけの運動)=外部時間

物体固有振動=内部時間

と意味づけて考えると、物体の見かけの運動のエネルギーと固有振動のエネルギーの交換法則が発見できます。

つまり、E=mc^2で表せる、一定量のエネルギーを、見かけの運動と固有振動にどう振り分けるかという問題です。


ここからちょっと面倒くさい物理の計算の話になります。

また
 周波数=伝播速度 ÷ 波長
 波長 =伝播速度 ÷ 周波数
そして、
 伝播速度= 周波数 × 波長です。

です、存在質は周波数が0です。

電磁波計算式では周波数が0のとき、波長は∞です。

つまり存在質は
 伝播速度は 0×∞です。

 0にはいくら掛けても0なので、存在質は周波数0伝播速度0波長∞。
 という状態になります。

 と言いたいところですが、このブログの記事を書いている間に微妙に納得がいかないと思って考えていたら別の答えを発見しました。

 それは、存在質は周波数0伝播速度∞波長∞という答えです。

 その答えを導き出すためには、このブログ内でのみ通用する奇妙な数学論理が必要です。


 まず、現代数学ではそもそも禁止されている、ゼロ割り算から考えなければいけません。

 まずですが、

 0 × 0 =  0

 これは現代数学でも正しいと言われています。

 X × 0 = 0(未知数Xは0以外の数)

 これも正しいです。

 そして、

 1 ÷ 0

 0 ÷ 0

 これは現代数学では「禁じ手」となっています。平たく言えば、「答えなんてだしようがないから、この計算がでる計算式は作っちゃ駄目」とのことです。

 しかし、です。

 私は数学には明るくないですが、哲学的考察からこれらの計算に明確な答えを与えてやることにが出来ましした。

 まず、前提からですが、

 量子力学と相対性理論の話~ちょっとした発想の転換~

 で書いたように、数学の計算式はそれの式が記述する現象によって、数式や計算記号に関連付けられるものが違ってきます。

 例えば、身長の世界でマイナス189cmというのは存在しません。

 マイナスという至極基本的な概念ですら、計算記号や数式にそれが適用できる範囲というのがあります。

 逆に言えば、0 ÷ 0 とか 1 ÷ 0 が今までその計算式を適用しようとしてきた範囲で、関連付けられる現象がなくて、「こんな計算式は間違っている」と言われていたとしても、スピリチュアルの世界とか形而上学の世界とかエネルギー科学とかそういった学問を統合した先の、「統合科学」では0 ÷ 0 や 1 ÷ 0 という計算式が適用できる現象があるのであれば、その範囲でなら、0 ÷ 0 も 1 ÷ 0という既存の学問では非とされてきた計算式も答えがあるということです。

 ちょっと小難しい話になってしまいましたが、上記の事をよく理解しておいてください。

 では話は先に進みます。

 0 ÷ 0 の答えは ∞ です。

 1 ÷ 0 の答えは 0 です。

 さらに

 0 × ∞ の答えは ∞ です。

 1 × ∞ の答えは ∞ です。

 まず最初に

 0は数ではありませえん、概念です。

 ∞は数ではありません、概念です。

 0個という物は存在しませえん、数とは数えられるモノです。

 お菓子が0個というのは、お菓子の数を数えているわけではありません。

 お菓子は「ない」といことを、言い換えて言えるに過ぎません。

 0とは「ない」という概念なのです。

 ∞(無限)というのは、英語で言うならIinfiniteです。

 in の接頭辞は出来ない。

 finite は限定された」のような意味です。

 定義するというのは、define です。

 de の接頭辞はここでは、fine(と言う状態に)すると言う意味です。

   fine は明らかにする、閉じ込めると言う意味があります。

 defineは 「(意味を)明らかにして、(言葉というものにその意味を)閉じこめる」 と言う意味があります。

 definite はdefineの形容詞系で、「明確な。明らかに定義された」といった意味があります。

 finiteされているものが、「明らかに定義された」と言う意味を持つなら、 finitieできないという意味を持つinfiniteは「明らかに定義できない」ということです。

 しかし、infiniteという言葉はすでに定義(define)されています。

 つまり、infiniteというものは「明らかに定義できない、ということを表した概念」なのです。 

 なので、無限個は数ではありません。

 定義できないものを数えられるわけがありません。

 「個数を定義できない」という状態を表した「概念」でしかありません。

 そして「ない」と「定義できない」は明らかに違います。

 「ない」というのは「存在しない」と言う意味です。

 「定義できない」というのは「存在するが、明らかに定義できない」と言う意味です。

 さらに進みます。

 無限個というのは定義できません。個数は明確に定義された単位を数えるものです。

 定義された単位が定義されてない状態になることありません。

 しかし、無限回は定義できます。回数は単位ではなく、純粋な数という概念です。

 単純に、永遠に数え続けれらればそれは無限回です。

 たとえば、エネルギーは無限といった時に、無限の量(これも単位を数えるもの)あると思ったらそれは間違いです。

 1つのエネルギーを無限回使いまわせると言う意味です。(つまりエネルギーは循環する)

 
 では計算式に戻りましょう。

 0 ÷ 0 = ∞

 これは、「ない」という中に「ない」はいくつあるか、「ない」をいくつの「ない」に分けられるかと言う話です。

 ちょっと考えてみましょう。

 左手の人差し指と親指の腹同士をぴったりつけてください。

 人差し指と親指の接触面の間には「隙間はない」ですよね。(厳密な話は置いておいてください、そう見えるという話です)

 0 ÷ 1 = 0

 つまり、「隙間がない」ということの中に「隙間」を見つけようとしても、それは「だから、隙間なんてないよ」という事になります。

しかし、

 0 ÷ 0 = ∞

 つまり、「隙間がない」ということの中に「隙間がない」ということを見つけようとしたら、それは「無限回隙間がない事を見つけられる」とも「定義できない!」ということにもなりませんか。

 まさに、infiniteです。無限です。

さらに
 1 ÷ 0 = 0

 つまり、「隙間が1cmある」ということに中に「隙間がない」を見つけようとしたら、「隙間はあるよ」つまり「隙間がない、とはいえない」ということになるでしょう。

 統合科学でのゼロ割り算の基本は以上になります。ではつぎは応用編。


 1 × ∞ = ∞

 これは何となく分かるでしょう。


 1 × (0 ÷ 0) です。 (分数表記が出来ないため見にくいです。ごめんなさい)

 1 × 0 = 0 なので、

 1 × (0 ÷ 0) = ∞ です。


 さらに 0 × ∞ = ∞


 0 × (0 ÷ 0) = ∞です。

 0 × 0 = 0 なので

 (これについては、 式の変形で 0= 0 ÷ 0とかにしないでさい。 式の変形を省略せずすると、0 ÷ 0 × 0 = 0 ÷ 0 です。 ∞ × 0 = ∞ になります。 変形できません。)

 0 × (0 ÷ 0) = ∞ です。
 

 (∞×∞ とか ∞÷∞ 0÷∞にかんしては、どうなるかさっぱりお手上げです。これまでの数学では概念と概念の計算は 0×0だけでした。これだけだと、概念計算の時の計算記号の振る舞いがさっぱり読めないです。)

 ここまできたら、このブログだけで通じる奇妙な計算法則をなんとなく、それもありかも?とか思ってきているかも知れません。

 ここまできて、周波数の話に戻ります。

 周波数が0のときには、伝播速度は0×∞なので、∞です。

 伝播速度が∞ってどういう状態なのでしょうか。

 私はつぎのように解釈します。

 
 地点Aで起きた情報が百億kmはなれた地点Bに伝わるのに、1分かかったら。

 分速百億kmです。

 無限の速度は、もっと遠い距離も一瞬で伝わるのでしょう。

 どんな多く離れていても一瞬で伝わるから、無限の速度。

 さらに言えば、一瞬で伝わるというより、伝達速度という時間の差がない。

 つまり、同時に起きているということになるのではないでしょうか。

 無限の速度ということが現れる時に、速度という概念が定義できなくなる。

 速度がなくなるのです。

 速度がなくなって、全てが同時に起きているということになる。

 そして、全てが同時に起きていれば時間というものも定義できなくなります。

 無限の速度とか、無限の数、とか、

 そういった無限の~というときに、それは定義できなくなります。

 無限の速度。
 つまり、「定義できない」速度なら。速度でないのでしょうね。

 別の何かに変わってしまっています。

 速度がなくなって、「全ては同時に起きているという概念」でしか説明できなくなってしまうのでしょう。

 また、高次の世界になるほど、伝播速度の早くなり、「物事の同時性」つまり「シンクロニティ」が強くなってきます。

 山彦ってあるでしょう。

 山に向かって「やっほー!」と叫んだら、ちょっと後に「やっほー!」って帰ってきます。

 低次の世界だと、「やっほー!」と叫んだら全然帰ってこずに、下山して駐車場でおにぎりを食べてる時に「やっほー!」と帰ってきます。

 大抵、山彦に気づかないし。音の反響も距離が離れていて、間接的な影響ばかりです。

 しかし、高次の世界になると。

 「やっほー!」と叫んだら、すぐ「やっほー!」って帰ってきます。

 すぐに反響に気づくし、影響も直接的です。


 低次の世界だと、機嫌が悪い時に誰かに意地悪したら、その影響はすぐには帰ってきません。

 意地悪された人が、別の人の当たったり、その影響が別のところに出てきます。

 もしかしたら、その結果が数年後に返ってくるかもしれません。

 あるいは、自分とは別のだれかが、その行為の反響を刈り取って止めてくれることもあるかもです。

 そんなのに期待するのはあれですが。

 高次の世界だと、機嫌が悪い時に誰かに意地悪したら、その1時間後くらいにはもう、その行為の反響を受け取ってしまいます。

 エネルギーの伝播速度がやったら早いので、そうなります。

 意地悪された人の恐怖のエネルギーがブワッと伝わって、散歩している最中の怖いお兄さんの脳に影響を及ぼして不機嫌になって、たまたま近くを通りかかった意地悪した人が結構怖い思いをしてしまうかもしれません。

 行為的には全く赤の他人を介していますが、エネルギー的には直接的な反響を受け取っています。

 エネルギーは循環しているので、一度発したエネルギーは消滅するということにはなりません。

 何かしら別のエネルギーに変換されたり、元の場所に収まるまで、宇宙をぐるぐる廻ります。

 高次の世界に成ればなるほど、エネルギーを発した人以外の人がエネルギーを刈り取るという事が少なくなってくるので、まあ注意が必要ですね。

  
 高次の世界というのは、物事のエネルギー的振る舞いが強くなります。

 例えば、私のスマホは物質ですが、スマホから出る電波はエネルギーです。

 もっというと、私のスマホは物性が強い存在質ですが、スマホから出る電波はエネルギー性が強い存在質です。

 両者の違いは、周波数です。

 周波数が低くなれば、エネルギー性が強くなります。

 周波数が高くなれば、物性が強くなります。 

 本質的には同じモノですが、周波数によって振る舞いが違ってきます。

  また、周波数には帯域(バンド)というものがあります。

 周波数は一定じゃないです、あらゆるものの周波数は変化しうるものです。

 あなたが存在する宇宙は、ある帯域の中に存在します。

 あなたの意識も、ある帯域の中でウロウロしています。

 大元の存在質は周波数が0です。

 0ですが、エネルギー的には完全に統合された完璧な状態です。

 その中の、ある周波数の帯域のエネルギーを分離することで、周波数を産み出しています。

 切り出された、特定の帯域の宇宙はその周波数帯に応じた性質をもちます。

 その帯域の宇宙の中に、さらにその中から分離した特定の帯域があります。

 それが、地球だったり、火星だったり、大マゼラン星雲だったりします。

 さらに言えば、日本には日本の、アメリカにはアメリカの帯域があります。

 ちなみに、周波数とはいってますが、二次元座標でにされるような単純なものではないです。

 もうちょっと複雑です。

 そこらへんは、物理学の本でも開いても勉強してください。

 ちなみに、別の記事でも書いてますが、同じ周波数のAとBのエネルギーがあるとして、その2つのエネルギーを統合すると、それよりちょっと低い周波数のエネルギーCが生まれます。

 高次の世界の周波数が低いと言うことは、エネルギーを統合しているということです。

 そして、エネルギーを統合しているといことは、周波数の帯域は広くなっています。

 統合された周波数の中には、より高い(つまりより低次の)周波数が含まれているということです。

 つまり、統合されたエネルギーの中にいる高次の存在は、より低次のエネルギーが見えなくなるということはない、ということです。



 そろそろまとめてみましょうか。

 高次の世界は、周波数が低い、物事のエネルギー性が強い、シンクロニシティが強い、エネルギーの伝播速度が早い。

 低次の世界は、周波数が高い、物事の物性が強い、シンクロニシティが弱い、エネルギーの伝播速度が遅い。

 低次の世界は高次の世界の中に含まれている。


 こんなものですかね。

 
 色々書きましたが最後に、このブログの内容は私dokubo_toshoの個人的な探求、思索、考察、哲学的興味、から出来ています。

 信じるか信じないかはアナタ次第です。(関さん風に)


 では今回の記事は以上になります。
 
 
 
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魂は死ぬこともあります。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は「魂は死ぬこともあります」です。

先日本屋に言ってスピ系の本のコーナーにいったら、「魂も死ぬ」と言う本が売ってました。

内容は一切把握していないのですが、「魂は死ぬこともある」というのは私の統合科学理論(このブログの仮説全般を指す)でも可能性を示唆されているので、面白いと思い記事にしました。


このブログの仮説では、魂は存在質中に出来た、身体と同じ論理構造を持つ歪みとして考えています。

今や生物が生まれる時に、その生物の身体に宿る魂は多くの場合転生してきた魂です。

しかし、宇宙の初期では、生物が生まれる時に転生する魂はそこまで多くありませんでした。

生物が生まれる時に肉体に重なるようにあった存在質が、肉体の機能の源である肉体の物理的構造をそのまま存在質に場の歪みとして転写することで 、その生物と同じ機能を持つ魂が誕生します。

これを存在質の魂化とでも呼びましょう。

また、その生物が思考や感情のない生物なら、その感情や思考がない魂が生まれます。

人間の様に知性や感情や理性と言った高度な機能を有する生物なら、魂も人間の魂とも言うべき、知性や感情や理性と言ったものを有する魂が生まれます。

一度魂化した存在質は、大元の存在質から切り離されたわけではありませんが、大元の存在質とは違う個の意思を持ちます。

イメージとしては以下のとおりです。

1km四方のビニールシートがあるとします。これが存在質です。

そのビニールシートの一部を引っ張って引き伸ばして、引き伸ばした部分にてるてる坊主を作ります。

てるてる坊主を作って、頭の部分に目を描いたらそれはもう、ただのビニールシートとは見なされません。

ビニールシートの一部であり、ビニールシートそのものでもありますが、他の単なるビニールシートとは違う、てるてる坊主の太郎君です。
 
確かにそれは、ビニールシートであり、ビニールシート以外のなにものでもありませんが、単なるビニールシート以上の何かです。

このビールシートを引っ張って引き伸ばすという行為が存在質中に歪みを生み出すという行為です。

そのして、ビニールシートの引き伸ばした部分で作られたてるてる坊主が魂になります。

しかしどうでしょう、一度引っ張って引き伸ばしたビニールシートは基本的にずっと引き伸ばされたままですが、何らかの手段でビニールシートの引き伸ばされた部分を元に戻してしまったら・・・。

そんなことをされたら、てるてる坊主の太郎くんは個を維持できなくなってしまいます。

ビニールシートから離れましょう。

魂はその本質は存在質であり、魂という個を維持するのは、場の歪みです。

もし何らかの手段で、その場の歪みをフラットになるように均してしまえば、大元の存在質に帰ってしまいます。

もちろん、魂の構造により維持されてきた、思考や感情などの機能もなくなってしまうでしょう。

これが魂が死ぬということです。

もちろん、あなたの魂が死ぬということがあってもあなたの意識は残ります。

思考したり、感情を有したりすることは一切できなくなりますが。

それがないだけで、あなたの自覚意識は残ります。

いわば、魂化する前の状態に戻ってしまうのです。

肉体の死があっても、魂は死なないから恐れることがないと言うスピ系の方がいます。

それと同じように、魂の死があっても、意識は死なないから恐れることはないです。

ただ、あなたの魂が死んだら、あなたが魂化してから頑張って積み重ねてきた諸々は維持できなくなるので、文字通り0からのやり直しになります。

非常にめんどくさいし、色々と台無しになるなので、高次の存在も魂の死は非常に嫌がると思われます。

また、スピリチュアルな本の中で某バシャールさんが、核兵器は魂をふっとばす事ができる、恐ろしい兵器であるといっています。

魂の構造は、基本的に肉体つまり原子の構造の転写です。

核兵器の核エネルギーは原子の崩壊のエネルギーです。

もしかしたら、原子の崩壊のエネルギーは、存在質中の原子の歪みの転写を吹き飛ばす力を持つのかもしれませんね。

まあ、詳しくは分かりませんがね。



いかがでしたでしょうか。

「魂は死ぬこともあります」の記事は。

このブログの記事はいろいろとぶっ飛んだ内容が多いですが、今回の記事はさらにぶっ飛んだ内容になっています。

スピ系でよくある、「肉体は死んでも魂は死なないから」という言葉にちょっとしたダメージを食らわせてしまったかもしれません。

まあ、今度からは「肉体や魂は死んでも、意識は死なないから」に変える必要があるかもしれませんね。


では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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大麻と催眠を使った病気の治療法とかについて


(注、この記事は許可されていない大麻の使用を奨励するものではありません)。

(違法な大麻吸引は処罰されるので、大麻を吸いたかったら大麻が合法な地域にでも移り住んでください。)


こんにちは、dokubo_toshoです。

今回の記事は、大麻を使って病気の治療の可能性についてです。

大麻は今現在、法律で規制されている物質です。

大麻を吸引すると、幻覚が見えたり、興奮状態になったり、リラックスしたりします。

いわゆる麻薬です。

一般的に悪いものとして扱われている大麻ですが、最近では医療用大麻などがあったりいろいろ風向きが変わってきています。 

といっても、大麻は麻薬常習者への切っ掛けになりかねないものでその他のことからもいろいろ議論があるようです。


大麻を吸引すると幻覚が見えるということは、なんらかの興奮性神経伝達物質が含まれるということだろうと思います。

興奮性神経伝達物質というのは、ドーパミンとかGABAみたいな、神経を活性化・興奮させることができる働きを持つ物質のことです。

興奮性神経伝達物質が含まれる薬物というのは、例えば古来ではシャーマンが宗教儀式に使ったり、スピリチュアルな能力を一時的に底上げするために使ったり、淫猥なところではセックスの際に快楽を増幅させるために使われていたりします。

また、人為的に多量の神経興奮性物質を生成できるので、洗脳や催眠と組み合わせると効果が高いです。

冷戦時代のロシアやアメリカや中国は、大麻ではないですがLSDと呼ばれる合成麻薬(つまり興奮性神経伝達物質を含む)を使って、捕虜などに洗脳を仕掛けていたといのはちょっとした有名な話でしょう。

今回の記事に書く、大麻と催眠を使った病気の治療法は、悪用されるととても危険ですし、悪用されていた時代的な経緯があるのであんまり記事にしたりするのもあれなのですが、医療への応用能力は結構というかかなり高いのです。

催眠というのは、被験者を変性意識状態に誘導して、言葉による誘導で言葉の内容を被験者の脳内あるいは身体内で強く再現させることで効果を発揮します。

洗脳もにたようなもので、ある思考や行動パターンを対象の潜在意識に受け付けることで、対象の無意識的な行動(もちろん、内臓の働きや内部的な機能を含む)を支配したり、正常な意識的活動を阻害したりします。

たとえば、変性意識状態の被験者に「あなたはだんだん痩せていく」と催眠をかけると、言葉の内容を被験者の脳が強く再現するので、催眠にかかっている時被験者は「だんだん痩せて」いきます。

しかし、変性意識状態は比較的簡単に解けてしまうので、一晩寝て起きたら催眠は解けています。

だけど、変性意識状態に誘導した上で、潜在意識に刻みつけられるまで何度も何日も「あなたはだんだん痩せていきます」と催眠をかけると、それはもう洗脳ですので、変性意識状態が解除された状態でも言葉の内容を脳が強く再現するので、しだいに痩せていきます。(もちろん、この言葉で洗脳してたら、際限なく痩せていくのでこの内容で(自己)洗脳してはいけません)。

催眠・洗脳で重要となるのは、興奮性神経伝達物質であるドーパミンです。

ドーパミンの働きで、催眠・洗脳はうまくいきます。

しかし、ドーパミンでなくても他の神経興奮性伝達物質でもよいのです。

そこで登場するのが大麻です。(LSDのような強力な合成麻薬はつかってはいけません。)

大麻に含まれる興奮性神経伝達物質を用いて、催眠や洗脳をすることができます。

そして、催眠や洗脳は上手く使えばダイエットにも病気の治療にも有効なのです。

また、大麻に含まれる成分にはリラックス効果もありますので、医療用に適しているともいえます。

たとえば、シャーマンが、大麻を焚き上げて患者に吸わせて、神に祈って「う~ん。むにゃむにゃ。はぁー!」とかやって、「うむ、祈祷は成功しましたぞ。お主の病は治りましたじゃ」とかやると、大麻の作用と、催眠(というかプラシーボ効果)により簡単な病気なら治ってしまうでしょう。(現代人に有効かは一考の余地ありですが)

そして、大麻を焚き上げて瞑想状態に入り、病気が治るようにアファメーション(マントラとも言う)を唱えて自己洗脳すれば比較的大病でも治る可能性があります。(体の中のいろんな機能に働きかけることができるため)

また、病気の治療関係ないですが、大麻を吸うと脳の機能が一時的に活性化するので、占いの時に直感力やエネルギーを読む能力を底上げしたり、絵を描く時に鮮明にイメージを視覚に出力するようにしたり、勉強する時に覚えをよくしたりできます。(これに関しては古来よりいろいろな形で行われてきました。また、先天的にドーパミンの生成量が多い方は、大麻を吸わなくても人より上記の能力が高いこともあるとおもいます。あんまり薬物に頼らないほうが良い領域です)

大麻と催眠をつかった病気の治療は、大麻がというよりも催眠の効果向上や人間の本来持つ機能や能力を利用したものです。

大麻がすごいというより、人間の本来持つ機能や能力がすごいです。

普段の人間は変な洗脳にかかっていたり、過小評価したりして自分の能力を制限しています。

その、制限を大麻と催眠を使うことによってちょろっとはずしてやり、本来の能力・機能を使えるようにしてやることができます。

そうしてやると、病気が治ったり、または能力が開花したりします。

あたりまえですが、いくら大麻・催眠を使ったとしても人間に本来的に存在しない能力や機能や使えません。

逆に言えば、大麻・催眠使ってできることは人間に本来的に出来ることです。

大麻・催眠はある種「あなたって実はこんなことも出来るのですよ?」と教えてくれるようなものです。

(ちなみに、大麻に頼らなくとも生来制限が取っ払われている、リミッターぶっ壊れ系の方は歴史上それなりに居ます。遺伝的な影響か生育環境の影響かはしれませんが、そのよう人は一般的に天才と言われてたりします。かの有名なフォン・ノイマンとか絶対リミッターぶっ壊れ系の天才だなと個人的に思います。)

病気を治すのも、人間が本来もっている能力を利用してのものですので。


いかがでしたでしょうか。

大麻と催眠を使って、病気の治療の可能性について色々と書きました。

こんな記事を書いておきながら、私は大麻の利用はしようと思いません。

まず、手に入らないですし、使用は犯罪ですし。まだ、いろいろと使い方の研究をする必要があるだろうし。

大麻と催眠を使った病気の治療法については、日本のような大麻の使用が犯罪になる国では研究が難しいでしょうね。

医療へ応用の可能性より悪用の可能性の方が問題視されているからですね。

というかまず、そのためにはこのブログで書かれている脳に関する理論から研究・証明する必要があるだろうし。

まあ、いずれはどっかの誰かが研究するでしょう。


では、今回の記事は以上になります。

ではでは。



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気候が人間に与える影響

こんばんわ、dokubo_toshoです。

最近はブログの記事のネタに困っています。スピリチュアル系のネタがたくさんあってそれらのネタを書きたいな~と思っていたりしますが、あまりスピ系ばかりに偏るのも「dokubo_toshoの認知科学とNLP」時代から読んでくださっている方に申し訳ないかなと思ったりします。

なので、今回の記事は久しぶりに脳関連のネタになります。

題して「気候が人間に与える影響」です。

このブログを書いている日はdokubo_toshoが住んでいる福岡は曇りのち晴れでした。

曇りの日は外に出るのがめんどくさいです。

とくに人が多いところほどめんどくさいです。

いきなりですが、「冬季うつ」というのをご存知でしょうか。

冬の日照時間がすくなるなる季節になると、体内で「セロトニン」と言うホルモンの生産が少なくってうつ病と似た症状や軽いうつ症状がでることがあります。

これは太陽光がセロトニンの生産に関わってくるという話です。

そして、曇りの日はもちろん雲で遮られて地表に降り注ぐ太陽光の量あるはエネルギーレベルは減少します。

となると、セロトニンの生産量も曇りの日は減ってしまいます。

なので、そんな日に外に出かけると、多くの人が鬱々とした気分で居るので、そういった人たちのエネルギーを喰らってしまいます。

もちろん、自分自身のセロトニンの生産量も若干減ったりするのですが、そういった場合は瞑想やアファメーションで結構簡単にセロトニン量を増加させることができます。

ですが、外に出かけると町中の微妙に鬱々として人たちのエネルギーあるいは脳に同調したり、同調しなかったとしても微妙にうつうつとしてエネルギーをキャッチしてしまうのが、しんどかったりします。

これは、脳の同調・模倣・共感システムの機能が強い人あるあるなわけです。

しかし、途中で雲が晴れて、日差しがさすようになるとやはり気分が良くなります。

これは、自然の太陽光のエネルギーが、眼球から入ってきて脳に送られることで太陽光のエネルギーを利用して脳がホルモン生産等の働きを活性化させるためだと考えられます(このブログの仮説です)。

通常の私たちがものを見る時には、物が見える以上の何かがあると考えません。

しかし、物が見えるということは、光が網膜に像を結ぶだけでなく、光のエネルギーが網膜から神経を伝って脳に到達するということでもあります。

当然脳内に流入したエネルギーは消費しなければ消えること無く残るので、何らかの形で使われることになります。

あたりまえですが、感覚というのは、感覚器が外部から刺激を受け取ることで生じします。

つまり、外側からなんらかのエネルギーが感覚器によって受信されエネルギーが体内に流入して、最終的に脳までエネルギーが到達するということです。

話がそれました。

晴れているということは、セロトニンの生産等に関わり結構生命にとって重要なことです。


ロシアの自殺率の高さをご存知でしょうか。

私も詳しくは覚えていないのですが、日本を軽く超えていたと記憶しています。

ロシアと言うか、地理的に日照時間がすくない地域に住む民族は、セロトニンの生産量が少ないことで自殺率が高かったり、気質的にネガティブや悲観論者や猜疑心の強い人切れやすい人が多くなるかもしれません。

セロトニンは抑制性ホルモンです。

ネガティブな思考を不活性化できなかったり、自分の良くない言動を抑制できなかったり、ストレスを受けたときの反応を抑制できなかったり、等々セロトニンが不足しがちなことで起こるデメリットは沢山あります。

長く日照時間の少ない土地に住み続けている民族は、遺伝的にも変化を生じるので、少しづつ日照時間が少ないことに対する耐性がついてくることもあるかもしれませんが、やはり上記のような傾向があるのかもしれません。

また、日照時間だけではありません。

暑さや寒さというのも人間にかなり影響します。

極端に暑かったり寒かったりする地域では、経済の発達はそうでない地域比べて劣ってしまうでしょう。

これは人間には働きやすい気候、知的に労働に適した気候があるという話です。

沖縄とか北海道とかに行くと思いますが、あのような気候条件でシコシコせっせと働くというのは環境的に辛くて私はあまり出来ません。

さらに言えば、寒い地域では室内で服を着込んでやれば知的労働は出来るかもしれませんが、暑い地域ではパンイチになっても暑いので知的労働は出来る気がしません。

この理屈で言えば、亜熱帯地域で知的労働が活発になって経済が発達する可能性は、日本みたいな気候に恵まれた地域に比べて薄いだろうと思います。

歴史的に観ても、現在の世界情勢を観ても、経済的に発展している国というのは気候や地理的条件がいい感じな国ばかりです。

いい感じに働きやすい環境の国や地域がやはり、経済が強いです。

もちろん最近では、暖房装置も冷房装置も発達してきましたが、そもそも働きやすい環境が自然な状態であるかどうかが、かなり重要なようです。


いかがでしたでしょうか。

今回は日照時間と暑さ寒さだけ扱いました。

しかし、人間に影響与える気候条件はもっとあるでしょう。

たとえば、気圧だとか、湿度だとかその他いろいろと。

そのような違いがあるので、1つの地域で生まれた基準を世界のすべての地域の当てはめてスタンダードにすると、その条件に有利な地域や国ばかりが勝ってしまうでしょうね。

グローバルスタンダードとかいってますが、社会システムはこうしたらうまくいくとか、そういうのは住んでいる人間の性質に合わせるのが基本です。

日本とイギリスやドイツは比較的に似ているので、彼らの社会システムを参考にした昔はそこそこ上手くいきました。

しかし、最近では民族性が全く違う国のアメリカを参考にしようとしているので、ぜんぜん上手くいっていませんね。

「はは、ワロスワロス」、と言う感じです。

基本的に日本とアメリカは、性質的に対極です。

アメリカのエッセンスを少々頂戴する、程度ならうまくいくと思います。

しかし、アメリカのマネをしようとしたら上手くはいかないでしょうね。

日本とアメリカでは、気候も地理も歴史的な経緯も、人種も宗教観もまるで違います。


また、だいぶ話がそれてしまいました。

気候というのは人間の脳や内臓など身体にダイレクトに影響を与えます。

身体に影響を与えているので、もちろん性格や気質にも影響を与えます。

そういった影響が歴史的に積み重なると、国民性や民族性を作ります。

さらには、遺伝形質も変化していきます。

(民族間のハーフが強いのは、このようなそれぞれの環境に対する「適応遺伝子」みたいなものが複数持てるからかもしれませんね。)

あなたという人間は、遺伝的にも、現時点の環境的にも、気候の影響をガッツリ受けます。

それを意識するのは結構大事だと思います。

それはあなたの特性であり、個性であり、特徴であり、能力でもあります。

自分の体が持つ、遺伝的な気候への適応を知りつつ、現在置かれるている場所の気候や環境にも影響を常に受けていることを知ってください。

知っていると、無理がなくなります。

出来ない無理をしなくなります。

結構大事なので、人間は気候や環境にガッツリ影響を受けていることを肝に銘じておいておきましょう。

さらには、どんな状態でも「キリキリ働けぇい!」と言ってくる今の社会システムが、いかに無知蒙昧の無理難題を押し付けて来ているのかが分かります。

くれぐれもご自愛くださいね。

では今回の記事は以上になります。


ではでは。




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全てはうまくいっている(ただし・・・)

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、スピリチュアル界隈でよく言われる「全てはうまくいっている」という事についてのちょっとした注意書きです。


「全てはうまくはうまくいっている」「宇宙は完璧・完全」など、スピリチュアルではよく言われます。

これって、少し間違って解釈してしまうと、「努力は必要ない」とか「何をやっても人生うまく行く」とか「遊んでても、人を傷つけてもOK」と言った理解をしてしまいます。

また、「努力は必要ないって言ってたのに、適当に遊んでいたら借金まみれになった」とか「人を傷つけている人や騙している人が居るのに、全てはうまくいっているっておかしくない!?」などと突っ込まれてしまいます。

なので、間違いがないようにちゃんと説明します。

「全てはうまくいっている」をより詳細に記述すると、「全ては上手くいっている。なぜなら、最終的に全てを統合すると必ず上手くいくから」となります。

なぜ「最終的に全てを統合すると必ず上手くいく」のかというと、「存在は永遠」で、「上手く行くまで何度でもトライでき」て、これを上手く行かせなければもう上手くいかせることはできない、という「時間制限がない」からです。

なので、どんなにあほちんで愚かしいことをやって、他人にひどい目に合わせられたり、その逆が合っても、永遠に「リトライしたり、因果応報な結果になって反省したり、上手く生かせる方法を学ぶまでいろいろ試したりする」からです。

なので、今全く努力をしないでなまけている人は、いずれ因果応報な目にあって、努力をすることを学ぶことになるかもしれない。

なぜなら、そのような事態にならないと努力の大切さを学べない人だから、とか。

いま、他人を傷付けて痛めつけて、悦に浸っている大悪人は、いずれ因果応報な目にあって、自分が今までやってきた行為がどういうことなのか知ることになる。

なぜなら、そういう事態にならないと、自分を顧みれない様なやつだから、とか。

そういう、「時間をかけて帳尻を合わす」ということが自然の摂理として宇宙には組み込まれています。

いま社会状況がひどいことになっている、何十年か前に恐ろしい虐殺が起こった。

それでも、「宇宙は完璧・完全」なのか。

はい、「宇宙は完璧・完全」です。

なぜなら、全ては「今・ここにある」から。

時間をかけて帳尻を合わすということもそうですが、スピリチュアルには「全ては今・ここにある」「今・ここしかない」という考え方があります。

事実は、あらゆるパラレルワールドが同じ場所に重なって存在しています。

「1945年の地球が存在する、パラレルワールド」と「2016年の地球が存在するパラレルワールド」も「2050年の地球が存在するパラレルワールド」も全て同時にしかも同じ場所にちょっとずれただけで存在します。

つまり、時間をかけて帳尻を合わすことが出来ることに加え、「今・ここ」に全ての過去・現在・未来が在るので、今どんな事が起こっていても、過去どんなことが起こっていても、どんなことが合っても「今この瞬間にすでに帳尻が取れている」事になります。

なので、宇宙は「今・この瞬間」において「常に帳尻が取れている状態」なので、「宇宙は完璧・完全」なのです。

しかし、結局宇宙がやっていることは「上手くいかない事があっても、時間をかけて帳尻を合わす」ということになるので、「仕事を頑張」るや、「他人に優しくする」や、「愛と調和が取れた行動を心かける」等の様々な意識的な努力は全く無駄じゃないし、やっておいた方が良いという事になります。

どうあがいても、他人が愚かにしか見えないとか、過去の自分が最悪の事をしたとかでも、「全ては過程(プロセス)」ということを念頭に置けば、上手いやり方を学んでいる最中ということで、確実に良くなっている途中でもあります。

あと、なんだかんだいって「殺されたとしても、殺したとしても、魂の視点から見たら取り返しのつかないことにはならない」ということがあります。

もちろん、生きている我々は、魂側の視点に立ちすぎて「人を殺しても良い、殺されても裁く必要はない」といった人間社会の秩序を無視した考えには陥らないようする必要があります。

そこまで行くと単なる狂人になるので駄目でしょう。

なので、「全てはうまくいっている」「宇宙は完璧・完全」だとしても、現実的に考えて、今までの社会が主張したような「自らを律する努力」をしつつ、スピリチュアルな方たちが主張するような「愛と調和」に基づいた言動を心がけるくらいがベストでしょう。

「全ては上手くいっている」「宇宙は完璧・完全」だとしても、適当にダラダラ生きていたり、自分を顧みずに常に自分が正しいと思いこんで突っ走ったり、自分勝手な振る舞いで他者を傷つけたり、他者を支配してやろう考えたり、そういう考えのままだと、「時間をかけて帳尻を合わす」 ことになるので、いろいろめんどくさいことになります。

このブログの懸命な読者の方は、そこら辺を勘違いしないように注意していきましょう。


いかがでしたでしょうか。

結局言いたかったことは1つです。

「努力必要なくないですよ」「一生懸命って効果高いですよ」ということです。

ちゃんと懸命に自分を律する努力をすれば、物事を速く上手く行かせることが出来ます。

だらだら生きていたら、あと何回も転生しないと「幸福に至れない」人が「懸命に自分を律する」ようになったら今生で「幸福に至る」なんて珍しくもないです。

スピリチュアルにハマっても、現実的な努力は必要ということです。

これ以上努力は必要ないということは、今までちゃんと努力をしてきた人に向けていっている事がほとんどです。

努力して自分を律しろといことは、今自分を律する必要がある人に向けていっている事がほとんどです。

まあ、そんなものです。

今回の記事は以上になります。

ではでは。



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感覚の言語化の訓練をしよう

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、「感覚の言語化」についてです。

私は他人から結構、dokubo_toshoさんて頭が良いんですね、と言われます。

自分では普通にしているつもりなのです、ですが確かに自分は分析力とか論理的思考とか結構訓練したので、そう言う所が現れているのかもしれません。

なので、今回は、分析力の訓練方法をご紹介します。

それが、「感覚の言語化」です。

私は何かを分析している時に、実際に分析対象を分析するつもりではやっていません。

もちろん傍から見たら分析対象を事細かに分析しているようにみえるのですが、実際は「対象を認識した時に起こる自分の感覚の分析」をしています。

つまり、自分がどう感じるかを徹底的に分析して論理的に話しているのです。

では、何故対象を分析せずに、自分の感覚を分析しているのでしょうか。

それは、結局認識対象は自分というフィルターを通しているからです。

蛇を観察しようとしても、蛇自体は観察できません、自分の眼に写った蛇を観察しています。

映画を分析使用しても、映画そのものは分析できません、自分が観た内容自分の感じた感情なら分析できます。

物事を分析するときに、多くの場合はものの世界である客体世界を分析しているつもりになっていも、実際は自分の意識に投影されて主観経験の世界を分析しています。

というか、分析とか判断とかそいうものは、主観経験を持つ存在の中にしかありません。

客体世界に、主観はありません。

故に客観的な分析とか判断とかも存在しません。

よく客観的なものの見方とか、客観的~といいますが、客観的とは客体世界が主体つまり物目線です。

多くの人は、客観的な意見と、第三者的な意見を混同しています。

客観的な意見や判断など存在しません。

なぜなら、客体世界、つまりモノの世界には主観がないからです。

判断して、分析する主観経験者がいない場所に、判断や分析や意見は存在しません。

なので、客観的に分析するつもりは元からないのです。

主観的に分析して、自分の感覚つまり主観経験を分析しているのです。

対象を分析するときに、客観的に分析・判断しようとせずに、最初から自分がどう感じるかという主観経験を分析するのです。

このときに、客観的どうなのか、第三者的にどうなのかといのは一切考慮しません、なぜなら知りようがないから。

また、自分の主観経験を分析しただけなので、客観的に正しいとか思わず、第三者に押し付ける必要も感じません。

客観的に正しい、つまり主観経験の世界だけではなく、客体世界の中でも正しいかどうかは、それとはまた別の検証が必要です。

分析・判断は主観的に作業です、それ客観的に正しいかは内容の検証が必要です。

自分の主張や意見は、自分がそう思った・そう感じた・そう考えている以上の何物でもないので、分析に気負いもありません。

なので、自分の認識の外を認識して分析・判断・主張された意見は、とても貴重だと思っています。

なので、そういった意見にであったら戦わず良いところを取り入れます。

なので、他者の分析・判断・主張を聞く時は、その人の主観を借りるつもりで多いに役に立てます。

人間には認知のパターンやフィルターがあることを知っているので、常に自分のパターンやフィルターで弾かれたものがないかは注意しています。

当たり前ですが、他者の認識のパターンやフィルターにも注意を払います。

そういった事を徹底的に、感覚を言語化することで訓練しています。

訓練内容ですが、

はじめは、映画の感想を論理的に説明できることがからはじめました。

映画を観てどのシーンでどう感じた、良かったか悪かったか、なぜそう感じたのか。

どうすればモット良くなると思ったのか、この映画は何を伝えたかったように感じたか。

などなど。

最初は論理的でなくても大丈夫です、とにかく自分の感じた事を言葉にしてください。

もちろん、映画を見ている時にいす座りにくかったとか、花粉症で鼻がやばかったなどでもよいです。

そうやって、ドラマや漫画、小説、でもやっていきます。

大きく感情が動く作品が適しています、なぜ自分がその感情を感じたたどのような内容に感じたか徹底的に言語化しましょう。

その次には、自分が人とコミュニケーションをとっているときもそれをやります。

自分が相手や相手の言動にどうのように感じたが、暇な時に色々やります。

この時に大事なのは、相手が自分を嫌っているように感じたと思っても、相手は自分を嫌っていると思い込まず、主観経験と客体世界を分けて考えください。

あいつが私を見下しただからムカついた。と分析するのは間違いです。

あいつが私を見下した「ように感じた」、だからそれに対してムカついた。と分析するのです。


それが十分にできるようになったら、自分の身体感覚の分析です。

寝ているときでも良いし、運動しているときでもよいので、自分の身体の感覚を言語化しましょう。

肘がちょっとかゆいとか。のどがすこしいがいがしているとか。

自分の内部感覚を言語化しましょう。

これをやると、病気になったときに自分の症状をちゃんと医者に説明できるようになります。

ここまで来ると、自分の中の微かな感覚でも拾えるようになります。

それと同時に、心理学や哲学や認知科学を学んでみましょう。

最低限、心理学くらいさらっと学びましょう。

ここまで感覚の言語化できるようになれば、心理学については自分の経験からすでに知っていることがほとんどになります。

苦もなく理解して覚える事ができるようになります。

また、心理学を学ぶときもというか新たに何かを学ぶ時も、常に感覚の言語化を意識してください。

自分が、ドコが解ってドコが解らないかが一瞬で分かるので、独学が得意になります。

大学などで、分からないところを質問することが苦もなくできるようになります。

「何がわからないかもわからない状態」がなくなります。 

ここまで来たら、社会問題や友人の恋愛、自分の将来に着いてなど、積極的に感覚の言語を使って分析してください。

ここで大事なのは、あくまで自分の主観経験つまり自分がどう感じたかを分析しているので、分析した内容を強く人に押し付けたりしないことです。

そして、他者の意見をよく効き、積極的に良いと所を取り入れ、また違うと思う意見についてはスルーか無視しましょう。

自分と違う意見や主張をする人でも、大いに学びや参考にはなるのですが、ときたま「何をいっているのだこいつは」という人が現れます。

そういう場合は、文字通りあなたとは住む世界が違います。

主観経験の世界が隔絶しているので、近づいたり関わったりしないようにしましょう。

互いに不幸になるだけです。

そういう手合はあなたが意見を戦わせようとしたりしなければ、大丈夫です。


いかがでしたでしょうか。

感覚の言語化の訓練をしよう。

これをよくやっていると分かるのですが、自分が主観経験の世界を分析しているのに、客体世界を分析していると錯覚している人が結構居ます。

映画の批評とか、結構「それっておまえの好みの問題だろ~」という事を客観的な分析と称していたりします。

また、そういった主観的な意見に対して、自分の意見と違うというだけの理由で食ってかかるひともいます。

互いに、判断や分析は主観的なもの、という事を十分に理解できていないことからきます。

もちろん、客観的に正しい意見(つまり事実や真実)も多々ありますが。

結局それは、それを正しいと知っている人にしか分からないのです。

多くの客観的に正しいと主張されている意見にたいしてはなんとも言えないと言わざるを得ません。

しかし、多くの主張が乱立して、徐々に本当に正しい事が分かってくるのが世の常なので、徐々に色々分かってくるだろうとのんびり構えるのが吉ですかね。

ただ、往々にして何かの切っ掛けで真実を知ってしまった、真実にたどり着いてしまう人間がいるものです。

そのような人が最近では多いとは思いますが。

そのような人の言葉も鵜呑みにせず、自分の感覚を言語化してそれについてどう感じるか、色々探って検証してみるのも面白いものです。

もちろん、このブログについてもそのような態度で臨むことをおすすめします。

では今回の記事は以上になります。

ではでは。


補足:

例えば、この鉛筆は10cmの長さだということは、意見や判断ではりません。

主観経験の世界で生じるものではなく、客体世界に存在する物の属性です。

もちろん、10cmだと思うことは判断なのですが。

究極的に、定規のここからここまで長さと同じ長さということは、どの主観的に世界でも変わることのない、物主体です。

なのでまあ、客観的といって過言ではありません。



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愛情不足は飢餓状態とおなじ。まずは自分を愛そう。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は「愛情不足は飢餓状態とおなじ、まずは自分を愛そう」という内容になります。


まずは、序論からはいります。

急にですが、東洋医学には感情と各種臓器を結びつける考えがあります。

例えば、悲しみすぎると肺を痛める。

恐れは腎臓を病むとか。

これらの話は、なんらおかしな話ではなりません。

心理学から見ても、感情は身体表現だからです。

感情は身体表現ということはどういうことでしょうか。

それは、私たちは自身の感情というものを身体を使って表現して、その自分の身体の現れた感覚を通して自己の感情を自覚するからです。

悲しくて、切なくなる時にあなたが胸をおさえませんか。

胸はつまり、肺があるところです。

怒りや、憂いや、喜びの感情など、あなたに中にその感情が現れる時にあなたは自分の感情を自分自身の身体の反応から知るでしょう。

故に感情は肉体があるからこそ起こる、あなたの身体(内蔵など)の反応などです。

これが、感情は身体表現という意味です。

また、あなたが悲しくで胸をおさえるでしょう。

その意味は、胸に手を当てることで肺にエネルギーを与えているのです。

なぜなら、悲しみ(肺の反応)は、肺がエネルギーが枯渇している状態だからです。

悲しくなると肺が弱ります。結果、息が苦しくなります、息が苦しくなると、呼吸が弱り、エネルギーを肉体にとり入れる力が弱まります。その結果、からだの各所にエネルギーが届かなくなり、更に肺にもエネルギーが届かなくなります。結果、胸がさらに苦しくなります。

その時に、胸に手をあててエネルギーを与えてやれば、肺が(多少)元気になり、呼吸が強くなり、元気を取り戻します。

肺がエネルギーが枯渇状態になって弱れば、悲しみを感じ、悲しめば肺のエネルギーは弱くなります。

肺のエネルギーが枯渇しなければ、悲しくならず、悲しんでも肺にエネルギーが注入すれば、すぐ元気になります。

この理屈で言うと、あなたがネガティブな感情を抱いている時には、その環状に対応する身体の部位はエネルギー枯渇状態にあります。

故にその状態をほっておくと、苦しみの感覚と同時に、身体的にも弱っていきます。


よく、愛情に飢えているとか言います。

愛情に飢えた子どもが、問題を起こすと、躾の問題とか、本人の我慢とか理性の問題にしようとします。

愛情に飢えることを我慢するのは苦しいのです。

腹が一杯でも、愛情に飢えていると身体的にエネルギー不足になります。

感覚的にいって、すごく苦しいのです。

その子精神の問題でもなく、単純に愛情はエネルギーだからです。

愛情はエネルギーです。

愛情と言っても性愛の愛情ではなく、受容と尊重と肯定のこのブログでいう存在質のエネルギーです。

愛情は、実際にエネルギーなので、枯渇すると苦しくなります。

身体が苦しくなります。

感覚的にめっちゃ苦しいです、お腹がすいてる時と似ています。

お腹がすいてる時は、飯を食えば苦しみは収まりますが、愛情のエネルギーが不足しているときは、飯を食っても苦しいままです。

常に飢餓状態です。めっちゃハングリーです。

金があるとか、裕福だとか、友達がいっぱいいるとか、そういうことで埋まりません。

何をやっても、飢餓状態で苦しいから、性格や粗野になります、悪くなります、自暴自棄や自己中心的になります。 

なんとか苦しい状態から脱しようと、恋愛や女遊びや男漁りに必死になったりもします。

しかし、真に愛情のある関係が築けないので、愛情は不足したままです。

苦しくて、どうしようもなくなります。

なぜなら、自分を愛していないから。

愛情はエネルギーです、他者から与えられる愛情(エネルギー)もありますが、自分が与える愛情(エネルギー)もあります。

自分を愛することをしている人は、例えば他者からそんなに愛情のエネルギーを与えれなくてもそんなに苦しくないです。

なぜなら、自分で自分に愛情のエネルギーを充てているので、飢餓状態にはならないのです。

自分で自分に愛情のエネルギーを与えることはできます。

その状態になると、よそからエネルギーを与えられなくても、飢餓状態にならないので苦しくなりません。

スピリチュアルの世界では、瞑想して宇宙の愛を感じるとか、自分を愛そうとか言いますが、これは精神論や観念論ではありません。

実際にそうすることで、自分の身体にエネルギーを補充しているのです。

瞑想すると、自分の意識の波動が宇宙の根の方に近くなります、存在質に近づきます。

そうすると、身体と意識に存在質からのエネルギーが入ってきます。

身体を構成する原子と意識の周波数が合致して、隙間がほとんどない状態のところに、原子と意識の周波数がずれて、大きな隙間ができます。

その隙間から存在質のエネルギーが身体の内側に流入してきます。

意識の波動を存在質の方へずらすと、身体と意識の間に隙間ができて、水が高きから低きに流れるがごとく、円ルギーが不足している身体へど自動的に存在質のエネルギーが流れてきてエネルギーの分布を均一にしようとします。

その状態になると、からだの愛情のエネルギーが不足している状態はかなり改善されます。

そうなると、自己に余裕が出てくるとので、さらに自分の愛するようにアファメーションをしたり、余裕のある状態で、自分の心の問題や色々なことに対処しようとすると言いでしょう。 

だから、いろんなスピリチュアルな人やチャネルリングした高次存在は瞑想を進めてくるのです。

瞑想することで、愛情のエネルギー不足を解消できるから。

苦しみから脱したら、楽になるし、色々な問題行動を解消できるから。

愛情はエネルギーは比喩ではないのです。

実際に、人間に必要不可欠な存在のエネルギーなのです。

必要不可欠なエネルギーだから、不足するとメッチャクチャ苦しくなります。

そして、エネルギーの補充方法を知らないと飢えてどうしようもなくなります。

現代科学は愛を実在のエネルギーとみなしてないかから、愛情不足から来る色々な問題に的はずれなアプローチしかできません。

しかし、スピリチュアルやちゃんとした宗教は実在のエネルギーと知っているから、適切なアプローチをしっています。

愛情不足の飢餓状態から脱するには、自愛や瞑想を学ぶことです。

また、感情を身体表現であると学び、軽視・無視をしないことです。

愛情不足で苦しくなってしまうのは、あなたは精神が未熟だからとか弱いからではありません。

一週間何も食べずにいる人に向かって、腹が減って苦しいのはお前は未熟で弱いからだとか言ったら、馬鹿ですよね。

同じです。

愛情はエネルギーは精神論でも観念論でもありません、もうすこし科学が進歩すればあたりまえに知られることになるエネルギー科学であり物理学です。

ご自身を愛しましょう。

ここで言う愛とは、存在の肯定です。

あなたという存在のすべてを肯定しましょう。

宗教的な「愛」の意味については別の記事の、

スピリチュアル用語をわかりやすく解説します

にちょいちょい書いていますのでよろしければ一読ください。
 


悲しい出来事あっても、一晩寝て眼が覚めれば悲しみが去ることがあります。

それは、寝ている間に、意識の周波数が存在質に近づいて、存在質の愛のエネルギーを補充しているからです。

辛いことや苦しいことがあるなら、いっぱい寝ていっぱい自分を愛してあげてください。

自分の感情を無視したり・軽視したりせず、適切なアプローチで対処して自分自身をいたわってください。

悲しいことがあったら、ふて寝するのは、問題から逃げているからではありません。

それは適切なアプローチです。自分を労っているのです。

辛いことがあった時誰かに甘えるのは、子供じみた行為ではありません。

大人だって、甘えて良いのです。癒やしてもらっていいんです。

素直に誰かの好意や愛情を求めてもいいのです。

泣きたくなったら泣いてください。

散々泣いて立ち直ってください。

大人は感情を抑えなくてはならないなんて誰が言ったのですか。

抑えるのではなく、適切なアプローチで適切に処理してください。

抑えた感情は、溜まってとぐろを巻いて苦しみの毒を撒き散らす蛇になります。

あなた自身も苦しいですし、他人を巻き込んでしまうこともあります。

適切なアプローチで適切に処理された感情は、毒を薬にする事ができます。

悲しみの毒を薬に変えれた人は、人にやさしくできます。

怒りの毒を薬に変えれた人は、誰かの為に怒ることができます。

寂しさ毒を薬に変えれた人は、慈愛を知るでしょう。


自愛は必要です。

だれもがご自身を愛する必要があります。

自分を愛することはそんなに難しいことではありません。

子供の頃はだれでも自分を愛していました。

それがいつの間にか、親や大人や社会の影響で、自分は愛する価値がないとか、自分を愛することは恥ずかしいことだとか、そんな観念を植え付けられしまったかもしれません。

そんなことないので、盛大にご自身を愛してください。

人から見て完全じゃなくてもいいのです、出来ないことが合ってもいいのです。

あなたはある意味完全なのです。

詳しくは、この記事を一度ください。

私は完全~部分不完全性と全体完全性~

自分を愛することは難しくないのです。

子どもの頃の、自分を好きな気持ち、自分に自身がある気持ちを思い出すだけで良いのです。

元からもっていたものなのですから。




それでは今回の記事は以上になります。

ではでは。



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全てはバランスを崩してはバランスを取り戻すこの繰り返し

こんにちわ、dokubo_toshoです。

最近、思っきり体調崩していたので久しぶりの記事になります。


今回の記事は「全てはバランスを崩してはバランスを取り戻す事の繰り返し」という話です。

よくスピ系のブログなどで「もう頑張らなくてもいい」とか「懸命に生きることが肝要」であるという話を聞きます。

そういった真逆の事を書いているブログはどちらか一方が正しいというわけではなく、どちらも真理をついた内容であったりします。

では、何故そのような事が起こりうるかというとそれは「全てはバランスを崩してはバランスを取り戻すの繰り返し」だからです。

例えば、「懸命に生きる事が肝要である」という真理をよく主張する人は「以前は懸命に生きてこなかったので、懸命に生きることで上手く言った。バランスを取り戻した人」であるかもしれません。

あるいは、「もう頑張らなくてもいいよ」という真理をよく主張する人は「以前は頑張りに頑張り過ぎていて、頑張る事をやめた時に上手く行くようになり。バランスを取り戻した人」であるかもしれません。

懸命に生きず適当に生きる事で上手く行かなかった人生が、懸命に生きるというエッセンスを取り入れること程よいバランスになった。

頑張りすぎていた人生で、頑張らないというエッセンスを取り入れる事で程よいバランスになった。 

人が劇的に変わる・成長する時は、それまでの自分にないあるいは自分と対極にあるもののエッセンスを取り入れる事ができたときである事が多いです。

そのため、ひと「こうやった方が良いよ」とアドバイスをする人は、自分自身がそれを取り入れた上手く言ったこと、つまり「以前の自分と対極にあるエッセンス」の内容をアドバイスすると思います。

他に例として、ビジネスとは臆病もののほうが成功するという事を仰る老練の経営者の方がいたとします。

また、挑戦こそがビジネスを躍進させるという事を仰る成功した経営者の方がいたとします。

この二人はどちらも正しいことを言っているようでその主張は対極にあります。

それは、臆病さが必要であるということを主張する経営者は、「その人自身が過度に向こう見ず、自信家、豪胆であるから、臆病さを身につける事によってビジネスを成功に導いた人」である場合が多いでしょう。

挑戦こそ必要と主張する人は、そもそもその人が「臆病、慎重、過度に理性的、保守的」な性質をもっていたから、挑戦を学ぶことでビジネスを成功させた人」ではないでしょうか。

だからこそ、臆病さや挑戦することを学んだ時、新しいエッセンスを取り入れることになり、躍進し成長できたのです。

しかし、このバランスを崩してはバランスを取り戻す事の繰り返しということを分かっていないと後々めんどくさい事が起きます。

臆病さを学びビジネスを成功に導いた人は、今度は、過度に臆病であることを好むことになり、また過度に挑戦を嫌うことになります。

自分が臆病である事でビジネスを成功させた人は、他の人や自分の部下にそれを主張するようになります。

しかし、それらの人が「臆病さを学ぶことで、躍進し成長できる人」であるとも限らないのです。

また、挑戦こそが必要であるという主張する人を間違っていると思い、嫌いはては見下してしまいます。

このように、再度バランスを崩すことになります。

その後は、何処かで上手く行かなくなり、大失敗をして再度バランスを取り戻す事が必要になるでしょう。

そのような人は、人それぞれ学ぶ必要のあることは違うということを理解する事をしなければいけまないでしょう。

このように、全てはバランスを崩してはバランスを取り戻すことの繰り返しなのです。

また、以前に書いた記事である。

今貴方が一番好ましいと思っているものは実は一番貴方に好ましくないかも

にも書いてある様に、自分が好ましいと思って追求している事が害になることもあります。

臆病さを学ぶ必要があるということ主張している事にウンウン頷く人は、その人の話の内容を学ぶ必要はあまりないでしょう。

というか、その内容を全く同意できるのなら、それ以上追求することが害になりかねません。

むしろ。臆病さを学ぶこと主張する人の話を馬鹿にしたり、まったく同意できないと思っている人のほうが結局その人の主張から学ぶ必要あるでしょう。

また、上記の記事に書いてありますように、「すべての言葉は自分に向いている言葉と、自分に向いてない言葉がある」「人の主張というのは、主張している人が想定する特定の人に向けられている」「自分に向いていない言葉は、無視・スルーが基本」「自分に向いている言葉は、積極的にキャッチするべし」「でもそれが出来ないのが常だから、自分の所に来た時は逃さない用にしよう」という事があります。

そして、安心してください。

バランスを崩していっても、いずれはバランスを取り戻すときが必ず来ます。

しかし、極端にバランスを崩しているときほど、大きな衝撃をうむ出来事が起こり、あなたのバランスを取り戻させます。

なので、自分から積極的にバランスを取っていればそんなに大きな衝撃はこないでしょう。

また、バランスを取ろうとしすぎる事で、バランスを崩す人も居ます。

そのような人は、バランスを取ろうとしないことを学ぶ必要があるでしょう。

人によって、その時によって、場合によって、ちょうどよいバランスは違うということ知るようになるでしょう。

ときには思っていっきりバランスを崩してみることで学ぶこと在るかもしれません。

結局バランスの調整は自然の自浄作用だということを知るでしょう。
 


また、これらのバランスは生まれてたときから個性と個人差があります。

親が自分はこうやって育ってきたというやり方で自分の子どもを育てようとしても、自分と自分の子ども学ぶ必要がある事は往々にして違うでしょう。

子どもを育てる時は、育て方にこだわらず、特定の教育法を否定も肯定もせず、過度に信頼でせず、依存せず、生まれてきた自分の子どもに合ったやり方をするのが基本です。

よく言われる「褒めて育てる」方法も、合う子供と合わない子どもがいます。

褒めて育てる方法を奨励する人は、褒めて育てて上手く言ったという例に多く接してきたでしょう。

ですが、それは統計的な偏差を考慮していません。

偏りを考慮していません。

世の中にはもちろん、褒めて育てて上手く行く場合と上手く行かない場合があります。

教育に、というかすべての物事に、ゴールデンルール(黄金律)はありません。

たった一つのやり方さえやっていれば全てが上手く行くという話はおとぎ話ですらありません、それは怠惰であり怠慢です。

また、自分が子どもを育てたやり方と、自分の子どもがその子どもを育てるやり方が違うのは当然です。

まず、あなたとあなたの子どもが違う人間です。また、あなたの子供とあなたの孫が違う人間です。

時代も違います、社会環境も違います、常識も違います、何もかもが違います。

方法にこだわるのは、道具にこだわるのと同じです。

人によって、使いやすい道具は違います。

ひとによって、お気に入りの道具が違います。 

道具が違っていても、素晴らしい家は建てられるでしょう。

その道具でなければ、家は建てられないということはありません。

いろんな道具を使って家を建てるはずです、その一つ一つが自分の使っていた道具と違っていたとしても、間違いでもありません、下手でもありません。それは、個性であり、趣味であり、こだわりであり、試行錯誤でもあります。

ときには上手く出来なくて、あなたに頼ってくるかもしれません。

そのときに、あなた道具であなたお得意のやり方で力になってあげてください。

自分と同じ道具を使ってことなかったからといって意地悪しないで挙げてください。

同じ道具を使わないことは、あなたを否定することでもありません。あなたのやり方を否定することでもありません。

分かるでしょう。

大人になりなさい。



いかがでしたでしょうか。

今回の記事は「全てはバランスを崩してはバランスを取り戻すことの繰り返し」でした。

全てはと言うことは、個々人の人生にもいえるし、社会環境や、地球規模の自然環境にもいえます。

今の時代は、様々なところで、極端にバランスが崩れている状態になっています。

このバランスの崩れた状態は、もうそろそろ限界に達するのではないでしょうか。

国家間バランス、経済バランス、人間世界と自然とのバランス、功利主義と唯物史観への過度の偏り。

様々なところで起きている崩れたバランスを取り戻す、大きな衝撃が起きてくるでしょう。

なぜなら、バランスを取り戻すのは自然の自浄作用だからです。

その衝撃がどんなものでどれほどの大きさのものになるかは分かりませんが、社会を大きな視点で観察しているとそのような予感・予兆を感じます。

現状の経済・政治・唯物史観の科学は、限界が来ている用に思えます。

また、小さなブレイクスルーがちらほら起きて、限界まで膨張したところにところどころ穴が空き始めています。

ピケティ、サムスンと韓国の社会・経済事情、英国のユーロ圏離脱、泥沼を呈したアメリカ大統領線、あからさまに失敗に終わったアベノミクス、米国と北朝鮮の国家的緊張、中東で発生した大量難民、HIVウイルスの完全な除去の成功、重力波の観測、脳の研究の発展、IT技術の躍進的発達、若者のTV離れ、等々。

もはや様々なバランスは崩壊寸前です。チラホラと現状打破の兆しが見えています。

そして、どれか1つのバランスが崩壊したら、連鎖的に様々な問題に波及して、次々とバランスを崩壊させていくでしょう。

そうなればその後は、世界的にバランスを取り戻すために邁進していくことになるでしょう。

そうなったら、価値観、常識、社会制度なども今までも大きく違ったものとなります。

古いやり方にしがみついてもにっちもさっちもいかなくなるでしょう

その後にどんな世の中にするかは、その場で生きる私たちが強い意思をもって決めていくになるはずです。

激動の世の中なれど、皆様はご健勝でありますように。

では、今回の記事は以上になります。



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全てはあなたの意識の内側で起こっている

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、「全てはあなたの意識の内側で起こっている」です。


スピリチュアルの世界では、「全てはあなたの中で起こっている」とか「 現実は幻想(イリュージョン・ホログラム)」だとか、あるいは「あなたはあなたの個人的な宇宙だ」とか言っています。

これって実は、当たり前の事を言っているにすぎないんですよ。


例えば、あなたは基本的にはあなたの意識の内側、つまりあなたの身体の体表より内側で起こることしか感知・認識できません。

あなたが見ている景色、誰かの声、熱さや冷たさ、匂いというものは、すべてのあなたの感覚器で生じているものです。

どんなに、自分の身体の外に現実があるように感じても、あなたの感じる現実は全てはあなたの感覚器で生じているものだけです。

例えば、あなたが恋人と部屋でくつろいでいるときも、あなたの目に映る恋人は「恋人そのもの」ではなく「あなたの感覚器に投影された写像(あるいは、ホログラム。あるいは、イリュージョン)」です。

あなたは決して、恋人そのものである「恋人の意識」を捉える事ができません。

なぜなら、意識はいわば「宇宙の中でその人だけが専有する空間」のようなもので、基本的に意識と意識は重なり合う事ができないからです。

なので、基本的にあなたの意識あるいは身体の表面に、恋人から放射されたエネルギー(光や声やら)を投影しさせることでしか、あなたは恋人と交流ができないのです。

あなたの意識は、宇宙の中で確保されたあなただけの個人的なスペース(空間)です。

あなたは、その内側しか感知・認識できません。外側には確かに何かがあるのですが、基本的に外側は感知・認識できません。

そして、あなたが意識は、あなたの個人的な宇宙そのものです。

なぜなら、宇宙(スペース)の中の、個人的なスペース(空間)なら、おなじスペース(宇宙・空間)だからです。

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、宇宙と意識はおなじものと考えてください。
 
なので、宇宙で起こることは基本的にあなたの意識の内側でも起こると考えてください。

たとえば、宇宙に観測できないダークエネルギーがあると言われていますが、とうぜんあなたの意識の内側にも観測できないダークエネルギーがあります。

例えば、宇宙では真空から素粒子が生成されることがありますが、当然あなたの意識の内側でも素粒子が生成されることがあります。

基本的に宇宙と意識は同じものなので、同じようなことが起こります。

逆に考えれば、宇宙は意識ということでもあります。

もっといえば、宇宙=空間=意識です。

また、空間がある所は意識の主体のあるところなので、動物にも機械にもゴミバケツに川にも地球にも意識があります。

ただ、意識があるということと意識のそのものが同質でも、感情やら思考やら本能やら衝動やらは個別の差異があるので人間と同質ではないですがね。

まあ、八百万の神々とか神道とか話ですね。
 

いかがでしたでしょう。

今回は、最近の仕事疲れからかぐだぐた書いてしまいましたが、伝えたいことは伝わっていたのではないでしょうか。

宇宙=空間=意識と書きましたが、あなたの着ている服にもトイレで拭いた紙にも意識があります。

ただ、誤解してほしくないのは、純粋な意識には思考や感情といったものは存在しないということです。

私たちは、意識と聞くと「思考や感情」があるものと考えてしまいがちですが、思考や感情は意識とは別物です。

なので、トイレットペーパーに意識はありますが、思考や感情はありません。

ただ、自発的な思考や感情は存在しませんが、私たちの思考や感情のエネルギーを受け取ることは、意識の主体が在るので可能です。

私たちの発する思考や感情のエネルギーが物に影響を与えることは十分にあるのです。 


色々書きましたが、今回の記事は以上になります。

ではでは。



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思い込みの力、すなわちドーパミンの力

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、「思い込みの力、すなわちドーパミンの力」になります。


催眠術は言葉での誘導や同調の力を使って、相手の脳内に多量のドーパミンを放出させ、暗示の言葉の内容を強く再現させることによって成り立ちます。

催眠術は、それなりに高度なテクニックが必要になります。

しかし、私たちは普段の生活で催眠術など使わなくても、脳内に多量のドーパミンを放出させ、催眠術と同等かそれ以上の効果を発揮する事があります。

それは、あなたが「思い込む」ときです。

あなたが強く思い込む時に、脳内では思考や感覚や感情を強化するための多量のドーパミンが放出されています。

例えば、自分が「絶対に若々しくいられる」と強く思い込むことが出来る人は、年をとっても身体が実際に若々しくいられます。

自分が癌だと思いこめば、「私が癌である」という思考をドーパミンが強化してその思考内容を身体が再現するので、最悪の場合実際に癌になって死んでしまいます。

また、逆の場合があります。

30代にして10代にしか見えない程若く美しい女性が居るとします。

その女性は、自分が10代にしか見えないことは当たり前で何の疑問も持っていません。

すなわち、自分が若いのは当然という強い思い込みがあるのです。

しかし、たまたま彼女が街を歩いていたら、テレビ局の人に声をかけられて、あれよあれよと美魔女としてマスメディアデビューを果たしてします。

しかし、その事がきっかけとなり、自分が若いのは特殊なことであり、特別なことであり、いつまでそれが続くかわからないという恐怖が芽生えてしまいます。

その時から、自分が若いの当然という思い込みが彼女からなくなってしまいました。

その結果、マスメディアデビューから数年もしない内に、彼女は年相応に老けてしまい、マスメディアからも引退してしまいます。

彼女は、マスメディアに注目さえされなければ、自分は若くて当然という思い込みに影を落とさずにすんだので、いまでも若いままでいられたのでしょう。

好ましい思い込みを常識や他者の観念の影響で、なくしてしまうこともあるのです。

テレビで一躍ときの人となった美魔女が、数年で年相応に老け込んでいくことが起こるのは、そうような理由があるのです。

また、人間は嫌なことがあって、「もうそれを見たくない」と強く思えば、ドーパミンの作用で実際目が見えなくなることがあります。

キリスト教を強く信じ込めば、 聖痕が現れたりするのも思い込みの力です。

歯磨きをいくらしっかりしても虫歯になるという強い思い込みがあれば、例えば虫歯になる原因がなくても、虫歯になることがあります。

逆に、歯磨きなどしなくても虫歯にならない、という強い思い込みが有れば、虫歯にならないことができます。

これは、ドーパミンの作用で虫歯になりやすい口内環境を構築してしまったり、逆に虫歯になりにくい口内環境を構築するためです。
 
癌を患った人でも、驚異的意志力で癌から回復する人が居ます。

それは、思い込みの力を正しく使った為のであり、奇跡のようでも特殊なことではいっさいありません。 

いくらパソコンの使い方を教えても一向におぼえないお年寄りが居ます。

それが、新しいことを覚える事は難しい、自分には出来ない、パソコンなんてわけがわからない、などと言った思い込みがあるために、新しことを覚えるという機能を阻害しているからです。

そのような思い込みがなければ、90になっても新しい事を学習するのは難しいことではありません。



いかがでしたでしょうか。

究極的には催眠術は、あなたが強く思い込むのを手助けしているにすぎません。

あなたが思い込みたいことを、テクニックをつかって強く思い込ませるのに手助けしているのです。

なので、あなたが思い込みたくないことを無理やり思い込ませるは不可能です。

また、あなたが信頼していないひとからは支援を受けれないことになっています。

これは、同調を利用した変性意識状態への誘導は、あなたが好むあるいは信頼する人間に対してしか脳が同調しようとしないので、 信頼していない人がかける催眠は成功しないためです。

これは逆言えば、あなたが好意を感じる、友人、恋人、家族からの催眠が成功しやすいということでもあります。

また、あなたが好意を感じる人間の言葉は、あなたに強い影響力を発揮するので注意が必要だということでもあります。

好きになった相手が不良であったため、悪い影響をうけて自分も不良になった、なんて珍しい話ではないでしょう。

話がそれました。

思い込みの力はとても強力です。

あなたがそれを適切に利用できれば、これ以上ない味方です。

しかし、あなたがその力に対して無知で、不適切な使い方をしたり、望まぬ使い方を無意識にしてしまっていたら、あなたは予想以上に大きな面倒を被ることになるでしょう。

この記事を読んだあなたは、自分や自分の愛する人が思い込みの力を正しく使えるようにする意識的な努力をしてみるとよいかもしれませねn

では、今回の記事は以上になります。



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統合の波動、分離の波動の意味

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、スピリチュアルの世界で高い波動が統合の波動、低い波動が分離の波動と呼ばれることの説明になります。


まずは、簡単に前提から。

1. 高次の存在ほど実は周波数は低い。

2. 全ての大元の存在質はただ存在するという性質をもったなにか。

3. 存在質の周波数は0。

4. 全ての存在を統合すると最終的に周波数は0になる。

5. 同じ周波数のエネルギーの合成すると、周波数はより低くなる。(波動が高くなる)

6. 5から逆説的に言うと、ある1つエネルギーを2以上のエネルギーに分割すると、分割後の各々周波数は元のエネルギーより周波数が高くなる(波動が低くなる)。


前提の説明で全部説明し終えている気もしますが、詳しく説明します。

元々の存在質は周波数が0なので、ありとあらゆるモノのなかで一番周波数が低く、波動も高いです。

すべての物は、存在室からエネルギーを分離させて周波数を高くして、物理的特性を生み出すことによって存在します。

なので、エネルギーを統合させていくと、周波数はどんどん低くなって、波動も高まります。

逆に、エネルギーをどんどん分離・分割していくと周波数はどんどん高くなって、波動は低なります。

また、統合も分離も、単位質量あたりの総合エネルギー量は変りませんが、統合していくと質量は増えていくので、エネルギーは拡大・拡張されますが、分離していくと質量は減っていくので、エネルギーは減衰・縮小します。

また、別の記事でも書いていますが、波動の高いエネルギーは周波数が低い、つまり波長が穏やかで、波が少ない凪です。

そして、波動の低いエネルギーは周波数が高い、つまり波長が振幅が大きい、つまり波が荒波になります。

さらに、波動の高いエネルギーは、波が穏やかなエネルギーが幾層にも重なりあって統合されていると表現できるので、きめ細やかな波が高い密度で重なっているともいえます。

また、周波数が低くなって、見かけの運動のエネルギーが高くなると、その物質やエネルギーは「自由度」が高くなります。

簡単な例を挙げると、床においてあるだけのボールは重力を受けているため、より下の方に引っ張られますが、ボールを真上に投げて、周波数のエネルギーを見かけの運動に変換してやると、重力に逆らうことが可能になります。

見かけの運動のエネルギーが高くなると、物体やエネルギーの「自由度」が上がるので、他のエネルギーに引っ張られることが減ります。

つまり、周波数が低く、見かけの運動のエネルギーが高い、つまり波動が高いエネルギーは重力の影響が減衰されるので、より「軽い」のです。


故に、波動の高いエネルギーは、統合のエネルギー、軽いエネルギー、細やかなエネルギーと表現できます。

そして、波動の低いエネルギーは、分離のエネルギー、粗いエネルギー、重いエネルギーと表現できるのです。
 

スピリチュアルでは波動の高い低いを様々な表現で説明していますが、物理学的に説明すると以上のような理屈があるのです。 

軽いとか、粗いとか、分離とか、統合とは、抽象的な比喩ではありません。

単純に物理的に、軽いし、粗いし、分離されていくし、統合されていくのです。

ココらへんの内容を詳しく説明している方はあまり見ないので、単なる比喩とか思っている方は多いでしょうが、実際に物理的な事を現しているのです。


いかがでしたでしょうか。

あまりダラダラと長く説明せず、スパっと書きました。

この記事だけを読んでも分からない方は、過去の記事も読まれれば細かいところを説明していますので、そちらを参考にしてください。

では、今回の記事は以上になります。




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スピリチュアルは果たして「思想」なのか。スピ系の質問募集。 「潜在意識で容姿を変える」の話3

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回は久しぶりに「潜在意識で容姿を変える」の記事になります。


まず言及したいのは、その2の記事をかいた時に比べてブログの記事数が溜まってきたので、このブログの記事をちゃんと読んでいれば、潜在意識で容姿を変えるためのベースの知識をしっかり得られるようになってきました、ということです。


そして、今回の記事でも主張することはあまり変りません。「魂の力で容姿を変える」という事です。

一般には、「潜在意識」で容姿を変えるという表現が流行っていますが、実際の所、潜在意識で容姿を帰る場合はあまりでっかい変化は期待できません。

潜在意識、つまり「脳の自動化された処理」では、肌をキレイにしたり、髪の毛を増やしたり、痩せたりする、という身体の生理的な反応をコントロールする程度のことは出来ますが、森三中の大島さんが仲間由紀恵になるとい劇的な変化は出来ません。

あなたはもし、痩せたいだとか、髪の毛を増やしたいだとか、今の身体の形を大幅に変えずに、ちょっと変化をさせたいだけなら、「魂」の力を利用する必要は実はありません。

痩せたり、髪の毛を増やす程度の事だったら、アファメーションだけで実は十分だったりします。

しかし、「森三中の大島さんが、仲間由紀恵になる」くらいの劇的な変化を望んでいる方なら「魂」の力を利用しないとそこまでの変化は達成できないでしょう。

骨格や身長を変えるというレベルの変化は、魂の力を利用しないとムズカシイからです。


ではまずは、魂の力を利用しない潜在意識のみを使った方法を紹介しましょう。

例として、痩せてキレイになりたい方のための方法です。


まず、潜在意識の力を利用するということは「自動化された無意識の処理」を利用するということです。

自動化された無意識の処理とは、「思考、感情、衝動、生理的な反応、内蔵の働きなど」を含みます。

痩せたい方は、「脂肪燃焼する生理的な仕組み」や「どんな食事をするかという、感情や、衝動」や「楽に運動するために、筋肉の働き」に介入することで達成されるでしょう。

例えば、「私は余計な脂肪が日に日に増々、燃焼していっている。体重〇〇kgになっている」というアファメーションをまいにち暇がある時はつぶやきます。

この効果は、「言葉の内容を身体が微弱に再現する。その再現が潜在意識なかで自動化される」ことです。

また、「私は身体本当に必要な量だけ食事をしている」と言うアファメーションで過食を防ぎます。
 
最後に、水の中で運動しているのをイメージしながら、実際に運動して、身体を動かしてカロリーを消費します。 

あとは、「痩せるのなんて簡単だ」とか「私は〇〇kgなのがあたりまえ」とか「私は自分の望みを叶える資格と能力が在る」とかそんなところです。

ちなみに、「私が自分の望みを叶える資格と能力が在る」というアファメーションは自己不信に陥っている多くの人にとって一番大事なアファメーションかも知れません。 


上記の様なやり方でアファメーションを繰り返していけば、自然と痩せやすい体質になっていくのでその上で軽くダイエットすれば比較的に簡単に痩せられるでしょう。


では次は、森三中の大島さんが仲間由紀恵になるような、容姿を変え方です。


やることは、前の記事と変りません「ビジュアライゼーション(視覚化・イメージング)」と「成りきり」です。

前の記事でも書きましたが、人間の身体には魂が重なっています。

重なった魂は身体と同じ構造をしているので、魂と身体の二重管理で人間は身体の構造を維持しています。

なので、魂の構造を変えることは、すなわち身体の構造を変えることにつながります。

身体に重なっている魂の構造を「ビジュラアライゼーション」と「成りきり」で変えて、それを維持します。

そうすると、時間がそれなりにかかりますが、身体の構造が魂の構造に合うように変化してきます。

その結果、自分のなりきっているイメージ通りの身体に、実際になるのです。

仕組みは本当に単純で、これだけなのです。

自分のなりたい容姿を視覚的な細部まで鮮明にイメージできるようにします。

そして、そのイメージ自分の身体に投影します。

子どもがヒーローごっこをしている時は、ヒーローのイメージを自分に重ね合わせてそのイメージ通りに振る舞うことによって擬似的にヒーローになります。

それと同じように、あなたは細部まで鮮明にイメージできる様になった理想の自分を実際の自分に重ね合わせて、理想の自分ごっこをするのです。

理想の自分ごっこをすると、それを丸一年もすると、実際に理想の自分になってしまうのです。

本当に単純でこれだけのことなのです。

また、この理想の自分ごっごは仕事で忙しくなって集中して成りきることができなくなる前に、できれば10代の頃にやっておきたいモノです。

学生のうちは、時間も体力も有り余っていますから、魂の力で容姿を変えるのにすごく適した時期です。

更に若いころは、身体の細胞の入れ替わりのスピードも早いですので、より簡単に変えることができます。

もしあなたの身近に、容姿にコンプレックスを持つ子どもがいたら、このやり方を教えてあげてはいかがでしょうか。

場合によっては、人生が変わる可能性も否定できませんよ。


いかがでしたでしょうか。

前回の記事と内容はあまり変わりませんが、今またこの時期にこの内容の記事を書いたことに意味があると思っています。

ではでは。 



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無意識のグローバル通信

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、人間が無意識間で行っているグローバルコミュニケーションについての記事です。


人間は昼間起きている時は、無意識間のコミュニケーションとして相手の感情を読んだり雰囲気を読んだり、そのような相手の発するエネルギーを読むことでのやり取りをしています。

しかし、夜寝ている時は違います。

人間は夜寝ている間には、起きた後は覚えていませんが無意識状態で互いに意識的なコミュニケーションを行っています。

これは、互いに何キロも離れたところに住んでいても行われています。

この寝ている間の人間の意識間のコミュニケーションは、グローバル通信です。

地球あるいは宇宙規模で行われているので、地球の裏側の相手もコミュニケーションを取れます。

例えば、多くの人が寝静まって言う夜中1~3時くらいに、起きて瞑想をしていると、起きている状態で他の人達が寝ている間に行っているグローバル通信を脳が拾ってしまうことがあります。

例えば、なんとなく眠れなくて夜中の1~3時あたりまで起きていてるウトウトしていると、脳内に自分のものでない思考が流入してきて昼間会った人間とのグローバル通信が意識上に登ってくることがあります。

人間は生まれてくる前に、色々と他者と無意識の交流して人生のプランなどを決めていますが、生まれてきてからも寝ている間に他者とのグローバル通信でコミュニケーションを行って、人生のあれやこれを微調整しながら生きるプランを決めています。

多くの人は、人間が寝ている間に遠く離れた人間とコミュニケーションをとっていると聞かされていても、全く信じられずオカルト扱いをするかも知れませねん。

しかし、夜中の1~3時あたりまで起きて、瞑想したりあるいはウトウトしていると自分の思考ではない思考を脳が拾うことが出来ます。

信じられないという方は、少しためしてみるのもいいかもしれません。

また、そのグローバル通信に起きている状態で参加することも出来ますが、通信した相手が起きている状態でそのことをおぼえているこはほとんどないため、「昨日の夜、話したことだけどさぁ」と相手に話すと異常者扱いされるとので注意が必要です。

そして、完全に寝ていいない状態でグローバル通信を受信している時は、グローバル通信以外のあなたの妄想も入り込みやすいので注意が必要です。


深夜まで起きて瞑想してグローバル通信をキャッチしていると分かるのですが、皆さん寝ている時に仕事の段取りとか結構打ち合わせをしていたりします。

起きてからは結構忘れてしまっていますが、寝ている時に結構打ち合わせをしているので、起きている時に右脳を使って仕事すると、事前の睡眠中の打ち合わせ元にスケジュールを組んだりできるようになりますので、一見きちんと考えてスケジュールを組んで仕事をしていなくても、なんとなくうまくいくことが多くなります。

意識的思考は、寝ている間にスケジュール組んで段取りをしている事を認識できないので、無意識の直観を無視して意識的に論理的なスケジュールをくんだりしても、打ち合わと違うことをやってしまったりするので、変に効率が悪かったりします。

これは適当にやっても仕事がうまくいく、と言う話でありません。

寝ている時に段取りを決めているし、決めた段取りを思い出しながらスケジュールくんだり仕事を進めたほうがうまくいくので、意識的な論理的なやり方に固執しないほうが良い、ということです。


また、グローバル通信はある程度脳が発達して意識が覚醒していくと、起きている状態でも瞑想状態に入って「これが必要なのんだけど、誰かお願いします」というリクエストを投げることが出来るようになります。

リクエストを投げたら誰が拾うかはわからないけれど誰かが拾ってくれて、いい感じで処理してくれるようになるので、人生が上手く行きやすくなります。

引き寄せの法則とか結構、このグローバル通信を利用したりしているので、グローバル通信が得意になってくると色々なものを簡単に手に入れる事ができるようになります。

だた、ちゃんと「リクエストを投げる」と言う行為は必要なので、なんとなく適当にやってたら自分の望むものが手に入るという話ではないので注意が必要です。

また、当然ですが「一兆円ください」とリクエストしても、それを叶えることができる人がいなければ、グローバル通信ができていても求めるものは得られません。

リクエストしても「ないものはない」という返事が返ってくることもあるので、まあまあ注意が必要です。
 


いかがでしたでしょうか。

「無意識のグローバル通信」。

今回の記事で分かるように仕事する時にはいい感じに右脳を働かせると、意識的に段取りとか取り決める必要が少なくなってくるので、左脳だけで仕事をしている時より仕事が楽になります。

直観を駆使していくと、「なんかしらないけど、なんか上手くいく」という状態を経験する様になってきます。

この記事をご覧になっている方も、仕事をする時はいい感じの右脳を働かせる事をおすすめします。 

では今回記事は以上になります。



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スピリチュアルで言う高次元の話

こんばんわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、スピリチュアル界隈で言われている、「高次元」世界、5次元や11次元といった物に関する考察です。


まず最初に、スピリチュアルで言う5次元とか11次元の「次元」とは3次元空間とかの次元、つまり「空間の座標を特定するのに必要な、変数の数」とは別物だということを理解してください。

物理学や数学の世界では、「次元」という物は明確に定まった定義がありません。

計算式上に次元数というものが出てきて、それを使うと上手く計算出来るということは分かっていますし、「空間の座標を特定するのに必要な、変数の数」と考えられるのが一般的でしょうが、明確に「定義」が定まっていない微妙な概念なのです。

それと一緒で、スピリチュアル界隈での「次元」は明確に「定義」が定まっていない、微妙な使われ方をされています。

なので、「次元」に対する一般的な認識である「空間の座標を特定するのに必要な、変数の数」とはまるで違うものなのです。


では、スピリチュアル界隈では「次元」の使われ方はどういったものなのでしょうか。

簡単に言うと、「存在質にどれだけ近いか」ということを表現しています。

存在質については、この別の記事を読んで理解していただくとして、くわしい説明を省きます。

簡単に言うと、全ての存在の大本である、「ただ存在すると言う性質を持った何か」のことです。

スピリチュアル界隈の、「次元」はこの存在質にどれだけ近いかということです。

存在質は一切の物理的特性をもちません。

固有振動(周波数)のエネルギーはゼロです。

その代わり、見かけの運動のエネルギーは無限です。

そして、単位時間あたりエネルギー量も無限です。

つまり、なにか変化を起こすのに時間というタイムラグが一切ないのです。

生物学的に言えば、思考した瞬間に脳神経が一瞬で成長・変化する、細胞の分裂も一瞬で完了して見た目も一瞬で変わる、相対性理論を勉強しようとしたら、脳が一瞬で相対性理論を理解している形に変化するので学習も一瞬。

見かけの運動のエネルギーが無限で、単位時間あたりのエネルギーも無限とはそういうことです。

そこには、プロセスというものが一切ありません。

思考即実現です。

実現のプロセスというのは、単位時間あたりのエネルギー量が有限だからこそ起こる出来事なのです。

1000キロメートル走りたかったら、人間は何日間か走って休憩して食事をして寝てと繰り返さなければ1000キロメートル走るのに必要なエネルギーを消費できません。

10分で1000キロメートル走るには、人間の身体は10分あたりで発揮できるエネルギー量は小さすぎます。

しかし、単位時間あたりのエネルギーが無限になるのなら、10分で1000キロどころか100万キロでも走れてしまうでしょう。

そしてこれと同じことが、ありとあらゆることでおこってきます。

このことは、私たちのすむ(スピリチュアルで言う)3次元の世界では考えられないことです。

なぜなら、3次元の世界は固有振動数(周波数)結構高いので、見かけの運動に使えるエネルギー量は多くなく、単位時間あたりエネルギー量は(スピリチュアルで言う)高次元の世界とはまさに「雲泥の差」だからです。

そして、高次元の世界になるに連れて、世界の固有振動数(周波数)のエネルギー量は低くなり、代わりに見かけの運動につかえるエネルギー量は増大していき、単位時間辺りのエネルギー量も増大します。

さらに言えば、存在質にどんどん近づいていくので「物理的な特性」もどんどん薄れていきます。

なので、高次元の世界や存在ほど「物理的特性が薄く」「物事実現のプロセスが短く」「(見た目が)高エネルギー」になります。

だた、「(見た目が)高エネルギー」とあるように、個体の持つ総エネルギー量は変りません。

あくまで、見かけの運動に使えるエネルギー量が高くなるので、見た感じ高エネルギーに成ってくだけです。

根本的に、高次の世界と低次の世界のエネルギー量は変りません。

固有振動のエネルギーを増やして、物理的特性を強化しているのか、見かけの運動のエネルギーを増やして、単位時間あたりのエネルギー量を増やしているのかの違いでしかありません。

たまに、スピ系の表現で低次の存在をエネルギーが低いと表現しますが、これは間違いですね。

正確には、「見かけの運動に使える」エネルギーが低いです。総エネルギー量は私たちや高次の存在と全く変りません。

また、私が読んだスピ系の本によると、スピリチュアルで言う「次元」は1~12あって、12次元が一番世界の根(つまり存在質)に近いそうです。

で、私たちは3次元の世界にいるのらしいですね。

私の考察の解釈によると、下から3番目に低いこの物理的宇宙は、単位時間あたりのエネルギー量がとっても低いので「物事を実現していくプロセス」を味わうにまさにうってつけですね。

元々高次の魂で合った私たちが地球に生まれた理由が「プロセス」を味わうためらしいです。

だとしたら、なっとくですね。

逆に言えば高次の世界ほど、「物事を実現していくプロセス」を味わいにくく成ってしまうでしょうから。


 
いかかでしたでしょうか。

「スピリチュアルで言う高次元の話」。

多くの方がまだまだ誤解していると思いますが、「高次の存在ほど周波数は実は低い」ですので、だいたい12次元位になると、もうほとんど周波数が0になって行くのでしょうか。

そこまでいってしまうと、もはやほとんどプロセスを味わえなく成ってしまうでしょうし、思考即実現の世界に成ってしまうでしょうから、これはこれで退屈なのかもしれませんね。

また、それは個人の好みの問題なっていくのでしょうが。

私としては、5次元のくらいのスピード感を試してみたいですね。

では、今回の記事は以上になります。 

ではでは。 



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思うように行かない時は・・・、1つの考え方として

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事はブログ至上最短かもしれません。


私の中で定番の標語の紹介です。


「なんとかなる」って思って、なんとかすれば、たいていの事はなんとかなる。

でも、「なんとかなる」って思っても、なんとかしようとしなければ、なんともならん。

また、なんとかしようとしても、「なんとかなる」って思ってなければ、なんとかならん。 

だから、「なんとかなる」って思ってなんとかするしかない、そうすればなんとかなる。


以上になります。




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こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事はブログ至上最短かもしれません。


私の中で定番の標語の紹介です。


「なんとかなる」って思って、なんとかすれば、たいていの事はなんとかなる。

でも、「なんとかなる」って思っても、なんとかしようとしなければ、なんともならん。

また、なんとかしようとしても、「なんとかなる」って思ってなければ、なんとかならん。 

だから、「なんとかなる」って思ってなんとかするしかない、そうすればなんとかなる。


以上になります。




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占いについて。抽象レベルと具象レベル。

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、占いについてちょっとした短い記事になります。


占いを信じますか?

私は占いは信じるというか、占いで言われている理論は一理も二里もあると思います。

ただ、占いは占い師や占い方法によって占いの「精度」に大きくばらつきがあると考えています。

私は、この前生まれた初めて占い師の対面で占ってもらいました。

前々から興味はあったのですが、占いは基本高額な費用がかかるし、占い師によって当たったり当たらなかったりするのが面倒くさいなと思って二の足を踏んでいました。 

でそんなに高くない占いを町で見つけたので試しにやってもらいました。

四柱推命という占いをやってもらったのですが、強く感じたことは2つです。

占い結果に当たる部分と当たらない部分がある。

大きく抽象的に考えると同意できる部分と、具体的なレベルでは全く同意できない部分がある。

「シンボル、表象などの抽象レベルでは結構あたっている」のに「それを私の人生の具象レベルの変換している箇所はあまり当たらない」と言うことです。

つまり、「占いの結果自体は当たっている」けれど「結果を私個人の人生に適用しようとしていないため、解釈や変換し間違えている」と思ったのです。

ちなみ、その占い屋さんは「個人のデータを入力すると、自動的にパソコンで占い結果を出力してプリントする」という形式を採用していました。

なるほど、と。

占いはおおまかにはあたっているのに、私の事を深く知って理解してその抽象的なシンボルを私個人の人生での具象レベルに変換する事をせず、過去の常識や一般にそうだろうという形式的なやり方で具象レベルに変換しているので、上手く変換できてあたっているところと、変換に失敗して当たっていない所がある。

そう感じたのです。

一般的に過去のデータや典型的なパターンに当てはまっている人は、そのような占いでも比較的に当たったと感じるかもしれません、しかし、過去のデータや典型的なパターンに当たらない人は全く当たらなかったと感じることが多いのではないでしょうか。

その具象レベルの変換がうまくいくのは、占い師が占い相手のことを深く知ろうとして理解しようとしている時か、占い師が「同調・模倣・共感システム」の機能が高い、いわゆる「スピリチュアルな能力が高い」人間である必要があると思います。

特に、タロットやオラクルやダウジングをやる場合は、占い師がスピリチュアルな能力が高くないと全然当たらない思います。

タロットやオラクルやダウジングや基本的に、自分の深い所との対話ですので、スピリチュアルな能力が低い人に占ってもらうと当たらないのが普通でしょう。

むしろ、タロットやオラクルやダウジングは自分で練習して出来るようになった方が、占ってもらうより当たる場合が多いのかも知れません。


また、占い方法で当たる当たらないがあるのは、各々の占い方法が多面的に影響しているからじゃないかと思っています。

例えば、姓名判断、数秘術、占星術、名前の音による占い、手相、利き脳占いとう。

言ってしまえば、名前の画数も、生まれた日での数字の計算も、星の並びも、名前の音の響きも、手相も、利き脳も、全部あなたの影響を与えているのです。

そしてそれらの占いば全部バラバラなことを言っていると思います。

そして、その結果が重なる(同じことを言っている)場合や、特に影響を与えている物で占っている場合に、その人の具象レベルの形成された性格や人生に当てはまって上手く当たるのではないでしょうか。

あたる占い方法と当たらない占い方法があるのはそのためではないでしょうか。

ちなみに、タロット、オラクル、ダウジングなどはその時のエネルギー状態をつかって占うので、占い本人のスピリチュアル能力が高ければ、そして具象レベルの変換に成功すれば他の占いに比べて比較的当たりやすいのではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

この記事は、ブログのタイトル通りのおぼえ書きになっていましたね。

ではまた別の記事で。




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脳の「同調・模倣・共感システム」。チャネリング・テレパシー・エンパシー

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、脳の「同調・模倣・共感システム」について、通常の人間のコミュンケーションから、スピリチュアル的なチャネリング、超能力的なテレパシー、認知科学でも扱うエンパスについて書きたいと思います。


そもそもですが、人間の脳には「同調・模倣・共感システム」という機能が備わっています。

(当ブログで勝手に言っているだけで、学術的に正式に認められるには至っていません。ご注意を)


例えば、あなたは赤ちゃんの頃、言葉が喋れませんでした。

しかし、 大きくなるに連れて言葉は覚えたでしょう。

小さな子どもが言葉を学習にするには、この「同調・模倣・共感システム」が直接的に関わってきます。

リンゴを「これはりんごだよ」と教えることはあっても、「普段の日常的な日本語の使い方と意味」について「これはりんごだよ」みたいな風に積極的におしえる親はほとんどいないと思います。

しかし、そんな状況でも子どもは「両親の会話」や「テレビの中のやり取り」や「ご近所の人たちとの両親のコミュニケーション」の中で自然と言葉を覚えていきます。

それは、人生の最初期は脳の「同調・模倣・共感システム」に関わる右脳が比較的高い能力を発揮するからです。

その状態で、両親の会話などを聞いていると、「親が喋ってる言葉を聞きながら」「親の(脳の)内部的な状態に、同調して、模倣して、共感している」のです。

親が喋る言葉とその時に脳の内部状態を関連付けることによって、子どもは言葉を学習していきます。

なので、とくに赤ちゃん言葉を使わなくても、子どもは親の言っている事をなんとなく察します。

言葉が放たれた時に、どんな感情状態でそれを放っているのか。

両親が自分対して、どのような感情状態で接しているのか。

両親の気分。

母親が家事をする時にどんな気分でいるのか。

近所の人との交流の時に、疑心暗鬼になっているなら、その状態も同調・模倣・共感します。

特に赤ちゃんというのは、人のエネルギー状態に非常に敏感です。

表面上はそうは見えなくても、怒っている人や、不快感を強く感じている人がいると、そのような人にも「同調・模倣・共感」してしまいます。

赤ちゃんというのは他者に対して、好きや嫌いの感情をあまり持ちません、大人よりだいぶ薄いです。

故に、より多くの人に「半自動的に、同調」していまいます。

もし小さな子供が、「〇〇ちゃん、あそこに行こ」と言われて「いやいや」していたら、妙なエネルギーを敏感に感じ取っているかもしれないので注意が必要です。

しかし、単純に「非常に多くの感情エネルギーが渦巻いている場所」に行くのが嫌なだけかもしれないので難しく考えすぎないでください。

あんまりに嫌がるようならむりに行かせないと考えたほうが良いです。 


人は赤ちゃんの時だけでなく大人であっても、「同調・模倣・共感システム」は普通に機能しています。

ただ、子供の頃より若干鈍感になっているだけです。

例えば、あなたは怒っている人がいたら怒っていると分かるでしょう。

それは、あなたの脳が怒っている人の脳に「同調・模倣・共感」しているからです。

それは逆に言うと、怒っている人がいても「同調・模倣・共感システム」が機能していなければ、その人が怒っていることに対して気づかないあるいは、気にしないという事ができるということです。


あなたが「同調・模倣・共感システム」を働かせている時には、次のようなことが起こります。


まず、その人の脳内で怒りに関わるホルモンが生産されます。

そのホルモンは生産されるいは、怒っている人の脳内に「怒るホルモンを生産する仕組み」が働かなくてはなりません。

その仕組みが働く時に、脳は特徴的な神経の働きをします。

その神経の働きは、電気的なパターンを産みます。

その電気的なパターンは、もちろん現実世界現れた実際のエネルギー現象です。

そのエネルギー現象は、もちろん頭蓋の中で発生して、頭蓋の外にも波及します。

そのエネルギのパターンをあなたの脳は受け取ります。

人間の脳構造は大体一緒ですので、受け取ったエネルギーのパターンを受け取った人の脳が使用すれば、だいたい同じような事が起きます。

なので、あなた中の「怒りのホルモンを生産する仕組み」が働いて、あなたの中に「怒りの感情」が現れます。


これが、「同調・模倣・共感システム」の実際です。

また、エネルギーを受け取るにはあなたの脳がエネルギーを受け取る事ができる状態になっていなければいけません。

あなたの脳波がα波やθ波などの状態になって、意識が緩んでいる必要があります。

また、エネルギーを受け取る脳の部位が存在、十分に機能していることが必要です。

そして、受け取ったエネルギーを実際の神経活動に変換する部位が存在、十分に機能している必要があります。

おそらくですが、エネルギー受け取る部位がスピリチュアルなどでまことしやかに言われている脳の「松果体」で、エネルギーを実際の神経活動に変化するのが最近発見された「ミラーニューロン」ではないかと、私は思っています。

ですが、実際のところはまだ分かりません。

分かりませんが、脳の「同調・模倣・共感システム」があるのは確かだと思います。

人間は他者の脳(から発せられたエネルギー)に同調して、同調することによって他者の脳の内部状態を模倣して、模倣した結果同じ感情等を自分の中に再現して、その感情に共感するのです。

ちなみに、感情だけでなく、感覚情報(聴覚情報、視覚情報、嗅覚情報、味覚情報、痛覚、身体感覚)等も再現できます。

「同調・模倣・共感システム」を強く発揮していると、相手の強い感情や思考や勝手に自分の中に入ってくることがあります。

相手が脳内で喚起しているイメージ(視覚情報等)も伝わることがあります。


また別の話ですが、子供の頃、親が嘘をついているのがなんとなく分かって、「お母さん、いま嘘ついているでしょ」と言った事はありませんか?

その時に親の方は自分の嘘がバレるはずがない、ごまかせると思っているので「なに言ってんの、お母さんが嘘つくわけないでしょ」といってくると思います。

決して認めようとしません。

その時に、素直な子どもは「本当なんだ、じゃあ勘違いだったのかな」で終わらせますが、素直すぎる子どもは「お母さんは嘘を言っていないと主張している。でも、どうしても自分ではお母さんが嘘をついてるとしか思えない。うわー、気持ち悪い、自分が信じられない」と親に嘘をつかれる度に不安定さを増していきます。

子どもに平気で嘘をつく親は、自分の嘘が「子どもの精神状態を不安定にしている」事に気づきませんし、後々子どもに指摘されても絶対にその責任を認めません。

なので、その場合は「お母さんは嘘ついている。指摘しても絶対に認めようとしないから、本当という事にしてやろう。全く、親というのは嘘がばれないと思っているのかね、愚かなことだ」とでも思うようになったほうが良いです。

素直すぎて精神壊すくらいなら、皮肉屋になって親を小馬鹿にする方が万倍マシです。

気をつけましょう。


では、チャネリングやテレパシーやエンパシーの話になります。

ここまで読んだ方は、もう大体お解りかと思います。


チャネリングやテレパシーやエンパスは、この「同調・模倣・共感システム」が比較的に強く機能している方によって行われています。

そこいらの人間のコミュニケーションでも、「同調・模倣・共感システム」は普通に使用されています。

チャネラーや、テレパス、エンパスの方はなんらかの理由で「同調・模倣・共感システム」の性能が特に高いのです。

なので、そこいらの人間が他の人間や、ペットなどに軽く同調・模倣・共感しているだけのところに、チャネラーやテレパスやエンパスの方は、強く同調・模倣・共感しているので相手の深いところまで分かって思考が読めたり、他人のちょっとした感情に人一倍敏感になってしまったり、果ては普通の人間以外の存在が発したエネルギーに対して同調してしまったりしているのです。 

チャネラーやテレパスやエンパスの方は、特別な人間ではありません。

まあ、人間に元からある機能(筋力や運動や勉強の力)が特別高い人間と同じなので、プロのスポーツ選手や学者の方と同じくらいの「あいつすげぇな」はあるかもしれません。

しかし、逆に言えばプロスポーツ選手や学者の方と同じ程度なのです。

そして、プロ野球選手に1軍や2軍、メジャーリーガーや社会人野球選手まで居るように、人によってどの程度の力があり、どんなことが得意なのかはまちまちということです。

特別能力が高くなく、また訓練されていない方の場合、「同調・模倣・共感システム」の使い方が下手で、共感しているつもりが、自分に元々合ったエネルギーを混ぜてしまって、偏見で観ていたり、テレパシーで相手の事がわかっているつもりが、自分の願望や予想を混ぜてしまって見当違いことを思ったり、チャネルリングしようとしても変なエネルギーに同調してしまったり、同調したエネルギーの変換に失敗したりします。

プロスポーツ選手と同じで、しっかり練習しないで元々合った才能に甘んじてしまえば、能力も低いし失敗も多いし、自分の実力を勘違いして大失敗したりします。

特に、「同調・模倣・共感システム」は、自分のエネルギー状態つまり、快、不快、疑念、恐怖、偏見、優越感、不遜、驕り、こだわり等にことさら影響されます。

そのようなものをなくす、あるいは弱める訓練をしていない方は、適性が高くてもまあ、自分のエネルギーを混ぜ込みすぎて、そしてそれに気づいていなくて、つかいものになりません。

使い物にならない、と言う表現は言い方が悪いかもしれませんが、つまり上手くできないために色々と問題をおこしてしまうということです。

なので、もしあなたがチャネラーや、テレパスやエンパス、もしくはそれになりたい方なのだとしたら。

ちゃんと、練習してください。

練習しないで、ちょっとできるからとか、才能があるからとか言ってたら、いつまでも下手なままです。

下手な上に、自分は上手くできていると勘違いしていたら、ダメでしょう。

ちゃんと練習して上手くなるか、下手な事を自覚してあまりその能力を使おうとしないでください。

下手なまま、それで稼ごうと思ったりはしないほうが良いです。

それがあなたのためにもなると思います。



余談ですが、あながチャネリングに興味がある方で、試してみたいが自分以外の存在に憑依されて好き勝手にされるのではないかと、心配されることがあるかもしれません。

しかし、基本的に相手が高次の存在やそこら辺の浮遊霊や宇宙人だろうと、「エネルギーに同調している、内部状態を再現しているだけ」なので、身体を乗っ取られるということはありません。

といか、 あなたの身体はあなたの魂が完全に専有しているので、他の存在がやって来ようとすでに専有されている場所に他の魂は入れないのです。

あなたの身体は死ぬまであなたが専有しています。

無理やりどかそうとしてもできることではありません。

どうにかされるのが嫌なら、同調を切ってしまえばいいだけです。

それと同じように、怒りの感情に同調しようとしてしまっている時に、自分はこの感情には同調しないと選択すれば、同調はしません。

また、エネルギーを受け取らない様に、自分の周りに高波動の壁をイメージするのも良いです。

ただ、高波動の壁をイメージしたら、逆に自分の体から発する低波動のエネルギーも外に出ていけないので、あなたの波動が低い時はあまりおすすめしません。

その場合は壁ではなく、高波動のエネルギーに包まれたエネルギーが身体に流入してくるイメージのほうが良いです。 



いかがでしたでしょうか。

このブログで何度も言ってる、人間の脳は「同調して、模倣して、共感する」ことについての記事でした。

あなたも、家族や恋人や友人と一緒居る時はすくなからずこの「同調・模倣・共感システム」の恩恵に預かっています。

というこのシステムがなければ、恋人が泣いていても、それを単なる表情以上のものとして受け止められないですし、友人が喜んでいても全くその気持ちが分かりません。

あなたが人が喜んでいる時に喜んでいることが分かる人間なら、普通にこのシステムは機能しています。

ちなみに、他人の感情がわかりすぎてこまるという方でも、感情は分かったままそれに左右されなくなるといことも可能です。

それをお望みの方は、別の記事の「おすすめアファメーション~仕事・勉強・健康~」「瞑想が苦手な方へ、アファメーションの奨め。」「共感脳は半自動的(オートマティック)、感じやすい女性に向けて」等を参考にしてください。

前頭前野を発達させれば問題なくなります。

では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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脳神経を発達させよう。超人になるには。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、あなたを超人(アデプト)にするための記事です。


おそらくですが、アデプトがアデプトたるために必要な条件は大きく2つあります。


1つは、脳神経(特に大脳新皮質)が完全に発達して、脳のトップダウン処理を完璧にコントロール出来ること。

もう1つは、自分が肉体ではなく「魂=意識」であるということを、完全に理解・認識して、物理的な身体の拘束力を外せること。そして、意識の主体を完全にコントロールできること。


アデプト。超人。神。聖者。仙人。など色々な呼び方がありますが、古来からこの地球には上記の条件を完全にクリアして、自分の能力を通常人間が思う常識の外にまで押し広げた方たちが結構いらっしゃいます。

中国の仙人。ヒマラヤの聖者。

様々な形で言い伝えられていますが、決して絵空事の妄想ではないのです。

脳を完全に発達させ、自分自身が魂であると完全に認識した状態になると、既存の常識を飛び越えた能力を身につけることが出来るようになります。

まず、脳神経を完全に発達させたら、「肉体の生理的な反応」を完全に意のままに操ることが出来るようになります。

それはつまり、「老化という身体機能」の完全なコントロールができることを意味します。

また、その状態になれば「肉体の生理的反応の異常から生じる全ての病気」をなくすことが出来ます。

言ってしまえば、「癌」もならないし消せるし、他の重篤な病気も無くせるのです。

また、肉体を構築・維持するためのエネルギーはどんな状態でも必要です。しかし、彼ら超人たちは通常のエネルギー摂取方法、つまり「食事」以外の方法でエネルギーを摂取することが可能になります。

それは、場のエネルギー(電磁場。量子場等)から、直接エネルギーを身体の各細胞に取り込む事です。

これに対してはちょっと未知数なところが多いですが、基本的な考え方は分かっています。

身体の各細胞のミトコンドリアに何らかの形で、エネルギーを摂取させるのです。

例えば、肉体の細胞は物理的な振動数を持っています。

その振動数の所為で、その振動数に近いエネルギーしか摂取できません。

しかし、肉体の細胞の振動数を低くしてあげることができれば、より自由度の高い方法でエネルギーを取り入れることが可能です。

何らかの方法、(アファメーションや気功など)でミトコンドリアの振動数を下げてやるのです。

その状態で、意識的にミトコンドリアにエネルギーを送入してやれば、ミトコンドリアはエネルギーを受け取り「食物を胃で分解して腸で吸収して、血液に乗せて各細胞に送る」という迂遠なプロセスを省略することが出来ます。

なぜなら、そもそも食事をするのは究極的には「ミトコンドリアにエネルギーを送るため」だからです。

エネルギーを直接送れば、ミトコンドリアはエネルギーを物理的な影響力に変換して、細胞分裂して身体の機能は食事無しで維持できます。

そのような状態は「霞を食べて、生きる」と表現されたりします。

食事をしないで生きることは、たまに「不食」の人間が研究されているので現代科学でも「原理的に不可能ではない」事までは証明されています。


自分が肉体ではなく、魂である事を完全に理解することが出来なら、通常魂が肉体しているチューニングを、緩める事ができるようになります。

魂が肉体に宿っていろいろするために、通常は魂自体の振動数を肉体に合わせてチューニングしています。

なぜなら、そうしないと肉体から生じたエネルギーの波動を、弾いて受け取れないからです。

肉体等の通常の物体の振動数は、魂よりもだいぶ高いです。

物理の授業で習うかもしれませんが、振動数は高いほど波長が短く、小刻に波の振幅が発生します。

そのような状態では、より振動数が低い状態の物体、つまり波長が長く波の振幅が緩い物体をすり抜けることが出来ません。

逆は可能です、より振動数が低いエネルギーは振動数が高い物体の細かい波の振幅と振幅の間を上手くすり抜ける事ができるからです。

携帯の電波が、建物を壁をすり抜けることが出来るのは、壁の振動より携帯の電波の振動数がだいぶ低いからです。

なので、ミクロ的には小刻に震えている壁の振幅と振幅の合間を「するっ」と抜けることが出来るのです。

そして、肉体が発生させるエネルギーは魂よりだいぶ振動数が高いですので、逆の現象起きます。

振動数の高いエネルギーがより振動数が低い物体に向かっていったら、振動数の低い物体の波の振幅の間隔よりエネルギーの振幅が大きく間隔が短いので、すり抜けようとしてもエネルギーがすり抜ける隙間ががなくて、物体の内側に入り込めません。

これは、振動数の高い物体の波長はより波が大きく短かい間隔で現れること、つまり荒波になっていくこと。

振動数が低い物体の波長はより波が小さく長い間隔で現れ、波がより直線的になっていくこと、つまり波がなくなり凪になっていくこと。

この性質があるために、起こる物理的で不可避な現象です。

上記の理由で、肉体で生じたエネルギーが魂の内側に入り込めないのです。

なので、肉体の振動数にチューニングしない状態で、肉体に魂が宿っても、感情とか痛みとか感覚(これは全て肉体レベルで生じたエネルギーの波動)を上手く魂が受け取る事が出来ないのです。

だから、魂は肉体のより高い振動数に自らをチューニングして、肉体から生じるエネルギーの波動を受け取れるようにしています。

で、通常の人間は自分が肉体であると思っているので、肉体にガッツリチューニングしてしまっています。

肉体の感覚をよりリアルに、いきいきと感じることができますが、のめり込み過ぎて、自分が魂であることを忘れてしまっています。

これを、自分が魂であることを思い出して、肉体に対するチューニングを緩めるのです。

そして、逆に肉体の振動数を下げて、魂に合わせてやるのです。

振動数を下げる方向で行くと、物理的な拘束力は緩みますし、固有振動数と見かけの運動のエネルギー交換の法則で、肉体はより活発になり病気や怪我と無縁になっていきます。

ここまで来ると、肉体を構成する細胞の見かけの運動のエネルギーが低いこと、つまり「細胞の働きが不活発であること」で生じる問題をかなり解消できるようになります。

ここ段階まで来ると、通常の肉体の五感が、より振動数の低いエネルギーに対応できるようになります。

ESPなどの超感覚知覚や、霊感やエネルギー感覚に目覚めるようになります。



では次は、どのような方法で脳神経を発達させ、自分が魂であると理解することができるようになるのでしょうか。

具体的な方法を紹介します。


脳神経を発達させるには、一番てっとり早いのが「瞑想」「アファメーション(マントラ・念仏)」「気功」の3つです。

瞑想は呼吸と身体感覚のコントロールで脳の血流を増加させ神経を活発化させ発達させます。

「アファメーション(マントラ・念仏)」は言葉を使って、脳が言葉の意味を内部的再現する仕組みを利用して 脳や身体の機能を活性化・操作することで脳神経を発達させます。

「気功」はエネルギーを直接操作して、細胞や脳に直接働きかけることにより脳神経や身体を発達させます。


おすすめ方法は次のやり方です。

1.「一日の初めと終わりに、15分程度瞑想して、脳の血流を継続して増加させます」

2.「暇があるときには、心のなかで、声に出しても問題ない状況なら、声に出してアファメーションを唱えます」

(アファメーションの文言は色々ありますが、「我神なり、我愛なり、我全てなり」と唱える宝玉瞑想というものがシンプルで効果が高いです。また「前頭前野が活性化している」「大脳新皮質が活性化している」「右脳が活性化している」とうの脳の部位の活性化アファメーション。「私の肉体を構成する全てのエネルギーは日に日に増々、固有振動のエネルギーを見かけの運動に変換している」という波動を上げるアファメーション。「私には日に日に増す増すあらゆる面で良くなっている」というアファメーション。「ありがとう。ごめんなさい。ゆるしてください。愛しています」と唱えるオポノポノ。などがあります。自己流で構いません。とりあえず、ここで上げたアファメーションは全てオススメですので、自分で考えるのがめんどくさい方は、これらのアファメーションでそのまま利用して構いません)

3.「時間がある時に、ベッドに寝て、自分が「存在の光」に包まれているイメージを描き、その「存在の光」が肉体の細胞1つ1つにエネルギーを送り込んでいるのをイメージします」

(この時大事なのは、イメージするということは(単なる妄想で、頭の中の出来事)という間違った思い込みを捨てることです。イメージというのはあなたの五感で感じる事です。あなたの五感でなんからの実際のエネルギーが生じなければ、イメージを見る、感じるということはありません。あなたが、自分の周りに存在の光をイメージして、それを実際に感じているとしたら、それはあなたの五感や現実に実際それが起っているから感じているのです。想像は頭の中だけで起きているという思い込みをすてて、イメージしたものは実際に存在していると考えてください。すくなくとも、あなたの五感にはそのエネルギーが存在しているから、イメージできるしそれを感じられるのです)


以上の3つのやり方をやっていれば、次第に「脳神経が発達していき」かつ「肉体の振動数が下がり」かつ「エネルギーを身近に感じれるようなり」そして「魂の肉体に対するチューニングがゆるみ」「自分が魂だということを理解できるようなります」。

とりあえず、お試しで3ヶ月やってみてはいかがでしょうか。

また、最初は上記の方法でやっていたとしても、次第に省略したり自分なりのやり方に変えていっても構いません。

「先に開展を求め、後に緊湊に至る」という言葉があります。

「はじめはおおきく、なれてきたらちいさく」という意味です。

「はじめは、基本というものを覚えるために、型通りにやったり大げさにひとつひとつを丁寧に行い、慣れてきたら自分にあったやり方に洗練させ、省略や修正などをしていく」という意味で私は捉えています。

漫画の「史上最強の弟子ケンイチ」の知識ですが、そのような考え方ではじめは型を重視して、後々慣れてきたら自分に会ったやり方にあわせて行きましょう。


いかがでしたでしょうか。

何事も取りあえず試してみることをおすすめします。

あと、注意して欲しいのが、超人になっても「世界を意のままにコントロールする」ことは一切出来ませんし、しよとしてはいけません。

そのような状態は、「魔境に落ちる」とか「フォースの暗黒面に落ちる」とかいわれていて、まともな人なら絶対に避けるべきものです。

某ダースベイダーみたいな感じになりたくはないでしょう?

では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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人生はあなたの思い通りに生きる事が可能である

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、題して「人生はあなたの思い通りに生きる事が可能である」です。

スピリチュアル界隈でも、心理学の世界でも最近は散々言われている事を、このブログ流のやり方で説明したい思います。


まず、最初に「あなたは望んで生まれてきました」という大前提があります。

このブログのいたるところで説明していますが、あなたという存在の主体は意識です。

肉体ではありません。

現に、あなたはあなたの身体の細胞が全て入れ替わっても「自己という一貫性」を保ちます。

あなたが何歳かは知りませんが、現代科学ではあなた全身細胞は6ヶ月くらいで全部入れ替わると言われているそうです。

細胞が全て入れ替わったあとにあなたは、物理的には同一存在でないです。

もし、あなた主体が体だとしたら、あなたは今のあなたは生まれた時に存在せず、大体6ヶ月まえにうまれたことになり、生まれた時のあなたはとっくに大便や垢として排出されている事になります。

今のあなたは果たして何番目のあなた何でしょうか、ということになります。

また百歩譲って、あなたが唯物的に考えてたとしても、自分というのが自分の体の細胞でできていると考えることはあっても、爪切りで切った爪ば自分自身だとは自然と考えてませんよね。

あなたは、少なくとも自分を部分の集合と考えているはずです。決して部分ではない。

しかし、本来なら部分の集合とは抽象的な観念に過ぎず、実体がありません。

あなたは自分のことを抽象的な観念として認識していることになります。

そして、この部分の集合を、細胞が寄り集まってできた身体というモノに宿る「単一の意識」という考えているはずです。

あなたが、どんなに現代科学を学校で習っていたとしても、自分が単一の意識ということは何も疑いものなく知っているはずです。

ですが、現代科学は自己の主体が単一の意識であるというこを、証明を指示もしておりません。

その時点で、現代科学とあなたの素朴な感覚が矛盾しているということになります。

なら、現代科学を取るか、あなたの素朴な感覚を取るかという話になります。

私は、その素朴な感覚を支持して欲しいです。

それができれば、あなたは現代科学の下手っぴさからあなたを救い出すことが出来ます。

そして、その素朴な感覚を信じるならば、人間の主体は「意識」つまり「魂」であるとすることが出来ます。

この時点で、あなたは身体ではなく「魂=意識」であることが論理的に導けるということになります。

ここまでくれば、あなたは「自分が望んで生まれてきた」という事を導けるということです。

つまり、あなたの主体は肉体ではなく、「魂=意識」なので、あなたの親があなたの肉体を子宮の中で作ったとしてもあなたの「魂=意識」があなたの肉体に入り込まなければ「あなたは生まれることはなかった」ということがわかります。

なので、どうかんがえたとしても「あなたの魂」は「肉体に宿ることを選択している」はずなのです。

だって、生まれたくなければ生まれなければよかったのですから。


では、あなたが望んで地球に生まれてきたとといことにします。

では、あなたにとって地球のそして、現代日本の常識は絶対のものですか。

あなたは魂なので「イギリスに生まれてくること」も「どっか別の惑星にうまれてくること」も選択できたはずです。

だって、生まれてくることを選べるなら、どこに生まれてくるかも選べなきゃおかしいですね。

自分が、生まれてきたくない場所にわざわざ生まれることはしたくないですし、いい条件があくまでいくらでも待ちが出来ますからね。

なにせ、生まれてくるタイミングは自由だから。

選べるのだから。

ということは、あなたは生まれる場所と時間を選んできているはずなのです。

そして、選んだ場所には選んだ場所の常識があります。

イギリスと日本の常識は違いますし、別の惑星はもっと違います。

ということは、元々あなたの魂に常識というのが合ったわけではなく、常識というの生まれてから身につけたものだということだと思います。

あなたの今の常識は、絶対のものではなく「生まれてからその場に合わせて身につけてきたもの」だということが分かります。

というか、単なる社会の常識が絶対的なものとは誰が思うのでしょう。

歴史的に、地理的要因で、なんとなく出来上がってきたものに過ぎません。

誰かが「これが常識だ!」と主張しても、そんなん「常識なんだろ、お前の中ではな!」という返しが一番の適当なはずです。

というか、客観的かつ絶対的な常識なんて、論理的にないことはちょっと考えれば分かるはずです。

だって、明らかに歴史的、地理的要因で変化してきているのに、絶対も客観もないです。

なので、誰かが言う「これが常識だ!」はちょっと考えれば「勝手に言ってるなあ、私はそんなの知らないのに」という返しで十分なのです。

というか、世間一般言われている常識は「ちゃんと同意している、ローカルルールですらないです」 。

一人ひとりが勝手に「これは常識だ」と自分が経験したなかで「なんとなく信じていること」を勝手に述べているだけです。

なので、あなたの常識は「自分が何となく信じていること」でしかないです。

特になんとなくテレビや新聞で言われているから本当だと思っている程度のものでしかないです。

あなたの常識の中で「実際に見聞きして、体験して見つけた常識」というのはどのくらいのものでしょう。

テレビや新聞で言われている事で「あなたが実際に体験した」ことはいくつありますか。

私の感覚で言えば「テレビや新聞で言われていることは、たいてい自分の現実に起こらない」と経験的に言えます。

なので、テレビや新聞で言われている「これが常識!」は「馬の糞ほども役に立たない」と思っています。

そして、他人が言っている「これが常識!」も似たようなものです。

Aさんが行っていたことは自分の人生には全然起きないな、なんて日常茶飯事です。

なので、今まで信じてきたあなたの常識は「中身がスッカスカ」であることが分かります。

そして、あなたの常識から実際には体験していないことを覗いたものが「あなたが知っている本当の知識」になります。

他人が言った単なる言葉以上の、実際の知識です。


どうでしょう。

これで、「あなたが望んで生まれてきた」事と「今までの常識が思った以上に役に立たない」事がわかったと思います。

では、次からは本当に重要な事を伝えます。

あなたは自分が思っている以上に、怠けています。

怠けていると言うことは、自分の頭でそんなに考えて生きていないということです。

なぜなら、あなたの今まで行ってきた行動の基準は上記でスッカスカだと分かった「常識」だからです。

あなたは今まで自分が経験して確かめたわけでもない、誰かがいった「なんとなく信じていること」を参考にして生きてました。

それで、問います。

あなたが実際に経験して分かった事を元に自分の頭で考えて、「こうしようと思った」事はいくつありますか。

自分がこうしようと思ったことでも、「他人から言われ事を実際はどうか確かめず参考にした行動」は含めてはいけません。

思った以上に少なかったのでないでしょうか。

でも、自分はたくさんあるという方もいらっしゃるかと思います。

そのような方は、以降の情報は参考程度で問題無いでしょう。


では、「人生を思い通りに生きる方法」をお伝えします。

それは、「思った通りに生きてみる」ことです。

ちょっと待ってください、ブラウザを閉じてはいけません。早まらないでください。

これは非常に単純なのです、まず説明します。

まず、「思い通りに生きる方法」ですが、あたりまえですが「思い通りに生きる」ということは「思った通りに生きる」つまり、「あなたの思い」と「あなたの行動」が一致している必要があります。 

「思った通りに生きて」かつ「そのままうまくいく」ことが「思い通りに生きる」と言うことなのは分かりますよね。

つまり、「思い通りに生きる」ことをしたかったら「思った通りに生きる」ということはまずしないとイケないのです。

そして、「思った通りに生きる」と言うことをまず始めないと、「そのままうまく」ことは経験できないのです。

でも、今までのあなたは「思った通りに生きる」ことをしたことがないのに「思い通りに生きるにはどうしたら」と頭を悩ませているのです。

それはつまり、「思った通りに生きる」ことをやったら「そのままうまくいくはずがない」というあなたの常識からきているのです。

でも、よく考えてください。

上記で書いた通り、あなたは「生まれてくる事を選んでいる」し「生まれてくる時と場所も選んでいる」のですよ。

つまり、生まれてくる前から「この場所、この時代、この両親で生まれよう」と選んでいるのですよ。

それに、何の準備や計画もせず「とりあえずポチろう」とでも言ったような場当たり的な無計画とは無縁のはずです。

生まれてくる事を選んでいるということは、タイミングも条件もいい感じのをずっと探していたはずです。

かつ、自分のやりたいことを出来る人生を、いい感じに見つけて「場所も、時代も、両親も(つまり遺伝する才能も)選んでいる」のですよ。

普通に考えたら、準備の段階はとっくに終わっていて後はやりたいようにやるだけで十分な気はしませんか。

というか、準備の段階は生まれてくる前にとっくに終わっています。

あなたは、「思った通りに生きる」ことする前に、上手く生かせる準備をしようと知識や情報を収集しています。

そして、他人が「なんとなくそう思っている」自分の人生には全然起きないことをを信じこんで、いつまでも「上手く行かせるにはどうしたらよいかと、このブログまで渡り歩いているのです」。

「ちょい、ちょい、ちょーい待ち」

あなたはとっくのまえに「準備は終えて、後はやるだけの状態なっていた」のに、「思った通りに生きる」ことをしないで「なんで思い通りに生きていけないのだろう」と考えていたのですよ。

これは、非常にナンセンスな事態だと思いませんか。


とりあえず、とりあえずですよ。

これから3ヶ月お試しで「思った通りに生きて」みませんか。

お試しの3ヶ月ですよ。

この3ヶ月で「思った通りに生きてみた」のに「全然うまく行かなかった」ならそれは「あなたが実際に経験して知り得た知識」です。それはもうスッカスカの常識ではないです。

それでだめなら、はじめて思い通りに生きるにはどうしたらよいかと考えるべきです。

というか、その状態になるまえに「思い通りに生きるにはどうしたらよいか」と考えても、「思った通りに生きる」ことをしたことがないのだから、考えようがありません。

本当なら「思い通りに生きるにはどおしたらよいか」という発想は、この段階でした芽生えないはずなんですよ。

でも実際には、「思い通りに生きるには通したらよいか」とう発想をする人は、大抵「思った通りに生きる」ことをしていない人たちばかりなのですよ。

なぜなら、「準備はとっくに終わっていて」かつ「実際にやってみたら案外うまくいく」からです。

ちなみに、思い通りに生きるのは「宝くじを必ず当たるようにする」とか「3ヶ月で1兆円稼げるようになる」という話ではないですよ。

それは「思い通りに生きる」ではなく、「思い通りに世界をコントロールする」です。

あくまで、思い通りに出来るの「自分自身」だけです。

RPGをやっていて、ボスキャラのHPを一桁に操作できたり、道具屋で全ての道具を1Gで買えるようにするというような、世界をそのままチートツールを使って好きにいじれるという類の話ではないです。

単純に、自分のキャラクターを好き動かせて、レベルをあげて強くするのも、仲間を作るのも、 冒険を楽しむのも思いのままという話です。

あなたは今まで、始まりの町の周囲でレベル上げをしながら、攻略本を探しまわっていたようなものです。

ゲームは、いつまでも始まりの町にいたら敵も強くないですし、レベルもそんなにあがらないです。

ちゃんと、冒険しましょう。

冒険しないと、レベルも上がらないし、仲間もできないし、楽しくないです。

大丈夫です、あなたがやっているRPGはあなた専用に作られた、オリジナルゲームです。

あなた好みになっていますし、難しすぎてクリアできないということは基本的にありません。

基本MMOですので、他のプレイヤーもいるので、一人ぼっちということはないです。

MMOですが、シナリオはあなた専用で主人公はあなたです。

特に難しく考えずに、楽しんでやれば、自然とレベルは上がるし、仲間も増えます。

たまに、仲間とはぐれてソロプレイルートにはいる時もありますが、そんなときはソロプレイを楽しめばいいのです。 

あなたの好みに合わせていますので、あなたパーティを組みたい人ならちゃんとパーティが組めるようになっているのです。 

どうでしょう。

この人生MMORPGを取り柄あず、3ヶ月思った通りにプレイしてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、MMORPGがわからない方は適当にインターネットで調べてください。


大変長くなってしまいましたが、今回の記事は以上になります。

それでは、良い人生を。



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文化はあなたが作るもの。行為と影響の俯瞰論。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、「行為」とそれに伴う「影響」の話です。


突然ですが、サービス残業というものがあります。

好きですかサービス残業。

私は嫌いです、するつもりはないですし、したいと思いません。

多くの方は、サービス残業は嫌いだと思います、というか好きな方はいるんでしょうか。


詳しくは知りませんが、このサービス残業という文化は高度経済成長期くらいから出来あったものではないでしょうか。
 
当時にサラリーマンが、会社と共に生き、会社とともに死ぬという感じで、労働者の権利というものを蔑ろにして、正社員という身分の為に身を粉にして働いた名残かもしれません。

当時に人たちは、自分が生きるために必死で働いたかも知れません、生きてくために家族を養ってくために。

しかし、当時の人たちは、自分が行ったサービス残業という行為がその後何世代も行われることになり、自分の子どもや孫がその文化のせいで苦労したりつらい思いをすることになるとは考えていなかったのでしょう。

高度経済成長期に彼らが作り出した「サービス残業」という文化は、最近では是正されつつありますが未だに文化として残っています。

もし、当時の彼らが自らの行為が社会に影響を及ぼし、文化になって何世代も引き継がれてしまうと分かっていたら、「サービス残業」というものをしたでしょうか。

自分した行為の影響がのちのち、自分の子どもや孫に返ってくると分かっていたら、もう少し違うやり方が合ったかもしれません。


上記の例でわかるように、あなたの「行為」というのは、「行為」の起点の瞬間その場所から世界に「影響」を及ぼします。

そして、あなたの遅かれ少なかれどのような形になるか解りませんが、「行為」の「影響」の「反射」を受け取ります。

上記の例で言えば、当時のサラリーマンの「サービス残業」という「行為」が、会社や社会に「影響」を及ぼし「文化」を形成し、それからの「反射」が彼らの子どもや孫の世代に返って来ます。

もちろん、彼らの子どもや孫が行う「行為」は家族である彼らに「影響」を及ぼすので、ちゃんと彼らにも「反射」は返ってきてます。

想像してみてください。

あなたは大型プール施設のプールの中で立っています。

周囲に人がいるし、プールには枠があります。

あなたが、プールの中で動こうとすると、あなたの動きに合わせて水面に波紋ができます。

波紋はあなたを起点に周囲に広がり、周りに人やプールの枠にぶつかります。

ぶつかった波紋は、作用反作用の法則で入射角の180度逆に方向へ反射されます。

反射された波紋はプールを伝わり、貴方がプールの中にいればその波紋の反射を受け取ることになります。

その波紋こそ「エネルギー」であり「影響の力」でもあります。

あなたがプールの中で動けば必ず波紋は発生して、水面を伝播し影響を及ぼし反射の末いずれあなたに帰ってきます。

現実でも同じことです。

世界の中に存在している貴方の行為は、必ず何かしらの影響を世界に及ぼします。

たとえ、トイレをした後に手を洗わないという瑣末な行為であろうと、行為は必ず影響を生じさせます。

そして、その影響は世界になんらかの変化をおよぼし、いつかはあなたはその影響の結果を受け取ります。

これは物理的な現象です。

あなたが身体を有し、意識を有し、世界の中でスペースを取って存在している以上避けることが出来ない無条件の法則です。

あなたは、落し物財布をちゃんと警察に届ければその行為の影響は必ず世界に伝播します。そしていずれあなたはその反射を受け取るでしょう。

あなたが、好きな同人誌を買えば、その行為の結果は必ず社会に影響を及ぼします。なんらかの結果が返ってくるでしょう。

あなたが道でタバコをポイ捨てすれば、その行為の反射必ず受け取ります。

そして、行為というのは「動作」に収まりません。

喋ること、文章を書くこと、思考や感情すら「行為」の一部です。

あなたが喋ったこと、書いた文章を読んだ人がいれば、影響は必ず及ぼします。

思考や感情は、あなたを自身に影響を及ぼし、あなたを起点、世界に影響を及ぼします。

また、思考や感情は物理空間にで生じる現象です。

その現象はあなたの頭蓋の中だけに留まらず、波動や表情といった形で外部に影響を伝播させます。


さらに、あなた自身もあなた以外の存在の影響を受け取り、それを反射させます。

自分の行為自体が、自分始まりではなく、自分以外の存在の行為の反射にすぎないことがあります。

あなたが、友人にからかわれて怒ったら、それはあなた起点の感情ではなく、友人の行為の反射でしかありませねん。

あなたが昨日の昼食べたものは、街ですれ違った人がさせてたカレーの匂いの影響であったかもしれません。


しかし、あなたは他存在の行為の影響を反射する鑑になることもできるし、ならないこともできます。

喧嘩を売られたら、買う必要はないのです。

コンビニでお釣りを間違えられたとしても、怒る必要はないのです。

親が道端にゴミを捨てる人だとしても、あなたはちゃんとゴミ箱にすてることができるのです。

世界は、行為の影響を反射させますが、貴方が反射するかはあなた次第なのです。

周りの人間があなたの行為を反射させる「鑑」であったとしても、あなたが鑑になる必要はないのです。

サービス残業という文化がありました。

その文化を影響を少なからず受けたとしても、あなたがサービス残業をする必要はないのです。

あなたの「意思」でサービス残業という文化を受け継がず、「定時退社」という文化を作ったって良いのです。

あなたの「行為」の行為は世界に影響を及ぼし、何らかの「文化」を生み出すことになるでしょう。

しかし、どんな「文化」を生み出すのかはあなたの「行為」次第です。

あなたはどんな「文化」の中で生きたいですか。

あなたの「意思」で「行為」を「文化」を作ることは可能なのです。

誰だって可能なのです。


そして、このブログの記事を書くというのも「行為」です。

何らかの、結果を私は受け取ることになるでしょう。

今の時代はインターネットが盛んです。

インターネットで何らかの書き込みをすることも「行為」です。

罵詈雑言を書き込めば「行為」は影響を及ぼし、あなたの世界を作る一部になります。

好ましい使い方をすれば「好ましい結果」が返ってくるでしょう。
 
そのように使いたいものです

では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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二次元思考の落とし穴~だったら四次元で考えよう~

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、以前の記事「どこでもドアを裏側からみたら~二次元思考の落とし穴~」 のアップデート記事なります。


前回の記事では、唯心論や唯識論や観念論やスピリチュアルにのめり込むあまり、物理的な客体世界を軽視することに警鐘を鳴らしました。

しかし、スピリチュアルなどは全くの間違いでもありません。

客体世界を蔑ろにしたスピリチュアルは有害かつ愚かですが、客体世界と調和の取れたスピリチュアルは有効かつ有用です。

つまり、スピリチュアルなどを学ぶときには、客体世界を蔑ろにした二次元思考ではなく、客体世界と調和の取れた四次元思考をすればよいのです。

二次元思考は、退化です。

三次元思考は、唯物的です。

しかし四次元思考は、統合です。

多くのスピリチュアルに興味のない方は、三次元思考をしています。既存の科学体系の世界で生きています。

スピリチュアルにのめり込むあまり、客体世界を蔑ろにしている人は二次元思考です。むしろ退化しています。プラトンとかアリストテレスの時代に戻ってしまっています。

しかし、科学体系を更新して、スピリチュアルも更新する。互いに補いあい、主観経験と客体世界との調和の取れた考えをして実践していく人は、四次元思考です。最新と最古を統合させ。東と西を統合させ。経験と直感を統合させ。右脳と左脳を統合させ。理性と直観を統合させ。科学とスピリチュアルを統合させています。

私はスピリチュアルに対して偏見はないですが、二次元思考の方に対しては二次元思考に陥るくらいならむしろ三次元思考の方がマシだと考えています。

なので、二次元思考に落ちっている方には、今すぐスピリチュアルから脚を洗うか、もしくは(こっちほうがおすすめです)四次元思考にアップデートすればよいのです。

やり方は簡単で、スピリチュアルなど言われていることを理解する時に、「現実世界は幻想だから、スピリチュアルで述べられていることだけを理解して知っていればよい。客体世界の事は考えなくても良い」と考えるのではなく「スピリチュアルで言われていることは、事実であれば必ず物理的な客体世界であるこの宇宙でそれを支える仕組みがあり実装されている。客体世界は無視できない」と考えるのです。

そうすることで、スピリチュアルで言われていることに対して「現実的な解釈」ができるようになるし、科学で言われていることに対して「実際的な理解」ができるようになります。
 
「現実的な解釈」とは、夢想や妄想、過度な楽観主義、思考偏重、観念偏重を避けて、現実世界でどう振る舞えばよいのかという、現実世界で当てはめるとどういう理解の仕方になるのか、具体的かつ実践的な捉え方をすることです。

「実際的な理解」とは、理論や仮説や実験結果を、抽象的な概念や言葉遊びでお茶を濁して、実際の物事とかけ離れた、あり得ない、空論奇論で終わらせず、実際の物事とかけ離れていない、シンプルで奇抜でない実際的な捉え方をするということです。 

 
もっと言えば、スピリチュアルに論理と科学主義を持ち込み、科学に素朴な疑問と懐疑主義を持ち込めばいいのです。

スピリチュアルに必要なのは、懐疑主義でありません。

スピリチュアルで言われている事一つ一つを論理で繋ぎ、かつ科学と整合性を取っていくことです。

科学に必要なのは、革新的になアイディアや理論ではありません。

科学が今まで証明したとされていること、科学者がやっている実験や研究に素朴な疑問を持ち、あやふやかつ具体性に欠ける部分矛盾がある部分を、解消していくことです。

必要なのは統合させることです。

統合してアップデートする事です。

それができれば、過去にあった宗教問題も、科学の悲劇も再度起こることもなくなるでしょう。



今回の記事は短いですが以上になります。

ではでは。


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愛があることと愛を表現することは別物

こんにちわ、dokubo_tohsoです。

今回の記事は、愛があることと愛を表現する事に関するちょっとした違いを注意するために書きました。


例えばですが、「キス」は愛情の表現の1つですが、愛情とは別物です。 

もっと言えば、「好き」であることと「好きを表現する」ことは違うのです。

何十年か前の日本人は、「キス」や「ハグ」という愛情の表現はあまり多用されていませんでした。

しかし、「キス」や「ハグ」といった物は愛情の表現でありますが、それだけが表現の方法ではありません。

「手をつなぐ」や「静かに一緒にいる時を楽しむ」や「微笑む」といった事も愛情の表現です。

なので、「キス」や「ハグ」をしないからといって、愛情がないわけではありません。

日本人が子どもを育てる時に「ハグ」をすることは、欧米の人たちに比べて少ないでしょう。

それで、欧米の人が「キス」や「ハグ」をしないなんて、日本人は自分の子どもを愛していないのかいと言うことがあるかもしれません。

また、欧米で「キス」や「ハグ」の回数が、夫婦関係の満足度と相関するという研究が合ったとします。

それを知った人は日本人の夫婦は欧米の夫婦と比べて、夫婦関係の満足度が低くなるはずだと思うかもしれません。

しかし、それは「愛情があること」と「愛情を表現すること」の違いを分かっていないために起こる誤解です。

日本人は伝統的に「キス」や「ハグ」で愛情を表現しない傾向があります。

単純に、「美味しい料理を作ってあげる」とか「一緒に寄り添って生きる」とか、ちょっと他に思いつきませんでしたが、「日本人の愛情の表現方法」と「欧米人の愛情の表現方法」は結構違います。

なので、例えキスやハグをほとんどしなくても、欧米人に比べて日本人の親は子どもに愛情を注がない、ということにはならないのです。

もちろん、欧米でやった「キス」と「ハグ」の回数と夫婦関係の満足度の研究を日本でそのまま当てはめようとしたら確実に失敗します。



現代は欧米発信のキリスト教文化が世界を席巻しようとして「キリスト教文化で認められる愛情の表現方法」は世界各地で愛情の表現方法として認めらる傾向にありますが、キリスト教以外の「イスラム教文化での愛情の表現方法」や「日本での愛情の表現方法」などはいまいち世界的には認められていません。

なので、キリスト教文化の人が、日本やイスラムの人と付き合ったら「彼が行う愛情の表現方法」では「愛情を感じない、あるいは受け止められない」かもしれません。

 
恋人同士でも「愛情の表現方法」が違っていれば、例えそこに愛情が合っても「上手く伝わらない、受け止められない」という事になります。

これは同じ日本人同士でも起こります。

例えば、A男さんは、自立して相手と同じ目線で共に生きることで愛情を表現します。

A男さんと付き合っているB美さんは 、相手に尽くして相手と寄り添って生きることで愛情を表現します。

互いに、愛情の表現の仕方が異なるので、A男さんはB美さんの「奉仕」の心に重たさを感じ、B美さんはA男さんの「共に並びたつ」というやり方がどことなくそっけないと感じてしまします。 

多くの場合、上記のようなカップルは互いに不満をもったまま関係性を継続するか、相手の愛情を受け止められず別れてしまします。

しかし、互いの愛情はあるのです、ただ「好みの愛情の表現方法」が違うだけなのです。

愛情があるないは「根本の問題」ですが、愛情の表現方法の違いは「コミュニケーションの問題」です。

上手く話しあうなど調整すれば、「コミュニケーションの問題」は解決が可能です。

その時に心がける必要があるのは「自分の表現の方法にこだわらない」事です。

自分はこのやり方でしか愛情を表現できない、このやり方じゃないと愛情を受け取れないといったこだわりを捨てる、あるいは緩めるのです。 

「自分はその表現方法は好きじゃない」と伝えること、「相手の表現方法に合わせること」もしくは「共通の表現方法を作ること」で問題は比較的容易に解決します。

「愛情があること」と「愛情を表現すること」の違いを分かっていないと、「私好みの表現方法を使ってないということは、彼は私を愛していないんだ」というような誤解を生み、果てはめんどくさい事になってしまいます。

特に日本の女性は、欧米の価値観に男性より比較的そまっている傾向があるので、欧米流の表現方法をしない彼(あるいは夫)は、私に愛情がないのかもとか思うかもしれません。

しかし、「愛情があること」と「愛情の表現方法」は違うと分かっており、かつ「表現方法」の調整をすれば、不満やわだかまりは容易に減らせるでしょう。


また、現代の若者は「欧米流の愛情の表現方法」に古い世代より格段に浸かっているので、「親の愛情表現の方法」に不満をもって「自分は愛されていない」と誤解をしている方もいるのかもしれません。

あるいは、マンガやドラマなどの比較的荒っぽい愛情の表現方法に慣れすぎて、現実世界でよくある愛情の表現方法で愛を受け止めることが出来なくなることもあります。

私は親から抱きしめられた事はあまりないですが、それ以外の愛情の表現方法でちゃんと愛されていたので今では十分親の愛を感じています。

しかし、10代の頃はテレビや漫画の影響で、偏った愛情の表現の方法でした愛を受け止められなかったので、自分は親に本当に愛されているのか疑問に思ったり、不満に思ったりしていました。

今では、「愛情があること」と「愛情の表現方法」は別問題だとわかっているので、愛されていないとは全く思いません。

また、最近の10代ではマンガやアニメの影響で「悪口や罵詈雑言」が「愛情の表現方法」の1つとしてそれなりに使われています。

私なんかは「死ねよ~」という言葉を使うような表現方法が嫌いで、そのような表現方法をしても愛は受け取らないともます。

しかし、「死ねよ~」と言う言葉を使って、最大限の甘えと許容を表現することは出来るとは思っています。

最悪の罵詈雑言を吐いても、それすら受け入れ関係性を許容する愛情を確認するというかなり荒っぽいやり方です。

しかし、私より上の世代になると上記の表現方法で愛を受け止められる人は格段に減っていくので、コミュニケーションの断絶が起こってしまうでしょう。

私として、「悪口や罵詈雑言はコミュニケーションにならない、むしろコミュニケーションを断絶させる」と思っています。

また、いくら愛情を込めて言っても、「言葉の意味」が持つ力がなくなるわけではないので、「死ねよ~」と愛情深く言われても、不快の方が勝ってしまいます。

しかし、漫画やアニメなどエンターテインメントの世界では、そのような方法を使った関係性が多く描かれているので、最近の10代はそのようなコミュニケーション方法、愛情の表現方法使っていたりします。

ただ、私としては、やたらネガティブな言葉を使う若者は「言霊の力」を少し学んだ方が良いとは思います。
 
 

「愛情があるかないか」と「愛情の表現方法」 は全く別の次元の問題です。

逆に言えば、一般に認められる愛情の表現方法を使っていたとして、愛情があるとも限らないのです。 

さらに言えば、「愛してくれているなら、〇〇なはずだ(〇〇してくれるはずだ)」の様な愛情の確認方法も比較的意味を成さないので、「愛してくれているなら、 記念日を祝ってくれるはず。祝ってくれないなら愛していないのだ」というような考えは、根本的に考え方が間違っていることが分かります。

ただ単に、「記念日を祝うことで愛情を表現する」という事をしないだけで「普段の生活で、細やかに愛情を表現する」方かも知れません。

なので、あなたが「記念日を祝うことで愛情を表現して欲しい」と思うのなら「記念日だから、どこか美味しいレストランに行って祝いましょう」と提案してください。

「相手から提案してくれないから、嫌だ。」とか「自分から提案しないなんて、愛情がないのか」と思っていたら、それは貴方のやり方と考え方が下手なだけです。

そのような相手を試すやり方は上手く行っても行かなくても、禍根を残しやすいいので注意が必要ですね。



最後になりますが、ちょとスピリチュアルな話になります。

「神の愛」と「愛の表現」は別次元の問題です。

ちょとわかりにくいので「存在の根本としての愛」と「愛の現れ」と言い換えてもいいでしょう。

例えば、嫌なことや辛いことやめんどくさいことがあったとします。

そんな時に、世界や神から見放された気持ちになる人も多いでしょう。

しかし、「存在の根本としての愛」と「愛の現れ」というのは別次元の問題です。

「愛の現れ」から、気持ちよさや高揚感、心理的好ましさが失われていたとしても「存在の根本としての愛」は不変で影響されません。

そして、気持ちよさや高揚感、心理的好ましさがなくても「愛の現れ」は常に貴方の望ましい物を引きつきます。

例えば、貴方が「素晴らしい料理人になって活躍したい」と望んでいたとします。

しかし、今の貴方は「下積みの生活で思ったような料理もできない」かったとします。

その時に、「今料理人として活躍していない」から貴方望みは叶っていないと思いますか。

それとも、「素晴らしい料理人に必要なモノを身に着けている最中」で、むしろ望みを叶っている、あるいは順調に叶えている最中だと思いますか。

確かに、「今現在料理人として活躍していない」わけではありますが、「必要な技術が身についていない段階で、素晴らしい料理人として活躍できる」と思いますか。

「今の下積み時代の経験は、全くのムダで。素晴らしい料理人になるには必要が無い」と思いますか。

私は「望みを叶えている最中」だ思います。

ゴールに至るプロセスを順調にたどっていってると思います。

もし貴方、何かを為したいと思っていたら。

そして、それを為す覚悟を決めて、邁進すれば。

「存在の根本として愛」は、貴方に必要な物は全て与えてくれるでしょう。

必要な、資源、モノ、金、人、技術、そして経験も。

必要ということは、それなくしては望みは為せないということでもあります。

そして、大きな事を為そうとするほど、必要な経験も大きくなり難しさも増すでしょう。

そりゃ、コンビニでアルバイトをしてゲームソフトを買うのと、会社を経営してゲームソフトを作って販売するでは、後者のほうが必要なものが大きくなります。

もし、貴方の目の前に難しいことが多くあるのであれば、逆にそれほど大きな事を為したいということでもあります。

逆説的に、「貴方の為すことの大きさの分だけ、貴方は経験する」ということでもあります。

つまり、「自分の器に見合ったものを経験して」「貴方に乗り越えれることだけ、貴方に起こる」ということでもあります。

もちろん、貴方が生まれた次点で貴方に為したい事にどれだけ必要なモノをもっているか、ということもありますが。

それには、「前世」の積み重ねと言った物もあります。

一般に「才能」と言われるものは前世というのが密接に関わってきています。

人間の魂は、人間の肉体と同一構造をしています。

ということは、肉体と同様に記憶や技能や経験の蓄積というものが可能ということになるのです。

生まれた次点で、魂の神経構造に、数学を30年間勉強していた痕跡が残っているということが起こりうるのです。

俗にいう数学や音楽の天才たちは、過去生でウン十年も数学や音楽に没頭していたと思われます。

その時の神経コネクションは、魂にも痕跡として残り技能として後世の受け継がれます。

それがいわゆる、「天性の才能」の正体だと思われます。

「天性の才能」というより「(輪廻)転生の才能」なのです。

少し話がそれました。

また、人生いろいろなので、ゴールに至る経路は千差万別多種多様、基本的に貴方に絶妙に調整されたものになります。

なので、他人と比較しても意味がありません。

貴方なりの経路になるので、他の成功者の辿った経路というのは殊の外参考になりません。

逆に、自分の経路を順調にたどっていっているのに、他人の経路と違うからといって無理やりコースチェンジしようとしたら、経路から外れて迷子になってしまいます。

漫画家になるのに、10代でデビューする道もありますが、50代でデビューする道もあります。

どっちが優れているとかどっちが良いかではなくて、貴方に合う方が自動的に選択されるのです。

貴方が、50代でデビューする経路を選択しているのに、10代でデビューする経路を無理やり進もうとしてもうまくいかないし、必要な経験もないのでぽっと出で終わって、漫画家としての生活が嫌になってしまうかもしれません。

あなたの経路は常にベストの経路です。

貴方に合わせたオーダーメイドの経路のなのです。

一見「存在の根本として愛」からかけ離れたものに見える時があるかも知れません、あなたがそれを「愛の現れ」として受け止められない時でもそれは常に、「愛の現れ」なのです。



いかがでしたでしょうか。

愛情のあるなしと愛情の表現は別の話です。

そして、存在の根本としての愛と愛の現れも別の話です。

自分がその表現から愛情や愛を感じられ事があったも、そこに愛情や愛がないとは限らないと言う話でした


では以上になります。

また別の記事で。






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記憶に関して。イマジネーションとアカシックレコード。

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は「記憶」に関してのものです。


記憶というものに関して皆さんはどのような理解をされているでしょうか。

単純に、自分の人生の一部を切り取ったモノ。

覚えておいて、思い出せるモノ。

忘れてしまうモノ。 

私なりの「記憶」の捉え方を語ってみます。


「記憶」というのは感覚情報です。

視覚情報、聴覚情報、嗅覚情報、味覚情報、身体感覚情報、など。

りんごについての記憶は、りんごの「味」「見た目」「匂い」「食感」という感覚情報から構成されています。

単純に、「味」だけを思い出すことも、「食感」だけを思い出すことも出来ます。

りんごについて思い出す時に、りんごの「味」は味覚に再現され、「リンゴの食感」は顎の筋肉に再現されます。

りんごの味を思い出すには、りんごの味を思い出そうとしなければいけません。

ぶどうを食べている時に不意にりんごの味を思い出すということは、基本的に無いはずです。

「りんごの味」という言葉を聞いたり見たりすると、それが切っ掛けとなって「りんごの味」をかすかに思い出す。つまり、感覚器に再現して再体験します。

これを抽象化すると、「刺激→反応」というプロセスが分かります。

「りんごの味」という言葉の音の刺激から、リンゴの味という味覚情報が帰ってきます。

神経学的には、刺激と反応ですが、人間の意識上では「リクエスト→レスポンス」という行為で表せます。

また、りんごの味という言葉ただ単に聞いても、りんごの味は思い出しません。

りんごの味という言葉を聞いて、りんごの味を思い出そうとして初めて、りんごの味を思い出せます。

「りんごの味を思い出したいなぁ」というリクエストから、脳が自動的に「はいっ、りんごの味だよ」と感覚器上に返すのです。

意識上では、「リクエスト→レスポンス」であり、物理的には「刺激→反応」という形です。

つまり、リクエストからレスポンスが返ってくるのには、脳神経上で「刺激→反応」の神経経路が確立されている必要があります。

故に、神経経路が細かったり、存在しなかったりすると「リクエスト→レスポンス」は成功しないのです。

また、「apple」と聞いて「りんご」と思い出すのと、「りんご」ときいて「apple」と思い出すのは別のプロセスです。

英語の通訳に成り立っかたら、どちらの思い出し方も練習する必要があります。

「猿といったらバナナ」であるかもしれませんが、「バナナといったら猿」とは限りません。

「バナナと言ったら、チョコバナナ」かもしれません。

もっと言うなら「ABCの歌を逆からいえますか」ということです。

順番とは結構重要なのです。

以上が簡単な記憶についての理解です。


では次は、イマジネーション(想像)と記憶についてです。

人間は、「リクエスト→レスポンス」の仕組みを使い記憶を思い出します。

この時に、感覚情報は別々に各感覚器官に再現されます。

思い出すときには、感覚情報の合成が必要なります。

それと同じことは、イマジネーション(想像)で行っているのです。

しかし、イマジネーション(想像)と記憶は違います。

記憶とは「実際に体験した事」を、感覚器官上に合成再現することです。

イマジネーションとは、「実際には体験していない事」を、感覚器官上に合成再現することです。

例えば、昨日の朝ごはんは何を食べましたかと聞かれれば貴方は、機能の朝ごはんを「思い出します」。

しかし、貴方は明日の夕飯は何が食べたいですかと聞かれれば、明日の夕飯に何を食べたいか「想像します」。

これだけだと、「過去は記憶」で「未来は想像」だと思うかもしれませんが、実は違います。

貴方は、子供の頃どんな習い事をしたかったですかと聞かれれば、子供の頃どんな習い事をすれば今の自分に役に立ったか「想像」します。

未来は「想像」でしかありません、そして過去は「記憶であると同時に想像」なのです。

実際に今から十年前のことを思い出してと言われれば貴方の記憶には幾分か想像が入ります。

実際には、どれが記憶でどれが想像であるのかはあまり解りません。

記憶というのは思い出す度に、その時の貴方の状態により記憶が修正され想像が混入していきます。

100回思い出したことは、100回分想像が混入するのです。

しかしどうでしょうか。

本当に「記憶」と「想像」は違うものなのでしょうか。

本質的に「リクエスト→レスポンス」という行為事態は全く同じです。

それが、「実際に体験した」のか「実際には体験していない」のかどう区別すればいいのでしょうか。

結論から言えば「区別は出来ません」ということです。

しかし、区別できないのは「あなたの脳」です。

「あなたの脳」は原理的にそれらを区別できません。

同じ「リクエスト→レスポンス」という行為である事は全く変わらないからです。

ですが、あなたの意識は区別できます。

意識というか「魂」はそれはまだ体験していないと分かっています。

なぜなら、「レスポンスを返す感覚器」が同じでも、「リクエスト元」が違うからです。

記憶を思い出す時の「リクエスト元」は、「脳の海馬」です。

しかし、想像をするときには「リクエスト元」は「大脳新皮質」です。

正確には「魂→大脳新皮質→感覚器」です。

脳自体は「リクエスト元」がどこであれ自動的に「レスポンスを返してしまいます」が貴方の意識は今自分が「大脳新皮質からリクエストを送った」のか「海馬からリクエストを送った」のか把握しているのです。


前世の記憶、あるいはアカシックレコード。

前世の記憶というものがあります。

前世の「記憶」は、魂に刻まれた神経パタ―ンが生まれ変わるときに現世の肉体に転写されて生じる「記憶」です。

アカシックレコードとの通信では魂が存在の根に近づくことで、存在の根に対して「リクエスト→レスポンス」を行います。

自らの魂が、「リクエスト元」で、レスポンスは「存在の根」から帰ってきます。

また、存在の根から返ってきたレスポンスはそのまま「大脳新皮質からのリクエスト」に使われます。

これは、「魂→存在の根→魂→大脳新皮質→感覚器」と言う経路になります。

つまり、アカシックレコードからの返答は「イマジネーション」という形で返ってくるのです。

この時に、アカシック・レコードから帰ってきたレスポンスを「ピュアなまま、大脳新皮質に送れる」人と、「自分発信の情報(あるいはエネルギー)を混ぜてしまう」人がいます。

古来より、シャーマンや巫女といった存在が「清らかさや高潔さ」を求められるのはそうでないと、「自分の邪念や妄念」を受け取った情報に混ぜ込んでしまうからでしょう。

また、処女や童貞が求められるのは「一度でも性交した経験があると、色欲のエネルギーが混ざるから」という考えからかも知れません。

しかし、「色欲のエネルギーを混ぜたくない」のなら、適度に経験を積んだ性に対してあっけらかんとした人の方が良いでしょう。

処女や童貞の、妄想力を舐めないほうがよろしいかと。

しかし逆に、妄想をさせることで「イマジネーション」の「大脳新皮質→感覚器」の経路を鍛えさせようとしたのなら、上手くやったとは思いますが。

巫女を処女じゃなきゃダメ、と言う発想を「清らかだから」という理由で考えるとしたら不思議でしょうがありません。

むしろ、古来の「処女」、ローティーンの女の子なんて「地球で一番妄想力がたくましい存在の1つ」だと思いますがね。



いかがでしたでしょうか。

私なりに記憶やイマジネーションについて語ってみました。

イマジネーションは記憶と密接に関わっているんですね。

では今回は以上になります。



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脳はでっかい統計マシン

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、脳はでっかい統計マシンという事の説明になります。

ここでいう統計という言葉は「大量のデータを帰納的推論で導く」という意味で使っています。

今はまだ仮説段階ですのであしからず。


それでは詳しく説明します。


人間の物理的な脳というのは、経験したデータ、覚えた知識を元にデータの神経パタ―ンを神経の活性化・不活性化をして、演算します。

ここで言う演算とは、コンピュータと同じ、否定演算、論理積演算、論理和演算という基本的な論理演算です。(もちろん、これが出来るということは、否定論理和も出来るということ)

単純に神経の不活性化が否定演算。

2つ以上の神経パターンの、パターンの共通しない部分のみを不活性化すれば論理積演算。

2つ以上の神経パターンを単純に合成すれば論理和演算。

2つ以上の神経パターンを合成して、神経の興奮度が弱い部分以外を不活性化すれば否定論理和演算。

という具合です。

単純な、神経の活性化・不活性化で簡単に演算できます。

例えば、目の前に「リンゴとなし」を思い浮かべてください、と言われたとします。

それを思い部浮かべた後に「りんごとなしは似てる」と感じるが多いかと思います。

それは、脳がりんごとなしを思い浮かべた時に、共通する神経パターンがより強く活性化して、その部分のパターンが出力する感覚をより強く感じるからです。

りんごとなしは似通った形をしているので、似通った部分はリンゴを思いかべても活性化され、なしを思い浮かべても活性化されます。

連続でりんごとなしを思い浮かべたら、ちょっとまえにリンゴの神経パターンが活性化したところに、なしの神経パターンが活性化するので、共通する部分は多重に活性化します。

あなたは、りんごとなしを連続で思い浮かべて、なんとなく印象に強く残った部分を似通った部分と判断して、その印象を口に出します。

そうすることによって、貴方はりんごとなしの似通った部分を、口に出して説明できるのです。


例えば、犬という言葉あります。

あなたが犬という言葉を聞いて思い浮かべるイメージはどんなものですか。

なんとなくヨークシャテリアっぽいですか。

それとも、パグっぽいですか。

ちなみに、私が犬という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは、なんとなく柴犬っぽいです。

でも、正確に柴犬ではないです。なんとなくシェパードっぽくもあります。

あなたの、犬のイメージは「あなたが今まで見たことがある、全ての犬に共通する部分のみを抜き取った、抽象概念」です。

また、抽象化されすぎて、形にできなくなったらなんとなく親近感が在るイメージを思い浮かべている場合があります。

例えば、私は子供の頃「パグやブルドック」をなんとなく犬っぽくないと思っていました。

多分、周りの大人に「これは犬だよ」と言って教えられなかったら、違うものだと分類していたかも知れません。

ちなみに私は、スマートフォンを携帯電話と言う事にちょっと違和感があります。

私の中の形態電話のイメージはガラケーが強いため、スマートフォンとガラケーが違いすぎて、同じものとして分類しづらくなっているのでしょう。


先ほど説明したように、脳がAという言葉を思い浮かべる時に「今まで見聞きして知ったAというモノ全てに共通する部分だけを抜き取った概念」を思い浮かべます。

ちなみに、この方法を取ることによってデータの蓄積があまり必要なくなっています。

何故かと言うと、あるAデータを使って一度でも既存Aデータと演算をしてしまえば、その更新されたAデータを保持してれば、過去に演算に使ったAデータを全部覚えておく必要が無いからです。

常に、最新のAデータのみを保持していればよく、過去の記憶を忘れてしまってもAデータが残っていれば、AをAと判ります。

しかし、この「全てにおいて共通化する部分のみを抜き取る」という仕組みは時めんどくさい自体を起こします。

例えば、昔のヨーロッパで黒人が奴隷になっていたという歴史があります。

昔、ヨーロッパの白人が黒人を初めて知った時に、時のキリスト教の法王だかの偉い人に、「この黒人は人間ですか、人間ではないですか」と聞いたそうです。

その時に、偉い人が「黒人は人間ではないです」と答え所為で、黒人が奴隷として扱われるようになったと経緯があるようです。

現代の人間からしてみると、黒人の方を「これは人間だろうか、人間でなかろうか」と考える事自体がナンセンスです。

しかし、脳は統計マシンだということを理解すれば、このナンセンスな自体にもある意味納得できるのです。

では説明します。

まず、当時の白人は白人社会に生きています。

多少の違いはあれど、白人の肌の色はほとんど白いです。

つまり、白人社会で生きる人間は肌が白い人間しか居ないのです。

そして、脳の「全てにおいて共通する部分を抜き取る」と言うことは「全てにおいて共通してさえすれば、どんなことでも必要条件にしてしまえる」のです。

なので、当時の白人にとっては「肌が白い」ことは、人間であるための必要条件の1つでは合ったのです。

これは、意識的に「人間は肌が白い、白くなければ人間ではない」と考えていたのではないです。

「肌が白くないと、なんとなく違和感があって人間である気がしない」という微妙な肌感覚なのです。

なので、当時の黒人を初めて知った白人は「え、これは人間っぽいけど、なんとなく人間っぽくない気もする。言葉通じないし、どうしよう。とりあえず、教会の神父さまに聞いて確認してみようかな」という感覚であったのでしょう。

それを当時のキリスト教のお偉いさんが、「え~肌が黒いの?それ以外は人間?どうしようかな~。肌が黒いなら人間じゃないのかな~。よし、肌白いのは人間の必要条件っぽいきがするし。人間じゃないってことで、よろしく」的な発想を下したのかも知れません。

それで、当時の白人は「キリスト教の神父さまが人間じゃないっているし、そうなんだろ。でも、こんなに似てるのになんで人間じゃないのだろう。まあ、いいや」と深く考えず、黒人を非人間扱いしていたのでしょう。

それ以降は「人間であることに、肌の白さは必要条件」と明文化してしまったので悲惨な事になってしまいました。

これは現代の日本人にも当てはまります。

日本では、ほとんどの人は日本語を喋るし、外国語もあまり離されていません。

なので、「日本語を喋れない人をみると」「同じ人間っぽく感じない」という事態が起きます。

今の日本人はそうな風に感じている人は非常に稀です。

英語も習いますし、外国人も普通にいるので。

しかし、ほんの30年前くらいには上記のような感覚の人は結構多かったのです。

これは、脳が「全てにおいて共通する部分を抜き取る」という統計処理をしていることに弊害です。

もちろん、この統計能力は「上手く使えれば、非常に強力で有効」ではあります。

仕事や勉強や日常生活は、この統計能力があるおかげで上手く言っていると言っても過言ではないです。

しかし、この統計能力にも苦手なことや得意なことがあるので、時折問題をうんでしまします。

例えば、「外れ値」の問題です。

Aというデータを今まで更新してきて、最新のAデータがあります。

その状態で、Aデータとほとんど共通しないBデータをこれはAとして与えられたとします。

この時に、AデータをBデータと演算せずに、BデータをAではないとして演算から除外してしまいます。

BデータをAの外れ値として扱ってAとして扱わないのです。

例えば、今まで30人の女性に愛の告白をして、全員から触れれているAくんという男の子がいます。

Aの脳内では「告白=振られる」という経験則が出来上がっていますが、それでも好きになった女性には告白せずには居られないので、女性を好きになったら必ず告白します。

ある日、Aくんは人生で31番目の恋に落ちました。

Aくんは「また振られるだろうな」と思っていますが、今回も告白します。

しかし、Aくんの予想外なことが置きます「いいよ。付きあおうね」とOKをもらったのです。

Aくんは今までにない自体に飛び上がって喜びます。

しかし、ここからAくんはちょっと困ったこと起こります。

Aくんは今まで30回も女性に告白して振られています。

そのため、「告白=振られる」という法則が染み付いています。

しかし、今回告白したら見事OKをもらいます。

今までの「告白=振られる」という図式が崩れます。

しかし、脳内では「告白してOKをもらう」という結果が今まであまりに違いすぎて、上手く統計処理をしてくれません。

なので、Aくんの脳内では「告白=振られる」はずなのに、「なんで今回はうまく言ったんだ」という対立が起きます。

「OKをもらった」のに、「告白=振られる」というパターンをアップデート出来なくてもやもやしてしまいます。

なので、Aくんは「幸せな恋人生活」をしていても「告白=振られるはずなのに、なんで上手く言ったんだ。なんで?」と考えすぎて、幸せを信じられず恋人を疑ってしまい結局3ヶ月で破局してしまいました。

ここで問題なのでは、脳が上手く統計処理をしてくれないという問題です。

上手く統計処理をしてくれないので、いつまでも肌感覚が変りません。

なので、そのような場合は統計処理に任せず、演繹で論理的に考えて今までの経験と最新の経験を上手く統合させる必要があるのです。

例えば以下のように考えます。

「告白=振られる」と思っていけれど、今回は上手くいった。

もしかして、「告白=振られる」は正しくなく「告白*〇〇=振られる」「告白*△△=成功」だったのではないか。

自分は、その隠れた変数を見逃していて、常に「告白*〇〇」をしていたのではないか。

そして、今回は偶然か必然か「告白*△△」をしていたのだろうか。

だとしたら、今までうまくいかないのもうなずける。

なぜなら、ただ告白すれば良いと思っていたのだから。

それでは、見識が狭すぎた。

という具合です。

どんな理屈でも良いですが、うまい具合に統合させる必要があります。


また、別の問題として「データの偏り」があります。

子供の頃から、今までいろんな人と出会ったことがあると思いますが、あなたの人付き合いにはほとんどの場合偏りがあります。

今まで付き合ったことのないタイプの人間はだれでも居るものです。

なので、貴方の人付き合いの方法は、「今まで出会ったことのある人間」に対して一般化最適化されています。

なので、今まで付き合った事のない人間との付き合いの時には、「一般化して最適化された」方法では不適合を起こすことがままあります。

その時には、「なんでこんなにうまくいかないんだ」とか「この人苦手だな」とか思います。

これは単純に、今までのやり方がうまくいかないだけで、やり方を更新したら上手くい可能性が高いです。

ここで、苦手だなとシャットアウトしたら「今まで付き合ったことのあるような人間」以外とは上手く行かなくなります。

単純に、世界化が広がらなくなってしまうのです。

そうするとどんどん偏りが大きくなってしまうので、困ったことになります。

なので、できるだけデータの偏りはなくしていったほうがよいです。


最後に、「間違ったデータを演算し続ける」という問題です。


単純に、意図的に操作されて経験や、間違った知識を多量にインプットしても、正しい帰納的推論は導けないのです。

それどころか、間違った結果を肌感覚で理解してしまうとめんどくさいことになります。

例えば、人間は老化しなくても良いという事実を知っている人は少ないです。

老化というのは人間の身体の機能の一部なので、止めることも老化することも可能です。

しかし、周りに年を取れば身体は老化するという現象が溢れてしまうと、「年を取ると老化をする」という肌感覚をみにつけてしまい、自分まで老化してしまいます。

しかし、年をとってもいつまでも若々しい人が自分の回りにいると、「年を取ると老化する」という肌感覚を薄れさせることが可能なので、老化を避けれます。

しかし、それを「あの人は特別だから」と逆統合していますと、肌感覚は身についてしまいます。

私に言えせれば、老化というのは人体の機能の一部なので、ちゃんとコントロールしてやれば老化はしなくても良いのです。

老化なんて別にしなくてもいいでしょ、と肌感覚で思っていれば老化はしません。

私の場合は、統計ではなく、論理による演繹でその感覚を身に着けているのです。


現代社会は、間違った常識のより身につけてた間違った肌感覚が多くあります。

そのような常識は、論理による統合と、統合したものを肌感覚まで落としこむように行動できれば、正せます。


いかがでしたでしょうか。

脳はでっかい統計マシン。

脳の統計処理能力は、非常に役に立ち便利な半面、その性質をちゃんと知っていないと上手く行かない場面が多々あります。

特に、間違った常識から身につけた間違った肌感覚は、人間の可能性をことさら狭めます。

学校で習っていることや、偉い人がいっていることは常に正しいとも限らないのです。

そういう時は素直に考えるのは一番ではないでしょうか。

では今回の記事は以上になります。




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観念と感情と反応。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、観念と感情と反応について久しぶりに認知科学に絡めた記事です。


脳は感覚や身体を制御するためのコンピュータで言うOS(オペレーティング・システム)です。

人間が普段感じる感覚は、肉体に重なった意識が感覚器官上で捉えるモノです。

脳は感覚器上で発生した、感覚(エネルギーの波動)に、意味付けをします。

意味付けとは、ある感覚とある感覚を連鎖させたり、感覚と思考や感情をつなげることです。


例えば、猫の写真を見てそれを猫と分かるのは、猫の視覚情報に、「ねこ」という音声情報をつなげた結果です。

猫の姿を知覚すると、知覚した神経から連鎖反応を起こして「ねこ」という音声を感覚器上で微弱に再現します。

また、カレーの匂いの嗅ぐと、知覚した神経から連鎖反応を起こしてカレーの味や見た目を感覚器上で微弱に再現します。 

疲れている時に、「疲れた」と言うことを自然に言うのは疲れた状態と疲れたという言葉がつながっているからです。 

逆に、疲れたという言葉を疲れていない時につぶやくと、疲れた状態を身体が再現しようとして実際にちょっと疲れます。

ゴキブリを見て、「キャー!」と反応するは、ゴキブリと汚いや気持ち悪いといった感情が結びついているからです。

カブトムシを見て、かっこいいともうのは「ツノが在るのは地位在るもの」見たいな観念があるかも知れません。


また、ある感覚刺激に対してどのような反応や感情を起こすかは、その人が持つ観念に決まってきます。

例えば、食事中にくちゃくちゃと音を立てる行為に、不快をしめす人と不快を示さない人が居ます。


食事中に音を立てれば、耳が聞こえる人なら全員その音が聞こえます。

それ自体は、ただの感覚刺激です。

ただし、感覚刺激を受け取ったらどうのような反応を返すかは、その人が学習して身につけたことです。

Aさんが食事の躾の厳しい家で育った人なら、Aさんは不快を感じるかもしれません。

なぜなら、親から食事に音を立てるのはいけない事ですと強く教わったからです。

子どものうちは、食事のマナーなんてだれも解りませんから、マナーを身につける一番手っ取り早い方法は、無意識化することです。

そのために、食事中に音を立てて食べたら、親が怒ったり叩いたりするという方法を取る場合があります。

自分が音を立てた瞬間に、親がイラッとしたり、叩こうとしたり、怒ってきたら、本能と感情で音立てないように注意するようになります。

本能的に、食事中に音を立てると怖いことが起きる、音を立てる事が悪いことだから怒られるんだ。

という観念を植え付けられることになります。

そのような人は他人が食事中に音を立てることに、強い嫌悪や不快を示すことになります。

なぜなら、食事中の音に対して、「それは悪いこと」だという観念と「怒られた時の恐怖」が紐付いているからです。

無意識の動作や反応を身につけるときには、単に反復練習をすればいい場合が多いですが、手っ取り早く身につけるために「強い感情」を利用したことの弊害です。

感情の中でも、恐怖や不安というのは、子どもの行動を急き立てるのには十分強力ですから、それを利用する人はそれなりに多いのです。

もし、Aさんの親が食事のマナーを身につけるのに「恐怖」を利用しない方法をとっていたら、マナーは身につけども、他人のマナーに反した行動に不快や嫌悪を示すこともなかったかもしれません。

単なる反復練習で身につけた無意識の行為は観念や感情と結びついていないので、不快や嫌悪といった反応は返されません。

私は、パソコンのキーボードのタッチタイピングを反復練習で覚えましたので、タイピングのやり方に対してなんら感慨もいだきません。

たまに、微妙に間違ったやり方をしている人が居ますが、「このキーはこの指で押さなきゃ気持ち悪い」見たいな感情は無いですね。

自分に合ったやり方でやってれば問題に無いでしょうと思います。

しかし、「これが正しいやり方だ」といわれて習った人の中には、エンターキーを押す指にやたらこだわりがある人がいたりします。

これは「正しいやり方と間違ったやり方がある」「間違ったやり方は悪いことだ」という観念から生じています。

物事を身につける時に、観念と感情をセットで利用して無意識に刻みつけることがあります。

観念は在る感情を生み出す為に必要な、理由付けです。

「〇〇悪いことだ、だから怒るべき」「△△は良いことだ、だからもっとやりたい」

といった感じです。

「働かざるもの食うべからずだから、子ども働いていないのだからもっと親の言うことを絶対に聞くべきだ、言うことを聞かない子どもは怒って、叩いてしつけるべきだ」

みたいなものまであります。

感情とは喜怒哀楽といった単純な感情だけじゃなく、自慢、自虐、罪悪感、後ろめたさ、優しさ、愛情、献身、忠義など色々あります。

観念はある種の許可証みたいなもので、感情が出る場合そこには必ず観念が在るみたい感じでもあります。


そして、大抵の人は自分が過去にどんな観念を植え付けられたかは、覚えていません。

なので、自分が行う無意識の行動にびっくりすることが多々あります。

「自分ってそんな人間だったんだ」という驚きですね。

でも、これは自分が本来そんな人間だということではなく、そういう観念を持っていたんだという発見でしかないのです。

観念は変えられますから、嫌なら変えればいいわけです。

「自分が驚くような反応をしてしまい、それが嫌だったら」その元になった観念を発見して変えればいいわけです。

無意識の反応は貴方の本当の姿を現しているのではなく、その反応を過去に学習したというだけですので。

別に嫌じゃなかったら、そのままでよいのですし。

そうしていけば、自分が好きなありたい自分にいられるようになります。



いかがでしたでしょうか。

卑近な例として、昔ながらの人は「結婚はしなければいけない。しない奴は劣った人間、だから結婚しない人間は貶していい」みたい観念を持っていた人がたまに居ます。

そういった、ひとはその観念の所為でしたくもない結婚をしたのかもしれませんね。

でも、最近の人は「結婚は個人の選択の問題でしか無い。したければすればいいし、したくなければしなければいいし。結婚している人間も、してない人間も、だからどうといことは一切ない」という観念をもった方が多いです。

自分は完全に後者ですね。

では、今回記事は以上になります。



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影響力と社会システム。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、影響力と社会システムについてです。


影響力を一言で表すと「他者に影響を及ぶせること」です。

他者とは、リモコンでもパソコンでも友人でも、道端の石ころでも、政治でもなんでも構いません。

自分以外の存在に対して、及ぼせる力は何でも影響力です。

自分の子どもに、「勉強しなさい」と言って子どもが勉強をしたら、それは貴方の親としての影響力の発露です。

選挙で、自分の入れた票で政治家が当選したら、それは社会システムを利用した影響力の発露です。

そこら辺にある石ころを皮に投げ入れる事ができるのは、貴方の肉体の物理的な影響力の発露です。

一般に、影響力を持ち、それを発揮するには次の物が必要です。


エネルギー

エネルギーを力(影響力)に変換する仕組み(システム)。


例えば、自分の子供に言うことを聞かせるには、家族という形態的なシステムがあり、自分と子どもの関係性を規定しているからです。

自分が子どもを庇護する代わりに、子どもに対して安全や健康をを損なわい様に指導する権利と義務があります。

その関係性は、古来より連綿と続く家族制度の元に成り立っています。

昔は、自分の子供以外にもそのような影響力を発揮できましたが、現代では自分の子どもくらいにしか影響力は発揮できません。

地域や集団で子どもを育てるとう形態ではなくなってしまったので、子どもが言うことを聞かないですし、大人も言うこと聞かせることができるとも思っていないからです。

このような形態的な社会システムは、物理的な拘束力を持っていなくても、人間の心理や観念を利用して影響力を発揮することが出来ます。


そして、 制度として明文化された政治や選挙といったシステムは、それ自体が効力をもつのではなく社会に生きる人間がその効力を認めることによって、その仕組と影響力を維持します。

例えば、現在日本には総理大臣がいますが、彼は単なるおじさんに過ぎません。

もし彼が、「今から日本は戦争を始めます」と言ったらどうしますか。

戦争をするために法案を通して、無理やりかもしれないけれど正式に法的影響力を持ってしまったらどうでしょう。

自衛隊の皆さんが、上司の命令で戦争の準備を始めます。上司の上にはさらに上司が。その上司の上にはさらに上司が居ます。

自衛隊という組織を維持するために、そのようなピラミッド形の組織形態で上司の命令は絶対としているので、一度一番上の人間が戦争の準備しますと決定したら、粛々と戦争の準備が始まられてしまします。


しかしあたりまえですが、総理大臣が戦争をすることを決定して、法案が通ってしまっても、自衛隊の方たちが「戦争するのは嫌だから、戦争の準備はしないでコミケに向けて同人誌を作ります」と言ってしまったらどうでしょう。

戦争は絶対に起きません。

自衛隊という組織のシステムも政治のシステムも無視して、一人ひとりが「戦争する気はないから、今日は寝ます」と言えば、戦争は起こりません。

それは、総理大臣や法案に影響力がなくなった瞬間であります。

もし、総理大臣が怒って「戦争の準備をしない奴は、牢屋いきだ」と言っても、人を牢屋にいれるには「警察や刑務所や、裁判所」の力がなければ無理です。

「警察や刑務所や、裁判所」が総理大臣の影響力を無視してしまえば、どうしようもありません。

王様が力を持つのは、王様が兵隊を動かせるからです。

兵隊が王様に従うのは、王様が国を導ける存在だと思って彼らが王様に従うのを選択しているからです。

いくら王様が、「俺の言うことを聞かない奴は死刑」と言ったとしても、兵隊の皆さんが「解散!」といって王様の兵隊であることをヤメれば、王様は昼飯のパンもまともに買えません。

現在、日本にはピラミッド型の社会システムがあり、総理大臣や経団連のおっさん達が力を振るっているのは、社会が本来そうなっているからではありません。

社会に生きる一人ひとりが、ピラミッド型の組織や「権力者」の影響力を認めているからです。

そのような「権力者」は、社会の成員に「権力者は自分の生活に致命的な影響を及ぼせる」という観念を植え付けることによって、自らの「影響力」を実体化しています。

そもそも、そうような観念を植え付けないことには、「権力者」等といった存在は成立し得ないのです。

もし、国家の代表が「クソみたいな事を言い始めたとしても」社会の成員一人ひとりが「無視」すれば、ただのおっさんおばさんの戯れ言でしか無いのです。

某中国なんかは、某共産党のお偉いさんの言うことを「社会のみんなで一斉に無視する」ことを決めたら、明日にでも革命が起きます。

なので、それをさせないために「コミュニケーションの断絶や、利害関係の衝突の操作、情報の統制」をやっているのです。

これらのシステムを維持して、お金というエネルギーを注ぎこむことによって、気に入らない奴は「首チョンパ」と脅しているのです。(実際に簡単に殺したら、暴動が起きて革命されるので、あくまで「共産党は簡単に人民を殺す」という噂を徹底的に流すことによって、実際には殺すことはあまりありません。生かさず殺さずで、「共産党の強い影響力」という観念を植え付けているのです)


経済というシステムとそれが持つ影響力も同様です。

本来、お金というものは、価値の交換のための「便利な道具」でしかありません。

それは、交換する人同士が、「この道具を使って交換しようね」という事を認めている時のみ効力を発揮します。

例えば、最近ニュースになったビットコインも、「在る集団が認めた、価値の交換のための便利道具」でしかりあません。

ビットコインと円などの通過との為替取引のみが注目されてしまいましたが、じっさいは「国家の管理の及ばない、円やドルに変わるもの」になる可能性を秘めていました。

ただ、「国家の管理が及ぼない」というものでしたので、徹底的に潰された感じはします。

互いに、道具の影響力を認め合っているから、お金は成立していうるのです。

例えば、日本で、ジンバブエドルを使って、ジュースを買おうとしても買えません。

日本では、ジンバブエドルは「この道具を使って交換しようね」と認められていなからです。

でも、コンビニの店長が「どの通貨でも良いよ」といて商品を販売したら、手にしたお金は外国で使えば問題なかったりします。(まあ、税制上の計算がめんどくさすぎてやらないと思いますが)

また、どの通貨でも良いよコミュニティでも勝手に作ってしまえば、問題なく経済は回ったりします。


経済には実体のある経済と、実体のない名目的な経済というものがあります。

実態のある経済は、実際にものやサービスが売買されていますが、実体のない経済は、為替取引や株などの金融商品の売買を含みます。

金融崩壊とか、経済危機とか言われるものは、この名目経済のは破綻でしかりません。

金融崩壊や経済危機が訪れても、実際的にあものやサービスを生産する能力自体はほとんど衰えません。

為替取引や、株売買ができなくなっても。

実際のモノや人の労働力が、目減りはしないからです。

経済危機や不況だとの何だのいっていますが、ずっと前から実体経済は大きくなり続けています。

実態のない経済を、転がして転がして膨らませ続けて、GDPの成長率うん%だのいっているだけで、実際は物はあふれています。

むしろ、供給過剰になるほどものやサービスが溢れているのに、「働かないと飯が食えない」という制度を採用しているために問題を生み出してるくらいです。

これは、社会全体が「働かざるもの食うべからず」という観念を信じているせいです。

また、「馬鹿にみたいに働かされた」所為で「病気や怪我をたくさんして」その所為で「医療や福祉の費用が膨れ上がって」その所為で「税金が足らなくなって」その所為でで「政治家が国民にもっと働いて経済を大きくしろ」と言って「そのせいで、働かされすぎて生活が苦しくなって、病気や問題が増える」という問題の循環があります。

問題の根本が「働き過ぎ」なのに解決策が「もっと働くこと」というロジックの誘導を政治家や学者が超え大にして言っているのです。

これも、「働かざるもの食うべからず」という事を信じているせいで「じゃあ、働かなくても飯を食えるようにすればいのでは?」とは言い難くなっているのです。

そのせいで、「自分が仕事をしなくても、ものやサービスが溢れて生活できる」のに「仕事が無いといって自殺をする」というよくわからない構図になっているのです。

これは、権力者が「働かざるもの食うべからず」という観念を人々に植え付けて、現状の「実態のない経済の膨張」を目的とする、権力者によって管理された経済システムを採用しているために起こっています。


余談ですが、権力者は「これが効率的で一番よいやり方」だと思っている人から、「意図的に操作して、自分が快楽を得る」ことを目的としている人たちまで色々います。

ちなみに、多くの国家のトップは前者ですが、多くの腐敗した経済システムの長は後者に陥りがちです。

というか、本当の権力者は決して政治家になって、国民の矢面にたちません。

日本で言ったら、経団連とか、最低でもそこぐらい影に潜まないと「うまい汁は据えない」からです。

某中国も、国を牛耳っているのは、某共産党トップではなく、トップ連中に金を出している大金持ち連中ですね。

彼らは自分が矢面にたってしまって、認識されてしまったら、「自分の影響力を意識的に絶たれてしまえる」とわかっているので、矢面になんて絶対立ちません。

人形劇で人形を操って、舞台を操作して観衆を惹きつけているのに、操作する人間の存在がバレてしまったら、とたんにリアリティが無くなって観衆の目が醒めてしまいます。

もし、それが、非常に不快で横暴な舞台だったら、観衆は暴動を起こして人形を操る人に危害すら加えてしまえます。

ちなみに、この人形劇の観衆は舞台の外からではなく内側にはいって参加する一体型人形劇に観客です。


以上の内容を簡単にまとめると以下のとおりです。

現状の社会システムの多くは、人々に観念を植えつけた上でお金というエネルギーを注ぎこむことでその影響力を維持・発揮しています。

また、植え付けられた観念を捨てるか、お金というモノに価値を置かなくなったら、現状の社会システムは崩壊するでしょう。

その上で、新しい観念と、お金というものに価値を置き過ぎない、新しい社会システムが出てくる可能性が高いです。


如何でしたでしょうか。

影響力と社会システムは密接に関わっています。

そして、どんな人間でも影響力というものは多かれ少なかれ持っています。

自分の子どもに言うことを聞かせられるのは影響力の仕業。

会社の部下が言うことを聞かないのは影響力の仕業。

また、人間はありのままで、自分の個性を発揮していけば、自然と自分の影響力を発揮できるようになります。

他者に言われたやり方で、とか、一般論で生きても自分自身の影響力は発揮できません。

なぜなら、自分に合わないやり方をやっているからです。

自分に合う、ありのままの自分の合うやり方で生きていけば、影響力なんて自然に発揮できるのです。


以上になります。



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全てを統合するとフラットになる。パラレルワールドの理解。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今日から会社が盆休みに入ったので、記事をたくさん書こうと思います。

今回の記事は、全てを統合するとフラット(歪みや偏りがないという意味)の説明と、それからのパラレルワールドの説明になります。


全ての存在は、存在質とも言うべき「ただ存在するという性質をもった何か」から作られています。

この存在質は、物性を全く持ちません。

そして、全くのフラットな存在です(歪みや偏りがないという意味)

存在質から物質を生成するには、歪みや偏りといったものが必要になります。

全くフラットな存在質中に歪みや偏りが生まれた部分が物質ということになるのです。

そして、私たちが住む宇宙というのも1つの偏りです。

私たちの住む物質的宇宙は、周波数を持っています。

物理的に宇宙を構成する物質に共通する周波数です。

しかし、存在質に周波数はありません。

存在質というのは「ただ存在するという性質をもった何かです」。

存在するという性質だけを持っているので、周波数という属性も持ちえません。

周波数は物理的な性質を持つモノしか持ちえません。

また、周波数というのは次の性質を持っています。

同じ周波数を持つAというエネルギーとBというエネルギーを合成すると、CというAとBより低い周波数をもったエネルギーが生まれます。

ポイントは高くなるのではなく、低くなるということです。

大もとの存在質はフラットで周波数がありません。

その存在質から全ては生まれたので、その存在質から生まれた全てを統合すると元の存在質とイコールになる必要があります。

つまり全てのエネルギーを合成すると、周波数が0になる必要があるのです。

故に、エネルギーをどんどん合成すると、周波数はどんどん低くなっていきます。

なので、全てを統合すると周波数が0になり物性がなくなり、逆に存在質から物質的なものを取り出したかったら、たった一つしかない存在質から周波数を分離して作り出し、周波数のある(つまり物性をもった、偏りや歪みがある)宇宙を生成する必要があるのです。

これは、白い光から周波数を分離して、赤や青といった色を生み出すことと本質的には同じです。



では、パラレルワールドの説明に入ります。

全てのパラレルワールドは、存在質から分離した1つかつユニークな周波数を持つ物理的な宇宙です。

全てを統合すればフラットに成ればいいので、パラレルワールドは無限に存在できます。

単純に、2つに分離しても統合すればフラットにできるし、100に存在しても統合すればフラットにできるからです。

いくつ存在しても統合すれば最終的にフラットにできるので、パラレルワールドの数には制限がありません。

いくつまでなら存在できるという論理ではないのです。

また、全てのパラレルワールドがユニークな周波数を持ちます。

なぜなら、全く同じ周波数の宇宙が2つあったら、完全に重なって区別がつかないからです。

物理的に完全に重なった区別がつかないものを2つとは数えませんよね。

故に、全ての宇宙はユニークな周波数を持つのです。

そして、全てのパラレルワールドは存在質の中に存在します。

正確には、全てのパラレルワールドは高い次元の視点から見たら重なっているのです。

つまり、同じ所に存在している。

全てのパラレルワールドは重なっているし、その重なっている場所に存在質がある。

存在質から在る特定の周波数を抽出したら、その特定の周波数の宇宙を特定して認識できる。

ただ、全ては同じ場所にあるので、抽出するというよりフォーカスする取ったほうが正確です。

そして、Aさんの周波数とAさんがいる(と認識している宇宙)は基本的に共通の基底周波数を持っています。

その基底周波数が同じだから同じ宇宙に存在しているということになるのです。

また、AさんとAさんのいる宇宙にいるBさんは別の周波数を持ちます。

なぜなら、先ほど説明したように全く同じ周波数を持っていたら、完全に重なって区別がつかないからです。

ゆえに、重なってないか重なっているかという「位置」も周波数が持っている属性になります。

位置も周波数(の属性の1つ)です。


パラレルワールド間の移動について。

パラレルワールド間の移動は魂だけなら比較的に簡単です。

なぜなら、魂=意識は物性をほとんど持たないより存在質に近い状態を持っているからです。

周波数が低い波長の電波は、建物の壁を簡単にすり抜けます。

携帯の赤外線通信はちょっとでも障害物があると通信に失敗しますが、Bluetooth通信は少しくらいの障害物ならへっちゃらです。

単純に、Bluetooth通信の方が周波数が低いからです。

魂=意識がほとんど存在質といったものなので、もっと周波数が低いです。

なので、物理的な宇宙もすり抜けます。

すり抜けて、留まりたい宇宙の周波数に調整するあるいはフォーカスすることによって、その宇宙で活動します。

なぜなら、周波数をフォーカスしないとエネルギーの交流ができないからです。

ゆえに皆さんが肉体に留まっている時に自分の肉体とエネルギーの交流をするために、肉体の周波数にフォーカスします。

だから、魂=意識の基底の周波数が変わると同じ基底の周波数の宇宙にスライドします。

ズルっ。

って感じで、スライドします。

音は聞こえないけどイメージ的にはそんな感じです。

また、肉体をもったままパラレルワールド間を移動する事も可能です。

自分の肉体の基底の周波数を別の宇宙の周波数に合わせればいいのです。

そして、位置というのも周波数です。

自分の肉体の周波数を変えられるなら、同じ宇宙内で移動や、パラレルワールド間の移動もできるでしょう。



いかがでしたでしょうか。

自分でもわかりやすく書けたなと思いました。

ここでポイントなのは、スピリチュアルな方たちが言っている「高次の存在ほど周波数が高い」という言葉を一旦忘れることです。

他の記事で説明していますが、「高次の存在ほど周波数が低い」のが真実です。

「高次の存在ほど周波数が高い」と伝えている方たちが多いのは高いことはいいことだという「先入観」のなせるわざか、高次の存在が仕掛けた「引っ掛け」でしょうね。

では以上になります。




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波動が上がることの意味と理解

こんにちわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、「波動が上がる」事の意味をどう理解していけばいいのかに関する記事です。


このブログでは、「波動が高い」事を次のように説明しています。


Aさんの波動が高いとは、

Aさんを構成する原子などの物質が、固有振動数(周波数)のエネルギーを見かけの運動により変換している状態です。

なおかつ、Aさん自体は、細胞の働きが活発して身体の活動は活発になり健康になっています。


スピリチュアルで言う「周波数が高い」の誤解。

「波動を上げる」アファメーション。ただし使用上の注意をよく読むこと。  


などで詳しい事を書いていますので、よろしければそちらを読んでください。


「私の波動が上がる」、という表現をされる時には「私を構成する物質の固有振動数(周波数)は下がっています」かつ「私を構成する物質の働きは活発化して、私自身の固有振動数(周波数)は上がっています」。

この、「私を構成する物質の固有振動数が下がっている」状態は「私を構成する物質の時間が遅くなっている」と同義です。

私は以前の考察で、相対性理論で説明される「高速で運動する物質の時間は遅れる」という現象は、「固有振動数と見かけ運動のエネルギー交換」の法則を導けると考えました。

また時間というのは「A(観測者)の内部時間である固有振動数のエネルギー」と「B(観測される側)の外部時間である見かけの運動のエネルギー」の相対値で決まる、とも考えました。


時間は内部時間と外部時間の相対値であることは次の比喩で説明できます。

あなたは、レインボーブリッジを遠くから眺めています。

レインボーブリッジの入り口から車が入ってきました。

一番目の車は、あなたが10回まばたきをしたら、出口から出て行きました。

その後、また車が入り口から入ってきました。

二番目の車は、貴方が7回まばたきをしたら出口から出て行きました。

その後、また車が入り口から入ってきました。

三番目は、あなたが15回まばたきをしたら出口から出て行きました。


貴方は自分がまばたきする速さは一定で変わっていないと思っています。

なので、ニ番目の車を一番早く感じ、三番目の車を一番遅く感じました。

貴方のまばたきする速さを、貴方の固有振動するである内部時間。

車のスピードを観測対象の見かけの運動である、外部時間。

そう考えてください。

そこには、都合よく時間を図ってくれる時計も、車のスピードメーターもありません。

あなた感じる時間は、「貴方のまばたきの速さと車のスピード」で構成されています。

しかし、貴方は自分のまばたきの速さは変わっていない、一定だと思っていましたが、実際はどうかは解りません。

もしかしたら、2番目の車を見ている時に、貴方のまばたきの速さはいつもよりだいぶ遅くなっていたかもしれないのです。

しかし、あなたはそれに絶対に気づきません。

ドコかの誰かが、親切に時計を用意してくれたり、教えてくれない限り気づきません。

気づいたところで実感は出来ません。

貴方の内部時間は貴方にとって絶対の指標であり、絶対指標の変化は実感できようがないのです。


貴方の波動が今より上がる時、今まで「10回まばたきをしたらレインボーブリッジを通過していた」車は、「5回まばたきをしたらレインボーブリッジを通過する」ようになります。

また、あなただけではなく車の波動も上がっていたら、「1回まばたきをしただけでレインボーブリッジを通過する」ようになるかもしれません。


そして、これらを端的に表現すると「人間は、波動の高低を時間という形で認識している」という事になります。



そして、波動が上がると言うことは「単位時間あたりの(見かけの運動の)エネルギー量」が増加することでもあります。

車がレインボーブリッジを通過するのに10回まばたきする必要があったのが、1回まばたきするだけですむだけにとどまりません。

絶対的な指標からしても、波動が上がればあがるほど、見かけの運動に使うエネルギーが増えていくのです。

スピリチュアルで言う、「波動が上がると願望が実現するスピードが早くなる」と言うことは、「波動が上がると単位時間あたりのエネルギー量が増加する」という事で説明できるのです。


また、固有振動数(周波数)が下がる事は、宇宙の根の方のエネルギーど同調しやすくなります。

宇宙の根である、大いなる全てとか、グレートスピリットとか、あるいはこのブログで存在質と呼んでいる物は、そもそも固有振動数がありません。

ありません、というかゼロです。

固有振動数がゼロなので、見かけの運動のエネルギーは最大値です。

固有振動数を上げて、見かけの運動のエネルギーを下げることで、物質として物理的な影響力を持つようになります。

なので、物質の身体を持つ私たちは、肉体の固有振動数を下げて宇宙の根の方に近づける事で宇宙の根の方のエネルギーを受け取る事ができるようになります。

なので、この法則を理解していれば、「無窮の虚空」から「物理的な影響力を持つ使えるエネルギー」を取り出すことも可能になると思います。

ポイントは、虚空からエネルギーを生成するというより、「いかに物理的に使える形にするために、波動低くして取り出すことができるか」だと思います。

エネルギーは無限にあるので、「生成する」というより、「取り出す」のです。



いかがでしたでしょうか。

今回の記事は、今までブログで書いてきた事のまとめになるのでしょうか。

このブログは、とんど思いつきで記事を書いてあるので情報が分散しがちなので、たまにはこのようなまとめ記事が必要なのではないでしょうか。

では、また別の記事で。


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人間関係を上手く生かせるコツ

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、人間関係を上手く生かせるコツについてです。


人間関係を上手く生かせるコツには大き分けて二通りのアプローチがあります。

第一に、貴方が人間的に成長すること。

人間関係のいざこざの多くは、貴方や貴方の周りの人の人間的未熟さから生まれます。

例えば、自分より容姿が良かったたり、お金を持っていたりする相手を嫉妬するあまり、相手を攻撃したり悪く言ったりする人が居ます。

そういった人は、大抵の場合「人間は嫉妬するのが当たり前なのだから、自分より容姿が良かったり、お金を持っていたりする人間は自分に気を使っかたり申し訳なさそうにするべきだ」と言います。

しかし、実際に嫉妬するという行為は嫉妬する側の問題であり、自分より容姿が良い人間に嫉妬するのは、嫉妬する人間の心が未熟だからです。

決して、「人間は嫉妬するのが当たり前、それは自然な反応」ではありません。

自分より容姿の良い女性に攻撃的で影で悪口を言う女性が良い例ですが、そういった「未熟な人間」は人間関係でトラブルを起こしやすいです。

なので、彼女たちは自分より容姿の良い人間に嫉妬するは当たり前なことでなく、「自分の人間的未熟さ」からくる悪癖だと自覚して、その心持ち治していくしか、「嫉妬からくる人間関係のトラブル」を無くせません。

また、「イケないと分かっていてもどうしても嫉妬してしまう」人間も居ます。

「嫉妬しても良いことがないと」と思って、なおかつ「嫉妬したくない」と思っている方もいます。

そういった方は、「自分が深いところで未熟である」という事に気づいていない場合もあります。

先に述べた通り、「嫉妬は人間の当たり前の自然な感情」ではないです。

嫉妬をする人もいれば、しない人もいます。

嫉妬をするには理由があるのです。

なので深い場所にあって、自分は気づかない理由で嫉妬しているのです。

なので、そういった人は「どうしても嫉妬してしまう」と落ち込むのでなく、

「嫉妬するにも理由がある、それを取り除けば嫉妬しなくなる」と考えて悪癖を手放すことが出来るのです。

他にも人間的未熟さからくる悪癖は色々ありますが、それらも同様です。

そして、多くの人間関係のトラブルは「自分が人間的に成長する」事によって、自然と解消されていきます。

さらに言えば、それほど人間的に未熟でない人でも、他者の人間的未熟さに飲み込まれてトラブルになってします場合があります。

その場合やはり、相手の人間的な未熟さに飲み込まれないほどの人間的な器の大きさが有れば、トラブルに巻き込まれずにすみます。

それでも巻き込まれそうになる場合、大抵の場合相手が致命的に未熟ことがほとんどですから、警察や弁護士など公的な権力の力を借りて対処すればいいのです。

そして、人間的に成長できた人は、嫉妬などからくる人間関係のトラブルに巻き込まれそうになっても、嫉妬するのは嫉妬する側の問題だと分かっていますので、嫉妬される自分も悪いなどと思わず自分の自尊心を傷つけることがありません。 

人間的な成長するための具体的な方法ですが、次のとおりです。

1 本を読みましょう

2 いろんな人の言葉に耳を傾けましょう。

3 それらを鵜呑みにせず、徹底的に自分の頭で考えましょう。

4 自分の頭で出した答えを自分の中で定着させずに、自分の人生で確かめてみましょう。

5 1234の繰り返し


人間的な未熟さを克服するには、心理学で言う「信念(ビリーフシステム)」を変える事が必要です。

本を読んだり、人の話を聞くのは、自分の信念を超えて、他者がどういう信念を持っているかを知るためです。

そして、自分が今持っている信念を絶対的なものではなく、数多に持ちうる事ができる信念の内の1つという「相対化」の中に置くことが出来ます。

それが出来ると、「自分の価値観、ものの見方、世界に対する見方」を絶対的なものではなく、変化し選択することができるという「信念」を新たに獲得できます。

しかし、多くの人は、「自分の価値観、ものの見方、世界に対する見方は変化し、選択することができる」という話は誰かから聞いた程度では腑に落ちてくれません。

何かしら、人生の中で切っ掛けがあって腑に落ちるまで、なんとなく「理屈の上では分かる」程度です。

なぜなら、通常、信念は「人生の経験」に応じて形成されるからです。

つまり、「自分の価値観、ものの見方、世界に対する見方は変化し、選択することが出来る」という経験を自分の人生で経験するまで、そのような信念は獲得できない事が多いのです。

なので、とりあえず本や他者の話をよく聞いて、「信念の相対化」という信念の獲得を促しつつ、人生の適切なタイミングで「自分好みの信念」を獲得できるように色々と自分の頭で考えて、検証していったほうが良いですね。

また、先人の「色々な経験とそれらの据え獲得した信念」にどんなものが在るかを知ることは、貴方にとってどのように生きる方が良いか、というあなたの好みの人生を生きる参考になります。

そして、何らかのタイミングで上記の信念が腑に落ちると、「嫉妬をしない」ことを選択できたり、「嫉妬をしても、それを好ましい力変える」という事を選択できたりします。


第二に大事なのは、「うまいやり方」を覚えるということです。

これは単純に、人間関係のスキルを磨くことです。

自分の感情や意見を適切に表現する方法を学ぶこと。

他者を傷つけること無く、自分自身を傷つけることも無い関係性の構築の方法を学ぶこと。

適度な身のわきまえ方を覚えること。

他者がどうのような事に不快を覚えて、快を覚えるかを学ぶこと。

自分の譲れない一線を見極めて、それを守る方法を学ぶこと。

人間関係でトラブルが起きた時に、トラブルを解決するために何が必要か知っていること。

適度な諦めの心。

妄想を沈める技術。

などなど。


人間関係で、あったほうが良いスキルは山のようにあります。

これは実際の人付き合いの中で学んでいくのが一番です。

実際の人付き合いの中で学ぶことで、すでに身についている事に気をつける必要もなく、今の自分に必要なものをその場その場で身につける事ができます。

完璧にする必要はありません。

人間関係で「あ、ちょっとまずったかも」と自分が思った時に、少し時間を取って「何がまずかったのか、どうすればもっと上手く言ったっか」は反省、考察して「じゃあ、こうしたほうが良かったな」と思うことを後日実践して身に着けていく。

上手い人のやり方を参考にしてもよいですし、自分にあったやり方を学んでいきましょう。


また、人間関係に必要なスキルを学ぶ為に、本をよんだりセミナーに行ったりする人もいるかと思います。
 
そういった方は、本やセミナーで身につけたスキルを、実践で無理に使ってはいけません。

そういったスキルや方法は、基本的に個別具体的なシチュエーションや人間関係、そしてなにより「貴方自身」を考慮に入れていません。

なので、あなたの個人的なシチュエーションや人間関係や、貴方自身の適性に合わないことを無理やり行った結果、「〇〇理論では上手くいはずなのに」とか「〇〇をしたほうが良いらしいけど、気持ち的にやりたくない」
など、色々とめんどくさい事になりかねません。

なので、一度深く学んだ後は、それを意識せず、自然体で振る舞ってみることが必要です。

何大丈夫です、そのような本やセミナーで学んだことのエッセンスが理解できているなら、無理に本やセミナーの理屈や言ってることに合わせなくても、自然といい感じに振る舞えて、いいとこ取り出来るはずです。

あなたはの潜在意識はちゃんと、本やセミナーで学んだ事と目の前の具体的な状況を考慮に入れて、いい感じにどうのように振る舞えばいいか判断してくれますよ。

まあ、本やセミナーの不完全な理論を信じすぎてもめんどくさいですからね。 

一言で言うなら「一度深く学んだ後は、それを忘れてみることが重要だ」ということですね。

そうすれば、需要な本質的な部分だけ残ってくれますからね。 


いかかでしたでしょうか。

人間関係を上手く行かせるコツは、「人間的に成長すること」「うまいやり方を学ぶこと」の2つです。

また、上記のやり方でなくとも、この2つを行えればよいのです。 

そして、この2つのコツでなくても、貴方が良いと思ったやり方をすればいいのです。

私の場合は「人間的に成長すること」と「うまいやり方を学ぶこと」でうまくいきましたが、モット違う事でうまくいく方もいらっしゃることでしょう。

 まあ、私の場合にうまく言った事の紹介ということになるのでしょうね。


では、今回の記事は以上になります。



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I am what I want to be,I am where I want to be

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は短く、最近の社会の急激な変化の中で自分の中心に居続ける事ができるアファメーションを紹介します。


タイトルにも在るように、I am what I want to be, I am where I want to beとつぶやくだけです。


中学生レベルの英語なのでいちいち解説はしません。

より正確に詳細に記述するなら、

「At every moment ,I am what I want to be. At every moment I am here that is where I want to be」となります。

長い方のアファメーションを英語として理解できるなら、長い方をおすすめします。 


今回の記事は以上になります。

アファメーションとしては結構強力な効果があるので、仕事途中でもトイレに入る度に小さくつぶやくといいと思います。

ではまたの記事で。




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反省といいわけと謝罪と

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事のタイトルは、「反省といいわけと謝罪と」です。

今まで多くの記事を書いてきました。

多くの仮説と考察を記事にとしてネットの海に放出してきました。

そして、今更思うのです。

「自分の仮説や考察は、ちょっと雑過ぎる、荒すぎる、大雑把過ぎる、細部が詰められていない、不勉強過ぎる」と。

常々思っていましたが、やはり私の仮説や考察は抽象的な考えを端を発していて、かつ全くの不勉強の所為で、「人に見せられたものではないと」。

正直、不勉強すぎて、思索が荒っぽすぎて、自分がまだこのレベルなのかとちょっと心配してしまいます。

もし、このブログの記事を楽しみにしている方がいるなら申し訳ないのですが。

しばらく、勉強に専念したいと思っています。

というか、抽象的な理論や哲学の思索はもう十分楽しんだので、「実際に具体的なレベルの、物理、脳、数学、化学、医学」の勉強をしないと、いつまでたってもとんでも仮説のままだなと思ってのです。

のんびり、何年もかけて徐々にお金を溜めて、すこしづづ確実に勉強して、いずれ仮説の検証をしたいと思っていました。

しかし、仮説や考察はもう十分な域に達しました。

次にするべきなのは、ちゃんと学問を学んで具体的な知識や理論を身につけることだと思ったのです。

ですので、このブログはこの先とっても亀更新に成ると思います。

自分自身の勉強を優先させていただきます。

正直、仮説や考察を離れて、ひたすら学問の世界に没頭する必要が今の私にはあるのでしょう。

私の仮説や考察の粗さは正直言ってひどいものです。

基本的な考え方はあまり間違っていないとは思っていますが、具体的な部分や理論の細部はダメダメなレベルです。

本業の学者の方は私のブログを読んで思うでしょう、「抽象的なことばかり書いてあって、具体的な事が何一つ書いていない。不勉強な、考えることが好きなだけのアマチュアだな」と。

実際その通りなので、何も文句も言えないのです。

なので、この先しばらく更新はほとんどないと思います。

楽しみにしてくださっていた皆様に申し訳ないです。

このブログの記事はそのままにしておきます。

ドコかの誰かが読んで、抽象的だけどなんか納得できる内容だなと思っで、ちょっとでも検証したみたいと思ってもらえるかもしれないので、荒っぽいままですが公開したままにしておきます。

荒っぽい理論ですが、有効に使える部分もあるので暇があれば読んでください。


今回の記事は以上になります。

いままでありがとうございました。

追記:2016 /12 /14

勉強すればするほどブログの記事のネタが増えていく一方なので、最近ではまた記事の投稿数が増えていっています。
とくに、スピリチュアル系のネタは個人的な探求や研鑽の深みが増していく一方です。

これからも科学的な視点でスピリチュアルな事柄の検証(逆も然り)を自分の身体と人生をつかってしいくので、ブログの読者の皆さんにも有用な情報・視点を提供していきたいと思います。


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ドーパミンに関してのあれやこれ

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、ドーパミンに関する仮説を依存症と絡めて紹介します。


まずはじめに、

ドーパミンの作用は、作用対象の神経を活性化することです。

ドーパミンによる神経の活性化によって、感情・反応・思考・感覚・行動は強化されます。 

喜びの感情がが強化されれば、強い喜びを感じます。

パチンコが好きだという反応を強化されれば、パチンコに対してもっとずっと好きになります。

私の恋人はだらしないという思考が強化されれば、強く恋人のことをだらしないと思うようになります。

休日に100回バットの素振りをするという行動を強化されば、とくべつな意識的努力無くして素振りをするようになります。

神経の活性化は、活性化する神経がどのような神経につながっているかで、感情や反応や思考や感覚や行動などを強化します。

これは仮説です。

また実証されていないですが、dokubo_toshoはこの仮説を元に考察し現象を説明しようと思います。


依存症という物があります。

ここではわかりやすく、パチンコ等のギャンブル依存症を用いて説明します。

従来の研究では依存症を引き起こす脳内物質にドーパミンが挙げられているそうです。

曰く、ドーパミンは快楽物質なのでドーパミンがひこ起こす快楽で依存対象をやめられなく成ると。

しかし、dokbuo_toshoの展開する仮説でこの説明をちょっとだけ刷新します。

ドーパミンは単なる快楽物質ではなく、神経の活性化の作用を持つ脳内物質です。

依存症は、ただ気持ちいいからだけではなく「反応を強化される」事によって特定の行為に対する衝動や欲求を強化されてしてしまうから起こります。

ギャンブル依存症の方は、ギャンブルが好きで好きでしょうがないからというだけでギャンブルをやめられないのではないです。

ドーパミンによって、ギャンブルをするという行為を強化されてしまうことが原因だと思われます。

まずは以下の説明から。

人間は古来原始的な生活を送っていました。

狩猟や採集の生活で、生命の危機も身近でした。

たとえば、次のような状況があります。

あなたは、お腹がとても空いています。

もう何日もなにも食べていません。

何日も食料を探して草原を歩き回っていましたが、まったく食料が見つかりません。

そうしていたら、不意に何かいい匂いがしてきて、そこを目指して歩いて行きました。

そうしたら、なんと崖の向こうに沢山の葡萄がなった木があります。 

とても美味しそうです。

何日もなにも食べていないので、美味しそうな匂いに涎が止まりません。

しかしどうでしょう。

思いの外崖が深く、また、ブドウの木がなる場所へ行くには3Mとの幅をジャンプして向こう側へ飛び移るしかありません。

お腹が好きすぎて、今にも走りだして崖を飛び越えたい気持ちになります。

あなたはどうしますか。

3Mの崖を飛び超える事ができるならジャンプして飛び移りたいのですが、もし飛び越える事が出来なかったら崖に落ちて死んでしまします。

しかし、貴方は今まで3M以上の崖を飛び越えた事がありません。

3Mの崖を飛びえたら、目の間には食料。

飛び越えられなかったら、デッドエンド。

Food or Die.

選択しなければいけません。

そして、ここでドーパミンの登場です。

貴方は潜在意識は冷静に思案します、自分にこの崖が飛び越えられるだろうかと。

貴方の潜在意識は「出来る」と判断しました。

その確信は、脳内にドーパミンを放出してエネルギーレベルを高めます。

あなたの脳内は、出来るという確信と欲しいという衝動と手に入るブドウの甘酸っぱいおいしさへの強烈な期待でいっぱいです。
 
あなたの全身の細胞が「GO!!」を出しています。

貴方は、全身にエネルギーをみなぎらせて走り出します。

そうしたら、どうでしょう。

全身風とみなぎる熱を感じ、思い切って崖の端からジャンプしました。

「よっしゃぁああああああああああ!」

崖の先端を踏み切った瞬間を貴方は自分の勝利とできるという確信の正しさを確信しました。

そして、3M先の崖先へ飛び移り、勝利の余韻と興奮で意気を切らせます。

そのときには、もう先程の確信と衝動、強烈な期待は収まっています。

あなたは悠々自適にブドウを木からもぎ取りおいしく頬張りました。

しかし、どうでしょう。

もし、あの時「出来る」という確信が沸かなかったら。

それでも、崖を飛び越えられたでしょうか。

あなたの潜在意識が「出来ない」と判断したのに、崖を飛び越えようとジャンプしたら、もしかしたら崖から落ちて死んでしまったかもしれません。

というか、「潜在意識が出来ないと判断している」のにどうして「飛び越えられる思う」のでしょうか。

もし、潜在意識が出来ないと判断しているのに、ドーパンが放出され無理に飛び超ようとしたら、十中八九実際に出来なくて崖に落ちて死まうでしょう。

ドーパミンは、「出来る」と潜在意識が判断した時に、「衝動や欲求や反応を強化して、人間の身体を突き動かす」という役割を持っています。

「出来る」という確信。

そして、「手に入るかも」という期待。

「手に入れる」という欲求。

「手に入れてやる」という衝動。

そういったものを強化するのです。
 
少々話が長くなってしまいました。

簡潔にまとめると、ドーパミンは「感情や反応や思考や行動を強化」して、「手に入ると確信」しているものを手に入れるために「人間の行動をコントロールする」のです。

この仕組みがわかれば、依存症の仕組みも自ずと推測がつきます。

ギャンブルをしているギャンブル依存症の方は脳内でドーパミンがたくさん出て、「期待という反応を強化されている」のです。

そして、ドーパミンは快楽物質でもあります。

なので、ギャンブルに勝つかもと「期待」している時にドーパミンがたくさん出て「快楽を感じ」ます。

しかし、ドーパミンは本来「期待や確信や衝動を強化して」、「手に入れるための行動をおこさせる」ものです。

必然的に、「手に入る」ことではドーパミンは出ません。

というか、手に入った瞬間にドーパミンは出なくなってしまいます。

しかし、ギャンブルではギャンブルに勝つ寸前の「手に入るという確信がマックスに高まった瞬間」にドーパミンの放出は最高潮に達します。

さいごのさいごで、行動をやめさせないように。

ドーパミンは手に入るという確信が強いほど、強く放出されるからです。

しかし、「手に入る」ことではドーパミンは放出されません。

「手に入った瞬間」と「手に入る寸前のマックスにドーパミンが放出される瞬間」にはほとんど時差が無いために、多くのギャンブラーは「手に入る寸前の確信がマックスなる時に放出されるドーパミンの気持ちよさと」と「手に入ること」を間違って関連付けてしまいます。

そのせいで、「手に入ること」にとても執着してしまします。

それだけなら、まだよいのですが。

基本的に「ギャンブルをしている間の、もしかしたらギャンブルに勝つかもという期待」はドーパミンを放出させるので「勝つかもと期待することが気持ち良い」のです。

そのため、ギャンブル依存症の方は「勝っても勝たなくても、期待している間は気持ちいい」のと「ドーパミンが放出されて衝動や反応を強化される」のと「ギャンブルと間違って関連付けれた気持ちよさ」のせいでギャンブルがやめられないのです。

めんどくさいのですね。



ところで、あなたには叶えたい夢がありますか。

叶えたい望みはありますか。

スピリチュアル界隈で有名な某バシャールさん。

彼のメッセージの内容は驚くほど最新の脳や心理の研究と一致します。

彼の発言する「ワクワクする(exciting)」とは、まさにドーパミンとかかわってきます。

ワクワクするとはまさにドーパミンレベルが高い状態を表すことができます。

例えば、彼の発現にワクワクする事をしなさいと言っています。

基本、ドーパミンが放出される時の出来事は本人が無意識レベルで望んでいる事です。

自分が心から望んでいることをするのだから、やればドーパミンがでます。

ドーパミンが出てれば気持ちいいですし、心から望んでいる事には人間無意識レベルから情熱を注ぐことができます。

また、そのようなことは本人の得意分野や適性が高い分野であることがほとんどです。

すこし話が脇にそれます。

小説家になりたいと思ってドーパミンが出ているよう事ではあまり意味がなく。

実際に小説を書いてドーパミンが出ていることが重要なのです。

一言で表すなら、「小説家になりたい」という思考ではなく「小説家でありたい」という思考が重要です。

成るというのは一瞬です、その一瞬を想像して望んでも大したエネルギーはでません。

しかし、ある(在る)というは継続です、一瞬ではなく日常にしなければいけません。

「小説家になりたい」という時は瞬間の快楽に溺れているだけかもしれませえん。

「小説家でありたい」という時は、あなたは小説家になった後の日常を目指しています。

結果的に、後者の方が大量のエネルギーを必要とします。

「なりたい」という願望は実は自分の本心ではなく、社会やメディアに植え付けられただけかもしれません。

「ありたい」という願望は、心の底からの本心である可能性が高いです。

簡単にいえば、どんなに小説家になりたいと思っていも。

小説を書いている時にドーパミンが出ないような方は、小説家には向いていないということです。


 話は元に戻ります。


バシャールの発現の中に次のような話があります。

ワクワクする事をやりなさい。

貴方の心のそこからの望みは叶います。

しかし、タイミングは重要です。

自分の中にやれば出来るという確信が育つまでは機を伺いなさい。

以上のような発現は、先ほどのドーパミンの話に絡んできます。

ドーパミンは「できるという確信がある」ときに「本人の行動や感情を強化する」と述べました。

この確信というのは基本的に潜在意識がじっとりねっとり冷静に見つめてできると判断した時でなければ生まれませねん。

つまりバシャールはドーパミンの仕組みを知っていてこう言っていると思われませす。

あなたの心から望むワクワクする事(潜在意識レベルで好んでいて、ドーパミンが多量に放出される事)は 、出来るという確信がある時(潜在意識ができると判断して、多量のエネルギーを注ぐ準備ができた時)に、思い切ってやればうまくいきます(リミッターを解除して多量のドーパミンを放出して、全力でエネルギーを傾ければ、上手く行かせることが可能です)。



どうでしょうか。

かなり長い記事になってしまいました。

ところどころぶつ切りですが、今回の記事は以上にさせていただきます。

ではでは。




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最終的に素晴らしい場所へたどり着くというたしかな確信

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事、すこしばかりの自分語りをさせていただきたいと思います。

私の経験から皆様にすこしでも役に立つ情報を発信できればと思い、記事にしました。


私には幼少の頃より常に消えない感覚があります。

それは、「自分は最終的に素晴らしい場所へたどり着くという確信」です。

子どもの子からあるその感覚には、すでに小学生頃には気づいていました。

何故だかわからないですが、私には夜幽霊が怖くて震えている時にも、夕方に食卓で醤油の瓶をこぼして親からきつく叱られている時にも、子どもの頃の脚の成長痛がひどくえんえん泣いていた時も、常にその感覚が意識の背後にありました。

私は、気功や瞑想に興味を持ち始めたのは小学5年生くらいのころ親にパソコンを買ってもらった時ぐらいからでした。

その頃に軽い気功の呼吸法を試したり、意識を内側に向ける内省を素人ながら独学で練習していました。

その頃には、深く自己を内省していると自分の中に妙な感覚がると不思議に思っていまいた。

今ではそれがなんなのかはわかっていますが、当時はまだ奇妙な感覚程度の認識でしかなかったのです。



正直いって、私の青春時代は精神的な問題や人間関係の悩みが尽きなく、バラ色の青春どころか灰色の青春でした。

生来内気な性格から人に自分から話しかける事ができなかったため友人関係が発展しにくく親しい友人ができず、また昔からの友人と関係が徐々に薄れていき、基本的に善人だったので悪い遊び友達ができることもありませんでした。 

なので、私の青春時代は基本的に「一人ぼっち」ですごしていて、当時のはやりだった「ぼっち系ライトノベル」の主人公にはひどく共感した覚えがあります。

ただ、私の生来の性格や見た目からなのかは解りませんが、「人から嫌われる」と言うことは少なかったと思います。

それが、救いであり、だからこそ「もっと人と上手く関われたら、楽しいことや嬉しい事や悲しいことがあるのに」と思っていました。

「悲しいこと」と聞いてすこし不思議に思うかもしれませんね、当時の私は、毎日の中で「嬉しい事や楽しいこと」があまりないどころか「人間関係特有のいざこざや、ちょっとしたスレ違い」もあまりありませんでした。

なので、当時の私は、ひょっとした今もかも知れませんが「人間関係であれやこれやあること」に少しの憧れ、羨望のようなものがありました。

人並みの、「人間関係やそれに付随する楽しさや苦しみ」をあまり経験する事なく成長していったため、そのような経験が豊富な人たちとはちょっと違った感性を持つに至りました。 


また、当時の私(小学生~大学生くらいまで)は、自己不信の塊の様な少年で、自分が生きる事に他人とっての価値など無いと思っていました。 

今思えば、どう考えてもそんな人間ではなかったとは思うのですが、当時の私は「自分が自分であること」に対する圧倒的なコンプレックスがありました。

私は、そこら辺の歩いている普通のおじさんやお姉さん、歴史上の偉人に対してすべからく価値がある人間だという判断を下していた反面、「そんな価値ある人間の誰でもない、ある種ユニークで特殊な自分自身」というものをどうやって価値があると判断していいかわからなかったのです。

周りを見渡してみても、そこいらにいる人間に価値があることは明らかだと思えたのに、比べて「自分自身に価値がある」 と判断する根拠がないと思っていました。

「周りにいる価値ある人間の誰でもない自分」という理由で、つまり「自分が他人ではなく自分であるがゆえに」自分に価値があると判断できないと思っていたのです。

今こうして過去を思い出して整理してみたら、ものすごく特殊な考え方をする子どもですね、過去の私は。

なので、そんな自己不信の塊みたいな少年だった私は、中学生になったのを境に「精神的な問題、人間関係の問題、心理的な問題」を抱えるようになりました。

その為に灰色の青春(ちょっとですが友人ができたり交流はありました。全くのブラックな青春ではないですね)の送っていました。

そのため、なんとか他人とコミュニケーションを上手く取れるようになりたいと思うようになりました。



また、高校生の頃私は統合失調の診断を受けて抗精神病薬を服用していました(今も服用しています)。

今だから断定できますが、当時の私は「社交不安障害。および、対人ストレスによる自律神経失調症」だと思います。

しかし、当時の(今そうですが)精神医学は未だ未熟な学問で、また精神病の診断は職人技の様な、精神科医個人の能力にひどく依存したモノで、誤診などは少なくなったのです。

また、一度精神科の薬を自己判断でやめてしまったことがあり、その時の離脱症状で統合失調症の陽性症状のような症状が出てしまったことがあります。

精神科のセカンドオピニオンを受けたことあるのですが、社交不安障害の診断を追加されただけで特に誤診の判断はされていないです。

そのため、高校1年生の頃から未だに統合失調症の診断を受けています。


このような事を書くとこのブログの読者の方は情報を信頼性や私の人格を心配なされると思います。

しかし、そこは安心してください。

私の高校生の頃の統合失調症の診断理由は、ストレスからくる体感幻覚と視線恐怖が元になって誤診されたと思われ、統合失調症としてはほとんど症状のないごく軽いものと診断されています。

一度、離脱症状で妄想症状が出てしまったので、医者から強く統合失調症の判断をされているのだけなのです。

また、このブログの情報は「抗精神病薬服用時と離脱症状が起きた時の自己の内部」の徹底的な内省と論理的推論から導き出した脳機能の仮説と、大学で心理学や哲学や宗教を学んだうえで、人間と言うものについて科学の視点から解明したいと独学で学んだ内容からの、仮説と考察を「提案」しているだけなので、仮説の確度はかなり高いとは思っていますが、実証がされない仮説を事実として扱うような「非科学」態度を取るつもりはありません。

さらに今では自分の脳内で「ドーパミンが出ている感覚」「セロトニンが出ている感覚」を分別出来るようになっています。

そのような感覚を自覚できるので「ドーパミンが出すぎて妄想が強くなる」ような状態は起こりようもありません。

たまに、思考しすぎてドーパミンがかなり出ている感覚になる時はありますが、そういうときは素直に思考をやめて寝ています。

なので、どうぞご安心くださいこのブログはあくまで「自己内部の徹底的な内省と論理的思考、科学理論を元に導き出した仮説や考察」を提案するサイトです。

まあ、そこはいいのです。

置いときましょう。



そのような青春時代を送っていた私は、人とモットうまくコミュニケーションが取れたらいいなと思っていました。

その間、悩んで悩んで苦しんで苦しみました。

少し前の時代に比べて、現代社会では人とのコミュニケーションが上手く出来ないというのは致命的な弱みです。

私の親の世代では「寡黙な人間」というのは決してコミュ障等といった侮蔑な呼び方はされていませんでした。

しかし、現代社会では人とのつながりが細く限定的になっています。

そのため、あまりしゃべらないし自分からは話しかけられないという人間は他者との交流が非常に限られてしまします。

一昔前は「寡黙な人間」は別に「コミュニケーションを拒絶した人間」ではなかったのですが、現代では「寡黙な人間」を「コミュニケーションを拒絶した人間」と捉えてしまいがちだからです。

なので、「人が怖い」といのは非常にめんどくさい明確な弱みだったのです。

そのため、なやんでどうにか克服できないかと、心理学などに興味を抱くようになりました。

瞑想や気功、自己催眠、NLPもそういったことから興味を持った部分も少なく無いです。


大学在学期間中はに、離脱症状を経験して、卒業したものの就職できず専門学校に入学しました。

そして、色々な事がありましたが現在は結構立派に会社員をしています。



今まで、「失望」するようなことは沢山ありました。
 
小学生の頃からの自己不信。

中学生以降の「精神的、心理的、人間関係」の問題の悩み。

高校生の時の「統合失調症の診断」

大学生の時に「離脱症状による、妄想症状の経験」

他にも、家族が精神病にかかって入院したり。

その他諸々の小さな失敗。

しかし、一度も「絶望」はしたことがありません。

なんででしょうか。

それは、私の意識の後ろには常に「最終的に素晴らしい場所にたどり着くという確信」がある感覚があったからです。

どんな絶望的な事が起こった時も、常にその感覚がありました。

そのために、「絶望的」なことが起こっても決して「絶望」はしなかったのです。

私は幼少期からすごく内省的な性格で、自分の内側に目を向けていました。

そのため、その感覚があることは常に承知していました。

どん何辛いこと合っても、嫌なことがあっても、自分に自身がなくても。

常にその感覚があり、決して無くなることはありませんでした。

なので、どんなことがあっても、一度寝て朝を起きればに意識の中に確かにその感覚を感じました。 

そのため、絶望すること無く自分の問題や課題を向き合い続けるという態度が取れました。

そして、いまではコミュニケーションの問題や社交不安障害などの問題は過去のものとなっています。

だから私はいまではその「最終的に素晴らしい場所にたどり着くという確信」を確かなものだと確信しています。


そしておそらくですが、この記事を呼んでいる読者の皆様にも「最終的に素晴らしい場所にたどり着くという確信」が意識の中に存在していると思います。

おそらくそれは、存在質や魂が由来のものなのです。(急にスピリチュアルな話になっていしまいました、スピリチュアルに興味が無い方はしばしご容赦を)

人間は色々な経験をします。

つらい経験、楽しい経験。悲しい経験、夢のような経験。

どんな人生を送るのかは人それぞれです。

ですが、 全て人間は「最終的に素晴らしい場所にたどり着く」のが決定しているのでしょう。

それは、存在質から全ての人間が生まれたのが「素晴らしい経験」をするためだからです。

全く何もないただ「在る」としか言いようのない不可思議な場所から、全てが生まれました。

そして、生まれた全ての存在は「素晴らしい経験」をするために生まれました。

その生まれた全ての存在の内のひとつである貴方も「素晴らしい経験」をする事があなたという存在が始まった時から決まっているのです。

貴方がたが「素晴らしい経験」をするために大元の存在質はあらゆる存在を産み出しました。

故に「貴方が素晴らしい経験をする」事は貴方に義務付けれ運命づけられた決定事項なのです。

最終的というのがいつなのかわ判りません。

もしかしたら、3年後、半年後、明日、もしからしたら来生に持ち越しという事もあるかも知れません。

しかし、あなたという存在は絶対に素晴らしい場所にたどり着きます。

おそらくですが、そういうことになっているのだと思います。

あなたが深く自己を内省してれば気づくでしょう、貴方の意識の中に「最終的に素晴らしい場所にたどり着く確信」がある事に。
 
もし、貴方がつらい経験をしていたり、毎日が退屈だったり、今は思うように行かなくても。

その感覚を信じてあげてください。

その感覚を信じて、自分の思うように生きてみてください。

おそらく、それがあなたの人生を最高にするために、一番あなたにできることだと思います。

その確信を信じることができるとは言わず、感じる事ができるのなら。

あなた、決して絶望することなく人生を生ききることができるのだとおもいます。

その、確信を信じてあげてください。

おねがいします。

世界の全ての人が、その確信を信じることができるのなら、この地球上に楽園を築くことも決して不可能ではないのだから。 

そう思います。


では今回の記事は以上になります。

あなたの、人生に幸多からんことを。

ではでは。
 





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「波動を上げる」アファメーション。ただし使用上の注意をよく読むこと。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、スピリチュアル系で言われる「波動を上げる」ためのアファメーションの紹介です。


まずは、前提の説明から入ります。

このブログでは、「高次存在は周波数が実は低い」という説明をしています。

また、「物質の固有振動(周波数)と見かけの運動(観測できる速度)のエネルギーは互い交換される」という「固有振動数と見かけの運動のエネルギー交換法則」も他の記事で説明しています。

周波数=振動数ですので、高次の存在は「(通常の人間より)周波数が低くて、身体を構成する物質の見かけの運動は活発」である事がわかります。

さらに今回次に考察を新たに付け加えます。

身体を構成する描く粒子にフォーカスしたら固有振動は低いですが、人間の身体という大きなものにフォーカスしたら、各細胞の活動は活発で固有振動ののエネルギーが高いとも言えます。

身体の最小構成要素の粒子レベルの周波数が低く、見かけの運動によりエネルギーを使用しているという状態では、身体をユニットとした場合「身体の固有振動のエネルギーは高い」という状態になります。

高次の存在は、「粒子レベルで見たら、周波数が低いが、肉体レベルで見たら周波数が高い」という事になります。

ちょっとややこしいですが、そう理解してください。

一般のスピリチュアルな方たちは「肉体レベルの周波数が高いこと」を「波動が高い」と表現しています。

また、スピリチュアルでの周波数が高いという表現は「肉体レベル」での周波数の事を指すと思われます。

ただ、このブログでは「肉体レベルの周波数は厳密には周波数とは言わない」という事を踏まえて「高次の存在は(粒子レベルで)周波数が低い」「高次の存在は波動が高い」という表現をすることにしました。


前提が理解できたら、アファメーションの紹介です。

「私の身体を構成する全ての粒子の固有振動のエネルギーは、日に日に増々、見かけの運動へ変換されている」

上記のアファメーションはちょっと長ったらしいですが、かなり具体的に詳細に記述しているので効果はかなり高いです。

このアファメーションを毎日暇があればつぶやいてれば、貴方の波動は確実に上がります。

具体的には、細胞の働きが活発になり体温が上があります。

実際に私は、平熱が35℃だったのが36.5~37.0℃に上がりました。

大体アファメーションを初めて、半年くらいで体温が上がって健康になり、身体と精神の不調がなくなっていくのを実感しました。

上記のような事が起こる理由は次のとおりです。

身体を構成する粒子の見かけの運動のエネルギーが増えるということは、細胞を構成する分子の動きも活発になります。

結果、細胞の活動が活発になり、臓器の機能が活発になり、身体の活動が活発になります。

そして、身体の不調が消えていき、わかりやすいところでは体温が上がります。


注意としては、上記のアファメーションをやり続けていくと波動が高まり続けますので、人によっては身体が透明になるような自体が起こりうるということです。

理由は単純で、波動が高まった結果、身体を個性する粒子の周波数が低くなりすぎて、可視光を反射せず透過させてしまうからです。

このアファメーションを、スピリチュアル好きの感受性が高い方がひたすら続けていくと、アファメーションがかなり効いてしまい上記の様な自体が起こる可能性が結構あります。

もし、そうなってしまったら「病気や幻覚、妄想」を疑うかもしれませんが、波動が上がった結果起こりうる現象だと理解していれば「病気や幻覚、妄想」ではない事はわかるので安心できます。


最注意事項です。上記のアファメーションをする場合は以下の事準備段階を必ずやってください。

この波動を上げるアファメーションはやる場合は、「邪心(煩悩)や悪心(悪意)が全く無い」必要があります。

「邪心や悪心」が強い方が、このアファメーションを行った場合、瞑想でよくある「魔境に落ちる」事になります。

この「魔境に落ちる」は釈迦の悟りにおける「マーラの誘惑」、キリストの覚醒における「サタンの誘惑」と同一のモノです。

脳を開発したり、波動を上げて行く途中で誰もが起こりうる「自身に潜在する邪心や悪心の暴走」です。

古の聖者の覚醒や悟りの逸話では、この類の「〇〇の誘惑」というエピソードがよく有ります。

これは実のところ、「脳力や波動を上げる際に起こってしまいがちな、邪心や悪心の暴走」の事を当時の言葉で説明したものだと思われます。

聖者や覚者として覚醒したかったら、この「魔境に落ちる」は絶対に避けねばいけません。

例えば某カルト宗教の宗主や、残虐非道な事を行った独裁者などおそらく魔境に落ちたのであろう人が結構歴史上存在します。

釈迦などは魔境に落ちそうになった時に「マーラよ去れ!」と言い放ちマーラの誘惑(魔境に落ちる)をはねのけたエピソードが残っています。

あの釈迦ですら「邪心や悪心の暴走」には結構強く心を震わせ気合を入れる必要があったのです。

そこら辺の凡人の方がむやみに「脳力開発や波動を上げる」に手をだすと碌なことにはなりません。
 
私、dokubo_toshoも「魔境に落ちた経験」は一時的であれどあります。

私の場合は悪心なんてほとんどない人間のなのですが、邪心の方は結構あるほうなので魔境に落ちた際は結構危なかったです。

魔境に落ちた結果、向精神薬が必要になったこともあります。

私としてはこの一時的であれど魔境に落ちた経験があったおかげで、「自分の心理状態や自己の感覚を徹底的に観察して冷静なる」ことを身につけたので、今のこのブログでの情報発信ができるのですが。

某カルト宗教の宗主のような魔境の落ち方をしたら、どうしようもなくなるところでした。

そこらへんの凡人だった私は悪心こそほとんどなかったですが、邪心や煩悩をそこそこ大きかったせいでそうなりました。

なので、みなさんが「波動を上げる」アファメーションをするには、準備段階として悪心や邪心を徹底的に弱くする必要があります。

悪心をなくす方法は色々あります。

メジャー所では、仏教の「慈悲の瞑想」 や「オポノポノ」などがあります。

邪心をなくす方法は大きく分けて2つあります。

「(瞑想やアファメーションなどで)前頭前野を鍛えて理性を発達させる方法」と「(NLPや内省などで)ビリーフシステムを変えて邪心を弱める方法」の2つです。

悪心(悪意)の方が基本的に全く無いほうが良いのですが、邪心(煩悩)の方はあまりなくなりすぎても人生が面白くなくなります。

なので、邪心に関しては全くなくなるレベルでなくとも問題ないです。

しかし、悪心は一切なくなるレベルまで持って行って下さい。

少なくとも、悪心がちょっとでもある状態で魔境に落ちたら「とんでもなくヤバイこと」になります。

自分の中に悪意がちょっとでもあるという人は波動を上げるアファメーションは絶対にやらないでくださいね。
 
色々死ねますよ。 



如何でしたでしょうか。

「波動を上げる」アファメーション。ただし使用上の注意をよく読むこと。

このアファメーションはちゃんと効きますので、注書きをよく読んで自分の準備が整ったら試してみてください。

某カルト宗教の宗主見たくなりたくなければ細心の注意を払って行うべきですね。

では以上になります。




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願望実現でお金を稼ぎたい時の注意点

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事では、願望実現方でお金を稼ぎたい方へのちょっとした注意点をまとめました。

 
潜在意識を使った願望実現法はインターネットや本でその効果を用いて実際にお金を稼いでいる人がいるという噂や実体験から、最近はそれを使って稼ぎたいという人を増やしています。


「私は〇〇万円かせいでいる」とか「年収〇〇円を稼ぐのは当然だ」とかそういうアファメーションを使ってお金を稼ぐことができるという話など色々あります。

私はその話には基本的には同意しますが、まるで説明が足りていないとも思います。


単純に毎日アファメーションしているだけでは効果がないこと。

お金を引き寄せるのではなく、自分がお金に引き寄せられるという前提が説明されていないこと。

人間は必ず、やりたいことと、それに必要なコスト(労力・時間・お金・意欲)を天秤にかけるということ。

やりたいことをするために払うコストを払うことを選択するか、という視点がかけていること。

お金を手にするには、お金が自分の元にやってくる「経路」が必要なこと。

皆さん意外に今の生活に満足しているということ。 



まずは、 「単純に毎日アファメーションしているだけでは効果がないこと」への説明です。

アファメーションの効果は基本的に自分自身にしかききません。

アファメーションしても、自己の外部の何かが変わることはありません。

自分が変わるので、その自分を起点に外部へ影響力が漏れ出ることで外部を変えたように見えるだけです。

また、自分自身の認知のフレームワークを変えることや自分の思い込みによる能力発揮のリミッターを外すこと。

そして、自分の潜在意識を変えることで原始的で生理的で自動的な「感情や本能の力」を願望実現へ使えるようになります。

意識的な努力を超えた、自動化された潜在意識の力を上手く使えるようになると、「努力しなければいけない」というような意識が必要なくなるのです。

そのため、アファメーションを毎日していても「自分が変わる気がない」「そもそも、自分から何かしようとは思えない」方には全く無意味です。

アファメーションの効果を発揮して自分が動いて何かを為したいという方には効果的なのですが、アファメーションをしていれば勝手にお金が手に入ると思っているような方には無価値なモノです。


次に、「お金を引き寄せるのではなく、自分がお金に引き寄せられるという前提が説明されていないこと」の説明です。

基本的に「引き寄せの法則」は、自分のほしいものを自分の方へ引き寄せるという理解の仕方をされます。

しかし本当は、自分のほしいものへ自分を引き寄せる(自分が引き寄せられる)のが実体です。

宇宙に存在する自然法則でなく。

宇宙に存在する人間の脳というシステムの運用法則です。

身体の一部は身体です。

必然的に宇宙の一部も宇宙です。

人間の脳も、社会に存在する経済システムも、そこらへんの道端に落ちている犬のウンコも、全て宇宙です。

引き寄せの法則が宇宙の法則と説明される時に、なんだからよくわからない深淵で不可思議な法則だと勘違いしている方も多いです。

しかし、実社会に存在する経済システムが宇宙の一部であり宇宙であるならば、経済システムを効果的に利用して豊かになることも宇宙の力で豊かになることと何ら相違がありません。

というか、経済的に豊かになりたかったら、経済システムを活用するしか方法は無いでしょう。

引き寄せの法則は、宇宙の一部である人間の脳や社会システムを利用して自分が欲しい物へ自分を引き寄せていく「テクニック(技法)です」

で、基本的に脳を持っていない人間は居ませんので、「引き寄せの法則」は 「全ての人間へ常時適用されている法則」です。

決して「よくわからない深遠な宇宙の自然法則」ではありません。

これを理解していないと、引き寄せの法則やアファメーションによる願望実現は全く効果を発揮しません。


つぎに、「人間は必ず、やりたいことと、それに必要なコスト(労力・時間・お金・意欲)を天秤にかけるということ」の説明です。

質問します。

今貴方が、一番欲しいと思っている物が目の前にあるとします。

もしそれが、「100億円」支払わなければ手に入らないとしたら、それでもほしいですか?

100億円稼ぐ事の大変さと、今一番ほしいものが手に入ることの喜びを天秤にかけてどう感じますか?

もし、今働いている会社で出世するのに、きらいな上司とセックスすることが絶対に必要だとしたらあなたは出世したいですか?それとも、そんなことしなきゃいけないなら別に出世したくないですか?

どんな人間も意識では、あれが欲しい、ああなりたいと思っていますが、それを実現するのに必要なコスト・実現した後に維持するコストを無意識に天秤にかけています。

漫画家になりたいと思っている少女がいるとします。

彼女は、漫画家になりたいとは思っていますが、「毎日、8時間机にかじりついて、ひたすら絵を描いて、締め切りに追われ、読者の人気に収入を左右され、安定的な収入ではない、全然ワクワクしない事務やお金関係の作業と、ワクワクはするが期待したほどではない漫画を描く、すごく日常感にあふれた生活」をしたいとは思っていません。

漫画家になりたいとは思っているのに、無意識では「漫画家になった日常」を好んでは居ませんというか嫌がっています。

どころか、絵を描くのは好きだけど「流石に一日8時間も書き続けるのは嫌、他にもしたいことあるし」と思っています。

彼女が漫画家になる可能性は限りなく低いでしょう。

このように、意識ではなんとなくなりたいしたいと思っていても、よくよく考えたら「それに見合うコストを払うのは嫌だ」という事は往々にあるのです。

願望実現法は、「願望が勝手に叶っている」のではなく「(自分が)願望を勝手に叶えている」という類のものです。

必然的に、それなりの対価は払います。

願望実現法を毎日頑張っても、それに見合うコストを支払う事を嫌がっていれば、結局貴方は願望をそこまでか叶えたくはないし、(そんなコストを支払うなら)叶わなくてもいいと思っているのです。



次に、「 やりたいことをするために払うコストを払うことを選択するか、という視点がかけていること」


アファメーションが上手く言って、大金を稼ぐのは難しくない、やり方さえ工夫すればできる。

というビリーフシステムを獲得できたとします。

しかし、その上で「でも、ここまでのコストを払ってまで叶えることではないかな」と思ってしまうことは沢山あります。

ビリーフシステムを変えて、自分には無理だとは思わなくなっても「払うコストが全くなくなる」ことは無いです。

ハードルが下がっても、下がったハードルはまだまだ高いことは沢山あります。

結局、「支払うべきコストを支払って願望を実現する」ことを選択するかはその人の意欲や能力次第です。

やはり、能力の高低で支払うべきコストは増減します。

能力が低い人は能力が高い人に比べて、多くのコストを払う必要があるでしょう。

別に必要コストを払えば願望は実現するでしょう。

ですが、やっぱりコストが高すぎるということはあるのです。

能力や才能のあるなしは嘆いても意味が無いですし、そもそもそういったものは前世から積み重ねも多々あるとおもいます。(前世云々は色々と議論があると思いますが、今回はスルーします)

才能のあるナシは、全く関係なくだれでも願望実現は出来ますが。

支払うべきコストは人それぞれなのです。

結局、そこまでの情熱がないということになるのでしょうね。

 

次は、「お金を手にするには、お金が自分の元にやってくる「経路」が必要なこと」についての説明です。


アファメーションでビリーフシステムを変え、何が何でも叶えたいという「コスト支払う覚悟」も出来たとします。

それでも、お金が勝手に降ってくると言うことは基本的な無い(稀にあるけど)ので、お金を稼ぐ方法を作る必要があります。

スピリチュアルの世界では「お金はエネルギー」という考え方があります。

エネルギーが自分の方に向かってくるには、「エネルギーの流れる経路」が絶対必要です。

その「お金が流れる経路」はお金を稼ぐ方法であり、お金を生み出すシステムです。

多くの社会人は、企業に勤めその会社からもらうお金で生活しています。

この場合、エネルギーが流れる経路がひとつしかありません。

これじゃあ、エネルギー(お金)は流れる経路がなく詰まってしまいます。そして、詰まった結果腐ってしまいます。

なので、お金を稼ぎたかったらお金が流れる経路をいくつも持つ必要があります。

うまいやり方なら、経路の幅が広くひとつで十分かもしれませんが、そうでないそんなに幅が広くない経路なら2、3どころか10、20作っても良いと思います。

つまり、お金を稼ぐ手段を複数持てば、複数の経路からお金(エネルギー)が入ってくるので、そこそこ稼げます。

とりあえず、この段階まできたら仕組み(経路)を2、3試しに作ってみることをおすすめします。

多くの人が、お金を稼ぐ経路を複数持てば、もっと経済も良くなると思いますね。(循環的な意味で)


最後に、「皆さん意外に今の生活に満足しているということ」です。

皆さん、結構今の自分が支払うコストと受け取る対価のバランスを気に入っています。

気に入っているので、いくら口で年収5000万円になりたいとか思ったとしても、今の居心地がよいので動きたくないのです。

それだけです。


如何でしたでしょうか。

願望実現でお金を稼ぎたいと思う方に対しての、ちょっとした注意点をまとめてみました。

私の場合、大金を稼ぐのは無理だとはもはや一切思っていませんが、それに見合う対価を払う意欲があるかどうかやはり別問題で、ふつーに会社員やってますよ。

やはり、夢を叶えた人や成功者は「それなりの対価を払っています」からね。

自分の夢を叶えるための対価は支払うことにためらいはないのですが、「大金を稼ぐのに多くのエネルギーを使う」のは結構めんどくさいですね。

将来的にはそれなりに大金を稼ぐつもりですが、今まさに大金を稼ぐために集中してエネルギーを注ぐつもりはないです。

そんなものです。

ではまたべつの記事で。



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健康の妙。西洋と東洋。ボトムアップとトップダウン。科学と宗教。そして統合科学へ。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事では、人間の健康に関して、二種類の仕方でアプローチをする事を提案したいと思います。


この地球には、古来から連綿と続く学問体系や論理体系が幾つもあります。

例えば、西洋の古くは哲学から端を発し、中世においての錬金術もその発展の一助を担った西洋科学体系。 

中国で古くから伝わる道教、そこから生まれた導引術や気功。

古代のインドから連綿と続く、ヨーガ。

釈迦の時代に生まれて現代まで残っている、仏教。

東洋各地にある密教各種

西洋の占星術。

西洋科学より生まれた、心理学や催眠術。


そして、現代において人間の健康に関しては二種類のアプローチが存在しているといえます。

西洋医学の大部分と東洋医学の幾つかの領域において重要視される、 「身体の外部からの働きかけ」で健康を目指す、ボトムアップ・アプローチ。

導引術や、気功、ヨーガなどの東洋の非科学論理体系、西洋において近代から発展してきた心理学、催眠術、NLPなど、「身体の内側からの働きかけ」で健康を目指す、トップダウン・アプローチ。

(ボトムアップやトップダウンという用語の使い方はこのブログ独特なものなので、正式な学問用語ではありません)

ボトムアップ・アプローチ は主に、食べ物や薬を身体の外部から取り込み、あるいは手術などで身体に外部からメスをいれたりして働きかける事により、不調な部分を取り除いたり、緩和したりします。

トップダウンアプローチは主に、思考やイメージ、あるいは特殊な意識状態や内部状態を用いて、身体の内側(主に脳の働きによって)から身体に直接働きかけて、身体本来の機能を用いて不調な部分を正常にも戻したり、回復させます。

西洋では伝統的に科学体系の発展に伴い、ボトムアップ・アプローチが重視されてきて、東洋では古くから宗教や密教などで用いられてきた、メスや薬いらずのトップダウン・アプローチが連綿と受け継がれてきました。

しかし、最近では西洋も、心理学、認知科学、催眠術などの研究の成果でトップダウン・アプローチが取り入れられ。

東洋でも、科学によるトップダウン・アプローチの研究がされ既存の体系にボトムアップ・アプローチを取り入れられてきたました。


現代において、トップダウン・アプローチとボトムアップ・アプローチは、人間の健康を維持、向上するために欠かせない生活の両輪になってきています。

健康を維持するために、栄養学や五行理論による、食事やサプリメントを摂取して。科学的アプローチで運動を取り入れ、気功や瞑想で心身の整調を図る。

怪我や病気になれば、必要であれば薬や手術で直せばいいし、基本的にトップダウン・アプローチで身体の不調を取り除いておく。

整形手術や無理なダイエットではなく、アファメーションや催眠術や気功、それと適度な運動と食事で美しさと若々しさを保つ。

そういった事が非常に重要になってきています。

先進的な人やいち早くトップダウン・アプローチ旨味に気づいた合利主義の人は、すでにそういったやり方に馴染んでいるでしょう。

しかし、未だボトムアップ・アプローチだけを信じたり、トップダウン・アプローチだけやっていれば病気には成らないというような態度をとっている方もいます。

重病を患う方が、西洋医学の手法をきらい東洋医学や民間療法のみで病気を治そうとして、治らず亡くなってしまう。

催眠や、NLPや気功など全く知らないダイエッターが無謀な最新の研究の成果の○○ダイエットに挑んではリバウンドを繰り返す。

精神病を薬だけで治そうとしたり、逆に重度の症状が出ているのに薬を嫌って入院するはめになる。

そのような方は、ボトムアップ・アプローチとトップダウン・アプローチの片方だけを何故か極度に嫌っています。

しかし、この2つはまさに両輪で片方だけでは上手く行きません。

これからの時代は、おそらくトップダウン・アプローチに属する、気功や瞑想、ヨーガ、催眠術などがボトムアップ・アプローチで同様に医療の現場で台頭することになり、その恩恵を受けてボトムアップ・アプローチもますます発展して行くでしょう。

最終的には、科学体系の中で両アプローチが統合されてひとつの学問体系の中で矛盾なくまとめられることでしょう。

そうなればもはや、トップダウン・アプローチとかボトムアップ・アプローチなどと区別する必要ない、統合科学的アプローチというものが出来上がるのではないでしょうか。

私、dokubo_toshoが目指しているのは、まさに「統合科学」です。

東洋的の神秘的や宗教的なものや現時点での科学を盲目的に信じたり否定するのではなく、矛盾を解消しすり合わせて、より確かな統合的な理論を築きたいのです。

このブログのタイトルに「統合科学」を入れようかと思ったこともあるくらいには、最初から「統合科学」を目指しています。

そして、言葉そのものが広がるかは解りませんが、あと数年十数年もしない内に「統合科学」のコンセプトが世界で広まっていくのはすでに確信しています。

みなさんにも、科学やスピリチュアルや気功や瞑想や、催眠術なども「統合科学」的視点で捉えて判断することをおすすめします。

色々と捗りますよ。


では今回の記事は以上になります。

ではでは。




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思考の技法としての、限定条件化。あれはあれ。それはそれ。

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、久しぶりに思考の技法を紹介したいと思います。

今回の思考の技法は、限定条件化です。

物事を一般的な状況、つまり条件が限定されていない状況で成立するのか、限定されたある特殊な条件でのみ成立するのを判断するため、徹底的に物事が成立する条件を限定していって考えるのです。

上記の説明ではわかりにくいので卑近な例を挙げます。


A男さんは32歳のITベンチャーの社長を務める男性です。

彼まで32歳までに、30人の女性との交際経験があります。

すべては、彼からではなく女性の方から告白をされています。

その全ての女性はわかれる際彼の方から別れを告げて別れました。


どうでしょか、A男さんは30人の女性と付きあったなんてすごいモテますね。

では、質問です。

A男さんは女性にモテるど思いますか?それともモテないと思いますか?

少し考えてみましょう。

気になるのは、女性にモテるという表現です。

「女性」という表現はかなり抽象的です。

女性の中には、女子小学生も、女子中学生も、女子高生も、女性大生も、OLも、専業主婦も、ゲートボールス好きのおばあちゃんも、サバンナでライオンかる部族の方もいらっしゃいます。

ちょっと、範囲が広すぎると思いませんか。

女性のモテるといったときに、女性という集団の全体から行為を向けられる印象を受けますが、実際はそんな事ありません。

A男さんが交際した経験があるのは、たった30人です。

30女性と付き合って、女性にモテるというのはいささか大げさでしょう。

A男さんがどんな女性と付き合っていたかを分析して、女性という抽象的で一般的な表現をすこし条件を限定して表現しましょう。

A男さんが付き合った女性の内、15人は小学生です。

3人が、高校生。

7人が、大学生で、5人が社会人です。

6人がヤンキーです。

24人は非ヤンキーです。

30人全員が大阪の出身です。

どうでしょう、ちょっと適当なきらいがありますが、上記の分析を読んでどう思いましたか。


A男さんが女性にモテると思いましたか、羨ましいですか? それともそんなに羨ましくないですか?

第一印象として、小学生がかなり多いのが気になります。

おそらく、幼少期にとても持てたのでしょう。

それ以降もかなりモテていますが、ピークは小学生くらいなのでしょう。

付き合った女性の6人がヤンキーです。

もしかしたら、A男さんはちょっとやんちゃな方なのかもしれませんね、

一番気に成るのは、30人全員っが大阪の方です。

A男さんは大阪在住の方なのでしょうか、それとも必ず大阪の人と付き合う運命にでもあるのでしょうか。


これだけ分析したら、すこし先ほどの条件を限定化出来そうですね。

A男さんは、大阪の女性にモテる。

ですが、まだ大阪の女性というのは抽象的です。

しかし、これ以上細かい分類も難しいので別の箇所を修正しましょう。

「A男さんは、大阪の女性にモテる」ではなく、主語をひっくり返して「大阪の女性にはA男さんを好きなる人が、それなりにいた」 とでもしましょうか。

どうでしょう。

最初のエピソードを聞いて、A男ってやつは女性にモテるやつなんだなと思った方も、上記の表現ではA男さんの「なんかすごい奴オーラ」が薄れて、「ちょっと運のよい奴」程度な気がしてきませんか。

「A男さんは、女性にモテる」という判断が、「大阪の女性にはA男さんを好きなる人が、それなりにいた」という判断になると、A男さんにたいする印象や今後の態度がちょっとかわるかもしれません。

では次のサンプルを観てましょう。


あなたは、20歳で大リーグにデビューして10年エースピッチャーとして活躍した天才ベースボールプレイヤーだとしてます。

30歳を過ぎたあなたは、肘を痛めて早々とプロを引退して今では休日に甥っ子の野球チームのコーチをして、平日は近所のスポーツジムでトレーナーとして務めています。

いつもは野球の練習を観ていますが、今日は新入部員がはいってきたのでちょっとしたレクリエーションでサッカーの試合をやることにしました。

いつも練習している野球ではなく、みんなあまりやったことのないサッカーをすることで上手い下手関係なく新入部員と既存の部員が分け隔てなく交流できると思ったのです。

そこであなたは、ずっと野球ばかりやっていてサッカーなんてしたことがないので遊び心で子どもたちと一緒にサッカーをしてみようと思いました。

しかし、どうでしょう。

サッカーをやってみて、リフティングは一回も出来ないし、ボールがまっすぐ飛びません。

ならばと、ゴールキーパーをやってみましたが、意外とボールが怖くてうまくブロックも出来ません。

子どもたちからバカにされていまします。

「コーチ、サッカー出来ないのー?」「ヘタくそー」「コーチって意外と運痴じゃない?クスクス」

あなたは憤慨します。

「いやいや、だって生まれて初めてサッカーやったんだぞ、上手くなくて当然じゃないか!」 

この時、子どもたちも同じ間違いをしています。

一般化の誤りです。

限定された条件で考えるべきところを、一般化して考えしまいます。


先ずは、子どもたち。

コーチは元野球選手です。サッカーが上手いかどうかは解りません。野球選手は野球がうまい人達です。運動が上手い人を指しません」

次は、あなた。

生まれて始めてやって、普通にうまい人も結構居ます。自ら上手く出来ないのを一般的なものとして捉えすぎています。 

野球をずっとやってきてサッカーを全くしてこなかったら、サッカーの練習していないのでサッカーは上手くなくて不思議じゃないですが、全くサッカーをしたことがないけどサッカー全然下手くそじゃない方も結構居ます。



私たちは、ともすれば物事を広く一般的に成立するものとして表現しがちです。

しかし、多くのことは一般化するとまるで正しくないということになってしまいます。

物事を成立する条件を限定化する、つまり限定条件化することは物事を正しく見ることにつながります。

それは他者(本やインターネットでも)が一般的に通用することとして表現したことに着いてもあてはまります。

また、他者が何かを主張する場合、必ず主張する本人が想定する様な特定の状況や対象に向けて放たれています。

それらは本来なら限定条件化して正確に表現・主張するべきです。

例えば、「日本人は考えすぎの傾向にある」という主張や「日本人は思考停止という病に陥っている」という主張があるとします。

それらは、どちらも部分的には正しいですが、どちらも表現が正確ではないため主張がぶつかって対立を起こしています。

これら2つの主張がどちらも正しいとすることは論理的に矛盾するので、主張する人同士が喧嘩してしまいます。

ですが、限定条件化する事によりどちらも主張も理があることが分かり、主張が対立しなくなります。


限定条件化すれば主張は以下のように変化します。

「日本人は考えすぎの傾向にある」

→「日本人の中には考えすぎの人間が多くいる、私の主張はそのような人に向けて放たれている」

「日本人は思考停止という病に陥っている」

→「日本人の中に思考停止に陥り、問題を直視できない人が多くいる、私の主張はそのような人に向けて放たれている」

上記の様な表現になれば2つの主張はまるで対立せず、どころか互いに足りないところを補う関係にすらなります。

しかし、そういった主張は、ちょっとぐらいセンセーショナルな方が売れたり、過度に断定的な方がそれを必要する人に刺さるため限定条件化されず放たれます。

そのため、本のタイトルやキャッチコピーは、限定条件化せず過度に一般化された断定的な表現になってします。

多くの方はそれが「(本当は違うけど)過度に一般化された断定な表現にあえてしているだけ」とちゃんとわかっているかとは思います。

しかし、それが理性的に考えれば分かるものでも、普段からそのような表現を使っていれば読む人見る人の無意識に影響を与えます。

また、そのような表現で書く人の無意識にも影響を与えます。

自分の主張が誰にでも当てはまるようなものだと感じ、自分の主張に当てはまらない人からの批判を過度に嫌います。

自分が、過度に一般的で断定的な表現で書いてしまったのだから、それにあてはまらない人から「それはちがんじゃない」と言われたとしても、それが「なんら憚ることのない正統的な批判」だとわかるはずのですので「怒ったり、逆上したり、攻撃したりする」必要は全く無いはずです。本来ならば。

しかし、自分が(例えば出版社からの要求や、自分で空気を読んで書いたとしても)一般的で断定的な表現で書いてしまっているため、無意識に「自分の主張は間違っていない、批判される謂れはない」と感じるようになってしまいます。

また、自分の主張が一般的なもものではなく、限定条件化されるべきものだと分かっていないで主張する人も居ます。

そのような人の主張は、読者みずから限定条件化して考える必要があるため主張を理解する時に疲れます。

そのために、多くのあまり頭をつかうことに慣れていない人は、限定条件化せず一般的なものとしてとらえ理解してしまいます。

また、たまに知識層の方が一般の方をバカにすることがあります。

それは、知識層の方が想定する一般の方が、「本などの情報に触れる時に、自分で限定条件下できない、頭を使うことに慣れていない人」なのだからではないでしょうか。

多くの本は過度に一般的で断定的な表現で書かれています。

そのために、読む方で一般的で断定的な表現を限定条件化しなければならないので、そういった頭の使い方に慣れていな人が本を読んでも、悪い影響を受けることがあります。

子どもうちは誰しも、限定条件化は得意ではありませんので大人になる過程で練習して身に付ける必要があります。

本やインターネットの情報だけではなく、普段の人付き合いでも限定条件化は鍛えることはできます。

しかし、一番手っ取り早いのは多くの互いに異なる主張の本を沢山読むことです。

そうすれば誰しも限定条件化は身に付ける事ができますが、それらを経験しない人はやはり身につけるのが遅いです。

50、60歳になっても身に着けていないという場合も起こりうるのです。



色々とだらだら書いてしまいましたが、「限定条件化」の重要性をお解りになられたのではないでしょうか。

限定条件化は、物事について考える時にその物事が成立する条件を徹底的に限定して考える、という技法です。

そして、一般的な表現の仕方をされている物事について、その物事が成立する条件がを限定して表現をし直す、ということでもあります。

限定条件「化」とあるように、技法としては後者の重要性が高くなるかと思います。

単純に、自分の主張や考えを過度に一般化しないということに留まらないのです。

物事を過度に一般化して考えないということは、様々なところで言われています。

ただ、すでに一般的なものとして表現されたものを一般的でない表現に変える、ということはあまり言われていないと思います。

そこが技法としての「限定条件化」のポイントになります。


限定条件化を使用することで、色々と捗りますよ。

今回の記事がやたら長くなってしまいましたので、もう終わります。

ではまた別の記事で。




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傷つくことが出来る勇気

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、失恋や愛する人を失った時、夢破れた時などに傷つくことが出来る素晴らしさについて書きたいと思います。


失恋して傷ついている人に対して、「いつまでもめそめそするんじゃない!」と怒るシーンが昔のドラマや漫画にはよくありました。

男の人が失恋して傷ついて悲しんでいることを「女々しい」といって嫌ったりバカにしたりする風潮があった時代です。

しかし、私は今回の記事ではあえて「傷つくことが出来る勇気」の重要性を説きたいと思います。

なぜなら、失恋したり、愛する人を失ったり、夢破れた時に傷つくことが出来る人は、「恨んだり、逆恨みしたり、好意が反転して憎んだりすることがない人」だからです。

そもそも、「恨んだり、逆恨みしたり、好意が反転して憎んだりする」のは、ちゃんと傷つくことが出来ないから起こるのです。

戦争が起こり憎しみの連鎖が起きるのも、恋人にこっぴどく振られて悪質なストーカーと化すのも、夢破れて夢を叶えた人に対してひどい憎しみを持つようになるのも。

全部、ちゃんと傷ついて悲しむ事ができないからなのです。


では、なぜ人はちゃんと傷つくことが出来ないと「恨んだり、逆恨みしたり、好意が反転して憎んだりする」用になるのか説明します。

失恋したり、愛する人を失ったり、夢破れて時に、恋人や愛する人や夢への愛情や好意が残っているから、それを失うことが出来ないから「恨んだり、逆恨みしたり、好意が反転して憎んだりする」のです。

傷つくということは、心理的にとてもつらいことですが、人は傷ついた後はどれだけ時間がかかるかは解りませんが、必ず立ち直ります。

そして何故立ち直ることが出来るかというと、それは愛情や好意が時間ともに薄れ時を経て過去の思い出にすることができるからです。

なので、傷つくことは「愛情や好意を薄れさせ、過去の思い出にする行為」であり「とても心理的に辛い出来事」でもあります。

そして、傷つくことが出来なくて、「恨んだり、逆恨みしたり、好意が反転して憎んだりする人」は「愛情や好意を薄れさせ、過去の思い出に出来ない人」か「とても心理的に辛い出来事に耐えられない人」なのです。

人は、どんなに辛くて悲しい出来事が起きても「ちゃんと傷ついて、悲しんで、めそめそする」ことができればどれだけ時間がかかってもちゃんと立ち直ること出来る生き物です。

というか、辛く悲しい出来事があったら「ちゃんと傷ついて、悲しんで、めそめそして」、「愛情や好意といった執着を手放していかないと」人は前に進めないのです。

「恨んだり、逆恨みしたり、憎んだりする」時には、愛情や好意がずっと元の大きさまま残っています。

そして、その大きすぎる愛情や好意がぶつけどころがなくなり、持て余してでも捨てられない時に「大きすぎる愛情や好意」が、恨みや逆恨みや、憎しみという形で出力されてしまいます。 

恋人にこっぴどく振られて失恋した人で、次の恋人と幸せになることができる人の元恋人への愛情はやっぱり薄れています 。

夢破れて、過去の夢を追った時代の思い出を語れる人はやっぱり夢を叶えることへの執着は薄れています。

戦争で、愛する人を失っても戦争した相手国を憎んだりしない人は、愛する人との日々をちゃんと思い出に変えられた人です。 

プライドの高さのあまり傷つことが出来なかったり、そもそも傷つく辛さに耐えられなかったり、愛情や好意を薄れさせるを極端に嫌ったりすると、恨み心や憎しみに変わってしまうのです。

以上が、ちゃんと傷ついて、悲しんで、めそめそして、そして愛情や好意をすれさせちゃんと思い出に変えることが出来ない人が恨んだり、逆恨んだり、憎んだりする理由です。 


私は、辛く悲しい出来事があったらちゃんと傷ついて、悲しんで、好きなだけめそめそしたらいいと思います。

ちゃんと傷つくことが出来る人は、恨んだり、逆恨んだり、憎んだりしない、傷つくことが出来る勇気を持った人です。 

なので、辛く悲しい出来事があったても無理に強がらず、すなおに傷ついて悲しんで、めそめそすることをしたらいいと思います。

他人何を言われても、それができる貴方は傷つくことが出来る勇気をもったすごい人なのですから。


今回の記事は以上になります。

今回の記事を書いている時に、アイドルの好意を持ってプレゼントをしたらすげなく断られ逆上してナイフで殺害しようとしたというニュースが流れていました。 

もし、その犯人がプレゼントを断られてもちゃんと傷つくことが出来る人だったなら、決して逆上して殺そうとはしなかったでしょう。

プライドが高すぎたせいなのかなんのかはわからないですが、ちゃんと傷つくことが出来ない人はこういった犯罪を犯しやすいとは感じました。

その犯人が警察に逮捕された後にちゃんと傷つくことができれば、反省なりなんなり出来るのでしょうが、傷つくことを拒絶して恨んだり憎んだりするようならそれも難しいのかもしれません。

このような犯罪を裁く人は、その人が反省しているかどうか被害者や警察を逆恨みする可能性がないかどうかは、反省の言葉を口にしているかどうかより、その人がちゃんと傷ついているかどうかを見たほうが良い気もします。(もちろん、それだけ見てもしょうがないですが)

ではでは。

 

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今貴方が一番好ましいと思っているものは実は一番貴方に好ましくないかも

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事のタイトル「今貴方が一番好ましいと思っているものは実は一番貴方に好ましくないかも」は時たま見かける、そしてdokubo_tosho自身も経験した人生の罠についての記事。


最初に、私の経験を語ります。

私、実はうんと小さい頃は、非常に素直を真面目で優しい子どもだったのです。

人の話は素直に聞いて、いつもにこにこしていて、でも内気で小心者で、全くひねくれてない子どもだったのです。

そんな私は、小学校の朝礼の校長先生の言葉や、大人の言う「品行方正に清く正しく」とか言う言葉を聞くのが非常に好きでいつもスンスン聞いていたのです。

私は、子どもの頃から非常に素直で真面目でした、しかし、そんな私は周囲の大人の話をよく聞いて非常に賢く真面目で品行方正になったと思ったら全く違います。

今では、非常に論理的で理性的、人の言葉を鵜呑みにせず他人から一歩引いた距離から観察するような人間になりました。

何故そんな人間になったかはそれまでの経緯を知れば納得されると思います。

簡単です、周囲の大人や人の話を素直に真面目に効きすぎて、精神を壊したからです。


子どもの頃の私は非常に素直で真面目でした。

なので、周囲の大人の「品行方正、人に優しく、ルールを守り、不正を許さず、強く、たくましく」を素直に実践していました。

品行方正を目指したので、人の悪口は殆ど言わず、うわさ話にも興じず、不平不満をなるべく言わないようにしました。 

人に優しくするのはいいことだと思ったので、基本的に自分の嫌がる事は他人することはなく、且つ自分が嫌じゃないことでも他人は嫌かもしれないと考え、人付き合いに非常に慎重になりました。

ルールを守るのは普通のことだと考え、基本的なルールはちゃんと調べて守る、非常に堅苦しい人間になりました。

不正を許さないようにと、自分はちょっとでも不意に適性でない利益を得てしまいそうなことは、自分から適性でないことを申告し、利益を辞退しました。そのくせ、他人の不正に関しては結構寛容な態度をとっていました。

強く、たくましくという言葉を鵜呑みにして、自分はそんな風ではないと過剰に自身を喪失しました。

周囲の大人の言葉を素直に聞きすぎたため、過剰に自己抑制をして、過剰に良い人になり、過剰にそんな素晴らしい人間なろうとしてプレッシャーに苛まれ、自信をなくしました。

そして、そんなことをしてたら精神をぶっ壊しました。

なので、それからは、品行方正は目指さず、冷静な批判能力と持とうと人の言葉を鵜呑みにしないようにと努め、不平不満をストレートに言葉にしました。

人に過度に優しくするのはやめました。自分の利益を確保するのを重視し。人間関係に損得勘定を持ち込むようにしました。

不正に関しては積極的にしようとは全く思いませんでしたが、ルールを自分の都合の良いように利用するようにしました。また、他者の不正に関してはそれなりに批判するようになりました。

強く、たくましく生きようせずに、したたかに、自分に都合の良いように生きることを覚えました。

周囲の人間の言うことを、素直に聞かず鵜呑みにせず、実際は大したことのない人間が口先だけで自分の理想を押し付けていることを理解しました。

これを読んだ方は、私を「批判屋で人に対して懐疑的で、不平不満を普通に口にする、自己中心的な、人と損得勘定で接する、社会のルールを自分の都合の良い用に利用し、したたかで自分の都合ばかり考える、人を馬鹿にしている、嫌なやつ」だと思われるでしょうか。

とんでもないです。

私は未だに、人から「くそ真面目」と言われますし「優しそうと言われます」し「世の中の平均な人に比べてやたら善人」と言われます。

簡単な話です。

「元が無駄に良い人」だから、「自分からひねくれようと」しても、「未だに全然善人」で、「むしろ多少ひねくれたほうがずっと生きやすいし、うまくいく」のです。


そして今ではこう思うのです、「周囲の大人の理想論は、そんな話全く興味のない人間にこそ必要で、だからこそ彼らはそれをしつこく言うのであって。自分の様なそれにスンスン納得してしまうような人間には、追い求めることでむしろ害になる」のだと。

自分が好ましいと思っている事を追求した結果、過剰に追求してしまい。結果的に好ましいことを追求する事が害になった。

あなたが今非常に好ましいと思っていることは、実はあなたがその好ましさを十分持っているために好ましいと感じているのであって。さらにそれを追求することは実は必要なく、むしろ害になるかもしれないのです。


話は変わります。

西洋社会は平等や自由や博愛を尊ぶ傾向にあります。

一般的にみて、彼らが平等や自由や博愛を「実践」できていると思いますか。

日本人は、協調性を重視し、勤勉を尊び、和を重んじる民族だと言われています

一般的に観て、私たち日本人はそれを「実践」できていると思いますか。


仮に、あなたが学校の先生だとします。

Aくんという男の子がいます。

Aくんは、素直で優しく内気で大人しい子です。

あなたはAくんに、「人には優しくしなさい。人の言うことは素直に聞きなさい」と指導しますか。

Bくんという男の子がいます。

Bくんは、元気で活発で外交的で、少々乱暴です。

あなたはBくんに「もっといろんなことをやってみなさい。もっといろんな人とかかわってみなさい」と指導しますか。

そんな指導しませんよね。

むしろ、Aくんに「もっといろんなことをやってみなさい。もっといろんな人とかかわってみなさい」と指導して。

Bくんに、「人には優しくしなさい。人の言うことは素直に聞きなさい」と指導しますよね。

いつも、英語のテストで満点をとって、数学のテストで赤点すれすれの生徒に「もっと英語を頑張りなさい」と指導する先生はいませんよね。

もちろん長所を伸ばす教育もありますが、英語のテストでいつも満点をとってくるような英語が好きで得意な生徒に、英語を頑張りなさいと言うことは「言うまでもない」ですよね。
 
もうすでにできている事を、ちゃんとしなさいと指導する事は無駄ですよね。

むしろ、指導者としてそんなことをしたら「無能で害悪」ですよね。

もう一度ききます。

時の指導者や宗教家に「もっと、平等を重んじなさい。自由を重んじなさい。博愛を重んじなさい」と「指導」されてきた国民性を持つ民族は「もとから、互いに平等であることを尊重して、互いに自由であることを尊重して、博愛精神をもった」民族だと思いますか? 

古来から、指導者や宗教家に「協調を重んじなさい、もっと勤勉になりなさい、和を重んじなさい」と「言われ続け」てきた民族が「自然と協調して、当たり前に勤勉で、普通に和を重んじる」民族だと思いますか?

むしろ逆でしょう?

もし、それらが当たり前にできている民族なら時の指導者や宗教家や思想家に口を酸っぱくして言われ続けませんよね。

その国に、「〇〇は素晴らしいことだ。それを尊びましょう」「△△は美しいことだ。もっと重んじよう」等といった思想や文化や経典があったとしたら、その当時は「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」「△△なんて意味あるんスカ。関係ないし~」と言うような人間がやたらいたのではないかと考えるのが妥当ではありませんか。

そして、「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」「△△なんて意味あるんスカ。関係ないし~」というような人間がうようよいるような国民性を持つ国の人間が「私たちは〇〇を尊ぶ国民性がある。元からあるのだ!」とか「我々は、△△が重要性は生まれた時から染み付いている。そんなことを教える教育を受けなくても、当たり前に身についているのだ」とか言い始めたら「あ、ちょっとやばいかも」と思いませんか。

そして、元から□□(〇〇とは正反対の性質)な傾向を持つような国民性がある民族が、「我々は〇〇な教育はもう十分だ、今からは□□を目指そう」とか言い出したら結構注意が必要だと思いませんか?

もちろん、長い間の「〇〇は重要だ」という教育が功を奏し、〇〇な性質が国民性として染み付いて来たばかりか最近はちょっと〇〇が過剰だよ言われる事が多くなってきたことはわかります。

しかし、「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」という人間をやたら多く排出する国民性の「〇〇は重要だ」という教育を受けていない子どもに「〇〇より、□□が重要だよ」という教育を施したら、「ちょっとまずいことが起きるかも」とは思いませんか。

「〇〇より□□が重要だ。〇〇なんて馬鹿じゃないの」という「〇〇を軽視しすぎる」人間が増えすぎませんかね?

「□□が好ましい」と思っている「すでに十分□□な人間」が「さらに□□を追求する」事は好ましいですか?それとも好ましくないですか?

むしろ、「もっと良い〇〇と□□のバランスを目指そう」としたほうが良くないですか?


話は変ります。

あなたは、スピリチュアルが好きですか?

スピリチュアルにある「あなたはあなたのままでいい」「しなければいけないことはなど本当は何もない」というような話を聞いてどう思いますか。

もし、あなたが「そんなの当たり前だよ」「そのとーり!」「そんなの当たり前にしっているよ」「言われなくても」と思うような方だとしたら。

そろそろ、スピリチュアルをご卒業されてはいかがですか。

もし、あなたがそれをもう当たり前のように感じているのであれば、もう特に追求する必要はありません。

実生活で、色々充実させようと頑張っては如何かと思います。

もし、あなたが「成長こそ人生だ」「社会の中で義務をはたしてないやつが何をいっても、虚言にしかならん」「また詐欺師がいる」と思ったのでしたら。

多少、スピリチュアルのエッセンスを学んでみては如何ですが。

あなたは、今まさに女性を強姦しようとしている人に「もっと欲望に素直になったほうが良いよ」と言われますか?

あなたは、毎日、朝6時に起きてジョギングして、8時から17時まで働いて、夜は家事と育児、休日は家族サービスか地域ボンランティアを行っている男性に対して、「理性的になれよ、もっと自制しろ」と言いますか?。

前者にそんなこと言ったら「その通りだぜ。ヒッャッハー」と言ってよろこぶでしょうね。そして、やってはならないことをする。

後者にそんなこと言ったら「そうですか、善処します」と言って、ますます窮屈な生活をしますよ。そのような事を言う方がいるとしたら何様なのでしょうか。

スピリチュアルの格言も、論語の文言も、そこら辺のおっさんの持論も、なにもかも。

言葉が放たれるときには、全ての人に向けていうことあはありません。

特定の、話す人が想定している様な人に対して言葉は放たれます。

年寄りが、「最近の若いものは」と話すときには、最近の若いものに対して話しているのではなくその年寄りが「見聞きして、あるいは噂に聞いた」極小数の若者のイメージを脳内で最近の若者として認識して話しています。

なので、そのイメージに全く当てはまらない若者は「最近の若い者ってなんだ。また年寄りの説教か」と憤慨します。

校長先生のお話は校長先生の脳内で想定しているような若者に対して放たれています。不特定多数へ向けたメッセージにあなたは想定されていません。十分吟味して、真に受けないようにしましょう。

世の中には、主張や嗜好や言葉には、自分の方に向いている言葉とそうでない言葉があります。

自分の方に向いていない言葉を拾う必要はありません、むしろ害になります。
自分の方に向いていない言葉を、自分から積極的に拾って憤慨したり、相手を攻めても無駄です。
無視、スルーが基本です。

自分の方に向いている言葉は追いかけてでも拾いに行きましょう。しかし、追いかけようとしないのが人間です。自分の方に向いている言葉にたまたま遭遇したら見逃さすキャッチしましょう。

そしてもちろん、この記事も想定している読者の方が居ます。

この記事を読んで「言われなくても」「何だこんな当たり前のこと」と思う方はゴマンといると思います。

むしろ、「まだその段階か、若いな」と思うような方もいると思います。

なので、そういった方は無視、スルーで結構です。

そういった方にでしたら、「貴重なお時間を使わせてしまって申し訳ない」とすら思います。

しかし、そうでない方もいらっしゃると思います。

そういった方に向けた書いた記事ですので、読んでくれたら幸いです。


いかがでしたでしょうか。

「今貴方が一番好ましいと思っているものは、実は一番貴方に好ましくないかも」

お読みいただけたでしょうか。

非常に長い記事になってしまいました。

読んでくださった方に感謝です。

これ以上の語る必要ないので以上になります。

ではでは。



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「元が無駄に良い人」だから、「自分からひねくれようと」しても、「未だに全然善人」で、「むしろ多少ひねくれたほうがずっと生きやすいし、うまくいく」のです。


そして今ではこう思うのです、「周囲の大人の理想論は、そんな話全く興味のない人間にこそ必要で、だからこそ彼らはそれをしつこく言うのであって。自分の様なそれにスンスン納得してしまうような人間には、追い求めることでむしろ害になる」のだと。

自分が好ましいと思っている事を追求した結果、過剰に追求してしまい。結果的に好ましいことを追求する事が害になった。

あなたが今非常に好ましいと思っていることは、実はあなたがその好ましさを十分持っているために好ましいと感じているのであって。さらにそれを追求することは実は必要なく、むしろ害になるかもしれないのです。


話は変わります。

西洋社会は平等や自由や博愛を尊ぶ傾向にあります。

一般的にみて、彼らが平等や自由や博愛を「実践」できていると思いますか。

日本人は、協調性を重視し、勤勉を尊び、和を重んじる民族だと言われています

一般的に観て、私たち日本人はそれを「実践」できていると思いますか。


仮に、あなたが学校の先生だとします。

Aくんという男の子がいます。

Aくんは、素直で優しく内気で大人しい子です。

あなたはAくんに、「人には優しくしなさい。人の言うことは素直に聞きなさい」と指導しますか。

Bくんという男の子がいます。

Bくんは、元気で活発で外交的で、少々乱暴です。

あなたはBくんに「もっといろんなことをやってみなさい。もっといろんな人とかかわってみなさい」と指導しますか。

そんな指導しませんよね。

むしろ、Aくんに「もっといろんなことをやってみなさい。もっといろんな人とかかわってみなさい」と指導して。

Bくんに、「人には優しくしなさい。人の言うことは素直に聞きなさい」と指導しますよね。

いつも、英語のテストで満点をとって、数学のテストで赤点すれすれの生徒に「もっと英語を頑張りなさい」と指導する先生はいませんよね。

もちろん長所を伸ばす教育もありますが、英語のテストでいつも満点をとってくるような英語が好きで得意な生徒に、英語を頑張りなさいと言うことは「言うまでもない」ですよね。
 
もうすでにできている事を、ちゃんとしなさいと指導する事は無駄ですよね。

むしろ、指導者としてそんなことをしたら「無能で害悪」ですよね。

もう一度ききます。

時の指導者や宗教家に「もっと、平等を重んじなさい。自由を重んじなさい。博愛を重んじなさい」と「指導」されてきた国民性を持つ民族は「もとから、互いに平等であることを尊重して、互いに自由であることを尊重して、博愛精神をもった」民族だと思いますか? 

古来から、指導者や宗教家に「協調を重んじなさい、もっと勤勉になりなさい、和を重んじなさい」と「言われ続け」てきた民族が「自然と協調して、当たり前に勤勉で、普通に和を重んじる」民族だと思いますか?

むしろ逆でしょう?

もし、それらが当たり前にできている民族なら時の指導者や宗教家や思想家に口を酸っぱくして言われ続けませんよね。

その国に、「〇〇は素晴らしいことだ。それを尊びましょう」「△△は美しいことだ。もっと重んじよう」等といった思想や文化や経典があったとしたら、その当時は「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」「△△なんて意味あるんスカ。関係ないし~」と言うような人間がやたらいたのではないかと考えるのが妥当ではありませんか。

そして、「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」「△△なんて意味あるんスカ。関係ないし~」というような人間がうようよいるような国民性を持つ国の人間が「私たちは〇〇を尊ぶ国民性がある。元からあるのだ!」とか「我々は、△△が重要性は生まれた時から染み付いている。そんなことを教える教育を受けなくても、当たり前に身についているのだ」とか言い始めたら「あ、ちょっとやばいかも」と思いませんか。

そして、元から□□(〇〇とは正反対の性質)な傾向を持つような国民性がある民族が、「我々は〇〇な教育はもう十分だ、今からは□□を目指そう」とか言い出したら結構注意が必要だと思いませんか?

もちろん、長い間の「〇〇は重要だ」という教育が功を奏し、〇〇な性質が国民性として染み付いて来たばかりか最近はちょっと〇〇が過剰だよ言われる事が多くなってきたことはわかります。

しかし、「〇〇なんてくそくらえだ、知るか!」という人間をやたら多く排出する国民性の「〇〇は重要だ」という教育を受けていない子どもに「〇〇より、□□が重要だよ」という教育を施したら、「ちょっとまずいことが起きるかも」とは思いませんか。

「〇〇より□□が重要だ。〇〇なんて馬鹿じゃないの」という「〇〇を軽視しすぎる」人間が増えすぎませんかね?

「□□が好ましい」と思っている「すでに十分□□な人間」が「さらに□□を追求する」事は好ましいですか?それとも好ましくないですか?

むしろ、「もっと良い〇〇と□□のバランスを目指そう」としたほうが良くないですか?


話は変ります。

あなたは、スピリチュアルが好きですか?

スピリチュアルにある「あなたはあなたのままでいい」「しなければいけないことはなど本当は何もない」というような話を聞いてどう思いますか。

もし、あなたが「そんなの当たり前だよ」「そのとーり!」「そんなの当たり前にしっているよ」「言われなくても」と思うような方だとしたら。

そろそろ、スピリチュアルをご卒業されてはいかがですか。

もし、あなたがそれをもう当たり前のように感じているのであれば、もう特に追求する必要はありません。

実生活で、色々充実させようと頑張っては如何かと思います。

もし、あなたが「成長こそ人生だ」「社会の中で義務をはたしてないやつが何をいっても、虚言にしかならん」「また詐欺師がいる」と思ったのでしたら。

多少、スピリチュアルのエッセンスを学んでみては如何ですが。

あなたは、今まさに女性を強姦しようとしている人に「もっと欲望に素直になったほうが良いよ」と言われますか?

あなたは、毎日、朝6時に起きてジョギングして、8時から17時まで働いて、夜は家事と育児、休日は家族サービスか地域ボンランティアを行っている男性に対して、「理性的になれよ、もっと自制しろ」と言いますか?。

前者にそんなこと言ったら「その通りだぜ。ヒッャッハー」と言ってよろこぶでしょうね。そして、やってはならないことをする。

後者にそんなこと言ったら「そうですか、善処します」と言って、ますます窮屈な生活をしますよ。そのような事を言う方がいるとしたら何様なのでしょうか。

スピリチュアルの格言も、論語の文言も、そこら辺のおっさんの持論も、なにもかも。

言葉が放たれるときには、全ての人に向けていうことあはありません。

特定の、話す人が想定している様な人に対して言葉は放たれます。

年寄りが、「最近の若いものは」と話すときには、最近の若いものに対して話しているのではなくその年寄りが「見聞きして、あるいは噂に聞いた」極小数の若者のイメージを脳内で最近の若者として認識して話しています。

なので、そのイメージに全く当てはまらない若者は「最近の若い者ってなんだ。また年寄りの説教か」と憤慨します。

校長先生のお話は校長先生の脳内で想定しているような若者に対して放たれています。不特定多数へ向けたメッセージにあなたは想定されていません。十分吟味して、真に受けないようにしましょう。

世の中には、主張や嗜好や言葉には、自分の方に向いている言葉とそうでない言葉があります。

自分の方に向いていない言葉を拾う必要はありません、むしろ害になります。
自分の方に向いていない言葉を、自分から積極的に拾って憤慨したり、相手を攻めても無駄です。
無視、スルーが基本です。

自分の方に向いている言葉は追いかけてでも拾いに行きましょう。しかし、追いかけようとしないのが人間です。自分の方に向いている言葉にたまたま遭遇したら見逃さすキャッチしましょう。

そしてもちろん、この記事も想定している読者の方が居ます。

この記事を読んで「言われなくても」「何だこんな当たり前のこと」と思う方はゴマンといると思います。

むしろ、「まだその段階か、若いな」と思うような方もいると思います。

なので、そういった方は無視、スルーで結構です。

そういった方にでしたら、「貴重なお時間を使わせてしまって申し訳ない」とすら思います。

しかし、そうでない方もいらっしゃると思います。

そういった方に向けた書いた記事ですので、読んでくれたら幸いです。


いかがでしたでしょうか。

「今貴方が一番好ましいと思っているものは、実は一番貴方に好ましくないかも」

お読みいただけたでしょうか。

非常に長い記事になってしまいました。

読んでくださった方に感謝です。

これ以上の語る必要ないので以上になります。

ではでは。



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スピリチュアル用語をわかりやすく説明します。

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回は私がスピリチュアルな情報に触れる際に、おこなっているスピリチュアル用語の訳とその説明を紹介します。


神・サムシンググレート・空・大いなる存在・量子場・その他色々

全ての存在の大元である、ただ「存在するという性質」を持った何か。
実体はあるが、質量がない。
見えない、触れない、観測できないの三重苦。
大抵の人はないと断言したり、在ったとしても証明できないならないと同じとか言ったり、肯定的な人でもあるとも言えるし無いとも言えると言う。
しかし、このブログでは「存在する」と断言している。
科学が発展してったらいずれ観測できるかも。

このブログでは「存在質」という呼び方をよくする。


存在を肯定するということを意味する。

好きとは違う。
肯定するということは、色々なレベルがある。
  否定を否定する、否定しない、消極的な肯定、積極的な肯定、支援など。
  ナニカを認識するということも一つの肯定。
  そこにナニカが存在するということ認める(認識する)というのは、その存在への受動的な肯定である。

ちなみに、究極の愛(肯定)とは存在するということ。

存在すると言うことは、何物にも否定されていない状態。
誰かに否定されたしても、だって存在してるんだし~と言ってしまえる。

冷蔵庫にプリンがないと言って喚いている人に対して、冷蔵庫からプリンを出して相手に突き付け「あるじゃねぇか、ちゃんと探せや!」と言っている状態。
大抵の人は、「ごめん、探してくれありがとう」と素直謝るが、稀に「だってなかったし!」と自分の間違いを認めない人もいる。
自分が存在する状態において、誰かに否定されたとしても「いや、私は存在しているし。何いってんのお前」と言っている状態。

「人間の本質は魂だ」、という理解に達していない人にとって死は究極の「存在の否定」に成るため、死を過剰に恐れる。
誰かに認識されることは、自己への受動的な肯定が起きるため愛を感じる。


好き
接近願望の事を言う。
何かを手に入れたい、何かに近づきたい、そばにいたいという感情。
接近が意味する通り、対象にたいして現在より自分の近い所に置きたいという願望。
自分と対象との相対的な距離を縮めたいという願望なので、自分が対象に接近したいか、対象を自分に接近させたいかは区別しない。

接近願望の究極は、自己と対象の同一化。
対象と接近しすぎて、存在する座標が重なっているイメージ。


嫌い
回避願望の事を言う。
対象を自分から遠ざけたい、対象に近づきたくない・回避したいという感情。
接近願望と同じく、自分と対象との相対的な距離を広げたいという感情なため、自分から対象を遠ざける事と対象から近づきたくない・回避したいという感情を区別しない。

基本的に距離を広げたいという願望なので、対象との距離が固定されていて距離を広げることが出来ないと、無理やり距離を広げようと攻撃衝動が生じることがある。

究極の回避願望は、対象の存在の否定。
対象が存在しなくなれば、回避を行うことが不必要に成るため。


愛のエネルギー

存在の肯定を支援する事、またそのためのエネルギー。
存在するという事は究極の愛(存在の肯定)だが、更にそれを支援することと、そのためのエネルギーの事。
単純に、腹が減っている時に食う食べ物も愛のエネルギー、子どもに向ける愛情も愛のエネルギー。
好きな漫画を100冊買って作家を応援するのも愛のエネルギー。
存在の肯定を支援する事が愛のエネルギーのため、セックスしたいなど性愛に関するエネルギーの事は刺さない。
他者の存在を否定する事は愛のエネルギーではないが、自己の正当防衛の為に他者を傷つけることは、自己の否定の否定なので愛のエネルギーの一種である。


 

魂と生まれ変わりに関する考察

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、魂と生まれ変わりに関する諸々の考察になります。


生まれ変わりは仏教では輪廻転生とよばれ 、死んだ生物の魂が死後別の生物として現世に舞い戻ってくる現象です。

本来は生まれ変わりは人間限定ではないのですが、今回はあまり深く掘り下げないので人間限定で考えたいと思います。 

生まれ変わりの前提として、「人間は魂をもっている、人間の本質は魂だ」というものがあります。

このブログでは、ちょくちょく魂に関して言及していますのでまずはこのブログ流の魂の考察から入ります。


このブログでは、魂の事を「パーソナルロゴス」とか「存在質」などと呼んだりしています。

パーソナルロゴスは、物質(イデア)という実体のあるものとの対比としてロゴスという「論理、言葉、実態のないもの、情報」の視点で、魂を個人的な実体のない情報の塊として捉えています。

存在質は、物質という質量があり観測できるものの対比として、存在質という「実在しているが、質量がなく観測できない」という視点で、魂を質量がないが実在する実質的なモノとして捉えています。

まとめると、魂は質量は観測できないがちゃんと実在する実質的なモノであり、個人の情報を保存蓄積するナニカのことである。

一旦は上記の理解で十分ですが、更に踏み込みましょう。

魂は情報を保存蓄積するということですが、どのように情報を保存するのでしょうか。

本の情報は文字やイラストというものがありそれにより情報を保存します。

コンピュータは情報を電気信号のオンオフとして保存して、オンオフをある形式で解釈することで意味のある情報になります。

アナログなカメラは、情報を色のパターンとして保存します。デジタルカメラのように電気信号のオンオフとしては保存しません。

魂は情報を保存するという事を理解しても、情報の保存の仕方には様々なものがり、どのような媒体にどのような情報を保存するかでまったくやり方が異なることを理解しているなら、魂はどのように情報を保存するかが気になってきますね。

本ブログでは、魂は場の歪みとして情報を保存すると考えています。

魂は存在質というものから出来ています。

存在質は、物質依然の純粋なただ存在するという性質のみを持つナニカです。

この存在質は、キリスト教では神とかスピリチュアルではサムシンググレートとか仏教では空とか五行説では一元とか現代科学では量子場とか言われたりします。

あらゆる時代のあらゆるところで、全ての根本と言われているものをこのブログでは神とかサムシンググレートとか空とか言わずに「存在質」とよんでいるのです。

存在質は宇宙に満ち満ちていますが、宇宙には存在質から派生し物性を獲得した物質も存在しています。

存在質は、「在るという性質」を持つだけなので、何ら形や機能を持ちえません。

しかし、物質は質量と形を持つため、機能を持ちえます。

物質の機能は、その物質の構造によって規定されます。

例えば、鉛筆は細長い形と、芯である木炭の電荷と分子構造により鉛筆の機能を形作っています。

それと一緒で、人間は人体の構造により人間の性質を獲得しています。

思考や感情といったモノも脳の機能により成立しています。

脳の構造が、思考や感情といった機能を生みだしているのです。

魂は存在質です。

なので、本来は何ら機能や性質を持ちません。

しかし、物質でできた人間の肉体はその構造により様々な機能を持ちえます。

これを言い換えると純粋な魂は、思考や感情が存在しないが、生きている人間には思考や感情が存在するということになります。

少し変な事になってきましたね。

しかし実際は、「人間の魂」には思考や感情が存在します。

実は、魂は存在質なので本来なら機能や性質は持ちえませんが、一度人間として生まれた魂は人間の持つ機能を獲得するのです。

理由は簡単です。

単なる純粋な存在質は何ら機能や性質を持ちませんが、存在質が生物に宿るとその生物の肉体がもつ機能を存在質は獲得するのです。

生物の肉体を構成する原子の物理構造は、存在質に場の歪みとしてそっくりそのまま論理構造として転写されるのです。

砂鉄に磁石を近づけると、磁場が生じて砂鉄に磁場の影響で模様ができますよね。

それと同じで、物質が存在する場所にはその周囲に物質の持つエネルギーの影響で模様(歪み)が生じます。

その歪みはけっしてランダムに生じるのではなく、物質の構造に即して生じます。

Aという物理構造で生じる場の歪みは必ずBという歪み(模様)になる、という事です。

それは必ず一対一であり、Aという物理構造とCという物理構造がどちらもCという歪みを作ることはありません。

それはつまり、物理構造が論理構造を規定すると同時に、論理構造から物理構造を特定する事ができるということです。

また、Aという物理構造から生じたBという論理構造は、論理と物理の違いあれどAとおなじ構造を持ちます。

そして、機能とは形つまり構造から生じるので、物理構造Aとそれから生じた論理構造Bは共通の構造と共通の機能を持ちます。

つまり、一度でも生物に宿った魂は、宿った生物の機能を魂に転写して死んだ後もその生物の機能を魂に保有するのです。

まとめます。

魂は、本来ならなんの機能も持ちませんが、一度人間として生まれた魂は人間の肉体の持つ機能を魂にそっくりそのままコピーすることで、魂が人間化して、人間化した魂は人間の機能を持つということです。


少し補足します。

一度も生物に宿ったことのない存在質は思考も感情も存在しないため、魂とは言いがたいです。

宇宙の全ては存在質としては年齢は一緒ですが、生物に宿って魂と言えるようになった時期は結構バラバラですので、魂としての年齢はひとによってバラバラです。

魂は輪廻転生して、生物に宿りますが、全ての生物に宿る魂が輪廻転生してきているわけではありません。

生物が生まれる時に、どっかから魂がやってきて宿らなくても、宇宙には存在質が満ち満ちているので、元からその場にあった存在質が魂化して生物に宿ることもままあります。

ちなみ、宇宙には元々魂を修行させたり管理する存在はいなかったと思われます。

ただ、宇宙が出来て一番最初に魂化してかつ悟りに達したりした覚者は、当たり前ですが覚者としての先達が存在しなかったのでえらい苦労したと思います。

その頃は、魂は修行しなければいけないという考えもなくと、魂を管理する必要があるとかいう存在がいないので、結構シッチャカメッチャカだったのだろうと思います。

そんなんなので、一番最初に覚者になった魂はえっらい苦労して、さらなる覚者を生み出すために他の魂の成長をちょくちょくうながしたり、輪廻転生を管理したりして世界がシッチャカメッチャカに成らないようにしたのだと思います。

本来宇宙には修行しなければならないとか掟はないのですが、一番最初に覚者になった魂が作り上げた、世界をシッチャカメッチャカにしないようする努力の仕組みを、それ以降に覚者になった魂が薫陶として受け継いでいまもいろいろ頑張っているのだと思います。

また、昔からいる預言者とか、最近流行りのチャネラーとかは、地球人類よりレベルの高い存在から色々とメッセージを受け取ったりしていますが、そういった存在って結構レベルもバラバラでまちまちですし、たまにあえて嘘ついたり微妙に間違った情報をよこしたり、解釈する側の問題で変に伝わったりしますし、基本的に彼らは人類に成長を促す存在ですので、そういったメッセージに頼り過ぎないようにうするために結構厳し目なことやったり言ったりするので程々の距離で付き合うのが良いですよ。

特に彼らは、学校の教科書を今まで盲目的に信じていて、スピリチュアルにハマったら今度はチャネラーの言うことを盲目的に信じるようなったような、信じるのが学校の教科書からチャネラーの言葉に変わっただけのような人たちには結構厳し目なことしますので注意ですよ。

補足は終わります。


では次に生まれ変わりに対する考察です。

生まれ変わりは実際にあると思われます。

そもそもとして、宇宙には魂があるので、宇宙には根本として一度存在質から魂化したものを死後再利用してあらたに生物にぶっ込む仕組みがあると思われます。

その仕組が合ったから、宇宙に魂を管理する存在がない時代に一番最初の覚者は覚者なり得たと思われます。

で、一番最初の覚者が生まれて以降は、効率的に魂の成長を促すために覚者のグループが死後の魂に「あなたは次はこっちね」的に生まれ変わりを管理するようになったと思われます。

死後の魂は、ほっといてもいずれは生まれ変わりますが、生まれ変わりを管理する存在がいることによって効率的に魂の成長をすることが出来るようになったのです。

生まれ変わりの話で、「ぼくは嫌だったんだけど、神様にお母さんの子どもとしてうまれなさいッて言われて、天国から突き落とされちゃったんだ」という人がいますが、そういった嫌だったけど神様に無理やりと発言するひとは魂的なそこそこ幼い可能性が高いです。


また、前世で死の原因となった箇所と同じ箇所にアザとか欠損がある場合があります。

魂の考察で書きましたが、魂が持つ論理構造から物理構造を規定する事ができます。

人間が胎児の時は、人体の構造が固まっていないですから、その時期に魂の論理構造が肉体の物理構造に大いに影響をあたえます。

その時に、前世に死ぬ時に強烈に魂に焼き付けた情報が、微妙に肉体に転写されることがあります。

通常生きている人間が、腕を包丁で切ってしまい跡が残る場合があります。

人間の肉体は1年で細胞が全部入れ変わるそうなので、傷跡なんか無くなってもよいと思いますがそれでも傷跡は結構な場合残ります。

傷跡が残るのは、傷跡があるという情報を何らかの形で保存してしまい、細胞が入れ替わる時に傷跡が再構成されてしまうからです。

で、おそらくですがその情報は魂に保存されます。

魂に傷跡があるという情報を残っていると、細胞が入れ替わっても傷跡が残り続けるのです。

それと同じことが、生まれ変わりでも起こります。

魂に、殺されたりした時の致命傷になった傷がずっと強く残っていると、新たに生まれる時に胎児に時に細胞生まれ変わりの時のように情報が転写されて、微妙なアザとして再現されてしまうことがあると思います。

前世の記憶がある人間に前世の死因となった場所にアザや欠損があるのは、決して不思議じゃないのです。

そもそも、生きている時に傷跡がずっと残る時に利用されるのも魂の情報保持の仕組みなので、何ら不思議じゃないのです。


つぎは、前世の記憶の話です。

そもそも、記憶とはリンゴの写真をみてこれはリンゴだと分かるように、何らかの刺激とそれに対応して想起される思考や五感や反応の事です。

けん玉があれば手にとって遊ぶのも、けん玉の使い方やそれが遊び道具だという記憶のおかげ。

お母さんがお母さんだと分かるのも、過去何年も一緒に暮らしてきた記憶のおかげ。

誕生日に祝ってもらえなくて寂しくなるのも、今日が誕生日だという記憶と過去の楽しい誕生日の記憶のおかげ。

刺激に対して、思考や五感や反応が返ってくるのは、それが物理的に接続しているからです。

文章を読んでその意味を理解できるのは、視覚刺激を受けと得る細胞から、意味やイメージを想起させる細胞が何らかの形で連鎖反応を受け取るからです。

海という文字を読めば、海のイメージや意味や感覚が想起される。

しかし、海という文字を読んでも、なんらイメージや意味や感覚が想起されなけれあば、過去に海という感じを学んでいても忘れている記憶がないと判断される。

それは、海という文字から海のイメージや意味や感覚に接続できない状態。

つまり接続が切れている。

例え経験して記憶があっても、記憶に接続できない記憶は無いものとされる。

魂はあり生まれ変りがあるのに、前世の記憶が無いのは接続が切れているから。

たとえば、前世の家族写真をみて、何の記憶にも接続でなければ記憶が無い。

しかし、しらない人の写真をみて、「こいつは〇〇だ、懐かし~」となれば何らかの記憶に接続している。

前世の記憶はあるのか無いのではなく、接続して思い出せるのか、接続できなく思い出せないのかの話。

もちろん、経験してないことが想起されたら想像や妄想かもしれない。

ここが難しい。

人間は妄想するし想像する。

だから、すぐれた霊能者は自分の想像や妄想を完全にコントロールできるように訓練しなくてはならないし、それが出来ない霊能者は三流どころもいいところ。

ちなみに、自分にはどうやら前世があるようだと気づけるのは、自分の想像や妄想を完全にコントロールできるレベルでないと難しい。

そうでない人が自分の前世を語る時は、それが妄想なのか実際前世の記憶なのかを区別できるレベルではないので判断が難しい。

小さな子どもが前世を語る時は、魂の刻まれた論理構想が肉体に転写される時に、前世の記憶接続がつよく転写されることがある。

記憶が脳の神経の接続として保存されなら、その接続の物理構造も魂に転写される。

そして、転写された魂の論理構造が、新しい肉体に物理構造として転写される。

そうなると、小さな子供の脳に、前世の脳の接続が残る場合がある。

小さいうちは接続が残っているので、記憶を引っ張り出せるが、大きくなるとまた接続が切れて忘れてしまう。

退行催眠で前世の記憶を思い出す事があるが、そうなると少なからず前世の接続が脳の中に残っているという話になる。

接続は物理的なものだから、変性意識状態でドーパミンの力で細い接続でも強化されて記憶が想起されることがある。

接続が完全に切れている状態でなければ、記憶にアクセスできなくはない。

前世の記憶があるのはそういうことでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

ものすごく長い記事になってしまいました。

ちなみに、断定調で書いてある部分も全部実証されてません。

ぜんぶ仮説の考察です。

このブログの情報が全部実証されていたら、今頃世の中とんでない事になっていますからね。

哲学好きのヨタごとと適当にとらえてください。

情報を有用に使うか使わないかは読者さん次第です。




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瞑想は継続しなくては意味が無い事の理由

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、瞑想や脳の機能を活性化させるアファメーションが継続して行われないと意味が無い事を説明します。


まず第一に、すこしばかり瞑想やアファメーションで脳の血流を良くして脳機能を活性化させる事は、それだけでは何か能力が身についたり精神的に進歩するわけではないという事を理解してください。


もちろん、一時的に血流が良くなることで脳の一部がより上手く働くことが可能になります。

しかし、一時的に血流が良くなる程度では、脳の神経細胞の発達は殆ど行われないということです。

せいぜい、血流が集まる周辺の神経細胞に関わる精神・認知活動が脳の機能低下によって低下することがなくなる程度です。

例えば、人間の自制心を発揮するという機能は一日の内に強く自制心が必要な状況に迫られればその後は自制心の機能が低下してしまうことが脳の研究として言われています。

この現象に、人間は少し自制心を発揮するようなことが有れば、その後よくやったと自分を甘やかして自制心を発揮しなくなると解釈する研究者の方もいます。

しかしこれは、甘やかしてしまうという人間の心理的特性ではなく、自制心を発揮するのに使用される脳の一部が自制心を発揮することにより疲労してしまうことだと考えられます。

そして、自制心を発揮するのに使用する脳の箇所周辺の血流を瞑想やアファメーションで良くしていれば、その脳の箇所の疲労を軽減することができます。

しかし、脳の神経を発達させて脳機能をアップさせて自制心を強くしたければ、継続的に脳の血流を増加させるひつようがあります。

脳の血流を継続的に増加させることにより、自制心を発揮した後の回復をより促すことにより効率的に脳の一部を鍛えて機能をアップさせる事が可能になるのです。

なので、疲労を軽減するくらいは、その脳機能を使う度に軽くアファメーションするくらいで十分かもしれませんが、脳機能をアップさせるためには、神経系の発達を促すために継続して脳の血流を増やしていく必要があります。

そのため、瞑想や脳機能を活性化させるアファメーションは、出来る時に単発で1時間や2時間やるのではなく、日々の中で15分でも継続してやるほうが良いのです。

なぜなら、1ヶ月に一度1時間瞑想しても、脳の血流の増加は継続しません。

それより、毎日朝起きた時や寝る前に15分でも瞑想するほうが、脳の血流の増加は継続します。

脳の血流が継続して増加すれば、脳の神経の発達がより行われるようになるのです。

そして、ある程度瞑想巧者になって人でも、継続して瞑想や脳を活性化させるアファメーションで脳の神経を発達させるには、ある程度長期間の継続が必要になります。

私は練習して自称ですが瞑想巧者と言えるくらいに瞑想のやり方には習熟してきましたが、それでもやり方に習熟しただけで瞑想を日常的に行うようになってからまだそれほど経っていません。

そのため、後何年か(もしくは十何年か)継続して瞑想や脳を活性化させるアファメーションを続けなければ実際に脳の神経が発達して自分の精神と肉体を完全にコントロールできるようにはならないと思います。

瞑想は瞑想巧者になってからの方がむしろ重要です。

瞑想巧者になって、瞑想が効果的に上手く出来るようになった後、何年もあるいは十何年も瞑想を行うことにより、脳を発達させる、脳機能をアップするという事が重要です。

またある程度瞑想がうまくなっていくると、わざわざ座禅を組んでも目をつむらなくても日常の生活の中で瞑想をやっているように脳の血流増加・機能活性化を行えるようになります。

そうなってくれば、わざわざ瞑想の時間をとらなくても日々の生活が瞑想になります。

むしろ、日常の中で脳の血流増加・機能活性化を行ったほうが、実際に脳が神経活動を行っているところに働きかけることにより、より効率的に脳が発達します。

そうなってしまえれば、数年か十数年の内には精神や肉体をだいぶコントロールできるようになるため、日々の細々として悩みなどにはあまり悩まされることはなくなります。

そのような状態になれば、本当に自分が専念したい問題や目標に自分自身のエネルギーを注力したり、日々穏やかな気持ちあるいは、前向きで活力あふれた気持ちでいることがより容易になると思います。



以上が今回の記事になります。

いかがでしたでしょうか。

瞑想は本当に継続が大事なのです。

そして継続していれば必ず脳は良く発達します。

むしろ、継続しなければ決して脳は発達しません。

また、大脳新皮質が発達してトップダウン処理をより賢く扱えるようになると、簡単にダイエットできたり、仕事を上手くできるようになったりします。

そしてもしかしたら、トップダウン処理を完全にコントロールできるように成れば、トップダウン処理により細胞が老化する仕組みに介入することも夢ではないかもしれません。

(あたりまえですが、老化というものは人体がもつ機能や仕組みのひとつです。老化というのが存在しない生物も存在します。老化は生物が獲得した進化のための仕組みなのです。)

いやはや夢が広がりますね。(実際に可能かどうかは未知数ですが、それっぽいことができる人間の逸話は古来より結構あるのでどうしょうね。)


ではでは。




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瞑想が苦手な方へ、アファメーションの奨め。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、瞑想は苦手なんだけれど「悟りたい/心を成長させたい/忍耐強くなりたい/願望実現したい」という方へアファメーションをおすすめします。

スピリチュアルな世界の方たちは、よく人に瞑想を奨められます。

今の認知科学や脳の研究ブームでも瞑想は脳にとても良いと言われています。

しかし、「世の中に瞑想している暇なんてないよ! 」という方や「じっと座ってるだけでいいの?やり方が分からないよ!」という方も多くいらっしゃいます。

そこで、前々からこのブログで提唱しているようにアファメーションを使うやり方で、瞑想に比肩する効果をお手軽に発揮できる事をお知らせしたいと思います。


とても簡単です。

「前頭前野が活性化している」、「大脳新皮質が活性化している」、「脳の血流が良くなっている」といったアファメーションをするだけです。


まずは理論の説明から。

まず大前提として理解してもらいたいのが、「瞑想は身体の一部の機能を活性化させているだけ」という事実です。

例えば、額の中心のチャクラを意識した瞑想は「前頭前野の血流が良くなって活性化している」だけ。

へその下5cmあたりにあるチャクラ(下丹田)を意識した瞑想は「小腸の血流がよくなって活性化している」だけ。

といった具合です。

瞑想は意識を身体の一部に集中させて呼吸法などを繰り返すことで、意識を集中させている一部の機能を活性化しているのです。


座禅を組んで心を無にする禅宗の瞑想があります。

あれをやられている方は、ただ座禅を組んで眼を閉じてじっとしているだけの方が多いです。

しかし、実際にちゃんと禅宗の瞑想をやるならば、意識を額の中心のアジナチャクラ(前頭前野)に集中させて前頭前野の血流を良くして前頭前野の下位脳への支配力を増してやらなければ意味がありません。

多くの方は「心を無にする」と聞いた時に、やり方もわからずただ考えないようにするとか、目をつむって黙っていれば良いとか思ったりするかと思います。 

しかし、「心を無にする」には、ちゃんとしたやり方があって、それを知らずにただ考えないようにするのは非常に時間の無駄です。

多くの瞑想を嫌いな方は、瞑想を指導する方の具体的なやり方や理論を説明せずに、ただ座禅を組んで心を無にするとかひとつの事に集中させるという説明にうんざりしていると思います。

しかし、実際は額の裏辺りの前頭前野に意識を集中して前頭前野付近の血流を良くして前頭前野の下位脳への支配力を増すことが(額のチャクラの)瞑想のやり方なのです。

そして、当たり前ですが座禅を組んで意識を集中させる以外にも、身体の一部の機能を活性化させるやり方があれば、瞑想が苦手でも瞑想と同様の効果を得られるのです。


今回は、その方法としてアファメーションを利用したやり方をご紹介するということです。

それが、「前頭前野が活性化している」、「大脳新皮質が活性化している」、「脳の血流が良くなっている」といったアファメーションです。

このアファメーションを暇な時にでも心のなかで唱えれば、実際に前頭前野や大脳新皮質や脳全体の血流がよくなります。

慣れてくると、アファメーションを介さずに活性化が行えるようになります。

そして、アファメーションを介さず行う活性化はもはや瞑想そのものです。


注意点としては、このアファメーションをすると実際に脳の特定部位に血流が集まって活性化する感覚をダイレクトに感じるようになる事です。

「前頭前野が活性化している」のアファメーションを繰り返せば、実際に前頭前野がある額の裏側辺りに違和感が生まれます。

しかし、その違和感が前頭前野に血流が集まって機能が活性化している証拠です。

人によってはこの違和感が非常に不快だったり、病気の兆候だと勘違いするかもしれません。

しかし、この違和感がアファメーションや瞑想が上手くいっている証拠ですので、無駄に恐れないでください。

そして、この違和感に慣れると、アファメーションの文言を介さず身体の特定の箇所に意識を集中させるだけで違和感(血流が良くなり活性化している感覚)を感じるようになります。

ここまでくれば、多くの瞑想巧者と同じかそれ以上に瞑想に習熟している事になります。

また、アファメーションをやる時全般の注意点として、「言葉の意味を知らなければアファメーションは効果がない」ということがあります。

別記事でも書いているのですが、「前頭前野が活性化している」のアファメーションを前頭前野がドコにあるかそれが何であるかを知らない人がやっても絶対うまくいきません。

今はインターネットがありますので、ちょちょいとネットで調べてください。

逆に言えば、言葉の意味を理解できていれば、アファメーションは上手く出来るということでもあります。

あなたがお医者さんなどの人体に詳しい方なら、一般の人より多くの効果的なアファメーションが可能になるでしょう。


ちなみに私は瞑想はもとは苦手だったのですが、アファメーションと自律訓練法から入ったら上手く出来るようになり、今では瞑想もかなりの腕です(自己判断ですが)。
 
瞑想が苦手な方も、アファメーションから入れば(自律訓練法を同時にやるのが更におすすめです)脳機能がアップして、精神的な成長できると思います。
 

では今回の記事は長くなってしまいましたが、ここまでになります。

ではまた別の記事でお会いしましょう。
 
追記:

瞑想法にも色々あります。

この記事で言及している瞑想法は基本的に考えない系統の瞑想法です。

分析や観察など徹底的に思考する様な瞑想法も存在します。

なので、瞑想=身体の一部の機能を活性化しているだけは間違いになります。

この記事を読んでくださった方に私の記事の書き方から誤解させてしまったとしたら申し訳ないです。

謝罪します。

考える系の瞑想は、実際に様々な思考することによりビリーフシステムを変えたり、認知のフレームワークを拡大さえたりします。

考えない系の瞑想をした後に考える系の瞑想をすると、血流が良くなって脳機能が活性化しているところに、思考により物事への認識を変化させるので認知能力がかなりアップします。

考える系の瞑想単独でも行っていいのですが、考えない系の瞑想をやった後にするとより効果てきです。





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催眠術の仕組みについて

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は催眠術に関する記事です。


催眠術がどのような仕組みで行われているという仮説を紹介します。

(当ブログのオリジナルの仮説なので、一般的ではないです)


一般に催眠術は「変性意識という特殊な意識状態において、暗示をかける事」で行われています。

変性意識は脳内に大量のドーパミンが放出されている状態と推察されています。

そのように脳内にドーパミンが大量に放出されている状態で、言葉による暗示をかける。

人間の脳は言葉を理解する時に、言葉の内容を微弱に脳が再現する事で理解します。

ドーパミンは神経の活性化を促す脳内伝達物質だと思われます。

特定の神経パターンを活性化して、行動や思考や感情などを強化します。

脳内に大量にドーパミンが放出されている状態で言葉を理解すると、その言葉の内容の再現がドーパミンによって過剰に強化される事になります。

「あなたはリンゴを食べると辛いと感じる」と強い変性意識状態で暗示をかけられると、暗示の内容を脳がドーパミンによる過剰に強化して再現してしまいます。

この暗示をかけられた状態で実際にリンゴを食べると、脳のトップダウン処理が働いて、味覚を感じる細胞に脳の側から辛いと感じるように出力が行われて実際に辛いと感じます。

原理的に以上の様なプロセスが催眠術をかけられる時に行われています。


また、術師が催眠術をかける時にはかけられる側は変性意識状態にある必要があります。

多くの催眠術師は、まず自らが変性意識状態になり、ミュラーニューロン等による脳の同調作用を利用して相手を変性意識状態に誘導します。

認知科学者の苫米地氏はこれをホメオスタシスの同調と言っています。

要は、人間の脳が互いに同調する仕組みを利用しているということなのです。


最後に注意です。

変性意識状態は勉強に集中しているときにそれなりに脳内にドーパミンが放出されている軽いものから、統合失調症の意識障害のような無意識の処理まで意識に上るほどドーパミンが過剰放出されている重篤で危険な状態まで広い幅があります。

比較的軽いものから中程度の物は扱えると勉強や仕事や願望実現や人間関係に有効なのです。

しかし、過剰にドーパミンが放出されるそれ以上の変性意識状態は扱いがとてもむずかしく、ヨーガや密教の修行で失敗して、頭がおかしくなってしまうことも在ると聞いています。

変性意識状態はコントロールの仕方は、ちゃんとした技術のある人間に教わったほうが良いと思います。

私も、変性意識状態は軽度からそれよりちょっと強いものしか扱えません。

特別にやり方を教わる師がいないために、ノウハウを学んでいないためその程度です。

これ以上の深い変性意識状態は独学で学ぶにはちょっと危険だなと思って手を出していません。

この記事をもって催眠術に興味をもった方は、独学ではあまり深入りするのは危険なので、ちゃんと学びたいなら師匠を探したほうが良いです。

では以上になります。




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アファメーションはできるだけ具体的詳細に記述する~参考例:ダイエット他~

こんにちわ、dokubo_toshoです。

久しぶりの記事のアップになります。

新生活の準備で忙しかったので、かなり間が空いてしまいました。

今回の記事は、アファメーションに関するTIPSになります。


アファメーションの内容はできるだけ具体的に詳細に記述する必要があります。

なぜなら、具体的かつ詳細でなければ脳がそれを再現しづらいからです。

具体例を挙げます。

あなたが体重をちょっと気にしていて、ダイエットのためにアファメーションを使用したいと考えています。

ウェブサイトなどの情報を参考にして次の文章でアファメーションをすることに決めました。

「私は日に日にますます痩せっている」

上記のアファメーションには複数の問題があります。

問題点を簡単に分析してみます。

・痩せるとは肉体的にどういう動作・作用なのか具体性が足りない。

・筋肉は痩せて良いのか、。脂肪だけが痩せるとも言ってない。皮膚や血管や臓器もやせ細っていいのか。

・永遠に痩せ続けるの?

まず、痩せるという表現はちょっと抽象的です。

次に、痩せるという言葉の定義に危険性があります。

最後に、具体的に目標の数値がないので永遠に痩せ続けてしまう可能性があること。

もし、あなたが上記のアファメーションをするなら。

「私は日に日にますます痩せってている」「脂肪が減っていっている」「体重が〇〇kgになっている」

と追加の記述を増やす必要があります。

でもそれって面倒くさいし、効果も不安ですよね。

だったら、最初から具体的に詳細に記述すればいいのです。

次の記述をおすすめします。

基本型 「私は日に日にますます余分な脂肪が燃焼してっている」 
オプション (「体重が〇〇kgになっている」)

まず、具体的に脂肪が燃焼するという表現を使っているので、筋肉が痩せるとか内臓が細るなどを防止しています。

そして、痩せるという若干抽象的な表現より具体性があるので、脳が効果を再現しやすいです。

また、余分なという表現で必要以上に痩せすぎない事に注意しています。

備考なのですが、オプションの「体重が〇〇kgになっている」はあなたが目標とする数値が健康を害する程の数値だった場合、危険です。

オプションを使用する事で健康を害するくらい痩せてしまう可能性があります。

当たり前ですが、身長180cmの方が「体重が40kgになっている」とアファメーションすべきではありません。

無難に基本型のみを使うことをおすすめします。

もしオプションをつかたいなら、数値は今までの人生で一番健康で快調だったベスト体重を使用すべきです。

モデルのようになりたいと、極端に軽い体重でアファメーションすることはしないでください。

極端な話、一般にダイエットしている若い女性は、自分の理想の体重を小さく見積もり過ぎで、適切な目標設定ができていない方が多いです。

そのような方が、「〇〇kgになっている」のアファメーションを使うと痩せすぎて健康を損ねる事が起こりうるのです。

気をつけましょう。 


このように、アファメーションンはできるだけ具体的かつ詳細にすることで、脳のアファメーションの内容の再現効率の上昇と抽象的であいまいな表現の中に潜む危険性の排除が出来ます。

具体的で詳細な内容は脳の再現効率が高いので、「私は日に日にますます余分な脂肪が燃焼してっている」のアファメーションをすると、実際に身体に生理的に作用して脂肪が燃焼されます。

人によっては、実際に脂肪が燃焼する感覚をダイレクトに感じることがあると思います。

私などはこのアファメーションをすると感覚的な変化を感じます。 

「わたしは日に日にますます痩せてっている」という記述では、感覚的な変化を感じないのでアファメーションの記述の具体性の重要さが分かります。


他に私が行っているアファメーションの記述を具体例に挙げます。


TVで脳科学者の茂木健一郎さん作ったアハ体験が出来るゲームが有ります。

写真があって、ゆっくりと一部だけが微妙に変化していくで、ドコが変化しているのかを当てるゲームです。

次のような記述を用いています。

「アハ体験で活性化した時と同じ脳の部位が活性化している」

この記述でアファメーションをすることで、アハ体験をしたときに活性化した脳の部位と同じ所に血流が集まり活性化します。

一度でもTVで茂木さんの作ったゲームを遊んだ経験が在る方なら出来ると思います。

自分の経験した事柄から直接的に脳の部位を記述しているので、とても具体性がありかつ詳細です。

これの応用で、数学の問題が上手く解けた時の脳の部位とか、人とうまくコミュニケーションを取れた時の脳部位とか色々なシチュエーションから記述を作ることが出来ます。

これをすることで、アハ体験ゲームがうまくなりやすかったり、数学の問題を解くのがうまくなりやすかったり、人のコミュニケーションをうまくなりやすかったりと言ったメリットが有ります。

例を他にも挙げます。

緊張性頭痛をお持ちの方や、緊張しいの人は「私はリラックスしている」というアファメーションをしているかもしれませんが、これも具体性が足りません。

「私の全ての細胞がゆるんでいる」ぐらいの具体性でアファメーションしたほうが効率が良いです。

リラックスという表現は外来語ですしいささか抽象的です。

私だけかもしれませんが、緩むという表現がより具体的なイメージが湧きます。

また、「私は緩んでいる」より、「細胞がゆるんでいる」という表現の方が指示の内容がより直接的です。


いかがでしたでしょうか。

アファメーションをより具体的に詳細に記述する必要があることがお解りに成られたのではないでしょうか。

具体的な記述をすることで脳の文言の再現効率は段違いです。

もちろん、視覚的なイメージを利用することで記述の内容を軽くすることはできます。

しかし、毎日の通勤電車の中で空き時間を利用してひたすらアファメーションをつぶやく等といった場合、視覚的なイメージを軽くして記述を具体的詳細にしたほうが利用しやすいのです。

また、視覚的なイメージを再現するのは苦手な方が結構いらっしゃると思うので、今回の記事は有用なんじゃないかなと思います。

では、今回の記事は以上になります。




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スピリチュアルのなんでもかんでも波動の注意

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、スピリチュアルの世界であらゆる事を波動で説明しようとする悪癖について書きたいと思います。 

スピリチュアルの世界では、すべての事を波動で説明しようとする悪癖をもった人がいます。

りんごも波動、バナナも波動、勉強もセックスも波動。

宇宙の全ては波動であるという端的な事実を拡大解釈して、物理学や化学を無視している方がいらっしゃいます。

全ての素粒子はつまるところエネルギーの波動だというのは事実です。

しかし、宇宙というシステムはとても多面的です。

元々の宇宙は何も物性がない単なる存在質(物質未満の物性を持たないたんなる在るという状態の存在)です。

それが今の現実世界を構成するには、あらゆるレベルでの機能の実装が必要でした。

元々の存在質は感情も思考も理性もありません。

それが感情や思考や理性を獲得するには、それに応じた物理的な機能が必要でした。

人間で言えばそれは脳です。

生物の脳というシステムが出来上がるまでは、宇宙には感情も思考も理性もありませんでした。

(物理構造は論理構造に先行するという法則による)

理性や感情や思考や波動そのものではなく、脳という物理的な構造をもったシステムによって実装されて初めて成立する。

宇宙のあらゆるものは実装されていない段階では存在も成立もしません。

存在質にはありとあらゆる可能性があります。

しかし、宇宙に存在するものは何らかの形での実装がなければ影も形も存在できないのです。

すべてのものは波動に還元できませす。

しかし、思考や感情や理性が脳で実装されているように、宇宙は多面的で階層的な方法でありとあらゆるものを実装しているのです。

サッカーとは肉体があるからできるのです、波動だけではサッカーはできません。

ヴァイオリンは、あの形だからヴァイオリンなのです波動だけでは成立しません。

政治は、形態的なシステムです単なる波動ではありません。

コンピューターはとても複雑な作りをしています、たんなる波動ではなりません。

根本の基礎である波動から、複雑な構造を持ちゲシュタルトを構成し、新たな性質を創発し、様々な形で人生を彩っています。

それを、「全ては波動である」という言葉で還元してしまうのはスピリチュアルではなく、物事の過度な単純化による知性の退化です。

さも、人生の様々な彩りを全ては脳内の電気信号であると言ったり。

美しい女性を、単なるタンパク質の塊であると言ったり。

美しい感動的な絵を、たんなるインクの染みであると言う愚かさがあります。

単なる波動があつまり、構造を持ち創発されたゲシュタルトを愛するのが人生というものです。

また、すべては波動であるという言葉で何もかもを納得して、人体の生化学的なシステムやコンピュータを構成する人が作り上げた匠の技や、世界の数学的な多次元構造を全く学ぶこと無くあらゆる物事を理解しきった気分でいる方もいらっしゃる。

科学は宇宙がどのような形で世界を実装しているのかを研究して解き明かす学問です。

全ては波動という、世界の最小単位を知ったくらいですべてを知った気になるのは、物質が原子からなるという事を知っただけで全てを理解した気なるようなものです。

全くもってまだまだです。

作家の上遠野浩平の作品の中で次のような意味の記述があります。

我々人間は、生まれ生きて死ぬ。

その間我々は何かに向かっている途中なのである。

生まれて死ぬまであるいは死んでも、どこかに至る途中であるということを知っている。

まさにそのとおりだと思います。

私たちは常にプロセスの中に居るのです。

スピリチュアルな気づきを得たとして、それはプロセスの終わりではなく新たなプロセスの始まりでしょう。

なんでもかんでも波動で説明しようとする方は、もうちょっと何かに踏み込んでみることをおすすめします。


今回は以上になります。



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スピリチュアルと周波数に関するあれやこれ

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、スピリチュアルや精神世界、気功や超能力などと物体の周波数に関する雑学になります。


私は別記事である「スピリチュアルでいう「周波数が高い」の誤解」にも書いていますが、スピリチュアル界隈でいう「周波数が高い」と物理学的な「周波数が高い」の矛盾を指摘して、高次の存在は「周波数が高い」のではなく「周波数が低い」という事を説明しました。

それに関連して、体温を高めると波動が高まるや、周波数の調整による瞬間移動の実現の可能性などに言及していきたいと思います。


まずは、体温を高めると波動が高まるというスピリチュアル界隈にある噂からいきます。

体温を高めると波動が高まるというのは本当です、理由は次の通りです。

そもそも、体温が高いという状態は肉体を構成する原子・分子の熱エネルギーが高い状態です。

熱エネルギーが高いということは、原子・分子が激しく運動しているという状態です。

原子・分子の運動しているという状態は、原子・分子の見かけの運動のエネルギーが高いという状態です。

見かけの運動のエネルギーが高いのなら、当然固有の振動数(周波数)のエネルギーは低いです。

これは、物体の見かけの運動と振動数(周波数)のエネルギーの交換が起きているためです。

振動数(周波数)がより低いと言うことは、つまり高次のエネルギーに近いという話なので「波動が高い」です。

以上の理由から、体温を上げると波動は高くなります。


では、次の話です。

物質の振動数が低くて、見かけの運動のエネルギーが高い状態になると、物質あるいはエネルギーの波長は長くゆるくなります。

波長がゆるくなるというのは、波の振幅がより長い周期で現れるということです。

これは、粒子などが波の頂点に達するまでの移動距離がより長くなるという状態です。

一回の波の振幅があるまでに、より長い距離の空間を移動しているということで、見かけの運動のエネルギーはより高くなります。

また、波長が長くゆるいとそれだけ移動途中の空間に成る物質にぶつかり難くなります。

つまり、振動数(周波数)が低くて、見かけの運動のエネルギーが高い(波長が長くゆるい)物体やエネルギーは間の障害物をより無視できるということです。

皆さんも持ってるだろう携帯電話には赤外線通信という機能があります(Iphoneの方はついてないと思います)。

赤外線は、可視光よりほんのちょっと波長が長い程度なので、赤外線通信は間にちょっとした障害物が在るだけでうまく機能しません。

しかし、携帯の基地局との通信はより波長の長い電磁波を利用しているのでちょっとした障害物くらいならすり抜けます。

 
これの理屈をスピリチュアルの解釈に利用してみましょう。

高次の存在に関してです。

もし、高次の存在がいたとして、その存在はかなり周波数が低いと思います。

そうなると、見かけ運動のエネルギーがとても高く、また空間のA地点とB地点の移動の際に間の障害物をかなり無視できるはずです。

当たり前ですが、可視光より波長が長いので視認は出来ません。

また、振動数が低いということはその物体の時間の流れが遅いということです。

そして、相対的に周囲の物体より時間が流れが遅いということで、周囲の物体の動きはより速く見えます(つまり時間を速く感じる)。

もし、人間が高次の存在と同じ状態になれて、肉体の振動数を驚くべきほど低くしたら。

周囲の人間から視認できなくなり、一瞬でA地点とB地点を移動できます。

その時には、本人の時間は非常に遅くなっていますので、一瞬で移動したと感じるはずです。

上記の様な人間って、ヒマラヤ聖者とか中国の仙人が描かれている本の記述と一致すると思います。

どうでしょう、ヒマラヤ聖者とか仙人とかもしかしたらいるかも知れませんね。

私は会ったことが無いですが、そのような存在に出会ったという本の記述を考えるといてもおかしくないかなと思ってしまいます。


では次に行きましょう。

スピリチュアルの世界、伝統的には西洋の神智学では、人間はエーテル体をもっているとかアストラル体を持っているとか、エーテルエネルギーとかアストラルエネルギーなどの概念を持っています。

実はそれらは全部同じものです。

ただ単に振動数(周波数)によって段階的に区分しているだけです。

単純に、全て同じ存在質です。

エーテルやアストラルは物質に近いと言っていると記憶していますが、単純に物理的な特性を持ちうるくらい振動数が高くて我々の身近にあるりんごとかバナナとかティッシュに近いだけです。

それだけです。

例えば、存在質とは物性が全く無い状態の量子場とか気の場とかなんちゃら場と言えるものですが、そのままだと物性を全く持たないのでエネルギーとしては使えません。

なので、存在質は振動数を上げて肉体の振動数と近い状態にしなければ肉体にエネルギーとしては取り込めません。

逆に、そこら辺のある存在質を振動数を上げて肉体に近い状態のエネルギーとして取り出してあげれば、肉体は利用できるでしょう。

これを「低アストラル界のエネルギーに変換して肉体に取り込む」というすごくわかりにくい表現で説明される方もいらっしゃいますが要は振動数の問題です。

そこら辺の技術は、気功や仙道の勉強している方の方が詳しいと思うので割愛します。

(やり方としては、肉体の振動数を下げることと存在質の振動数を上げる事をして、肉体と存在質のエネルギーの振動数を一致させてやるということぐらいしか解りませんし)


では次の話。

振動数(周波数)を低くして、波動を高めると健康になる。

本当です。

あたりまえですが、振動数が低い状態はエネルギーを見かけの運動に変換しているので、細胞の活動は活発になります。

細胞の活動が活発に成れば、肉体の機能不全によって引き起こされた不調は減少します。

以上です。


では次の話。

一二三神示という昔の霊能者の預言書があります。

その中でいいわれている半霊半物質の世の中になるという予言。

単純に、人間の肉体の振動数がより下がって高次の存在に近くなるというだけの話だと思います。


いかがでしたでしょうか。

結構、スピリチュアル的なものに対する科学的な説明が成されていたと思います。

科学も突き詰めれば不可視の存在を扱わざるをえないと思います。

また、スピリチュアルも結局は現実世界の現象を取り扱うので物理学的な話も必要になると思います。

とくに、スピリチュアルの世界の真理は言葉では説明できないと思っている方が多いですが、結局は現実世界の現象に関する話です、いずれはちゃんと科学の言葉で説明できるようになります。

科学も結局は既存の学説に固執するのではなく、現実世界の実際の現象を説明できるようになっていくはずです。

いずれは、スピリチュアルと科学も矛盾せず、いろんな事を科学で説明できるようになると思います。

では今回は以上になります。



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うつ病と統合失調症。セロトニンとドーパミンの話。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、巷で最近よく知られてきた脳内伝達物質のセロトニンとドーパミンの話を精神病(うつ病、統合失調症)にからめて書きたいと思います。


雑誌の健康特集で、うつ病はセロトニンが少なくなっているから起きる等といった話を最近するようになりました。

うつ病はセロトニンが少なくなっているから、統合失調症はドーパミンのバランスが崩れたから起きるという仮説を学校の精神医学の授業では習います。

今回の記事は、dokubo_toshoのおぼえ書きで提唱している仮説を元に、セロトニン・ドーパミン・うつ病・統合失調症について独自の視点で考えていきます。

すべては仮説段階なのであしからず。

でははじめましょう。


まず第一に、人間の脳はコンピュータで言うOSみたいなもので、感覚の入出力処理と、身体の諸々の生理反応や運動などを管理しているだけという仮説をこのブログでは提唱しています。

また、幻視や幻聴などの幻覚は、脳内の神経伝達物質の不均衡や脳神経の生理的な乱れにより、諸感覚器に対する感覚の出力が閾値を超えるために起こるという仮説も提唱しています。

以上の2つの仮説は非常に重要になるため覚えておいてください。


ではまず、各神経伝達物質の実際的な役割から見ていきましょう。

セロトニンは、作用対象のニューロンを不活性化させる作用を持つと考えられます。

ドーパミンは、作用対象のニューロンを活性化させる作用を持つと考えられます。 

役割はこれだけです。


では、なぜセロトニンやドーパミンがうつ病や統合失調症などに関係するのかを見ていきましょう。

まず、うつ病には大きく3つの要因が存在しています。

1つは、セロトニンの不足です。

1つは、ドーパミンの不足です。

1つは、心理的・認知的処理の問題です。


では、セロトニンの不足から考えていきます。

セロトニンは神経の不活性化の役割を担っていると述べました。

また、セロトニンが多いとストレスに強くなるとも言われています。

理由は次のとおりです。

一般にストレスと呼ばれているものは、環境などからの刺激を受け、身体に何らかの反応を喚起します。

その時に、刺激を受けて起こる様々な反応をセロトニンが神経を不活性化することで、抑制します。

余計な刺激に身体が反応しなくなれば、ストレス(刺激)を受けても以外にへっちゃらだったりします。

しかし、過剰なストレスを受けて続けたら、反応を抑制するためのセロトニンを過剰に消費してセロトニンが足りなくなってしまいます。

その結果、ストレスの反応がダイレクトに身体に現れていきます。

その結果苦しくなります。

セロトニンを大量消費するのは、ストレスが過剰になる時です。

引っ越しや就職などのタイミングでうつ病にかかりやすく成ると言われているのは、引っ越しや就職などでは新しい環境に適応しなければいけなくなるために、色々とストレスが多くなり、セロトニンが不足しがちに成るためだと思われます。


では、ドーパミンの不足についてです。

うつ病ではドーパミンが不足しておきる場合もあります。

ドーパミンややる気や意志力にも関わってくると言われています。

実際は神経を活性化する事によって、感覚や行動や感情や反応を強化しているのです。

うつ病の方が、やる気がでないしなにも出来ないというような状態になる事があります。

これは、ドーパミンが不足することで、行動や感情の強化ができなくなっているためです。

また、セロトニンが大量にありすぎて、神経が過剰に不活性化してやる気がでなくなる場合もあります。

しかし、セロトニンが大量に出過ぎて意識が混濁するほど不活性化しすぎる場合でない限り、ドーパミンが重要になってきます。

セロトニンが多くなりすぎると、眠気を催します。

しかし、多少眠いぐらいの状態ならば、セロトニンが多すぎるというより、ドーパミンが不足していることが考えられるので、セロトニンが多すぎることよりドーパミン少ないことを問題と考えたほうが良いです。

すこし話はそれますが、好きな仕事をしている人にはうつ病がいないと、認知科学者の苫米地氏が述べています。

確かに、ドーパミン不足が目立つうつ病の方は、好きな仕事をすることでドーパミンが出やすくなるので、好きな事をするとうつ病から抜け出せる場合もあると思います。

しかし、セロトニン不足が目立つうつ病の方には、好きな仕事をしてもセロトニン不足の解消が出来なければうつ病からの復帰は難しいと思われます。

あたりまえですが、「好きな仕事をしていればうつ病にはならない」は正しくありません。

好きな仕事をしていても、激務で心身ともに疲弊すればうつ病に成る可能性は十分にあります。

気をつけましょう。


最後に心理的・認知的処理な問題についてです。

うつ病かたがよく仰るのは、うつ病になると気分が落ち込んで世界のすべてから見放されたような気分になるそうです。

この気分に関しては、心理的・認知的処理によって引き起こさていると考えられます。

単純に、ネガティブな言葉を自分自身に投げかける事によって引き起こされています。

ネガティブな言葉「死にたい」や「俺なんかどうせ」といった言葉は、実際に音声するか脳内で発話するかにかかわらずネガティブな気分をもたらします。

最近の日本人は、やたら自虐的な風潮を好む傾向にあるので、事あるごとにこのようなネガティブな言葉をつぶやいていれば、気分は悲観的になります。

また、このような言葉を呟き続けると、潜在意識のなかで悲観的な言葉は自動化されてつぶやかれ、自動的に悲観的な気分を産み出すことになります。

悲観的な言葉が悲観的な気分を産み出し、その悲観的な気分により悲観的な言葉をつぶやく。

このような、ネガティブ・フィードバックループを産み出してしまいます。

また、そのような悲観的な気分は抑制のためにセロトニンを大量に消費するために、このような状態が常態化するとセロトニン不足になります。

心理的・認知的処理の問題が目立つうつ病の方は、認知行動療法やNLPや瞑想などが非常に効果を発揮します。

というか、うつ病の多くの方は、心理的・認知的処理の問題が目立つ方なので、認知行動療法やNLPなどでうつ病から抜け出すことができます。

しかし、そうでないうつ病の方は、脳内伝達物質の状態を改善する必要があるので、認知行動療法やNLPでは思ったような結果は出ないでしょう。


以上がうつ病に関してです。

次は統合失調症に関してです。


統合失調症には代表的な二種類の症状があります。

1つは、妄想や幻覚などを含む陽性症状。

1つは、感情が無くなったり、引きこもったり、意欲が極端に低下するなどを含む陰性症状です。


陽性症状はドーパミンの過剰が原因だと思われます。

ドーパミンが脳内に過剰に放出されると、妄想、幻覚、意識状態の異常などが起きます。

脳内のドーパミン量がそんな多くなくても起きる妄想。

かなりの量のドーパミンが放出されることにより起きる、幻覚。

危険な位のドーパミン量でおきる意識状態の異常。

妄想<幻覚<意識状態の異常 かつ幻覚のなかでも幻聴<その他の幻覚<幻視くらいになります。


妄想は単なる思考と感情の強化です。

ふだん、夢見がちな若者にも起きうる比較的軽い症状です。

例えば、

自分は病気だと思い込む妄想は、病気かもという思考の強化。

意中の相手が自分を好いているという妄想は、相手はもしかしたら自分の事好きかもという思考の強化。

妄想は、「もしかしたら~」、「~だったら」、といった思考が雛形になり、ドーパミンにより強化されて生じます。


幻覚は、脳の各感覚器に対する出力の強化です。

幻聴は、普段自分がしている無意識の処理がドーパミンにより閾値をこえることにより有声化します。

また、普段の脳内の内的発話が現実の音声と同じくらいの出力に成ることで生じる場合もあります。

幻臭や、幻味などもおなじです。

ただ、幻視だけは滅多なことでは起こりません。

視覚神経に対する出力処理は、通常時にも強く行われていためよっぽど強い処理でないと介入できません。


意識状態の異常は、かなり危険です。

脳内のドーパミン量があまりに過剰なると、脳の無意識の処理までもが強化されて出力されます。

人間の脳は、全く考え事をしていない時でもデフォルトネットワークと呼ばれる箇所が活性化して、様々な情報処理をしています。

その無意識の思考は普段は全く出力の閾値を超えないのですが、脳内のドーパミン量があまりに過剰になると、普段は閾値を全く超えない情報処理すら閾値を超えてしまいます。

人間の無意識の思考は基本的に、シリアル処理でないので多くの雑多な思考がでたらめに意識に上るようになります。

ここまで来ると本当に危険なので、入院治療が必要になります。


陰性症状に関しては、ドーパミンの不足で起こります。

意欲の低下や、引きこもり、感情がなくなるなどは感情の強化ができない、反応の強化ができないから生じるものと思われます。


また、統合失調症はセロトニン欠乏による原因も考えられます。

初期の妄想症状においては、健常な人なら軽い妄想をしてもセロトニンによる神経の不活性化により病的な症状が出ない所を、セロトニンが不足していると妄想状態が強く出てしまうことが考えられます。

セロトニンが少なくなっている状態で、あれやこれやと妄想していたら妄想を引っ込めることができなくなるという事です。

例えば以下の様なパターンがあると思います。

夢見がちな少年・少女が高校への進学を期に寮生活を送ることになる。

新しい環境に対して適応しなければならず、ストレスが多くなりセロトニンを大量に消費します。

しかし、なかなか友達が出来ないために、休日は部屋で一人でごろごろします。

その時に、あれやこれやと妄想して暇を潰していたら、いつの間にか妄想がなかなか引っ込められなくなってしまう。

いつの間にか、統合失調症の様な症状を呈するようになり気づけば幻覚もでてくる。

どうでしょう。

このようなパターンハマる方は以外に多いので気をつけましょう。

妄想しまくりの妄想家の方でも十分量のセロトニンが有れば問題ないのですが、セロトニンが少なくなっている時に変に妄想にハマリ込むと妄想が止まらなくなってしまうので要注意です。

また、徹夜でも妄想したり、睡眠不足なのに妄想したりするのは危険ですので注意しましょう。


以上が統合失調症に関してです。


うつ病も統合失調症も、セロトニンとドーパミンのバランスの崩れ、心理的・認知的処理の問題(うつ病なら、悲観的思考、統合失調症なら妄想)によって、症状があらわれると考えられます。

どちらも、セロトニンとドーパミンのバランスを取り戻せれば、比較的症状が軽くなると思われます。

しかし、心理的・認知的処理の問題が強い方は、悲観的思考や妄想などを意識的に断ち切る治療が必要になってくると思います。

セロトニンとドーパミンのバランスの取り戻し方は、症状に応じて薬を服用しながら、ちゃんと栄養(DHA・EPA・タンパク質・その他)を取りながら、脳を回復させる(睡眠・休養・娯楽・瞑想による脳内血流の増加)事をしながら絶たい無理をしない(ストレスが多い環境から離脱する(これをしないとセロトニン量が回復しない)ことが大事だと思います。

また、最近の研究では脳の扁桃体という場所に損傷が在ると、脳内伝達物質のバランスが崩れるという報告も上がってきているので。(これに関しては結構眉唾なのだが、脳の局所的な機能障害に関しては他の部位では結構ちゃんとした研究も成されていて、この報告についても本当の可能性はある)。


いかがでしたでしょうか。

全体的に仮説に仮説を重ねているので、理論としてかなり信用性不十分なのですが上記のような考え方をするとうつ病や統合失調症に対して上手く理解できるのです。

将来的にはこの仮説をたたき台にして、もう少し理論を洗練させていきたいところです。

もちろん全く的外れの可能性もあるので、検証が必要になってくると思います。

では今回は以上になります。




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共感脳は半自動的(オートマティック)、感じやすい女性に向けて

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、人間の持つ共感能力についての記事です。


まず最初に共感の仕組みについて説明します。


まず、人間の脳は互いに同調しあっています。

そして、互いの脳が同調して脳内の感情状態や意識状態やある種のイメージを互いの脳内に模倣し再現します。

そのように相手の脳の状態を自分の脳で模倣をすることにより、他者の感情を察知し共感します。

順番としては、同調→模倣→共感の流れです。

この一連の仕組みが、人間のコミュニケーションや共感能力、果ては学習の基礎を作っています。

そして、この一連の仕組は、半自動的(オートマティック)です。

自分でだれに共感してだれに共感しないその都度選別はできません、脳が自動的に周囲の人間に同調して模倣共感しています。

ただし、半・自動的ですので共感するかしないかは1つの仕組みで制御されています。

あいてに好意を抱いているか嫌悪を抱いているか、つまり好きか嫌いかです。

好意を抱いている相手には、脳は積極的に強く共感するように出来ています。

嫌悪を抱いている相手には、脳は共感しようとしません。

理由は単純で以下の通りです。

まず、判断や批判などは能力は、不快な感情を利用して、物事に不快を感じることによりそれにたいして否定的な印象をもつことにより、ある主張や物事を受け入れず、「まった」をかけることにより成り立っています。

そう言った理由で、分析や判断や批判などの不快な感情を利用する思考をするには、脳内に不快な感情を貯めることになります。

分析や判断や批判などは主に左脳を主体的な使う作業です。

左脳を沢山働かせると、脳内の血流が左脳に集中して右脳への血流が落ちます。

また、左脳が不快な感情を利用するように、右脳は快の感情で上手く働きます。

そして、共感の能力は主に右脳を利用する作業だからです。

つまり、左脳をゴリゴリつかって批判をすることにより、共感を司る右脳の働きを鈍らせることができるのです。

また、単純に不快な感情が脳内を蔓延することでも右脳の働きは鈍ります。


以上が人間の共感の仕組みの説明になります。



では次に、女性に多いと言われる「私に共感しない人は敵(嫌い)」という現象についてです。

現代の日本では、それなりに価値観が多様になってきました。

しかし、価値観が多様になってきたけれど共感能力が高い人間(子どもや女性などに多い)にはその共感能力ゆえにめんどくさいコミュニケーションをすることがあります。

それが「私に共感しない人は敵(嫌い)」現象です。

簡単に説明します。

仮に、Aさんという女性が、「私はチョコレートパフェが大好きなの」と言ったとします。

それに対する反応として考えられるのが、同意・不同意・無視などがあります。

この時に、同意という反応は大して問題になりません。

不同意・無視が問題に成るのです。

不同意の場合を考えます。

一緒にいたBさんが「私はチョコレートパフェは嫌いだな、でもあなたは好きなんだね」といったとします。

この時にAさんには少し複雑な自体が起こります。

Aさんはチョコレートパフェが好きです、しかしBさんはそうではありません。

ここで共感能力が低い人や理性で統制の利いている人は、「ふ~んそうなんだ、残念」で終わります。

Aさんは共感能力が高いのです、そしてBさんとは友人関係にあるのですくなからず好意をもっています。

そのため、共感能力が半自動的に発揮されて、AさんはBさんの感情状態に同調し、模倣し、再現します。

Aさんはチョコレートパフェが好きです、しかしBさんに対して共感能力を発揮してしまったためにAさんの脳内にチョコレートパフェが嫌いという状態が再現されます。

元々Aさんがはチョコパフェが好きなのに、嫌いという感情が沸き起こります。

この好きと嫌いが同居して、対立している状態はとても苦しいのです。

混乱し、混迷し、吐き気すら催します。

そのために、この状態から抜け出すためにAさんが取る行動は1つです。

Bさんに対して好意ではなく嫌悪を抱くことにより、自分の半自動的に発揮されている共感能力をシャットダウンさせるのです。

AさんはBさんを嫌うことにより、脳内の快と不快の対立を解消することができました。

この一連の流れが、「私に共感しない人は敵(嫌い)」現象です。

もちろん、女性でなくても、共感能力が低くてもそのような現象はおこります。

しかし、脳の理性を司る仕組みが未発達で、共感能力が比較的高いような女性や子どもに顕著に見られる現象です。

そして、いまの価値観が多様になった世の中それでは問題だし、そもそもいじめの原因にもなるので問題です。

なので、この現象を起こさせない対策を書きます。


まず一つは、共感能力を下げる方法です。

1 勉強して判断能力や批判能力を身につけましょう。

無駄に、共感しないように右脳を鈍らせるのです。

2 理性を発達させましょう。

理性を司る脳の部位を発達させるには、ヴィパッサナー瞑想や、「前頭前野が活性化している」や「大脳新皮質が発達している」等のアファメーション、運動、「DHAなどのサプリの日常的な摂取」などが有効です。

特に、「DHAなどのサプリ」を日常的に摂取しながら、「前頭前野が活性化している」や「大脳新皮質が発達している」等のアファメーションを行うのは、全ての人間に有効な簡単で効率的な脳機能の発達方法なので強くおすすめします。

また、勉強して批判能力を見につけて右脳の働きを鈍らせるのは、変に共感能力が下がりすぎて馬鹿になる可能性もあるので注意が必要です。

共感能力は低ければそれはそれで日常生活で困ってしまいます、必要だから機能があるのです。



どうでしょう、今回の記事は以上になります。

この記事を読んだ感じやすい女性の方などが少しでも、日常で楽になり、その周囲の人間も楽になることを願うばかりです。




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冬におすすめ。「緩めるだけダイエット」

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、冬など寒い時期に簡単にできる効果の高いダイエット法について書きます。


その名も「緩めるだけダイエット」。

やり方は簡単です。

アファメーションで「私の身体は緩んでる」と唱えるだけです。

では、簡単な理論の説明をします。

人間の身体はだいたい35℃~37℃の体温を維持しています。

また、熱エネルギーはエネルギー(温度)が高いところから、エネルギー(温度)が低いところに流れてエネルギーが均衡になろうとする自然法則があります。

冬など気温の低い時期は、気温が人間の体温よりだいぶ低くなり、その結果春や秋にに比べて人体の熱エネルギーはより大気に奪われてしまいます。

また、生物は古来より少ないエネルギーをやりくりして生存してきたため、そのような状況を避けるため冬などし寒い時期を乗り越えるための色々な仕組みを備えています。

人間の場合は、人間の体温より大気の温度が低くなると血管を収縮して、身体の体表に熱エネルギーをつわたわらないようにして、体表から大気へ熱エネルギーが逃げないような仕組みを備えています。

しかしどうでしょう。

上記のやり方は少ないエネルギーをやりくりしていた時代あるいは現在でもそのような人には必要ですが、飽食の時代の肥満の人間にはむしろ役立つどころか少々めんどくさいことになってしまいます。

そこで、そのめんどくさくなっていまっている仕組みを、めんどくさくなよいようにするのがこの「緩めるだけダイエット」なのです。



この「緩めるだけダイエット」は、やっていることは単純にアファメーションで血管を収縮しないように身体を緩めるているだけです。
 
血管を収縮しないようにするので、身体の体表に熱が伝わり大気に拡散してエネルギー(カロリー)の消費量が上がります。

また、血管を収縮している間は、エネルギーを必要としている身体の部位へのエネルギーの運搬が少なくなるかひどければ無くなってしまうという欠点があります。

そのエネルギーの欠乏が解消されるので、身体機能が衰えたり欠損するのを防ぐという効果もあります。


やり方として注意して欲しいのは、意識して呼吸を深くする必要があるということです。

理由は単純で、呼吸で酸素を体内に取り込まなければ、エネルギーの生産ができないからです。

「緩めるだけダイエット」は血管・筋肉・呼吸・自律神経など体全体を緩める必要があるのです。

また、体温は体表から逃げていくので、体表はかなり寒くなるので体表が寒すぎるようにならない工夫が必要だということです。

そして、あまりに寒すぎる場所でやったり素っ裸で行うのは熱エネルギーの拡散に生産が追いつかなくなって、人体の機能が極端に低下するので絶対にしないでください。


具体的なやり方を挙げます。

大体、屋内で室温が15℃~20℃の状態で、しっかり服を着て温かい飲み物や少量のチョコレートを摂取しながら「緩めるだけダイエット」をして生活すると、体温が下がり過ぎない上にエネルギーの消費もできてダイエット効果が高いと思います。(食事量を減らすということはしてはいけません!むしろしっかり食事は取ること。プラスアルファでチョコレートや温かい飲み物などしっかり取ること。)

また、ちゃんと防寒して外に出掛けてウォーキングしながら、緩めるだけダイエットをするのも効果が高いです。
このくらいの強度の運動だと、筋肉もいい感じに動いて身体全体がより緩まります。

会社で立場のある人なら、会社のエアコンの設定温度を少し下げ従業員に緩めるだけダイエットをすることを提案するのも良いかもしれません。

単純にエネルギーの消費が増えて痩せやすくなるだけでなく、身体の必要な部位にエネルギーがちゃんと届くようになるので、病気や怪我の予防になります。

(例え痩せ型の人しかいない職場の場合は、エアコンの設定温度はそのままの方が良いです。また、当たり前ですが、温かい飲み物や手早く糖分を摂取できる環境にする必要があります)

また、身体がブルブル震えるようならそれは体温が下がりすぎています、環境ややり方の調整が必要です。


いかがでしたでしょうか。

この「緩めるだけダイエット」の一番の利点は、ほぼノーコストで行えるというこです。

そして、ノーコストで行える割には結構効果が高いという点です。

現在2016年の1月の終盤です。

正月太りで数kg太ってしまったという方は、ほぼのコーコストで行えるこの「緩めるだけダイエット」を2月の間試してみてはいかがでしょうか。

たとえそんなに痩せなくても、ほぼノーコストですでのそんな期待してない分残念さが低いですし。

では今回の記事は以上になります。





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スピリチュアルで言う「周波数が高い」の誤解。

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、スピリチュアルの世界でよくいわれる「周波数」や「波動」に関して物理学と哲学的な視点から色々と書いていきたいと思います。

(注意。哲学的な考察からの知見です。筆者は物理学などはど素人です。鵜呑みにしないこと)


まず、物体の振動数としての周波数と見かけの運動の話から始めます。


全ての物体は物体固有の振動数というものがあります。

一般的に物理学では、固有の振動数が高い状態をエネルギーが高い状態として定義しています。

単純な理解の仕方として次の比喩があります。

野球のボールがただある状態と、ボールが小刻みに振動している(ぶれている。動いている)状態を比べたら、後者の方が運動エネルギーが多い(より運動している。より動いている)事がわかると思います。

上記の比喩でいう野球のボールの振動が物体の振動数、そのボールの振動から観測できる運動量をエネルギーと捉えてください。

実際の宇宙に存在するエネルギーというものは極論すると、運動エネルギーに還元できます。

熱エネルギー、電気エネルギーもしかりです。

それで、物体の固有の振動数がより高い(より小刻みに、素早く振動している)状態はエネルギーが高い状態です。

エネルギー高い状態ということは、エネルギーに関する法則であるエネルギー保存の法則が適用されます。

つまり、よりエネルギーの高い状態(周波数が高い)状態にするためにはどこからかエネルギーを持ってこなければいけないということです。

そこで利用されるているのが、物体の振動数(いわゆる周波数)と見かけの運動に使えるエネルギー(運動エネルギー。単純に速度の話)は互いに変換が可能という法則なのです。

一般に、速度(見かけの運動)が早い物体は、その物体の固有の振動数のエネルギーを見かけの運動に変換しています。

これは極論すれば、宇宙全体の保有するエネルギー量が決まっているということです。

元々の宇宙は、純粋にフラットな存在です。

つまり、偏りがない。歪みがない。全てが均一。

歪みがないから、反発がない。反発がないから、質量もない。

質量がないから、運動もない。運動がないから、エネルギーもない。

みたいな感じの存在です。

その状態から、偏りがある。歪みがある。偏差がある。

反発がある。質量がある。運動がある。エネルギーがある。

という状態に移行するために、色々と法則が生まれました。

その1つに、「最終的に全てを総合すると、元々のフラットな状態と等価でなければいけない」という物があります。

それが、エネルギー保存の法則の大元だと思われます

もっと言えば、物体が保有するエネルギーの量は決まっているという話にもなります。

つまり、物体の固有の振動数が高い状態は、見かけの運動につかうエネルギーを変換して実現しているのです。

ちなみに、この物体の固有の振動数が高い状態は、その物体の時間の流れが早いと表現でき、反対に物体の固有の振動数が低い状態は、その物体の時間の流れが遅いと表現できます。

いわゆる、相対性理論で語られる光速で移動する物体は時間が遅くなるという話は上記の理解だと古典物理学となんの矛盾のない理解ができます。

理解してもらいたいのは、物体の保有できるエネルギーの量が決まっていて、物体の固有の振動数が高くすると見かけの運動に使えるエネルギーが低くなるという点です。

周波数(振動数)のエネルギーと見かけの運動のエネルギーは相互に変換されるのです。




では、物体の周波数(振動数)と見かけの運動の関係を理解したら、スピリチュアルで言われる周波数の誤解を解いていきましょう。


まず、スピリチュアルでは高次の次元や存在ほど周波数が高いと表現します。

ハッキリ述べます。

上記の表現は、物理学でいう周波数の定義と矛盾します。

そもそも、魂や高次の存在とスピリチュアルで言われる存在は、物理的な特性が薄い、宇宙の根の方に近い存在です。

宇宙の元々は、存在質とも言うべきただ在るという状態のモノです。

本来的に、存在質は物質ではありませんから、固有の振動数も見かけの運動も存在しません。

魂や高次の存在というのは、物理的な観点から見たらエネルギーが低い状態に近くなければなならないのです。

実際は固有の振動数も見かけの運動のエネルギーの両方が低いという状態にはなりません。

宇宙に空間というものが存在している以上は見かけの運動がないと言うことはなりませんし、魂や高次の存在が個である以上、一定のエネルギーを持ちます。

実際は、固有の振動数のエネルギーをできるだけ低くして、見かけの運動に使えるエネルギーを高めています。

つまり、魂や高次の存在は実は「周波数は低い」のです。

よくスピリチュアルで、光の存在と言われるるのは次の理由です。

単純に、高次の存在は通常の物体より固有の振動数が低く見かけの運動のエネルギーが高い光により近いということ。

つまり、高次の存在ほど、物体の固有の振動数が低くなり、見かけの運動に使うエネルギーが増えるということです。

「どっちかって言うと、光(の状態)に近いよ」という単なる比喩です。



では、次は人間の脳と魂に関する話です。

人間の魂は、物質より存在質に近いです。

というか存在質そのものです。

通常人間の魂は、物質である肉体と同期をとっています。

同期をとると言うのは、肉体の固有の振動数と同じ振動数でいるということです。

同じ周波数(振動数)でいることでエネルギーの交流ができます。

これを一部では物理的なチャネルに合わせるとか、物理世界の振動数にチューニングするとか述べています。

チャネリングに関しては以前書いた記事を引用します。


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一般に音波、電波と呼ばれる 波長の話です。

単純に考えて、波長は同位相の波長と同調しますよね。

視覚から入りましょう。

~~~~ A波
~~~~ B波

の2つの波長があると考えます。

A波とB波は位相(波の形)が同じなら、同調(シンクロナイズ)します。

2つの波が完全に重なる感じです。

また、A波は位相の違うC波とは同調しないので、2つの波長がぶつかったら波長が乱れてしまいます。

しかし、同位相の波長が互いにぶつかったら、互いの波長が同調しつつすり抜けます。

この仕組を考えると、ある装置がA波を発信し続けると、同位相の波長のみをすり抜けさせてB波のみを検出することができます。

世の中の、電波の受信装置ってこんな仕組みなのかなと日々想像してます。

しかし、ちゃんと学んだことはないので想像止まりですね。

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引用した文章に書いてあるように、受信したい電波などと同じ位相の波を受信装置が発すると、同位相の波のみを受信装置で検出できるという仕組みがあります。

チャネリングはつまり、「自分の周波数を受信したい(何らかの)エネルギーの周波数に合わせると、受信できるよ」、という仕組みです。

魂も肉体に対して常にチャネルリングしているようなものです。

魂の周波数と肉体の周波数が一致しているので、肉体の発するエネルギーの波動を受け取れるのです。

この周波数を一致させることは、ある周波数にフォーカスするなどと言ったりもします。

魂から肉体に何らかのエネルギーの送信がしたかったら、肉体の周波数を魂と同程度にするか、魂の周波数をに肉体と同程度にするかどちらかです。

基本的に多くの人は、後者を選択しています。

もし、瞑想や気功で魂のエネルギーを高めたり高次のエネルギーを受け取りたかったら(周波数を合わせたかったら)、やることは1つです。

身体や意識を緩めるのです。

緩める、つまり固有のエネルギー(振動数、周波数)を高めるのではなく、低くするように努めるのです。

肉体の固有の振動数が低くなれば、宇宙の根の方の存在やエネルギーを受け取ることが可能になります。

それを確認するには、一般に脳波とよばれるモノが1つの指標になります。

ベータ波よりアルファ波、アルファ波よりシータ波の方がより緩んでいます。

また、チャネリングはエネルギーの受信であり送信でもあります

弱くエネルギーを発信(送信)することで受信のためのチャンネルを確保するのです、逆もしかりです。

強くエネルギーを発信(送信)することは、同時に受信の経路(チャンネル)を開くことでもあります。

宇宙の根の方に近いところに周波数を合わせることは、送信と受信の経路を確保するということです。

エネルギーを発することでエネルギーを受け取ることも容易にになるのです。 

スピリチュアルの世界で、「与えたものが受け取るモノ」だという話とに似ています。

何かを発信することは、それと同じようなものを受け取る経路を開くようなものなのです。

エネルギーの世界ではそんな感じです。

また、人間の心理の世界では、「相手をぶん殴ったら自分もぶん殴られる」や「相手に優しくしたら、自分も優しくされる」という返報性の心理みたいなものです。

しかし、エネルギーの世界とくらべて人間心理の世界の「与えたものが受け取るモノ」だというのはそこまで厳密ではないのです。

エネルギーの世界に比べて、人間の心理や人間の社会はより複雑で、新たな性質や仕組みも創発されています。

全く同じようには行かないものです。




いかがでしたでしょうか。

今回の記事をまとめると次の様になります。


1. 物体の固有の振動数(周波数)と見かけの運動(速度)のエネルギーは相互に変換されて、両方を合わすと常にエネルギー量は一定。

2. 魂や高次の存在は「周波数が高い」のではなく「周波数が低い」。

3. 高次の存在やエネルギーと交流したかったら、「意識と身体を緩める」ことで「周波数を合わせる」こと。


ちなみに、私の物理学や数学は全くの素人です。

心理学とか哲学とかそっち系の畑出身です。

なので、物理学とか数学に関してはめちゃくちゃ不勉強です。

基本的に、心理学とは哲学とかが大好きな奴があれやこれや書いていると考えてください。

特に、数学とか物理学に言及している箇所はは基本的には検証していないと考えてください。

くれぐれも、鵜呑みにしないように。 


では今回の記事は以上になります。 




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神聖幾何学について、ちょっとおもしろい話

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、ちょっとネットサーフィンしていたら見つけた神聖幾何学というものについて書きたいと思います。


神聖幾何学というのは簡単に説明するとある特徴的な構造の幾何学模様のことです。

これは言葉で説明してもよくわからないと思うので、ご自分で確認してみてください。

私は、TRINITYというサイトでたまたま見つけたそれを、なにかに似ているなと思ったのです。

それでよくよく思い出してみたら、某気功サイトのロゴマークに似ていると判りました。

一部の人にすごく人気なサイトなのでもしかしたら、この記事を読む方の中にも見たことがある人が居るかもしれません。


それで、この幾何学模様についてです。

この模様は一部では強いエネルギーを発しているだとか、神聖なエネルギーを発しているだとか言われているようなのです。

しかし、私の所見ではこの幾何学模様がエネルギーを発しているとかは可能性としては殆どありえないと思います。

視点が違うのです。

実は、この神聖幾何学は見るもの認識のパターンをグねらせているのです。

認識がグねるの説明として一番適しているのは、ルビンの壺というのがわかりやすいと思います。

有名なのでググれば簡単に見つかると思います。

白い壺が描かれている絵で、白い部分に注目していると壺にみえるのですが、背景の黒い部分に注目すると顔が向き合っているように見える有名なだまし絵です。

ルビンの壺は、白い部分に注目してるとただの背景にしか見えないのに、黒い部分に注目すると顔に見えます。

これは、認識のパターンが白い部分に注目している時と黒い部分に注目している時で別のモノ(パターン)を使っている事で生じる現象です。

多くの人は、一度顔に見えたらしばらく壺には見えなくなるという現象を体験すると思います。

人間の認識のパターンは変化し難く、一度固定するとあまり動こうとしないのです。

しかし、私はこのルビンのツボですが、意識的に注目する部位を切り替えて壺と顔を行ったり来たりすることが出来ます(私が特殊な人間というわけではないです。それなりの数の方が出来ると思います)。

意図的に自分の認識パターンをグねらせることができるのです。

この自分の認識パターンが定まらず、認識パターンが移ろいで見ているものがグネグネしている状態を、私は認識がグねるとよんでいるのです。

話は戻りますが、私が神聖幾何学の模様をじっと見ていると、認識がグネってくるのです。

神聖幾何学の模様は、特徴的な模様をしています。

人間の認識をグねらせるような模様です。

模様のある一部で形成される模様に注目したと思ったら、次の瞬間には別の一部で形成される模様に注目している。

この状態においては脳の認識を司る部位がとても活性化します。

単純に、認識パターンがあちこち行ったり来たりしているので、パターン認識を司る部位が酷使されて血流が良くなるのです。

普段人間は、特に認識がずれる事がないので特段に使われない部位が、酷使され血流が集まり機能がアップするのです。

人によっては、自分の中にとてつもないエネルギーが生じていると感じたり、慣れない箇所に血流が集まる感覚が気持ち悪かったり、認識がグねり過ぎて船に酔ったような症状が出ると思います。

特に気功や瞑想などの行いで、自分の体内の感覚(内部感覚)に敏感になっている方は、気持ち悪くなったり、酔ったりするかもしれません。

それで、なにかとてつもないエネルギーが神聖幾何学の模様から発せられていると勘違いしてしまうかもしれません。

なんてことはありません、脳機能の一部が活性化しているだけです。

特に、この認識のパターンがグねる事で活性化する部位は、おそらく網様体賦活系(RAS)だと思われます。

RASは自分に必要な情報だけを取捨選択している部位で脳幹に近い部分にあります。

普段人間の認識は、めったにブレることがないので特に活性化しているわけでないこの部位が活性化して機能が高まれば、人によっては妙な意識状態になったり第六感に目覚めたりするかもしれません。

(あたりまえですが、認識のパターンは何に注目して、何に注目しないかできまります。三角形と四角形がかさなった図形が在るとして、その図形を三角形と認識するには、四角形の部分を消すか無視するかしかありません。なぜなら、四角形と三角形が重なった図形は、定義的に三角形でも四角形でもないからです。)

(また、第六感は普段人間がシャットアウトして認識に上がってこない情報を元に生じる感覚です。RASの機能が向上することで、認識の幅が広がり普段シャットアウトしている情報に対する感度が上がることで第六感が強く生じることは十分に予想できます)

また、もし網様体賦活系のリハビリをしている方がいらしたら、神聖幾何学を使ったヴィジョントレーニングをすることで効果があるかもしれません。

そのような理由で、神聖幾何学は長い間エネルギーを発している特殊な幾何学模様として宗教やスピリチュアルの世界で扱われてきたのではないでしょうか。

そのために、なにやら胡散臭いイメージを持っている方もいらっしゃると思います。

しかし、神聖幾何学の模様は人間の認識力を向上させるけっこう役立つツールです。

スピリチュアルや宗教などに興味がある方以外にも十分活用できる便利なものです。

特に、脳トレや脳のリハビリなどにけっこう期待できるのではないでしょうか。

この記事をもって興味をもった方は、一度でよいので試しに神聖幾何学で脳トレしてみてはいかがでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

神聖幾何学、おもしろいとおもいませんか?

ネットサーフィンをしていてたまたま見つけたのですが、今後非常に為になりそうです。

このような役立つ発見があるので、スピリチュアルや精神世界周りの情報の探求はやめられません。

それでは、また別の記事でお会いしましょう。




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以下は補記です。

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スピリチュアルなどの造詣の深い方は、神聖幾何学に対する神聖なイメージが崩れてしまった方もいらっしゃると思います。

もしかしたら、そんな即物的なものではないとお思いになるかもしれません。

しかし、そんな方がいらしたら今一度スピリチュアルや宗教に対する捉え方を考えなおすことをおすすめします。

スピリチュアルや宗教などがテーマにしているものは、決して特別でも特殊なものでもありません。

非常に現実的で身近に存在するものなのです。

スピリチュアルや宗教などがテーマにしているもの「いわゆる愛や魂等」は、非常に現実的で身近なものであるのです。

巷でよく言う、宇宙のよくわからない不可思議なモノとして存在しているのではないのです。

むしろ、非常に身近で時にはひどく物理的で即物的なものです。

もしかしたら、それを熟知している人にとっては全く神聖さや荘厳さはないかもしれません。

ひどく身近で馴染みの深い、当たり前にあるものとして存在しているかもしれません。

時に神聖さやあこがれは、対象の自然な姿を歪めてしまいます。

神聖幾何学などスピリチュアルなモノの中には、そういったものが多く在ると思います。

そういった神聖さやあこがれが無くなっても、偉大なものは偉大だし、素晴らしい物は素晴らしいままだとおもいます。

そういった目線で見てはいかがでしょうか。

いろいろと書いてしまいましたが、補記はこれで終わりたいと思います。

 

集団の力学から考える4つの性格類型。リーダー・サポーター・オブザーバー・フォロワー

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、人間の性格タイプを集団の力学の視点から分析してみました。


古来から人間の集団には、基本的な四つの役割が見て取れます。


1つは、リーダー(先導者)。

集団の意思決定に大きな役割を果たし、集団の行くべき道、取るべき行動を集団の成員に対して提示し集団を先導します。他の集団の成員に影響されずに、自身の内的な導きに従います。

2つ目は、サポーター(後援者)。

リーダーの決定に従い、集団全体の利益の為に奉仕します。時には、自己の利益より集団の利益を優先し、集団の目的達成の為に集団を底支えします。

3つ目は、オブザーバー(観察者)。

集団においてリーダーを支持せず、また左右もされず集団が誤った選択をしないように常に一歩離れた場所から集団を観察します。
監察者(インスペクター)ではなく観察者(オブザーバー)なのは、多くの場合オブザーバーは集団を取り締まることをせず、一定割合のオブザーバーがいる事自体が集団が誤った方向に進む事を抑止する為です。

4つ目は、フォロワー(追従者)。

集団の成員の大多数を占めます。リーダーの提示した行くべき道、取るべき行動に追従して集団そのものを形成する。 フォロワーの性質として影響の受けやすさがあります。リーダーやサポーターやオブザーバーの影響を常に受ける事によって、集団の性質を決めるフォロワーの性質が偏らずいることができます。

以上の4つの役割が古来から人間の集団には存在したと考えられます。この4つの役割だけで、人間の集団を定義することが可能だと思います。


人間は上記の4つの役割を階層的に持ちます。

階層的にというのは、家庭という小集団の中ではリーダーな男性が、それ以上の規模の集団(会社や地域社会)ではフォロワーという場合があるということです。

また、基本的に人間は個人レベルで性質が完結しておらず、必ず集団レベルで性質のバランスを取ります。

簡単に言うと、一人でリーダー、サポーター、オブザーバー、フォロワーの性質をバランスよく持ち他者の助けを借りなく一人で全部出来て生きていけると言うことはないとうことです。

個人の役割のバランスには必ず偏りがあり、集団を形成することでそのバランスの偏りを解消する必要があります。

ひとことで言うと、「人間はたった一人で完結することはできない、人間は集団の中でしか完成できない」という事です。

具体的に言うと、全ての人間が社長(リーダー)に成ることは出来ないし、成る必要がない。会社を運営するには必ず社員(フォロワー)や投資家(サポーター)が必要で、時には外部の識者(オブザーバー)の助けが必要だということです。

注、(社員が必ずフォロワーだったり、投資家が必ずサポーターだったりするわけではないのでそこは注意が必要です)。



自分の性質は4つの役割でどれが一番強いかどのようなバランスになっているかを分かっていないと、無駄に苦労することがあります。

自分がフォロワーの性質が強いのに無理にリーダーの役割をやろうとしたり、オブザーバーに性質が強い人がサポーターやフォロワーの役割が上手くできないと悩んだり、リーダーの性質が強い人がフォロワーとして役割を強要されて問題を起こしたり、サポーターの性質が強いのに昇進して部下を持ってリーダーの役割を引き受たり、あまつさえリーダーの性質が強い人の真似をして失敗している場合があります。

フォロワーの性質が強い人は周りに影響を受けやすく自分の意思を貫くのが得意ではないので、基本的に強いリーダーには成れません。

オブザーバーの性質が強い人は基本的に他者から強い影響を受ける事を嫌うため、影響を受けやすいという特質が必要なフォロワーの役割は向きませんし、サポーターの役割も強い奉仕の精神など殆ど無いためその様な役割を求められても上手く役割をこなすことが出来ません。

リーダーの性質が強い人は生まれつき自己の感情や欲望に忠実な傾向あり、外部から影響に左右されないと同時に他者に従属する事を嫌います。そのため、そのような人がフォロワーの役割を求められても上手くやるどころが度々問題を起こすことになりやすいです。

サポーターの性質が強い人はリーダーの役割をやるには少々他者の意見を尊重しすぎです。また、伝統的な強いリーダーの真似は必ず失敗します。

フォロワーの性質が強いサラリーマンの方が、一念発起して起業しても他者から影響を受けて起業しようと思っただけで、苦手な決断や判断の連続や粘り強さが無いために失敗するという事もあると思います。

子供の頃からオブサーバーの性質が強い方が、日本の昔ながらの集団生活が苦手でなんとなく疎外感を覚えたり上手く友人が出来ないと悩んだりするかもしれません。

リーダーの性質が強い方が、就職した会社で我が強くて使いものにならないと判断されないともかぎりません。

人を支えたりするのが好きなサポーター性質の強い方が、他に仕事ができる人がいないとプロジェクトのリーダーに大抜擢されて、前任者がリーダーの性質が強い方でその真似をして上手く行かず大失敗したりする事があるかもしれません。

フォロワーの性質が強い方は、自分が大きな決断が苦手でや粘り強い行動できずや強い意思に欠けることを自覚しましょう。必要なのは、より良いリーダーを見つけそれに付いて行く事です。あなたは環境次第リーダー次第でおお化けする可能性があります。自分が苦手なことを他者任せるという態度があなたを上手く生かせるでしょう。男性なら自分の中のリーダーの性質から強いリーダーに憧れるかも知れませんが、その憧れはより良いリーダーを見つけることに使いましょう。影響の受けやすいあなたは、多くの人に影響を受け自分のブレた行動の中に自分なりの軸を見つけましょう。

オブザーバーの性質が強い方は、自分が他者から強い影響を受けることが嫌いなことを理解しましょう。人間関係は、自分が相手に影響を与え、自分自身も相手から影響を受けること受容しなければ成り立ちませねん。あなたの他者からの影響を拒絶する態度は、ともすれば偏屈頑固、心を閉ざしているなどと言われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。あなたは自分の心地よい距離感の中では非常にフレンドリーにも成れますし、礼儀正しくも成れます。少しの他者からの影響の受容と、心地良い距離感でいられる相手を見つけることによりあなたは多くの友人に恵まれる事ができます。
 
リーダーの性質が強い方は、自分の中に譲れない意思や感情がある事を自覚しているかもしれません。その感情や意思はあなたの武器にもなり、弱点にもなる諸刃の剣です。自分の中の意思や感情を育てつつ、御することを覚えましょう。それを御する事ができるか出来ないかで、あなたの人生は両極端に振れます。大きな成功か大きな失敗か、あなたはどちらかに極端に振れやすいことを理解しましょう。また、オブザーバーの友人を持ちましょう。あなたに必要な、冷静な視点を彼らは提供してくれます。大いに耳を傾ける必要があります。

サポーターの性質が強い方は、もしなんらかのリーダーの役割に選ばれたら、自分が決して強いリーダーにはなれないことを受け止めましょう。あなたは、サポーターです。サポーターにはサポーターなりのやり方で集団を支え導く必要があります。あなたは導くというより、信頼する人間です。オブザーバーやリーダーの性質の方のち力を十分に頼る必要があります。あなたは信頼する人間ですが、信頼するかどうかは見極める必要もあるでしょう。


いかがでしたでしょうか。

今回は集団の力学という視点から、人間の性格を類型分析してみました。

しかし、上記の分析と似たようなものが色々とありそうな感じですね。

また、私は自己分析では、オブザーバー > サポーター ≒ フォロワー > リーダーな感じですね。

もともとサポーターの性質が強かったと思いますが、色々理屈こねくり回していたらオブザーバーの性質が強いくなった感じです。

では今回は以上になります。

ではでは。



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幻覚は脳が見せるもの、見るのはあなた

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は幻覚について話です。


皆さんにお聞きします。

人間の感覚は脳が認識してるものであって、現実には存在しない、とか。

脳に電気刺激を与えれば、感覚を生じさせれるので、脳をコンピュータに繋いでアンドロイドを作ることは理論的に可能、とか。 

全ては脳内の電気信号だ、とか。

色の感覚はクオリアである、とか。

以上のような、現代科学の間違った解釈を鵜呑みにしていませんか。

人間に対する上記のような解釈は基本的な現代科学の論理的な誤りです。

脳がただあっても、感覚は生まれません。

感覚は身体的なモノです。

脳に電気信号を与えても、感覚を出力する身体がなければ全くの何も起こりません。
(よく、脳のAという領域に電気刺激を与えるとB感覚が生じたという実験結果の報告が上がっていますが、単純にAという領域から接続している一連の神経細胞が連続して発火して、末端の感覚まで出力しただけだと考えられます)

全ては脳内の電気信号という言葉は目の前の現実に対して、全く何一つも説明できていません。(このような、象徴的な言葉で理解したつもりになっている方は、厳密に脳内の電気信号がどのようにして感覚、人格などを生じさせているかについては何一つ正確には語れません)

色の感覚はクオリアではありません、視神経上に生じる、実際的な現実の現象です。

色というのは、現実の世界に天然に存在しているのです。

勝手に脳が作っているわけではありません。

当たり前ですが、現実には存在しない色というものを脳が作り出しているというのは嘘です。現実に色というものが存在しているから、色というのは当たり前に在るのです。

上記のような誤解をしていると、人間や世界に対してとんでもない誤った認識の上で生きていることになります。

色々な世界に対する捉え間違えをすることになります。


では、上記の事を踏まえて幻覚にたいして少し語ってみます。

まず幻覚は、幻視、幻聴、幻痛など様々物があります。

それらは全て、脳が身体に対して出力して、感覚器上に生じさせているモノです。

そして、それを実際に感じるのは脳ではなくアタナの意識そのものです。

幻視に関しては次の通りです。

通常の私が思考している時に映像を頭に思い浮かべることがあると思います。

その映像、実際に見えていますよね。

全く映像が浮かばないという方は珍しいのではないでしょうか。

りんごをイメージしてくださいと、言わればりんごの映像がどかからか現れますよね。

それは、脳が視覚の感覚器に対して出力して、あまり鮮明ではない程度の映像を見せているのです。

もちろん、それは感覚器に対する出力が弱いから、あまり鮮明ではないのであって。

強い出力を感覚器に対して行えば、より鮮明に、より持続して映像を見ることが出来ます。

麻薬をやって変な幻覚を観たり、瞑想中に神を見たり、視覚の能力が高い人が鮮明な視覚的な記憶を操る事が出来るのは、視覚の感覚器に対してとても強く出力しているからです。

また、視力が弱くなると「あ」だとおもったら「お」だったということが度々起きると思います。

それは、脳が見えない部分を脳からの出力で補って、あなたに見せるからです。

肉体の外部からの視覚情報の入力のみで外界の知覚が不完全な状態になると、脳は記憶を頼りにそれっぽい情報を出力して補います。

聴覚も似たようなものです。

普段本を黙読する方は、本を呼んでいる時に頭のなかで音がなっていますよね。

脳が鳴らして、あなたが耳で聞いているのです。

その時には、実際に声出す時に使う喉の筋肉を動きで、音声をコントロールしたり、単純に聞いたことのある音声を再生するかしています。

幻聴が生じる時は、聴覚の感覚器にたいして強い出力が生じています。

たまに、やったらめったら大きい音が聞こえる時は、やったらめったら強い出力が感覚器に対して行われています。

聴覚に対しても、普段聞き取れない、聞き取りづらい音に対しては脳が情報を補完します。

聞き間違えは良くありますがそのような場合、ちゃんと聞いていないか、ちゃんと話されていないのです。

他の感覚器に関しても似たようなものです。

ちなみに、当たり前ですが、幻覚は感覚器上に存在するものであって、感覚器の向こう側(現実の世界)に何かが生じるということはありません。

また、「自分の脳=自分そのもの」というのは大間違いです。

脳は自分の一部、心臓や肝臓と同じ1つの臓器でしかありません。

もし、脳死患者と、脳以外の損傷で死んだ方の脳を取り替えても、人格が入れ替わるというのはありえないと思います。

人間をまっぷたつに脳天からかち割って、左右を切り離して機械でどちらも生存させたら、あなたの意識はどっちに在るのという問いには、人間をかち割ったら死ぬとした言いようがありません。



どうでしょう、幻覚について多少お解りになられたのではないでしょうか。

ちなみに、この理論が正しければSF小説などであるVR(ヴァーチャル・リアリティ)の実現には予想外の壁がありそうです。

脳から身体への身体操作の出力をVR機器に迂回させてVRの中の身体へ動作を反映する、その上で必要な出力だけを身体に出力する事。

感覚器に再現したい感覚刺激を脳のトップダウン処理を利用して、感覚器にたいして出力する事。

以上のような事ができれば、VRは実現可能と思われますが、実際的な身体感覚をVR機器が再現するには非常に難しいと思われます。

なぜならば、元々の身体感覚は身体の感覚を身体に重なっている意識の主体が感じているわけで、VRの中ではサッカーをしていても、身体に重なっている意識の主体はサッカーをしていないので、実際にサッカーをしている感じにはならないはずです。

どうしても、身体感覚が弱くならざるをえません。

五感に関しての再現度はかなり高くなるとは思いますが、身体感覚が弱いとなるとリアリティが薄くなってしまいます。

もし、何十年後かにVR機器が開発されているなら、第二の現実という程のリアリティは望めないかもしれません。


では今回の記事は以上になります。

ではでは。



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潜在意識でダイエットの話

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、潜在意識を使ったダイエットに関する記事です。


まずはじめに、潜在意識の力だけでのダイエットは、非常に失敗しやすいということの理由の説明です。

人間の、脳からの出力で身体に働きかける事で行われる処理をトップダウン処理と呼びます。

また、人間が環境からの刺激として入ってくる事で行われる処理のシステムをボトムアップ処理と呼びます。

(注意。トップダウン処理やボトムアップ処理などの用語は、科学的に正確なものではなく、このブログ内だけで通じる意味合いで使っています)

人間は、脳からの出力であるトップダウン処理と、環境からの入力のボトムアップ処理が共存しています。

私が別の記事で書いているのですが、アファメーションや、自己催眠などの技術は人間の脳から身体への出力という形(トップダウン処理)で実装されています。

アファメーションや自己催眠は、トップダウンの処理を上手く利用していることにより成り立っています。

例えばの話、アファメーションで「私は体重がどんどん減っている」という言葉を使うと、脳からのトップダウン処理により身体が「私は体重がどんどん減っている」という状態を微弱に再現します。(あくまでも微弱にです)

このアファメーションを繰り返すと、「私は体重がどんどん減っている」という状態の再現が潜在意識のなかで自動化されることになり、結果体重がどんどん減っていきます。(あくまでも上手く行けばですが)。

しかし、人間にはボトムアップの処理も存在します。

「私は体重がどんどん減っている」という状態を脳が身体に再現させ続けていても、毎日5000キロカロリーの食事をバカ食いしていたら、体重は増えていくでしょう。

つまり、アファメーションでトップダウンの処理を利用して体重を減らそうとしても、ボトムアップの処理がなくなるわけではないので体重は減らないのです。

中にはよっぽどトップダウンの処理が強烈に働いて、5000キロカロリーの摂取が帳消しに成るくらいに痩せる方も居るかもしれませんが、一般の潜在意識でダイエットをしたいという方にはトップダウン処理だけで痩せるのはおすすめしません。
 
なぜなら、トップダウン処理が強すぎるのは、生物として不健全だからです。

環境からの入力を無視し続けたら、生物として滅んでしまいます。

あくまで、ボトムアップ処理(つまり環境からの入力)を重視するべきという考えです。

5000キロカロリーが帳消しに成るくらい、トップダウン処理を働かせるのは良くありません。

また、(願望実現界隈で言われる)潜在意識をまるで魔法のように考えられている方もおられると思います。

しかし、潜在意識は魔法のツールではなく、物理的な構造や仕組みを持った人体の機能の一部です。

実際にそれが働く仕組みを知らずに、魔法のツールと考えるのは非常に危険です。

潜在意識を使ったダイエットは、トップダウン処理とボトムアップ処理の両方をうまく使ったほうが良いです。


次に、潜在意識でダイエットのうまいやり方になります。

まず、当たり前ですが食べ過ぎ、運動不足、偏った食生活は控えましょう。

ですが、この3つともちゃんと出来ている方はそもそもダイエットなど必要ないのです。

なので、食べ過ぎ、運動不足、偏った食生活などに気をつけながら、自分があまり直せないと思うものに対する、潜在意識を使ったアプローチをしましょう。

食べ過ぎが直せない方は、「食事が少量でも満足できる、空腹が気にならない」というアファメーションが良いかもしれません。

運動不足の方には、アファメーションではありませんが、「実際に重いものを持っているかのようにイメージして、身体を動かす」などがあります。

これも、トップダウン処理の利用法なのですが、人間が重いものを持った時に生じる筋肉の緊張などをトップダウン処理で再現してあげることにより、実際に重いものを持っていないのに重いものを持ったような運動ができるのです。
 
ダンベル運動などを、ダンベルを持たずにダンベルを持っているかのように行うことで運動不足の解消になります。

偏った食生活には、「野菜が美味しく感じる、ジュースよりお茶が好きになる」などのアファメーションなどが良いのではないでしょうか。 (特にジュースやお菓子のカロリーは馬鹿にできません)

以上の、事柄をあくまでボトムアップ処理(つまり、食べ過ぎない。運動をする。まんべんなく栄養を取る)の補佐として行いながら。

「〇〇kg(具体的な目標数値)になっている」というアファメーションをやったほうが良いです。

ボトムアップ処理によるマイナスがなければ、アファメーションでの「〇〇kgになっている」というのは達成しやすいです。(あくまで時間がかかりますが)

潜在意識でダイエットを成功させたいのなら、トップダウン処理だけでなくボトムアップ処理にも注意を払うことです。


今回の記事は以上になります。

どうでしょう、潜在意識でダイエットをしたけど上手く行かなかったという方は、ボトムアップ処理を無視し続けていた方も多いのではないでしょうか。

潜在意識は魔法のツールではありません。

物理的な構造や仕組みに則った人間の機能の一部です。

魔法のように万能というわけにはいきません。

ですが、適切な効果範囲と利用の仕方でなら、大いに人生の助けになります。

ではおしまいです。



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「潜在意識で容姿を変える」の話。その2

こんばんわ、dokubo_toshoです。


「潜在意識で容姿を変えるの話」の記事を読まれている方が沢山いるようなので、その手の記事を書きます。


魂の力で容姿を変えるという話を「潜在意識で容姿を変えるの話」でしましたが、今回の記事では色々と補足をします。

まず第一に、後で理由は述べますが、多くの人に向いているやり方では無いということは承知しておいてください。

次に、「魂の力で容姿を変える」という胡散臭いワードへの補足です。

魂の力というと難しいとか怪しいとか思われるかもしれませんが、「人間の身体の構造とそれを維持する為に仕組みを利用する」という話だと理解してください。

容姿に関する遺伝子の情報は大体はパーツに関するものです。

また、大枠の人体の構造も遺伝子によるものだと考えられます。

大事なことは、通常私たちが一般に容姿と呼ぶものは、遺伝子の影響も受けますが生きてきた環境(食生活や住生活)やそれまでの身体の使い方(歩き方、物の持ち方、ある動作をする時に身体をどう使うか、走り方、どんな表情を良くするか、姿勢など)も大いに影響を与えているということです。

また、遺伝子は遺伝子のスイッチがオンになったりオフになったりして、ものは同じでも遺伝子のどの部分が発現するかが変ります。

それらを踏まえると、人間の容姿は非常に柔軟性があるものだという事がわかると思います。

魂の力で容姿を変えるというのは、パーツ以上・人体の構造以下の大枠の柔軟性を利用したり、遺伝子のオン・オフが関わってくるということです。



ところで、前回の記事では説明する際にパーソナルロゴスという用語を使っていたのですが、後から自分の記事を読んだら非常にわかりにくいと反省したため、パーソナルロゴスという用語は使いません。

シンプルに「魂」と書きます。

(科学もスピリチュアルも哲学も新聞の経済記事も「用語の問題」がわかりにくさの一番の原因です。私の大好きなウィトゲンシュタインも言っておりますが、所詮はラベルの問題です。とらわれ過ぎないようにしましょう)


次に、魂についての補足です。

魂の力で容姿を変えるには、まず「魂と肉体は基本的に重なり合っている」という事実から説明します。

身体を構成する物質というのは、基本的に隙間開きまくりで密度はそんな高くありません。

魂というのは、その物質と物質の隙間に存在する「力場」のような物と考えてください。

物質があれば力場に影響を及ぼします。

また、力場も物質に影響を及ぼします。

身体を構成する物質はこの力場(魂)の力でその構造を維持しています。

魂の力を利用すると言うことは、

この力場が保有する物質の構造の情報へちょいと介入するということです。

(実際の物質の相対的な位置関係が物理構造なら、その物質が在ることで生じた力場の歪みは物理構造の論理構造=情報となります)


次にやり方への補足です。

前回の記事で、容姿を変えるには「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」が有効と書きました。

自分の理想のイメージを詳細にビビッドに練り上げ、主観的に視覚化し成りきる。

これをずっと続けるのです。

それも寝ても覚めても。

主観的に成りきるというのは、詳細にビビッドに作り上げたイメージを自分の身体に重ねるということです。

例えば胸がAカップの女性がDカップになりたかったらば、自分の首を下に向けたらDカップのお山が見えるようにイメージすることです。

自分の身体を第三者目線で見るのをイメージするのではないのです。

自分の胸がDカップになっているのを幻視するのです。

別の記事で書いていますが、幻覚は感覚器への出力なのです。

理想の容姿になりたいなら、視覚的にイメージし、さらに身体的な感覚も出力する必要があります。

自分が、理想通りのイメージであると、主観的に成りきりそれをありありと感じているならば、そのイメージは実際に身体に出力されています。

実際に出力されているから、感覚として感じるのです。

常にありありとイメージして成りきり続けたら、最初は単なる感覚器への出力でしかなかったあなたのイメージが、実際の身体に影響を及ぼし始めます。

人間の身体の細胞は入れ替わりのサイクルがあると言われています。

一年も「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」を続けたら、身体の細胞の入れ替わりにも影響を及ぼします。

当たり前ですが、この成りきりをやっていると、歩くだけでも実際の自分の身体が歩行する感覚と理想の身体のイメージが歩行する感覚がダブります。

この時に、実際の身体が歩行する感覚を無視して、理想の身体のイメージが歩行する感覚に強くフォーカスするのです。

これをありとあらゆる生活の場面で、常に行い続けるのです。

仕事で納期に追われている時も、試験勉強で深夜まで参考書を開いていいる時も常に。

最初に書いた通り、一年も「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」を続けるほどの、エネルギーと意識を割くのは一般の仕事や勉強に追われている社会人や学生に難しいのです。

よっぽど、自分の容姿を変えるということに執着していないとできません。

ただ、一年も「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」を続ければ、徐々に理想のイメージを維持するのに慣れてきます。

そして、ある瞬間にそれまでの容姿と「理想のイメージ」のリアリティが逆転します。

そうなれば、あとは自分の理想の容姿をイメージを維持するのも楽になります。

そこまでくれば、実際の身体もかなりイメージに影響されて変わっているでしょう。


どうでしょうか。

以上が「潜在意識で容姿を変えるの。その2」になります。

この「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」は効果が高い反面、非常に根気がいるし大変です。

多くの人は、気功やアファメーションで肌の新陳代謝をアップさせてり脂肪を燃焼させたりする程度が関の山なのではないでしょうか。

仕事や勉強に追われながらの常に理想の容姿をイメージし続けるのはほとんどの方は出来ないでしょう。

ですが、本気で自分の容姿を変えたいと思えるかたなら成功することも夢ではないでしょう。


では、今回の記事は以上になります。

ではでは。



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量子力学と相対性理論の話~ちょっとした発想の転換~

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、量子力学や相対性理論に関わる話です。


先ずは、数学の話から。

数学における計算式は、純粋な論理だけの世界に見えます。

しかし、その向こうには、物理的な世界の実際的な何かに関連付けられています。

というか、その実際に的な何かがなければ人間は数式を理解できません。

数式の理解は、言語の理解と同様に脳が数式の意味を内部的に再現します。

そのため、数式の理解は必ず身体感覚が必要になります。

視覚や聴覚などにとどまらず、身体そのものを使って理解しています。

通常は、内部的な再現が微弱なためそのことに気づきませんが、数学に高い適性を持った方の中には身体感覚が強烈に感じられる場合もあります。

単純に、視覚的な物理運動で再現したり、数が増える減るという感覚を再現したり、抽象的な感覚で理解したりしています。

そこで問題となるのは、虚数です。

虚数というのは実際的な何かに関連付けるのは非常に苦労します。

二乗するとマイナス1になる数。

非常に厄介です。

しかしこれは、虚数というのが物理的な世界の実際的な何かと関連付けられていると考えればそう難しい理解ではないのです。

単純です。

虚数が出てくる数式がどのような現象を記述するかによるのです。

虚数はその現象の世界の何かに関連付けられているのです。

単純なマイナスの数に関しても、身長を記述する計算式の解に、マイナス163cmとでればそれはそれは間違った計算式になります。

というか身長の世界にマイナス163cmは存在しないのでマイナスの概念は身長の世界では引くという範囲でしか適用できないのです。

マイナスという数学の世界で至極基本的な概念ですら、現実の世界では適用範囲が在るということ(つまり、現実の世界の実際的な何かに関連付けられないことがある)は、数学の計算式は現実の世界の実際的な何かに関連付けられる範囲で使用しなくてはならないし、その世界には必ず数式と関連付けれた実際的な何かがあるということです。

マイナスという概念は、借金の計算や、数直線の動きなどの適用できる範囲の中でしか存在しないのです。

もし、量子力学など範囲で虚数が計算式の中にどうしても出てくるのなら、虚数に関連付けられるような現実の世界の実際的な何かがあり、虚数が計算式の中に登場しない範囲(つまり、身長の話とか)のではありえない何かが在るということです。

それを考えると量子力学などで出てくる虚数は、量子の世界の実際的な何かと関連付けられるというのが分かります。

それは超紐理論で登場する1次元の紐も同じです。

単純に1次元の紐があると考えるのではなく、1次元の紐と数学の世界で表すことができる何かが在るということなのです。

さらに言えば、数式に存在する次元すらもその数式がどのような現象に適用されるかで、次元が関連付けられる物理的な世界の実際的な何かが変わってくるのです。

もしある数式を現実世界の何らかの現象に適用できるなら、その現象にその数式と関連付けられる現実世界の物理的な実際的な何かが在るということだけなのです、それは別の数式が表す別の現象とは結構無関係なのです。

というわけで数学の話は終わります。


次に量子力学の話。

私は別の記事で、次のようなことを述べています。

物質は気からできている。

物質は気がなんかエネルギーが渦巻いているような状態です。

気とは存在質ともいうべき、実際に存在しているけど物性(現代物理学でいう量子場のようなものです)は持たない存在です。

気は世界につながりを持って広がっていて、それを気の場(比較的、量子力学でいう波動関数など)という。

気の場は、当たり前ですが基本的なフラットなものです。

フラットというのは歪みや偏りがなくドコまでも平坦ということです。

しかし、物質はある種の気の場の歪みです。

しかし元々は気の場は、フラットな存在ですのでエネルギーが渦を巻いているような歪みは存在できません。

フラットな存在がエネルギーが渦を巻いているような歪みを持つには、方向性の概念が必要でした。

1次元のベクトルで表せるような、エネルギーの渦は向きがあります。

フラットな存在である気の場は、右まわりのエネルギーの渦を生み出す代わりに、左回りのエネルギーの渦を産み出して、2つのベクトルを合成して相殺したら結果的に気の場がフラットに成るようにしました。

なので、基本的に逆向きの同質のエネルギーの渦がであってしまったら、互いのベクトルを相殺してフラットなただの気の場にもどります。

また、物質は気の場が素になっていて、つねに気の場とつながっているので、物質が存在する周囲の気の場は、物質のエネルギーの渦に影響されて、若干歪みます。

また、あらゆる物質は歪みの合成です。

大元である、気の場から生み出されたエネルギーの渦である物質は、重なりあうことができたり、あるいは分裂して、エネルギーとベクトルを、最終的に気の場がフラットになる感じで産み出したりします。

また、量子レベルの話になると、粒子は気の場にもどります。

ミクロの世界になると、物質はエネルギーの歪みから、気の場に近い状態もどることもある。

マクロの世界になると、物質はエネルギーの歪みが固定されるので気の場に戻ることがない。

量子力学の世界では、量子は重ねあわせの存在だとか、観測により確率が収束するとか、空間的に広がりを持つとか言われている。

その実態はなんてことはなく、次の通りです。

物質は気の場のエネルギーの歪みであり、空間の0次元の点でもなく、なんかそこら辺を渦巻いている状態です。

ミクロの状態では、なんかそこらを渦巻いている状態なので、あるい一点に存在しているということはない、といか広がりをもっている。

また、存在の確率が分散しているというより、エネルギーの総量を1として密度が薄いところとか濃いところとかバラバラな状態で存在して、かつ高エネルギーが渦巻いておりかつ軸もないためぶれている(振動している)。

観測というか、粒子をそのエネルギーの渦巻いて広がっている所にぶつけると、運動量を与える事になって、その一点に反発力がうまれてエネルギーが集中して密度が上がる(だいたい100%)。

物質として、質量がある(観測できる)状態はこの密度が100%の状態の時だけ。

みたいな感じでしょうか。

ちなみに量子もつれを利用した量子通信は、そもそも気の場がフラットな存在だということから理解できます。

物質が存在するときには、最終的にフラットな形にならなければならないので、量子もつれ状態のスピンも総合してフラットな形に成らなければいけないため、スピンの向きは絶対に同じなりません。

量子テレポーテーションも、高速より早いとか言われていますが。

次の説明のようなものです。

一本のめちゃくちゃ長い木の棒(例えば、1億kmあったとして)を、両端の人間もって右回りに回転させたら、反対側の人間からは必ず左回りに回っているように見えるはずです。

それは右回りの情報が伝わって左回りなっているのではなく、1つの繋がったものを別側から見ているだけというわけです。

量子もつれを持つ対になる量子も、気の場がフラットな存在であるために、つながっています。

対になる量子は、木の棒というより、一枚のビニール製の布のイメージですね。

ビニールを表側から引っ張ってビヨーンと伸ばして膨らませたら、反対側から見たら凹んで見えますよね。

ビニールは平面ですが、現実の物理空間でも同じようなことが起こっています。

フラットな平面で歪み(物質)を生じさせるには、膨らみとヘコミは、同時存在しなければなりません。

平面ではないですがフラット(歪みのない平坦)な気の場においても、若干次元がちがいますが同じようなことが起こっています。



次は相対性理論の話。


相対性理論では時間に対する解釈が間違っている可能性があります。

相対性理論では、光速度は普遍で、光速で運動している光子から、新たに光子を発射してもそれは光速だと言っています。

相対性理論では、相対性とか言いながら時間の測定は絶対時間を基準として時間測定から逃れていません。

時間とはそもそも、1つの基準となる系があって、その系と測定対象の系によって導き出されるものです。

しかし、一般に相対性理論を理解する時は、あくまで時間の測定の基準に従来の絶対時間を基準とした時間測定を想定しています。

相対性理論では、その式の時間は、絶対時間を基準としたものではなく、測定者を基準としたものです(というかそういうことに成らざるを得ません)。

光速で運動している物体から光子が発射されたら、それは光速であるというのは次の理解です。

時間の測定は、測定者の固有のエネルギー量(物体の運動量)と対象の運動量の関係であらわせます。

例を出します。

車が10kmの道路を走り終える速度を計算します。

簡単に表すと、時計の針が動くスピード(変化量=エネルギー量)と車が10kmの道路を走り終わる(絶対空間内での物体の移動)で表せます。

車がスタート地点からゴール地点もで移動するのに時計の分針が12から6まで移動した場合を考えます。

これは単純に10kmはしるのに30分かかったと言えます。

時速20kmです。

では、二回目の測定では、車が10kmの道路を走り終えるのに、分針が12から3に移動したとしたます。

これは単純に考えれば、15分かかったといえます。

つまり、時速40kmです。

くるまのスピードが速くなっています、アクセル全開にでもしたのでしょうか。

ですがちょっとまって下さい。

本当に車のスピードが速くなったのでしょうか。

もしかしたら時計の針が遅くなっただけかもしれないですよ。

車のスピードが早くなったのか、時計の針が遅くなったのか、この2つだけをみてもわかりません。

しかし、そこに全く関係のない第三者がいたら一目瞭然です。

その第三者の時間が変化していないとしたらですが。

相対性理論を突き詰めるとこのような話になります。

もし、光速度で運動する物体から、発射された光子が高速度に見えるというなら。

そして、高速度がどのようなときでも同じなら。

物体は高速度に近くなると、その物体の時間が遅くなる。

つまり、潜在的なエネルギーを見かけの運動量に変換しているという話になります。

そのように考えるなら、光速にたっした物体は、自身の時間が遅くなり、相対的に絶対時間で高速度の光子が、光速に見えることになります。(相対速度とかはまったく気にしていないのであしからず)

しかし、それは光速で運動する物体と、そこから発射された光速で運動する光子の2つだけの関係です。

第三者からみたら、単純に光速で運動する物体とそこから発射された光子が、光速で運動するという当たり前の光景です。

ちなみ、空間が縮むという話は次の理解です。

上記の車が10kmの道路を走り終える時間を時計で測る例です。

コピペ

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では、二回目の測定では、車が10kmの道路を走り終えるのに、分針が12から3に移動したとしたます。

これは単純に考えれば、15分かかったといえます。

つまり、時速40kmです。

くるまのスピードが速くなっています、アクセル全開にでもしたのでしょうか。

ですがちょっとまって下さい。

本当に車のスピードが速くなったのでしょうか。

もしかしたら時計の針が遅くなっただけかもしれないですよ。

車のスピードが早くなったのか、時計の針が遅くなったのか、この2つだけをみてもわかりません。

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よーく読んでください。

この具体例、時計の針が遅くなっても、車のスピードが早くなっても時速40kmという結果は変わりないのです。

つまり、自分の時間が遅くなっている状態では、空間が広がって見えるのです。

時間が遅くなるというのは外から見たらですが、測定者は絶対に自覚できません。

だって、測定者自身は自分の時間を自覚できませんから。

時間の測定は、基準となる1つの系と対象の系の関係で決まるのですから。

自分自身の時間を測定したくても、系が自分1つしかありません。

さらに、速度というのは、速度  = 距離 ÷ 時間 で計算します。

で、速度に✕2した時、距離に✕2しても時間に✕2しても計算式上ではわかんないのです。

で速度が上がって見えた時に、時間が遅くなった時、時間にX2した(つまり、より多くの時間をかけて10km移動した)と考えるのではなく、距離に✕10した(同じ時間で20km距離を進んだ)と考えたのです。

測定者自身は、自分の時間が遅くなっているとは考えないため、どうしても空間が歪んで見えるのです。

結局、時間という概念を厳密に定義したら、このように単純に相対性理論を理解できたのです。



いかがでしたでしょうか。

ちなみに、私は物理学や数学は全くのド素人です。

このような事を考えるのが好きなだけの、ド素人です。

なので、絶対に鵜呑みにしないでください。

純粋な哲学的な探求から端を発しているため、数学的な証明とか量子力学の厳密な話とかいまいち解りません。

こんなこと考えている奴がいる、程度に考えてください。

私は基本的に現代物理学の理論の実験結果の解釈や、よくわからない説明には懐疑的です。

量子力学における多世界解釈とかSFがすぎると思っていますし、粒子と波の性質を併せ持つとか小難しく考えすぎだと思っています。

数式とか実験結果とかは、率直に考えるしかないのに、変に波であり粒子であり~とか可能性が重ねあわせになって観測するとき収束する~とか、無理に理解しようとしてもあれですよ。

特に、学者として活躍している方たちは、基本的に抽象的な思考に親和性がある方たちばかりなので、説明になってない説明とか、現実としてありえないけど、論理的成立している(ように見える)モノに、変に納得しがちです。

人間案外、説明になってない説明になんとなく納得しがちです。

といことで、今回の記事は昨今のよくわからない物理学の潮流に、それってなんか変じゃないという提言になります。

では今回の記事は以上になります。




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戦略型ポジティブシンキングあるいは戦略型ネガティブシンキングのすすめ

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、ポジティブシンキングとネガティブシンキングに関する記事です。

巷に蔓延るポジティブシンキングとネガティブシンキングに関する誤解を解き、戦略型ポジティブシンキングと戦略型ネガティブシンキングを紹介します。



皆さんは、ポジティブシンキングやネガティブシンキングについてどう理解していますか。

単純にポジティブシンキングはを「何に対してもポジティブ(肯定的)に捉えようとすること」、ネガティブシンキングを「何に対してもネガティブ(否定的)に捉えようとすること」だとお考えでしょうか。 

実は、ポジティブシンキングとネガティブシンキングは、科学的に定義できるのです。

人間は平常状態で肯定的感情をベースにしている方と、否定的感情をベースにしている方が両方いらっしゃいます。

前者の方は、脳の感情を司る部位が快を出力しており、後者は不快を出力しています。

私は別の記事で、人間が言葉を理解する時には、常に自分の内部で言葉の意味を再現していると書きました。

また、人間が他者に共感するときには、他者の脳内状態を模倣して再現して理解しているとも書きました。

文章をを理解するときには、単純に意味を再現しているだけです。

他者が話す言葉を理解するときには、脳は言葉の意味を内部で再現しながら相手の感情状態などを共感能力で模倣しています。

平常状態で肯定的感情を脳が出力している人は、文章を理解したり他者の言葉を理解するときには元々脳が肯定的感情を出力している所に、言葉の意味を再現したり相手の感情状態などを模倣しようとします。

当たり前ですが、元からあった肯定的感情(快の感情)は言葉の理解などに影響を及ぼします。

肯定的感情が、文章や言葉の理解時に上乗せされ混ざるのです。

そのために、他者の言葉を肯定的に捉えがちですし、時には過度に信用してしまいます。

平常状態が否定的感情の人がその逆です。

他者の言葉を否定的に捉えがちで、時には過度に不信を抱いたりします。

また心理的には、自分の抱いている感情状態と合致した印象を物事にいだきやすくなります。

肯定的感情を抱いている状態では物事の肯定的な感情を喚起する側面に注目が行きがちです。

否定的感情を抱いている状態でその逆です。

これは、ベースにある感情状態と結びついた記憶を引っ張り出しやすくなるためです。

これらを要約すると、ポジティブシンキングは「平常状態で脳が肯定的感情を出力しているために起こる心理的傾向あるいはその傾向があること」となり、ネガティブシンキングは「平常状態で脳が否定的感情を出力しているために起こる心理的傾向あるいはそれの傾向があること」となります。

どうでしょう、理解できたでしょうか。


では、巷に蔓延るポジティブシンキングやネガティブシンキングに関する代表的な誤解を解いていきましょう。

誤解その1

 ネガティブシンキングは悪いことだ。

誤解その2

 ポジティブシンキングは良いことだ。

誤解その3

 ポジティブシンキングをしたほうが物事(仕事・勉強・スポーツ)がうまくいく

誤解その4
 
 ポジティブシンキングをし続けることが、幸福をもたらす

誤解その5

 (ネガティブ・ポジティブ論争における)ポジティブシンキングは逆に不幸をもたらす

誤解その6

 ネガティブシンキングはし続けると、不幸をもたらす


まずは誤解その1から訂正します。

 ネガティブシンキングは悪いことではありません。

 ネガティブシンキングをすることで、犯罪や事故から身を守る事が出来ます。
 他者に対して、ネガティブな態度を貫く事が必要な場面は多々あります。海外旅行で治安の悪い地域を旅行する場合は、ネガティブシンキングは有効です。詐欺や誘拐や強盗に合うリスクを下げます。
 ネガティブシンキングで致命的なミスや過度な楽観視を避けることができます。
 自動車運転では、ネガティブシンキングの適度にストレス(不快)がある状態は運転に適しています。もしかしたら事故に合うかもしれない、事故をおこすかもしれないという事を考えることで脳は手抜きをしなくなります。

 もちろん、ネガティブシンキングの悪い側面もあります。
 通常特に疑う必要のないことに対して、過度に疑念を抱く。
 人と信頼関係を気づきにくいため、人間関係に躓きがち。
 本当に良い商品やサービスなのに、広告宣伝が下手だったり、無名だったり、怪しいくらい効果が高いと怪しい商品だと判断して購入せず利益を逃してしまいます。

誤解その2の訂正です。

 ポジティブシンキングが困る場面は多々あります。

 基本的に他者に対してポジティブな態度を取るので騙されやすくなります。相手の悪意や害意を想像しにくいので、相手に悪意があることに気づきにくいです。海外旅行で治安の悪い地域を旅行する場合、ポジティブに物事を捉える癖が、犯罪者に対して付け込まれる原因になります。
 書かれている文章に対して否定的感情を持ちにくいので、怪しい通販や商材に騙される可能性が高くなりがちです。
 批判したり訂正したり改善すべき事に対しての許容度が高くなりがちなので、それをするべき事柄が自分や友人や家族、恋人にあっても許容してしまい、相手や自分の将来の利益を失わせてしまう。(具体例、子供が友人に対して暴力や暴言を吐く。友人が他人家の冷蔵庫を勝手に開ける。夫が子供の前で煙草を吸う。毎日酒を大量に飲む等)

 もちろん、ポジティブシンキングの良い面もあります。
 他者に対して肯定的感情を持ちやすいので、人間関係が楽、上手く行きがち。
 世の中をよく捉えがちなので生きてて楽。
 どうしようもない状況でも、肯定的に捉えることによりそれほどストレスがない(逆境に強い)。


誤解その3の訂正です。

 ポジティブシンキングは勉強・仕事・スポーツに対して良い面と悪い面があります。

 ポジティブシンキングの方は、平常状態で肯定的感情(快)を抱いているので、勉強や仕事やスポーツに対して積極的に行動できます。何かを始める時に心理的抵抗が少ないからです。
 逆に、勉強や仕事やスポーツのここぞと頑張らなければいけない場面など、ストレスが必要な場面ではストレスを弱めてしまうのでガツンと頑張れません。

誤解その4の訂正です。

 場合によります。

 ポジティブシンキングでどうにもならない場合は多々あります。

誤解その5

 場合によります。

 ポジティブシンキングで物事をうまく生かせる事は可能です。
 やり方次第です。

誤解その6

  場合によります。
  ネガティブシンキングをする方で、幸福な方も沢山いらっしゃいます。
  ネガティブシンキングをする方で、不幸になることもあります。

6つの誤解を解いていきました。



では次は、タイトルにある戦略型ポジティブシンキングと戦略型ネガティブシンキングの説明になります。

大事なことを述べます。

実は、ポジティブシンキング―ネガティブシンキングの裏には、隠れたもう一つの軸があります。 

それは理想主義―現実主義の軸です。

多くのポジティブシンキング―ネガティブシンキング論争ではあまり指摘されていませんが、ポジネガの他に理想現実という隠れた変数があったのです。

多くの場合、この理想主義―現実主義の軸が語られることが無いので、よくわからない議論になってしまいます。

まずは言葉の定義からです。

理想主義とは、ある理想的な状態を目指して物事の判断や選択をしていく事、あるいは理想的な物事の状態があるという考えです。

現実主義とは、現在の状態でもっとも適した判断や選択をしていく事、あるいは理想的な状態があると考えず現在の状態(現実)があるという考えです。

多くの場合、ポジティブシンキングという言葉を使う時、その裏には理想主義があります。

ネガティブシンキングという言葉を使う時、その裏には現実主義があります。

実は、これらの組み合わせはリスクを伴います。

理想的な状況が肯定的な判断や選択だけで実現することは少なく、現実的な状況で否定的な判断や選択を行い続けてしまうと状況をより悪い方向へ行かせがちだからです。

前者は、自己啓発のポジティブシンキング教にハマり過ぎて人生を崩壊させるような方が代表的です。

後者は、より良い政治判断したつもりが、国内情勢や世界情勢をより悪化させてしまった政治家などが典型例です。

よって、ポジティブシンキングをする時は現実主義で物事に向き合い、ネガティブシンキングをする時は理想主義で物事に向き合うことが必要になります。

ポジティブシンキングと現実主義の組み合わせを、戦略型ポジティブシンキングと呼ぶことにします。

ネガティブシンキングと理想主義の組み合わせを、戦略型ネガティブシンキングと呼ぶことにします。

ポジティブシンキングと理想主義の組み合わせを、単純型ポジティブシンキングと呼ぶことにします。

ネガティブシンキングと現実主義の組み合わせを、単純型ネガティブシンキングと呼ぶことにします。

戦略型ポジティブシンキングは、平常時の脳が快の状態で物事を現実的に判断しますから、無駄な恐れを感じず徹底的に現実的に考えることができます、理想的な状態を目指すのではなく現実的な状況判断をするので、騙される事過信する事を回避できます。

戦略型ネガティブシンキングは、平常時の脳が不快の状態で物事を理想を目指して判断しますから、徹底的に様々な条件を否定的に考えることができ、そして現在の状態の向こう側(理想的な状態)を常に想定する事で短絡的な判断を回避できます。

戦略型のポイントは、バランスです。

脳の状態と、判断基準の組み合わせで、思考と主義の持つリスクを低減しています。

単純型は、思考と主義の持つリスクを高くしています。

ポジティブシンキングやネガティブシンキングについて語る時、それが単純型か戦略型かで大きく違ってきてしまいます。

ネガティブシンキングでそれにお困りの方が、無理にポジティブシンキングになる必要はなく、単純型から戦略型に移行するだけでよいのです。

単純型ポジティブシンキングの方は、戦略型に移行することが必要な場合も多いでしょう。



以上がポジティブシンキングとネガティブシンキングについての記事です。

ありふれた内容を長々と書いてしまいました、読んでいただいた方に感謝です。

ちなみに、戦略型ポジは起業家に、戦略型ネガは学者の方に多い印象です。

起業家の方が単純型ポジだと、社員が不幸です。

学者の方に単純型ネガ多いと、懐疑論者だらけで学問が発展しないです。


今回はこれで終わります。



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おすすめアファメーション~仕事・勉強・健康~

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、仕事や勉強をする時におすすめするアファメーションの紹介です。


アファメーションの仕組みについては他の記事で紹介しているので、ここでは説明しません。

ご存知のない方は、人間の言葉を理解する 仕組みを利用していると考えてください。


では、さっそく紹介しましょう。


まず、知的作業が多い方へのおすすめです。

「前頭前野が活性化している」というアファメーションです。

このアファメーションには準備が必要です。

インターネットや本などを利用して、人間の脳について調べてください。

簡単で良いのですので、前頭葉や前頭前野が人間の脳のどの部位の事を指しているのか把握するだけで十分です。

これは、前頭前野という言葉の意味を理解しておく必要があるからです。

理解できない言葉は、意味を再現できないですから。

この、「前頭前野が活性化している」というアファメーションを行うと、前頭前野が活性化して、前頭前野付近の血流が良くなります。

この時に、人によっては脳内の血流が増加するのを直接的な感覚として感じることがありますが、それ自体は病気でも異常でもありませんので気にしないことをおすすめします。

あまりなれない感覚がうざったかったり気持ち悪かったりして、どうしてもダメならアファメーションを中止してください。

このアファメーションはあなたには合わなかったという事になります。

このアファメーションは、普段から行えば常時前頭前野付近の血流量が増加して、知的作業に対する適性が上がります。

日頃から血流量が増加しても急に頭が良くなるわけでもありませんが、知的作業を行う時前頭前野がうまく機能しやすくなるので勉強や仕事がはかどります。

また、このアファメーションは「(脳の特定の部位)が活性化している」のように変えることが出来ます。

日頃記憶力に不安があったり、沢山記憶する事が必要な方は「海馬が活性化している」もおすすめです。

これも、海馬というのが人間の脳のどの部位であるかという知識が必要になります。

また、「脳の血流が増加している」と特定の部位ではなく脳全体に働きかけるやり方もあります。

ある程度お年の方には、これらのアファメーションを利用して認知機能の低下を予防することをおすすめします。

加齢による脳の血流量の減少に対して非常に有効です。


また、「私は天才になっている」や「頭が良くなっている」「記憶力が上がっている」などのアファメーションで知的能力を上げる方法もあります。

このアファメーションは、脳の特定の機能を上げるわけではないですが、全体的な知的能力を活性化させることが出来ます。

しかし、「前頭前野が活性化している」などのアファメーションより内容が抽象的になっているので効果が落ちます。

アファメーションの内容は具体的詳細なほど、脳が再現しやすいからです。

抽象的なアファメーションは内容に具体性がないので、脳がどのように意味を再現したらよいかわからず再現度が下がってしまうのです。

具体的な内容と抽象的な内容の両方を上手く使い分ける事をおすすめします。



では次は、健康を維持したい方おすすめのアファメーションです。

まず、「体の血行がよくなっている」というアファメーションです。

これは、全身の血行がよくなります。

特定の臓器が弱い、機能が低下してきている方には「(特定の臓器)の血行が良くなっている、気持ちいい」というアファメーションも有効です。

特定の臓器の血行をよくして、機能の低下を防いだり出来ます。

しかし、病気によっては臓器の血流量が増加すると悪化する物もあるかもしれないので、そういった場合はお医者さんに相談するなりしてください。

また、「(特定のホルモン)がたくさん出ている」というアファメーションも有効です。

「(特定のホルモン)がたくさん出ている」というアファメーションは、成長ホルモンや性ホルモン、セロトニンやドーパミンにも有効です。

しかし、ホルモンの増減は扱いに注意が必要です。

特定のホルモンは多すぎても少なすぎても問題だからです。

更年期の方の「(性ホルモン)がたくさん出ている」やうつうつとし易い方の「セロトニンがたくさん出ている」や運動不足になりがちな方の「成長ホルモンがたくさん出ている」など、利用法を限定したほうが良いです。


すこし話がそれます。

昔、気功師の方の書かれた本を読んだ時このような事が書かれていました。

その方は、気を扱えるようになってから、ある時視力の弱い人の視力を回復させる事ができました。

その時には、眼のレンズを調節する筋肉の緊張で近視になっている方が多いと考えて、「レンズの調節筋を緩めろ」と気を送ったら視力が回復したそうです。

以降、そのやり方で視力を回復できた方がそれなりにいるそうです。

しかし、あるときいつもの様に気を送ったら、逆に視力が落ちてしまって、まるで見えなくなったしまった方がいるそうです。

その気功師の方は、以降治療のための気功を封印して、自らの気功能力の恐ろしさと奥深さをしったそうです。


この本を読んだ時、気功師の方のとんでもない勘違いと無知に愕然としました。

まず第一に、人間が視力が低下している時、その原因はレンズの調節筋の緊張だけではないということです。

私は医学に詳しくないですが、「在る特定の症状を呈する時に、その症状を引き起こす原因が1つしか存在しない」というのは多くないことは知っています。

そもそも、Aという症状がでたら原因はBのみだというほど医学は単純ではないです。

認知症1つとってもみても、アルツハイマー型、脳血管性、正常圧水頭症、レビー小体型など多くあります。

認知症のような症状を呈する、認知症に分類されない病気もあります。

視力低下の原因がレンズの調節筋の緊張だけだと思い込み、出会う視力が低下した方全てに「レンズの調節筋を緩めろ」と気を送ってしまったら、「レンズの調節筋の緊張が原因でない視力低下の症状の方」にあたった時どうなるのでしょう。

もしかしたら、その症状の方には「レンズの調節筋の弛緩」が症状を悪化させる原因になるかもしれないのです。

この気功師の方は、気功能力の恐ろしさと奥深さを知ったとおっしゃっていましたが、その前に自分の医学的知識のなさと、論理的批判能力の低さを自覚したほうががよいです。

この気功師の方は、気功能力の未熟さによってではなく、医学的知識の無さと自分の思い込みを論理的に批評する事がなかった為にそのような事態になったのです。
 

どうでしょう。

この気功師の方は、気功能力は高いのです。

しかし、気功やアファメーションで体に直接的に影響を及ぼす事ができても、しっかりとした正しい知識がなければ逆効果になってしまうことがあるのです。

むしろ体に直接的に影響を及ぼせるがために、危険性が高いのです。

高血圧の方が、「血圧が上がっている」とアファメーションしたら病状が悪化しています。

そのような事態は避けるべきでしょう。

なのでホルモンに関するアファメーションは、乱用しないことをおすすめします。



簡単に、私が普段行っているおすすめアファメーションを紹介しました。

上記のアファメーションは私が実際に行っているアファメーションですので、ある程度安全性は保証できます。

しかし、それらのアファメーションが合わない方がいらっしゃるかもしれないので、少しでもなにかしらの悪い症状がでたら中止して様子をみることをおすすめします。

では、今回の記事は以上になります。



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脳のトップダウン処理と変性意識~人はいかにして幻覚を見るか~

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、 人がいかにして幻覚を見るかについて脳のトップダウン処理と変性意識にからめて説明していきます。


まず第一に知ってもらいたいのは、 このブログで提唱している人間の脳についての仮説です。

「人間が普段感じている諸感覚は決して脳が感じているのではなく、諸感覚器官が感じている」

「脳からの出力で感覚器にたいして、処理が行われている」(トップダウン処理)

「感覚器からの出力で脳に対して入力され処理が行われている」(ボトムアップ処理)

「人間は常に同じ神経システム上で、トップダウン処理とボトムアップ処理が共存している」

「黙読で頭のなかで音声を再生したり、イメージして頭のなかで映像を再現しているときは、トップダウン処理が感覚器に対して行われ、実際にリアルに感覚知覚する強さ(閾値)以下の出力が行われている」

「催眠術や気功やアファメーションなどは、脳のトップダウン処理を利用して、体にたいして色々と出力している」

 「トップダウン処理の感覚器に対する出力が閾値を超える場合は、実際に外部からの刺激で音を聞いたり映像を見たりするのと同じ程度の感覚が生じる」

以上が私が提唱している仮説です。



以上の説明を読んだらある程度察しがつくと思いますが、以下に人間が幻覚を見る仕組みについての仮説を述べます。

人間は脳内に過度にドーパミンなどが放出される状態により変性意識状態に陥ります。(これも仮説です)

(おそらくですが、ドーパミンはニューロンを活性化(興奮)させる時につかわれています。逆にセロトニンはニューロンを不活性化(鎮静)させる為に使われています。この辺は不勉強ですごめんなさい。)

変性意識状態でドーパミンが大量に放出されると、通常より過剰にニューロンが活性化されることになり、感覚器に対しても過剰な出力が行われるようになります。

この時、脳とトップダウン処理により、感覚に想起される様々な映像、音声、観念、言葉、感覚などは通常状態の出力を超える出力で非常にリアリティがあります。

この変性意識状態において、神を観たり(視覚に対する出力の強化)、神の声を聞いたり(聴覚に対する出力おの強化)、万能感に陥ったり(身体感覚への出力の強化)、電波を受信したり(意識下の処理の出力の強化)、強いオーガニズムを感じたり(性器などへの出力の強化)、数式から宇宙を感じたり(論理(言語)理解の身体感覚の出力の強化)、虫歯治療の痛みを感じなかったり(歯の痛覚への出力の強化?)、マンガのキャラクターが実際にいると感じたり(マンガのキャラクターに対する、感情的反応の強化)します。

また、手にキリストの聖痕がでたりする(アザなどの傷跡ができるということは、傷を受けた時に起こる生体の傷の修復システムが、傷を受けずに独立して行われたということ。つまり傷を受けずに、トップダウン処理で生体の傷の修復システムが作動したということ)こともあり、感覚器に対する出力にとどまらず、生体の様々な機能がトップダウン処理によって機能したりします。


以上が人間が幻覚を見るしくみについての仮説です。


幻覚以外にも妄想状態を強化したり、知的能力が微妙にアップしたり(実は知的能力にはセロトニンによるニューロンの不活性化も深く関わっているので、ドーパミンが増えただけではたいして上がらない)、感覚知覚を減衰したり、身体的反応を産み出したりもします。

このドーパミンの大量放出状態である変性意識状態は、上手く使えばダイエットが上手く言ったり、勉強が捗ったり、(上手くいけば)容姿を良くしたり、人生に対して良い影響をおよぼす事が出来ます。

しかし、この変性意識状態はあまりよろしくありません。

当たり前ですが、人間が生物である以上肉体外部の環境からの入力の方が優勢でなければ、生きていけません。

目の前で家族が強盗に襲われているのに変に安らいでいたり、ものすごく危険性の高い機械で作業しているのに、危険性を認識できないほど安心するのはよくありません。(他にも宗教にハマり過ぎたり、幻覚を常時見ていたり、やけどに対して治癒しないと出力したり)

変性意識状態は必ず解く必要があります。

軽い変性意識であれば、簡単に解けますし、ある程度強い変性意識であっても寝て起きれば変性意識は解けます。

しかし、世の中にはとても強い変性意識状態に好んでなりたがる方々もいます。

そのような人たちには、いくら強い変性意識状態になっても自分の外の世界である客体世界はなんにも変わらないということを念頭に置いて欲しいです。
 
幻覚はあくまで、感覚器上に映像などが再現されるだけですから。

聖痕などが出ても、信心が深いという証明になるだけです。

後、どんな状態でも幸福を感じることができればそれが幸せである、という境地主義も過度にのめり込めば、客体世界が何も改善していない最悪な状態でも幸せを感じて、その状況を受け入れる改善しようとしないということにもなりかねないので気をつけましょう。(しかし、些末な状況に左右されることなく幸福を感じることができるのは良いことでもあるだけれども)。

変性意識はちょうどいい塩梅で活用するのが良いです。

また、病気になって幻覚が生じても、このブログの情報を知ってれば慌てることなく休養するか、お医者さんにGOできますし。

聖痕が現れても、キリストの生まれ変わりでないと分かります。

たまに、トップダウン処理が妙に上手く働いている為に非常に不思議に見えることに相対しても、「ああ、この人はトップダウン処理の活用が非常にうまいな」と思うので、「ひえ~、神様の生まれ変わりじゃあ~」となることもありません。



どうでしょう、いろいろ書きましたが以上が、トップダウン処理と変性意識と幻覚の関係に関する記事になります。

注意して欲しいのが、これらはまだまだ仮説段階で、実証も証明もなにもされていないという点です。

このブログの基本コンセプトとして、「私の仮説なり考察なりを色々書くけれども、実証や証明はこれを読んだ人が大学などでやってくれれば嬉しい」というものがあります。

私はしがない学生なので、予算もなければ権力もなく、これらの仮説を検証する実験や観察などはできません。

なので、あくまで仮説として紹介して、このブログをどこかの大学生なり高校生なりが読んで将来認知科学に興味をもったら、このブログの内容を研究で検証してくれるかもという淡い希望でやっています。(もちろん、現時点で研究者の方が検証してくれるのを一番期待しています)

自分で研究者になって研究したいという希望もありますが、結構状況的に長い道のりになりそうなのです。

また、一応とんでも仮説な自覚があるので、読む方々には細心の注意を各箇所で呼びかけています。

あくまで自己責任ということで。(これは責任の放棄ではなく、読者の方々の行動の結果の責任はどうあがいても私は取ることができないという注意喚起です)


長々と書きましたが今回の記事は以上になります。

ではでは。



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アファメーションと気功と催眠の基底理論仮説

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、アファメーションと気功における、基底理論の仮説について書きます。


まず第一にやってほしいのは、人間を一個のシステムとして捉えて欲しいのです。

そもそも生物というものは、外部の刺激に反応するシステムです。

原始的で下等な生物には自分の意思や思考があるわけではなく、環境からの刺激に対して反応しているだけです。

この環境からの刺激に対して反応して処理をする、ということをボトムアップ処理と呼ぶことにします。

しかし、下等な生物ほど殆どボトムアップの処理しかしませんが、高等な生物になるともう一つ処理系統があります。

脳などの中枢神経系が非常に発達した生物になると、高次の脳から下位の神経システムに対して刺激をボトムアップな処理とは逆に出力することができます。

環境からの刺激に対して反応(処理)するだけでなく、個体の意思により体に対して命令を出力して体に反応(処理)させる事出来るようになります。

これはトップダウン処理と呼ぶことにします。

また、高次脳が行うトップダウン処理は、神経系がかってに活性化するのではなく、非常にミクロな世界の仕組みを利用しています。(個人的に、それらの仕組みの解明は今後の量子生物学に期待を寄せています)
 
また、このトップダウン処理とボトムアップ処理は、一個の神経系統上に共存しています。

トップダウン処理とボトムアップ処理が同時に起きる事もままあります。

アファメーションや気功や催眠においては、このトップダウンの仕組みを匠に利用しているのです。


アファメーションでは、トップダウン処理で任意の文言を脳内あるいは実際に発話することにより、身体に文言の内容の意味の再現を促します。

「私は体重は57kgです」という文言は、脳がその意味を解するときに、身体的に微弱ながらも意味を再現します。

それは、言葉に関連付けられた、意味情報が具体的身体的なシチュエーションと関連づいているからです。

そもそも言葉は、自らの身体を含めたある特定の状況(動作・情動・形・意図・意思・関係など)と音声を対応させる(関連付ける)ことにより、学習します。

言葉を理解するときには、脳は言葉に関連づいている具体的身体的なシチュエーションを軽く再現することで、意味の理解します。

会社から帰ってきて非常に疲れたあなたは、「疲れたー」とつぶやくかもしれません。

これは、疲れているという体の状態から、ボトムアップ処理で自然で出た言葉です。

小説を読んで、主人公がくたびれた中年サラリーマンで、「あ~今日も疲れた」というセリフを常に吐くとします。

その主人公の「あ~今日も疲れた」というセリフを読む時、くたびれた中年サラリーマンのイメージと一緒に、「疲れたという感覚」が一緒に読み手の内部で再現されます。

微弱ですが、再現されることによりその小説にリアリティを感じて楽しむことが出来るのです。

これは、トップダウン処理の賜物です。

人間にトップダウン処理の仕組みが備わっているので、シチュエーションと言葉を連結させ行ったり来たりできるのです。

シチュエーションと言葉を行ったり来たり(どちから反応の切っ掛けでも、両方を扱える)ので高度な知的作業が可能なのです。

アファメーションはそもそも、このトップダウン処理があるから可能になっているのです。



気功においては多少複雑です。

そもそも、気というのは確かに在るのだけれど物性を持たない、存在質とでも言うべき不思議なものです。

この気は、物質(電子とか車とかマイクとか)の元になっています。

元になっているので、本質的には大差がないです。

しかし、物質とは違って質量を持ちません。

この気と物質は、元々同じものなのでつながっています。

というか、物質は気が歪みを持っている状態(なんかその部分だけ、エネルギーがうずを巻いている)です。

なので物質があるところは、物質の歪みの影響がそれと繋がっている周囲の気にも影響を及ぼします。

そうすると、物質がある周囲の気も歪んでしまいます。

そうすると、気(場と言ってもいい)には、歪みのパターン(模様)ができます。

その気が歪んだで出来たパターンは、物質の構造と一致します。

気は物質の構造の情報を歪みとして持つということになります。


気功というのは、気に情報(歪み、物質の構造の情報)をもたせて、対象である物質にたいして送り込むことにより、対象の物理的な構造に影響をおよぼす技法です。

気の情報が対象に送られると、その気の情報の影響を対象が受けます。

具体的には、体の構造が変化したり(これは、人間の体が細胞の集合体であり、細胞が連結している仕組み自体が非常に柔軟なため起こる。)、脳にある特定の神経パターンの出力情報を打ち込むこと(高次の脳がそもそも気の場の変化により、物理的に神経発火させる仕組みになっているため、外部からの気の場変化でも神経発火はおこる)などがあります。

(また、気というのは質量を持たないため、ミクロスケールの仕組みがあるシステムにのみ有効です(実は情報機器などもミクロスケールの仕組みを利用しているので、影響を受ける。人体の特に神経系はミクロスケールの仕組みを利用している)が、マクロスケールに対しては影響をおよぼしません(単純に、ミクロスケールでは、必要エネルギーは少なくて済むが、マクロスケールに影響あたえる程のエネルギーが有しないないため。))

気功は、脳にある特定の神経パターンの出力情報を打ち込むときには脳のトップダウン処理を利用しています。

気を送る行為自体はトップダウン処理とあまり関係ありませんが、人間にトップダウン処理ができる高次脳の仕組みがあるから、脳に働きかける事で気が身体に影響を及ぼすことが出来るのです。
 

このトップダウン処理は、幻視や幻聴が起こる時にも関わっている重要な仕組みです。

人間の脳は、普通にものを見聞きするときでも、トップダウン処理を感覚器に対して行っています。

視力や聴力が落ちてくると、幻視や幻聴が起こりやすくなりますが、それは見えなかったり聞こえない部分をトップダウン処理により補っているからです。

また、催眠術で歯科治療の痛みを感じなくする事が行われていますが、それはトップダウン処理により歯の痛覚 神経に対して何らかの痛みの減衰処理が行われている可能性が高いです。

意識していないときは何も感じないが、意識したらすこし手を怪我をしていたということがままあります。

これは、人間の感覚はそもそもボトムアップ処理とトップダウン処理が常に行われていて、トップダウン処理により感覚の強度の減衰または増大があることが示唆しています。


どうでしょう、私のが提示するアファメーションや気功や催眠術に関する、基底理論の仮説は。

以上の全ては仮説に過ぎませんが、私は現状の科学の主流の理論である、「全ては脳の中で起こっているだけ」という説明に納得していません。

「全ては脳中で起こっているだけ」という説明は非常に短絡的ですし、その言葉は私たちの日常的に経験するさまざま物をまったく説明できていません。

むしろ人間の精神や意識活動が、体の全てに広がり及んでいるという風に考えるほうが自然ですし、納得できます。

人間の意識は体全体に広がっていて、高次の脳からのトップダウン処理により、感覚や臓器にまで影響をおよぼすという方が納得できるのです。

とはいっても、私は学者でもない素人なので、科学的検証は全くの不十分です。

なので、現状の科学理論では説明できてない事が多いし、こう考えた方が説明できることが多いという仮説と捉えてください。

しかし、将来的には「脳はただの臓器」という説明が一般になるとは確信しているのでまあ、ブログに載せているわけです。

また、この仮説に従うと、SAOや攻殻機動隊の様な、脳に電気信号を与えて、ヴァーチャルワールドにダイブするというSFの技術はその根幹から否定されます。

SFファンの方々には不評かもしれませんね。

では、今回の記事は以上になります。



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どこでもドアを裏側からみたら~二次元思考の落とし穴~

こんばんわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、スピリチュアルや引き寄せの法則などの精神世界にはびこる唯識論や唯心論や観念論に対する注意点について書きました。

唯識論と唯心論と観念論はどれも違うものなのですが、だいだい混同されて使われたりしているのでここではまとめてあつかいます。

それら全てにおいて共通なのは、客体世界(物の総体としての世界)を蔑ろにしている(重要視していない)という点です。 

例えば、世界は人間の意識だけが存在して、目の前に存在している客体世界は幻想でしかないとか。

月の裏側は人間が見えていない時には、存在があやふやになっているとか。

想像している事に究極にリアリティを感じる事ができれば、現実になるとか。


その様な認識は、どこでもドアを裏側から見ることができないから起こるのです。


みなさんは、どらえもんに登場するどこもでドアをご存知でしょうか。

ドアの形をした秘密道具で、ドアをあけるとどこでも好きな場所に繋がって、自由に行き来できる。

最初に前提として、どこでもドアは空想で、現実に存在し得ないとう事を理解してください。

私たちはマンガを読んでどこでもドアを実際に存在しているかのように感じる事ができるのは、どこでもドアがマンガという平面の世界で描かれているからです。

マンガの中でどこでもドアが登場する時、漫画家はどこでもドアの裏側を描く必要がありません。

しかし、三次元空間の現実世界では、どこでもドアは表から見ても、裏からみても存在していなければなりません。

三次元空間の現実世界では、どうあがいてもどこでもドアの裏側を成立(あるいは定義)出来ないことはお分かりに成るでしょう。

二次元の世界では、裏側を描く必要がないからリアリティをもって存在できたどこでもドアは、三次元の裏側がある世界ではリアリティを維持できません。

どこでもドアという空想のすごい道具は、マンガという架空の世界でしか存在を許されないのです。


唯識論・唯心論・観念論に共通する客体世界を重要視しない思想では、どこでもドアの表側しか見ずに裏側を見ようとしていません。

表側だけでは世界は成立しません、裏側もなければ世界は成立しないのです。

というか、表と裏は同時に存在するから世界は成立しているのです。

人間の意識や認識だけで全てがどうなるという思想は、平面のマンガの世界でしか存在できないどこでもドアが存在できるという思考、いわば二次元思考なのです。

スピリチュアルや精神世界にはまりすぎている客体世界を蔑ろにする人は、この二次元思考に陥ってしまっています。

引き寄せの法則で何でも出来るとか、自分の意識を変えれば何でも出来るという話は、ともすれば二次元思考です。

我々現実世界に生きる人間が二次元思考で生きる事はある意味退化です。

客体世界を極端に蔑ろにした結果はあまり良いものとは言えません。

自分の認識の中だけで、有頂天になったとしても周囲の人間と断絶されてしまうと困ったことになります。

主観経験の世界を変えれば全てが変わるという発想はかなり危険なのです。

また、唯識などの思想は、それ思想の論の中では何も矛盾がないという点が怖いのです。

しかし、その思想の中の論では矛盾がなくても、現実として正しいかは別問題です。

二次元思考の世界では、世界を二次元的に捉えており、その二次元論の中では論は矛盾せず一見正しい用に見えます。

しかし、三次元世界を二次元思考で捉えたらそれは「誤り」です

我々は三次元世界で生きているのですから、物事を二次元思考で捉えず、ちゃんと自分が見えていない世界もあたりまえに存在しているという点を考慮しなければならないのです。

皆さんは、二次元思考の落とし穴にはまらないようにしましょう。


では、今回の記事は以上になります。



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具体的思考の重要性

こんにちわ、dokubo_toshoです。

最近、忙しかったので久しぶりの記事になります。

今回の記事は、抽象的思考の反対である具体的思考について書きます。


私は認知科学者の苫米地英人氏の著書で認知科学を知った口なのですが、氏は自著の中で抽象的思考能力の重要性を強調しています。

曰く、より高い抽象度で物事を考えられる、捉えることができることが高付加価値のビジネスや学問の世界では重要である。

私は、どちらかと言うと抽象的な思考を得意とする人間です。

勉強も得意な方ですし、勉強をしてて難しすぎて理解できないという状況はあまりありません。(もちろん、自分の学習軌跡の延長線上にあるものに限りますが)

確かに、高付加価値のビジネスの世界や学問の世界では、私のような抽象的な思考を得意とするタイプの人間が多くいます。

しかし、それは抽象的思考能力が得意な人間=知能が高い人間だからではありません。

単純に、その人が得意とする思考が高いレベルの抽象的思考だからです。

普段から、物事を抽象的にとらえているから、抽象的な学問などの世界と親和性が高いだけです。

また、そういった学問の世界で生きる人間でも、どの程度の抽象度の世界で日々生活しているかで、適性の高い学問領域が異なります。

数学のような純粋論理の世界に適性のあるほど抽象度の高い世界で日々生活している人間と、文学のような人間の情緒や歴史、文化的背景を考慮する必要がある程度の抽象度の高い世界で日々生活している人間は、前者の方が抽象度の高い思考を必要としていますが、だからと言って数学が得意な方が知能が高いというわけではないです。

なぜなら、抽象度の高い思考を好む人は、逆説的に具体的な思考を得意としないからです。

そして、具体的思考もまた、高い能力を要求するのです。



では、具体的な思考とどういうものかそれがいかに重要かを説明する前に、、抽象的な思考についてサラッと説明します。

抽象的な思考とは、物事をよりシンプル(単純)に捉え、物事を俯瞰してみることです。

俯瞰してみることで、物事を本質にせまったり、様々物事の共通点を発見したり、パターン化(規則化)したりします。
 
抽象的な思考の本質は、捨象すなわち余分な情報を切り捨てることです。

高度に抽象的な思考をするには、物事の本質ではない部分を切り捨て、共通しない部分を切り捨て、規則化の為に規則的な部分のみ注目し他を切り捨てます。

高いビルの上から町並みを俯瞰してみれば、全体が見渡せて街の全体像が浮かび上がってきますが、細かな情報は見落としてしまいます。

抽象的な思考は、情報を切り捨ていることでなりたっているのです。


では、具体的な思考はどうでしょう。

具体的な思考とは、具体的なシチュエーションをより詳細に想定する能力です。

物事を具体的な、より厳密に、詳細に想定することで、起こりうる様々を状況を予想して対応策を考えたり、理論的な事を踏まえたうえで現実としてどうなるかということを想定したりします。

具体的な思考は、抽象的な思考が情報を切り捨てることで成り立っているのと逆に、状況を具体的に詳細に想定するためにより多くの情報を必要とします。

想定する状況に、現実と相違ないほどの複雑性と情報量を持たせる思考です。

抽象的な思考とは真逆になります。

抽象的な思考を物事を分解してよりシンプルにする思考だとしたら、具体的な思考は情報を統合してより複雑なものにします。

分解と統合では、物事のベクトルが真逆です。

分解が得意だから、知能が高いというわけでもなく、統合が得意だから知能が高いというわけでもないのです。

自分が分解と統合の数直線上のどの位置にいるからといって、知能が高い低いとはいえないです。 



学問の世界は、具体から抽象へ進み、さらに進むと具体に帰ってきます。

学校で学びを始める小学生の頃は、具体的な思考ばかりで抽象的な思考は誰しも得意ではありません。

小学校を卒業すると、中学、高校、大学とより抽象的な高度な学問を学びます。

さらに、大学を卒業し学んだ学問で実際に仕事をすると、高度に具体的な思考能力を要求されるようになります。

高度に抽象的な学問を現実的で具体的な状況で応用しなければならないからです。

そのような時、高度に抽象的な思考ばかりを鍛えてきた人間は、思ったほど優秀ではありません。

具体的な思考能力が必要とされる場合、物事をシンプルにしか捉えられない人間は、より複雑な状況を想定する事ができないからです。

抽象的な思考を得意とする人間は、普段から抽象的な思考ばかりしているので、具体的な思考には慣れません。

しかし、具体的な思考を得意とする人間は、普段の生活から物事をより具体的で詳細に考えるという訓練をしているようなものです。

そのような、具体的な思考が要求される場面では、具体的な思考が得意な人間が活躍される可能性がたかいです。
 

どうでしょう。

具体的な思考能力の重要性がおわかりになれたでしょうか。 

私自身、抽象的な思考ばかりする人間なので、具体的な思考は得意ではありません。

抽象的な思考が得意な人間が具体的な思考をする場合、自身のもっている知識がベースになっています。

具体的な思考が得意な人間は、知識がそれほどない状態で高度に具体的な思考をします。

俗にいう発想力があるということなのでしょう。

芸能人で言ったら、伊集院光さんなどが当てはまるかもしれませんね。

抽象的な思考能力ばかりがもてはやされる必要はないので、具体的な思考が得意な人も自分に自信を持って良いと思います。

具体的な思考能力も武器になりますから。

では、今回の記事は以上になります。



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潜在意識の話をちょっとだけ

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は巷で云われている潜在意識万能説にちょっと待ったをかけたいと思い、記事にしました。 


皆さん、潜在意識についてどのような理解をお持ちでしょうか。

まず第一に思い浮かぶのは、海に浮かぶ氷山の例えではないでしょうか。

海上にいる私たちには実は氷山は全体の3割しか見えていなく、大部分は海中にある。

その3割程度の見えている氷山が顕在意識として私たちに意識され、残りは潜在意識として意識されていない所で色々な働きをしている。

あながち間違っていない表現です。

しかし、この潜在意識が特別なチカラを持つとか魔法の様な力で願いを叶えてくれるととかかなり大げさな理解をしているが結構いるのです。 

そのような間違って理解を修正するために、ちょっと具体的に潜在意識が何をやっているのか説明します。

簡単です、人間が起こす様々な反応(刺激あるいは起点があって、起こされる行動・行為・生化学的反応など)を「自動化」している、それだけです。

通常の意識的な状態では、私たちは人間は行動・行為の切っ掛けに対して「反応するか、しないか」そして「どうのような反応をするか」を判断しています。

意識的な状態においては、「目の前にどこからか野球のボールが降ってきた」という状態に「避けるか、受け止めるか、バットで打ち返すか」を選択つまり判断します。

しかし、あまりに急な状態においては、判断をするのは時間がかかってしまい適切ではありません。

そのような場合は判断はなれず、とっさに反応してしまいます。

例えば、学校の帰りに夜道を歩いていた女子高生が、急に目の前に下半身を露出したおじさんに出くわしてしまったとします。

そのような場合は急な異常事態に、意識的思考は状況を判断出来ず混乱してしまいます。

その時に人によっては無意識に「キャー」と叫んだり、「ウォー」と叫んでおじさんに殴りかかったりします。

この無意識、つまり意識的な状態ではない時の行動は潜在意識の中の「自動化された反応」によって引き起こされます。

ちょっと参考例が不適切だったかも知れませんが、このような判断できない時には自動化された反応が大切になってくるのです。

また、自動化された反応という意味では、呼吸・代謝・体をどう動かすか・好き・嫌いなどもだいたい自動化されているので潜在意識のしわざとなります。

例えば、あなたがジャニーズ事務所のタレントであるSMAPの香取慎吾さんが好きだとします。

もしそのような人が、街で香取慎吾さんが買い物をしていたら、簡単に見つけてしまいます。

なぜなら、好きという感情は自動化されており、街に香取慎吾さんがいたら見つけようとするまでもなく反応してしまうからです。

また、サーフィンが好きな人が、街でブラブラしていたらサーフショップを見つけてしまうというのも、自動化されて処理により、サーフィン好きでない人が反応しないような、サーフィン情報にも反応してしまうからです。

意識上には登らないけれども、潜在意識では好きなものに自動的に反応しており、なんとなく好ましい方向に歩いて行ったらサーフショップに行き着いてしまう。

潜在意識の自動化された処理は意識には登らないので、何かに導かれたとか、運命的だとか判断をしてしまうのです。

さらに、うつ病などでは「頭のなかでつぶやかれた悲観的な言葉」が繰り返しつぶやかれる事で自動化してしまい、潜在意識が悲観的な言葉が生み出す悲観的な気分を自動的に生み出し続けてしまう、というのもうつ病の一因になっていることが考えられます。

「頭のなかでつぶやかれた悲観的な言葉」が悲観的な気分を産み出し、その悲観的な気分によって悲観的な言葉をつぶやいてしまう。

私は、これをネガティブ・フィードバック・ループと呼んでいますが、このネガティブ・フィードバック・ループは結構危険ですので、気をつける事をおすすめします。

また、アファメーションでポジティブな言葉を繰り返しつぶやくことは、ポジティブ・フィードバック・ループを創りだスことも可能です。

アファメーションの文言で「私は、日に日に痩せっていている」という言葉を繰り返すと、その言葉を理解する時に自分の内部でその言葉の意味が再現され、そしてそれが自動化すると「私は、日に日に痩せっている」状態が自動化して、つねに行われる事になります。

ちなみに、「私は、日に日に痩せっている」が自動化されてしまうと、際限なく痩せてしまい健康を害しますので、アファメーションの文言には気をつける必要があります。

優れたスポーツ選手は、練習を何度も何度も繰り返すことで、その競技に必要な動作を自動化するまで染み込ませます。

また、頭のなかで作ったキャラクターも、繰り返し繰り返し想像することで、潜在意識で自動化されます。

漫画家が、「マンガのキャラクターが勝手に動き出した」とおっしゃることがあります。

それは、自分の中で築き上げてきたキャラクターの性格・行動がまとまりをもって1つの人格として処理される様になり、それが自動化され「漫画家が意識的にストーリーを作ろうとして、キャラクターにさせようとした行動」を超えてそのキャラクターらしい行動が勝手に思い浮かぶ、という状態でしょう。



どうでしょう、潜在意識について具体的に何をやっているのか、お解りになられたでしょうか。

基本的に脳は、潜在意識の中では「自動化された処理」を行っているだけなのです。

潜在意識を例えるならば、海に浮かぶ氷山でなく、「パソコンで常にバックグラウンドで処理を行っているOS」の方が適切でしょう。

パソコンを使うユーザーがワードやエクセルやユーチューブをやっている間も、その裏でOSは常に稼働しています。

NLPや潜在意識で願望をかなえるといった話は、OSのバグを取り除き、よりよいプログラムに書き換える作業に似ています。

実際のパソコンでそんなことをやろうとしたら、とても高度な知識と技術を要する超高難易度課題ですが、NLPや潜在意識で願望を叶えるでは、日本語などの自然言語に習熟しているだけで良いのが嬉しいですね。

では今回の記事は以上になります。




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情報・意味・機能~全ては形に宿る~

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は、情報や意味や機能といったモノに対して理解を深めるための記事です。

 
初めに、数年前に考えをまとめる為に書いた文章を引用します。

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「完璧と欠落」


パソコンの世界では全ては0と1で表現される。

例えば、ディスプレイには画素というものがあって、それらがどの様な色を出力するは全てとのデジタルデータで保持されている。

現実の世界では全ては物理的な構造で表現される。例えば、彫刻家が石像を彫る時、物理的な形がそのまま意味となり、機械はその物理的な構造により機能が決定される。

ちょっと考えてみよう。

例えば、ディスプレイが真っ白のまま何も映さない時、あるいは真っ黒のまま何も映さない時。例えば、画家が真っ白なキャンパスをそのままパトロンに見せ、「これが僕の作品だ」と言う。あるいは、彫刻家が、購入した石材を「味がある」と言いそのままギャラリーで展示する。

大抵の人はそのような時には「???」という反応であろう。

つまり、それらに対して「意味」が見いだせない。それらが「何」であるか理解できない。という状態である。

このような状態は「意味の欠落」と表現できる。

しかし、同時に物理的な状態は「何の欠落もない」のである。

ディスプレイにおいて「完璧な白」あるいは「完璧な黒」、芸術家において「完璧な状態のキャンパス」そして「完璧に保存された石材」は意味を表現するという行為においては全くの意味がない。

逆に、彫刻家が石材を彫れば「欠落が生じ」形が表現され、キャンパスを「汚して」色を付けることで絵が表現される。画像データに「0と1の偏り」があれば何かが表現されうる。

ここで面白いのは、彫刻もキャンパスも画像データも「完璧」であるということは何の意味も生み出さないということだ。

何らかの「非完璧性=欠落」があることで、意味が産まれる。

情報あるいは物体は完璧な状態から、完璧でない状態になることで意味を生じさせる。

(ちなみにここで「完璧」という表現は隙がないという意味で使われている。)

そう言った解釈が可能なのだ。

 

 

 

「混沌と空」


一気に話が飛躍するが、宗教的な意味での「混沌」と「空」とはどういったモノかがこの完璧と欠落を使って考えると理解できる。

一般に、混沌とはごちゃごちゃとした状態と表現され多くの人は苦もなく理解できるだろう。

しかし、空といった表現はそのことばの本来の「そら」という意味と宗教的な「くう」という意味がごっちゃになって訳がわからないと思われがち。

しかし、この「混沌」と「空」は「意味」がどの様に表現されるかを考えれば自ずと理解できる。

まずは「空」から説明しよう。

一言で言うなら「完璧」であることだ。

デジタルデータに例えるならば「全てのビットが1である状態」であり。彫刻でたとえるならば「宇宙全体が全て石材である状態」である。

完璧であるが故に「意味が無い」と同時に、全ての意味があるモノがそこから「欠落」を生じさせる事により生まれうる。あるいはすべての意味があるモノが「同時に存在している」状態。

この極限に完璧な「空」はあらゆる「意味」を同時に存在させる故に物理的な機能を持ち得ない。

何故なら、物理的な機能や意味は「形がある」つまり「何らかの欠落がある」事により産まれるのだから。

「完璧である」ことと「物理的な形が存在する」と言うことは矛盾する。故に、「空」は実体を持つことがない言わば「完璧という状態を表した情報」なのである。

では、「混沌」とはなにか。これは「空」を理解した後だと解りやすい。

「空」が完璧という情報だとすれば、「混沌」とはその情報が揺らいでいる状態である。デジタルデータで表現するならば「全てのビットが1である状態と「全てのビットが0」である状態を行き来している状態である。

パソコンのディスプレイで例えるならば、「画面が真っ白」の状態と「画面が真っ黒」という状態を行き来している状態である。

画面のある部分が赤になったり青になったり黄土色になったりしているのである。

全ての画素がバラバラに無秩序に絶え間なく違う色を出力しているのである。

その画面は、ある一瞬ではドラえもんを表現し、べつの一瞬ではアンパンマンを表現する。

そのグチャグチャとした状態こそ混沌である。

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空と混沌の部分は今回は関係無いので、読み飛ばして下さって大丈夫です。

要約すると、意味や機能は、物理的あるいは論理的な形(構造)で表現されて、それはある種の欠落によって生じる、という事です。

大事なのはその部分だけです。

さらに今回の記事で大事なことを付け加えます。

論理的な構造で表現される、パソコンのデータ含むあらゆる情報はその土台にあるのは物理的な構造だということです。

私たちが、「情報」という言葉を使う時、さもそれが物理的な形をもたない「情報」という論理だけの存在であるかのように思えますが、物理的な構造なくして論理的な構造は存在できず、情報は存在しえません。


つまり、物理的な構造は論理的な構造より先行するということです。

(実はもっと深い議論になると、論理的な構造と物理的な構造の相互作用関係とか、場の理論とか、論理的な構造だけを場で表現するとか、論理構造が物理構造を規定するとかの話が出てくるのですが今回は割愛します)


以上の事をシンプルに表現すると、「現実の全ては形(構造)で表現・構成される」ということです。


今回の記事は以上になります。




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存在質という概念

こんにちわ、dokubo_toshoです。


最近、このブログアクセス数が増えてきて嬉しいです。

一介の学生が書いているブログを読んでくださっている方々に感謝です。

今回の記事は、そろそろ現代の科学は物質・エネルギーという概念の上位である「存在質」という概念を取り入れた方が良いのではないかと思い記事にしました。


「存在質」は簡単に説明すると、「在る」という性質そのものの体現です。

存在しているものは全て存在質に含まれます。

物質は、物性を持った存在質ですし、エネルギーは変化量の現れである存在質。


まずは、私が何故存在質というモノを想定するようになったのかという説明をします。

私は昔こんな疑問を持っていました。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かが在るのか」 

宇宙も、物質も、エネルギーも、人間も、自分という存在さえも、「存在する」という原因も因果もないように思えたのです。

宇宙も、物質も、 何もかも、何故存在するのかという事を突き詰めて考えたら、それに原因とか理由とか因果とかそういったモノが無いのに、何故か存在している。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かが在るのか」

因果とか理由とかそういったモノの考えを突き詰めてしまったら、宇宙は存在しているはずがないし、自分の心も存在しているはずがない、そんな結論に達しざるを得ないのです。

こういった考えは、他の人も考えていたようでウィキペディアで調べたら同じようなこと書いてあってびっくりした覚えがあります。

そのあとしばらくは、そのような考えでウンウン唸っていたのですが、ある時こう考える様になりました。

「何故、宇宙は何も存在しないのではなく、何かがあるのかと考えていたって、現実に目の前に宇宙は存在している。これはもう、原因とか理由とか因果とかは瑣末なことで、そもそも存在するという根本性質が宇宙にあるのではないか」と。

そういった考えで、思考をしていったのです。

余談ですが、そうした結果、時間とはそもそもベクトルで表される方向を持ったものではなく、「物の変化量」を人間の脳が観測した結果生まれたものだと考えるようになり、時間とは「変化したか、しないか」で計測するものであり、ベクトルのような方向性を持たないと考えるようになりました。

宇宙には根源的に存在するという性質があり、すべては宇宙の根源的な存在するという性質、存在質が大元になっているのではないか。

存在質から派生し、物性を獲得して物質になり、エネルギーが生まれた。

そう考えていったのです。

ちなみに、現代物理学ではこの存在質に近い考えは量子力学で研究されていますが、量子力学はまだ物性にこだわりが多く、存在質という性質を想定しきれていません。

現代物理学は、物質・物体の研究にその端を発しているため、思考の出発点が物性になってしまっています。

しかし、現実には物質は存在質が物性を獲得したものと考えるべきなのです。

何はともかく、全ては存在しているという性質から出発しているのですから。


このような思考があり、私は「存在質」という概念を築いていきました。

さらに、物質は存在質が物性を獲得したのものだ。

ならば、逆説的に考えてそもそもの存在質は物性をもたないだろうと考えるようになりました。

また、古典的ですが、エーテルの概念に近いものがあります。

私の想定する存在質とエーテルの差異は、存在質はエーテルと違って(現代物理学で想定されるような)物性を持たないということです。

つまるところ質量をもたない(より正確には、質量を観測できない)。

そういった事が考えられます。



私の存在質という概念に対する思索はいかがだったでしょう。

思考の出発点が哲学的な問いなため、物理学と相容れないようにも思えますが、現代物理学の最先端では、物性をもたないが存在する何かを想定せざるを得なくなっているように思えます。

しかし、そもそも「物」理学ですので物性から離れてものを考えるのが難しいように思えます。

色々書きましたが、今回の記事は以上になります。



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言葉を理解する時に起こっていること

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、人間が言葉を理解する時にどのような事が起こっているかという事について書きます。

NLPやアファメーションの行う時に、知っていおくと非常に便利なので紹介します。


人間が言葉を理解する時、その言葉の意味を自分の脳と体を使って再現しています。

「理香子は怒っている」という文章を読む時、必ず読み手の中で「理香子」という人物イメージと「怒っている」という状況と、「実際の怒りの感情」が再現されます。

言葉は必ず自分の中(脳・体)の中で意味が再現されなければ、理解されません。

例えば、「田中は、鈴木の話を聞いて、ジャンバルドコガンな気持ちになった」という文章を読んでも、「ジャンバルドコガンな気持ち」を自分の中で再現出来なければ、この文章は理解できません。

また、「田中は、鈴木の話を聞いてジャックバウアーな気持ちになった」という文章を読んだら、理解できる人が少なからずいると思います。

「ジャックバウアーな気持ち」は説明として十分ではないですが、海外ドラマの24が好きな人は、なんとなく想像出来たのではないでしょうか。

「ジャックバウアーな気持ち」は言葉としてちゃんとしていないですが、読み手の中に「ジャックバウアーな気持ち」が再現されれば、読み手はこの文章を理解できたと感じるはずです。

しかし、24を全く知らず、見たこともない人はこの文章を読んでも理解できたとは感じないでしょう。

このように人間は言葉見聞きした時に、自分の内部でその意味を再現する事で理解をしています。

とても重要なことなので覚えていて下さい。


NLPやアファメーションでは、言葉を使って自分の脳に対してプログラミングやデミプログラミングをします。

この脳に対するプログラミングやデプログラミングのベースとなっている脳の仕組みが、「人間が言葉を理解する時に、言葉の意味が内部的に再現される」という仕組みなのです。

例えば、自律訓練法では「腕が重たい」という言葉を唱えて実際に腕が重たく感じる事を訓練します。

「腕が重たい」という言葉を唱えて、実際に腕が重たくなるのは「腕が重たい」という言葉を発し、理解する時に体が「腕が重たい」という状態を再現しているからです。

通常言葉を理解する際に意味が再現される場合、再現の強さは微弱で殆ど自分の中で再現されていると実感できるレベルではありません。

自律訓練法では、訓練することにより「言葉を理解する時に、自分の中で意味が再現される」という事に対して実感できるようになります。

また、より意味を再現しやすい意識状態を作ることができるようになります。

この意識状態により、意味を強く再現できるようになります。

少し話はそれましたが、NLPやアファメーションも同じです。

「言葉を理解するときには、意味が内部的に再現される」という仕組みを利用しているのです。

アファメーションの具体例で見ていきましょう。

「私はリラックスしている」というアファメーションをする場合、この言葉をつかっている時は微弱ながらも自分の内側で「私はリラックスしている」という状態が再現されます。

「私はリラックスしている」という言葉を繰り返すことで、緊張するような場面ですくなからずリラックス効果が期待できます。


以上が、言葉を理解する時に起こっていることの説明になります。

言葉を理解する時に、自分の中で意味が再現されていることを知っていると、不用意な言葉を使ったりすること、自分に悪影響を与える悪言葉に気をつけるようになります。

私の好きなマンガの「史上最強の弟子ケンイチ」の櫛灘千影というキャラクターがこう言っています「言霊を知るものは、口数が減るのだ」と。

言霊とは、言葉に宿る力の事です。

「言霊を知るものは、口数が減るのだ」という言葉の意味は、言霊を知っている人は実際に口に出す言葉に気をつけるという意味にとどまりません。

自分の頭のなかで考える言葉にもまた、言霊がやどります。

口数が減ると言うことは、実際に口にだす言葉も頭のなかで考える言葉も慎重になる、という意味です。

人間、自分やまわりに悪影響を与える悪言葉を使わないように気をつけると、自然と頭のなかの口数も実際の口数も減るものなのです。

いかに普段人間が、悪言葉が多いかということがわかると思います。

では、今回の記事は以上となります。

最後に、NLPやアファメーションの効果が感じられない人は、自律訓練法で言葉の意味が実際に自分の体で再現されるということを実感する訓練をしてから、行ってみることをおすすめします。



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実は誰もが論理的

こんばんわ、dokubo_toshoです。

最近の安全保障関連法案の議論の高まりを観ていてちょっと思うことがあったので、論理的であることがどういう事か、何故話が通じないという事が起きるのかという事に関して書きたいと思います。


そもそも論理的であるという事はどういったことなのでしょうか。

単純です、「ある主張(論)があり、その論自体の中に矛盾がない」という事です。

事実と合っていないとか、根拠が薄いとか、前提が間違っているとかは関係ありません。

基本的に、論理的であると言うことは「その主張(論)自体が矛盾を内包していない」という事です。

データを論拠にしてもそのデータが本当に正しいかは判りませんし、前提が間違っているかもしれません、多少の論理の飛躍も問題でありません。

論理的であるという事は「主張(論)の中に矛盾がない」ということなのです。


では何故、「おまえは論理的じゃない」とか「非論理的な話をするな」とか言われたり言ったり、「論が通じない」という事態が起こりうるのか。

非常にシンプルです、「互いの所有する事実(データ・前提・経験など)に食い違いある」からです。


その理由を説明しましょう。

論理的であるという事は「その主張の中に矛盾がない」という事です。

大抵の人間は自分の主張自体に矛盾がある話はしません。

すくなくとも、自分の主張自体に矛盾がないと自分でもその主張を採用しませんから。

そして、その主張は自分が所有する事実(データ・前提・経験など)と食い違いはないです。

人間は意見や主張を、自分の所有する事実(データ・前提・経験)を勘案して、その事実を材料に自分の主張(論)を組みてます。

このようなやり方をするので自分の所有する事実と矛盾することは起こりにくいのです。

この時点で、論自体に矛盾がなく、自分の所有する事実とも矛盾がない意見ができあがります。

これが、私が実は誰もが論理的であると主張する根拠です。

しかし、現実には「おまえは論理的でない」と言われたり、「論の食い違い」が度々起こります。

では、そもそも「その主張が論理的であるか、ないか」をどのように判断しているのでしょうか。

これもシンプルです、「自分の中の事実(データ・前提・経験など)と食い違いがないか」です。

なので、自分の主張は常に自分の中の事実と矛盾がなく論理的だと思い、自分の中の事実に反する主張(論)には論理的でないと判断します。

相手の主張を論理的でないと判断する原因は「相手の所有する事実が自分の所有する事実と食い違っている」ですので、「相手が自分の知らない事実を元に主張(論)を組み立てている」、「自分が相手の知らない事実を元に主張(論)を組み立てている」、「互いの想定している前提に食い違いがある」などがあります。

シンプルに言えば、「互いの所有する事実を共有できてない」からです。

現実の世界では、互いの所有する事実を完全に共有する事は基本的に不可能ですので、そのような事はしょっちゅう起こります。


また、論理的であるという事には精度の問題もあります。

論理の飛躍を小さく少なくしていけば、論理の精度は上がります、また飛躍が大きく多ければ精度は下がります。

「道端に財布が落ちていたので、交番に届けた」というより「道端に財布が落ちていた、落とした人が随分と困っていると思い、可哀想に思い交番に急いで届けた」の方が論述の精度があがります。

どちらの文章も論理的だと思いますが、後者の方がより論理の精度が高いです。

しかし、論述の精度を上げた結果「道端に財布が落ちていた、落とし主を困らせてやろうと思い、交番に届けた」となる場合もあります。

「道端に財布が落ちていた、落とし主を困らせてやろうと思い、交番に届けた」では矛盾していると思った方が多いと思います。

ここで大事なのが、「道端に財布が落ちていたので、交番に届けた」は論として矛盾が無いように思えるのに、より詳細に記述し精度が上がった「道端に財布が落ちていた、落とし主を困らせてやろうと、交番に届けた」では論として矛盾しているという点です。

論述の精度が上がれば、論の矛盾が露呈しやすくなるということです。

自分より相手の方が、主張(論)の精度が高い場合、相手の方がより論理的だと思うでしょう。

しかし、これは相手が自分の知らない事実を知っているからできたことです。

上記の例であれば、端から見ていただけの人なら、「道端に財布が落ちていたので、交番に届けた」としか論述出来ないのし対し、財布を交番に届けた本人なら「自分が交番に届けた感情的な理由」まで知っています。

論の精度もまた、自分の知っている事実に依存するのです。


以上の理由から、実は誰もが論理的なのに、論理的ではなないと思われたり、論の食い違いが起こると思われます。


このような事が起こることのは、論理が宇宙の中に天然に存在しているわけではないからです。

論というのは基本的に人間が産み出し、人間が築きあげてきたものです。

科学はすでの科学が発見した、確定したと思われる事実から、論を組み立てます。

政治家は、政治家の知っている事実のみで論をくみたてます。

学者は学者の知っている事実から論を組み立てます。

子供は子供の知っている事実のみで論を組み立てます。


今まで脳の研究でわかったことなのですが、論理的であるということは主に左脳が担当し、自分の知りうる事実から論を組み立てます。

この時、左脳は論を組み立てますが、「それを知らなければ絶対に正しい論を組み立てられない事実」を知らなくても無理やり論を組み立てます。

ニュートン以前の人類は重力の存在をしらなくて、「りんごがなんで木から地面に落ちるかだって? そりゃ落ちるでしょ、りんごだもの」と言っていたのです。

そこにニュートンが「りんごって、木から地面におちるよな~。 ところで、なんで落ちるのさ? なんで?」と言わなければ、りんごが必ずしも地面に落ちる必要はないという事に気づき、「りんごは木から落ちるもんだよ」の論理の飛躍に気づけなかったのです。

ここで言いたいのは、「自分の知りうる事実のみで論とは組み立てられている」という点です。

議論で必要なのは、相手の事を論理的でないとバカにするのではなく、論の食い違いで殴り合うのではなく、「徹底的な事実の共有」でしょう。

徹底的な事実の共有なくして、議論を進めようとしてもにっちもさっちも行かないでしょう。

論を争わせるのは、それからでも遅くはないはずです。

最近の、安全保障関連法案のにっちもさっちも行かないやり取りを見て、そんな事を思い記事にしました。

とはいえ、政治や議論は本当に難しいものです。

もういくらか、この国がよくなりますように願うばかりです。

今回の記事は以上になります。



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現実は幻想(イリュージョン)はたしてその実態は

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は、仏教の世界やスピリチュアル界隈で言われる、現実は幻想だということにたいして書きたいと思います。


まず第一に、幻想の訳として「イリュージョン 」という言葉を使います。

色々な所で使われる「現実は幻想」という言葉の原義は「A real is  illusion」だと思います。

illusionの訳語である日本語の幻覚はあまり良い意味で使われてないのと、じゃっかんニュアンスが異なるので、この記事では、「現実は幻想」のことは「A real is illusion」として扱い、幻想イコールイリュージョンとします。


まず、イリュージョンという言葉の意味を考えます。

イリュージョンの意味は幻想、幻覚、錯覚などがありますが、この意味は虚構とか偽物とかではなく、現実に存在しないモノを知覚・認識するという意味です。

幻想、幻覚は「感覚の中で生じる、現実に存在しないもの」となります。

そして、現実は幻想という言葉の意味は、「現実は全て、感覚の中で生じる、現実には存在しないもの」という意味になります。 

「現実は全て、感覚の中で生じる、現実には存在しないもの」は文章の意味構造が入れ子になって矛盾していますから、その矛盾を取っ払うと次の様になります。

「現実とは全て、感覚の中で生じるものであり。感覚の中で生じている現実の他に、現実などありはしない」となります。

そして、この言葉をよりシンプルにすると「全ては感覚の中で生じている」となります。


認知科学ふうに言うと、こうなります。

人間の五感で感じる全ての感覚はそれ自体は何の意味も持たない。

人間に視覚は網膜に写ったただの色であり、聴覚はただの鼓膜は振動であり、味覚は味蕾の化学反応であり、触覚は神経細胞の興奮に過ぎず、嗅覚は、嗅上皮における化学反応にすぎない。

人間の脳はそれらの感覚に対して、意味付け(ミーニング)処理をする器官であり、感覚に何を意味付けするかは可変であり固定されていない。

なので我々人間が感じるすべての中で真にリアル(現実・本物)なのは、感覚器上で生じる感覚だけである。


さらに言えば、今の認知科学は感覚は脳が生み出していると考えているが、論理的にそれは矛盾している。

脳に、感覚知覚できる細胞は無いからです。

感覚は脳が生み出しているものではなく、感覚器上で生じているのを人間が知覚していることになる。

そうなると、従来の全ては脳の仕業だという考えは否定される。

脳を超えて、感覚を知覚している人間の本質あるいは本体を想定せざるを得なくなるからだ。

それを仏教では心と単純に言ったり、キリスト教では魂とか神の子だとかいったり、スピリチュアル界隈ではエーテル体とかコーザル体とか色々名づけている。(このブログではパーソナルロゴスとか言ったりしている)

名前(ラベリング)自体は重要ではなく、 人間を色々と調べて行ったら局所的な臓器や物体を超えて肉体に広がる人間の本質を想定せざると得なくなった事です。

その本質が人間の正体であり、もしかしたらその本質が何か分かったら、認知科学だけでなく物理学や化学や医学やらも色々と変わらざるを得なくなるかもしれないという話。



今回の記事は、現実は幻想というよく言われる言葉に対する、説明になりました。

仏教やスピリチュアルの本やらを読んで、この「現実は幻想」であるという言葉をちゃんと理解している人が意外に少ないのではないかと思ったので、記事にしてみました。

「現実は幻想」の意味を正しく理解していないと、唯識論とか唯心論に走ってしまうので若干危険ですよね。

「現実は幻想」は何も、客体世界(物理的で客観的に観測できる世界)が虚構とか存在していないとは一切言ってないのです。

客体世界は客体世界として存在しているのは当たり前なのです。

要は客体世界と我々が信じる主観経験の世界は両方存在しており、その繋の様な役割を果たしているのが感覚というわけなのです。

では今回の記事は以上になります。



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洗脳・マインドコントロールについて

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、マインドコントロール・洗脳についての記事です。


先日、テレビ番組の「しくじり先生」で辺見マリさんが拝み屋に洗脳を受けていたことを知りました。

番組の内容はすごく勉強になり、洗脳の怖さとその手口の良い啓蒙になっていると思い感心しました。

洗脳・マインドコントロールと呼ばれるモノについては私はまだ不勉強なので詳しくは知りません。

しかし、個人的に知っている範囲で、啓蒙の為にすこし洗脳やマインドコントロールについて語ってみたいと思います。


洗脳やマインドコントロールという言葉はかなり強烈で、まるで遠い世界の事のように思えます。

しかし、洗脳やマインドコントロールと言うものの本質は、対象に与える影響力をコントロールして、対象の行動をコントロールすることです。

影響力というとすこし抽象的でわかりにくいと思います。

人間は互いに影響し合い、また環境から影響をうけます、この基本的な人間のシステム(機能)を利用して、洗脳やマインドコントロールは行われます。

子供にただ単に「勉強しなさい」と言っても勉強をしなかったのが、「PS4を買ってあげるから勉強しなさい」と言ったら勉強したとします。

これは影響力をコントロールして、子供の行動をコントロールした1つの例です。

「PS4を買ってあげる」という一言だけで、子供の行動をコントロールしてしまえるのです。また、実際に勉強してもPS4を買ってあげるかは親次第です。買ってくれない可能性もあります。

これ自体は洗脳でもマインドコントロールでもありませんが、対象にインセンティブを与え行動をコントロールしようとする事は、マインドコントロールでも行われます。

このように、洗脳やマインドコントロールという言葉に馴染みがなくても、対象に与える影響力をコントロールして、対象の行動をコントロールするということは誰もが経験のあるものでしょう。

影響力をコントロールするためには色々なやり方があります。

あいての恐怖などの感情を煽る、欲望を利用する、心理的なテクニックを使う、物理的な手段を用いる、環境に手を加えるなど、相手に与える影響力をコントロールする手段は多岐にわたります。

例えば、先日見た「しくじり先生」の辺見マリさんの例では、洗脳初期においてコールドリーディング・ホットリーディングなどの心理的なテクニックを使って拝み屋に超能力があるかのように錯覚させました。

また、人間は情報の真偽を確かめる時に、部分的に情報が正確なら、全体としても正確だと思い込んでしまうという性質も利用しています。

実際に、超能力や霊能力詐欺において、ホットリーディングやコールドリーディングを用いて、占いを当てたり、詐欺師が決してわからない情報を言い当てたりする必要があるのは最初期だけです。

最初期において、占いや霊能力が本物だと思わせてしまえば、おおくの被害者はその後もずっと本物だと思い検証しようとしたり疑ったりしません。

また、辺見マリさんなにかと言いくるめてアパートに住まわせ、家族と離れさせるのも効果的だったと思います。

住環境を支配することにより、いっそう影響力はコントロールしやすくなりますし、家族から受ける影響を遮断してしまえます。

やってることの一つ一つは非常にシンプルでそう難しくありません。

しかし、悪意をもってそれが行われると人の人生を滅茶苦茶してしまえるのです。

辺見マリさんの洗脳されていた13年間はご家族にとってもご本人にとっても非常につらい経験で、番組を観ていて非常に衝撃的でした。

ここで述べたいのは、洗脳やマインドコントロールの方法や知識は今の時代、比較的誰でも手に入るようになっており、一般の方でも比較的に簡単に訓練により使えるようになるということです。

そのような時代で、洗脳やマインドコントロールの知識はもっていて損はないので、自己防衛のため学ぶことは必要かと思います。

また、そのような知識ほ学ばないにしても人間は他者や環境から常時影響を受けているということ念頭において置くだけでも違うと思います。

では今回の記事は以上になります。




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エネルギーヴァンパイアの話

こんにちわ、dokubo_toshoです。

最近、エネルギーヴァンパイアという言葉を知りました。

ちょっとオカルトチックなのですが、相対するだけで相手のエネルギーを奪う人の事を言うらしいです。


そんなのよくある話で、人間の同調・共感能力で説明できるよね、と思ったので記事にします。 


人間の脳は、互いに同調するようにできています。

ミラーニューロンもそうですが、人間は接する人間どうし互いに脳内の状態を模倣しあっています。

この、模倣し合い同調し共感する能力は人間の社会的能力の基盤になっています。

そこで、エネルギーヴァンパイアの話に戻ります。

気分高揚している人(エネルギーが高い人)と意気消沈している人(エネルギーが低い人)がいたらどうなると思いますか。

この二人が互いに脳内の状態を模倣し合い同調すると、エネルギーが高い人はエネルギーが低い人に同調しようとして、エネルギーが下がります。

逆に、エネルギーが低い人は高い人に同調しようとして、エネルギーが上がります。

互いに脳が同調しようとしてるので、最終的に互いの脳内がバランスが取れた状態になるまで同調したら、エネルギーが低い人が上がった分のエネルギーはエネルギーが高い人の下がった分のエネルギーと等価になります。

単純に脳が同調しているだけですが、あたかもエネルギーが高い人からエネルギーが低い人にエネルギーが流れた(あるいは奪われた)ように見えます。

こういったものをエネルギーヴァンパイアと言ったのでは無いでしょうか。

また、単純に相手に悪口をいって心理的に優位にたったら、優越感で自分は高揚し、相手は劣等感などで鬱屈します。

相手が心理的に高揚している時に、悪口や批判などのネガティブな事を言って意気消沈させる人はいます。

こういった人は、単に性格が悪い人ですが一種のエネルギーヴァンパイアとも言えます。


エネルギーヴァンパイアについて胡散臭い、オカルトチックだと思った方も以上の説明でなんとなくあり得るのかもと思ったのではないでしょうか。



最後に、このミュラーニューロンなど脳の同調システムは、じつは何故それが可能かはわかっていません。
案外、気などのエネルギーにより実装されている可能性もあるので(というかそれが濃厚だと思っているので)あながち、エネルギーヴァンパイアも的確な表現なのかもしれません。

今回の記事は非常に短いですが、これで終わりになります。



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セルフマネジメント~外因・内因・惰性

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は、セルフマネジメントに関する記事です。


人間が行動するきっかけには、外因・内因・惰性の三通りがあります。

外因性の行動とは、環境・規則・他者など自分の外側にあるモノが原因での行動です。

内因性の行動とは、意思・思考・感情など主に自分の内側にあるモノが原因の行動です。

惰性(あるいは慣性)の行動とは、習慣など今までやってきからという理由の行動です。


人間は、外因性の行動が多いか、内因性の行動が多いか、惰性の行動が多いかで仕事や勉強などのセルフマネジメントの方法が大きく変わってきます。


外因性の行動が多いタイプは、ともすれば意志薄弱とか気まぐれとか何をやっても続かないなどと言われるかものしれませんが、その原因は行動のきっかけが自分の外側にあることが多いため環境や他者の影響を多く受けやすいからです。

このタイプの人間は、なにより環境を整えること、他者の力借りることが重要になります。

外因性の行動が多いタイプは、自分で決めたことを守りぬくのか苦手です、また習慣化した行動も何かのきっかけで簡単にやめてしまいます。

反面、規則やルールは比較的守りますし、生活にこだわりが少ないため、環境によってすごく化けます(いい意味でも悪い意味でも)

このタイプの人間は、外部から(環境や他者から)行動をコントロールされる事を好みます。

受験であれば、自主学習が多いスタイルではなく、勉強のスケジュールを管理してくれる予備校なり塾がおすすめです。

逆に、今流行のZ会や進研ゼミなど、勉強のスケジュールを自分で管理させるやり方は適していません。

スケジュール管理がしっかりした予備校や塾に通わせるか、自主学習が多くてもしっかりスケジュールが管理されている環境で勉強させる必要があります。

親や指導者はこのタイプの人間の交友関係をある程度監視する必要があります。

悪い環境や他者の影響をダイレクトに受ける性質なため、不良や犯罪者、いじめっこに対して同調しやすいのです。

セルフマネジメントとしては、自分が他者や環境から影響を受けやすいという事を前提として、影響を受ける対象を積極的に選別する必要があります。

ある程度環境や他者を自らコントロールする事で、自分をマネジメントするやり方が適しています。



次に内因性の行動が多いタイプは、一番セルフマネジメントとは無縁です。

外因性の行動が少ない分、環境に左右されませんし、惰性でやり続ける悪い習慣も身につきにくいです。

主に、自分の意思や感情で動くので、周囲からしっかりした人間と捉えられがちです。

頑固といわれたり、集団行動が苦手な面もあります。

このタイプは、政治家・起業家などリーダーシップや行動力が求められる職業に多いです。

反面、場合によって犯罪者や思想的テロリストなどにもなりやすいです。

このタイプは自分で決めたことはなんとしても貫く性質が暴走してしまうことを防ぐ必要があります。

ともすれば独りよがりで、他者からコントロールされる事を極端に嫌がります。

できるだけ多くの人と関わり、多様な価値観を受け入れバランスを取る必要があります。

セルフマネジメントでは、このタイプは逆に自分や環境、行動をマネジメント・コントロールしすぎない事が重要になります。

セルフマネジメントが得意ですが、ルールや他者に対してコントロールされたくないという意思が強いので、周囲との摩擦が起きやすいです。

他者や環境からの影響を受け入れるという意識が必要になります。

マネジメントやコントロールが過剰にならないように、気をつけましょう。

指導者としては、本人の意思を尊重しつつ、多様な価値観や人間と付きあわせ、バランスを取らせる必要があります。



最後に、惰性(慣性)のよる行動が多いタイプです。

このタイプの人間は、人に言われても何もしない、自分の意思もない人間と思われがちです。

セルフマネジメントでは一番厄介なタイプです。

反面、過去から続いている習慣が誰に言われなくてもやり続けるため、コツコツとした努力が功をそうしやすいです。

このタイプに必要なことは、とにかくやらせる事です。

強制的に習慣化するまで、なんとかなだめすかしてやらせる必要があります。

このタイプは一度身についた習慣は惰性(慣性)でやり続けます。

指導者はこのタイプの人間に対しては、悪い習慣が身につかないように気をつけ、良い習慣が身につけられるように積極的にコントロールする必要があります。

このタイプが小学生などの幼い時期に、コツコツやる努力習慣を身につけると生涯努力をし続ける秀才・勤勉型人間になりやすいです。

逆にこのタイプが子供の頃に放任されて育つと、悪い習慣を一層に身に着けやすいので、注意が必要です。 

このタイプは自分を律するとか人から言われて行動するというのが、とにかく苦手です。

自分からセルフマネジメントを学びたい・したいとは一番言わないタイプです。

しかし、既存のセルフマネジメントの方法には一番適しています。



どうでしょうか、仮説的に私が提唱しているだけで、心理学の本などには書いてないと思います。

人間の行動のきっかけを、外因・内因・惰性にカテゴライズして色々分析した結果の仮説です。

注意して欲しいのが、外因性の行動が多いタイプでも、内因性の行動や惰性の行動はあるということです。

また、三種類に分類しましたが、多くのひとはそこまで極端ではないという点です。

人によっては、内因性の行動が極端に多い場合もありますが、多くの方はそこまで極端ではなく突出して1つの切欠に偏ってはいないといことです。

これらは全く仮説の状態ですが、「行動のキッカケを分類したら、外因・内因・惰性の3つに主に分類される」ということは妥当じゃないかなと思っています。

では今回の記事は以上になります。



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科学の不完全さと宗教・スピリチュアルの言ったもん勝ち

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は、科学を完全に信じることの危険性と宗教やスピリチュアル、精神世界界隈の言ったもの勝ちに対する防衛策について述べます。


まず第一に、科学は不完全だという事を肝に銘じてください。

簡単に述べると、科学は未だ完成してません。

科学の完成は、現実の世界の全てに対する完全で完璧な無矛盾な説明とその証明でもって完成とします。

2015年現在、科学の完成度はそんなに高くないです。

物理学や数学の世界においては、かなり完成度を高めていますが、人間や生命に関しては全く稚拙です。

人間や生命に関しては、仏教などの非科学領域のほうが未だ優秀です。

私としては世界中の科学者さんたちが頑張って、せっせと科学の発展に努めて、人間や生命に関する正しい理論を築いて欲しいと思っていますが、その為にはあと何回か相対性理論や量子論の登場的な科学常識の転換が必要になると思っています。

ただ、世界の情報インフラが整ったおかげで、世界の変化のスピードはものすごく早くなっているので、後100年もしない内に、人間や生命に関する理論など1つの完成を見るのではないかと思っています。

そのためには、非科学領域の知見を(せっかく何千年もの積み重ねがあるのだから)積極的に利用する必要があります。

宗教・スピリチュアルなどの領域の知見も重要になってくると思います。


しかし、そこで問題なのが、現在の宗教・スピリチュアルの言ったモノ勝ちの状態です。


様々な精神世界・宗教・スピリチュアルの本やウェブサイトがありますが、そのほとんどは「私は少なくともそう思っている」という筆者の主張をなんの根拠もなく検証もなく書き連ねているのです。

もちろん、筆者本人は確かに真実だと確信しているのですが、「人間は勘違いしやすい、思い込みやすい、間違いやすい」というあたりの前の人間の持つ性質を過剰に無視しているのです。

逆に、その筆者の述べることが100%間違いだということも少ないと思います。

いくつかの、精妙な気付きと、現象に対する考察 があり、多くの検証も考察も不十分な突飛な思い込みと混在していると思います。

特にチャネリング系のスピリチュアルは危険です。

単純に考えて、チャネリング対象が存在し妄想でないと考えたとしても、そこで分かるのは「人間の脳に直接情報を送信できる技術とその技術を持つ存在がいる」だけであり、頭のなかで声がしただけでそれが神とか宇宙人とか、それが善性をもった存在とかは決して言えないはずです。

ましてや発言の内容が正しいとは決して導けないはずです。

ここで私が言いたいのは、上記の指摘が正しいとかではなく、それくらい「人間は勘違いしやすい、思い込みやすい、間違いやすい」という性質を考慮していないという事です。


私個人の意見としては、人間の隠れた能力を発揮できればチャネリングぐらいできるようになると思っています。

ミラーニューロンや共感能力、ある種のシックスセンスや集合的無意識など、チャネリングにある程度寄与していそうな人間の特性はいつくかあります。

将来的に人間の能力が解明されていけば、簡単なテレパシーは機械で実現できたり、能力の開発により生身で出来るようになる可能性は大いにあると思います。

だからこそ、単純に脳内にある種の音声が喚起されたとしても、それが大いなる存在だとは決して言えないのです。

単純に多重人格や妄想によるものである事も考えられます。

人間の脳はやろうと思えば、第二の人格くらい簡単に作れますし、病気によって妄想症状が出ている可能性もあります。

また、チャネリングと妄想をどう区別するかという問題も大いにあります。

チャネリングをして脳内に喚起される音声パターンと妄想症状により脳内に換気される音声パターンは原理的に区別がつきません。

どちらも、ある特定の神経パターンが活性化しているという点で同じだからです。

一般にチャネラーと呼ばれる方々は、チャネリングと妄想をどう区別しているか、できているのかという事も考えなければなりません。

すこし、チャネリング系のスピリチュアル本についての言及が多くなってしまいました。

ここで勘違いしてほしくないのは宗教やスピリチュアルの本も、現象に対する的確な観察と考察、おもしろい知見、現状の科学では発見できない思いの外正しい事実など有用な情報が多くあるということです。

そして、多くの人は「ある程度的確で正しい情報」と「思い込みなどから出てきた間違った情報」を区別する事が難しいということです。

これは科学の本にも同じことがいえます。

科学者は「人間は勘違いしやすい、思い込みやすい、間違いやすい」という性質を考慮して実証や検証には慎重になります。

しかし、科学者も人間ですので「勘違い、思い込み、間違い」は普通にあります。

科学者は一般の人より頭がよく物知りですが、高々その程度で「勘違い、思い込み、間違い」からは逃げられません。

IQがいくら高くても、普通に間違います。

どんな偉い学者でもノーベル賞を受賞しても、勘違いや思い込みからは逃げられません。


ここで最初のテーマに戻ります。

科学の不完全さと宗教・スピリチュアルの言ったもの勝ちに対する防衛策についてです。

対策は1つです、理性で持って確かな情報を区別しましょう。

そのさい、わからないことに関してはペンディングして色々科学が発展して確かになるまで待ちましょう。


理性でもって考える為には、ベースと成る基準が必要です。

基準は科学ですでに証明されたことにしましょう。

そして、哲学と論理と心理学を学びましょう。

哲学と論理と心理学を勉強すれば、人間はいかに間違えるかについて学べます。

科学を基準に考えれば、宗教・スピリチュアルにのめり込むこともありません。


このベースを持って、わからないことをペンディングしていけば、大いに間違えて人生を失敗することも少なくなると思います。

宗教・スピリチュアルに関しては、哲学と論理と心理学を学んでおけば、うさんくさい物とある程度信頼できるものは区別できるようになります。

もちろん、100%ちゃんと区別することは無理ですが、変な宗教にのめり込む事も少なくなると思います。

このブログに書かれていることも、その様な視点で読むことをおすすめします。

ある程度確度の高い情報を発信しているつもりですが、「ある程度」ですから。


では今回の記事はこれ以上になります。

久しぶりに記事を書いたので、グダグダ気味になってしまいました。

次回から調子を取り戻したいです。(反省)

ではまた。



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「潜在意識で容姿を変える」の話

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、潜在意識で容姿を変えることはできるのかという話です。


インターネット上では、潜在意識で願望実現とか、アファメーションで願望実現の話がごろごろ転がっています。

その中の一ジャンルでは、「潜在意識で自分の容姿を変える」というのがあります。

それが、可能なのか、可能ならば理論としてはどうなっているのかという話をしたいと思います。


結論から述べます。

潜在意識で自分の容姿を変えるのは可能です。

ただし、願望実現などで広い意味で使われる潜在意識の力ではなく、その人の魂(パーソナルなロゴス)によって可能になっています。
 
願望実現の世界で使われる、潜在意識という用語は、細かく分類すると、無意識、潜在意識、集合的無意識、魂(パーソナルなロゴス、心の本体、分け御霊、神の子、内なる神、など様々な形で呼ばれます)などが含まれています。

潜在意識で容姿を変える、と言うよりは魂の力で容姿をかえるのです。



理論について説明しましょう。

容姿を変えるという事は、自分自身の容姿に関する情報を書き換える必要があります。

その時に、重要なのが容姿に関する情報がどの部分に保存されているかということです。

結論から言うと、容姿の情報は、魂(以降はパーソナルロゴス)に保存されているということです。

脳のどこかに容姿に関する情報が保存されているわけではありません。

もちろん、遺伝子に肉体に関する設計図があるのですが、遺伝子は殆どの場合部品に対する情報であり、大枠に関する情報は殆どありません。(これは、仮説であり実証はされていません)

また、パーソナルロゴスは常に肉体からのフィードバックを受けて、その形を微調整します。

そして、パーソナルロゴス自体も、肉体に対して常に出力しています。

大体の場合では、パーソナルロゴスは、常に肉体からのフィードバックを受けて自己の肉体に関する情報を受取ます。

肉体が鼻が低かったり、ほくろが出来たり、足が短い場合はパーソナルロゴスはその情報を肉体からフィードバックの形をとり受け取ります。

そのため、そのような肉体の情報がパーソナルロゴスに保存され、パーソナルロゴスも肉体に対して出力しますす。

そのようにして、人間は肉体の一貫性を保ちます。

容姿を変えると言うことは、パーソナルロゴスを書き換え、それを肉体に対して出力し続ける必要があります。

パーソナルロゴス自体は書き換えは容易なのです。

しかし、常に肉体のフィードバックを受け取っているために、肉体が時間を掛けてその物理的構成を変化させている間、フィードバックを無視して常に肉体に出力する必要があります。

それこそ、寝ても覚めてもです。

簡単に言い換えると、実際に容姿が変わり終えるまで、つね変化後の自己イメージを保ち続ける必要があるのです。

この作業が実に地道で根気が必要であるため、多くの人は容姿を変えることに失敗するもしくは部分的にしか成功しないのです。


では、どのようにパーソナルロゴスを書き換え、肉体に対して出力し続ければ良いのでしょうか。

具体的な方法は、「ヴィジュアライゼーション(視覚化)」と「成りきり」しかありません。

まずは、ヴィジュアライゼーション(視覚化)に関する説明からしましょう。

視覚化は、自分がなりたい容姿を具体的にハッキリとイメージできる様になることです。

それこそ、まつげ一本一本から、右足の親指の爪の形まで。

なりたい容姿が、芸能人とかだったら、実際に写真などをじっくり観察し、脳に焼き付けます。

なりたい容姿が、自分の中にしかなったら、すこし大変ですが、実際に絵に描けるというぐらいまで具体的にイメージを固めます。

詳細にビビットにイメージできるまで、頑張りましょう。

つぎに、成りきりについて説明します。

成りきりは、視覚化で具体的詳細に描けるようになったイメージに「主観的」に成りきります。

ここで言う主観的にというのは、思い浮かべたイメージに対して「これは自分だ」と認識するのではなく、イメージを自分の体に投影して、自分がそのイメージ通りになったのをありありと感じるという事です。

視覚化で作り上げたイメージを、自分の体と重ねあわせて、自分がイメージそのものになったのを感じ続けるのです。

この「成りきり」は2つの目的があります。

1つは、パーソナルロゴスを自分の体に対して出力し続けるという事です。

もう1つは、自分の体から受けるフィードバックを無視し続ける事です。

先程述べた通り、パーソナルロゴスを書き換えることが意外と簡単できます。

なので、容姿を変える時に一番の壁は、肉体からのフィードバックをいかに無視し続けるかということです。

「成りきり」を続ける事で、現在の肉体からフィードバックを無視するということが可能になります。


以上、「潜在意識で容姿を変える」の話になります。

容姿を変える方法に関しては今までも言われていた通りですが、理論に関しての説明は新しかったのではないでしょうか。

実際に容姿を変える際の「成りきり」は非常に根気のいる作業です。

多くの人がここで挫折するのではないでしょうか。

なので、すこしでも理論的背景を理解して、容姿は変えられるということを知ってから取り組むのが良いのではないでしょうか。



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私は完全~部分不完全性と全体完全性~

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、 部分不完全性と全体完全性についての記事です。


この、部分不完全性と全体完全性は、私が作った造語です。

昨今のスピリチュアル業界の「すべての人間は生まれた時から完全である」という表現を哲学的に探求した結果生まれた言葉です。

簡単な例からこの言葉の意味を説明しましょう。

あなたの目の前に一本の鉛筆があったとします。

すこし考えてみてください。

この鉛筆は不完全な存在でしょうか、それとも完全な存在でしょうか。

とりあえず、鉛筆を不完全なモノといて考えてみましょう。

鉛筆は字や絵を描くための道具で、紙を切ることも、食器を洗うこともできません。

このように、鉛筆はできないことが多すぎる不完全な存在として見ることができます。

では、ちょっと視点を変えて鉛筆を完全な存在として見てみましょう。

鉛筆は、字や絵を描くための道具です。

だったら、字や絵をかければ、鉛筆は1つの道具として完全ではないでしょうか。

紙を切りたいならハサミを使えばいいし、食器はスポンジで洗いましょう。

鉛筆はできないことが多いことは事実ですが、そもそも字や絵をかくために作られた道具です。

切ったり、洗ったりする機能は全く必要のないものです。

そのような機能は別の道具で補ってやればいいのです。

そう考えると、鉛筆はまったく不足のない完全な存在として見ることもできます。


この例から分かるように、鉛筆は全ての世の中にある仕事(機能)の一部(部分)しかできない存在だとみなせば、不完全さを露わにします。

しかし、鉛筆それ自体を、それ自体が完結した1つの全体(whole)とみなせば、不足しているものはなくなり、完全さを露わにします。


前者を、部分として見ることで不完全な存在になるという意味で、部分不完全性と名付けました。

後者を、全体として見ることで完全な存在になるという意味で、全体完全性と名付けました。


実は、これと同じようなことが私たち一人一人の人間を含む、全ての存在に言えるのです。

私という個人はできない事が多いです。

フランス語は喋れないし、卓球は弱いですし、そもそも男なので子供は産めません。

しかし、私ができないことは他のそれが出来る人にやってもらったり、機械に任せたりすればいいのです。

そのような意味で私は不足することのない完全な存在なのです。

また、完全性には、スケールが多くなると部分不完全性が弱まり全体完全性が強まるという性質があります。

私というスケールではできないことは多いですが、家族や社会、国家というスケールまでいくとその不完全性は弱まっていきます。

そして、宇宙という最大のスケールの中では、全ての部分不完全性が消失し、全体完全性だけの存在になります。



また、全知全能の神は存在するかというテーマで議論している数学者、哲学者、宗教者がいます。

数学者や哲学者は、論理だけでそれを議論するので、論理の持つ部分不完全性により完全性を証明できないのです。

それに対して、宗教者は全体完全性を論理という部分を超えて語るので、数学者や哲学者に荒唐無稽と嘲られます。

しかし、論理は宇宙の中では一部分でしかありません。

論理という部不完全性が強いものだけで完全性を証明しようとしても出来っこないのです。

論理はただの道具でしか無いのです。

トンカチだけで家を建てようとして、建てられなかったから「家を建てることは不可能だ」と言っているようなものです。

家を建てたかったら、トンカチも鋸も鉋も、釘も全部使わないと建てられっこありません。

数学や論理という道具だけで世界を語ろうとしている時点で、失敗しているのです。

それが分からない、頭の良い学者が大勢いるのが現状なのですが。



話がそれましたが、私というのは部分不完全性と全体完全性を併せ持つ存在である事がわかりました。

そして、自分の中の完全性と不完全性をどちらを見ようとするのか、その人次第なのです。

常に自分自身の全体完全性にフォーカスして生きることが、スピリチュアルの方々が述べたいことではないでしょうか。


今回の記事は以上になります。

ではまた。




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アファメーションにおける操作可能性の重要性

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、アファメーションで最も重要な要素の一つ、操作可能性の拡大について書きたいと思います。


操作可能性というのは、簡単に説明すると「自分が対象に対して、影響をあたえられる」という事です。

例を挙げます。

生まれたばかりの赤ちゃんが、ベビーベッドの上に寝ていたとします。

ベビーベッドの上にはおもちゃがあって、おもちゃにつながっている紐を引っ張ると音が鳴るようにできています。

生まれたばかりの赤ちゃんは、生まれ落ちた世界のことをよく知りません。

自分が、世界に対して働きかける事ができるということもよくわかっていません。

しかし、ベッドの上に寝ている時に、目の前に垂れている紐を引っ張ったら、音が鳴ります。

それを何度か繰り返すと、赤ちゃんは紐を引っ張ると音が鳴るという事を学習します。

自分が紐を引っ張ると、音が鳴る。

赤ちゃんは、どうして音が鳴るとか仕組みについては何も知りません。

しかし、自分が音を聴きたい時には、紐を引っ張り音を鳴らします。

自分の行為によって、音が鳴るとうい現象を操作できることを覚えたからです。

この後も赤ちゃんは、「まんま!」と言うとご飯が出てきたり、「抱っこ」と言うと抱っこしてもらえたりといった、世界の様々な事は操作が可能であるという事を学び、自分の世界対する操作可能性を拡大していきます。

しかしどうでしょう。

もし、紐を鳴らしても音がならなかったり、「まんま!」と言ってもご飯が与えられなかったり、「抱っこ」と言っても抱っこしてもらえなかったりしたら・・・。

このように、自分が世界に対して影響を与える事ができないという事を学習してしまうと、その赤ちゃんは操作可能性を拡大させるこなく、何に対しても無気力で無感動な人間に育ってしまいます。

最悪の場合、言葉を話すことすらなくなります。

なぜなら、「ご飯頂戴」と言ってもご飯が一切出てこないなら、言葉を使う必要がないですから。


どうでしょう、「操作可能性」について理解してもらえたでしょうか。

この「操作可能性の拡大」はアファメーションなど、願望実現法にとどまらず、すべてのスポーツ・勉強・芸術・気功などの超科学的なモノにおいて超・重要なのです。

「操作可能性の拡大」が起きなければ、無力感に陥ってしまいます。

勉強をいくら頑張ってもテストでいい点を取れなかったり、素振りを毎日何百回しても試合でヒットを打てなかったり、いくら丁寧に描いても思ったととうりの絵が掛けなかったり、気功の理論をいくら学んでも、手から何かが出ている感じがいっさいしない、などなど。

あらゆる学習・成長とは、世界に対して操作可能性を拡大することでしか達成されません。

勉強を頑張れば、テストで高得点が取れる、毎日練習を頑張ったら、試合で活躍できる、絵を描いたら描いただけどんどん上手くなって、自分好みの可愛い女の子の絵が描ける、気功の修練を積めば積むほど、気を操れるようになる。

このように、操作可能性を拡大していくことで、どんどん成果が上がっていき、自分の能力を確信していき、世界をどんどん冒険していくことができるのです。


そして、アファメーションの操作可能性の拡大の方法は、アファメーションが実際に効果がある、アファメーションをすれば願望が実現するという確信をどんどん深く広くしていくことです。

アファメーションという一見目に見えずに実際に効果があるのか、願望が達成できてもそれがアファメーションの効果なのかわからない場合、おもちゃに紐はついているのに、実際に音が鳴っているのに、自分の腕が透明なため、紐をどう掴めばいいかわからない、紐を掴んでる確信がない様な事が起きます。

そのため、アファメーションにおいて、操作可能性を実感し、操作可能性を拡大していく方法は2つしかありません。

1つは、アファメーションがどのように現実世界に影響を及ぼし願望を実現させるのか、その理論を徹底的に学んで、おもちゃに紐があること、引っ張れば音が鳴ることを確信する方法です。

もう1つは、実際にアファメーションを使用して願望を実現していく方法です。

前者の場合は、理論だけ完璧でも、実際にアファメーションが現実に影響をおよぼす実感が得られず、後者の場合は比較的効果があると思いますが、アファメーションによって願望が実現されてという確信が薄い場合は効果が無いです。

なので、理論を徹底的に学んで、実際にアファメーションをして小さい願望を沢山実現していくことをおすすめします。

これは、気功や超能力、瞑想、自律訓練法、能力開発、スポーツ、筋トレ、数学、英語、物理学、コンピュータエンジニアリングなど、すべて分野で同じことが言えます。

特に、超能力や気功の世界では、片方だけでは全く意味を成さない場合が多く、両方をしっかり行わないとまったく身につきません。

逆に言うと、理論の学習と、ちいさな「出来る」を積み重ねていけば、基本的に誰でも気功と超能力は身に付ける事ができます。

また、アファメーションや気功や超能力の場合、科学的に否定されているとか、インチキだとか、少しでも疑念の心があると、操作可能性は決して拡大しません。

なぜなら、操作可能性の拡大とは、「紐を引っ張ったら、音が鳴る事をあたり前に知っている」という状態ですので、当たり前に知っていることに疑いが生じることはありえないからです。

逆説的に、疑いが生じていると言うことは、「自分は信じているけど、現実には本当かはわからない」という状態に自分の認識がとどまっている事を意味し、「出来るという事を当たり前に知っている」という状態からは程遠いからです。

漫画のジョジョの奇妙な冒険で、エンヤ婆が言っている事が全てです。

「DIO様ッ! あなたは必ず時を支配できるッ!」
「もっと! もっと! 静止した時の中を動けると思いなしゃれ! 空気を吸って吐くことのように! HBの鉛筆をベキッ!とへし折る事と同じようにッ できて当然と思うことですじゃ!」
「大切なのは「認識」することですじゃ! スタンドを操るという事は、できて当然と思う精神力なんですぞ!」

ジョジョの奇妙な冒険のDIOは敵役ではありますが、願望実現のステップを忠実に登っているのでとても参考になります。

私たちがコップに注いである水を飲む時に、「もしからしたら、私は水を飲むことができないのではないか」などとは一切考えないでしょう。

コップに注いであるのだから、飲めて当然、なんの障害もない。

このレベルに認識を持っていくことが必要になるのです。

アファメーションの効果が出ないとか、アファメーションなんて実際のあるの?とか言っている人は、目に見えない世界に対する操作可能性を一切もってません。

そのレベルの意識と認識では、いつまでたっても願望は実現しません、地道に努力した方がはるかにマシです。

必要なのでは、理論を学び、実践で小さな「出来る」を積み重ねていき、見えない世界に対する操作可能性を拡大していくことです。

また、理論については、このブログの全部の記事を読んでいけば、マスターできるようにしていくつもりです。

現時点で載せてある記事も全て読むことをおすすめします。

哲学や物理学のカテゴリもすごく重要ですので、読むことをすすめます。


今回の記事は以上になります。

どうでしょうか、「操作可能性」の重要性をお解りになれたでしょうか。

このブログは、記事を全て読むと世界に対する操作可能性が拡大するを、密かなテーマにしていたりするので、アファメーション関連以外の記事を読んで欲しいです。

では他の記事でお会いしましょう。

ではでは。



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論理的という事を考える

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、論理的ひいては論理というモノについての考察です。


私たちが生きる現代日本では、様々な場面で論理的であることが必要だと訴えられています。

しかし、皆さんは、論理的であるが故に絶対に間違えることがある、と言うことをご存知ですか。

あるいは、論理的であればあるほど間違ってしまうことがあるという事をご存知ですか。


まず、論理というものについてさらっと説明しましょう。

論理とは、前提から結論を導くための推論の技術あるいは方法のことです。

厳密には違いますが、一般の方々が思う論理とはこのことです(厳密には、この形式の論理は演繹的推論であり、論理そのものではないです)。

そして、一般に論理的であると言うことは、この推論の過程に間違いがないということを指します。

論理的であると言うことは基本的にそれ以上の意味を持ちません。

しかしどうでしょう、論理はすべからく前提(多くの場合は既知の事実)から始まります。

推論の過程自体は正しくても、この前提が間違っている場合必ず結論は間違います。

推論の過程が無矛盾で整合性がとれているほど、間違った結論を導くのです。

例を挙げます。

前提

今日は晴れである。

洗濯物は2階のベランダに干している。

推論

洗濯物を取り込んだら、2階の母の部屋で畳んでそのままにしている。

結論

洗濯物は、母の部屋にある。

上記のような、すこしふわっとした論理があります。

この結論は間違いです。

なぜなら、今日はお昼ごろ雨が降って洗濯物が濡れてしまい1階の乾燥機で乾かしたため、1階の着替え場にあるからです。

このように、論理的に考えても前提が間違っていたら正しい結論は得られないのです。


また、推論の自体にも問題があります。

多くの場合、推論の過程にある論理は、帰納的推論によって導かれています。

帰納的推論とは、論理形式の一つであり、多くのデータ(事実や結果)の中から正しい法則や論理などある種のパターンを見つける方法を指します。

1 + 1 = 2

という式(論理=ロジック)を見てましょう。

数学式は演繹的推論の代表みたいなものです。

1+1という前提から2という結論を導いています。

厳密には違うとは思いますが、だいたいそんな理解で大丈夫です。

1+1=2という論理は人間が、身近にある様々な物が1+1=2の論理に従うことを発見した為にできました。

しかし、1+1は本当に2になるのでしょうか。

りんごやみかん、すいかやコップはなどの物は基本的に1+1=2の式(論理=ロジック)に従います。

しかし、1+1=2の式(論理=ロジック)に従わないものも沢山あります。

2つのコップの中にある水を、1つの器に移し替えてもコップに入った水は1つのままです。

2つの粘土の塊を足しあわせたら、より大きい1つの粘土が出来上がります。

このように、2つのものを足しても、より多きい1つのものが出来上がる場合があります。

1+1=2の基本的な演繹的推論ですら、このようにその論理に従わない事があるのです。


(ちなみに、この数式の前提には、最小単位(ユニット)の概念があります。1+1=2というのは、1という最小単位(ユニット)が2つあるということを指します。粘土や水の場合、1つの粘土と1つの粘土を足したら1つの大きい粘土は1+1=1と表現できそうですがの右辺と左辺の最小単位(ユニット)が共通していません。最小単位の大きさは同じである必要があります。なので、この場合1gの粘土と1gの粘土を足したら、一つの2gの粘土の塊ができると考えれば、数式の論理に従います。また、割り算には注意が必要です。9÷3=3というのは、9というユニットの中に3というユニットが3つあるという事を指します。割り算の場合、右辺と左辺のユニットは異なります。左辺の最小単位(ユニット)が1を基底にしているのに対し、右辺の最小単位(ユニット)は3を基底にしています。ですので、割り算の基本的な考え方は他の四則演算と違うのです)


ここで大事なのは、演繹的推論は多くの場合帰納的推論で導かれているということです。

帰納的推論であるが故に、その人の経験や知識が偏っていたり不足していると正しい演繹を導けません。



また、テレビドラマの探偵や刑事が行う仮説的思考も論理の一つです。

仮説的思考では、結果から推論し原因を逆算します。

原因を導くの為には、導く為に必要な結論(結果)がすべて出揃っている必要があります。


例を挙げましょう。


あなたが仕事を終えて家に帰ったら、楽しみに取っておいたプリンがなくなっていました。

すでにわかっている事実は以下のとおりです。


あなたは、実家にすんでおり、母(48)・父(49)・姉(27)・弟(5)と同居している。

今朝の7:00時点で冷蔵庫のプリンを確認している。

弟(5)の今日のおやつはプリンだった。

母・父・姉は甘いモノが苦手である。


上記の事実から、プリンが無くなってしまった原因が分かるでしょうか。

論理的に考えて、犯人は弟だろうと考えた方、あなた間違っています。

新しい事実を追加しましょう。


冷蔵庫にプリンは2つあった。

実家では犬を飼っている。


この時点で犯人が犬だと思った方も間違っています。

正解は、「母が家に来たお客さんに出した」です。

実は、今日の昼に来客があり、ちょうどお菓子を切らしていたので、お母さんがあなたのプリンを勝手に出してしまったのです。

このように、原因を導くのに必要なすべての事実が出揃っていない状態で論理的考えてしまうと、必ず間違えてしまいます。


以上をまとめると、論理的に考えて正しい結論を導くには「すべての正しい事実(原因・結果・知識・経験・理論などなど)」が必要なことがわかります。

また、人が他人の論理的思考を間違っているとか論理的でないと判断する時、相手の論理ではなく自分の知っている事実と合致するかしないかで判断しています。


これは私の考えですが、論理とは、「説得・納得」のための道具である場合が殆どです。

論理的だとしても間違っていることもあり、逆に非論理的なものが間違っているとも限らない。

このことを踏まえ、論理にとらわれ過ぎないことが最も大事なことなのです。

「論理的に正しいことは、論理的に正しいということを保証しており、導いた結論が正しいことそのものは必ずしも保証しない」ということを胸にとどめておくことが大事です。

最も大事な事は、論理的に正しいことではなく、目の前にある現実との整合性がとれている(矛盾がない)、つまり現実として正しいということだと思います。

現実として正しいことを論理的思考で導くには、そのために必要な知識や経験などを堅実に積み重ねていくしかありません。

そのためにはしっかり勉強したり、体を動かして色々な経験をしたり、仮説を立てて検証したりするしかないのです。

そして、全ての正しい知識・経験・理論が出揃うその時まで、自分の考えることは常に間違っている可能性があることを考慮している必要があります。

私たちに求められているのは、そのような懸命さでは無いでしょうか。

最後のまとめが精神論になってしまいましたが、今回の記事は以上になります。


ではでは。



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物体の同化現象について

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、物理学と哲学のちょうど中間の話です。


皆さんは不思議に思ったことはありませんか、自分の体が自分の意のままに動くことに。

一つ一つの細胞は完全に個としてしか機能していないはずなのに、自分という全体を統括する意識がある。

右手の人差指の爪の細胞と、親指の細胞は本来ならば、完全に独立して存在する互いに関係のない物体です。

それは、全身のすべての細胞にも言えることです。

体の全く離れた箇所にある細胞どうしは、完全に他人同士です。

もっとスケールを大きくして考えたら、あなたとあなたの両親や友人の様な関係です。

それぞれがユニット(最小単位)であり、ユニット自体に独立した完全なる個の意思があります。

あなたとあなたの両親と友人は完全に独立していて、あなたとあなたの両親と友人は一つのものとして振る舞うなく、個人を超えた意思は存在していません。

しかし、現実にはあなたの細胞とい独立したユニット(個を持つ最小単位)をつなげた結果、細胞というユニットを超える、「あなた」という総体として意識が存在しています。

これって実はすごく奇妙なことなのです。

さながら、アリの群れが一つのアリの神様に導かれているかのように。

私たちは、アリの群れが統制のとれた動きをしても、アリの群れをまとめあげるアリの神様がいるとは思っていません。

しかし、自分の体の事になると、複数の細胞(ユニット)から成る自分が一つの意思あるいは意識をもって保たれていることを発見します。

このことについて奇妙に思わない方が大半だと思いますが、論理的に考えると実に不可思議な現象なのです。

しかし、当たり前の中に隠れていて、無視されて忘れさられていることにはいつだって大いなる気付きがあります。

それを今から説明しましょう。 

アリの群れと人間の体の一番の違いは、それが「同化」しているかどうかです。

同化という現象を簡単に説明すると、「物理的に結合していて、一つのものとして振舞っている」という状態を指します。

アリの群れ、そしてあなたとあなたの両親と友人は、物理的には決して結合してません。

しかし、あなたの体は細胞同士が極めて密接に結合しています。

これが「同化」しているということです。

考えると、単純なことです。

小学生だってわかります。

しかし、この単純な事実が実は非常に重要なのです。

ここで、別の記事でした魂や気の場の話になります。

魂とは気の場が物理的に歪んで、個として定義された状態を指します。

気の場ないし気は物理的実体を持たない情報を保有できる実在、「存在質」とでも言うべきモノです。

物理的に密接した複数のユニットからなる物体には、一つの魂(気の場)が重なることができます。

この時、魂(気の場)は複数のユニットからなる物体の原子の隙間にちょうどすっぽり収まります。

また、物質と魂(気の場)は本質的には同じものですので、互いエネルギーの交換が行われる事になります。

このようにして、あなたという自己は細胞の総体として個を保っているのです。

また、一つの魂(気の場)が分割する事はありませんし、離れた所に別々に存在する事はできません。

そのため、二人に以上の人間がいても、それを包み込む高位の魂は存在しません。


以上が物理学的観点と哲学的観点を融合した人間論になります。

この同化という現象は物理学的にも非常に重要な考え方になりますので、覚えておくとお得です。

ではまた。



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エネルギーと力を俯瞰して捉える

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、エネルギーと力についての哲学的考察です。


皆さんは、エネルギーと力(あるいは仕事)をどのように認識していますか。


結論から言って、私はエネルギーは「変化量」、力(あるいは仕事)は「影響力」の事を指していると考えています。

何故そう考えるに至ったかを説明しましょう。


まず、第一に熱エネルギー、電気エネルギーなどの様々なエネルギー形態がありますが、すべてのエネルギーは物理的な原子や電子の運動量に還元できます。 

運動量とは、 ある物体がどの程度移動(運動)したかで考えることができます。

言い換えると、物体の位置がどれほど変化したかと考えることができます。

それを俯瞰して捉えると、どれほど変化量があったかとなります。

あらゆるエネルギー、熱、電気、蒸気、核、化石はどれほど変化量を生むことが出来るかでエネルギーの大きさが決まります。

では、力はどうでしょう。

1mの立方体を3m前方に動かしたら、それに変化量が観測できます。

1mの立法体を動かすのにはエネルギーが必要という事です。

しかし、電気エネルギーや熱エネルギーがただあったとしても、それが立方体を動かすことはできません。

動かすためには、そのための仕組み(システム)が必要です。

例えば、人間が立方体を動かすには、人間の体という一つの仕組み(システム)が必要になります。

しかし、システムはシステムそれだけでは仕事をせず、なんの力も発揮しません。

システムが仕事をして、力を発揮するにはエネルギーが必要です。

人間でしたら、ちゃんとご飯を食べて、筋肉がちゃんと動くようにしないといけません。

機械も同様です、蒸気機関であれ、電子機械であれ、からくりであれ、機械が動くにはエネルギーを要します。

そして、システムが動き力を発揮して初めて、目的の対象に働きかける力、すなわち影響力を持ちます。

まとめると、エネルギー(=変化量を持つ何か)を使用して力(=影響力)を発揮するには、それに相応しい仕組み(システム)が必要となるのです。 

エネルギーと力にはこの様な関係が成り立つのです。

これを考えると、どれほど強大なエネルギーがあったとしてもそれを力に変える仕組み(システム)が無いと、役に立たないことに成ります。 

人類が発明した、蒸気機関やガソリン車、電子機械はすべてエネルギーを力に変える仕組みということになります。

エネルギー自体は、世界に存在しているものを使用するしか無いので、すべての機械(あるいはシステム)はエネルギーを効率的に力に変えるために存在していることになります。

また、このエネルギー(変化量)はどんなにそれを力に変換しても、変化量という考えで見れば、世界のエネルギー(変化量)は決して縮小しないことがわかります。

 
この考えを拡張すると情報をエネルギーとみなすことができる事がわかります。 

情報を物理的に還元すると、物体が持つ複雑性と定義できます。

コンピューターのディスプレイではありとあらゆる映像が表現できます。

しかし、画面が真っ暗あるいは真っ白の状態と、例えばドラえもんが表示されている状態では、後者の方が情報量が多いです。

これは、後者の方が映像を表示する時に複雑な処理をする(あるいは複雑な表現方法を取る)必要があるからです。

つまり、物事が複雑になればなるほど記述すべき情報量は多くなるのです。

また、情報の性質の一つに増えることはあれど、減ることはなというモノがあります。

あなたが、ドラえもんのイラストを描いたとします。

一度描いたドラえもんは宇宙に新たに生まれた情報(複雑性)です。

もし、あなたがそのイラストをビリビリに破いてしまったとしても、あなたが描いたイラストは観念的には消えません。

あなたの記憶の中に残りますし、もっと言うと気の場の中に情報として残ります。

ビリビリに破いたノートをリサイクルして、新しいノートを作るとそこにアンパンのイラストを描くことができます。

物理的には、ノートが増えてわけではない無いのに、情報自体は永遠に増やすことが可能なのです。

また、この情報は、今まで何もなかったところに、あたらしいドラえもんのイラストという情報が増えた(情報量が変化したということになり、変化量が観測できます。

つまり、新しい情報が出来るたびにエネルギーが増えるのです。

こうして、情報の誕生をエネルギーの増加とみなすと、宇宙のエネルギーは減ることなく増える一方となるの
です。

また、物質は本質的に気の場で情報によって定義されて成立するので、この世のありとあらゆるものは情報(エネルギー)で出来ており、それは増えることあれど減ることはないと定義されます。


こうなってくると、科学の世界とスピリチュアルなどの精神世界との親和性が高くなってきます。

非常に面白いですよね。


今回の記事は以上になります。

ではでは。



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主観経験と客体世界の狭間

こんばんわ、dokubo_toshoです。


今回の記事は、人間が感じる主観経験の世界と観察する客体世界について書きます。


現在の西洋科学を軸として世界では、世界を客体(モノ)の総体として考えて、主観経験の世界を蔑ろにしています。

逆に、スピリチュアルやオカルト、精神世界などの領域では、過剰に主観経験を重視し、客観的に証明できる客体世界を蔑ろにしています。

実は、これはどちらの領域も大まかには間違っていないのですが、一方の世界を重視しすぎるあまり、現実でのバランスを欠いて、現実に対する間違った認識を生んでいます。

なので、現実世界に対する確かで正しい理解と認識をしたかったら、どちらか一方の世界の理論や常識にとらわれるのでなく、バランスよく知識を吸収し実践していかねばなりません。

科学主義に傾倒しすぎると、自分が今現在に感じている主観経験の世界を無視することになり、精神のバランスを崩したり、世界の根幹である自らの命や意識や魂と呼ばれるものをすべからく否定的に見るようになります。

スピリチュアルをに傾倒しすぎると、全てを単なる主観経験と捉えてしまい、唯識論や唯心論に陥り過剰に客体世界の否定をして、不適切な妄想や幻覚すらも真実としてしまいかねませねん。

主観経験の世界と客体世界は、現実という一つのモノの別の側面であり、本来なら一体として統合的に捉えるべきなのです。

どちらか片方に偏るべきではありません。

科学者は主観経験の世界に対して、説明になってない説明を無理やり納得させがちです。

スピリチュアルなど精神世界に傾倒している人は、客観的証明された科学との整合性を取ることなく、思考と経験の中でのみ真実を見出そうとしがちです。

本当に目指すべきは、現実の中で矛盾が生じないように両者の理論や常識を統合させることなのです。

そうなってしまったら、統合科学とも言うべきものが生まれ、科学の世界が主観経験を正しく説明するようになり、主観経験の世界が現実と100%合致しているという状態になります。

人類は宇宙創世から現在に至るまでの叡智を、それこそ科学者や偉大な覚者と呼ばれる人から、渋谷のギャルや秋葉原のオタクまですべての叡智を結集して統合して、最も現実と適合した理論とその理解を目指すべきなのです。

そうでなければ、人類はいつまでの無知と問題と諍いを断ち切ることができないでしょう。

認知科学の登場は、ようやく科学の世界で主観経験を扱う準備ができてきた証拠だと思います。

また、精神世界は科学との統合を目指そうとする方が増えてきた印象です。

しかし、科学では今で客体世界中心の理論と理解であり、精神世界ではしっかりと科学的事実との整合性を取ろうとはしていません。

私は今後30年以内に、両者が統合され世界の常識が一変するだろうと予測しています。

その示唆として、科学では先進的な研究で、瞑想や気功などを扱うようになっており、精神世界ではちゃんと科学を学ぼうとする方が増えています。

そして、世界の変化のスピードが指数関数的に加速していることからも考えて妥当な予測では無いでしょうか。



今回の記事はありがちな展開になってしまいましたが、以上となります。

ちなみ、あらゆる科学や精神世界の(それに限りませんが)本は、100%正しい事が書いてあるということが皆無です。

しかし、だいたい10~70%くらいは正しいことが書いてあるので(あまりに低いのは書物として認めない考えです)、この本はどこが正しくてどこが正しくないかという事を吟味しながら、様々なジャンルを横断して読み色々な本を読みつつ実践するのが懸命です。
 

なので、このブログも確度の高い情報を発信しているつもりですが、100%信頼するのはおすすめしません。

ではまたの記事でお会いしましょう。



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アファメーションを理解する、基礎理論と実践手法

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、アファメーションをするための要点をまとめた記事となります。

注:この記事は大部分が仮説からなるので、理論の実証はなされていません。

個人の責任で、情報を活用してください。



アファメーションは、英語でaffirmationと書きます。

affirmationの形容詞形であるaffirmativeは肯定的なという意味でnagativeの対義語になります。

直訳すると、affirmationは肯定、心理学的な用語としては肯定的な言葉がけという意味となります。


アファメーションは、願望実現法や心を整える瞑想、心理療法でもその要素が取り入れらており、人間の脳のシステムあるいは宇宙規模のシステムを利用した非常に効果のある方法論(メソッド)です。

アファメーションの効果としては、顕在意識レベルでは、物事に対する肯定的なブリーフを形成し、潜在意識レベルでは常にバックグラウンドで効果を発揮して人間の行動や身体活動を無意識から誘導します。

また、集合的無意識レベルでは、人間同士の目には見えない通信システムに影響を与えある種の不可思議な超常的な作用をもたらします。

そして、物理的なレベルでは、思考はある種の気のパターンを発し、素粒子レベルでの影響を与えます。

当たり前ですが、思考という脳内の処理は物理的な影響力を持つ、現実的の現象です。

物理的な脳のシステムひいては宇宙システムの中で存在する、実在する現象です。

それが上記の様な広範囲に渡る影響力を持つことは何ら不思議ではないのです。


アファメーションそのもの説明は以上として、実践的なアファーメーションのやり方の説明に入りましょう。


アファメーションの初歩の説明として、脳は否定形を認識しないという一般的な誤解を解くことから入って行きましょう。


私は病気ではなくなった。

という否定形のアファメーションを例に説明しましょう。

人間の脳がこの文章を理解する時には以下のような構文解析を行います。

1 私 は

2 私 は 病気

3 私 は 病気 では

4 私 は 病気 では なく

5 私 は 病気 では なく なった。

6 私    病気

7 私   病気  では

8 私   病気  では  なく

9 私   病気  では  なく  なった。

10 私        では

11 私        では  なく

12 私        では  なく  なった

13 私             なく

14 私             なく  なった

15 私                 なった

16 ・・・・

ちょっとパターンが多いので割愛しますね。

単語の区切り(チャンク)同士の論理的な関係をすべて洗い出してから、それを統合して一つの意味のまとまりとして認識します。

そもそも、人間が言語を学習する時、脳は統計を取るように大量のデータの中から共通する言語のパターンを解析して言語を習得します。

そのような仕組みであるため、子供は文法規則を学習することなくある程度母国語を修得することができます。


(余談ですが、統計処理の原理は帰納的推論です。あまりちゃんとしない言葉を話す人ばかりに囲まれて育てば、ちゃんとしない言葉を話すようになります。また、方言とは、言語が何世代に渡り局所化(ローカライズ)される事で生まれています。実は言語の派生もそれに類するものです。言語の習得は統計的なものなので、地域によって偏差が生じるのは必然だからです。その偏差が何世代もかけて大きくなる事であらゆる言語の変化が生まれます。また、現代は情報機器の発達で昔よりかなり偏差が生じ難くなっています)

そのため、通常の言語処理でも脳は統計的な処理をして意味を認識するのです。

上記の理由から、脳は否定系の文章を認識する時、肯定形を同時に認識します。

最終的には5で否定形を認識しますが、そのまえに2で肯定形の認識処理を行っているのです。

この様な認識処理をしてしまうため、否定形の文章でアファメーションをやってしまうと、否定形の前に肯定形の意味ネットワークが活性化してしまい、アファメーションの効果が大分削がれてしまうのです。

そのため、アファメーションは必ず肯定形の文章で行う必要があるのです。

ただ、脳は否定形を認識しない、と言うのは誤解ですので覚えておきましょう。



アファメーションの基礎理論に入ります。

効果的なアファメーションでは大きく感情が動く必要があります。

認知科学的な説明では、脳は感情が動く時に抽象的なイメージに強くリアリティを感じます。

リアリティのないアファメーションでは、大脳より原始的な部位である、大脳辺縁系と脳幹は上手く働いてくれません。

ひいては、無意識や潜在意識、集合的無意識まで影響を及ぼすことができません。

例を上げましょう。

政治家が、戦争に関する法案を議論する時は、戦争の悲惨さ禍々しさ、恐ろしさにリアリティを感じていません。

人が抽象的に論理を展開し、前頭葉で言葉を操る時、様々なものが捨象されるためリアリティは維持できません。

そのため、政治家は戦争に関する法案を冷静に俯瞰して議論することができるのです。

もし、戦争の恐ろしさにリアリティを感じながら議論すれば、恐怖で体が震えて嗚咽を漏らし議論にはならないでしょう。

でも、時にはリアリティも必要になります。

もし戦争が起こってしまったらとリアルに考えられるなら、殺されるかも知れない恐怖と、大切なモノを失うかもしれない恐怖で絶対に戦争をしたいと思いませんから。


上記の例で分かるように、私たちが普段言語を使って思考するときには、ほとのどの場合強い感情を伴いません。

現代で高いレベルの教育を受けて、抽象的な思考能力を発達させたためにそうなっているのです。

逆に言えば、言葉という抽象的なモノを使ってアファメーションをする時には、抽象的な論理を具体的なイメージ(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)を用いてリアリティを演出し、情動を動かす必要があるのです。

言葉が具体的イメージを伴い、リアリティを感じて感情が動く時、大脳辺縁系より下位の部位が活性化します。

大脳で思考する内容が、より原始的な脳幹や小脳に影響を及ぼすには、その間にある大脳辺縁系を利用してパスを通す必要があるからです。

そうすれば、アファメーションの内容が無意識、潜在意識に対しても影響をおよぼすことが出来るのです。

(また、余談ですが英語などの外国語の習得では、その言語を聞いて感情が動くようになると、一気に習得が早まります。感情が動くようになると、その言語の意味の表象に対して、無意識潜在意識レベルで処理することになるからです。この段階になると、小さな子供のように外国語を早く修得する事ができるようになります。なぜなら言語は根源的にはその人の感情と結びついているからです)



では、実践的なアファメーションのやり方の説明に入ります。

まず、深い瞑想状態や自律訓練法の第6公式を終えた状態になっている必要があります。

もちろん、そのような状態に入っていなくてもアファメーションは効果がありますが、その効果の程は月とすっぽんに等しいです。

なので、深い瞑想状態に入れるように訓練するか、自律訓練法で第6公式まで出来るようになる事をおすすめします。



第一に、現在進行系、もしくは未来進行形でアファメーションの文言を作ります。

現在進行形は、今現在そうであっても現実に問題が起きないものに限り使用します。

私は今アメリカ大統領になっている、などの文言はあまりリアリティを強化しすぎると社会的に問題を起こしかねません。

私はIQ200の天才になっている、などの文言はリアリティを強く強化しすぎても社会的な問題を起こしにくいです。

IQ200であるためには、自分の脳内の情報処理能力を上げるだけで済むので、達成もしやすいですし自分の認識がそのように変わっても他人には害をなしません。

この類のアファメーションは、効果が出やすいですし、アファメーションの内容が達成されるまでの現実とのギャップは特に問題になりません。

しかし、ある社会的な地位についているという事は、周囲の人間からそのような評価を得ているということなのです。

そのような内容にリアリティを感じすぎてしまうと、他者に私は大統領だと吹聴するようになり、統合失調症に類する妄想障害と診断される危険性が高いです。

そうなってしまうと、アファメーションの内容が達成されるまでに、現実生活をリタイアしてしまいかねません。

なので、前者のアファメーションは、未来進行形で行う事をおすすめします

後者は、リアリティをかなり強化しても、とくに社会的な問題を起こさないと思うで現在進行形でも構いません。

ちなみ、未来進行形はこれが現在のことではなく未来のことだと自分の中でちゃんと認識できていれば、30年後などと明言する必要がありません。

また、アファメーションで未来進行形を用いるのは、現実の認識が歪曲し正しい現実を認識できなくなり社会的な問題を起こすのを防ぐためなので、そのような事態が起こらないアファメーションの内容なら気にすることなく現在進行形を用いて下さい。
 
なので、未来進行形と現在進行形の使い方には気をつける必要があります。


第二に、アファメーションにリアリティを感じるように成るには、様々なイメージを肉付けする必要があります。

一般的には視覚情報を使って、リアリティを強化するのが王道的なやり方とされています。

しかし、人間は嗅覚に対して最もリアリティを感じるという研究もありますし、様々な感覚情報を使って肉付けする事をおすすめします。


第三に、感情が動いているという表現を直接盛り込みます。

「うれしい」「幸せな気持ちになっている」「誇らしく思っている」「気持ちいい」など様々な感情を動かす表現がありますので、ご自分で考えてみて下さい。



最後にまとめます。


アメリカ大統領になりたい場合。

未来進行形で、「私は50歳の時には、アメリカ大統領になっている。非常に誇らしく感じている」という文言と、ホワイトハウスで起きがけいっぱいのコーヒーの味と香り楽しむ自分を想像しましょう。

また、そうなっている自分になりきるのコツの一つです。


以上、簡単にアファメーションの基礎理論と実践的なやり方を説明しました。

ここで、書いた事は多くの書籍で言われている事とあまり変わらないです。

ですが、理論に関しては若干目新しいモノあるので、基礎理論を主に参考にしてください。

ではでは。



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システムを考える

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事はシステムについて考えていきます。

皆さんは、システムと言うとコンピュータ・システムなどを思い浮かべると思います。
 
しかし、システムとはそれだけに留まらず、政治や経済、人間の体から宇宙の諸法則も当てはまります。

コンピュータは人間が作った機械的なシステムですし、政治や経済は人間が発明した形態的なシステムになります。

また、人間の体は生命誕生から長い時間をかけて編み上げられてきた、自然が作り出した生物のシステムです。

宇宙の諸法則は、すべての大元にある体系的な物理法則によって作られた最も大規模なシステムです。

世の中は、様々なシステムが、それこそ家庭内のお小遣いの決め方の様な小さなシステムから宇宙の諸法則の様な最も大きなシステムまでが、ダイナミックに関連して成り立っています。

アファメーションなどの願望実現法は、そのようなシステムを上手く捉えて利用してあげることで、その成果を発揮します。

また、昨今の政治や経済、国際紛争などは世界がただシステムを作り出すことに専念し、それに依存してしまっていることで起きている面があります。

最近ではシステム化思考などの本の売上が好調のようです。

では、そのシステムとは一体全体どのようなモノなのでしょうか。

第一に、システムとは仕組みの事です。

交通ルールは安全な車社会を作り出すための仕組みですし、宇宙の諸法則はその仕組みがあるからこそ、万物が存在しえます。

また、恒常性を持つことがあげられます。

じゃんけんは、グーチョキパーの力関係がころころ変わってしまったら何の役にも立ちませんし、一回こっきりの取り決めをシステムとは言いません。

そして、複数の要素から成り立っていることがあげられます。

野球のボールをただ投げるとうい行為はシステムではありませんが、壁に当てて跳ね返ってくるのを取りまた投げるのを繰り返すのはひとつのシステム(練習の方法)です。

この3つの要件さえ揃えば、それはシステムとして成り立ちます。

また、一番大きなシステムが宇宙の諸原理だとすれば、世界に存在するすべてのシステムは一番大きなシステムのサブシステムになります。

世界とは一番大きなシステムである宇宙の諸原理の中に数多のサブシステムが有り、そのサブシステムのなかにさらにサブシステムがあるといった、入れ子になっておりダイナミックに連結しています。

以上、システムそのものについての解説です。

今回の記事は、システムそのものについての説明になります。

いずれは、システムをどう扱うかなど取り上げたいと思います。

では、また。



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物質の粒子性と波の性質、その他

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、完全な雑記で私が普段考えている事をつらつらと書きたいと思います。


まずは、 よく相対性理論や量子力学の世界で言われる、物質の粒子性と波の性質の話から。

まず第一に、粒子性とは、形に対する性質、形質です。

それに対して、波の性質は、波という物理的な運動に対する、運動の記述です。

よく考えてみれば、この2つを同時に持っていたとして何ら矛盾しないのです。

海にサーフィンしに行って、波を観察すればわかると思います。

波というは水の運動の事をいい、水は水分子などから成ります。

粒子性と波の性質は両立しうるのです。

ということを考えてみたのですが、物理学の世界で言う波と私が考える波が同じでない可能性も高いので、何とも言えません。

 
では次の話。

一般に音波、電波と呼ばれる 波長の話です。

単純に考えて、波長は同位相の波長と同調しますよね。

視覚から入りましょう。

~~~~ A波
~~~~ B波

の2つの波長があると考えます。

A波とB波は位相(波の形)が同じなら、同調(シンクロナイズ)します。

2つの波が完全に重なる感じです。

また、A波は位相の違うC波とは同調しないので、2つの波長がぶつかったら波長が乱れてしまいます。

しかし、同位相の波長が互いにぶつかったら、互いの波長が同調しつつすり抜けます。

この仕組を考えると、ある装置がA波を発信し続けると、同位相の波長のみをすり抜けさせてB波のみを検出することができます。

世の中の、電波の受信装置ってこんな仕組みなのかなと日々想像してます。

しかし、ちゃんと学んだことはないので想像止まりですね。


最後は重力の話。

万有引力の法則によれば、すべての物体は引力をもちます。

また、物体の質量が大きくなればなるほど、力の合成で引力も大きくなります。

惑星ほどの大きな質量を持つ物体なら、相当の引力が合成されています。

これが重力の基礎、あとは遠心力とかあるそうですがそれも合成されていますよね。

そこで、引力の正体なのですが。

物体はすべて原子からなっていますよね。

で、原子は究極に分解すると一次元の紐とか言われています。

私の考えでは、一次元の紐というか、1つの向きを持ったエネルギーの循環構造だとおもっています。

一次元とか言うとややこしいのですが、単純に輪投げの輪みたいなエネルギーの塊があって、それがベクトルを持って循環している感じです。

もっと言うと、回転式の流しそうめん機みたいなものです。

そこで、私は他の記事では物質は気が元になっているとか、世界は気で満たされているとか言ってますよね。

単純に、1つの向きを持ったエネルギーの循環構造は周囲の気の場に影響を与えます。

回転式流しそうめん機は機械の中を水が循環していますが、気の場ではプールの中の渦巻きみたいに、物質と気の場は根本的に不可分です。

そのために、物質の1つの向きを持ったエネルギーの循環構造は、その内側に向かう力が周囲の気の場に伝播して、引力を発生させます。

引力をこのように考えると、すっきり理解できるのです。

また、私は物理学者がダークエネルギーとか言っているものは、質量が観測できない気の場のことだと思っています。

反物質は物質とは逆向きのベクトルを持ったエネルギーの循環構造です。

単純に、反物質と物質がぶつかり合ったら、両方のベクトルを相殺してただの気の場に戻ってしまいます。

このとき、循環していた膨大なエネルギーは向きを失い解き放たれて、ベクトルもエネルギーの循環もない状態になるのです。

このような状態の気の場は、観測しようとしても粒子を当てても反射しませんし、なかなか難しいのです。

ちなみに、最初に書いた物質の粒子性と波の性質の両立の話。

有名なダブルスリット実験は、極小の微粒子だと気の場の影響を受けて粒子の軌道が波の性質を帯びると考えると、なにも矛盾なくこの実験を読み解くことができると思います。

単純に、媒質あるじゃんという話です。

このように考えると、超ひも理論から、相対性理論、量子力学、東洋思想、気功、はてはスピリチュアルまでダイナミックに連結させることが出来るのです。

当たり前ですが、仮説段階ですのであしからず。

気になって実験してみたいなと思う方はどうぞご自由に。


今回はこれまでになりなす。

では、また。



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現象を科学する、物質・エネルギー・精神

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、巷に蔓延る心身二元論に対する反駁、あるいは現代の自然科学に対するアンチテーゼになります。


皆さんは、学校やテレビなどで心身二元論の教育を受けてきたと思います。

また、中世を発端とした西洋の自然科学の理論体系、科学主義を自分の価値観の重きとしていることと思います。

心身二元論や科学主義においては、人間の心と身体を含む物質として客観的に観測できるものを分け、客観的に観測できるモノに重きを置くという考えが主軸となっています。

そのため、世界を客観的に観測できるモノの総体として捉え、人間の感覚や精神・こころを世界の子葉として重要視してきませんでした。

しかし、21世紀に入ってから世界では急速に、心身二元論や科学主義、物質主義の価値観に対する批判が噴出してきています。

かつて世界を席巻するかと思われたそれらの思想は、研究が進むにつれて、それ自体が矛盾や欠陥を抱えている事 が判明してきたからです。

実際に、心を物質世界の子葉として捉える事が、科学の理論体系そのものではなく、それを研究する科学者自体が心を持って科学を研究して物質世界を捉えているという矛盾を生み出しています。

いくら科学が世界の物質的性質を明らかにしようとしても、科学を扱う人間が主観的経験を生きる心を持った存在だから生じる問題なのです。

そのため、心身二元論や科学主義、物質主義ではようやっと認知科学などの学問領域で、人間の心をどう扱うべきなのかというのが議論されてきています。

しかし、まだまだ心身二元論に傾いたモノの見方であることは事実です。

私、dokubo_toshoはこのような世界の現状を鑑みて、一つの提案をしたいと思います。

それは、「すべての物質・エネルギー・精神を分けられたモノとしてみるのではなく、一つの宇宙にあらわれた現象として捉える」という事です。

物質やエネルギー、精神は個々に見ると、その性質の違いから別々のモノとして捉えてしまいがちですが、宇宙にあられた現象として捉えるとそれらに共通の基盤があるように思えます。

それは、現実の世界に現象として現るということは何らかの共通した原理原則があるということです。

私たちは、心を現実と違う独立したものと捉え、自分の心で考えたことが自分の脳内を超えて外の物理世界に影響をおよぼすということはあまり考えません。

ですが、宇宙に現象として現れているということを考えれば、自分の思考や感情が心を超えて外の世界に何らかの影響を与えるという考えに不思議さは感じません。

脳内であれ、体の外の世界であれ宇宙はつながっていて分け隔てられていないのですから。

また、心というのを虚ろで摩訶不思議なものではなく、現実の宇宙に物理的な現象として現れていると考えると、巷で考えられているように心というのがどうしようものなくコントロール不能なモノではないと解ると思います。


今回の記事はここまでとなります。

非常に長々と論説してしまったせいで、退屈だったと思います。

ですが、今後の科学の趨勢では物質・エネルギー・精神を共通の基盤を持った「現象」としてとらえる事が必要になると思います。

この記事で書かれているような考え方ができるようになれば、あなたも科学者あるいは人生の探求者として世界をリードできるように成るかもしれませねんね。

では、別の記事でお会いしましょう。



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効率を紐解く、100%の効率は逆に効率が悪い

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、勉強や仕事をする上での効率についての話です。



皆さんは、上司や先生から「お前のやり方は効率が悪い」とか「もっと効率を良くやれ」と言われたことはありませんか。


企業が利益を上げるために、出来る限り無駄を排除して効率をよくしコストカットするということも散々言われているかと思います。

あるいは、工場の機械の稼働率(稼働効率)を最大限に上げろと言われていることと思います。


このような場面において言われる「効率」は常に仕事の成果に直結しています。


しかし、実はこの効率、100%を目指すのは逆に効率が悪いのです。


本当に、効率の良い仕事をして成果を出し続けたかったら、コンスタントに70~80%の効率を出し続けるのがベストなのです。


では、なぜ100%の効率が逆に効率が悪いのかを説明しましょう。 

まず最初に、効率の定義から始めましょう。

ここでいう効率とは、仕事をする本人あるいはシステムがその時点で出せる能力(キャパシティ)の限界を1(100%)として、0~100%の間で表現される能力の発揮具合の事です。

例えば、1日に素振りをする回数の限界が300回の野球少年が、1日に150回の素振りをしたらその練習の効率は50%です。

1万人収容できるスタジアムで、アイドルのコンサートのためにファンが1万人が集まったら、スタジアムの収容効率は100%です。

一日に30万本の2B鉛筆を生産できる工場の機械(システム)が1日に27万本鉛筆を生産していたら、機械(システム)の効率は90%です。
 

効率は以上の様な形で表現されます。

では、100%の効率が何故いけないのか、一番目の野球少年の例をとって説明してみましょう。

1日に素振りをできる回数が300回が限界なのに、毎日素振りを300回したらどうなると思いますか。

ここで単純に考えたら、その分野球が上手くなると答えるかもしれませんが、実際は違います。

300回が限界ということは、文字通りどんなに死ぬほど頑張っても301回は振る事ができないということです。

このような状態を、言葉通りではなく現実的に考えたら、300回素振りをした時には、手は豆だらけ、筋肉は限界ぎりぎりまで酷使され引きつけを起こし、心肺は酸素と栄養を体に行き渡らせるため限界まで稼働をしていると考えられます。

当然、翌日に同じ数だけ素振りをしたら、豆は潰れたままで血が滲み、限界まで酷使された十分な休息を得ず摩耗し、心肺は前日の過剰な負荷で疲弊しています。

これを毎日続けるのです、疑いもなく体を壊すことでしょう。

この文章を読んで、「いや、そんなことはない。俺は毎日限界まで素振りをして、野球がうまくなったんだ」と思う方もいると思います。

断言します、あなたは全力(100%の効率)を発揮していません。

少なくとも、毎日続ける事ができている時点で、常に回復のために余力を残しているはずです。

人間が、本当に限界まで素振りをやったらまともに動くことすらできないのです。

それが、本当の全力なのです。

そのような方は、自分が全力でやったと思い込んでいて、実際は20~30%(もしかしたら10%)の余力を残しているのです。

実際、 70~80%の効率では野球の練習をしたら死ぬほど疲れます。

そのような状態で自分は全力(100%)を出しきったと思い込むのも無理からぬ事です。

そして、コンスタントに行われる日々の練習に常に70~80%の効率で取り組んでいる人は稀です、誇りに思ってください。 

また、常に90%程度の効率を発揮できる人間は、一握りの天才だけです。

常に90%の効率で働き続ける事ができるのは、その分野に特化したある意味イっちゃった人です。

凡人が真似をすると怪我をするだけなので、やめたほうがいいです。

90%の効率で仕事をする天才たちは、端から見るとヤバイくらい集中して働いているように見えますが、本人たちは好きで好きで仕方がない事をやっているので、あまり苦になりません。

逆に、好きで仕方ないことをやっているからこそ常に90%の効率で働くことができるし、上達のスピードも桁違いなのです。

一般に凡人だと言われている人も、自分が好きで好きで仕方ない分野では非常に高効率で仕事ができます。

自分が凡人だと思われている方でも、自分が好きで好きで仕方ないという分野では実は非凡な人になれるかもしれません。


上記の説明から、100%の効率は現実的ではない事がわかったと思います。


では、何故70~80%の効率を推奨するのか。

次はその説明に入りましょう。

まず、大前提に人間の能力(キャパシティ)の限界は広げる事ができるという事実があります。

そして、キャパシティは常に高効率で仕事をしていると、自然と押し広げられるという性質があるのです。

このキャパシティの拡張こそが一般に、能力の成長と呼ばれるものなのです。

この能力の成長、100%の効率で仕事が行われている時は回復に使う余力が無いため(キャパシティの拡張は回復時に行われ、回復のための余力が使用される)、行われず体も壊します。

逆に50%を下回る効率の場合には、仕事の効率もかなり悪く、能力の拡張も殆ど行われません。

50%以上100%未満の間で、仕事の効率と成長の効率の両方を求める時に一般の人の無理のない大体の効率が70~80%なのです。

90%は高効率過ぎて一般の人には極めて難しく、60%程度は許容範囲内ですが効率がそこまでよくありません。(一般に、大体の人の仕事の効率は50~60%に収まると思います)

なので、だいたい70~80%が現実的な理想値になると思います。


人間ではない、機械やシステムの場合も同じです。

やはり、100%の効率を求めつづると、摩耗や耐久性の関係からすぐに壊れてしまいます。

90%程度でも、メンテナンスや部品(あるいは人員)交換、再調整などの頻度が高くなり、コストの関係上逆に効率が落ちてしまいます。

うまくやれば90%を維持できると思いますが、その場合は上記のメンテナスなどを相当上手くやりくりする必要があります。

また、人間が作りだしたシステムでは、90%を超えるとそもそもシステムの設計の段階で潜在的に内包していた、問題点、矛盾、欠陥が表面化していき、システムの効率がぐっと落ちます。

人間が完璧な機械やシステムを作り出せたら良いのですが、今のところは無理な話です。

(補足 現代社会が抱える政治や経済などのシステムの諸問題は、システムの高稼働率を求める(あるいはシステムへの依存性が高い)あまり、システムが潜在的に内包していた問題が表面化しているという解釈もできます。このような見方をすると、現代の諸問題はシステムを生み出すことでは解決できない、となります。つまり、システムだけでは人類は幸福になれないという結論です。このコトについては、また別の話ですので、別の記事で取り上げるつもりです)

50%の効率を下回ると、機会やシステムではそれに投資した費用の回収率がぐっと下がり、その存在意義が問われ始めます。

なので、50%~90%の間で、高効率を目指す必要があるのです。

そして、機会やシステムでもやはり70~80%が妥当という結論になると思います。


以上、機会やシステム、人間の仕事の効率は70~80%が妥当という説明になりました。


次は、仕事や勉強で常に70~80%の効率で働くという事を、もっと突っ込んで考えてみましょう。

70~80%の効率で働いていると、能力の成長のスピードも早くキャパシティはどんどん拡張されていきます。

そして、能力の限界が広がって、100%の効率で発揮でる能力値が増えても、その時点での70~80%の効率を維持するのです。

こうすることで、仕事の効率は常に70~80%であっても、能力を発揮する事で得られる成果は時間に比例して伸びていきます。

この時、特に注意して欲しいのが能力が発揮されて生み出される成果(結果)が常に70~80%で一定なのではなく、仕事で働く上での能力の発揮具合(プロセス)において常に70~80%の効率を求めるという事です。

また、成果ではなく個人のキャパシティを勘案して高効率をもとめるので、相対的な見方をして他人と比べたり、自分は能力の発揮値(比ではなく、値)が良い悪いや、結果だけ見て成果を出している出していない、と考えてはいけません。

あくまでも、個人のキャパシティの限界を鑑みて、70~80%の効率を求めるのです。

また、自分の部下や子供に対して能力の発揮具合(効率)ではなく結果だけをみて、さらにそれを他人とくらべて評価するのは、指導者や親、教育者として最悪な行為です。

本人のキャパシティを鑑みて、高い効率を発揮しているが成果が芳しくない場合は、頑張りを認めてもらえず、フラストレーションを溜めてふてくされてしまいます。

逆に、低い効率だが周りと比べて高い成果を出している場合、能力の成長が頭打ちになってしまい、より高いステージに対応できず、「十で神童、十五で才子、二十歳すぎればただの人」の典型になってしまいます。

これをやってしまっている親や指導者、教育者は世の中に結構いますが、子供から嫌われますし、子供がひねくれる可能性も高いのでやめたほうがいいです。

常に結果(成果)のみを求められる世界もあるとは思いますが、正直成果なんてものはその時々によって環境やコントロール不能な要素に左右されます。

なので、成果を出す時に、自分だけの力で成果を出せるという考えはとっとと捨てたほうが身のためです。

そうでなければ、高確率でうつなどの精神疾患に罹患したり、他人がそう成るまで追い込んだりします。

そう考えるより、常に高効率を求めるという考えで仕事に望んだ方が、結果的に最良の成果を産みます。


以上で今回の記事は終了になります。

結論をまとめると以下の通りです。

100%の効率は逆に効率が悪い。

コンスタントに成果を出したかったら常に70~80%の効率を目指す。

効率は、個人の能力の限界に応じた比率であり、相対的な評価や結果に対する評価ではない。


ちなみに、90%などのパーセンテージは私の感覚で大雑把に決めているので、厳密な実験をして得た数値ではありません。

ただ、大体の近似値には成っているとは思います。

もし、厳密な値が知りたかったら大学などで実際に研究してみてください。



では、また次の記事でお会いしましょう。



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魂の話、自己という無二の概念

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、いわゆる科学の世界では論じられない、魂について書きます。



最初に結論から述べます。

私は魂があると確信しています。

論理的に考えてそうとしか結論が出ず、いわゆる輪廻転生も宇宙的にみて妥当なシステムだと考えているからです。

セリフにすればこうです。

「魂があるかって? そりゃ、あるでしょ。妥当な結論だと思うよ」

「輪廻転生があるかって? まあ、魂があるんだから、あってもおかしくないでしょ」

では、なぜそう考えるに至ったか、その思索の過程を説明しましょう。


過程なんてすっ飛ばして要点だけ教えてという方は最後の方にスクロールしてください。




まず、第一に人格は人間の本質ではないという事実です。

人格、あるいは性格というものは人間の肉体の一部である脳によって実装されています。

脳にその人の人生で経験した事が記憶されており、その経験からある種の思考パターン、行動パターンが形成されます。

また、物理的な脳によって実装されているので、脳の生化学的な性質や脳以外の肉体の影響をうけています。

この人格は、経験によって作られるので新たな経験が得られたり、過去の経験の解釈が変わるなど容易に変化するので基本的に不定であり、固定されていません。

当たり前の話ですが、佐藤くんという現在23歳の男の子がいたとして、彼の人格が3再時点から全く変化していない訳ありませんよね。

3才時点ですでに人格がありますが、それは固定されず年を経るごとに経験を重ね変化していきます。

このような不定のものを、心の本質とは捉えることはできません。


現代の認知科学の教義では、議論がここで止まっています。

この段階で議論が止まることで、現代科学は、「我々が人間の本質だとおもっていた人格は不定であるため、実体でありません。心など本当は無いのです」と教えています。。

しかし、この説明を読んでいる方は、疑問に思うでしょう。

なぜなら、上記の客観的な説明からは絶対に得られることがない事実を当たり前に知っているからです。

それは、「人格が変化したところで、私は私でしかない。いくら経験を経て人格が変化したとして、それらすべての経験は、私が経験したのだ」ということです。

ここに魂についての思索の非常に大事な断片があります。

「人格は不定。心の本質は人格ではない。だとしたら、私が私であるという当たり前の主観的な事実はどう扱えばいいのだろう」

そこのあるのは、「 私 / あなた 」という「視点」なのです。

そこには、人格を差し置いて存在する、あなたが経験するすべてを受けとめている「視点」あるいは「経験者」が存在しています。

このことを説明するのに、ある科学者の言葉を引用しましょう。

有名な脳科学の学者さんで、彼は自身の著書で次のような事を語っています。

「私は道端で見た女性に対してこのような事を思いました。私はきっと彼女である事もできたのだろう」

人間の人格が経験によって作られる。故に、彼女として生まれ彼女のような経験をしたら、彼女と寸分たがわない私になっていたかもしれない。
 
そのような事を仰ったかったと推察しています。

彼は、この事から自分が自分として生まれた偶有性を説明したかったのかもしれませんが、ここに重大な思索が隠れています。

それは、人格ひいては肉体が別人になっていたとしても、それを経験する視点が「わたし」ならばそれは私なのだ、という思索です。

人格が変遷し肉体を構成する物質がすべて入れ替わったとしても、それを経験する視点あるいは経験者が「わたし」ならば、私は私なのだという事実は、主観経験を生きる私たちにとってはあまりに当たり前の事実です。

この主観的な事実は、現代科学の客観的(objective=物視点)な世界では当然のように無視されています。

しかし、この主観的事実は私たちが経験し観察する世界の大前提になっているのです。

以上の様な思索から、私という心の本質は「視点」にあるという事がわかりました。



では、その「視点」の正体を探っていきましょう。

結論から述べます。


「視点」の正体は、「私という概念」です。


そう考えるに至った思索は次の通りです。

まず、「視点」の正体について考える前に「視点」の物理的特性について考察しました。

第一に、「視点」が経験する全ては肉体が経験するという事です。

私は別の記事で、人間は「肉体・霊(気)・魂」から成るという説明をしています。(その記事を読んでない方は、気功~理論編~の記事をお読みください)

この気と言うのは物質の大元であり、ある意味で物理的なモノです。

肉体の内部に存在する気が、肉体の物理的な現象(感覚や思考)を生み出しているという考えを私は持っています。 (くわしくは別の記事に書こうと思います。人間の感覚は脳が感じるのではなく、肉体の持つ気の場の現象として現れて感覚されている。脳は意味付け、関連付け、肉体の制御のみしている。という事です。)
 
人格は脳が実装し、感覚は肉体の保有する気の場によって現象として生じている。

では、「 魂 / 視点 」 はどのような物理的特性を持っているのか。

答えは気にありました。

気というのは情報を保有できます。

情報とは、物質や物体の論理構造、物理的な脳内で論理的に表現される知識や概念も含みます。

「視点」というのはすべての経験を感覚します。

その感覚というのは、気の場によって現象として生じるのです。

しかし、気の場はある意味物理的なものですが、それ自体は物質性をほとんど有しません。

無限に存在し制限されず、形を持たないからです。

しかし、物質の影響をうけて歪みもつ事ができます。

本質的に、その歪みこそが情報なのです。

そして、視点とは個人が持つ気の場に付随する、意識(感覚される現象を知覚している主体)の事なのです。

しかし、これだけでは本来単一のものでしか無い気の場に、「視点」という個の意識が生じることが説明できません。

この個人の持つ意識は、本来は単一であり分け隔てらることができない普遍的な気の場(宇宙意識、ワンネス、神、大霊、サムシング・グレート、などなど呼び方は何でも良いです)を、歪ませ個として分離することによって生じています。

なので、本来は一つの物を分割し個として成立させるには、気の場を歪ませるしかありません。

想像してみてください。

10m四方の一枚の伸縮性のある布(気の場)があります。

その布を一部を2cmばかり摘んで伸ばし、てるてる坊主を作るときのように輪ゴムでまとめます。

その膨らんだ部分にマジックで目玉を書いてあげると、1個のてるてる坊主になりました。

布は伸縮性があるため、他の場所でも2cmばかり摘んで伸ばし、輪ゴムでまとめて、目玉を書きます。

このように、本来は一つのものでしか無い気の場をある種歪ませて個(unit=最小単位)を作り出しました。


そして、上記で述べたように気の場では情報は場の歪みとして持たれます。

つまり、個の視点あるいは意識を成立させる気の場の歪みは一種の情報と捉える事ができるのです。

この情報こそが、「視点」あるいは意識や魂を成立させているものなのです。



また、この情報は完全な個(unit=最小単位)であるために、名前をつける事ができません。

本来、名前付け(ラベリング)とは名付け対象を他の物と区別するために行われます。

記号(シンボル)を対象にラベリングすることで、その記号(シンボル)をつかって対象を容易に表現共有することができます。

そのためは、ラベリングは対象が物(object)として客観的(objective)に言葉を話すものたちの間で認知される必要があります。

しかし、「視点」は完全に主観経験によってのみ区別され、客観的には他の「視点」とは区別できません。

なぜなら、「視点」は情報(場の歪み)での区別されるので、物理的な物として扱うことができないから外側からはわからないからです。

故に、これを客観的に表現しようとすると、「私の名前は私は私である」といったある種のトートロジーにしかなりません。

それは、私という情報(概念)は私という主体経験のみと関連付けられているからです。

別の記事で、言葉そのものの意味とは、言葉と現実の何かが関連付けられる事により、現実の代用品として扱える事、と述べています。

私の「視点」に名前を付けられるのは、私の「視点」の主体経験を直接観測できる私だけです。

なぜなら、「視点」の本質である主体経験と名前(ラベル)を関連付けられるのは、「視点」の持ち主だけだからです。

そして、「視点」本人としては、自分自身を表現する時には必ず自分がいるので、言葉の本来性によりそもそも名前をつける必要がありません。

なぜなら、常に「私」と表現すればいいからです。

そして、その「視点」その人以外にとっては、「視点」本人が自らに付けた名前に関連付けられた「視点」その人の主体経験を認識できないので、常に名前(ラベル)だけしか認識できないのです。

仮にコッペチュッラードという名前のケーキがあったとして、コッペチュッラードそのものを知らなければ、いくら名前を知っていたとして、コッペチュッラードはケーキということしかわかりません。(まあ、そんなケーキは無いのですが)

故に、「視点」本人とってしか知り得ない「私という概念」を知り得ない他の「視点」の持ち主にとって、どんな名前で「視点」本人がラベリングしても、言葉として役に立たないのです。




非常に長い説明になってしまいました。

最後に結論をまとめます。

魂とは、その人本人しか持ち得ない「視点/意識」の事である。

そして、それはその人本人しか知りえない、「私という概念」という情報によって定義されている。

また、宇宙(気の場)においては、情報は気の場の歪みとして存在している。

上記から、「私という概念」は情報であるが故に、肉体が崩壊しても宇宙(気の場)に留まれる。


以上の4行の説明が、非常に長ったらしい思索において得られ私の結論です。

非常にオカルトチックな話になってしまったので、不快に思われた方もいらっしゃると思いますが、視点や主観的経験の考察は哲学や認知科学では避けて通れない話です。

いずれは、現代科学でも視点や主観経験の研究が盛んに行われるようになると思いますので、ちょっとした先取りだと思っていただければ幸いです。


これ以上書くと非常にくどくなってしまいますので、これにて記事は終了します。


ではでは。


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漫画、小説、物語創作の話

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回は、抽象的な思考を養う、漫画や小説など物語の理解と創作についての記事です。



皆さんは、漫画は読みますか?

漫画は読まないという方でも、ドラマや映画、小説は読むのではないでしょうか。

ほとんどの物語はそれが作られる時にある方法を用いられて作られているのです。


それは、「構図の単純化」です。


簡単な例を通してそれを説明しましょう。

中学校でのいじめを題材にした漫画があったとしましょう。

現実の世界では、いじめの問題では、家庭内の両親の不和、虐待、親が虐待されて育った、経済的な貧困、教育の貧困、学校の不適切な教育、いじめる側の問題、いじめられる側の問題、不況、集団心理などなど多様な因子が複雑に絡まって、結果としていじめという行為が行われます。

しかし、漫画でいじめを題材にしたとして、これらすべての因子を描くことは極めて困難であり、仮に行えたとしても漫画としてはとらえ所がなくつまらなくなってしまいます。

なので、いじめという題材で漫画を描きたかったら、この複雑な現実のいじめの構図を単純化して「シンプルで理解しやすいいじめ」を作り上げる必要があります。

例をあげると、親が盗みをするような悪い人で子供はその所為でいじめられている。最終的には、親が改心してハッピーエンド、などがあります。

現実の多角的ないじめ問題を単純な視点から捉えて、現実には存在するが漫画としては面白く無い上にわかりにくいものを思い切って切り捨ててしまうのです。 
 
このようなやり方で作られた物語は、時として非常に固定観念に縛られ偏見に満ちていることもありますが、物語としては訴求性が高く読み手にとても刺さりやすいのです。


以上が現代の物語創作で使われる技法の紹介です。


この「構図の単純化」を行う時は物事を捨象してとらえる必要があるので、高度な抽象的思考能力が要求されるのです。



では、次に物語を理解する時に有効な方法を紹介しましょう。


物語を理解する時に非常に有効なのは、「視点を捉える」という方法です。


物語には様々なキャラクターが登場すると思いますが、彼らキャラクターは作者の人格の一部でしかありません。

どんなに多くのキャラクターが登場して、様々な意見が語られていても作者の考えは一つですので、それらの根っこには作者の人格が存在しています。

主人公であるキャラクターが語ることは決して作者がその物語で伝えたいこととイコールではありません。

作者は必ず、物語の全体を通して語られるストーリーにその本心を込めます。

主人公の視点、敵の視点、ヒロインの視点、それらをすべて個別に捉え、最後のすべてを統合して作者の視点を読み解くのです。

キャラクター同士の語りに、対立や矛盾があったとしても一方の意見こそが作者の語りたいことというのは稀です。

作者は必ずその対立構造の中で語りたい事があるのです。

それが作者の視点を読み解くということなのです。

以上、視点を捉える事が物語を読み解く最善の方法だという事を説明しました。


作家志望の方などは、「構図の単純化」と「視点を捉える」を利用して様々な物語を分析して自分で創作することで、効果的な練習になると思います。

そうでない方も、仕事の資料を読み解いたり、課題図書を読み解いたりする時に有効に使える方法だと思います。

後者の場合は、必ずそこには捨象された現実があるということを念頭に置くことで、一つの資料に囚われず、複数の資料を複合して統合的な視点と読み解くことが可能になります。


今回の記事はここまでにします。

では、また。



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アファメーション、願望実現法、ゴールとプロセスの話

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、アファメーションや願望実現法などで以外と語られていないゴールとプロセスのお話です。



巷では、アファメーションや願望実現法、引寄せの法則などが語られており、そこでは自分の望みをどうやって叶えるかの話ではなく、自分の望みを叶える方法についてのみ語られています。


これは実に奇妙ななことです。

単純に、英語のテストで100点を取りたい場合に、効率的な勉強法の実行や試験範囲の対策をするのではなく、どのように神社でお参りすればテストで100点を取れるかを必死で探しているというような、奇妙さがあります。

しかし、アファメーションや引寄せの法則、潜在意識に対して働きかける方法などは非常に有効である事も事実なのです。

そして、一部のその方法の妙を知る人たちは大々的に効果的な方法として宣伝しています。

けれど、これらの方法の真の威力と適正な効果範囲を知らずに利用することができない人たちにとっては、まさに上記のような「テストで100点取るために、神社で熱心にお祈りをする」くらいのバカバカしい現実的ではない方法になってしまっています。

それは、そのような人たちは「ゴール(目標)を達成するには、それに相応しいプロセス(過程)を経る必要がある」という至極シンプルで当たり前の事実を無視していることが原因になっているのです。

この、「ゴールに至るプロセス」を無視している人は、どんな優れた願望実現のための方法(アファメーションや潜在意識、瞑想、気功etc)を利用しても、決してゴールを達成することはできません。

自室に引きこもって何もしなければ、例え100年アファメーションをしても「お金は1円も稼げない」のは誰がどう見ても明らかです。

そもそも、願望実現法などの本質は、「それを行う人間の日々の行いにブーストをかける、下駄を履かせる」のであり、目標達成を加速させる方法でしかないのです。

目標を達成するための行動をしないなら、そこにいくらブーストしても下駄を履かせても0のままなのです。

まったく歩く気力のない人間に、加速装置を与えてとしても歩かなければ、一歩も前に進みません。

本当にゴールを達成したかったら、アファメーションや願望実現法を行った上で、実際に自分の体を動かして行動したり、一所懸命うまいやり方を考えたり勉強したりしなければなりません。

そういった正しい努力を忍耐を持ってしている人に対しては、アファメーションや願望実現方は非常に効果のある方法なのです。

巷で、「果たして願望実現方は本当に効果があるのか」等と言っているひとは、「ゴールに至るプロセス」を全く無視している人が殆どだと思います(あるいは、適切なやり方をしていない。実際はブーストが掛かっているのに気づいていない。がありうると思います)。


結局、私が述べたい事は願望を達成したかったら、ゴールへ至るプロセスを経るしかないということです。


今回の記事は以上になります。

ではまた。



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思考の技法としての、極論化

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は、思考の技法として極論化をご紹介したいと思います。


この技法に熟達すればあらゆる場面で応用できるのでぜひみなさんも習得して頂きたいです。


極論化は、物事に対して極端な状況を設定して思考実験を行い、対象の適切かつ適正な範囲を見極める方法です。

言葉で説明すると、抽象的すぎてちんぷんかんぷんだと思うので、具体例で説明したいと思います。


チョコレートの大きさに関して考えてみましょう。

あなたが製菓会社の社員で、新しいチョコレートの企画を立ち上げるとしましょう。

同僚に、「色々決まったが良いが、さて大きさはどうしようか?」と尋ねました。

あなたは、「大きさか、……食べやすいのがいいのな、まかせるよ」と言われたとします。

そこであなたは困ってしまいます、「食べやすい大きさ」は定義が曖昧でどうやって決めたらいいかわかりません。

そこで、極論化の登場です。

まず、あなたはこう考えます。

「もし、1mの大きさのチョコレートがあれば、それはきっと大きすぎて食べにくいだろう」

次にこうも考えます。

「では、1mmの大きさのチョコレートはどうだろう。これは、きっと小さすぎて食べにくいぞ」

そして、結論に至ります。

「1mの大きさのチョコレートは大きすぎて食べにくい、逆に1mmの大きさのチョコは小さすぎて食べにくい。どうやら、チョコレートの食べやすさには適切な範囲の大きさがあるらしい。それを調べてみよう」

このように、極論化を使用すると、それがどんな状況でも正しいのか、あるいはある一定の範囲の中でしか正しくないのかを判断することができるのです。


では、次は有名なソクラテスの三段論法に対して極論化を使用してみましょう。

人間は必ず死ぬ→ソクラテスは人間だ→ソクラテスは必ず死ぬ。

この、人間は必ず死ぬという前提条件を極論化をしようして考えみましょう。

設定1、「もし人間の臓器を10円のコストで製造できるとしたら、それでも人間は必ず死ぬのか」

設定2、「もし人間の細胞の老化を完全にコントロールできたら、それでも人間は必ず死ぬのか」

設定3、「もし人間が機械の体を創りだして、それに本人の脳を移植する事ができたら、それでも人間は必ず死ぬのか」

簡単に3つの状況を設定してみました。

設定1に関しては、臓器をいくら作ることができても細胞が老化してしまったら、臓器以外が老化して死は訪れるでしょう。

設定2ではいくら老化が阻止できても、事故にあってしまったら老化は関係なく死んでしまいます。

設定3は、機械の体に脳を移したら体を修理することで怪我に対応できますし、老化も止めることができそうです。

設定1は老化による死の想定。

設定2は肉体の損傷による死の想定。

設定3は老化と肉体の損傷による死を克服しています。

このように、極論化して考えると、「人間は老化と肉体の損傷を克服できない限り、絶対に死ぬ」という事実を見出し、「人間は必ず死ぬという」前提に一定の範囲の条件をつけることが出来ました。

逆に考えると、「老化と肉体の損傷という条件を克服できれば、死ぬ必要はない」という事が見いだせます。

このように、極論化は「それがある一定範囲の条件内のでのみ成立しる事柄なのに、絶対的なものとして信じられている、一般に考えられていること」に対する強力な思考のツールになり、その条件を明らかにするのに役立ちます。


今回は、極論化という思考のツールを紹介いたしました。

これは、多くの人が無意識に行っているやり方です。

しかし、このように言語化して明示的に思考のツールとして定義することで、意識して使用することができる様になります。

思考のツールは、仕事ができたり勉強ができたりする人が使用している無意識の技法を、明示的に定義したものがほとんどだと思います。

いずれは、他の技法に関しても紹介していきたいと思います。

では今回はこれまでです。

また、どこかで。



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気功、根本的なイデアとロゴスの話

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は気功にまつわる、重要かつ根本的な話の記事になります。


まず第一に、気功 ~理論編~で、物質の大本は気だという話をしたことを前提に進めます。

そして、宇宙は気でできているという話もしました。

この2つの事実から、イデアとロゴスのお話をしたいと思います。


皆さんは、三角形を紙に描く時に、どうやって描きますか。

私は、ちゃんと三角形を描きたかったら、まず3つの頂点も印と付けてから、線分を引きます。


なぜこの話をしたかというと、三角形の話は基本的な、物質と場理論の説明にとても適しているからです。

三角形の頂点は、物質。

線分は、物質ではない気の場によって出来ていると考えてください。

三角形を作りたい時は、3つの頂点さえ決めてしまえば、残りの線分は実際に引くことなく、3つの頂点の相対的な位置関係により三角形を定義できます。

じつは、現実の物理世界も似たような構造になっているのです。

何か、物質や物体がある時に、実は頂点である物質の根本的な実体以外は、気やそれに類する場によって相対的に関係性が情報として定義されているだけで形を伴わずに 存在しているのです。

このような物理的な世界においては、物質や物体は比較的自由に変化可能な構造になっているのです。

また、これはマクロの世界でも同じです。

複数の人間がいて、その人間どうしの関係性が気(場)に情報として定義され、常に変化しているのです。

そして、この理論で言ってしまうと、小さな気(場)の変化は、それ以上に大きな気(場)の構成単位であり、小さな気(場)が三角形の頂点として、大きな気(場)は小さな気(場)の論理的な関係性によって生じる、となります。

このような入れ子の関係性で、全宇宙が定義されうるのです。

上記の理論によれば、家庭内のような小さな場での不和が、宇宙規模の大きな場にダイレクトに影響する事になります。

なぜなら、すべてがダイナミックな論理的構造に従い連結されているからです。

私は、独自にですがこのような気(場)をロゴス(情報的存在)、すでに固定され実体のある物質をイデア(実体の存在)と呼んで区別しています。

ネーミングに関しては、非常に直感的なものですが案外的を射ていると考えています。


そして、気功とはイデア(実体の存在)ではなく、気=ロゴス(情報的存在)に関する技術だと考えています。


万物の根本である、気=ロゴス(情報的存在)に働きかけることで、ダイナミックに論理的構造を変化させる、あるいは影響を与える技術こそが気功の真髄なのです。

そして、現実とはイデアに手を加えずとも、ロゴスで定義された情報を変えてしまえば、ダイナミックに変化するものなのです。

記事は以上になります。

では、また次回。 



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たまには雑記、時間とか

こんばんわ、dokubo_toshoです。

ここの所、認知科学系の記事を連続で投稿していたました。

なので、息抜きに雑記として時間に関する記事を書きます。



私、実は時間逆行ものの小説や映画が大の苦手なのです。

何故かと言うと、絶対に物語に決して消せない矛盾が生じてしまうからです。

また、時間逆行の理論的説明として「世界はパラパラ漫画の~」などといった説明がなれていると、もう頭を抱えてしまいます。

この物語の作者は、宇宙のどこかに、過去のある一時が物理的に存在しているとでも思っているのだろうかと悩んでしまいます。

過去のある一時が物理的に宇宙のどこかに存在しているならば、その一時は無限に連続する時間のどの一瞬をどの程度の長さで切り取ってあるのか。

仮に、0.00001secとして、それが時間の最小単位になるのか、それ以下はないのかなどと考えてしまいます。

このような事を考えてしまうので、一般にアインシュタインの相対性理論では時間の逆行が理論上可能であるといった事が言われていると、そもそも現代物理学は時間というものをどう捉えているかと不思議に思っていました。



そういった思索を得て、時間に関する議論は古来からいろいろあると思いますが、私はある結論を得ました。

 それは、時間はベクトルで表すような「向き」のあるものではなく、完全な「相対的な変化量」で計測されるものだというモノです。

私が過去に時間についての思索をした時に、まとめた文章をコピペして載せます。

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時間についての考察

 

 「時間がない、時間がない。あ~、いそがしい」

 

 「うわ~、もう2時!? 時間経つの早いよ~」

 

 「失敗したー。 7時前に戻れたらやり直せるのに~」

 

 人間は明らかに時間というものを認識している。
 

 当たり前の様に、時間というモノがある前提で生きている。

 
 

 しかし。

 

 時間というモノの正体を知っている人間はどれだけいるのだろうか。
 

 時を巻き戻すとか、過去に戻るのは理論的に可能とか、時間は過去から未来に流れるとか。

 

 時間というモノを誤解していなければ出てこない様な言葉のオンパレードである。

 

 そこで、ここでは筆者が時間について考察した結果得られた事を説明したいと思う。
 

 

「時間を測る」
 

 

 まず、一番初めに説明しなければならないのは、時間の測り方である。

 

 通常、私たちが時間を測る時には時計を使う。
 

 秒針が6度傾けば1秒。分針が180度傾けば30分。時針が30度傾けば1時間が経過したと判断するだろう。
 

 デジタル時計ならもっと解りやすいだろう。

 

 だが、ここで問題がある。
 

 時計が使えなかったら、どう測ればいいのだろう。
 

 あるいは、何もない真っ暗な部屋に閉じ込められていたら、時の経過をどう判断すればいいのだろう。

 なんの道具もない、なにも見えない状況で何を基準に1分あるいは1時間を測ればいい。

 

 よくよく考えると、このような状況でも、「1234・・・」と口で数えれば精確ではないが時間を測れるだろう。

 

 ではもっと突っ込んで考えよう。

 

 もし、口が聞けない様に、さる轡を噛まされていたらどうだろう。
 

 口がきけないなら頭のなかで数えればいいのだろうか。

  

 では、寝ていたらどうだろうか。
 

 思考ができないほどぐっすり寝ている人間が時間を測るにはどうしたら良いだろうか。

 

 ここまで考えたら分かっただろうか。

 

 つまり、時間を測るには何か基準になるモノが必要だということ。
 

 そして、その基準になるものはずっと動いていなければならない。

 

 たとえぐっすり寝ていたとしても、翌朝起きて時計が7時を指していたら大体7時間ぐらい寝ていたと解るように。

 

 だが、もしその時計が自分が知らない間に、いつもより早く動いていたら・・・。
 

 

「時間の矛盾」
 

 

 前章で説明したように、時間の計測には一定速度で動き続ける基準となるモノが必要である。

 

 ここで問題。

 

 「一定速度」というのはどのように定義されるのか。

 

 答え。

 

 そのモノが「ある時間」に「どの程度」動いたかどうか計測して定義する。

 

 ここで、時間を測るための基準を求める時点で、時間が計測可能である必要があるという矛盾が産まれるのだ。

 

「変化量」

 

 ここで視点を変えてみる。

 

 人間はどうやって時間の経過を認識するかという視点。

 

 単純に、時計や基準となるモノがどれだけ動いたか。
 

 つまり、どれだけの変化があったのかで時間の経過を認識する、

 

 端的に表してしまえば、人間は時間の経過を変化量で認識するのだ。

 

 

 人間にとっての時間は変化量として表現できる。

 

 さらに、原子時計やこの世のあらゆる時間の測定装置はこの変化量を計測することによって機能しているのだ。

 

 しかし、ここで一つの問題が出てくる。
 

 人間が時間の経過をある対象の変化量で測るというのに、その人間自体も常に変化量が一定ではない事だ。

 

 人間も心拍や呼吸によって意識や身体の状態が変化する。
 

 

 人間の視点で言うと、時間の経過というのは基準となるモノの変化量とそれを解釈判断するモノの変化量というバランスの上に計測される事になってしまう。

 

 そして、それは時計などの機械も同じである。

 

 シンプルに説明すると、時間の経過は基準となる二つのモノの相対的な変化量でのみ計測される、ということだ。

 

「時間の正体」

 

 哲学の時間です。

 

 宇宙が産まれる前、時間というものはあったでしょうか。

  

 宇宙が生まれる前は、物質がありません。
 

 さらに言えば、物質が運動することで得られる変化量がありません。
 

 さらにさらに言えば、時間の経過を認識する人間も存在しません。

 

 果たして時間って、存在するのだろうか。

 

 結論から言ってしまえば、筆者は時間と言うものが独立して存在する絶対的なモノとは考えていません。

 

 人間の認識の中にしか存在しないモノだと思っています。

 

 言ってしまえば、現実世界の物理的な情報である物体の変化量を、相対的な尺度で観測した結果産まれるモノ。
 

 それが時間だと考えています。

 

「補記」

 

 時間の経過とは変化する事なので、過去に逆行するという概念は間違った時間の解釈によって得られた空想です。

 

 たとえば、1時間まえに壊した高級な壺をもとに戻すために時間を巻き戻すという表現が創作物の中でよく見られます。
 

 しかし、元に戻るという現象は、物理的なベクトルが逆方向を向いていますが、変化量が計測できます。
 

 つまり、これは時間の逆行ではなく時間の経過です。

 

 また、時空のトンネルを抜けると20年前の日本に辿りついたという表現がありますが、時間が経過するという現象は、宇宙の物理状態が変遷するということです。
 

 なので、過去のある状態がどこかに保存されているとか、4次元時空の中では世界とはパラパラマンガの様なモノである、とかはありえません。

 

 そして、この変化量という考え方は筆者の思索の中では頻繁に出てくる重要な概念です。
 

 今後、色々なところでこの言葉が登場すると思います。

 

 それでは、さようなら。

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どうでしょうか、1年以上前にかいた文章なので色々と拙いですが私がの思索の過程をご理解いただけたと思います。

私はこのような思索の結果、「過去は記憶」でしかなく、「未来は想像」でしかないと思っています。

宇宙には「今、ここ」しかなく、全ては「一つしかない物理的な宇宙の状態のが変化しているだけ」でしかないという考えに至ったのです。


今回の記事は以上になります。

時間や空間といった哲学的な話は、一見難しそうですが、深く考えだすと延々と考え続けてしまうような面白さがあります。

いずれは、空間などの話もしたいと思っています。

ではでは。


 

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言霊の重要性

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回の記事は日本古来から伝わる考え方、「言霊」の重要性をお伝えしたいと思います。

実のところ、言霊はあります。 


より正確に述べると、言葉は聞く人、それを話す人に重大な影響を与えているのです。



では、理論的説明から入りましょう。


人間が言葉が表す意味を理解するときに、脳内でその表象する意味を再現します。


「好き」という言葉を理解するときには、好きという感情が軽く沸き起こります。

「日本人は謙虚な民族である」という言葉を理解するときには、日本人は謙虚な民族であるというイメージを自分の中で作り上げ、それに自分自身が影響されます。

「神は死んだ」という言葉を理解するときには、実際に神が死んだかのように感じます。


これは、人間の脳が言葉を理解するときには、脳内で言葉と関連付けられた意味のネットワークを活性化させるために起こる不可避な現象です。


また、「お前の事は嫌いだ」と誰かに言う時に、その言葉を話すその人自身もその言葉を耳で聞いて理解しています。

なので、「お前の事は嫌いだ」と人に言われた時と同じ現象が脳内で起こります。


以上の説明から、言葉はそれを話す人も聞く人にも重大な影響を与えているという事がわかったと思います。

また、この仕組みは自動化され、人が見聞きする言葉全てに無条件で行われています。

たまたま道ですれ違った人が他人の悪口を言っている時に、自分のことではないのに嫌な気持ちになったりするのはこの仕組みが自動的に働いて起きるためです。

他人に対して否定的な言葉を吐く時、人はその言葉を自分で聞いているために同時に自分自身の自尊心を傷つけています。

肯定的な言葉も同様です。

他人を褒める時は、褒めている自分も褒め言葉を聞いているので気持ちいいものです。



以上の理由から、自分が見聞きする言葉、話す言葉には注意を払わなければならないことがわかります。

でなければ、自分の心に大きな歪みをもたらしたり、悪い影響を受けかねないからです。



そして、頭の中で再生される思考にも注意を払わねばなりません。


なぜなら、人が思考するときには頭のなかで音声を再生させているからです。

この音声の再生は、実際にその言葉を他人から言われているのと同様の効果があります。

頭のなかで「おまえは最高だ」と思考するとき、他人から「おまえは最高だ」と言われているのと同等ではありませんが、同様の効果をもたらします。

実際に、「おまえは最高だ」と言われた時と同じ気分に、軽くであれなれるのです。

アファメーションでは、これを「youアファメーション」と呼ぶそうです。

主語を「私」ではなく、「おまえ」にすることで他人そう言われたかのような気分に強くなれるのです。


また、頭のなかで「お前は馬鹿だな」とか「ダメな人間だな」などの言葉を100回再生したら、他人から「お前は馬鹿だな」とか「ダメな人間だな」と言われるのと同様の効果を自分にもたらします。

ものすごく自尊心を傷つける結果になってしまいます。

健全で健康な精神を保ちたければ、決してしてはいけません。


自分自身が思考するとき、その言葉を自分自身で聞いているのです。


今回の記事は少し短いですが、以上になります。

もっと込み入った話もいずれしたいので、またの機会で言霊について取り上げたいと思います。

では、また。



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言葉の理解、意味とニュアンス

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は「言葉」についての記事です。

言葉について正しい理解をしていると、効果的なコミュニケーションや効果的なアファーメションを行う事ができます。


まずは、「言葉そのもの」の意味について説明しましょう。


言葉は、現実の代替物(かわりのもの)です。



例から解説しましょう。


あなたの目の前にりんごがあったとしましょう。

あなたはりんごを齧ります。

「ああ、なんて美味しいんだ。これを恋人に伝えたい」と思ったとします。

あなたは、すぐに恋人の所に駆け込んで行き、こう伝えます。

「ねえ、これ美味しかったんだ。君もきっと好きなると思うよ」

しかし、恋人は言います。

「そう、美味しかったのね。でも、……「これ」っていったい何なの?」

そう、あなたはあまりにりんごが美味しかったので、全部食べてしまったのです。

手元には芯が少し残っているだけで、もうりんごの影も形もありません。

「えっと、これだよ、これ。あー、……なんて言えばいいんだろう。困ったなぁ」

しかし、はっと思いつきます。

「ああっ! そうだよ、りんごだ。りんごっていう「名前」の果物だよ!」

「そう、りんごっていうの。わかった、覚えとくわ。ありがとうね」


以上のシチュエーションから分かるように、「りんごという言葉」がないと、「りんごについて話したいけど目前にりんごが無い」という場合に非常に困ってしまいます。

また、「ジョンがお腹を下して慌ててトイレに入って用を足したら、紙がないのに気づいて非常に困った」という事を説明したい時に、前述の状況はすでに過ぎ去った過去の出来事であり、それを伝えたくても目の前で再現することはできません。


言葉で文章を作ってあげることで、それを聞く人に「今ここにないモノ(状況・物)」を伝えることが出来るのです。

上記のような長文であっても、言葉の本質は「今ここにない現実の代替物(かわりのもの)」であることがわかりますね。

これを一言で表現すると「言葉は現実の代替物である」となります。



では、次は言葉が表す「意味」についての説明です。


「ABS株式会社の社長は、粉飾決算について記者会見で謝罪した」という文章を読んだとします。

あなたは「謝罪」という言葉の意味がわからないとしましょう。

「謝罪」という言葉の意味を理解するには、まず辞書で言葉の意味を引いてみることです。

「罪やあやまちをわびること」と辞書に載っています。

では、「わびる」を辞書で引いてみましょう。

「悪かったとおもって、あやまる」と辞書に載っています。

では「あやまる」を辞書で引いてみましょう。

「悪かったとおもって、わびる」と辞書に載っています。

おや、と思いませんでしたか。

「あやまる」の意味は「わびる」こと。「わびる」の意味は「あやまる」こと。

言葉を再帰的に定義してしまっていて、辞書を引いただけでは謝罪の意味がわかりません。


しかし、実際は私達は謝罪の意味をたやすく理解しますし、理解しています。

なぜなら、実際にだれかに悪いことしてあやまった事があるか、あやまられた事があるからです。


このように、言葉の意味を紐解くと、「言葉が言葉を定義する」ことの奥底に必ず「現実のモノ(状況・物)」に紐付いた言葉があります。

その、言葉だけでは意味を定義できない、「現実と直接関連して(紐付いて)いる」ことが「言葉の意味」の真髄です。

もし、あなたがどうしても理解できない文章があるとすれば、それは必ずどこかで「言葉と紐付いている現実のモノ(状況・物)」を知らない事が原因となっていると考えられます。



つぎ、わたしたちが「ニュアンス」と呼ぶ物についての説明です。


最初に宣言します、「意味」と「ニュアンス」は全く違うものです。


簡単な例から入りましょう。

「ごめんなさい」と「ごっめーん、てへっ」と「申し訳ありません」は意味は全く同じです。

ニュアンスが違うのです。

では、「ニュアンス」とは何なのでしょうか。

それは、状況と関連づいた「その言葉が話された時どのような状況なのか」という情報です。

「ごめなさい」は一般に広く使われているために、それが使われる時にどのような状況かわかりにくいです。

しかし、「ごっめーん、てへっ」は「友人同士など、気心が知れた物がふざけてあやまっている」という場面が最も想起しやすいです。

また、「申し訳ありません」は非常に畏まった場面でのみ使われるため、謝罪相手が自分より格上だったり、特別につよい謝罪の意を伝えたい場合に用いられます。

もし、「申し訳ありません」という畏まった表現が一般に使われるビジネスシーンの謝罪で「ごっめーん、てへっ」と言ってしまったら、相手を同等か格下に見ていると捉えられてしまって上司から大目玉をくらいます。

「ごめんなさい」を使っても同様です。

なぜなら、「ごめんなさい」には「謝罪する相手が格上である」というニュアンスがないため、特別畏まってはいないと捉えられてしまうからです。

このように、「謝りたい」「私が悪かったです」という意味は同じなのに、ニュアンスが違うだけで言葉の伝わリ方捉えられ方は全く違ってくるのです。



以上が「言葉そのものの意味」と「言葉が表す意味」と「言葉が持つニュアンス」の説明になります。

記事が長くなってしまったため、とりあえず今回はここまでとなります。

「言葉そのものの意味」と「言葉が表す意味」と「言葉が持つニュアンス」が何なのかを理解していると、勉強やコミュニケーション、外国語学習を非常に効果的に行うことができます。

また、コミュニケーション・ギャップは非常に厄介な問題ですが、上記のことを理解していると比較的楽に対処できます。

それについては、また別の記事で取り扱うと思いますので、楽しみにしておいてください。

では、またの機会で。




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瞑想とか自律訓練法とか

こんにちわ、dokubo_toshoです。

ブログの閲覧数アップを目指して、精力的に記事を投稿していこうと思っています。

自分では結構有用な記事を書いているつもりですので、より多くの方に知って欲しいです。


まあ、それはさておき今回の記事は瞑想と自律訓練法について扱います。


最近流行っていますよね、瞑想。

瞑想すると頭が良くなりますし、心も鍛えられるのでやったほうが良いですよ。

では、効果的な瞑想方法をご紹介していきましょう。


それは自律訓練法と瞑想の合わせ技です。


まずは、自律訓練法のご紹介から。

ドイツ人の精神科医の方が作った催眠暗示を用いた心理療法です。

公式と呼ばれる暗示文を繰り返し暗唱することで心身のリラックスを促す、というものです。

詳しいやり方はグーグル先生で検索して下さい。


次に、瞑想法の紹介をします。

世の中には数多くの瞑想法がありますが、ここではサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想をご紹介しましょう。

仏教で教えられている瞑想法です。

単純に、サマタ瞑想は慈悲の言葉を暗唱する瞑想、
ヴィパッサナー瞑想は「考えない」を実践する瞑想とご理解下さい。

こんな風に単純化してしまったら、本格的な仏教徒の方にはお叱りを受けるかもしれませんが、ここでは上記の理解で十分です。


以上、自立訓練法と瞑想の紹介を終えたので効果的な瞑想法の説明に入りましょう。

単純です。

自律訓練法をやりながら、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想をする。

以上になります。


正確には、自律訓練法で第6公式をやったあとに、消去動作をやらずに慈悲の言葉を暗唱する、もしくはヴィパッサナー瞑想の「考えない」を実践します。

このやり方が効果的な理由は簡潔です。

瞑想で心が静まった状態と自立訓練法で代6公式を完了した状態はほとんど同じで、ほとんどの場合自立訓練法の方が深い瞑想状態に入れるからです。

一般に、瞑想法のみで深い瞑想状態に入るのは初心者には非常に難しいです。

しかし、自律訓練法は誘導の公式がある分、比較的実践が易しいですし、第6公式が完了した状態は下手な瞑想巧者より深い瞑想状態に入れます。

以上のやり方で瞑想を実践すると、非常に効果的に瞑想の成果を実感できると思います。


さらに、この状態ではアファメーションも効果的になります。

私が特におすすめするアファメーションは「前頭葉が活性化しています」です。

一度でも、脳科学などの教科書を読んで前頭葉の位置と意味を理解した事がある方は、無意識が言葉の意味を知っています。

なので、その状態で「前頭葉が活性化しています」とアファメーションすると、前頭葉の血流がアップして意識が明瞭になります。

はじめは、ほとんど何も感じないと思いますが、繰り返し唱えていると脳の血流がアップして、認知症の予防にもなり、知力もアップして、自制心もつきます。


また、稀にアファメーションが効きすぎて脳内の血流の増加をダイレクトに感じられる方がいると思います。

ですが、そのような方も特に気にする必要はありません。

それでも気になるという方は、アファメーションを一切やめて、自分の外側に意識を向けるようになれば、ほとんど気にならなくなると思います。

私も、脳内の血流の増加をダイレクトに感じる人間なので、最初は気になっていたのですが、今では無害だとわかっているので気にしていません。

また、どうしてもうざいなーと感じる時は、自分で頭をさわったりなでたりすると外に意識が向くので気にならなくなります。


では、今回の記事はこれで終わりになります。

最後に、瞑想や自律訓練法は実際にやろうとしたら結構練習が必要ですが、3、4ヶ月も続けていれば効果を実感できると思います。

次の機会にお会いしましょう。


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ホメオスタシスっていったいなんなのさ

こんにちわ、dokubo_tohsoです。

最近連続で記事を投稿しています。

少しでも、このブログの記事を読んでくださる方とやはり張り切りますね。(笑い)



では、今回の記事のテーマを紹介します。

「ホメオスタシスってなんなのさ」という話になります。

このブログで度々紹介している苫米地英人氏、その著書なかではホメオスタシスといった言葉が頻繁に出てきます。

一般には「恒常性維持機能」と日本語では説明されていて、その実態は「体温が上がったら、汗をかいて体温を下げる」等といった、人間を一定の状態(この場合には一定の体温)に保つための生化学的な働きの事を指します。

この生化学的な働きと言うのは、「ホルモンや神経の働き、臓器の代謝機能など」の事を言います。

 ではなぜ、このような医学用語であるホメオスタシスといった言葉が、認知科学の研究者であられる苫米地氏の著書で多用され説明されているのでしょうか。



 説明しましょう。

 それは、臨場感(リアリティ)の説明に絶対必要だからです。

 具体的な例を出しましょう。

 私が小説(例えば、彼女がフラグを折られたら、通称がおられ)を読んでキャラクターの心情に共感したり物語の世界に感動して涙をながすほど感情移入をしている時、私は小説の文字とイラストで表現された世界にリアリティを感じています(臨場感を持っている)。

 逆に述べると、人間が抽象的な、あるいは情報量の少ないマンガやアニメ、小説などの仮想的な世界にリアリティを感じる(臨場感を持っている)時には、感情が動かなければいけないのです。

 これを定義すると、「感情が動く時人はリアリティを感じる」となります。

 認知科学の世界では人間の感情が動く時、必ず脳内でその感情に応じたホルモンや神経の働きがあると考えれていますし、それが実際に観測されています。

 つまり、「がおられ」を読むことで、脳内の生化学的反応が喚起されているのです。

 このうな事が、私が「がおられ」を読んでリアリティを感じている時に脳内で起こっているのです。

 (ちなみに、がおられ面白いのでオススメです。いわゆるハーレム小説ですが、内容は様々な示唆に富んでいてかつ、ラブコメも面白いです)

 苫米地氏はこの現象を「小説という仮想世界に、ホメオスタシスの働きが同調している」といった表現で説明しています。

 更に述べると、苫米地氏著書の「洗脳護身術」では、このような生化学的反応であるホメオスタシスが異なる人間の間で同調すること利用した洗脳法や洗脳護身術を紹介しています。

 (ちなみ、このようなホメオスタシス(生化学的反応)の同調は、ミラーニューロンの働きであると私は個人的に考えています)

 このホメオスタシスの同調に対して、どのような事が行われているかを理解しているかいないかで、「洗脳護身術」などの苫米地本の理解度が変わってくるのです。


 余談ですが、効果的なアファメーションでは必ず自分の感情が大きく動いてリアリティを感じている必要があります。

 感情が動かないイメージや言葉に対しては、人間の脳は現実であると認識しないからです。

 
 今回の記事は以上になります。

 では、また今度
 
 
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幻聴とか幻覚とかの話

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回は幻聴とか幻視(一般に幻覚と言われるモノ)についての非常に有用な記事です。

この記事で書かれる事は仮説段階ですので、あしからず。


幻聴聞いた事ありますか?

私は、たまに聞きます。

ですが、全く気にしません。なぜなら、幻聴が聞こえるメカニズムを探求してなぜ幻聴が聞こえるかを理解したら全く問題無くなったからです。

では、幻聴が聞こえるメカニズムを説明します。


まず、第一にやって欲しいのは、「人間の全ては所詮脳内の電気信号でしかない」と言われる現代認知科学の説明の棄却です。

この主張の根拠を簡単に説明しますと、「脳内に感覚を感じる細胞はひとつもございません」です。

よく、聴覚野や視覚野という言葉を認知科学の本や学者さんは説明していると思います。

しかし、上記の理由から聴覚野が音声を感じるとか、視覚野がりんごを見るなどといった事は論理的に考えて説明できない、絶対矛盾なのです。

たまに、この事を自著の中でポロッと言っている学者さんがいるにはいますが、一般的な科学者はこの絶対矛盾に気づくことなく、「人間の全ては脳内の電気信号や情報処理でしかない」と言っていたりします。

ひじょうに危険な現代科学が抱える闇であり矛盾です。 

なので、この「人間の全ては脳内の電気信号や情報処理でしかない」という考えは今すぐゴミ箱にポイしてください。

はい、クシャクシャ、ポ~イ。 

捨てましたか?

よろしいでしょう、では次の段階に進みます。 

では、視覚の話から入ります。

皆さんは、色を感じる細胞が人間のどこにあるか知っていますか?

当然ご存知かと思いますが、眼球の網膜です。

人間の体の中で色を感じる細胞があるのは網膜だけです。

では、頭の中でりんごをイメージしてください。

見えましたか?どこに見えましたか?

結論から述べます。

見えたでしょう?でも色を感じる細胞は網膜にしかないのです。

 どこというのは論理的に考えて、網膜しかないと思いませんか?

 頭の中でイメージを思い浮かべるときには、脳が網膜へ閾値(明確な視覚情報として感じられる境目)を超えない範囲で出力しているのです。

  次にお聞きします。

 今この文章を読んでいると思いますが、まあ黙読ですよね。

 あたまの中で音声がなっていませんか?

 でもおかしいですよね、音の発生源はどこにもないし、脳内には音を感じる細胞もありません。

 音はどこで鳴っているのでしょう。

 答えは、聴覚神経(耳の中にある)で感じているのです。

 これもまた、脳が聴覚神経にたいして出力して音声を鳴らしているのです。


 では第一の結論です。

 「人間がイメージする時や思考する時は脳が感覚器官に対して出力して、感覚器で音声や映像を感じている、決して視覚野や聴覚野が感じているのではない」

 では、幻聴の具体的なメカニズムの説明です。

 上記のメカニズム上、人間は意識して思考したりイメージしたりしない限り実際に音声が聞こえたり映像が見えたりしません。

 その働きは前頭葉あたりでコントロールしています。

 しかし、脳は生化学的なものですので、状態が不安定になったり、何らかの物理的きっかけで不意に神経が興奮したり、神経ネットワークが活性したりすることがあります。

 この時、意識して思考したりイメージしたりすることなく、自分の意志に反して音声が聞こえたり映像が見えたりする事があります。

 この場合、音声や映像の内容は自分が意識して出力したものではないので、誰かにささやかれた、誰かの声が聴こえるといった風に感じる事が多々あります。

 しかし、実際の脳の不随意な出力の結果再生された音声や映像なので、基本的に誰かが囁いたとか喋っているということはありません。

 また、無意識で情報処理が行われていて、脳の状態が不安定なとき、それが不意に閾値を超えた出力を生むことがあります。

 私はこれを無意識からのポップアップとよんでいます。

 これは、生化学的要因で誰でも不意に起きてしまう事ある現象なので、決して神のお告げでも幽霊でも電波でもありません。

 また、このような現象が起きる時は、大抵寝不足や過労やストレス過多で脳内ホルモンのバランスが崩れている時ですので、自分が無理している時です。

 そのような場合、今すぐぐっすり寝て十分な休息、適度な運動、栄養バランスの優れた食事、規則正しい生活を取り戻してください。
 
 すぐ治りますから。



 しかし、統合失調症に分類される患者さんの中には、このような現象にたいして、脳内ホルモンのバランスがかなり崩れているため、非常に強い出力を伴い、現実に耳で音を聞く時と同じように聞こえる事があります。

 そして、もっとも恐ろしいのは、このような生理的現象である幻聴に対して、人格を与えてしまうことです。

 なぜなら、幻聴に対して人格を与える(ただの生理現象ではなく、意思ある何者かのささやきと感じるなど)をしてしまうと、脳が幻聴と人格を関連付けてしますからです。

 そうしてしますと、脳が無意識の処理の中で、常に幻聴と人格の関連付けと自動化を行ってしまい。

 その仮想的な人格に言いそうな事が幻聴として聞こえてくるようになるからです。

 こうなってしまうと、神の声を聞いたり電波を受信したりしてしまいます。

 なので、幻聴と人格を関連付ける事は非常に危険なことなのです。

 一度こうなってしまったら、治療は非常に難しいので素直にお医者さんにかかりお薬を飲んでください。

 そのうえで、脳内ホルモンのバランスを取り戻すための瞑想や考えない瞑想をおすすめします。(これについては、仏教のサマタ瞑想やヴィッパッサナー瞑想をおすすめします。)


 話がかなり脱線してしまいましたが、以上が幻覚についての仮説の説明になります。


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抽象的思考はどのように脳で実現されているか

こんばんわ、dokubo_toshoです。

今回は人間の脳がどのように抽象的思考を実装しているかについての仮説を説明します。

結論から述べます。

「論理演算だけで十分」なのです。


理論を簡単に説明します。


犬という抽象概念を理解するときの脳のプロセスはこうです。

 1、犬に属すると思われる動物を一匹知る(例、チワワ)

 2、もう一匹犬に属すると思われる動物を一匹知る(例、ブルドッグ)。

 3、2匹の自分が知ってる犬に属すると思われる動物の「共通していない部分をすべて切り捨てる」

 4、3で切り捨てられなかった「2つの動物の完全に共通している部分 」を一つにまとめ新しい概念として名前をつける。

 5、4でできた概念と新しく知った犬に属すると思われる動物(シェパード)に対して3、4を繰り返す。

 6、以上の一連のプロセスを繰り返して、犬という抽象概念を更新(捨象)していく。

また、コンピュータチックに説明すると。

3では1の犬と2の犬に対して、論理積演算を行い、共通していない部分を削り取ります。

脳はデジタルではないので、0と1の論理積演算ではなく、「毛が長い」や「足が4本ある」といった抽象情報に対して行います。

両方の犬が全く同じ抽象情報(例えば、耳が上に付いている)を持っているなら、情報を残します。

全く同じではない、例えば「毛が長い」と「毛が短い」の場合捨象して非共通部分を切り取って、完全な共通部分だけ抜き取ります。この場合は「毛がある」となります。


このようにして人間は「本来個別存在でしかない」はずの、そこら辺にを歩いているチワワやブルドック柴犬などに対して「犬という抽象概念」として認識することができます。

さらに、この「犬という抽象概念」に当てはまるものに対しては、初めて見聞きしたものに対しても「無条件で犬として認識します」。


以上が、脳内で抽象的思考をどのように実現(または、実装)しているかの説明です。

余談。

ちなみに、この「犬という抽象概念」をもってるから、別に生きていない犬の絵や犬のフィギュア、デフォルメした犬のキャラクターに対して犬と認識することができるのです。

また、、視覚情報に対しては統計的な処理をして平均をとっているため、頭の中で犬を思い浮かべても自分が知っているすべての犬の平均にしかなりません(それがどの犬に似ているかは人それぞれです)。

そのため、脳内の情報処理をいくら分析しても人間が見ている視覚情報は完全には再現されません。

なぜなら、脳は視覚情報に対して意味付け処理をしているだけで実際には視覚情報を捉えているのが眼球だからです。

視覚情報に対する意味付け処理をしている脳は、抽象的な認識をしているから視覚情報に対して(現実的に)正確に意味付けできているのです。

なので、りんごを見ている脳の状態を調べても、目で見ているりんごより脳が認識しているりんごは非常にぼやけたイメージとなってしまっているため、正確な視覚情報は取得できません。

最近、海外の研究機関が脳内の処理を(fMRIなどを使って)調べて、じっさいに見ている視覚情報を脳内の処理から特定しようとする研究がなされているそうです。

じっさいに、非常にアバウトですが再現に成功しているそうです。

しかし、先ほと述べた理由により、決して正確な情報は取得できないと思いますので、今以上に正確さが上がっても結局アバウトなままで、研究は行き詰まると思います。



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適切な学習、適度な休息

こんにちわ、dokubo_tohsoです


記事「変性意識は必ず解くモノ」で説明したデフォルトネットワークに関連した記事を書きます。


これは豆知識なのですが、学生で勉強ができるようになりたいと思ってたり、スポーツを上手くなりたいと思っていあるなら。


効果的な学習方法があります。


まず、勉強なら一つの科目を集中して90分やったら、15分の休憩をとって必ず別の科目を勉強を90分やってください。

そしたら15分休憩して、別の科目を90分やってください。 これを繰り返し、そして必ず、一日のうちに昼寝する時間を30分以上、できたら朝と昼に合計2回以上とってください。

そして、休日は決して勉強することなく、しっかり運動して寝るか、遊んで寝るか、勉強せずだらだらして寝てください。

一日の内の2回の昼寝と、休日のだらだら時に、脳のデフォルトネットワークが活性化して、脳内の記憶の最適化、再配線、既存の知識と経験などの統合がなされているので、けっして勉強しようとはしないでください。


一般的な受験勉強の勉強量では、睡眠時間だけでは、記憶の最適化などのための時間が全然足りていません

勉強ばかりしていると、デフォルトネットワークが活性化しないので、いくらガリガリ勉強しても成果が伴わない、結果がでないとなりかねません。 


また、スポーツの場合は、サッカーが上手くなりたいなら部活中はサッカーをしても、趣味でサッカーはやってはいけません、野球などの別のスポーツ、ゲーム、音楽、オタク趣味などがお勧めです。

一般に部活でスポーツをしている場合、部活動でのスポーツの練習量は十分かやり過ぎの場合が多いです。

休まずに同じスポーツばかりやっていると、デフォルトネットワークが活性化せず技術の最適化が成されないばかりが、体を壊したりします。


また、サッカーをやっているならサッカーの練習をいくらやっても上手くならない場合、むしろ別のスポーツ(野球や、卓球などかけ離れているスポーツ)の練習が効果的だったりします。

なぜなら、サッカーの練習をいくらやっても上手くならないのなら、原因はサッカーの練習でいくらやっても伸ばせない所にあるからです。(論理的に考えたら結構当たり前ですが。これに気づかないでいたずらに練習量を増やして体を壊す人も多いです)。

その場合、自分がやっているスポーツと全くかけ離れたスポーツをやったほうが良いです。(相補性の原理で両方すごくうまくなります)。 

単純にゲームや勉強、芸術をやっても面白いと思います。 



また、どうしても苦手でできないモノがある人におすすめの方法です。

1ヶ月間集中して徹底的に取り組み、3~5ヶ月全くしない期間を設け、また1ヶ月集中して取り組む。 

上記のサイクルを繰り返す方法です。

片付けが苦手、料理が苦手、運動が苦手、勉強が苦手、人付き合いが苦手といってどうしても苦手な物がある人は、人生の初期に、片付けや、料理、運動、勉強、人付き合いを徹底的に避けるか、やらなかった時期があります。

そういった人は、一般な人が人生の初期に取り組んで、基礎を身につけ、その後の長い人生の中で徐々に洗練させていった過程を最速で模倣する必要があります。


それが、このサイクルトレーニングで可能になるのです。 

三年寝太郎トレーニング法とで名づけましょうか。

非常に有効なので、ぜひ試してください。



ただ、料理や勉強の場合は別にいいのですが、人付き合いが苦手な場合はこの方法を一つの自分が属する基本的なコミュニティでやると変人扱いされるどころか嫌われて孤立しかねません。

なので、人付き合いが苦手の場合は、自分が属する基本的なコミュニティ(学校や会社)ではない、地域のクラブ活動や、習い事で行うことをおすすめします。

地域のクラブ活動や、習い事の場合 3ヶ月や5ヶ月くらいなら、忙しくて最近来れないという言い訳が通用しますし、複数の習い事をやって効果を上げたり、最悪失敗してもコミュニティを抜けることができるからです。

特に、自分の事をコミュ障だとか言ってしまうような人には強くおすすめします。


自分価値観が変わりますし、趣味の活動であれば親しい友人もできるからです。

ちなみに、極端に人付き合いが苦手な社交不安障害に分類される方にも有効です。


人と話していて、頭や体の中が冷たくなって、冷やっとするとしたり、ぞっとしたする時があります。

この体の一部が冷たくなる感覚は、物理的には血液が集まって活発に活動しているだけです。

なので、冷やっとしたり、ぞっとしたりする体感覚があっても、放っとけばいいのです。

むしろ、冷やっとする感覚は学習したり、機能が向上する過程で起こるので、積極的に冷やっとした感覚を味わう(強化する)ことで、より早く簡単に成長できます。

むしろ、この時に冷やっとする感覚を止めるように意識すると、必要な箇所に血液が行き届かず、十分に活性化、機能の向上、学習が成されず、ずっと苦手なままです。

では、今回の記事は以上になります。

また今度お会いしましょう。

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変性意識は必ず解くもの

こんにちわ、dokubo_toshoです。

今回は苫米地英人氏が著書で紹介している、ゴールのアンカリングの危険性についての記事です。

私はすこしばかり熱心な苫米地ファンなのですが、氏の著書の中で危険性が高いものについての注意喚起をしようと思います。

苫米地氏のファンなら、変性意識状態でゴールを体感し、それをアンカリングするというやり方をご存知かと思います。

ご存知のない方は、「夢が叶った状態をリアルにイメージの中で体感して、それを常に思い出すようにする方法」とでもご理解ください。

まず初めハッキリと述べます。

変性意識状態は必ず解かなければいけない」のです。


その理由を説明しましょう。

まず、人間は何かを学習したり楽しんだり熱中したりする時は少なからず変性意識状態にあります。

そして、学習を終えたり楽しんだあとは必ず我に返ります。

なぜなら、変性意識状態である学習時に脳に深く刻みつけた記憶や技術の最適化、再配線、既存の知識や技術との統合を我に返っている時に行うからです。

最近の脳の研究では人間が何もしていない時に脳内でデフォルトネットワークと呼ばれる箇所が活性化している事が解って来ています。

そして、このデフォルトネットワークは、何かに集中している時(変性意識状態時)には活性化しないと言われています。

デフォルトネットワークが活性化している時に、記憶や技術の最適化、再配線、既存の知識や技術との統合がなされていると考えられます。(注意、この部分だけ仮説段階であり、科学的検証が十分になされていない。)

つまり、変性意識状態を説かないとこのデフォルトネットワークが活性化せず、最適化、再配線、既存の知識や技術との統合がなされないのです。 

そのため、苫米地氏の著書の中でなされている、変性意識状態のアンカリング(埋め込み)によるゴールの体感の強化方法をやってしまうと、自分の想像の中で悦に浸って現実や既存の状態との整合性が無くなってしまう可能性が高いのです。


過去の記事で、本来の意味の正しいアファメーションでは現実の正しい認識が崩れる事はあってはならないと書きました。

そのため、私はアファメーションの時は苫米地氏の提唱する現在進行形ではなく、未来進行形を使用する事を推奨しました。

これは、自己と現実との整合性を失わないようするためでした。

また、ゴールを体感する時もアンカリングして常に体感する必要はないのです(というかむしろ危険です)。

なぜなら、 一度無意識に刻みつけたゴールは、地図上の目的地の場所に虫ピンで目印をつけるが如く、外そうと思わなければ外れないからです。

想像してみて下さい。

地図を用意して、地図上の目的地に虫ピンを刺し、自分の現在地にも虫ピンを刺します。

この2つの虫ピンに輪ゴムをセットします。

この状態なら、どのように移動しても現在以上に目的地から離れる事はないし(もちろん無理やり力を込めれば目的地から離れる事はできますが、非常に疲れるし意味が無いので大抵の人はやりません)、時間が経てば徐々に気づかれないスピードで輪ゴムの弾力で自然(無意識に)と目的地の虫ピンに自分の虫ピンが近づいていきます。 

これが本来の無意識へのアンカリングの目的なのです。

さらに言えば、どんなゴールでのも現実の状態を無視しては達成できません。

すべてのゴールには、ゴールに至る経路・過程(プロセス)があり、この現実的なプロセスを経ない限り、頭の中でどんなにリアルに体感してもゴールには至れません。

このプロセスを経る段階では、非常に現実的な判断力が要求されます。

なので、変性意識状態を解いていない、現実や今までの状態、知識、技術、経験などと整合性が取れないような状態では、必ずこのプロセスを経るという段階で失敗します。

ゴールに至るためには、忍耐や正しい努力、時間も必要とされます。

苫米地氏のやり方は、非常に強くゴールの達成の感覚はアンカリングする事ができますが、そればかりやっていると、常に強い変性意識状態にいるため非常に強いゴールの体感があるのに、現実との整合性が取れないため、忍耐や正しい努力をすることもく、時間をかけて取り組むわけでもなく、常に妄想して現実との整合性がとれていない状態を生み出しかねないのです。

非常に危険です。 

そもそも、この無意識へのゴールを刻みつける行為は一度深くやれば十分です。

その後は、我に返り(変性意識状態を解き)現実との整合性がとれた状態で正しい努力を忍耐強く行い、時間をかけてじっくり取り込む必要があるのです。

一度、ゴールを刻みつけたらすでに無意識はそのために動き出してますし、何をしてもその状態は常にあなたのバックグラウンドで稼働しています。(さながら、コンピュータのOSのバックグラウンド処理のように) 

もうこうなってしまったら、ゴールの体感の強化必要なく、むしろ害になりかねません。 

なので、私はゴールのアンカリングは一度で十分(人によっては必要ない)と考えています。


最後に結論を述べます。

変性意識は必ず解きましょう。

ではまた今度。

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リスニング力の向上、シャドーイングの応用

こんばんは、
dokubo_toshoです。

今回は久しぶりに英語関連の記事です。

実は私、英語のリスニングがすっごく苦手だったんです。

でも、この方法を使ってから劇的にリスニング力が向上したので皆さんにお教えします。

シャドーイングという技法をご存知ですか?

詳しくは自分で調べてもらうとして、簡単に説明すると、「英語の音声を聞いたら、瞬時に聞こえてきた英語をそのままリピートして声に出だす」、という方法です。

まるで、いくら速いスピードで走っても、いつまでも後ろにピッタリついて追いかけてくる影のように・・・とは誰がいったか知りませんが私はそう解釈しています。

この方法は、非常にリスニング力が上がると有名なのですが、同時に非常に難易度が高いことでも有名です。

ですが、私は考えた改良版シャドーイングは、この難易度の高さを大幅に下げて、かつ効果はむしろ上がっていると思われます。

では、さっそく紹介しましょう。

やり方は単純です。

聞こえてきた音声を口でリピートせず、頭のなかで再生するのです。

そして、もう一つのポイントは「自分の声で再生しようとせず、聞こえてきた音声そのものを思い出すようにすること」です。

 
理論的背景を説明しましょう。

人間が脳内で音声を再生する(思考)する時は必ず、実際に声に出して喋る時に喉や舌や唇を動かす機能を使用しています。

そして同時に、音声を聞いて理解するときに使う脳の機能を逆向きに使っているのです。

それをコンピュータチックな関数表記で表すと

xは意味表現 yは音声表現 zは記憶

y a(x){;}; aは音声が出力される関数 xは自分が話したい意味表現 yは出力される音声表現。
x b(y){};   bは音声を理解するときに使う関数 yは音声表現 xは意味表現 出力と入力は aの逆
x c(z){};   cは記憶から意味表現を取り出す関数  xは意味表現 zは記憶
 z d(x){};   dは意味表現を記憶に書き込む関数 xは意味表現
 y  f(y){}; fは実際に声を出すための肉体制御関数 yは音声表現
y f'(y){};  f'は聴覚野を通して、聴覚神経に逆向きに出力される

喋る時は
d(b(f(a(c(z) )))); まとめて z A(z);
とやっていて。

聞くときは
d(b(y)); まとめて z B(y);  
とやっています。 

思考をするときは
d(b(f'(a(c(z)))));  まとめて  z C(z)(この時f'は常に出力の閾値を超えない)

シャドーイングの理論は
wは超短期記憶
w = B(y);
A(w);
となります。


私の推奨する頭のなかで声を出さずに思い出すは
w = B(y);
C(w); 
となります。

しかしA()とC()は声が発せられない以外は処理はすべて共通しています。

なのでA≒C;となり、効果は殆ど変わりません。

しかも、実際に声に出すわけではないので難易度はグッと下がるのです。

この表記方法がわからない方は理論的な説明はわからなくても問題ないので、これ以上の詳しい説明は割愛させて頂きます。
興味が有れば、ぜひ調べてみてください。

 まあ、この内部処理は私のオリジナルで仮設段階なのですが。

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 ではまた次回の投稿まで。

気功~理論編~

こんにちわ、dokubo_toshoです。

このブログにちょっぴりアクセスがあったみたいなので嬉しいこのごろです。

今回は気功について書きます。

今回は、主流の科学から外れたトンデモ話になりますので、「科学で証明されていないことは認めない!」という方は読まなくても大丈夫です。

今すぐ、ブラウザバックしてください。


では始めます。

気はあります。

気功もインチキではありません。


まずは理論の説明を。

宇宙は気でできています。これをプラーナとか霊とかエーテルとか言っても大して変わりません。

宇宙の大本はひとつでしかないのです。

それが、気。

すべての物質は、この気が元になっています。

気がある種の流れと向きを持つことにより、あらゆる性質が生まれました。

イメージしてもらいたいのは、お風呂場にお湯を張り、指で時計回りにぐるぐるかき混ぜた時にできる渦です。

渦とお風呂場のお湯はまったく同じもので分け隔てられてもいないのに、渦という向きを持った流れ(水流)ができただけで、渦はお風呂場のお湯と違ったものになります。

このある種の歪みがあらゆる物質の大本です。

これが物質の正体なのです。

さらに、物質は複数組み合わさり、論理的構造を持つことにより、物質の性質が生まれました。

その先の事は現代科学の教科書にも乗っていますので割愛。

そして、何が言いたいかというと、「物質も気も本来は同じもの」という事です。


ちなみに、この「すべてのモノは単一の者同士の論理的なつながりにより成り立ち、論理的構造の変化によりあらゆるものが表現される」という考えは仏教の縁記の思想にもつながりがあります。


さらに、ここで出てくるのが人間に対する理論。

「人間の全ては脳の中の電気信号」を完全否定し、「人間は物質的な肉体、霊的自己、魂からなる」という理論を肯定します。

先程、霊も気も同じようなモノとい書いたので更にいうと。

「人間は、物質、気、魂」の三つからなるということです。

なぜこんな、うさんくさいとも取れる事を書いたかというと。

気を扱う上で、人間の身体は物質と気(霊)から成り立つ、という事を理解していないと、気の使いすぎや気の乱れに対応できないからです。

そしてに、「人間はすべてを脳」で感じるのではなく、「全身で(物質、気)ですべてを感じ、脳は「一臓器」にすぎない」という事をしっかり覚えてください。

ここでは詳しく書きませんが、簡単に書くと「脳は感覚から受け取る刺激の入出力制御と、感覚に対する意味付け、肉体の制御を主にしているだけ、視覚刺激は眼球、聴覚刺激は耳、味覚は舌、嗅覚は鼻、触覚は身体で感じる」のです。


さらに、場理論です。

簡単に説明すると、電磁場や重力場です。

イメージしてもらいたいのは、砂鉄の上に棒磁石を置いたらどうなるかです。

砂鉄が、磁石の磁力に応じて動きますよね。


「物体があると、その周囲には力の流れが生まれて、場(気)が歪む」。

物理的世界には、見えない「場(気)」があり物質や電力や重力、物理的運動により、
場には歪みが生じるということです。


理論編はひとまずこれで終了です。


今回は記事が長くなってしまったので、実践編はいずれまた書きます。

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共感と影響

おひさしぶりです。

最近いそがしくて、ツイッターではつぶやいていたけれどブログの更新は止まっていました。

今回は打って変わって共感と影響の話になります。


これは私が独自に内省により気づいたことのなのですが、人間が他者の感情を認識するとき、他者の感情を脳内で同調して模倣してそれを認識しているということです。

最近では、ミラーニューロンの研究でも似たような事が言われているのでまあ間違いないだろうと記事にしました。

人間が他者とコミュニケーションを取る際に、互いに互いの感情に同調し脳内で模倣し共感しあっているのです。

また、これにより互いの価値観や人間性が影響を与え与えられ、集団の性質というのが作られていくのです。



私なんかは、妙に感受性が強かったりするので、調子の悪い時はすれ違うだけで他者の感情が入ってきて(なぜなら共感の仕組みはほとんど自動化されており、自分が共感するしないを選べないから)、他者の感情を食らってしまう時があって結構大変です。

更に、この共感能力は、相手を信頼をしている、好きである、尊敬していると言う場合には特に発揮されやすいので。

家族に情緒不安定な人間がいたり、友人が性格的に暗かったりといった場合、その影響であなたまで体調が悪くなりやすかったりします。



また、世の中には共感能力が高い人間もいれば低い人間もいます。

看護師や介護士などでは共感能力が低いから心が弱っていたりする人間の影響をもろに受けることもなく、仕事ができる人間は結構いたりします。

悩み相談をされたら、相談相手に共感しすぎて一緒にウンウン悩んでしまう人間は共感能力が高いせいでそのようなことになったりします。



ちなみに、この共感能力の仕組みを利用した洗脳や催眠や説得の方法はいっぱいあります。

なぜなら、洗脳や催眠や説得などはすべからく相手に強い影響をを与える事で成り立つからです。

この共感能力は、インターネットにつながったパソコンみたい、人間が受け取る刺激にたいして自動的に発揮されます。

なので、テレビや映画や動画やラジオをなんとなく見ているという人は、そのテレビなどの影響を多大に受けているのです。


今回は文章の構成もちゃんと考えずに書いたので、ちょっと判りにくい文章になってしまいました。
なので要点だけ最後に書きます。

人間は他者の感情を認識するとき、他者の感情を脳内で同調し模倣してそれを認識しているということです。

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前回の続き、正しいアファメーションのやり方。

 どうも、dokubo_toshoです。

 前回のアファメーションの記事の続きになります。

 最初に結論から述べます。

 アファメーションを行う場合、絶対に「現在進行形」を使用してはならない。

 ではまず、簡単な説明から入りましょう。


 此処では、「あなたを凄く貧乏だけど将来は大金持ちになりたい方」だと仮定します。

 もしこの前提に何も誤りが含まれていないとしたら、「今すでに大金持ちになっている」というあなたの状態は
、あなたにとって「妄想=虚構」の世界にすぎませんし、それ以外の何者でもありません。

 もし、この記事を読んでいる読者の方が、その様な状態にあるとしたらあまりに危険ですので、此処ではっきりと述べます、「今貧乏なあなたがすでに大金持ちになっていると本気で思っているのなら、それは「病気」です」。

 アファメーションでそのような状態になったことがある方、もしくは今はっきりとその状態をリアルに感じている状態の方に対しては 最後通牒としてはっきりと意識を目の前の現実世界に向けながらこの文章をしっかりと意識的に読む、または音読することをお薦めします。

 今直ぐそのアファメーションをやめて下さい。

 凄く危険な状態です。


 はっきり宣言します。

 正しいアファメーションのやり方をしていたら、現実を正しく認識できなくなるようなことはあり得ません。

 以上が数多の人間が信じている「アファメーションの間違ったやり方」についての説明です。

 どうぞ、ゆっくり休んでから次の「正しいアファメーションの説明」に関する項目に、移って下さい。

 では次に、「正しいアファメーションのやり方」についての説明をしましょう。

 此処では先程はうってかわって簡単で至極解りやすい説明です。

 アファメーションは、「未来進行形」を使うべし!

 「未来進行形」は、英語だと「I will be  ・・・・ing in (未来のある時点。例えば、the future)]という表記方法を用いて、表現されます。

  直感的に気づきを感じた方も大勢いらっしゃると思いますが、この「未来のある時点で、私は・・・している」という表現は、「現実と何ら矛盾していない」のです。

 上記に示した「現在進行形」の表現と明らかに違う所は、「現状の自分を否定していない」という点にあります。

 そもそもの理屈の説明になりますが、「現状の自分を否定」するようなアファメーションは、(苫米地氏の言う)「エフィカシー」を歪ませます。

 まずはわかりにくい、難しい説明で述べておきます。

 もしそのような状態になってしまったら、あなたの目の前の現実世界(大脳新皮質が認識している身体の外の世界)で「現在の自分では解決できない問題」に直面してしまった場合、「歪みの反動(脳内の神経細胞でパターン認識をしていることはよく知られていると思いますが、それが、どうように実際の物理的な脳の仕組みで行われているかは、未だ解っていません。しかし、なんらかの空間(自己の外部として認識される、我々の心にとっての外の世界)への認識(神経同士のつながりによって産まれると、現時点で科学者によって推測されている、物に対する知覚と認識に対する用語。詳しくは、要専門書参照)の為に行われる数学の世界で表現される物体の運動に対する記述(表現。あるいは説明)に関する具体的で物理的な処理の影響)により一気に「エフィカシーが下がります」

 上記の説明が難しすぎて判らないと感じる方の為に、簡易な表現でも述べておきます。

 簡単な説明。 

 「もしそのような状態になってしまったら、あなたの目の前の現実世界を否定されたことににより一気に「エフィカシーが下がります」。

 という事です。

 だってそうでしょう、「自分が認識している「自分はすごい奴だ」という確信」が否定されてしまったのだから。

 もし、そのような状態になっているにも関わらず、現状の自分を凄い奴と肯定し他人の言う事を否定しつづけてしまったら、「明らかに社会性を欠いている状態」を生み出し続け、「精神障害」を発症しかねません。

 そうなってしまったら、という説明はすでに述べておりますので、此処では省略します。

 この事をスバリ説明します。

 「アファメーション」は「現在の自分の肯定」ではなく「未来の自分の肯定」である!

 おわかり頂けたでしょうか?

  それでは、なぜ「未来進行形が良くて」、「現在進行形がダメ」なのかを、前回の記事を引用して詳しく説明していきます。

 以下はコピペ。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
基本的に人間の脳は、深部から表層まで3層の神経層で構成されています。

一番脳の奥深い場所にある脳幹。
その脳幹を覆う大脳辺縁系。
さらに大脳辺縁系を覆う大脳新皮質。

主にこの3層に分類されます。

その3層は、深部から順に「潜在意識」「無意識」「顕在意識」を司(つかさど)っていると言われています。

そして一般には言われてはいない事ですが。
実はこの3層はそれぞれ独自にビリーフを形成します。

脳幹は、進化史上経験してきた知恵によるビリーフがあります。
大脳辺縁系には、生まれから現在まで経験してきた感情の蓄積によるビリーフがあります。
大脳新皮質は、言葉で行われた思考と認知レベルでのビリーフがあります。

ここで注意して欲しいのが、全てのビリーフはそれぞれが知っている事だけで形成されているという事です。


中略


さらに述べると、人間の意識はこの大脳新皮質が産みだしていると言われます。 
それに対して、脳幹や大脳辺縁系は自らのビリーフを常に納得させたがっています。
そして、大脳新皮質は大脳辺縁系と脳幹に、大脳辺縁系は脳幹と大脳新皮質に納得させたがっているのです。

もし、この3つそれぞれのビリーフがそれぞれ違うコトを認識していたら、そこにはビリーフのコンフリクト(対立、相反するという意味)が生じます。


そしてもし、無理矢理潜在意識に、科学で肯定されている法則(例えば低温やけど)の否定を納得させてしまったら、貴方は一生低温やけどに対応する事ができないのです。(あなたがその法則をしらない場合)。

むしろ、この時にすべきなのは、「火傷する程ではない低い温度の物体でも、長時間身体に接触させると火傷で皮膚深部まで損傷する場合がある」という科学的事実の方でしょう。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 以上の理論上、現在進行形でアファメーションをやってしまうと、現実の歪んだ認識を無意識や潜在意識に納得させてしまうことになります。

 そのような状態になってしまったら、自分が実際は現代日本に生まれたサラリーマン家庭の息子である事を否定し、イエス・キリストの生まれ変わりである、実は個人資産100兆円を隠し財産で持っている、などと信じこんでしまう原因になりかねません。

 正しい現実への認識を欠いた状態は、社会性を失わせ孤立し精神障害を発症する原因になります。

 なので、とても危険なのです。


 では、正しいアファメーションのやり方どういったモノなのでしょうか。

 それは、「未来では、私は・・・している(あるいはなっている)」と「未来のある辞典(例えば、30年後)に、私は・・・している(なっている)」という表現をすることです。

 苫米地氏の著書にあるように、人間の脳は無意識下で複数のゲシュタルトを持ちえます。

 そして、上記で示したやり方をすれば、どのゲシュタルトも決してコンフリクト(対立し相反するものどうしの衝突)を起こさないのです。


 申し訳ないですが、記事が長くなりすぎたので今回の記事はこれ終わりにします。

 近々、「未来進行形」の表現方法による、効果的なアファメーションのやり方を記事にします。

 では、お楽しみに!


  注:不適切だった箇所を削除し、記事の内容を大幅に修正しました。削除した内容はHTMLコードに残しているので一応読めますが、記事に関係ない話題でしたので読むことは推奨しません。

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アファメーション、その実用性と危険性。

 みなさん、こんにちわdokubo_toshoです。

 この記事は、広く提唱されているアファメーション についての記事です。

 ではまず、アファーメーションについての簡単な説明から入って行きましょう。

 基本的に人間の脳は、深部から表層まで3層の神経層で構成されています。

 一番脳の奥深い場所にある脳幹。
 その脳幹を覆う大脳辺縁系。
 さらにその大脳辺縁系を覆う大脳新皮質。

 主にこれらの3層から、構成されています。

 その3層は、「深部から順に「潜在意識」「無意識」「顕在意識」を司(つかさど)っている」と、一般には説明されています。

 そして、これは一般には言われてはいない事なのですが。
 実はこの3層は、それぞれ独自にビリーフを形成します。

 (ビリーフについての説明は別の記事で述べますので、どうぞご安心を。)

 脳幹には、進化史の中で人間のご先祖さまが経験してきた全ての知恵によるビリーフがあります。
 また、大脳辺縁系には、爬虫類が生まれからの現在に至るまでに経験してきた全ての感情の蓄積によるビリーフがあります。
 そして、大脳新皮質には、あなが産まれたから現在までに行ってきた言葉による思考と認識の中で築いてきた いわゆる一般的に言われている認知レベルでの、ビリーフがあります。

 そして、ちょっと注意して欲しいのが、「全てのビリーフはそれぞれが知っている事だけで形成されている」という事です。

 つまり、一般に言われる潜在意識(脳幹)は人生の全てを知っている様な夢の万能装置ではないのです。

 なぜなら、太古から続く生命発祥から爬虫類が誕生するまでの歴史の中には、現在に至るまでに科学が解明して来た、世界について正しく説明し大脳新皮質で認識できる(顕在意識が知っている)の哲学から論理学、現在の科学に至るまで獲得した、人類の知恵の叡智(科学が説明する世界を構成する諸原理など)は未だ存在してはいなかったからです。(ここで言う存在とは、人間の知性によって発見されて認知レベルで理解されている事を言う)。

 もし、あなたがこの事に対して納得できないと感じるなら、一度動物園で飼育されている動物達を観察してみてください。
 動物園の檻の中に住む彼ら動物達は、なぜあのような狭い所に閉じ込められいるのでしょう。
 彼らに、檻を抜け出し人間が支配するこの世界を生き抜く知恵と勇気があると思えますか?。

 もし、あなたがすでにNLPや一般に説明される認知科学の世界での潜在意識(脳幹、いわゆるフェアリーブレイン)について、まるで全てを知っていて自分を導く人生の羅針盤の様に例えられて説明されているとしたら、もっと理性の力を信じるべきです。

 これは比喩を使用しての例え話になりますが、「何百年前に作られた化石の様な羅針盤を使い、現代の知恵と技術と工夫で作られた最新式のGPS(全方位地球位システム)を無視して大西洋を横断しても、それは賢い選択にはならない」のです。

 また、知恵ある人間は主に大脳新皮質で思考しているという研究結果にある様に、人間の本質はむしろこの大脳新皮質にあると考えられているのです。

 さらに述べると、人間の意識を産みだしている大脳新皮質に対して、脳幹や大脳辺縁系は自らのビリーフを常に認識させたがっています。
 そして、大脳新皮質は大脳辺縁系と脳幹に納得と実感をさせたがっており、脳幹は大脳辺縁系と大脳新皮質に認識と納得をさせたがっているのです。

 もし、この3つの別々のビリーフを持った人間の脳の一部が、それぞれ違うビリーフを持っていたら、そこにはビリーフ同士の間にコンフリクト(対立し、相反するという意味)が生じます。

 もし、貴方が何かの対象に対して「理解できる」「納得できる」「共感できる」「実感できる」という言葉を使い分けて説明しているとしたら、それらについて顕在意識のレベルで認識しています。

 逆に、これらの表現のニュアンスの違いが理解できない方は、顕在意識で思考する言葉が潜在意識(もしかしたら無意識にすら)届いていない可能性があります。 

 そしてもし、無理矢理潜在意識に、科学で肯定されている法則(例えば低温やけど)の否定を納得させてしまったら、貴方は一生低温やけどに対応する事ができないのです。(あなたがその法則を知らない場合)。

 そうではなくむしろ、あなたが本当にすべきなのは、「火傷する程ではない低い温度の物体でも、長時間身体に接触させると火傷で皮膚深部まで損傷する場合がある」という科学的事実の方でしょう。

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ゲシュタルトの解りやすい説明とその理解。
 こんばんわ、dokubo_toshoです。

 この記事ではゲシュタルトについて、読者の方々と一緒に理解を深めていきたいと思います。


 私はゲシュタルトという言葉は大学の心理学の講義で知りました。
 その講義では、ゲシュタルトとは心理学の用語であり、『複数の「部分」から成り立ち。その結果出来上がった「部分の総和」より大きい「全体」』の事だと学びました。

 みなさん、どうですか理解出来ましたか?

 「何のことだがさっぱりだ」、と思う人が多いのではないでしょうか?

 「部分」とは「部分の総和」とは「全体」とは?

 では、それらを説明していきます。
 

 

 まず、簡単に理解できる具体例として、「三角形」があります。

 

 

 ちょっと試しに、ノートか何かを用意して、バラバラに点を3つ打って下さい。

 

 

 次に、そのバラバラの点を頂点とする三角形を、「実際には線を描かずに」、思い描いて下さい。

 

 

 どうですか? できましたか?

 

 

 殆どの人はなんとなくイメージできたと思います。

 今やったのは、人間の脳は三角形の線分を描かかないでも、3つの頂点があれば三角形を認識できる、ということの簡単な実験です。

 

 

 次に、空のティッシュボックスを用意して下さい。

 

 

 べつに、中身を捨てなくて構いませんよ(笑)?

 

 

 そのティッシュボックをよく観察してください。

 

 

 ティッシュボックは面長の立方体です。

 

 そして、立法体は6つの面から成り立っています。

 

 ここで質問です。

 

 

 その6つの面を部品として、何かを作る時それは必ず立方体になりますか?

 

 

 皆さんお分かりだと思いますがここでははっきり明確に述べます。

 答えはNOです。

 

 

 6つの面を部品としても、作り方しだいで様々な物が出来上がります。

 つまり、ティッシュボックスは単なる「面が6つあるモノ」ではないのです。

 また、単純に「6つの面」で何かをつくろうとした場合、一番簡単なのは面を全部重ね合わせることです。
 
 しかし、その厚紙は先程述べた「6つの面の総和」でしかありません。
 
 そこには「総和より大きい全体」が存在しません。
 それは、「単なる1つの面と比べて少しだけ厚い面」です。
 
 1つ1つの面をパーツ(部分)として考えて、複数のパーツ(部分)から成るティッシュボックスは、単なるパーツ(部分)が合わさったもの(部分の総和)ではないのということです。 
 

 

 そこには、単なる「6つの面」には無かった「立方体という性質」が生まれています。

 この「立方体の性質」こそがゲシュタルト(部分の総和より大きい全体)なのです。


 ゲシュタルトについての説明は以上で終わりです。
 ここまでの説明を理解できれば、ゲシュタルトについて理解していると言えるのではないでしょうか。

 しかし、以下は脳にとってのゲシュタルトの説明になりますので、疲れたり、これ以上難しい話はたくさんだという人には以上の理解でも十分です。

 お疲れ様でした。










 では、もっと深く掘り下げてみましょう。
 
 まず内省してみ下さい、あなたの脳はティッシュボックスをどの様に認識していますか。
 あるいは、何故はあなたの脳はそれをティッシュボックスだと認識しているのですか。

 まずは観察からです。
 
 貴方の目の前のティッシュボックスは、本当に6つの面だけで成り立っていますか?

 

 さらによく観察して下さい。

 

 

 そこには、ティッシュボックスの内部の空間はありませんか?

 

 

 しかし、よく考えてみてください。
 本当に、その空間は実在しているのでしょうか。

 

 それの空間は、決して見えないですし、触れもしません、味もないですし、匂いも嗅げない上に、空間に音があるわけでもありません。

 

 しかし、その存在は認識できますし、ティッシュボックスを構成する重要なモノの一つです。
 

 

 ならば、その空間はあるのです。

 

 何故なら、その空間が無ければティッシュボックスはただの厚紙にしかならないからです。

 

 

 では、この観点を、さらに深めてみましょう。

 空間はティッシュボックスの内部だけに存在しているのでしょうか?

 

 

 そうです、ティッシュボックスの外部にも空間は存在しているのです。

 つまり、ティッシュボックスは6つの面と内と外に存在する空間から、その存在が構成されているのです。

 しかし、実際はティッシュボックスを作るときに必要なのは、6つの面だけです。

 なぜなら、ティッシュボックスを作る人は「内と外の空間」まで用意する必要がないからです。

 なぜでしょうか?

 その理由は、ティッシュボックスの「内と外の空間」は「6つの面」の相対的な位置関係により自動的に決定するからです。

 その相対的な位置関係とは物質的なものではありません。

 正に表現すれば、「6つの面」のが存在している限り自動的に定義される情報なのです。

 その情報は、物質的な情報ではありません。
 しかし、物理空間には存在してます。
 その事をここでは便宜的に、「ティッシュボックスという存在」は論理構造に関する情報を持つ、と表現します。

 これを、ティッシュボックスは『6つの面(物質)とそれについての情報(論理構造)から成り立ち、立方体として表象(人間の認識のなかで表現される)ゲシュタルト(部分の総和より大きい全体)を持つ』と表現しましょう。

 ここまで、ついて来られた方は、今脳内に「ゲシュタルトという言葉」についてのゲシュタルトが構築さているはずです。

 次に、本当に人間がゲシュタルトを用いて現実を認識していることが体験できる実験を行います。

 では、試しにティッシュボックスを解体してみましょう。
 最近のティッシュボックスは楽に捨てられるように作られていて、簡単に潰せます。
 もう、潰しましたか。
 では、あなたはそれをどの様に認識していますか?
 
 内省しつつ、実際の世界をよーく認識してください。

 では、今度は潰れたティッシュボックスをはさみでバラバラにしてみましょう。

 バラバラに出来たら、また内省と認識している世界の観察です。
 
 それは、あなたにとってどのようなものですか?

 ちょっとしばらく、バラバラになったパーツで遊んでみて下さい。

 なめたり、曲げたり、匂いを嗅いだり、何をしてもかまいませんです。

 しらばらくして遊び終わったら、バラバラにしたパーツを全部一箇所に集めてください。

 そして、それら全てのパーツを用い、なんでもかまいせんですので、何か物を作ってみて下さい。

 小さなお子様をお持ちでいらっしゃる方なら、一緒に工作をして見るのも楽しいですので、試しに一緒に遊んでみてあげて下さい。

 では、出来上がったモノをよく観察して下さい。

 そして最後に、出来上がったものに名前を付けてあげてください。

 名前を付けられましたか?

 では、最後の解説に入ります。

 かしこいあなたは、もうお気づきだと思いますが、説明させて下さい。

 あなたが今やった行為は、ティッシュボックスというゲシュタルトを壊す行為です。

 ちゃんと名前を付けてあげたとしたら、あなたはもうすでに新たに付けた名前でそれを認識していることでしょう。

 そして、人間の脳はこのように現実世界を認識していると考えられます。

 ちなみに、この記事をよんで試しにティッシュボックスをバラバラにしてみたけれど、面倒くさくてゴミ箱に捨てたという方もいらっしゃると思います。

 そのような方の場合はティッシュボックスをバラバラにした瞬間に、それを「ゴミ」と認識してしまったのです。

 もし、自然と、「試しにバラバラにして見たけど何もかわってないじゃん、あ~くそ。めんどくさい。捨てよっ」、などといった思考があったとしたら、かなりのめっけものです。

 なぜなら、そのような言葉が心の底からでた瞬間、「ティッシュボックス」というゲシュタルトが崩壊して、一瞬の内に目の前のそれが「ゴミ」に変わったコトを実感できたからです。


 どうですか? 「ゲシュタルト」という言葉を実感出来たのではないでしょうか?

 終わりに。

 上記のゲシュタルトの体感実験方法は今回の記事の為に即席で作ったオリジナルの方法です。
 即席で考えた事を無責任に記事にする事は出来ないと思い、実際に自分で試てみたら 、私はティッシュボックスを「ゴミ」として認識してしまいました(笑)。
 自分で考えた実験方法なのに、ティッシュボックスをハサミでバラバラにした瞬間に「こんなのゴミじゃん!」とっ思いっきり叫んでしまい、思わず爆笑してしまいました(爆笑)。

 最後の文章は笑いながら書いてますが、いわゆる「認知科学の解説本」や「苫米地英人氏やNLPの本」を読んで、理解できたと「思って」いる方には、特に実際に試してみる事をお薦めします。

 現在まで認知科学を独学で学び続けて来ましたが、今回のこの記事を書くにあたって、また新たな発見があったことを嬉しく思います。


 それでは、さようなら。

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 今回の記事は以上です。

 

外国語を学ぶ、その最初の一歩

 皆さんこんばんわ、連続投稿になりますがdokubo_toshoです。

 現在、私は英語を習得するために、目下トレーニング中です。

 おや、と思いませんでしたか?

 『英語を「習得」するために、目下「トレーニング」中です。』

 この文章に違和感を覚えた方は、その違和感を大切にしてください。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 目的:この記事は外国語を学ぶ方々のために書きました。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 では、詳しく説明していきます。

 まずは、結論から述べます。

 語学は「学ぶ」ものではなく「修得」するものです。
 そのために必要な物は「勉強する」事ではなく「トレーニング」です。

 では、早速解説を始めます。

 まずはお伺いします。

 読者の方々は「学ぶ」という言葉を訳す時、「study」を使うのではないでしょうか?

 しかし、studyという言葉は英語では「研究」に近い意味合いをもっています。

 もしかして、あなたは英語を学ぶという言葉を使う時、机にかじりついて単語帳と文法書を読みながらノートにガリガリとペンを走らせるイメージを思い浮かべていませんか?。

 それはむしろ、「英語という言葉を研究する学者」のようなイメージなのでは無いでしょうか?

 では、今から大事な事を述べますので、しっかりと読んで下さい。

 ズバリ、『外国語は「研究しようとする」とますます分からなくなる』のです。

 英語を研究して文法と単語や熟語を覚えても、それは「習得」ではありません。

 英語を文法や単語や熟語にバラバラに分解して理解しても、あなたの脳内には英語の言語空間が内包し表象するゲシュタルトが構成され得ません。

 (ゲシュタルトは詳しく説明しません。 ゲシュタルトについては別の記事で述べます)。

 ここでの「習得」とは「learnig」のことです。


 ゲームに例えると、某FF5の青魔法使いが分かり易いのではないでしょうか。
 敵キャラの攻撃を何度か受けている内に、いつのまにか敵のスキルを「ラーニング」した。 
 その青魔法使いは、ゲームの中ではちょっと使い勝手が悪いかもしれません。
 レベルが上がっても自力で魔法を覚えず、新しい魔法を覚えるには何度も敵の攻撃を受けなくてはいけません。
 しかも、攻撃を受けたら必ずラーニングできる理由でもなく、強い魔法を覚えるには強い敵からの攻撃を受けなくてはいけないのです。

 話は少し変わりますが、私が小学生の当時は、そんな青魔法使いを使うのが面倒臭くて自分のパーティーキャラには違うジョブをつけていました。

 しかし、一つ上の兄がもっぱら青魔法使いを好み、ゴブリンから強力な魔法をラーニングして敵をバシバシ倒していくのを見て、私は羨ましく思っていました。

 いかがですか?
 少々わかりにくい表現かもしれないですが、これ比喩を想像してなんとなくだけどイメージできたのではないでしょうか。

 実は人間の脳は、実の所この青魔法使いに近いのです。

 つまり、「研究」などしなくても「習得(ラーニング)」が可能という事です。

 そして、外国語の「習得」に必要なのは「勉強」ではなく「トレーニング」なのです。


 では皆さん、楽しんで「トレーニング」して、好きな外国語を「習得」しましょう!

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抽象的思考とはなんぞや

 こんばんわ、dokubo_toshoです。

 今回は抽象的思考に関しての記事です。

 早速ですが、抽象的思考の意味がわかりますか?
 もし、あなが今英語の「abstract」という形容詞を思うかべたなら、まず最初にその認識を捨てて下さい。

 では、説明していきます。

 抽象的という言葉の意味を知るには、まず具体的という言葉の意味について知る必要があります。

 それでは、苫米地英人氏の著書でよく見られる説明から入りましょう。

 「犬」という言葉は「ブルドッグ」という言葉より抽象的です。
 「田中さんが飼っているポンチという名前のブルドッグのオス」という言葉は「ブルドッグのオス」という言葉より具体的です。
 人はブルドッグを指さして、「あれは犬だ!」と認識する事はできますが。
 犬という言葉を読んで「ああ、これはブルドッグのことだな!」と認識することはまずありません。
 さらに、田中さんが飼っているポンチという名前のブルドッグのオスを指さして「ブルドッグのオスか、いい趣味しているな」と思考する事はできても、ブルドッグのオスという言葉を読んで「こいつは田中さんの飼っているポンチの事を言っているな」と認識することはまずありません。

 数学で使われる集合論で説明すると、犬という集合の中にブルドッグという集合が含まれているが、ブルドッグという集合だけでは犬という集合を記述出来ない。(専門的に学んだわけではないので、詳しい人にとっては大変違和感を覚える表現かもしれません)。

 今の説明で分からなかった読者の為に、集合という用語を簡単に説明します。

 集合とは簡単にいうと「一つ纏りの集まり」のことです。
 「犬の集合」には犬と定義できるもの全てがもれなく含まれています。
 「ブルドッグの集合」にはブルドッグと定義できるものが全てもれなく含まれています。

 しかし、ここまで読み進めた読者の方々には、疑問が湧いた方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 そうです、集合論って結局数学の話でしょ? 脳と何か関係あるの? という疑問です。

 では、人間の脳の中では抽象的な思考はどの様に行われているのでしょうか?

 詳しい説明は次の記事で書いていきたいと思います。

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脳と認識

 こんばんわ、dokubo_toshoです。

 今回は脳と認識についての記事です。

 単刀直入に、述べます。

 実は、脳は現実をちゃんと認識していないのです。
 まずは、それを実感として知るに手っ取り早い方法がありますので、さっそく試してみましょう。

 ではまず、眼を閉じてください。
 つぎに、眼を閉じたまま出来る限り詳細に周りの風景をまぶたの向こう側を見ようとして下さい。
 できましたか?
 殆どの人はぼやっとしたものがなんとなく見えたとおもいます。
 それが、今まで脳が認識していた世界です。
 では、もう一度閉じてください。 
 今度は、目をつむったまま出来る限り周りの風景を思い出して下さい。
 最後に、目を開けて、実際に周りの風景を観察してみてください。

 おそらく、かなりの違いがあったのでは無いでしょうか?

 最後の現象は、脳の中にある過去の記憶を使って周りの風景を認識している所為です。

 この通り、実は脳は曖昧な認識をしていて、それを補うために過去の記憶を利用しているのです。

 ですが、実はこの認識の曖昧さが人間の高度な知的活動を支える抽象的思考を可能にしているのです。

 では、抽象的思考とはなにか。

 それは次の機会に。

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はじめまして!

 はじめまして!
 dokubo_toshoと申します。

 私は、東京の専門学校に通う学生です。

 このブログは私が認知科学とNLPを独学で勉強して、考えたことや発見した事をベースに 作られています。
 知識の土台になっているモノは、主に苫米地英人氏の著書と市販のNLPについて書かれた本、気功についての本等です。 
 また、大学で心理学を専攻して、現在は情報系の専門学校で学んでいます

 追記:
 社会人になりました。

 また、最近では哲学・スピリチュアル・願望実現など多岐に渡るようになりました。
 当ブログではスピリチュアル・願望実現の領域に関しては「妄想だ・詐欺だ」とは捉えず、もしそれが本当ならスピリチュアル・願望実現界隈で言われている仕組みは現実世界で物理的な形で実装されているはずだと考え、スピリチュアル・願望実現で言われている事を霊的で不可思議ななんでもありなこととして捉えず、実際に物理的な仕組みがある現象を科学するという姿勢で論じています。
 なので、スピリチュアル・願望実現界隈でよくある、神・愛・波動などの抽象的な表現はなるべくさけ、出来るだけ抽象度を下げて具体的に詳細に論じていきます。
 神の愛って言うけどそれって具体的に何のことと思っている人や。
 愛のエネルギーをって言うけど、何それ日本語で言ってくれという人や。
 既存のスピリチュアルな情報を、わけわからんって思っている人。
 そういった方に、なるべくスピリチュアルな表現使わずわかりやすく伝えていくことも目指しています。
 


 特に注意:記事の内容は基本的には科学的検証をしていないので、掲載内容の実践に関しては自己責任でお願いします。

・・補記・・

 

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精神医学はどう間違えてきた?発達障害・うつ病・統合失調症・躁うつ病。~ASD編~

 こんにちわ、冬生真礼です。 今回の記事は、前回の続き「精神医学はどう間違えてきた?発達障害・うつ病・統合失調症・躁うつ病。~ASD編~」です。 一般に、ASDは自閉症状つまり他者への無関心・非共感があります。 これは、「心の理論」として説明されASDの人が他者の気持ちがわからな...